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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
98/131

八十四 手当て




 いつもは小走りに行く小道を、今日はゆっくりと歩く。

 ぎしり、と体が軋んで鈍痛がするが、あの夜の明くる日は布団から起きられなかったことを思えば、これでもましになったのだ。


 さやさやと風が枝葉をゆらし、きらきらと陽光が粒になって踊る。

 力強い日射しは重なる枝葉が優しく受け止めて、オレに届くのは柔らかな木漏れ日だ。


 あの夜から、二つの夜を越えていた。



『なりかけだ』


 あの日、体の痛みに参って起きられず、床についたまま仰いだ師匠は嬉しそうにそう言った。

 人の身のまま、翼が出る前に内側が変わりかけて、天狗の力の片鱗が覗いたからだと聞かされた。


『珍しいが、前例はある』


 人には出来ない動きを、天狗になりかけの部分が可能にした。

 けれどやはり体には無理がかかって、こうして痛むのだとそう言われた。


『よく休め。何も憂うことはない』



 ちらちらと舞う光に目を細めて、散歩の速度で道を辿る。


 山歩きに息が切れなくなったのはいつだったろうか。

 今はじれったく思えるこの早さが、人の通常だ。オレはいつから、人の範疇を越えたのか。



『おめぇ、あんな勢いで走る人がいるもんかよ』


 次朗さんが笑うのを、オレは呆然と見返した。

 オレがなりかけだと聞いて、館の全員が驚かずに受け入れていた。


 いつから気付いていたのか尋ねれば、ひと月半は前だという。


『俺らはふた月は前さ!』

『ま、そんなことはどーでもいいじゃん?』


 双子天狗はきらきらした笑顔で、ちょっと悔しそうな次朗さんを押し退けてオレを挟んで寝転がった。


『『いよいよだなー』』

 慈しむように微笑むのが擽ったかった。


 オレは随分前から、人外に踏み出していたらしい。

 大事なのはオレが自覚するしないに関係なく変化が進んでいたことと、それを周りが知っていたこと。

 それと、それと


『ほんとに、成る(・・)んだ…』


小さな声は、外界よりも寧ろ、オレの内側に大きく響いた。



「ふぅ…」

 それなりに重い息を吐き出した。

 天狗になれないんじゃないかという憂いはひとまず鳴りを潜め、代わりに人じゃなくなるということを目の前にして、新しい重みが心に乗っていた。


 それだけじゃなく、胸の底に燻る諸々は未だ割りきれてはいなくて、ときに悶々と悩む。


 守るには闘うことになる。命を狙ってくる敵と闘えば(あや)めることもある。では命を奪うことをどう受け止めれば良いのか。答えはまだまだ闇の中。


「…あ、忘れてたや」


 何の切欠もなくひとつ小さなことを思い出して、何も付けていない左の手首を見る。


 いつもならそこには数珠玉を通した腕輪があるんだけど、手首の痛みが強いときに気になったので外し、目につくように机の上に置いてそのまま付け忘れていた。


 まぁいいか、と足を止めずに軽く決定した。帰ったら付ければいい。なくした訳じゃないんだし。


 遅い歩みでも、歩けばやがてどこかには着く。

 登り続けた坂道は終わり、高台の草地の入り口に立った。

 広場を目で辿れば、断ち落とされたように草地は途切れ、垂直に落ちる断崖の向こうには連なる山々と濃い青空が輝く。

 歩調はそのまま、オレはさくりさくりと草を踏む。


 さっと日向の眩さに包まれて目を細めた。

 何も遮る物がない空の下、風が前髪を擽って吹き過ぎていく。

 木々の間の包まれるような静けさとは違い、ここには解放された明るさが満ちていた。


 立った崖際は、更に風が奔放に駈けて、空も鮮やかだ。

 何だか息が楽になったような気がした。


「あーー……綺麗だ」


 高い高い空を見上げて座り込み、ぼぅっと呟いた。


 空はオレの悩みなど知らぬ気に、広大な上天を覆っている。

 空に比べてオレは、あまりにも小さかった。


 きっとこの悩みも、望みも、空からすれば砂粒のように小さいことだろう。


 けれどオレの望みは、空に負けず眩い。そう張り合うように考えたとき、この望みと空は似ているような気がした。

 近く見えて、手を伸ばしても掴めない。けれど確かにそこにある。明るく、大きく、美しい。


 右手を真っ直ぐ、輝く空に差し上げた。

 オレの望みは、空を掴もうとするかのようなものだ。

 願わくば、掴んだそのときも、明るく美しいものであればいい。


「三太朗さぁん!」

(ツテ)さん?」


 翼を鳴らして近くに舞い降りたカラスが、とことこと歩み寄りながら嬉しそうに羽を震わせた。それを流れる動きで膝に乗せ、撫でる。

 うん。ふかふかだ。


「良かった、元気になったのね!体はもう大丈夫?」

「はい。お蔭さまで」


 首筋をかりかりやれば、うっとり目を細めながらふっかり膨らんでいく。

 足も畳んで座り込み、腹の羽毛が柔らかくて大変良い。


「あと、もう少しで変転出来るって、えー、良かったわねぇー」

「ええ、ほんとに」


 喉元をこりこり掻いてやれば、首が仰け反って声が間延びした。

 そのまま頬の辺りに指を動かせば、大きな嘴が開いてあくびがひとつ。ふたつ。みっつ。


「あーー、そこそこぉ…」

「ここ?」

「そうそうぅ」

「こっちは?」

「あ゛あ、ぁーー………ってちがぁあう!!」


 ばさぁっと翼が振り上げられ、いよいよ大胆に後ろ頭や背中をわしわししていた手が弾かれた。


「あーすみません、そこじゃなかったんですね」

「合ってたわ!恐ろしくど真ん中で合ってたわよ!!天才じゃないのってそうじゃない!!あたしこんなことしに来たんじゃぁなぁいのぉお!!」


 折角良い感じに乗せられたと思ったのに早くも我に返ったらしい伝さんは、膝から飛び降りて器用に翼で頭を抱え、今日はちゃんとしようと思ってたのにぃいとかなんとか苦悩している。


 もうちょっと撫でたかったけど今回はもう無理みたいだな。ちっ。


 かあああ!と懊悩を発散したらしい伝さんは、最後に深い溜め息をひとつして、どうやら気を取り直したらしい。


「…本題に行くわね…お屋形さまが、体の具合が良いようなら午後からちょっと行って欲しいところがあるって仰ってたわ。体はどう?」


「行く…?オレがですか?大丈夫ですけど…なぜ?」


 正直首を傾げざるを得ない。

 基本的に過保護な師匠が、まだ本調子じゃないオレに何か用事をさせようというのは珍しい。

 寧ろ少しでも痛む素振りをしようものなら外出も渋るのに、よっぽど大事なことなんだろうか。


 でも、そんなに大事なことなら兄弟子か配下の誰かに頼みそうなものである。

 益々分からない。


「なんでも、三太朗さんが連れて帰った巫女がずっと部屋から出てこないそうよ」


 オレは意外過ぎる理由に思わずきょとんとして、それから出来るだけ素早く立ち上がった。


「今直ぐ行きます!」











 ここにいると、夢幻に迷い込んだような気になる。


 薄く靄がかかった社は、黒い瓦に暗い色の柱、梁、白壁。

 軒下のそこここには赤い紐の飾りが静かに下がる。


 黒、白、赤。

 その色味は、祀る神と同じだ。神と(まみ)えた人たちが持ち帰り、造り上げたのか。

 それは、()の神のために整えられた神域の証のようだった。


 眺める風景は絵のようだ。風などない。背後に濃過ぎる霧を置き、霞みながらも白の中から掘り起こされたようにして在る(みや)は、時が動くのをやめてしまったように静かだ。


 ぼんやりと見つめていた目を伏せて、衣織はそろそろと、障子戸の細い隙間を閉ざした。


 体の奥底から湧いて口から抜けていった溜め息が、部屋の宙を揺らす。

 

 どうにも現実感が薄いままで重たい足を引き摺って、壁際で体を丸めた。

 この部屋の様子も、衣織が未だに夢をさ迷っている心地から抜けられない一因だろう。


 ひんやりした白壁。固そうな木材の柱は濃い色。少し色褪せた畳の六畳ひと間。

 部屋の隅にあるのは、丈夫そうな長持(ながもち)、漆塗りの燈台。

 …ひび割れた黄色い土壁や、すり減った板間や、ごわごわした藁布団に煤っぽい梁はどこにもない。ここにあるのは、村で衣織が持っていたものの十倍は立派だ。


「死んだと…思ってたのに……」


 品々を遠ざけて、衣織は花嫁衣装を掻き抱く。

 村で仕立てたままに優しく白いそれに、しわが寄るのにも構わずすがっていなくては、どうにかなってしまいそうだった。


 あのとき神に逢い、唐突に暗い淵へ落ちた意識

。あれが自分の終わりだと思っていた。

 なのに、衣織は目覚めてしまった。次の日を迎えてしまった。

 目覚めて呆然としていた衣織を待っていた、赤い袴に白い衣の女…巫女を思い出す。


 背丈は顔は、と思っても、記憶がぼんやりとしていて思い出せない。

 声は表情は。…やはりはっきりしない。

 けれども淡々とした口調と、真っ直ぐ見つめる黒い目は浮かび上がるように鮮明だった。あとは、その目からお山さまを思い出したことも。


「村に帰ることはできません」確かそう言ったと思う。

 帰ることなんか考えたこともなくて、帰りたいかどうかも分からなかった衣織は、ぼんやり首を傾げた。

 それを疑問と取ったのか、巫女は丁寧に説明をした。


 お山さまに差し上げた(にえ)が勝手に帰ったら、村人たちは、お礼をしそこなったと、神の怒りを恐れるだろう、と。


 次に周りの村を警戒する。あの村は贄を上げなかったらしい。そういう噂でも立てば、不信心を責められる。仲間から外される。

 品のやり取りも、嫁取りもできなくなる。困ったことがあっても助けて貰えない。そうなれば、最悪には村が滅ぶ。


 そう考えた村人たちは新しい贄を立てるだろうし、神への無礼を数で補おうとするかもしれない。

 もちろん帰って来た贄は、無事で済むはずがない。


 お山さまにお会いして下山を許されたのだと言っても、許された証もないのに聞く耳を持つはずはなく、何らかの証を持っていても、真偽を見分けられない彼らは信じない。


 村人のお山さまへの信仰は(あつ)く、大きな力への畏れもまた深い。

 例えお山さまがお怒りになることはなくとも、村人たちには分からない。

 万が一を想像し、思い描いた災禍に恐怖して、避けようと足掻くのだ。


 衣織はぼんやり頷いたと思う。


 大雨の日に衣織を外へ引き摺り出した村人たちを思い出して、彼らなら無理やり人柱をもう一度立てたり、柱を立てなかった村を仲間外れにしたとしても不思議じゃないと思った。

 そして、桜の部屋で見たお山さま。あの神は例え衣織が逃げ出したとしても怒るようなたちに思えなかった。


「お前にはふたつの道があります」


 目を合わせてきた巫女の声は、ここからはっきりと頭に残っている。


「この社で、神を祀り申し上げて暮らすか、遠くの町へ出るか」


 告げられた町の名前は、噂にも聞いたことのないもので、無闇に遠くなのだということばかり印象付けた。


「行くにしろ留まるにしろ、暮らしに困ることはないでしょう」


 どちらが良いかと問われて、ようやっと衣織は思い至る。


――――これ、先の話だ。


 明日か明後日か、一年後か十年後か、とにかく今日よりも、今よりも次の、先の話だ。


 未だ来ず、しかしいつか来る日の形を問われている。考えろと言われている。


 真っ直ぐな眼差しを見返して、恐々と、小さく口を開く。


「わ、分かりません…」


 先なんて考えたことがなかった。

 そもそも山が衣織の終わりのはずだったのだから、その先があるなんて聞いてない。

 衣織にはその問いは難し過ぎた。――この先を、どう生きたいかだなんて。


 そこから先は覚えていない。

 巫女が何かもっと言ってたような気がするし、何も言わずに出ていった気もする。

 衣織も何か言ったような気がするし、口を結んで俯いていたのかもしれなかった。


 どちらにせよ、今衣織は壁際に(うずくま)って小さくなっている。

 もしかしたら全部夢なのかもしれない、なんてことを考えながら。


 衣織は死んでいて、(うつつ)に引っ掛かった最後の欠片が夢を見ているのだ。

 あの巫女も、ときたま廊下を通る気配の主たちも、みんな実は死んでいるのに気がついてないのかも。


 この夢幻の宮で、神に仕える夢を見ている幽霊。

 その想像は、想像だと解っていながらも不思議と違和感がなかった。


 霧の晴れない宮の在り様と、神の傍近くまで上がった記憶が、あり得ないことはないのだ、と教えているからかもしれない。


 衣織はゆるく(かぶり)を振った。

 この訳が分からない現実を否定する、貧弱過ぎる抵抗。

 そうしてみたところで何も変わる訳がなく、もちろん夢から醒めることもない。


 静かなこの夢が耐え難くて、衣織は待つことにした。


 目を閉じ、体を丸めて。

 夢の終わりを、ただ待つことにしたのだ。






 待つのには慣れていた。

 何も思わないようにするのも、慣れていた。

 だから、何も苦しいことはなかった。


 ぼやりとほどけかけた意識が揺れる。


 ゆらり。



 そこは夜だった。

 目の前には、すっかり冷めたお膳があった。


 ぼんやりと、これを持って来た人がいたような気がした。

 何か声を掛けられた気もしたけれど、どうでも良かった。


  ゆらり。



 そこは昼だった。

 目の前には、ふたりの巫女が屈んでいた。


 何かを言っている。

 音に乗った意思は、衣織に届くことなく、意識の上を滑っていった。


   ゆらり。



 冷たく甘いものが口を通って喉に落ちるのを感じて、次の覚醒が訪れた。


 そこはまた夜。

 傍らに明かりが灯されて、濃い影が天井で踊っている。


 また何かが口に流れ込んで、勝手に喉が飲み込んだ。

 三口目で、甘いと思えたものが舌に馴染んで、ただの水だと分かった。


 起きていく意識が嫌で、顔を背けて目を閉じる。

 水が零れ、何かを言われたような気がしたけど、かまわなかった。


 いつのまにか誰もいなくて、やはり天井が見えたから、衣織は寝かされていた寝具から起き出して、最初の壁際に踞った。


    ゆらり。



 そこは早朝か夕闇か、闇でも光でもない、もしくは闇と光が入り交じっていた。


 少し間を空けた位置に、巫女がひとり座っている。


 顎を引いて、背筋を伸ばして、じっと衣織を見つめている。

 あまり覚えていないのに、最初に説明をしに来た人な気がした。


「――それが、お前の答えですか」


 そよ風のように静かな声だった。なのに耳の中で強い(こだま)を遺した。

 そこに込められた何かを受け取りたくなくて、意味を理解したくなくて、衣織は黙ってまた目を閉じた。


 少しして、微かな衣擦れが部屋を出ていった。


 ゆら、ゆら、ゆらり――




――さわさわ。


 気付くと微かなざわめきがあった。


 遠くで何人もの人が動く気配。歩き、喋り、何かをしている気配。


 やがてそれは少し鎮まって、しかしけして途切れないままこちらに近付いてくる。


 ちろちろと、障子に映る影と光が動いて近寄る人型を形作ったのに気付いたとき、目が開いていることを自覚した。


「こちらにございます」


「ありがとう。――お邪魔します」


 びくっと肩が震えた。体に力が入る。

 澄んだ声だった。少女に似て、違う。聞き覚えがある、ああ、この声は――


 静かに障子が動く。控え目な隙間から、深く礼をとった巫女が見える。

 その前を横切って、すっと、風も乱さないほど滑らかに、()が部屋に踏み込んだ。


「…やあ、三日ぶり?」


――――あぁ。


 あの夜は姿はよく見えなかったけれど、衣織を安心させようとする穏やかな気配と、凛と(とお)る声には覚えがある。


 間違いないと思った。ここに来たのは、()だ。


 月明かりの下では白く見えた髪は、昼に見るとなんだかくすんだ黄色っぽい灰色をしていて、夜闇に光って思えた目も、灰を溶かしたみたいで奇妙だ。奇妙なのに、なんだかあのときの人離れした雰囲気が薄れて、今の方が衣織に近いものな気がした。


 あの夜は輝くようだった彼は今はずいぶんくすんでいるのに、顔かたちは整っていて目を惹かれる。

 不思議な人だった。


「…どうして」

「ん?」


 何かを思う前に、自分の声じゃないみたいな枯れた声が出て口をつぐむ。がらがらの声が恥ずかしかった。


 彼の装いは変わっているけれど、大きさはぴったりで、傷んだ様子もほつれもない。使われた生地も綺麗で、染めに(むら)もない。

 立ち居振舞いにも、良いところの子なのだという感じがあって、自分との落差を思い知らされる。


 心が嫌な感じに波立って、唇を噛んで俯いた。

 もう放っておいて欲しかった。


――――どうして来たの。


「君が部屋から出てこないって聞いたから、様子見に来た」


 心を読んだような頃合いで応えがあって、思わず身を竦めて相手を見る。


 彼は後ろ手に障子を閉めて、一歩だけ中へ進むと、ゆっくりと腰を下ろした。


 衣織を怖がらせないように開いた距離。衣織を驚かせない動き方。

 彼はあの夜と同じ気遣いを今も示し続ける。

 それにまた、心がざわめく。勝手に蘇ったあの夜の記憶が音をたてて視界の裏を流れていく。


『お山さまの弟子だよ』

『父上に怒られちゃうから』


 きゅっと胸の奥が縮むような気がした。ざわめきが大きくなる。

 ごうごうと流れる血の音が、耳の底で鳴る。


「……なんで…」


 なんで衣織なんかを気にするのか。


「そりゃ、…ちゃんと助けられたと思ったのに元気ないって聞いたら気になるだろ。それに――」


 ざっと一気に血が沸いて、頭の芯が熱く焼ける。ごうごうと流れる音が耳を支配して。


「助けてなんて言ってない!」


 次に続く言葉を遮って、お腹の底から駆け上がった叫びを叩きつけた。


「あたし、あのままで良かったのにどうして助けたの!生きてても仕方ないのに!!誰もあたしが生きてることなんて望んじゃいないのよ!!」


 ぎょっと目を開いて、結んだ口が僅かに開く。その驚いた顔が小気味良い。


「誰も、なんて」

「誰もよ!!誰も彼も!!気持ち悪いあたしみたいなのを仲間だなんて誰も思わないのよ!!生きてても仕方ないの!!あのまま死んだ方がましだったの!!そしたら今ごろ最悪な気分でこうしてることなかったの!!!」


 叫ぶのは心地よかった。声高に(なじ)ると心が(たかぶ)るものだと知った。


「あんたにはわからないでしょうね!そんな上等な着物を着て大事にされて、あたしの、誰にも期待されない!解ってもらえない!親にも捨てられて味方もいなくて!いつも顔色伺って、気に障ることしないようにして生きてる気持ちなんて!!神さまの弟子になって、叱ってくれる親のいるあんたなんかに!なんにも価値がないあたしの気持ちなんてわからないわ!!」


 気圧されたように少年が目を伏せた様子さえも癪に触って、衣織は火を吹きそうな目で睨み付けた。

 何を言われたって迎え撃つ気で、来るなら来いと身構える。そのとき確かに衣織は無敵だった。

 だって彼は衣織より恵まれているんだから。それを傘に着て言い返すなら、それを突かれても仕方ないというものだ。


「――ちちうえ…しんだよ」


「…え?」


 彼ははっと我に返った様子で慌てて言葉の穂を継ぐ。


「あ、ええと…、君は気持ち悪くなんかないよ。大丈夫」

「っ…あなたは知らないからっ、そう言えるのよ…!あたしはっ」


 呟きはなかったことのように取り繕われて、思わず言い返してしまう。

 一度の空白を挟んで勢いは少し削げていて、それにまた苛立つ。苛立ちは躊躇いを消してしまった。


――――かまうもんですか。


 隠し通してきた秘密だってもう、どうでも良い。

 目の前の何も知らないで大丈夫だなんて言う無責任な存在に現実を叩きつけてやる。


「あたしはねえ、悪いことばっかり分かるのよ…先のことを夢に見るの。災いも人死にも流行り病も、兎に角悪いことばっかりよ!全部当たるの!気味が悪いでしょ!!」


 全部の苛立ちを込めて睨んでやる。

 けど彼の驚きは思ったより少なかった。

 何か考える素振りで首を傾げる。


「…悪いこと、先に分かるってこと?」

「そうよ!」

「それって、教えてあげたらみんな喜ぶんじゃない?」

「喜ぶ訳ないじゃない!!!」


 絶叫した。

 耳の奥で轟と響くのは水嵩の増した川の音か。いや、燃え上がる大火か。


「言っても信じないわよ!信じてないくせに不吉だって言って!頭がおかしいとか気味が悪いって言うのよ!あたしが悪いみたいに煙たがって!!それで本当になったらあたしが起こしたみたいに言うのよ!!あたしの所為だって後ろ指刺すんだわ!!あたしがあんなこと言うから本当になったんだって言うの!!馬鹿じゃないの!!あたしをどうにかしたって何も変わらないわよ!!あたし、何も、してないんだから!!!!」


 そっと肩に触れた手に、衣織はいつの間にかぎゅっと閉じていた目をのろのろと開く。


 丸まった背を、手がゆっくり上下していた。

 振り払おうと思ったのに、動けなかった。


 温かさと優しさに酷く戸惑った。拳が振り下ろされるのが普通じゃないのか。気持ち悪いと罵られるか、怒鳴り付けたことを怒られるかと。

 

 波立つ背中が手の動きと馴染んでいって、鎮まっていく。

 ささくれた気持ちが少しずつ収まって、破裂しそうに膨れ上がったものが減っていったところには、ぽっかりと穴が空いたままになった。


 激しい波が去っていった後に残ったのは、怠さと疲ればかり。


 そっと差し出された白い手拭いが、少し待っても衣織が動かないので、そうっと近づいて頬をなぞった。

 ひくっと喉が鳴った。

 乾いた布が離れた頬はひやっとして、衣織は頬を伝っているものに気が付いた。


「気持ち悪くなんかないよ」


 寄り添うと言うには少し間を置いて隣に座った少年が、静かに繰り返した。大丈夫だよ、と。


「……どうせ信じてない癖に」


 もう睨む力もなくなって、目も向けないままそれでも刺々しい台詞を吐いた。

 少しでも刺されば良い。痛みを知らないなら知れば良い。そしたら軽々しく気休めなんて言えやしなくなるだろう。


 彼は少し考えるように口を閉じて、迷うようにゆっくり開いた。


「オレ…嘘吐いてるのか本当なのか分かるんだよね」


「は?」

 胡乱な目を向ければ、灰色が柔らかく細まった。


「君が先の悪いことを知るみたいに、オレは他人の感情が読める。考えてることが分かる訳じゃないけど、言ってることが嘘か本当かぐらいは判るよ」

「え…」


 そんな馬鹿な、と思ってしまって絶句する。思わず否定しかけた自分の方が衝撃だった。

 衣織がそう(・・)であるなら、彼にそんな力があったっておかしくない。ましてや神さまの弟子が人にない力を持っていたって、何が不思議か。


「オレには妹がいるんだけど」


 衣織の涙を丁寧に拭いながら、少年は落ち着いた様子で微笑っている。


「すごく泣き虫なんだ。小さい頃よりましになったんだけど、ほんと十日に一度は大泣きしてさ。…慰めるの、オレの役だったんだよね」


 彼はなんだか寂しそうで、会いに行けばいいじゃないかと思ったけれど、結局何も言えなかった。

 相変わらず微笑んでいるのに、泣いてるみたいだと思ってしまったから。


「あいつ、悲しいとか、寂しいとか、怒ったりとかしたら直ぐ泣くんだ…まあ、そんな感じでさ、泣いてる子の心っていうのは感じ慣れてるんだけど…君の心は、あいつと比べて、なんていうかすごく重いし、怒りも悲しみも深いって判るんだ――辛かったね」


「っ…くぅっ」

 勝手にぶわっと涙が溢れ出して、喉の奥で変な音が鳴った。


 解られたくなんてなかったし、解られることなんてあり得ない。解ったような口を利いて、どうせ信じてないに決まってる。

 そう思っていたのに…なぜ理解してくれたって分かるんだろう。


「っう、うぅ……」


 何か言わなくちゃと思うのに、喉が詰まったみたいになって、押し潰された変な声しか出ない。

 代わりに目から雫がぼろぼろと溢れ落ちて、優しくそれを拭う手があるから、余計に涙が止まらなかった。


「誰も生きてるのを望んでないって言うけどさ、オレは君に生きてて欲しいよ」


 どこまでも真摯な声は否応なしに衣織の底に届いてしまう。

 願いが、想いが、届いてしまう。


 届いてしまえば…こちらも想わずにはいられないのに。


 終わりを、終わった先の闇を。続きを、生きていくことの先の苦難を。

 今もまだ生きているということを。


「なん、でっ…!」


 なぜそんなことを言うのか。どうして放っておいてくれないのか。

 考えるのは苦しい。何も考えずにいるのは安らかだ。なぜ苦しみの方に引き戻そうとするのか。


「だって、助けられたと思ったのに、元気ないって聞いたら気になるだろ?それにさ、君は……あの夜助けてくれただろ――ありがとう」


 彼は几帳面に、真面目腐った顔で言った。さっき衣織が遮った続きを。


 一瞬息が止まり、ひぐぅっと間抜けなしゃくりあげが硬直を解いた。


 つい手が動いて胸元を握る。

 もう懐にお守り代わりの薬袋はない。あれはあの夜投げてしまった。

 そう、目の前のこの子が死ぬのを見たから、無我夢中で投げたのだ。


「もしかしてあのとき、何か悪いことを視た(・・)?」


 思わず首を横に振る。普通の人はそんなことできないから、否定するのが正解。正解だった、はずだ。けど。


 本当に?


――――本当に、あたしが思ってること、分かるの…?嘘か本当か、分かる?解って、くれる?


 黙って待っている目に促されるように、ゆっくり、恐る恐る、(うなず)いた。


 途方もない勇気が必要だったけれど「だよなぁ」とどこか罰の悪いように頭を掻いた反応に、不安は霧散した。


「おかしいと思ってたんだよね。あれだけ怖がってたのに、自分のことを考えないで出てくるんだもん…何が見えたの?そんな悪いもの見た?」


「あ、あなたが、死んで…」

「えぇ!?」


 大きな声にびくついたものの、盛大にしかめられた顔には、衣織を疑っている色はどこにもなかった。


「そう…危なかったのか…。ごめんな、助けに行ったのに頼りなくて…」


 慌てて首を振ったら、顔の周りで髪の毛がぱたぱた鳴った。

 謝ることなんてないと口で言えば良かったと後から気付いた。でも、言わなくてもちゃんと伝わっていた。


 ありがとうと言って頬を掻いた少年をまじまじと見る。

 信じられなかった。衣織の言うことを全部ちゃんと信じてくれるだなんて。


「ねえ、オレは君のお蔭で助かったし、君の力がなかったら死んでた。他人のことで必死になれるなんて、君は立派な人だ。だから、やっぱりオレは君に生きてて欲しいよ」


 そっと差し出された言葉は、あの夜差し出された手のひらを思い出させてまた泣きたくなった。

 決して命令しない。衣織が応えて手を取るまで待っている。そして手を取れば力強く前へと引いてくれる、つよくて、あたたかい手のひら。


 衣織とそう変わらない大きさの。

 全部から守ってはくれない小ささの。


「…そんなの…っあなた以外…他にし、信じてくれる人、いないわ。あた、あたし、あたしがこんなで、また、気味悪がられるの…っ。誰にも、言えなくて、ずっと、そんなこと怖がって生きていくの、嫌よ、もうぅ…もう、疲れたの…」


 腫れぼったい瞼を閉じれば、またひとつ雫が転がり落ちた。

 疲れはてていた。もう何も感じなくなれば良いのにと、そんなことをなげやりに思った。


「疲れたの?」


「うん…」


「そっか、じゃあ、休んだら良いよ」


 水の膜の向こうで、少年が仕方ないなぁという風に揺らめいた。


「ここは静かで、休憩には良いとこだと思うよ」

「…そんなのじゃ…あたし、もう終わりに、したい…」

「誰も気にかけてくれないから?」


 衣織はぐっと黙った。

 誰も気にしてくれないからもう嫌だ、なんて、子どもの我が儘みたいだ。

 それに、そう認めてしまうと、衣織を気にして会いに来た少年を否定してしまう。


「あのね、君が部屋から出てこないってオレに教えてくれたのは師匠なんだ」

「え…」


 彼はゆっくり、一言一句を染み込ませようとするように続けた。


「師匠に報せたのはここの斎主(さいしゅ)さん。さっきオレが来たときも門のとこで待ってて、くれぐれも宜しくお願いしますって頭を下げてたよ。部屋に来るまでの間も、何人もやってきて、君のことを頼んで行った。みんな君を心配してる」


「そんなの…っ」


 本当だろうか。本当なのだろうか。

 知らないところで実は、何人もが衣織のことを気にかけて、心配しているなんて。


 差し出される手が、ひとつじゃないなんて。


――――部屋を出たら、大丈夫?って訊いてくれるかしら。ずっと出て来ないなんて駄目よって、叱ってくれたりするのかしら。


 想像はふわふわと温かくて、芽がでるように次々生まれては育っていく。

 けれど、あるときあぶくのように全部弾けて消えてしまった。


「でも…あたしが、普通だと思ってるからよ…ほんとのこと、知られたら…」


 向けられる目ががらりと変わるあの瞬間。両親がおぞましそうに顔を歪めた光景が思い出されて、衣織は身を震わせる。


 幼くてまだ何も分からなかった頃、怖い夢を見ては泣きわめいた。

 行商をしてた両親も、かわいいね、と言ってくれたお客さんも、色んなことを衣織が言って、それがそのまま起こる度に目付きが怖くなって、夢より現実の方が恐ろしいんだと嫌でも知った。

 知ったときにはもう手遅れで、衣織は独りきりになったのだ。


「嫌なら隠せよ。言わなきゃわかんないよ。君は普通に見えるだろ…オレとちがって」

「え…」


 思い遣りばかりこもっていた言葉の群れに違う響きが混じって、思わず首を傾げれば、彼は目を伏せた。


「オレはこんな色だけど、君はちゃんと普通の人に見えるから、黙ってれば普通に暮らして行ける。オレは、人をやめることになったけど君は」


 まだ、人の間に居場所を見つけられる。


 聞いたことを拾い上げて戦慄した。

 込められたものを悟る。

 それは傷と痛みだ。羨む心と諦めだ。いくら望んでも手に入らないことへの深い嘆き。

 口調はいっそ平坦だったのに、血を吐く叫びに何が劣るものだろうか。


「あなた…人、だったの…?」


 思わず訊いてしまって後悔した。

 こちらを見た目が、痛みを堪える色をして、それでも笑って見せたから。


「そう。オレはまだ人。この髪と目は生まれつきだ」

「…お父さんと、お母さんも?」

「黒髪、だよ」

「それって…」


 息を呑んだ。

 彼が人ではないと疑いなく思っていたことに後悔する。

 そして、雷に打たれたような衝撃を受けた。


――――この子を見た人たちはきっと、あたしと同じように思ったんだ。


 そして自分の見目を、彼が気にしていないなんてあり得なかった。


「ご、ごめんなさい…」

 大丈夫、と彼は笑った。


「師匠に拾って貰ったから、もう平気。白鳴山の方たちはみんな良くしてくれるんだ。あそこがオレの居場所だ。あ、でも君は人に見て貰えるんだから、人のところに居た方がいいよ」


 人として見られない。それはどれだけの暗闇か。

 人ではない領域に出て、そうしてやっと満ち足りたように笑っている。彼ほど悲しいものを見たことがない。


「ねえ、生きててよ」


「あたし…」

 不意に話を蒸し返されて口ごもる。生きていくとは、終わりを願ってきた衣織には、口に出すのも恐ろしく思えた。


「君は、死にたいの?」


「それは、」

 もちろん。


 開いた口から出る音は、途中で出なくなって、衣織は何度か息を吸ってみる。


――――なんで?

 終わりたいとずっと思っていた。なのに言えない。焦って、代わりにぽろりと涙が落ちた。


「ちがうだろ」

 彼は優しく言った。


「オレは君が、あのときどんなに怖かったか知ってる。死にたい人はあんなに怖がったりしない。助かったときに安心しない。あんな必死に、逃げたりしない。――君は、死にたくなかっただろ。死ななくていいんだ。大丈夫だから」


「あたし…っ」


 深く考える前に、涙が溢れた。

 思考がふやけて形がなくなる。

 心の隙間に滝みたいに何かが流れ込んで、満ちても止まらず、溢れていく。


 頭がくらくらした。心がぐらぐら揺れて、涙はぼろぼろ零れて、甘やかすように優しく拭われて、辛いばかりの現実が曖昧になっていく。


 ただひとつ、解ってくれたのだと、それだけが鮮明だ。


 死にたくなかった。不安で消えてしまいたかったけど、死にたくなかった。

 明日が明るいと思えなかった。周りの人は全部、あたしがいなくなることを望んでた。自分自身でさえ続きを生きるのが嫌になっても、生きる望みがなくなっても、終わりたいと思っても、流されて、受け入れて、それでも、本当は、死にたくなんかなかった。


 そういうことを、もつれる舌で、みっともなく泣きじゃくりながら訴えた。


 その間ずっと、彼は頷きながら聞いて、零れる涙が落ちる前に拭ってくれた。


「大丈夫。ここの人はみんな君を心配してる。オレも気にかけておくから。君はもう、独りじゃないよ。大丈夫」


「うん…」


「これからどうしたいかは、落ち着いたら探せばいいよ。ここで巫女になるのも良いし、色んな所を旅しても良いし、静かに暮らしても良い。あ、どっかに弟子入りして女職人になるなんてのもかっこいいんじゃない?」


「…うん」


「ほら、これから何でも出来る。どこにでも行ける。だからさ、…生きてて」


 衣織の中身は空っぽになってしまった。

 涙と一緒になって全部出ていった。

 力も気力も全部なくして、でも、苦しいのも辛いのも、怖いのも苛立ちも全部なくなってしまったから、なんだかとても静かになった。


 穏やかな空っぽに、彼が少しだけ、温かくて柔らかいものを入れてくれる。


「……うん」


 だから、座り込んだ衣織は、少しだけ顔を上げてみた。

 そうしたら彼が、嬉しそうに笑ったのだった。




「あの、ありがとう…」

 落ち着いたら、自然に感謝が言えた。


「助けてくれて、ありがとう。来てくれて嬉しかった」


 あの夜、お礼が言いたかったことを思い出して、衣織はひとつ胸のつかえが取れた気がした。

 初めて会った子の前で、相手が優しいのを良いことに、小さな(こども)みたいにぐずって泣いて(わめ)いたのが恥ずかしくなった。

 八つ当たりまでした気がするし、ごめんなさいまでありがとうに込めて、深々と頭を下げた。そして、これからはしゃんとしていようと心に決めた。


 衣織はまだ辛かったけれど、辛かったことをちらっと見せてもらったから、この子が顔を上げていられるのだから衣織も頑張ろうと思っている。


「いいよ、気にしないで。…オレも踏ん切り付いたし。じゃあ、そろそろ帰るね」

「…うん。…あ!」


 ひとつ大事なことを思い出して、衣織は大きな声を上げた。


「あの!あたし衣織。あなたは?」

「え、っあ、あぁあ!?」


 化け物に立ち向かったときも含めて、見たことがないほど慌てられて、衣織まで「えっ?えっ?」とあたふたした。


「あー…、先に言っとけば良かった…」

「あ、あの…何か不味いこと、した…?」


 ううん。と首を振って、彼は難しい顔で首を傾げる。


「あのね、(あやかし)には名前を教えちゃいけないんだ。操られるかもしれないし、悪い呪いを受けるかも知れない。だから…」

「ちょ、ちょっと待ってよ」


 衣織は意味が分からなくて顔をしかめた。


「あなた、あたしを呪うつもりなの?それにあなたは人なんでしょ?何が悪いの」


 少年は目を見開いた。

 酷く驚いているようだけれど、それがなぜなのか衣織には分からない。分からないが、自分が間違ってないことには自信があったし、もっと大事なことがあったから「ねえそんなことより」と袖を引いた。


「あなたは何て呼べばいいの?あたし、名前を知らないのずっと気になってたんだから」


「………三太朗」


 たっぷり時間を置いて、その間衣織をまじまじと見た末に、ぽつんと教えてくれた。

 さんたろう。さんたろう。と何度か繰り返してみる。

 思ったより平凡な名前だ。


「師匠がくれた名前なんだ」

「?本当の名前は教えてくれないの?」

「"三太朗"は、天狗の名前なんだ。オレは…もうすぐ天狗になるから、人の名前はもう名乗らない」

「そう…」


 人じゃなくなると軽く言われ、衣織はどんな顔をしたら良いか分からなくて黙り込んだ。けど三太朗はまるで気にしていない様子で「さて」と呟いてゆっくりと立ち上がった。


「君…衣織ももう大丈夫みたいだし、そろそろ帰るよ」


「うん…」


 そうだ。彼は山の上に帰らなくちゃいけない。

 あの桜の館で、神さまの修行をするのだ。


 癖でまた空の懐を握りながら、心細さがほんのりと戻ってくる。


「また、来てくれる?」


 三太朗は、少し驚いたような顔をしたけど、ぷいっとそっぽを向いて「気が向いたら」と返した。

 返答は冷たかったけど、ちょっと首を伸ばしてみたら、唇がとんがっているのが見えたので、照れ隠しだと分かって思わず笑ってしまった。


 確約ではなかったけど、きっとまた会いに来てくれることがなんとなく分かって、衣織は満足することにした。


「あ、そうそう」

 帰りかけ、首だけでこっちを見た三太朗は、何気ない調子で付け足した。


「オレが人の感情読めるってやつ、師匠にも言ってないんだ。衣織も秘密にしといて」


「うん。……え?」


 そっか、秘密なんだ。なんて呑気だったのは一瞬だった。


「な…なんで」

「ん?」


 障子に手をかけた三太朗が呑気に首を傾げたが、焦った衣織が遮二無二飛び付いた所為でたまらず引っこ抜かれて転がった。

 ふぎゃっとかなんとか上がった悲鳴に構わず必死に部屋の奥へ引っ張る。


 外から物音がしないのを確かめて、衣織は眉をつり上げた。


「なんでそんな大事なことここで言っちゃうのよ!誰に聞こえてるかわからないのに、か、神さまにも内緒なのに!他に漏れたらどうするの!!」

「おち、落ち着けって…」

「そっちこそ落ち着き過ぎじゃないの!神さまは遠くの声も聞くって言うわ。ばれてしまって、お、お仕置きされたり、仲間外れにされたり、追い出されたりとか、してしまったら…!?何笑ってるの!」


 ひっくり返ったままで涙が出るまで笑っている三太朗に腹が立つ。


「家を追い出されたら、路頭に迷って食べるのにも困って、悪い人に連れてかれたり騙されたり借金まみれになったりするんだから!」


 確かおばさんたちの井戸端会議を聞き流した限りではそんな感じだったはずなのだ。


 三太朗はやっと笑い止んで涙を拭った。


「ごめんごめん。心配してくれてありがと。でも師匠がオレを追い出すなんてあり得ないよ。それに、普通に話してて聞こえる距離には誰も居ないし、びっくりしたり怪しんでるのも感じ取れないから大丈夫」


 その言い様に一度きょとんとしてしまったが、三太朗が人の感情が分かるというのが、離れた所の人のものでも感じ取れるのだろうと見当を付けた。

 

 彼が自分の力を疎んで遠ざけるのではなく、便利に使っていることに驚いたけれど、これ以上動揺を見られるのは嫌だったので、取り繕って澄ました顔をしてみた。


「そう?なら良いんだけ、ど……"普通に話してて"?」

「…あ、うん」


 ざああ、と音がしそうな勢いで血の気が引いた。


「あ、あああ…あたしさっき、大声で言っちゃった!!」


 取り繕う余裕なんかは瞬時にどこかへ消えて、膝から崩れ落ちた。

 希望も何もかもなくして、目の前が暗くなる。


「大丈夫だってば」

 頭を真っ白にして固まった衣織に三太朗はそれでも可笑しそうに笑っていた。


「何が、大丈夫なのよぅ…あたし、これからなのに…最初で台無しにしちゃった…」

「そんなことないって。言っただろ?怪しんでる人も、嫌ってる人もいないよ」


 大丈夫。と繰り返して見上げてくる目は真っ直ぐだった。


 衣織の秘密を聞いた人が気味悪がらないはずがないと思うのだけれど、三太朗が嘘を言っているとも思えない。


「…それなら、良いんだけど…」


 迷って迷って、迷った末に、三太朗の方を信じてみることにした。


 衣織が危ないときに駆けつけて、全部なんとかしてしまう救い主。衣織を信じてくれた最初の人を、衣織も信じてみたかった。


 不安になった衣織のために、彼はずっと微笑んでいるのだろうから。


「ねえ、転ばせちゃったのは、ごめんなさい。でも、そろそろ起きないの?どこか怪我したの?」

「あー…いや、怪我はないよ。受け身取ったし…うーー…」


 照れ隠しに問えば、心配は不要だと言いつつもいつまでも寝転がったまま、三太朗はそっぽを向いて唸った。


 心配させまいと嘘を吐いているのではと、段々不安になってきた頃合いで、三太朗は観念してため息を吐いた。


「…実は、あのとき普段やらないぐらいすごく動いたから、体ばきばきなんだよ…起き上がるときすごい音がするから」


 きょとんとした衣織の前で、思いきって身を起こした少年の背中からばきぃっと盛大な音が鳴った。


「いてぇ!」

 つい出た調子で言って、今度はそろそろと動くのが年寄りみたいで、悪いと思ったけどやっぱり少し笑ってしまった。





















 白鳴山の裾野には、人気(ひとけ)の絶えた森林が広がっている。

 白鳴山が近隣で最も高い山であるのは無論のことだが、その周りには比べると丘とも見える山が幾つか連なり立つ。

 その全てが、こんもりと木々に覆われ、幾らかの範囲が神の山に近い禁足地。その外側は神に(はばか)るゆえに、特定の時期以外は立ち入らない地として、人の手が入らぬままに繁茂していた。


 そんなさやさやと風が鳴る山の中。人跡未踏とまではいかないが、人の気配などない、深く自然の懐に抱かれた静けさを、がさり、と茂みを鳴らして乱す者が居た。


 大きく鳴った葉擦れに自分でびくりと身を震わせ、そろり、と殊更ゆっくりと茂みから抜け出る人物は、珍奇な格好の上に奇天烈な姿勢で林の隙間にまろび出て来た。


 見る人が居れば怪しいことこの上ない。

 しかし、ぼろぼろになった衣は、数日前にとある苦難を乗り越えたためであり、ここまで来るまでの険しい道のりの所為でもある。

 また頭やら腕に青々と葉が繁る枝を括り付けているのは、見つかってはいけないモノを植物に化けてやり過ごすための必需品であるため仕方がなく、そしてあっちこっちに書き込まれた模様は、体臭やら気配を薄くするための護符だった。


 ついでに不思議なくねくねした動きでかさかさと動いているのは、枝葉を避けて動こうとしているからであり、本人はこの上なく必死であった。


「ああクソ。この辺のはずや…」


 悪態を吐きながら、今度は獣よりも蛙に近い姿勢で四つん這いになって地面を舐めるように探りだしたのは、木場と名乗る人物である。


 猿と共に先日白鳴山へ奇襲をかけた木場だったが、今ここには猿も相方の巨漢もいない。

 木場はたった一人で、白鳴山の天狗の縄張りにこっそりと戻って来ていたのだ。


「ああほんまに感知されへんみたいやな…普通の人やら獣に気配が似せれば感付かれへんとは…体内の何を感知して敵を割り出しとるんか知らんけど、ほんまおっとろしい魔物や…お?」


 小声でぶつぶつとぼやいていた木場は、落ち葉の下から小さなものを引き出してにんまりと嗤った。


 手の中にあるそれは、片手に収まる巾着袋である。

 中身は空。埃に薄汚れたそれはありふれたものに見えるが、縫い付けられた模様が微かな光を発していた。


「良かった良かった。ちゃんと使えるみたいやな。お嬢ちゃんこんなとこに落としてもうたって知ったときはがっかりしたもんやけど、あいつの手元に渡らんかったんやから、却ってよかったわ…っと」


 手を翳し、決まった指の形を作って撫でれば、ふわりと光が増し、同時に布に隠れた木場の額の一点もぼやりと輝いた。


 すっと木場の目の焦点が曖昧になる。

 巾着に仕込まれた術は問題なく動き出し、術者に己が経験した出来事を余さず知らせ始めた。


 満月の祭の夜、持ち主の贄の少女が何を見聞きしたのかを、彼女の手で放たれ、地に落ちるまでの全てを。


 ほんの僅かの間で光はすっと消えて、木場は幾つか瞬きをして、疲労を逃がすように大きく息を吐く。

 次いで、その口元を飾ったのは、笑みだった。


「見つけたで…ほんまにここにおったとは…」


 慎重に身を起こすと、聳える白い山を仰ぐ。


「あの魔物の弟子ね…なんやおもろいこと出来そうやな」


 その顔は、遠くでカラスが鳴くまで笑っていた。



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