八十三 最後の静寂
「酷い顔だな」
混沌とした空虚を割って、静かな声が鳴り響いて、オレは壁に凭れていた体を起こす。
さらさらと軽い衣擦れが、どろりと黒い静寂を薄め、しんと折り重なった停滞にひらいた穴を露にした。
仰向いていた顔を向けた先で、戸口の形に切り取られた外界は明けかけた夜の色をしている。
その僅かな光を遮るように、ささやかな風の揺らぎを背負って黒い影が立っていた。
「……ししょう」
軋むかさついた声を聞き、僅かに眉をしかめた師匠は、ゆっくりと近寄って片膝を突いた。
いつものように静かな表情が今はどこか気遣わし気に見える。
師匠にとっても大変な一夜だったはずなのに、どこからどう見ても全然普段と変わらない彼がそこにいた。
「眠れぬか」
「…はい」
咎められた訳でもないのに、声は怯えめいた震えを帯びた。
取り繕えもせず目を游がせるオレの頭に、ごく自然に温かな重みが乗った。
そのままいつものようにゆっくりと撫でられる。
「お前はよくやった。万事上手く運んだのだから、今は何も気にせず休んで良いのだぞ」
「師匠…」
この温もりは、いつもオレを落ち着かせてくれる。
普段、師匠の心の動きはほとんど感じ取れないけれど、撫でるときには必ず温かな感情を滲ませる。それがいつも嬉しい。
今回も労りと、心配と、確かな名前を付けられない大きな温もりがじんわりと胸に落ちて、冷たくざわめくものを少しずつ静めた。
「師匠」
けれどそこに非難も怒りも疎ましさもないことに、少し違う温度で心がざわめいた。
変な話、こうして慰められていることが、どこか落ち着かず、後ろめたかった。
「すみません。あの…勝手に別行動とか、してしまって」
「全くだ」
字面の冷たさに反して、撫でる手が止まって浮かんだ苦笑はいつものように優しい。
「これが位を得た天狗であれば罰を与えねばならんところだが、お前は未だ無位。成果も持ち帰ったゆえ、反省しているならそれで良かろう」
「……良いんですか…」
あまりにもさっぱりとお咎めなしを言い渡され、口が勝手に動いてしまう。
普通なら、謝って赦されればほっとしたはずだ。オレだって怒られるのは大嫌いだ。
なのに、今はあっさり赦されたのがなぜだか辛かった。
「天狗は、上位の言葉は絶対だって言ってたじゃないですか…オレは、みんなから離れるなって言われたのを破ってしまったのに…」
離れるなというのはオレを心配してのものだったろうけれど、絶対に従わないといけない言い付けを破ったのだ。
重要なことなはずなのに、"反省しているならそれで良い"と言われるのは"お前は罰にも値しない"と言われているような気がする。
胸が絞られたように苦しい。
「師匠の言い付けを破りました…だから、オレは罰されるべきで…」
「そうか。では聞け」
真剣な黒の目に捕らわれて、ぐずぐずと続けていた言葉が途切れた。
「お前は未だ斯様なことで責を負う立場ではない。無位ということは、守られる者であり、使われる者ではないのだから」
まだ天狗じゃないから、と言わないところに、師匠の気遣いを感じて、オレは密かに泣きそうになる。
「でも…」
「人でも、幼い者が何かやらかしたところで叱り罰することはあっても、それは反省を促すものでしかなかろう?」
「……」
「お前はよく自己を省みていると俺は思う。それに、此度の独断も故なきことではないだろう?」
黙るしかないオレに、師匠は目を細めて微笑った。
「己で選び進んだ末に、望ましい結果を得て帰った。運が良かっただけやも知れぬが、お前はこの成功に傲るでもなく己の行いのまずさを受け止めている。今はそれで充分。至らぬところは補えるよう、後々俺が教えよう。この経験は先の糧となる。失ったものはなく、得たものは多い。褒めるならまだしもこれでなぜお前を責められる」
怖かったろうにお前はよくやった。そう締めくくってまたゆったりと撫でる師匠の手を受け入れながら、オレは深く俯いた。
師匠の言うことは尤もなのに…素直に受け入れるには胸の内側に溜まったものが重すぎた。
しかしながら、その重たいものは捕まえようにも形がなくて、もやもやと内側を曇らすばかり。
吐き出そうにも吐き出せず、その正体が掴めないから、師匠に反論することもできない。
ただただ息苦しさが募って、唇を噛んだ痛みさえ味わえば苦い。
「――悔いているのか」
ややあって、頭に触れた手が離れ、入れ替わりに静かな問いが静寂に落ちた。
――――後悔。何に。
疑問を浮かべて仰げば、黒い双眸はこちらを注意深く見つめていた。
「刃金を振るい、戦い――殺したことを」
肩が僅かに震えた。
その問いは、オレの心に溜まったものの核を突いていた。
今夜眠れずに何十何百と繰り返し思い出していたが、それは結局停滞に逃げていただけだった。
触れば痛いところを避けて、上辺ばかり掬うのを繰り返していたという情けない事実を、中心へ切り込まれて初めて思い知った心が震えたのだ。
けれど少し嬉しくもあった。
ここに葛藤があることを解ってくれている。それだけで、どろりと濁った混乱が少し軽くなるのを感じた。
「――いいえ」
独りでは持て余していた混沌に、師匠の問いを借りて漸く向き合うと、そこにあるのは、悔いとは違う気がした。
「あのときはそうするしか、なかったと思います…」
他に道があるならそちらを取った。あのときのことを百回も思い返してしかし、敵から逃げ切るのには他に手がなかった。
それは納得できているはずだった。
「では、怖いか」
「…怖かった、です。でも…」
弱く萎んで迷いに消えた語尾は、断言したいのに強くなってくれない。
怖かったはずだ。
このひと月、鍛練を繰り返しながらも、敵に出会うことを想像しては恐怖した。
なのに、なのに。
「いつも怖かった。怖かったんです…みんなとはぐれて猿に見つかったらどうしようってずっと……なのに、あのとき、取り返さなきゃって、思って…走ったとき…………こわくなかった」
両手を開いて見る。
所々ぎざぎざに欠けた爪。細かい傷だらけの指。ほんの僅かずつ、何ヵ所も皮がめくれた手のひら。
石を拾っては投げたあのときの、ざらついた感触が蘇る。
恐怖は遠かった。
「夢中で、っていうのとは、少し違って…なんか、冷静に…隙を突けるって、だから行こうって、当たり前のことみたいに思って…それで」
走った。殴った。そしてまた走った。
手を繋いで引きながら、必ず助けようと、そう思って。
「刀を、抜かれたときは…怖かったんです。刃物だ、って思ってしまって、すごく、すごく、怖かったんです……敵じゃなく、刃物が怖かったんだって、今は分かります」
刃に怯えているなんて、今までのオレはなんと愚かだったのだろう。
刃はそれだけでは傷付けてくることはない。
振るい傷付けるのはあくまで誰かの手だ。
逆に刃を持たない手であれ、殺意を込めて振るわれれば振り翳される刀と劣らず危険だ。そんな当たり前なことを改めて胸に刻む。
「逃げ切れなくなって、でも、見捨てられなくて…」
頼りなげな少女が過る。
怯えるばかりだった彼女がした唯一の抵抗はオレを助けるためのものだった。
見えたひとかけらの勇気。
逃げられなくなって、座り込み震えていた少女。
迫る暴力。
「そのとき――理不尽だ、って思った」
怒りが湧いた。焦りも恐怖も焼灼し、なおも燃え上がり。
「なんで、オレたちだけこんな目に遇ってるんだ、って思った。そんなの嫌だ、認められないってそう、思ったら…」
守りたいと、守らなければと。
少女の、自分の、命を守るには、辿り着く先はひとつしかないんだと思った。
戸惑いも迷いも焼き尽くされて。
「あいつを斃せば良いって、思ったんです…!」
腹を裂き、首を突き、喉を断ち。
鮮明に蘇る寒気がするような手応え。吐き気が込み上げる血の臭い。
「一歩間違えば死んでたって今は分かります…でも、あのときは全然そんなの考えなくて、出来るとか出来ないとか全然、全く、思ったりしなくて!」
ごく自然に体は動き、躊躇などしなかった。
「全然迷わずあんな風なこと、出来るなんて思わなかった!オレじゃないみたいで!!なんか、今になってなんか…」
あのオレは、いつもの自分なら戸惑い、迷い、怖がるところを全く迷わなかった。味方と合流して、そうしてやっとどこかが緩んだ。
やっと、よく知った自分になれた気がして、それから気付いた。
守りきれたと、志した通りになれたと。
そして悟った。
守るというのは、守られる者にとっては優しいものだろう。
だが、守る者にとっては、修羅の道に続いている。
血塗れの手がその象徴だった。
「…この道を選んだのは自分で、守りたいって思ってた通りにやり遂げられたんだ。なりたかった風にやれたんだ。だから、あれもオレなんです…分かってます」
あれも自分だと解っている。どれだけ心が普段の自分とかけ離れていようと、動きも判断も全ていつも通りのものでしかない。
鍛練通りの動きをすれば、拍子抜けするほど簡単に出来た。
あんな非常時にも関わらず、普段通りで良かった。
普段通りに振る舞えること自体の、なんて異常なことなのか。
「師匠が付けてくれた稽古は、相手を…殺すための訓練だったんですね。バカなオレは、あのときまで気付かなかった」
動きから無駄と隙を削ぎ落とし。
どんな隙をも衝ける身のこなしを叩き込み。
どうすれば勝るかを常に考えさせ。
このひと月は、打ち込まれる攻撃を防ぎ、避け、逃げ、そして反撃する訓練。
狙われ、狙うのはほぼ体の急所。
全力で叩けば戦力を確実に削ぎ、刃で裂けば命を刈り取る場所ばかり。
「師匠は最初から、戦うなら殺さなくちゃいけないって知ってて、オレを育ててくれたんだって…そう、気が付いて…」
目指した道の入り口にようよう立って、この先に進めばこんなことが繰り返されることを思う。そのときになって迷うことなどない自分を知ってしまったから、どうしても足がすくむのだ。
震える手を握りしめ、拳を目元へぎゅっと当てた。
「オレには覚悟が、足りなかった…戦うって思ってたのに、殺すことに、繋げて考えたこと、なくて、いざ殺してしまったら、こんな、苦しくて…!」
訳のわからない焦燥。正体不明の重苦しさ。
原因はそこにあるだろうに、これが何なのか分からない。
震える声が暗がりに散り去った後も、黒の眼差しはじっとオレに注がれていた。
自分の息遣いがうるさい。
「悔いているか」
さっきと同じ問いは、全てを聞いて、飲み込んだ上のものだとわかった。
「…いい、え」
だからオレはこう答えられた。
「あれがオレの思い付く最善でした」
オレはオレとしての最善を選んだ。
死ぬ訳にはいかず、奪われるのは我慢がならなかった。ましてや無抵抗に渡すなど出来るはずもなかった。
「では、怖いか」
「………いいえ」
怖いのとは違う。
苦しい。辛い。これは。
「――重い」
胸の内を締め付け、のし掛かる圧。
怒り、悲しみ、憎しみ、恐怖。どれもこれを表すのに適さない。
「重いんです…。オレが…殺したやつらにも、オレと同じ命があったんだって思ったら…どうしようもなく重いんです…!」
持っている命は皆ひとつきり。
こんなに貴重なのに、こんなにも重いのに、簡単に消せてしまうのはなぜなのか。
「彼らにも思うことがあって、慕うものがあっただろうに、笑ったり怒ったり悲しんだりしただろうに、もう出来ない」
彼らは連携していた。そこには背を預け合う絆がなかったか。…仲間の死を見つけた驚きの中に、悼む心はなかったか。
「仲間と笑いあったり喧嘩したりする未来をオレが奪ったんだ…!オレに襲い掛からないようになったけど、その代わり他のことも全部、できないようにしたんだ!」
オレの安全のために、仲間から彼らは取り上げられてしまった。
ある日家族を喪ったオレのように。
そうしたのは、オレだ。
死ねば終わりなのがこの舞台での絶対の理。
踊り狂って果てた彼らはもう舞台のどこにもいない。
「オレはほんとに正しかったのか、わからないんです!これがもし間違いだったとしたら、どうやっても取り返せない!もう彼らはいないんだ、オレが、殺してしまったんだ…!!」
これからの全部を取り上げた。
オレの都合で勝手に終わらせた。
遺された者らは悲しむだろう。
家族を喪ったオレのように。
そうしたのが間違いではないとどうして断言できるのか。
何を以て正しいとするのか。
これは、罪ではないのか。
「三太朗」
軽く肩を揺する手が、静けさへとオレを連れ戻した。
動揺しきった喚き声が止んだ部屋は、相変わらずのがらんどうの静けさが満ちていた。
黒い虚がたまらなく重いけれど、温かい手がまるで支えてくれているみたいで、のろのろとではあるが顔を上げられた。
「ししょう……オレは正しかったんでしょうか」
「ああ。お前は正しい」
「……………え」
師匠はあっさり言った。
全く当たり前のことのように。一に一を足せば二。そんな風な調子だった。
思わず見上げてぽかんと口を開いた目の前で、師匠はふかーくため息を吐いて、どっかりと胡座をかいた。
「お前は本当に手のかからない弟子だな」
どこか拗ねたような様子の師匠は、やや乱暴にオレの髪を掻き回した。
「師匠…っなんでそんな、正しいなんて言い切れるんです、オレ…」
「考えてもみろ、やらなければ殺されていたのだろう?殺されてやるのが正しかったなどとお前は思うのか」
慌てて飛び出した疑問は、全部形になる前に迎撃されて掻き消えた。
「暴力を以て他者から奪おうとする者が正しいのか。なら全て奪われてやるのは正しいのか。そんな訳がなかろう。ましてやお前を殺す者が正しいなどと、断じて俺が認めはしない」
「師匠…」
絶句した弟子の頭を最後に軽く叩いて、黒い天狗は靭い笑みで言った。
「覚えておけ、三太朗。この世の全てに通ずる正しさなどありはしない。求めるだけ無駄だ。見るべきはお前自身の正しさのみ。己の正しさを貫けるのは強者だけであり、此度死んだ者は、お前を貫かんとして果たせなかった弱者。お前はお前の正しさを押し通して勝ったのだから、お前が正しい」
なんという暴論なのだろう。
なんて自分勝手な言い種なのか。
相手のことなど知ったことかと蹴り飛ばし、勝てば正しいのだと傲慢にぶちあげる。清々しいほどに。
「そん、な…勝ったら正しいなんて…乱暴な…」
「無論、いつでもという訳ではないさ。外道の横暴では話にならないが、命を懸けて成すべきことを果たさんとしたお前たちは違うだろう」
「…違う……?」
師匠はそう、と満足げに頷いた。
「それぞれに事情があり、目指すものが違う。大切なのは、己が正道を行けるかどうか。己が正義を持ち、信念を貫けるかどうか。お前には正義がある」
「正義…」
正義、正道と口にする師匠は、真っ直ぐにオレを見つめていた。
この目を知っている。
師匠が学問よりも、技術よりも大切なものを教え授けようとするときの目だ。
「彼らにも、正義があったと、お思いなんですか…?」
襲い、暴力で奪わんとした猿の群に襲われ、迎え撃ち、百もの敵を排除した勝者はきっぱり是と答えた。
「一族郎党の全てを引き連れて新たな地に来たは、余程切羽詰まる事情があったのだろう。あれだけの数が住める空いた土地などない。数を減らして散るでもなく、油断ならぬ敵を排してでも奪うしかないと思ったのなら、弱き同胞を切り棄てられなんだ故。そこにはあれらの正義があったのだろう」
「そこまで、分かっていて…」
「ああ。排除した」
言い方を変えようか、と言って、黒い瞳が深くなった。
「殺した」
「…っ」
外敵を殺し尽くした天狗は、怯んで黙ったオレを淡々と眺めた。
「相手の都合を知っていても、慮って山を譲ってやるなど論外。事情が判っている分言い諭そうとも翻意する訳がないと解る。生かしたまま負かすなどという生温さでは次、また次と繰り返されて此方の余力を削がれる。ならば完膚なきまでに叩き、歯向かって来ぬようにするのが最善と見た――殺すのが最善だと」
わかるか、と問う師に、あの痛め付けてもどこまでも追ってきて、殺してやると吠えた猿が思い浮かび、頷いた。
話なんて出来ない気迫。解り合えない立場。狙う者と護る者には、寄り添うことなど出来ない溝がある。
「お前も守る者になりたいというなら、確と心得ろ。何が最も大切なのかを見失うな。そして、いざ争いのときには、迷ってはならない。避けられぬ死合いは勝たねば守るべきものを喪う」
これが数百年、ひとつの山を護り続けた守護者の真理なのか。
何をしてでも護り抜くという決意の重みに押されるように、オレは顎を引き、教えを受け取った。
「…はい」
敵の内情まで読みながら、迷うことなく守るべきもののために戦う。
ひとつを護ると決めて挑み、勝ち取る。
それが出来なければ、全て奪われる。
師匠から与えられたその教えは、ひとつの戦いと言えるものを経たオレに実感と共に染み込んだ。
オレは固く目を瞑る。
今回、勝ち取ることが出来た。奪われずに守れた。
オレの判断は正しかった。オレにとっては間違いなどではけしてなく、相手にとって間違いであろうともオレの正道に反するのなら抗うのが正解だ。
例え胸の奥の重苦しさに潰されそうでも。
「なあ三太朗。お前は本当に良くできた弟子だな。手が掛からぬのも過ぎると却ってつまらん」
「え…?」
唐突に投げられた言の葉は、さっき聞いたのと同じ拗ねた響きを伴っていた。
"良くできた"と言うなら褒めているのだろうか。でも"つまらん"というのは決して褒め言葉ではない。
反応に困るがしかし、取り敢えず言うべきことは分かったので戸惑いながら師を見上げた。
「手が掛からないって、そんなことはないでしょう。逆に面倒ばかりお掛けしてます…天狗にもなれないし、刃物は使えない。今回だって、こんな様で…うあ」
軽く小突かれて、反射的に額を押さえる。
痛みなどなく、じわりとした暖かさは、師匠の心が残したもの。
「そんなもの、手間の内に入らんぞ。考えてもみろ。紀伊に武蔵が来たときは、悪戯盛りが二羽一度にだ。それが終われば次は次朗。次朗の手の掛かることといったら、皆の手を借りても目が回る程だった。今はあれでも大人しくなった方なんだぞ?上の三羽に比すれば、お前の面倒など何程のものでもない」
遠い目をして浮かんだ乾いた笑みが、当時の苦労を痛いほどオレに伝えた。
「それにお前は聡い」
微妙な顔なオレに目を戻した師匠は温かく笑った。
「お前が"重い"と感じたこと、嬉しく思うぞ。それこそ俺が今夜どうしても教えておかねばと思っていたものだ」
「これ、が?…どうしてですか」
圧し掛かり苦しめる、胸にかかった重圧に襟元を握る。
今夜は特に忙しいはずの師匠が態々時間を作ってまで教えに来るほどのものだとは、どうしても思えない。
どうしても、怖じ気るオレの弱さのように思えるこれ。
「譲れぬ者どもが相争う場に於いて、死は軽いものだからだ」
何を言いたいのか解らず、黙って見上げた。
死が軽いのなら、この重さはなんなのだろう。
これを感じるのは間違っているのだろうか。でも、大切なことだと。
答えは明快に与えられた。
「反して、命は重い」
肩を揺らしたオレに目を細め、師匠は静かに語った。
「お前が殺した者や俺が殺した者どもと同じく、俺もお前も、命を持っている。お前が言ったように、これは替えが利かぬ。軽く扱ってはならない」
これ、と己の胸を示す。その手は血が通って温かいことを不意に思い出した。
「戦場に立てば、殺す。重い命を奪わねばならぬほどの信念、なお大切なものがあるからだ」
その手は何度もオレを守って助けて、迷わないように手を引いてくれた。オレを守って、振るわれる力があったことも知っている。
「幾多の命を殺し、立ちはだかる敵を斃していけば…嫌な言い方だが、慣れる。殺すのに手慣れ、命の重さが薄らぐ気がしてしまう。敵も己も味方も軽いもののような錯覚がある。だから」
オレの心の真ん中に届けと真っ直ぐ見つめるその目に、どんなにか深い情を宿すのかを知っている。
けして殺すのが、戦うことが好きな方ではないのだろうと、すとんと理解した。
「だから、今感ずる重さを忘れるな。それが命の重み、お前か戦う道に進むとき、数多く負うことになるものだ」
授けられたのは、重く苦しいものから救う教えではなかった。逆に無限に続く苦難と苦痛への導きだった。
でもそれが、何より貴重なものだと分かったから、オレは深く頭を下げた。
「はい」
「――良い子だ」
子ども扱いして甘やかす手を反発せずに受け入れた。
今日はもう充分な大人扱いをしてもらった気分になっていたし…子どもじゃないと背伸びするには少し、疲れていた。オレにはささやかな慰めが必要だった。
ふーっと長く息を吐いて、師匠はまたぽつりと、お前は手が掛からん、と呟いた。
「初めて闘いに勝ち、殺した者の中には…己が強いと思い込み、他者に勝つこと、命を奪うことを愉しむようになる者もいるが…お前がそうでなくて良かった」
「…考えられません」
ぞっとしながら心から言った。
罪悪感を差し引いても、今思い出すのもおぞましい感覚と血の臭いに顔をしかめる。
あんなものを好きになるなんてあり得ない。
――――でも。
でも、それは一種、強いのではないだろうか。
オレは今、恐怖と迷いばかり抱えている。そんなものを全部捨てて、自分は強いと思えたなら、オレの何かは変わるのだろうか。
思考の片隅に浮かんだ考えは、膨らませてみようと思っても、現実からかけ離れ過ぎて想像し難かった。
師匠は顰めっ面を笑った。
「もしもそうだったとしたら、叩きのめしてでも矯正せねばと思っていたが」
「ほんとにあり得ませんから!」
流れかけていた思考をなかったことにした。
オレは何も考えてない。想像してみようかと思っただけだ。だから師匠に熨されたりしないのだ。
冷や汗をかきながら顔が引きつった弟子に、分かっていると頷いて、師は可笑しげに笑ったまま立ち上がった。
「この先は当分静かだろう。急ぐことはない。存分に迷い、悩め。必要なことだ」
「はい…ありがとうございました」
「かまわない。俺はお前の師なのだから」
休めるなら休め、と言い置いて、師匠は部屋を後にした。
背中を見送って、天井に向かい大きく息を吐いた。
「師匠ってほんと、厳しいよなぁ…」
心配はしてくれる。よくやったと褒めてくれる。労ってもくれるが、決して逃げは許してくれない。
迷ったら道を示しに来て、歩き方を教え、さあ歩けと背を押して行くのだ。
放っておかれたなら拗ねたりもできるけれど、よくオレのことを理解してくれていて、ふとしたときにいつも気にかけてくれているんだと気付かされる。
苦しいのは変わらない。辛いのも変わらない。
現状はなにも変わらない。
答えはまだわからない。
なのに少し落ち着いた自分がいる。
きっと師匠が何を思って戦っているのかを少し垣間見せてくれたからだろう。
オレを否定せず、それで良い、正しいと言ってくれた。それだけであやふやだった足場が固まって、しっかりと立てるような気がした。
荒れた手を眺める。
帰って来て最初に洗ったから汚れてはいない白い手。けれどこれが赤黒く染まっていたのはまだ記憶の中で鮮明だ。
「苦しい…辛い…重い…」
これで最後ではない。今のまま行けばこの先何度も何度もこんなことはある。そう師匠は言った。オレもそのときが来ればそうするだろう。
「それでも…」
守りたい。護りたい。まもりたい。
この想いは益々鮮やかで、あのときの決意は固くなるばかり。
暴力に、悪意に、害意に脅かされれば呆気なく消えてしまうと知っているから、オレが力を付けて守らなくてはと思う。
強くなりたい。
師匠のように。
「――あなたの後に続きます」
あなたが示してくれた道を行こう。あなたが先に歩いた道を、背中を追いかけて行こう。
だってオレは、あなたの弟子なのだから。