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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
96/131

幕間 祭後の静寂

衣織視点。




「目が覚めましたか?」


 柔らかで優しい声が静寂に割り込んで、密やかな耳鳴りを掻き消した。


 声に反応して瞬いた衣織(いおり)は、自分が目を開けていたことに一拍遅れで気付いた。

 眠りのような静寂が夜に満ちて、見つめた天井は静かに闇を纏っている。その様は、目を閉じたまどろみの中、意識がないときに見るものとよく似ている。


 ぼっ、と小さな音がして、黄色の光が、安穏の闇を天井から追い出した。


 何を考えもせずそちらに目を向けて、目を焼くような眩しさに思わず目をぎゅっとつむって腕で隠した。

 優しい停滞が剥がれ落ちていくのを感じた。


「――ぇ、あぁ…う」


 待ってまだもう少し行かないで。力の抜けきった口は回らなくて、寝ぼけた呟きとして音を吐き出した。


 誰に対してどうして制止したかったのだか衣織にもわからない、何かをそのまま留めて動かないでほしいというふわりとぼやけた願いは、動き出す状況の歯止めには全くならなかった。


「あらあら、驚かせてしまいましたか」


 時が確かに流れているのだと教えるのは、優しい声。柔らかい声。

 怒鳴ったり脅したり、恐々だったり悲しげだったり、仕方なさそうだったり冷たかったりしない、温かい声だった。

 いつぶりに聞くのだかわからない、慈しみに満ちた、包むような声だった。――そんな風に語りかけてくれる人なんか、居るわけがないのに。


 解っている。知っている。衣織のことを想ってくれる人なんて、両親に置いていかれたときに失った。

 衣織を気にしてくれた村人たちは、優しいまのでさえ、あの老婆でさえも、衣織に価値がなくては大事にしてはくれなかっただろう。


――――価値…

「ああ、疲れているのですね、可哀想に…。もう少し眠りますか?」


 ぎゅうっと縮むように痛み始めた胸の中で、思い出しかけた何かが、紛れもなく優しい、衣織を心配した温かい声に包まれてぼやけた。


 居るわけがない。

 衣織を想ってくれる存在なんて居るわけがない。

 きっと何か裏がある。そのまま受け入れたら裏切られて痛い想いをする。

 解っている。なのにそれは抗いがたい誘惑で、ゆるゆると、恐る恐る腕をどけて目を開いてしまった。


 あれほど刺々しく感じた光は、少しの間に目に馴染んで柔らかくなっていた。

 眩しいどころか薄暗いほどの光量で、目を焼くように突き刺さるのではなく、ふわりとほどけそうな黄色の光。


 目の前。光の源は部屋の角に置いてある行灯(あんどん)だった。

 それも木枠にはつやつやした漆が塗られ、障子紙を張ってあるばかりか紙には透かし模様で梅の花が浮かび上がっている。

 田舎の村娘では目にする機会のない華やかな品だ。


――――きれい。


 まじまじと行灯を見たあと、やっと周りの様子が意識に滑り込んでくる。

 最初に胸の内に落ちてきたのは、知らない上等な部屋の有り様だった。


 落ち着いた木目の天井は、梁なんかみえないようにちゃんと天井板で覆ってある。もちろん日焼けや雨漏りの跡はひとつもない。


 天井を支える壁は真っ白な漆喰。薄暗くてはわからないけれど、きっとひびも凹みもない、まっすぐな壁。


 目を落とせば、青々とした畳が、驚くべきことに床一面に敷かれていた。

 そっと手を伸ばして軽く押してみれば、僅かな弾力を感じて、中身全部を草織りにしてある上等なものだと解って震えた。


 そうして、伸ばした腕がひやりとして初めて、衣織は温かい布団の中に収まっているのだということを知った。

 布団は触ったことがないほどふかふかで、雲に寝転んでいたらこんな感じなのかもしれない。

 衣織が知っているのはばさばさした藁布団だけであり、この寝心地はいっそ衝撃的なものだった。


 ひとつひとつに驚きながら確かめていったけれど、まだ(くだん)の人物は見つからない。


 声は寝ている衣織を挟んで行灯の反対側からしていた気がしたから、布団の中でころりと寝返りを打ち――穏やかな眼差しに出会って、衣織は息を忘れた。


 布団から少しの間を空けた障子際で、座布団の上にしっとりと膝を揃えて座る女性は…美しかった。


 長くてまっすぐな髪は艶やかで、行灯の弱い光にも濡れたように輝く。

 広い袖の衣装は目利きなんて出来ない衣織からしても高価なものなのは明白だ。

 刺繍も鮮やかなたっぷりの布を使っている、きれいな衣を重ねた装いはうっとりするぐらい美しい。

 それを纏う人の沁みひとつない白い肌は、仄かな光を受けて薄く輝いている。

 村では絶対見られない、透き通るような様はまさしく玉のよう。

 穏やかな微笑みを置いている顔は端正で、まるで昔行商に見せてもらった掛け軸の天女のよう。

 口元に一点だけある黒子(ほくろ)が、その出来すぎで嘘じゃないかと思う顔を現実のものにしていた。


 こんなきれいなひとを今まで見たことない。

 都の風流人は座る美人を花に例えると言うけど、並の花だったら花の方が負けちゃうわ、と思った。

 野山や畑に咲く花しか見たことはないのだけれど。


「ふふふ…」


――――わ、笑った…?


 少しの間、馬鹿みたいに見つめてしまってから、やっと衣織は自分が笑われているのだと思い至って恥ずかしくなった。


 話に聞く貴族の家みたいに立派な部屋に、座る佳人。

 そんな物語の場面になりそうな情景に、貧相な自分はあまりにも…悲しくなるほどそぐわない。


――――ここは、わたしの居る場所じゃない。


 ここに居るのは何かの間違いで、実は人違いだったとすぐにでも言われるかもしれない。

 衣織は自分が小さく縮んで、冷たく固くなったみたいな気がした。


 せめてそれこそ馬鹿になったみたいに開きっぱなしだった口を急いで閉じて、さらに急いで布団から起き上がる。


 そしたら、ふわっと一瞬頭が揺れる感覚がして世界がぼやける。たまらなくてぎゅっと目を閉じた。くらりと上体が傾くのが解った。


「まあ、慌ててはなりませんよ」


 何か判らないけど控えめな良い香りに包まれて、衣織はびっくりして目をぱちぱちさせた。


「とても疲れたのでしょう?たくさん無理をしたのですから、急に動いては目が回ってしまいますよ」


 そう言って、そっと宥めるように背中を撫でる手の優しさに、また衣織はぽかんとしてしまった。

 いつの間にか衣織は、女の人に抱かれていた。

 女性は膝を布団に乗り上げて、そっと、しかししっかりと衣織を腕の中で支え、幼子(おさなご)にやるように柔らかく撫でている。


 衣織が目を閉じていたのなんて、ほんとうに僅かな間なのに、どれだけ素早く動いたというのだろう。


 そういえば、急に点いた行灯は、この人から衣織を挟んで向こう側にあった。誰が点けたんだろう。


 不思議なことがぐるぐる回り、段々怖くなってくる。

 でも、体中を強張らせる衣織を見下ろした顔はどこまでも慈愛に満ちていて、不思議と不安はそれ以上に高まっては来なかった。


「もう、慌てなくてもよいのです。大丈夫ですからね」


 さらりと髪を撫でながら掛けられた声に目を見開いた。


『もう大丈夫』


 別の声が重なって聞こえた。


 途端に何の前触れもなく今夜のことが、あの闇が、恐怖が、混乱と焦りと痛みと血の臭いと握った手の温もりと幼くとも力強い声が、ひと息に蘇って頭をかき回した。


「あっ…!」


 衣織はようやく思い出した。

 人柱(ひとばしら)であること、そしてここが、連れられた先が、迎えに来た彼が示した先が、衣織自身が望んだ場所が、どこなのか。


「あの、ここ、白鳴山…?」


「左様ですよ」


 唐突な問いにも柔らかく微笑んで、そのひとは確かに頷いた。


 それで衣織はすんなりと納得した。

 不思議なことがあっても、それは異常なんかじゃない。

 なにせ、お山さまは雨さえ晴らす超常の力を持つ神なのだから、勝手に明かりが点くぐらいの不思議があったっておかしくない。


 もうひとつの不思議にまさかと思って、衣織はそうっと小首を傾げて女の人を見上げた。


「あなたが…お山さま、ですか…?」


 三度(みたび)の問い。尋ねる度に否定され、裏切られてきた恐る恐るの問いかけは、やはり今回も肯定されることはなかった。

 そのひとは笑みを深めて首を振ったのだ。


「いいえ、わたくしは彼のお方にお仕えする者ですの。ゆみとお呼びくださいな」


 そう言われて、衣織は少し残念な気持ちになる。

 こんなにきれいで優しい人がお山さまだったら素敵だったのにと、なんとなく思っていたから。


「ゆみ、さま」


 代わりに手に入れた名前を口の中で転がすと、ゆみは嬉しそうにまたふふふと笑った。

 そう、この人は嬉しいようなのだと、やっと衣織にも解った。


 さっき笑ったのも、衣織がおかしかったのじゃなく、嬉しくて思わず漏れたのかもしれない。…そうだと良い。


――――何か良いことがあったのかな。


 しかしそれを問えるほどの気安い関係ではない。

 衣織が人柱な以上、間違いだと言って放り出されることはなさそうだけれど、とりもなおさず衣織は居住まいを正そうとして…ゆみに変わらず抱かれたままだったので果たせなかった。


 なんだかとても上機嫌な彼女はしかし、何がきっかけで気分を悪くするか解らないので、仕方なくそのままでいることにした。――衣織も久しぶりに感じる温もりから離れたくなかったというのもある。


「あの、ゆみさま。わたしは――」

「だめですよ」


 名乗られたら名乗り返さなくちゃと思ったのに、察してそっと口を塞ぐ手が遮った。


「ここでは、みだりに名を言ってはなりませんの。それでももし名乗るのならば…そう、お山さまにだけお名乗りなさい。名前はあの子も尋ねなかったでしょう?」


 あの子。


 その言葉の意味するところへは、響きを咀嚼する間に理解が追い付いた。


 さあっと血の気が引く。


「あの子っ!あの子は無事なんですか!?」


 前のめりになった衣織にゆみが目を丸くするのにも構わず、衣織は必死になってすがりついた。


「あんな大きいばけものに向かって行ったの!やっつけてしまったけど、でも怪我してるかもしれないの!すごい血の臭いがして、手がふ、震えてて、でも大丈夫って言うの!!きっとあの子も怖かったはずなのに時間を稼ぐって残って、けど危ないときには走って来て!大丈夫って!!でもあたしを心配させないようにってきっと無理してたの…!!」


 必死に並べ立てる言葉は支離滅裂で、保っていた丁寧な口調も精一杯の大人しやかな態度もどこかへ行った。しかし衣織は気付かず、懸命さだけは誰にも負けない勢いで訴えた。


 自分の身も顧みず、危ないところにも飛び込んで助けてくれた少年を想う。


 実のところ、暗闇の中での攻防は、衣織にはほとんど見えなかった。

 衣織を拐おうとした大男が追ってきて、それを少年が迎え撃ったらしいことと、それから追って来なかったこと。

 別の何かに追いかけられて、月明かりの射す川辺で追い付かれかけたときには目をぎゅっと瞑ってしまったので、彼がどうしたのかは全く見てない。


 ただ音と、叫び声と、そして濃厚な血の臭いが漂ってきていて、肝を潰した。

 あれが全部ばけものからしたものなら良いが、少年も余裕がないように見えたし、ひょっとしたらと考えると泣きたくなる。


 優しくしてくれた。思い遣ってくれた。大丈夫、とばかり言って、辛かったり怖かったり、そういうことは全部飲み込んで衣織を安心させようとしてくれた。

 女の子だから、弱いから、守らなくちゃいけないんだ。なんて聞いたことのない優しい理由を並べて、本当に衣織を守りきった彼。


 あのとき衣織は必死で、現状についていくのに精一杯で、彼のことが見えていなかった。

 今になって思い返して初めてわかる、かけてもらった気遣いのなんと多いことか。


「あの子、あの子は…!!」


 こうして衣織は助かったけれども、彼は無事なのか。

 どういうことか、川にたどり着いた直後から記憶が曖昧で、少年がどういう様子だったのかを思い出すことができない。


 ただ、思いだそうとすると、とても怖かったような印象だけが浮かんでくる。


――――まさか。


 つぎはぎの想像は、組み立てることも出来ない癖に悪い像ばかりを作る。

 不安が這い昇る。背筋が凍る。彼が死ぬ夢がちらついて離れない。


 悪いことばかり知らせていく予知夢。

 外れたのは、今までで神が雨を止ませた一度きり。


 神の御業(みわざ)を以てすれば夢を避けられたのだとしても、神ほどの力があるわけではない少年と衣織が頑張ったところで心許ない。

 衣織が知らない間にあの光景が現実になったとしても、何らおかしくはなかった。


「あたし、あたし…!」


 震える口が強張って言葉が続かない。

 訳がわからなくなるぐらいの焦りに襲われて、色んなものが溢れかえって破裂しそう。


 守ってくれたお礼も言っていない。そう言えば名前さえ交わしていない。

 それどころか、暗すぎて顔もぼんやりとしか見えなかった。

 透き通った幼さのある声と、引いてくれた手の温もりばかりが鮮明だ。


 あれっきり、あの子が終わってしまったなんて嫌だ。

 自分が死ぬかもしれない窮地にも怯まなかった衣織の小さな、唯一の味方。彼が失われてしまったなんて、嫌だ。


 今さら遅いけれど、貰うばかりで何も返せていないのに気が付いたのに。

 言葉でも態度でも、物でも行為でもなんでも構わないから何かしたい。

 それには彼が生きていることが必要なのだった。


「落ち着きなさい。大丈夫ですから」


 宥める優しい声に目を見開く。


「大丈夫って、あ、あの子、無事なんですか!?」


「ええ、大きな怪我もなかったようですよ」


 今まで衣織を支配していた勢いが嘘のように消えて、すとんと肩から力が抜けた。


「ほん、とうに…?」


「ええ、勿論ですよ。あの子は無事です。流石に疲れて休んでいますけれども」


 耳から入ってそのまま抜けて行こうとした返事を慌てて捕まえて、一生懸命に噛み砕く。


――――無事、無事、大丈夫、生き、てる…!!


 癖で胸元を掴んだけれど、お守り代わりにしていた薬の袋はもうない。

 あれは、悪夢がこうと決めつけた未来に抗うために投げてしまった。


「無事、なのね。生きてる、のね」


 衣織は初めて夢を受け入れるのではなく逆らって、そして勝ったのだ。

 夢は完全に外れて、ただの悪夢になって過ぎ去った。


「よかった」


 全身の力が抜けるぐらい安心して、衣織はそう呟いた。


 何だか清々(すがすが)しい気分だった。

 悪い方へ悪い方へと傾けようとする何か大きな力に、一矢報いてざまあみろと舌を出してやったみたいな、そんな爽快さがあった。


――――もう、思い残すことはないわ。


 強いて言えばお礼がしたかったのだけれど、疲れて休んでいるのならそっとしておくのが正解だろう。


「そういえば、お山さまの弟子だって…」


 ふと思い出してそのつもりなく溢した呟きを拾って、ゆみが頷く。


「ええ、左様です。あの子はとても優秀な弟子ですの。主も兄弟子方も一等目をかけていらっしゃいます」


 我がことのように誇らしげに微笑う女からは少年への好意が溢れている。


 師にも優秀だと期待されていて、周りにもこんなに想われているのなら、きっと彼は大事にされている。

 なら、衣織が出来るお礼なんか、ふさわしいものはひとつも思い浮かばなかった。

 こんなに立派な場所に住んでいるのなら、きっと調度も衣も、食べるものや持ち物のなにもかもが上等なんだろうし、衣織が用意できるものなんてみすぼらしく思えるだろう。

 貰ったらきっと困ってしまう。


 だから、何も渡せなくて良かったのだ。


 衣織は真の意味で心残りが全て消えたのを悟ってそっと目を伏せた。


 そしてもう一度目を上げたときには、穏やかな微笑みを浮かべていた。

 心には人柱に決まってからずっと慣れ親しんだ凪が戻ってきて、恐ろしさも不安も消えていた。


「もう、平気です。慌ててしまってすみませんでした」


 抱かれていた腕からそっと離れて、衣織はそう言って頭を下げた。

 自分なりに礼儀正しくできたことで、少し気分が軽くなった。


「いいえ、そんなことは気にしなくてよいのですよ…本当に、大丈夫ですか?」


「はい…?」


 今までの上機嫌が一転して心配そうになったゆみに、衣織はふわふわと小首を傾げた。


 何もわからない子どものような無垢な仕草と表情は、小さな子どもだからこそ自然なもの。


 今まで取り乱していた衣織の豹変とも言える変化は、危ういものを感じさせてゆみの不安を掻き立てたが、当の衣織の心は鈍くなっていて、そんな細かな機微には気付かなかった。


「大丈夫です、ゆみさま。それよりわたしは何をしたら良いんですか?山に行くことしか知らなくて、これからどうするのか分からないの」


 ゆみはこのままずっと座っている訳にはいかないことも知っていたので、衣織の様子に心を残しながらも次に取り掛かることにした。


「…ええ、では先ずは軽く湯編みを。身形(みなり)と化粧を直して、それからお目通りに参りましょう」


 身形と聞いて、衣織は精一杯の、一張羅と言えるものを着ているのにと困惑しかけたけれど、すぐに自分か薄い(ひとえ)を着ていることに気付いた。


「怪我の手当てをしましたの。衣装は汚れていましたので洗っておきました。湯編みを終えてから出してきましょうね」


 はいと返事をして、衣織は立ち上がるゆみに続く。


――――衣を洗った、なんて、今夜洗ったのにちゃんと乾いているのかしら。


 ふとそう思ったけれど、そんなことはここでは些細なことだと思い直した。

 ひとりでに灯りが点くのが当たり前なのなら、上等の着物を洗う面倒な手順もあっという間に終わり、洗い上がった洗濯物もすぐに乾いたって可笑しくない。


 この期に及んでそんなこと、気になるものではなかった。


 いよいよだと思っても心は静かなままだ。

 最後まで穏やかで居られるだろう。


 力を込めた足首に違和感があって、何気なく手を遣れば、指先に織り目の荒い布が触れた。

 足首は、厚い布を巻いて固められているようである。

 少々動かしても…いや、足首を動かないようにしてある。


――――痛くない。


「あ…」


 痛くない、と思った途端、この足を捻って痛めたことを思い出した。


 同時に、あの場で出来る限りの手当てをして、歩くよう促した申し訳なさそうな声も。


 ぎゅっと縛ってくれた足は少しきつくて、歩く度に鈍くずきずきしたけど、衣織を気遣ってくれる心が嬉しくて、痛みは少しも辛くはなかったことも。


 ざわり、と心に波風が立つのを感じて、衣織は強く首を振った。


「?どうしました」


「…いいえ、何でもありません」


 不思議そうというより心配そうに覗き込んだ目線に愛想笑いして、案内されるままに長い廊下を歩いていく。


 やがて廊下は外に面して、そこに広がる月明かりに照らされた山々に薄く靄がかかって幽玄の趣だったが、俯いた衣織の目には入らない。


 足を動かすことだけを続けながら、衣織は懸命に忘れたふりをした。

 衣織を案じて、命を守ってくれた彼のことと、これからそれを投げ出そうとしている自分のことを。


 かちゃ、かちゃ、かちゃ。


 そのとき、静かな硬い音が等間隔に続いているのに気がついて、ふと目を上げた。


「…!!」


 思わず目を見開いて立ち止まると、二歩進んだ後にゆみも足を止めて振り返った。


「どうしました?」


「――…いいえ、何でもありません」


「そうですか?何かあれば直ぐにお言いなさいね」


 慈悲そのもののように微笑んで、鳥の足を持った(・・・・・・・)美女が歩みを再開した。


 かちゃかちゃと歩く度に床に爪が当たって、軽い音が廊下に転がる。


 その後に続きながら、衣織は怖さよりも不思議と腑に落ちたような心地でいた。


 ここは人が昇ることを許されない神の庭。

 神に仕えるのもまた人ではないのだ。


 案内された湯殿(ゆどの)で、温かい湯が満ちた大きな湯船を見たときも、今まで盥に湯を張って浴びるぐらいが精々だった衣織には、感動を噛み締める余裕はなかった。


――――もうすぐあたしは終わるというのに、このひとはどうしてこんなに穏やかなんだろう。


 甲斐甲斐しく入浴の手伝いをしてくれるゆみからは、気遣いと優しさばかりが感じられる。

 最後の慈悲のつもりなのだろうか。それか、


――――お山さまのために整えているだけで、あたしのためなんかじゃないんだ…!


 だから、もうすぐ終わりが来る衣織を惜しんだり憐れんだりしない。

 可哀想に思ったり、本当に助けようとはしてくれない。


 だって、そもそも衣織自身を大事に思っている訳ではないのだから。


 そう思ったら、ずきりと胸の底が痛んだ。


――――ああ。


 衣織は寒々しい気持ちで目を閉じた。


 この地へ衣織を送るために守ってくれた彼も、衣織が終わることを望んでいたのだ。


 本当に衣織の命を助けようと思うなら、終わりが待つ場所へなんか連れてくる訳がない。


 あれほど心強く思っていたあの存在が、温かい手のひらが、心を温めてくれた気遣いが、薄っぺらなものに変わっていく。


「できました。ふふ、とてもきれいですよ」


「…ありがとう」


 風呂上がりに案内された先で、再び白い装束に袖を通し、ゆみに着付けと化粧を施されたときには、衣織の心には静けさが戻っていた。


――――やっぱり、わたしは、独りなんだわ。最初から、変わらないんだ。


 そう思うことには奇妙な安心感があった。


 だって、何も得ていないなら、何かを失うなんてことはあり得ないのだから。


 胸の痛みはもう感じない。

 裏切られたなんて思わない。


 だって彼は最初から、衣織を貰い受ける側の存在で、衣織を無事に連れ帰る…生け贄を神まで届ける役目を全うしただけなのだから。

 勘違いしたのは衣織の方だったのだ。


 いや、その勘違いさえも幻。


「さあ、着きましたよ」


 連れてこられた先、襖の前で衣織は目を伏せた。


 心は凪いで、思うことは何もない。


「ゆみでございます。連れて参りました」


 だって衣織は最初から、終わりたいと思っていたのだから、助けの手を嬉しく思うなんて、そもそもなかったのだ。


「――入れ」


 若い男の声を合図に、ひとりでに襖が開いた。


「あ…」


 十畳ほどのその部屋には、夜が満ちていた。


「さあ」


 背中をそっと押す手に夢見心地で従って、衣織は無意識に足音を潜めながら一歩、もう一歩と美しい終わりへと足を運んだ。


 部屋の向こう側、正面の戸は開け放たれて、庭がよく見える。


 かたん、と小さな音を立て、背後で襖が閉じる。

 衣織は振り返らなかった。ただ真っ直ぐ見つめ続けた。


 圧倒されるような花弁の乱舞だった。


 山の端にかかった満月の輝きの中で、柔らかく舞い散っていく、千と万とを掛け合わせても足りないような無限。途方もなく美しい夢幻。――神の庭。


 そんな、月光が満ちた庭を前に、ひとつの影が座っていた。

 真っ黒な影。

 女性ではない。多分男。黒い装束の後ろ姿。


 とくん、と鼓動が跳ねる。


――――なんだろうこの、大きな(・・・)存在は。


 目の前にある姿は小さい。いや、衣織よりはもちろん大きいけれど、人とほとんど変わらない。

 なのに、衣織は目の前の影が、この山ほどに大きな、大いなるものであることを確信して小さく震えた。


 庭を眺めていた男がすっと身を捻り、振り向く。


「よく来た」


 白い顔の中、静けさを(たた)えた双眸と出会う。


 どこまでも深い、闇と同じ色の瞳と。


「ぁ」


 見つめた黒は一瞬で塗り替えられる。




 (ごう)と熱気が渦を巻いた。

 衣織は赤い世界に囚われる。


 どこもかしこも燃えている。

 地を炎の赤い舌が余さず舐め尽くし、木は真っ赤な花を咲かせる火柱となり、天さえ焦がす壁を為し、火の粉と煙と、吸った喉が焦げるどころか溶ける熱気が満ちた。


『顕現したか。――残り火』


 黒衣の男が言った。

 片膝を地に落とし、真っ赤に染まった片腕をだらりと下げてなお、白刃を目前の存在へ向ける。

 強い眼差しが敵を射抜く。


『…』


 前に立つ者が手を上げた。

 炎に翻る広い袖。

 上がった腕に瞬時に膨大な高温が巻き付いて、ざんばらの白い髪(・・・)が煽られて全て背後へ流れ、無感動な目が露になった。


『師匠おおおおお!!!』


 第三者の絶叫、何かが黒衣の傍らで跳ねるように動いて、男は白刃を振るう動作に入る。そして――


 振り下ろされた腕。解き放たれた獄炎が、世界を赤い灼熱に染め上げた。




「どうした」


 間近からの声に、衣織は我に返って息を詰めた。

 それから、「ひっ」か「あっ」か、もしかしたら「ぎゃっ」か、もしくはそれらを混ぜて割ったような声を漏らして動きを完全に止めた。


「疲れていると聞いていたが、なるほど」


 納得いったというように、男が軽く頷いて、一度瞬きをした。


 まつ毛が意外と長い。

 肌は白くて、男の人なのは確かなのに、荒れも沁みも吹き出物や、できものを潰した跡のでこぼこもなくて、後ろで纏めて束ねた髪も、羨ましくなるぐらい艶やかだ――つぶさにそれらが見えてしまうぐらいの近さに彼はいた。


 というか、衣織は背に回った片腕に支えられて立っていた。


「な、は、あっ…!?」


「立っていてふらつくなら、座ると良い」


 魚みたいに口をぱくぱくさせている衣織を全く気にせず、彼は無造作に姿勢を低くした。


 引っ張られた訳でもないのに、衣織はつられてへなへなと座り込んでしまう。


 顔は真っ赤で、鼓動は壊れそうなほどに早鐘を打っていて、なのに反対に頭の中は真っ白で、全く思考は動かなかった。


 衣織は普通の村娘で、まだ十二で、しかし男女の関係に興味が湧く年頃で、しかもここ半年は女ばかりが出入りする環境に置かれてそれこそ大事にされてきた少女である。


 強引に襲いかかられた一回を覗けば、今まで若い男とこんなに近くに寄る、ましてや触れられる、しかも手なんかじゃなく背中だなんてことは経験したことがない領域だった。


 つい今夜、助けるために手を繋いだり抱えたりした者もいたが、あれは何か考える余裕もなかったし、第一衣織は同年代を子どもだと思っているので、それはそれ、という認識だった。


 つまり、慣れない大人の男とのほぼ初の接触に、うぶな衣織は茹で上がってしまったのである。


「あな、あなた、あなたがっ…」


「うん?」


 手を放されたことで少し喋れるようになった衣織は、間近に胡座をかいた男からじりじり身を引きつつやっと言った。


「あなたが、お山さま、ですね…?」


 確信ありながらもそれなりに緊張した眼差しを前に、男は最初、あぁ、と返事とも思わず出ただけとも取れる音を出した。


「…(ふもと)の者は、そう呼ぶらしいな」


 じっと見つめる目に、仕方なさそうに吐き出されたそれは、紛れもなく肯定の返事だった。


「おやま、さま…」


 ついに会った神を前にして、様々なことが怒涛のように心に浮かび上がっては去っていく。


 形ある奇跡。数ヵ月も目指した先。衣織の終端。


 溢れた想いは衣織の内側を隈なく掻き回し、くらりと上半身が揺れた。


余程(よほど)だな」


 気がつけば、神の片腕に支えられていた。

 すぐそこの顔が少しだけ動いて、憐れむような愁いを帯びた。

 鼓動はいよいよ高まり、頭が熱くなってぐらぐらする。


「そんなに辛かったか」


「っあ…?」


 衣織を支えていた指先が頬を掠めて、濡れた感覚にやっと自分が泣いていることを知る。

 どうして涙が出ているのか、そんなことは分からない。

 ただ手足の先が冷えていく。


「よく辛抱した。お前は大役を果たした」


 細かく震える衣織の肩に、手が置かれ、あやすように二度軽く叩いた。


 じんわりとした温もりが肩を温めて、その温かさにやっと自分が冷えきっていることを知る。

 風呂にも入れてもらったのに、どうしてなのかは分からない。

 ただ神を見上げたまま、震えが止まらない。


 温かい手が、不意にすっと離れた。


「え…」


 同時に、何か軽くなった気がした。

 いや、錯覚というには身体中が確かに軽くなった。


「確かに受け取った(・・・・・)


 知らず知らずの内に降り積もった重りを、そのひと動作で全て取り除けてくれたのだと、誰に教えられずとも悟った。


 それが、神に捧げられるべきものだったということも。

 衣織がちゃんと、渡せたのだということも。


「よくやった。お前の役目は終わりだ。…安心して、休むが良い」


 そっと頭に手が乗って、衣織は耐え難い眠気に襲われる。


 口を開けた眠りは穏やかで深いことが分かっていた。

 為す術なく呑み込まれていきながら、ふと"夢"を思い出した。



 炎にまかれた黒衣の男は、間違いなくこの神だったことを。




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