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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
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八十五 蓋




 腕の中から伝さんが飛び立った。


「あ…」

 思考に没頭していたオレは、付き添いのお礼が咄嗟に出ず、飛んで行った方角に目を送るも、茂る枝葉に遮られて黒い鳥はもう見えなくなっていた。


「戻ったか」


 なぜなのかと考える間もなく声がかかる。

 振り向けば師匠が館の前で出迎えてくれていた。

 珍しい。思いがけないことで驚いたが、気合いを入れてから顔を弛めた。


「はい。ただいま戻りました」

「ああ…得るものはあったか」


 やっぱり"答え"を探させるためにオレを行かせたのかと、推測が正解に化ける感覚がした。


「はい。オレなりの(かい)を得ました」


「そうか、何よりだ。…聞こうか」


 向けられた眼には裏がない。そよ風のように伝わる心に曇りはない。だから…言える。


「その前に、師匠。あの夜、オレが死んだらどうしました?」


 それは、衣織の話を聞いて生まれた疑問である。


「…いきなり物騒な話だが、何故(なにゆえ)だ?」

「あのとき、多分、オレの近く、いつでも助けられる位置に配下の方が居たんじゃないかと思って。多分、ヤタさんのところのカラスか、陣さんのところの狼」


 オレが味方の気配に気づいたのは最後の最後。伝さんが飛び込んで来る少し前だが、きっともっと前、それこそ衣織を追って走り出したときには、心配症の師匠の命令で、オレを見守る目が用意されていたと考える方が自然だった。


 明るい月夜が真っ黒になるまで飛び交ったカラスの群を思い出す。

 あれだけ居て、頭数が足りないことはないだろう。


「…ああ」

 斯くして返った応えは是。


 予想していたから受け止められたが、相応の衝撃はあった。なんとか表に出さないように遣り過ごす。


「…オレは結果としては勝ちましたけど、何かの弾みで死んでもおかしくなかった。本当に危ない場面があったんです。なのに、助けはなかったのはなんでなのかって考えてました」


 未来が夢で見えるなんて荒唐無稽に思えるが、衣織から嘘は感じなかった。

 衣織は、あのままではオレは死んだのだと言う。それが本当なら、師匠はなぜ横槍を入れずに静観するのか。


 オレが勝つのを信じてた、なんていうおめでたいことはあり得ない。師匠はそんな油断をしない方だ。

 幾つか考えた中で、可能性が高い気がしたのが


「死んでも良かったんじゃないですか?」


 走る鼓動に逆らい、意識して静かに息をする。


 ややあって、師匠は「ああ」と言う。――肯定(・・)だ。

 背筋が震えた。


「その言い方には語弊があるが…」

「…なぜ」

「……お前を天狗にするために」


 逸らされない眼差しで、本気を悟る。

 頬が引きつらないように気をつけて、慎重に目を閉じ、開く。

 瞬きを経ても、師匠は変わらなかった。


「天狗に…なるため…」

――――そうか。


 心に落ちた自分の声は冷え冷えとして、案外動揺はなかった。

 何度も何度も、この答えを想像してきたからだろう。


 必要な返答はもらった。オレも腹を括らなくてはいけない。


「…天狗に成るのに、死ななきゃいけないとは初耳です」

「普通は必要ない。だが、お前が天狗に成れぬのは、お前の"気"が天狗の形に調わぬ所為。死に近付けば畢竟(ひっきょう)、気を弱め変転を促すこととなるだろう。無論、取り返しが付かぬことになる前に止める手筈ではあったが…死ぬと言っても過言では、ないな。…斯様な話を持ち出すとは、考えぬいた末か」


「…ええまぁ。色々と考えましたよ。今足が遅いので時間はありますし。…じゃあオレは、確実に天狗になるには、死なないといけないんですか?」


「…そうなら、どうする?」


「必要なら死にますよ」


 師匠は目を見開いて、オレは出来るだけ軽やかに笑った。


「やめましょう師匠。オレを怖がらせようとしても無駄ですよ。本当に殺すつもりなら、そんな迂遠なことしないでしょう?」


 笑うオレとは対照的に、師匠の顔は苦々しくなっていく。

「…軽々しく死ぬなどと言うな」

「別に軽く言ってはいませんよ。…本当に必要なら、です」

「三太朗」


 初めてだろうか。呼ばれる名前が咎める調子を含むのは。

 どくり、と大きく打つ鼓動を押さえた。


「今日、あの子に会ってきて、思ったんです。泣いたり落ち込んだりも全部、生きててこそだなって」

 思い出す。萎れて、生きる気力もなかった衣織。彼女なりに必死に生きてきて、疲れてしまった少女。


 彼女の姿は、残してきた家族に重なって辛かった。

 当主を亡くし、手勢を減らし、未熟な若い主を据えた家は、まだまだ無知なオレにだって苦難のときにあるのがわかる。


 今すぐ駆け出したい気持ちを、こっそりと、いつものように飲み下した。腹の中が焼け付くような気がした。


「死んでないからまた笑えるし、嬉しいって思える。立ち直れるって。それが生きてるってことなんだと思います」


 あんなに無気力だった衣織が忙しく笑ったり怒ったりし始めて、驚いたけど嬉しかった。


「オレが守ったのはこれなんだなって、実感して。…逆に、オレが負けたらあの子は今いなかったんだって」


 真っ直ぐ見れば、(つよ)い眼差しと絡み合う。

 同じところに立ち、背筋を伸ばした。かなり多目に背伸びをしてるのは自覚があったけど、それでも精一杯に胸を張る。


「オレが負けなかったから、あの子は今生きてる。守る者の勝敗には、守られる者の命もかかってるって、こういうことなんだって分かりました。戦うからには負けちゃいけない。オレ(守る者)には負けない力が要るんだ。負けちゃいけないときに負けないために、今死ぬのが必要なら――死にます」


 険しい目線が鋭さを帯びて、どくどくと鳴る胸を意識した。吐く息が熱い。吸う息が冷たい。


「――命は重いと、言ったはず」

「はい。けど、命を惜しんで大事な局面を逃したくありません。死ぬことと引き換えてでも守りたい。相手を殺すことになれば…奪う命は背負います」


 守ったものを見つめ直して築いた決意が伝われと願う。


「負けてはいけない戦いなら、敵の命を取ることになったとしても、オレは後悔、しません。相手と自分の命の両方を望めれば良いけど、それが出来ないんだったら…オレは、大事なものを守れたならそれでいい。相手を殺して生き残ったならその代わり、オレは、忘れない。オレのために奪った命を、忘れません」


 勝負は両天秤だ。

 こちらとあちらに乗ったもの、必ずどちらかを捨てなくてはならないなら、迷わず大切な方を取ろう。

 そのために何を選び、何を捨てたのか。自分の選択とその結果をけして忘れない。


「それが誠意で、オレなりの敬意です。例えオレが殺されるとしても「三太朗」


 師匠はやるせなく眉を曇らせる。


「…命を掛けるなど馬鹿馬鹿しい戦場(いくさば)は腐るほどある。それを避けて通れぬ場面など珍しくもない。そして、いくら奮闘しても、勝てるとは限らない。それが戦いだ。それでも、負けて良い戦いなどありはしない。武を以て対すれば、敗戦は己の死に容易く繋がる。この山も、山の外でも、腐るほど争いはある…その中で総てを、背に負うと言うのか」


「師匠…オレは、それでも…」


 オレの言うことは、優しい夢を打ち捨てたつもりになってもなお理想なのかも知れないが、決意を翻すつもりは毛頭ない。


 斬り殺した猿が脳裏に過った。悪いやつだったと決めつけるのは簡単で、だから殺しても良かったんだということにするのも簡単だ。


 でも、そんな単純な話だとは思えなかった。

 納得して、悩むことをやめるのは、奪った命を薄めて忘れてしまう入り口に思えた。


 忘れて、なかったことにして、日常に戻る。そんな自分は許せないのだ。誰でもない、オレ自身(・・・・)が、許せないのだ。


 口を引き結ぶ。

 きっと(まなじり)を決して、退かぬ構えで睨み上げた。

 驚いたように黒い目が見開かれる。


 どくどくどくと心の臓が拍を打つ。

 中心から熱を発して体に送る。

 強く保った意思が熱を持つ。


「オレは…っ」


 そのときにふと、(さざなみ)が途絶えた錯覚がした。師匠から静かに僅かに伝わってきていた感情の一切がなくなったのだ。

 親しみや温かみも共に消えてしまった気がして焦りがじわりと湧いてくる。


――――怒った…っ!?


 分からない。何も伝わっては来ない。

 ただ、たまにこうして感情の波が途絶えるとき、師匠が気を引き締めているのを知っている。


 一歩の距離が詰められて、思わず怯んだ。それでも意地で目を逸らさない。

 反抗的に見えるはず。それでもここで折れてはこの意思を信念とは言えない。だから退かない。


 師匠の両手が動いて、びくりと身を固くする――ふわりと軽く、両肩に重みが乗った。


「下らない戦いで死んでいくぐらいなら、負けても生き延びろ。どうしようもなくなる前に逃げろ。泥臭くとも構わん。恥を負うても良い。背負い込めば、重荷に潰れそうになるだろう。確実にだ。だが、今の決意を貫くつもりなら、何がなんでも生きる決意を持て。死なねば立ち直れることをお前は見てきたと言ったのではないのか。第一に、己の命を惜しめ」


 低く静かな声に揺らされた。心がぐらぐら揺れて、張った肩が落ちる。


 負けても生き延びるという考え方を排除していた自分に気がついた。


「無駄に、死ぬつもりなんか…!」

「無駄かどうかではない。死なぬ意思を持てと言っている」

「そんなのおかしいですっ。師匠はオレが死んでもかまわないんでしょう?」

「そんなことはない」

「だって、死んでも良かったってさっき!」

「三太朗」


 構わず続けようとしたはずなのに、声になる前に喉の奥で消えてしまった。


「済まない」


 ゆっくりと頭を上げる師匠はまた、真っ直ぐにオレを見る。

 さっきまでと同じ姿勢で見つめ合う。この数秒があった名残なんて…頭を下げられたオレの動揺ぐらいしかなかった。


「なに、を」


「不要に怖がらせた。本当に済まないと思っている。…解ってくれと言うのは勝手に過ぎるだろうが、お前がなりかけ(・・・・)だと判り、殺さずいられて心底から安堵した。死んでも良いなどと、欠片も思ってはいない」


 じゃあなぜ、と問いが震えた。

「なぜ、そんなにも生きろと言うあなたが、殺そうとしたんですか…!オレは、オレだって…」


「お前は知らぬだろうが…あの夜が最も変転に適した時期だった。お前はこのところ進んではきているが、変わるにはもう一歩足りなかった。ゆえに、機会があるならあわよくばと思ったのは事実だ。…だが、自分で手を下すことは、やはり出来なくてな」


 すまない、ともう一度落ちてきた謝罪には、迷いと後悔が乗っているのが分かってしまった。


 悔しい。憤ろしい。

 師匠がオレの死を意図していたなら、納得できる理由があるのだと思ったのに。

 天狗になるためだと言われて納得したのに。

 衣織に生きてと言った口で、自分の死を受容する矛盾も無理に飲み込んだのに。


 なのに、それは間違いだと言うのか。


「なんですかそれは!!オレだって、死にたくなんかないんですよ!!」


 覚えている限り始めて、師匠に真っ向から噛みついた。そうせずには居られない。


「ずっと守ってくれてたのに、殺してでも天狗にするって、それが師匠のやり方で、つまりオレが倣うべきものなんだと思ったから!他の何をおいても大事なものを取るのが正しくて、そういう風に、冷静に犠牲も払えるようにならなきゃいけないんだって思ったから!オレはっ…っ!!」


「そうか…そうだな。済まない」


 死を望まれたと思ったとき、冷たく突き放されたような気がしたのに。

 まさかそんなはずはないと思ったけれど、確かめて受け入れて、必要なら死のうと思ったのに。


「利のみを採るなら、それが正しいと思ったが、必ず"成る"と知っていても、できなかった。戦いになるならばあるいはと思ったことも事実だが…こうなるなら、初めからやめておくべきだった。…済まぬ。俺にとってはお前がその"大事なもの"だ」


――――師匠も、迷うんだな。


 師匠は迷わないと思い込んでいた。オレは迷うし揺れるというのに、師匠は大樹のように揺らがず立っているのだとばかり。


「死ぬなどと言うな」


 生きてることを望まれて、こんなに安心して、嬉しく思ってしまう。…師匠はずるい。


「っ!なんでちょっと嬉しそうなんですか!!」


「…死ぬと言い出したのが、俺の行いに惑った故だと知って嬉しくてな。お前は最前から正しい解を持っていたというのに、余計なことで惑わせてしまった。済まない」


「っ…!そんなの…っ!」

「しかし、隠した思惑にも気付かれるとは思わなかった…やはり、お前は聡いな。お前の賢さを見誤っていた俺の落ち度だ」

「…~っっ!オレは!怒ってるんですよ!!なのに、なんで!怒らせといてくれないんですか!!」


 もうやけくそで地団駄を踏んだ。八つ当たりだ?不敬だ?知らない。そんなのはもう知らない!


「あんなに!大事にしてくれてて!親しくなれたって思ってたのに!!死ねって思われてるなんて!不安だったのに!」

「…ああ」

「助けてくれなかったから師匠はオレのことどうでも良いんだなんて思って!でも駄々捏ねてるみたいで、そんなの、言いたくなかったのにっ」

「そうか」

「オレ、今日、あの子に生きてって、言ってきて…」

「ああ」


 くぅっと喉の奥が鳴るのを噛み殺して項垂れた。


「本当は、オレの方が…言って、欲しかった」


「……ああ」


 柔らかく髪を撫でられて、火照った頭に手がひんやりした。


「生きろ。三太朗。守り救おうとするなら尚更、生きて次を目指す者になれ」


「…はい」


 応える口に、ついに堪えきれずに笑みが乗った。

 最後の引っ掛かりが心から消えたのを感じた。


 気がかりだった衣織のことを確かめて。

 命との向き合い方を決めて。

 師匠もオレを想ってくれてた。

 向かう先も見定めた。


 憂いはない。


――――もう、思い残すことはない。


 そう思ったとき、何か、決定的なものが外れる音がした。


 ぴんと張った糸の最後の一本が切れたような、いや、崖にぶら下がって、落ちまいと片手でぶら下がっていたのに、とうとう指が外れたような――


 どんっ、と。

 拍が跳ね上がった。


「ぐ…ぅっ」


 どんっどんっどんっ!


 体の全てに響く。胸の内側で太鼓が鳴っているような、明らかに異常な拍動。


 膝が折れて、支えられながら座り込んだのも気付かず、必死に息を吸う。息が足りない。頭がくらくらする。


 しかしオレには分かった。

 これは、来るべくして来たものだ。


 体が燃えそうに熱い。


「ししょう…」


 目がさっと霞む。

 浮いた汗が、しゅうと啼いてすぐに渇く。


 額に触れている手がすっと冷たくなった。

 ほんの少しだけ、体の熱が弱まる。

 虫が鳴くような耳鳴りの向こうから、声が聞こえた。


「三太朗、生きろ」


 何か応える間もなく、ふわりと浮き上がり、すっと暗くなり、体の感覚が途絶えた。






 かくりと力が抜けた小さな体が、熱に揺らめいて見える。高遠は険しい顔で末の弟子を抱き上げて走った。


「くっ…これほどか…!」


 触れているのにも耐え難いほどの熱さ。尋常ではない熱。

 揺らめき上るのは、常の天狗は持たざるもの――火の気。


 "()"を巡らせ体を強化してなお苦痛を感じるほどのそれを無視し、抱え直すと片腕を放して宙を撫でた。


 途端、用意しておいた術式が起動する。青白く輝きながら術陣が舞い、速やかに少年の内に消えた。


 天狗への変化に合わせ、別のものへ成ろうとするのは、予測出来たことであった。

 いや、天狗への変化よりも、十中八九はこうなるだろうと思っていたのだ。


 三太朗が"残り火(バケモノ)"の血を引く限り。


 残り火は火性。火は天の属性。

 天の"()"を注ぎ続ければ、火気も増すのは分かっていた。

 ただ、天狗に成るのに必要な風の霊もまた天属であるから、分かっていても避けては通れなかった。


 血の中の定めをねじ曲げ、火気を風気に転じ、天狗にせねばならないというのが如何に難しいかを知っていたから、抜かりなく準備はしてきた。


「「お師匠!!」」


 双子の弟子たちが血相を変えて屋根を飛び越えてきた。


「うっ…三太朗!」

「やっぱり残り火が!!」


 高遠は並走する二羽に渋面だけを返し、この場の意見が一致していることを示す。

 忙しく片手を動かし、駆けながらもう幾つかの術を追加する。


「火鎮めの術も焼け石に水だ。外周の陣は任せたぞ!俺は…」

「ししょーー!!!」


 斜め前方に、最後の弟子がずざあ、と滑り込む。

 構わず横をすり抜ければ、大きな歩幅で追いすがってきた。


「三太朗が!!まさか、ししょー…!!こいつをどうするつもりなんだよ!!」

「よせよ次朗!」

「お前も分かってるだろ!」

「けど…!」

「みんな同じ気持ちなんだから甘えんな!!」

「…っ!ぅ…」


 目的の場所に至り、一同は立ち止まる。


 そこは裏手の納屋だ。…と、三太朗は思っている場所である。

 実態は、幾多の術式を重ね掛け、内から外への干渉を出来なくした、異なる世界とでも言うべき空間だ。

 危険な術式の実験や、捕らえた敵を放り込んでおく場所として機能している。白鳴山ではこれを"牢"と呼んでいる。


 高遠が到着すると同時に風景が揺らいだ。

 周囲の空間が水に波紋が拡がるように揺れ、隠されていたものが浮かび上がる。


 地は火鎮めの紋様が何重にも取り囲み、壁にはこれでもかと刻まれた封印術。

 墨の黒々とした記号が壁を埋めつくし、薄白く光る様は異様で物々しい。


 これは備えだ。もしも(・・・)三太朗が火の魔物と化したとき、外に炎が漏れ出ぬようにしたもの。


 残り火と戦った天狗は残念ながら見つからなかったが、出来る限りの伝手を使って情報をかき集め、残り火が起こした破壊の爪痕を調べ、その力を割り出し、充分と思えるよりも更に念入りに施した。

 これほどやっても過剰とは思えない。


 何者であろうと、断末魔(・・・)は苛烈なものなのだ。


 高遠はぐっと歯を噛み締める。

 つい先ほどのやり取りが脳裏を過った。


 悩もうとも焦ろうとも、道はひとつしかない。残り火と化したとき、いや、天狗へ至れぬと断じたときに、この子どもを殺すのは高遠の役目だった。――例え、三太朗に言った言葉が本心だろうとも。


 ばさりと重い羽音を立て、三眼の大烏が屋根に降り立つ。


「場は万端整っておる。急げ!」


 高遠は牢の入口に立ち、長身の弟子に懐から蛇を放り渡した。


「次朗は太刀(タチ)と共に結界の強化だ。頼むぞ」

「ししょー…っ!」


 思わず手を伸ばしていた。

 精一杯腕を張らなくては届かなくなった頭を、昔散々やってやったように乱暴に掻き回す。


「そんな顔をするな。お前は"兄"だろう?…戻ってくると、信じてやれ」


 数十年前を思い出させるくしゃくしゃの顔が、ぎゅっと引き締まって大きく頷いた。


「…わかった。師匠、外は任せてくれよ!だから…頼むぜ!」


――――あんなに小さかったというのに、今はもうこんなにも大きい。


 感慨に浸る時がないのが惜しい。


 一度頷いて、高遠は四角く開けた闇の口へ飛び込んだ。


――――時が経つのは早いものだ。泣いてばかりの幼子が頼もしく思える日が来ようとは、まさか思わなかった。


 脈打つ拍に合わせてびくりびくりと震える体を、円を成す術式の中央へ横たえる。


――――お前もいつか、そう思わせてくれ。


 小さな体が、ついに真紅の炎を上げた。











()よ』


 オレは、夜空の中を飛んでいた。

 そこはまさしく、空の()であった。


 黒を背景に光の粒が無数に散って、広大無辺の虚空に明るく美しい絵を描いていた。

 上どころか十六方位全てと下を見渡しても、余すことなく星空が広がっている。


 いいや、上だの下だのという区分も意味はない。

 今ここでは、オレが上だと思う方が上であり、その反対が下である。

 くるりと回れば上下も左右も入れ替わるのだ。

 ただ、行く方向だけは変わらない。


()よ』


 ()がきこえる。


 今ここにオレの耳はなかった。耳ではなく、オレという存在自体できいた。

 耳だけじゃなく、手も足も、頭も…体の全てを今ここでは持たなかったが、何も不思議に思わなかった。

 ここ(・・)はそういうところだった。


 声を頼りに、彗星の如く尾を引いて飛ぶ。空は今や、頭上を覆った平たい屋根ではなかった。

 無限に無限を掛け合わせたほどの空間の重なりを、地から見上げて空と呼んでいたのだと、今は教えられずとも知っていた。


 ここには、真理があった。

 全ての答えはつまびらかになり、どんな秘密も例外なく開示される。


 うねり流れ、逆巻き高まり、世を(あまね)く覆い巡る力の流れ。


 流れに沿い、動いていく世の万物。

 水が風が、闇が光が、生まれ出で死に行く命が、太古の昔より動かないように思えた大地も、流れに乗って動いていく。

 過去と未来でさえも溶け合って、全ての時が現在と変わりなく知覚される。


 散りばめられた無数の命と魂を乗せて、世が低く鳴動していた。

 懐に抱いた無数の想いを飲み込んで、"世界"という仕組みが動き続けていた。


 多くの世界。無数の煌めき。

 三千世界が廻天する様を見た。


 上も下もなく広がる星空しか見えないにも関わらず、全てのことが手の上に乗せて眺めているように鮮明に理解できる。


 師匠の真意。

 世界の現状。

 オレが産まれた意味。


 今ここで、オレは全知であった。

 そうして、飛ぶ以外のことの全てが必要ないがゆえに、知識の全てに意味はなかった。


()よ』


 すうっと前方が赤く染まっていく。

 主観ではそう形容するが実は違う。オレが赤の空間へと飛び進んでいるのだ。


 赤は強くなっていく。


 (あか)(あか)(あか)(あか)(あか)(あか)くあかく…。


 その先、ずっとずっと先、鮮やかな赤の真ん中に、赤を放つあか(・・)が居るのを知っている。


 この先に進めば、呑み込まれるだろう。

 呑み込まれ、灼き尽くされ、オレはあの一部になる。


『死ぬな』


 とくり、とオレの真ん中で、ひとつの言葉が脈を打った。


 僅かに、何かがおかしい気がした。


()よ』


 ぼわり、とオレの中で(ほのお)が揺らめく。


 オレは今飛んでいるのはなぜなのかを知っている。

 あか(・・)()んでいるからだ。


 後ろには、オレが通った跡が輝いていた。

 長く永く、途方もない遠くへと、段々に弱まりながらも確実に、元いた場所を指し示して光の糸が細く長く続いていた。


 あか(・・)は、オレを引き寄せ、呑み込み、オレを通してこれを辿ろうとしている。

 オレが居たあの場所へ、行こうとしていた。


――――あれが着いたら…。


 背筋がぞく、と震えた…気分になった。


 かけるものなら冷や汗をかいていただろう。じわじわとにじみ出る焦燥を抱えて停止する。

 

 今まで無感動に眺めていただけだったのが、主観が戻る。自我を取り戻す。


 全知であるがゆえに、あか(・・)が辿り着いた結果としてもたらされる全ての可能性を知っていた。


 その全てが、受け容れ難い惨劇だった。


――――ダメ、だ。


 赤い空の中で、たくさんの光の糸が、行く手へと延びているのが視えた。


 今にも消えそうな弱々しい光を放ち、幾多の途切れ途切れの光。その中を、ひと際明るくオレの線が一条走っている。


 消えそうなのは古い線。

 それを引いた者は…。


――――皆、呑まれたんだ。ああ、でも…。


 ゆらりと焔が揺れる。

 身の裡にある火は行きたがっていた。

 呼び声のまま、あの鮮やかな…美しい赤へ。


()()よ』


『また、来てくれる?』


 ふらふらと漂い行きかけ、踏み留まった。

 少し不安そうにこちらを見た少女の面影が過り、あか(・・)と重なり、紅蓮の炎に包まれた。


――――あそこへ、行ってはいけない。あか(・・)を導いてはいけない。


 破滅を、絶望を、指し招くような真似はしてはならない。


 けれど、今行かずにいたとして、どこへ行こうと、何をしていようと、いつか結局あいつはやってくる。


 オレを目印にして。

 オレがオレである限り(・・・・・・・)


 どうするべきかは、知っている。


――――オレが……オレでなくなれば(・・・・・・・・)、あいつは見失う。


()よ』


 恐怖はある。

 けど、もう、決めた。


『生きろ』


――――生きてさえ、いれば。


『澄んだ心で、成すべきことに向かえるよう』


 これはきっとただの時間稼ぎだ。


 けれどその僅かな時は、この絶望的な道の先にも希望をもたらすことができると信じた。




















 何かを感じた瞬間、そこに在った。


 ゆるり、と、喪失から存在を取り戻す。


 また、何かを感じた。


 触れていた何かが離れていった。


 伝わってきたのが振動というもので、体があるということを思い出した。


 ぺり、と、張り付いたものが剥がれた音を聞いて、音と、音を聞くことを思い出した。


 ひやり、と、離れていったところが冷えて、体の感覚が次々に思い出されていった。


 体がある、ということを思い出した。


 横たわっているのは剥き出しの土の上。

 土は温かく、黒い。


 一瞬の闇――瞬き。


 土の黒に、黒いものが音を立てて落ちた。

 大きな呼吸が絶えず聞こえている。


 土に突いた黒衣の膝を視界に映していると、先ほど頭を押さえつけていた手がまた降りてきて、肩を掴んで引き上げた。


 僅かに走ったものが痛みだと知る前に、背に硬いものが触れた。


「スマナイ」


 音が聞こえた。


「ダガ、コレガサイゼンダロウ…」


 目の前の存在からしている音は、声というものだと思い出した。


 そのとき、ふたつの黒が視界に映り込んだ。


「"()が名を明かせ"」


 力ある声が注ぎ込まれ、内側で意味を結ぶ。

 曖昧な意識を揺り起こし、命ずる。

 それは中心へと容赦なく響き渡った。


「あ…ぁ……ナ…?」


 言わなければならない。


 何者で、如何なる存在であるのかを、明かさねばならない。

 明かし、差し出し、譲り渡さねばならない。


 "名"を、存在の本質を。


「あ゛あ、あ゛ぁあ…」


 命じられた意識は動き出す。静寂が満ちた内側へ無理にもねじ入り、混沌を巻き上げ、濁らせ、苦痛と混乱と驚愕と恐怖を撒き散らしながら、さらなる奥底へと手を伸ばした。


「"あかせ"」


 ()かせ(あか)()かせ()かせあかせ――あ か(・ ・)


 底をまさぐる手が底を薙いだ。


「な…名、は、ぁ…」


 混濁した中に舞い上がるそれ(・・)をついに掴み取った。






「さん、たろう」






 ごとり。


 彼の奥底で、重い重い音を立てて蓋が落ちた。

 指し招かれる絶望も、彼自身ごと全て押し込めて、固く、かたく。


 彼自身さえも気付かなかったが、決定的な運命の転換が訪れた。




 呪縛が解け、かくりと子どもは項垂れた。

 手を放せば、壁にもたれ掛からせた姿勢が少しずつ傾く。


 背に壁へ押し付けられ、体がずり落ちるに合わせて、背の黒いものが開かれていく。

 子どもの背には――黒く艶やかな翼が一対畳まれていた。


 但し、その身は変じる前よりも明らかに小さい。

 十を数えた少年相応だったことを思えばひと回り、ふた回りではきかないほど小さく、顔つきも幼くなっていた。


 人で言えば精々六か七。

 ただ、その(いとけな)く弱々しい様を捉えた目は、鋭く厳しいものだった。


「…真名(まな)を取りそこねた…?」


 見つめる師の目は、隠しきれない驚愕を映して、幼くなった弟子へと向けられ続ける。


「う…」


 "三太朗"が小さく呻いて身動ぎした。

 僅かな間を置き、目が瞬く。


 芒洋と定まらない視線が、師の煤けた顔の上をさ迷った。


「あ…あ…?」


 頼りない様子の弟子を、高遠はただ見つめる。


 それが温かな慈しみを排除した、冷徹な観察者の眼差しであったことは、仕方がないことだ。


 火を抑え込み、天狗へと成すことはできたものの、名を明かさせる"名取り"の術をしくじらせたのだ。

 何の力での所業かは高遠を以てしても判らない。

 判らないからこそ、警戒するのは必須であった。


 例えそれが愛弟子の形をしたモノであっても。


「う…」


 子どもは、呻いて目線を天井へ逃した。

 何もかも透かすような、透明な眼線に、高遠は違和感を覚える。

 その目は高遠の弟子らしくないものだった。

 この子どもは、いつも不器用なほどに真っ直ぐ現実を見つめていたはずだ。


 高遠は、名取りの術の手応えを注意深く思い返す。

 それは術が失敗したときの、空を切るようなものとは別の、掴んだ(・・・)ように確かなものだった。


 術が掛かると、強い意思で抗うことは出来るが、偽りを告げることはできない。

 残り火が規格外の化け物であることに目隠しされて、未知の技を使われたのかと先に思ってしまったが、別の可能性がある。


――――まさか。


「…"三太朗"、お前、自分が何者なのか覚えているか(・・・・・・)


 子どもは目を師の目に止めた。

 呆けたようなものから表情は変わらない。

 ただ、その頬に涙がひと筋伝って落ちた。

 何も言わないのが答えだった。


 高遠の弟子、三太朗は…真名をなくした(・・・・・・・)のだ。


 推測が真実になった予感に、高遠は詰めていた息をため息に換えて吐き出し、未だ喪失に呆然としている弟子の頭に手を置く。


「大丈夫だ、三太朗」


 いつものようにそう言えば、一拍を置いてから幼い顔がくしゃりと歪んだ。


 何故こうなったのか確かなことは解らなかったが、高遠のやることは、昨日までとそう変わらないだろう。

 その事実が、やっと黒衣の天狗の頬を弛めた。




 斯くして、焼け焦げた土の上、薄暗い煤けた牢の中で、小さな天狗は生まれ出でた。

 そしてこの日、このときから少年は真の意味で"三太朗"になったのである。




長くなってしまいましたがこれにて二章は終了です!

やっと少年は天狗になりました。


これから一話別のお話を挟み、三章 身 へと続きます。

宜しければ三章からもお付き合いくださいませm(_ _)m

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