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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
95/131

八十二 おひらき 下

戦闘、出血、死、嘔吐の表現があります。

苦手な方はご注意ください。



「…はっ…はっ……」


 目を開けたまま寝てたのかも知れない。

 自分の息が荒いことに驚いたとき、まさしく眠りから覚めたような心地だったから。


 我に返った後も、きっと寝ぼけていたのだ。

 遅まきながら、出来る限り息を殺して飲み込んで、そろそろとおっかなびっくりにそれ(・・)に近寄って、倒れて動かない巨体を前に最初に考えたのが『なんで倒れてるんだろう』だったから。


「……?」

 不思議だ。起き上がらない。動かない。

 小首を傾げて、見下ろした目を何とはなしに自分の拳に移した。


 震えてる。


 右手を目の前に掲げてまじまじと眺めた。

 震えは止まらない。どうしてかな、とぼんやり考えて、原因を求めて直前までのことを思い返す。


 必死に動き回った感覚が蘇り、しかし直前のこととは思えないほど、記憶の鮮やかさが、現実感が薄れている気がして、反対側に首を傾げ直した。

 

 他人事のように思い返す。

 軽々と走り、跳び、切り裂き叫び駆け上がって、そして、突いた。

 思考は澄み、体は軽く、眼に捉えた像は明瞭で、師の教えが正しい所作を的確に示し、体は流れるように動いて完璧にこなした。


 戦う感触はすんなりと身に馴染んでいた。

 当たり前のことだ。毎日やっている師匠との組み手とほぼ同じものだったから、殆どいつも通りに動けば良かったのだ。


 だけど、相手が倒れて動かないなんてことは、初めてだった。

 師匠から一本取ったことはあった。毎日何度も何度も投げられた。でも、どちらかが倒れて動かなくなるまでとかは絶対になくて、こんなことは"いつも通り"の中にはない。

 知らない。


――――ああ、でも。


 当たり前だとすんなり飲み込む。これは実戦なんだから、と。

 "いつも通り(・・・・・)"とは違うのは当たり前なのだ。

 だってオレは…


 ぞわっと背筋に寒気が這った。

 これ以上はダメだと、訳が分からないままに悟る。

 無理解の中に浮かんだ知。本能と呼べるものが今はむき出しになって思考を無理やり止めた。

 今はこの先に手を伸ばしているべきではないのだと叫び、警鐘を鳴らし、薄ぼんやりとした意識にさあ起きろと蹴りを入れる。


「…!」

 何か湧き出しそうになったのを押し込めて、足元に転がったものからふらっと一歩後退る。

 ぐちゃり、と足が泥濘を踏み、ぬるりとしたそれから逃れてもう一歩。


 その勢いで、背を向けた。まるで逃げるように。

 どっどっと響く鼓動が耳の中で暴れて、それに押されるように、呪縛から逃れた思考がゆっくりと回り出した。


 夜。冷えた空気。弱い風と、世界を包む影。ちらちらと、僅かに覗く上天は、銀砂を撒いたように輝く。


 ちりちりと焦げ臭い緊張感と、背筋を撫で上げる危機感を思い出し、そこに非日常な現実を感じ取った。


 戦いという空間から、林の夜へと舞い戻る。

 そこにオレが守ろうとしていた存在がちゃんといたことに少し安堵する。

 無我夢中の中で完全に忘れ去ってしまっていたから、その間に何か起こらないとも限らなかったのだと、今さら気付いた。


「行こう!」

 駆け寄って、(うずくま)った少女に手を延べた。危機感に追い立てられるように焦って、早く手を取ってくれることを願う。願う。


 だが、一向に温もりが重なることはなかった。

 少し待っても手を取らない少女は、片方の足首を掴んで(うつむ)いている。


「…あの、だめ……足が…」

 転んだときに挫いたのだろうと直ぐに思い至る。

 オレが無理に引っ張ったからだ。

 本当に悪いことをした。


「見せて」

 屈み込んで触れ…ようとして、小刀を握ったままだったとやっと気付いた。慌てて手を引っ込める。

 ということは、さっきは手を延べたつもりで小刀を握った拳を差し出していたのだ。いや、逆の手だから鞘だ。

 どちらにしろ、手を取ることが出来なかった訳だ。

 動揺し過ぎだ。


「くそっ、しっかりしろよ…!」

 自分に悪態を吐いた。

 ひとつ乗り越えたが、安全な場所に着くまで終わりではない。

 未だに天狗になれない我が身では、足りない実力を補おうとすれば全力を振り絞っても足りはしないと、思い上がりそうな思考に先制で渇を入れた。


 さっきのことを乗り越えられたのは、かなりの幸運と限界以上とも言える力を()ぎ込んで掛け合わせてなんとか結果を掴み取ったのだ。

 相手は妖怪、猿の群なのだから、気を抜いている暇はない。


 一度だけ強く首を振り、息を鋭く吐いて気を引き締める。

 ぼんやりした余韻が薄れて、代わりに羞恥と焦りと恐怖と申し訳なさがない交ぜに、鋭く尖って至近距離から叩き込まれる。

 至近距離…少女から。


「…ごめん…なさい」


 か細く震える声をあげた少女は怯えている。

 弱々しい声に、頭を殴り付けられたような衝撃を覚えて、今度こそ目が覚めた。


 オレが吐いた悪態を、この子は自分に向けられたと思っているのを、やっと悟った。

 抗う力も、オレ以外に頼りもない女の子をこんなに怯えさせてしまった。

 自分のことは放り出し、代わりに大きな罪悪感を抱えて慌てて巻き返しを図る。


「違う、違うよ。今のは自分に言ったんだ。女の子に怪我させるなんて…父上に怒られちゃうからさ」


 震えそうになる声を死ぬ気で落ち着けて、軽い調子を作って話す。我ながら堂に入った軽やかさ、場違いに思える明るさが、どろりと濃い夜闇に軽薄に浮いた。

 それでも目の前の怯えが少し和らいだ。


「…お、怒られるの…?」

「うん」

 弱々しい囁きに、実感を込めて即答。

 さっき師匠に怒られると言おうとしたけど、師匠が怒るところなんか想像が付かなかったので父上にした。

 そしたら、想像上の父上は生き生きと烈火の如く怒り出し、拳骨をくれるまで非常に滑らかな流れが再現されて思わず顔をしかめた。あれは痛いのだ。


「女の子は大事にしないといけないんだ。それに自分より弱い者は守ってあげなきゃいけない。だからオレより弱くて女の子な君は余計に守らないといけないんだよ」


 教わってきたことを掛け合わせて作ったオレ理論を展開する。

「そう…なの?」

「そうだよ」


 堂々と言い切るオレに、呆気にとられたように瞬きする目が見つめるのを感じながら、刃を鞘へ納め、力が篭って石になってしまったのかと思うほど固まってしまった指の関節をぎしぎし言わせながら無理にも柄から引き剥がす。


 動きがぎくしゃくとぎこちない手を伸ばして確かめれば、細い足首は熱をもって腫れていた。

 懐から手拭いを出して、教わった通りにぎゅっと縛ってみたけれど、これでは走るどころか歩くのも痛むだろう。


「ごめんな、休ませてやりたいけど、もう少しだから」


 今度こそ空のまま差し伸べた手に、無言の頷きと共に細かく震える手が預けられた。

 支え立たせてやりながら、少しは落ち着いてくれたことにほっとする。


 もう、迂闊な失言はしないと誓った。

 この子の正気は、今にも切れそうに細い糸の上で震えている。

 少しのことで限界を越えてしまうだろう。

 この子には頼りがオレしかない。その意味の重さが背にのし掛かるかのようだった。

 

 傷む足の側に立って、杖の代わりに肩を掴ませながら、川の方へ促す。


 無言で歩き出す直前、少女が身を捻って振り返った。


「あんなの、見るもんじゃない」


 そう言いながら、そういえば普通の人には見通せる暗さじゃなかったことを思い出した。

 夜の(とばり)は相変わらずに濃く視界を遮り、さっきまでの騒がしさが嘘のように静まり返っている。


 やはり見えなかったのか、素直に前に向き直る気配がした。

 だがややあって、何度か迷うような素振りを挟んだ後に、密やかな声がした。


「ねえ…死んだの…?あれ…」


 そう訊かれた途端にびくっと震えたのは、少女自身ががたがた震えだしたのに紛れて伝わらなかっただろう。


「…ほら、あっちに川があるんだ。石が多いから足元に気をつけて。足音を数えたら少しは気が紛れる」


 話題を打ち切って、出来るだけ静かに言い聞かせる。返ってくる沈黙が了承。

 震えている少女に向けて言ったはずなのに、張り詰めた静寂の中、オレも同じく必死になって耳を澄ませた。


『そうだよ、だからもう大丈夫だよ』とでも言ってあげるべきだったのかな、と後から思う。

 けれどそれはあまり正しくない気がした。

 今彼女が震えているのは、猿が怖いからだとは思えなかったから。


 暗闇に目が利かない少女と唯一共有出来る感覚を、しばらく黙って共に追う。


 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。

 勝手に早足になりそうな足音を我慢して数え、目を皿のようにして地形に目を凝らし、どれぐらいで川に出られるのかを考える。

 堂々と自信ありげに振る舞っているが、頭の中身がぐちゃぐちゃで、考えはいつまでも纏まらない。


 まだ震えている女の子を気遣ってやらねばならないのに、その余裕はなかった。

 守ってあげなきゃいけないんだと言ったけど、守ることの難しさは想像以上で、上辺だけの態度さえも取り繕えない自分が情けない。


「っ!」


 思わず息を詰める。

 しまったと歯噛みするが、その緊張は過敏になっている同行者にも当たり前に伝わってしまう。

 どうしたの、と消えそうな小声で問われて、静かにと返しながら、足を止めないままもう一度祈る気持ちで気配を探った。


 間違いない。左後方に、ふたつの気配が動いている。

 殺気立って、焦って、急いで…。


 覚えがある感情。覚えがある気配。ぞわりと立ち上がった嫌な予感を、危機感と言うべき本能が肯定する。


 新手(あらて)だ。

 奥歯を噛み締めた。運が悪い。いや、今まであんな騒がしかったのに他の猿が来なかったことこそ運が良かった。


 背後で抑えた驚きの声が聞こえた。

 まだ温かい、近くに居る、臭いがする、あっちだ!


 微かな声が、神経を張り詰めているゆえに殊更(ことさら)大きく聞こえ、少女が喉の奥で「ひっ」と悲鳴を上げた。


「大丈夫」


 暗くて助かった。真っ赤な嘘でも顔色を見られないならばれないでいられる。


――――二対一。足を挫いた女の子を守りながら。出来るか?オレは、切り抜けられるのか?


 すごい勢いで近づいてくるふたつの気配を感じて、オレは少女に小さく謝りながら足を速めた。


 さっきの猿が曲がりなりにもどうにか出来たのは、最初の奇襲がこれ以上なく上手く行ったからだと痛感する。

 それほど五体満足な猿は軽やかに速かった。

 それが二匹。


「ひぅっ…」

 すぐ傍から、喉の奥で圧し殺したようなしゃくり上げが聞こえた。

 弱々しく、けれど懸命に様々なものに耐えて歯を食いしばる彼女は、これまでどれだけの恐怖に(さら)されてきたのか。


 今現在も恐怖と絶望に懸命に抗っている。

 そして、諦めることを許さず、立ち止まることを許さず、痛む足を引き摺ってでも歩けと強要しているのは…オレなのだ。


――――どうして先に諦められる。できるかじゃない。やる…!


 やることは変わらない。決めたはずだ。

 相手は変わらず強大かもしれないが、そんなのはさっきも同じだ。負けるつもりで挑む気はない。現実にどれほどの力の差があるかはわからないが、少なくとも気持ちで負けていては万にひとつの勝機も掴めはしない。


 一度納めた護り刀を片手で抜き、襲撃に備える。

 足は止めない。もう川は近いのだ。少しでも逃げ込める可能性を高めておきたい。


「もし追い付かれたらオレが必ず足留めするから、這ってでも川に行って」

 鞘を帯に挟み込みながら、川までの距離を目と耳で測る。いけるかもしれない。


「もし、って…」


 掠れた声には困惑が宿っている。このままだと追い付かれるのは確定しているのだ。もしももなにもない。

 だけどオレは無理やり笑みを浮かべて「ちょっと我慢して」と言うや否や、空いた片手で少女を抱え上げて駆け出した。

 火事場の馬鹿力とは良く言ったもの。やれば出来た。…けっこう重い。


「ひゃっ!?」

 肩にしがみつかれる。背後の気配を探るのと、出来るだけ速く走るのと、ほぼ体格が同じ人を落とさないように抱えるのと、前方の地面に目を凝らすのに必死で反応は出来ない。


 懸命に走るが、どんどん背後に気配が迫ってくるのを感じる。

 繁茂する枝葉の合間を乱暴に抜ける音が耳に届く。走るこちらも同様の騒がしさだから無理もないが、音を追う足取りには臭いを追うような慎重さはなく、まっすぐ迫ってくるのが分かる。

 やっぱり速い!


 足元にのさばった太い根を飛び越え、歩幅が大きくなったそのとき。


 敵意が爆発した。


「くっ」

「ああっ」


 辛うじて、風を切って飛んできた何かを着地と同時に横っ飛びに避けた。

 傾いた体勢の、肩口を掠めて鋭い何かが風を裂いて飛んだ。

 避けるのには成功したが、体の均衡を崩し、腕の中のものを放り出すように下ろした。怪我が増えてなければ良いけど、そこまで気遣ってやれない。


「行け!」

 

 鋭く命じ、少女を背に庇って身構える。

 状況を把握しようと滑らせた目の端に、木に突き刺さった矢羽を見つけた。


 弓を持ってるなんて、投石なんかよりよっぽど厄介だ。速く、鋭く、飛ぶ距離も長い。

 それだけでなく、この遮蔽物の文字通り林立した場で、隙間を縫って目標に矢を当てにくるなど余程熟達していなければ不可能だ。

 手練れの気配。驚異の出現に冷や汗が米神を伝う。


 がさがさと枝葉を掻き分けて少女が走り出すのを背後に感じる。

 彼女の進み方が予想より速いのが唯一救いだ。

 川は近いはずだ。彼女が辿り着くまで持ち堪えるのは不可能なんかじゃ断じてない。そう自分に言い聞かせ、歯を食いしばって前を睨む。


 高まる敵意、突き刺さる殺気。

 生け捕りにしようとしていた獲物(いけにえ)が離れ、巻き添えにすることを考えなくて良くなったからか、遠慮会釈ない殺意が押し寄せる。


 ただオレは努めて無心に向けられたものを受け取り選り分けた。

 射手はやや離れた右前方。もう片方は小刻みに方向を変えながら駆けて来ていて、今にも追い付くだろうと結論する。


 ふたつ揃った警戒。怒りと憎しみ、恐怖は控えめで、充分冷静と言える。

 我を忘れていたさっきの猿とは違う。


――――怖いのは射手の方か。


 離れていては手が届かない。

 不意に射掛けられる矢は意思がなく、接近戦のように先読みが出来ず、射られた瞬間を察知して対処するしかないのはさっきの一射で知っていた。


 二射目が来る前に斬り込もうと走り出そうとしたとき、気配のもう片方が素早く近付いてきた。直ぐにそちらに狙いを切り替えて構えた。

 茂みを割って、小刀を抜いた猿が飛びかかってくる。


 迎撃しようとしたとき、弓弦が鳴った。

 矢が来る!

 躱そうと身を捻る――


「そぉれい!!」


 どこか間抜けな掛け声と共に、猿が来たのと逆側の茂みから何かが飛び出し、オレと猿の間に割り込んだ。そしてくるりとひとつ宙返り。


 かぃん!と軽い音と火花が散って、猿の刀が弾かれた。

 それだけでは勢いが止まらず、その何かは飛び出した勢いのまま、猿の鳩尾(みぞおち)のど真ん中にぶち当たった。


「え゛ごぶぅっ」

 ごすっと痛々しい音と吐きそうな声を上げて…猿は仰向けにぶっ倒れた。


「……………………え?」


 身構えたまま呆然と呟く。

 まだ猿の腹に乗っているそれは…石だった。


 目を凝らしてみるけれど、猿の腹の上に、こここそ自分の居場所であるかのごとくどっしり鎮座している、ひと抱えもある黒っぽい塊は、石以外の何にも見えなかった。


 ぽかんと口を開けているオレの目の前で、何かが弾けるような音がした、次の瞬間。


「こりゃ!さんたろさん!!ひとりで走ってっちゃダメでしょ!!」


 伸びた猿の腹の上で仁王立ちになった垂れ目のタヌキに怒られた。


「…ごんたろさん…?」

「そうですよ!全くもう、さんたろさんはやんちゃさんなんだから!!いつもお利口さんなのにこんなときに限って。大体さんたろさんは…」


 はぁすみませんとかしか言葉が出てこなかった。

 だって権太郎(ごんたろう)さんが来てることに全く気が付かなかったし、いとも鮮やかに猿を()してしまったことにも滅茶苦茶びっくりしていたのだ。

 驚き過ぎて却って無表情になってしまうぐらいだ。


――――やっぱり白鳴山の方は全員戦う手を持ってるんだな。そして今気付いたんだけど、オレは向いた敵意とかを特別感じ取り易く出来てて、他はそうでもないのかも知れない。だから敵意満々の猿を目の前にしてて、ごんたろさんの気配は見落とした、と。…ってそうじゃなくて!!


 始まりそうになっている長いであろうお説教を、真面目な顔で聞いているふりをしつつ実は別のことを考える技で受け流しかけたが、そんな場合じゃないことを思い出した。


「ごんたろさん!お説教は後です!射手(いて)が…!?」


 慌てて向こうに目を向ける。射手の気配があった方向。

 さっき弓弦の弾ける音がして、矢が飛んで…来なかったよな?


「え?」

「大丈夫ですよぅ」


 目を見開いたオレに、いつも通りのんびりとした声がかかる。

 見た先、射手が居たはずの場所はちらちらと揺れる青い光に照らされて、闇に慣れた目には眩しいほどだった。

 その光の中で、影が出鱈目な踊りを披露している。


「あっちは釿次郎(ぎんじろ)さんが行きましたからね」


 くぐもった唸り声に、ぼぼぼと燃える火声が混じり合う。

 影は猿だった。

 人と同じぐらいか少し大柄なぐらいの、赤ら顔の猿が、あらぬ方向を見回しながら、片手に弓を握ったままで両手を振り回し、足をばたつかせて暴れている。

 目を剥き、歯を食いしばりながらも口の端から泡を溢す悪鬼のごとき恐ろしい形相で。


 猿の周りを囲むようにふわふわと、ゆらゆらと、いくつも揺れる青白い火の玉。弱まり、さらに強まり、隣の火と合わさり、繋がり、もっともっと大きく、強く燃え上がる。

 火を出してはぽいぽいと追加していく小さな背中が逆光で黒々と浮かび上がっていた。


「あ、どっこらせーいっと」

 必死の形相の猿を他所に、聞き慣れた能天気な声の力が抜ける掛け声と共に、最後の狐火を巨大に育った篝火(かがりび)に放り込んだ。


「やあさんたろさん。勝手しちゃあだめじゃあないですかぁ」

「――ぎんじろさん…」


 振り返ったつり目のキツネの声は、いつも隣同士で交わす程度の大きさだったけど、離れているのにはっきりと聞き取れた。

 その何分の一か分からないほどの乾いた囁きと化した返事も、その大きな耳はきちんと拾ったらしい。


 ぴくぴくと耳を動かしながら前足の爪で頬の辺りをかりかりと平和に掻いて、ぎんじろさんはやれやれとどこか楽しそうにため息をひとつ。


「その様子だと、ちゃんと自分がしたこと分かってるみたいだから、お話は後ですな」

「ええ、そうですねぇ。ここは(せわ)しいですから」


 普通に話に加わったごんたろさんが、呆然としているオレに向かって手を振って注意を惹くと、青白い炎の方を改めて指差した。


「さんたろさん。わたしらも出来るだけ片付けながら来ましたけどねぇ、まだこんな感じなので」

「?こんなって……っ!」


 聞き返そうとした瞬間、目にしているものに理解が追い付いて息を飲む。


 炎の中で踊る影は…恐ろしいことにみっつもあった。

 ひとつはさっきの射手。しかしあとの二頭は覚えがない。つまり、オレが気づかない間に合流した新手。


「他にも追っ手が!?」


 ふたりは早い理解を喜ぶように笑った。


「やり始めたんなら、最後までやりきってきなさい」


 ふたつの声が綺麗に重なる。

 優しい声音(こわね)。温かい視線。背後にあるのは――地獄画図。


――――いつも通り(・・・・・)だ。


 唐突な悟りに、動揺の一切が鎮まった。


 そう、いつも通りなのだ。

 山に居る間だって、彼らは外から来る敵をこうやって排除していた。今までののんびりとした日常もひとつめくれば地獄画図があったのだろう。こんな風に。

 オレが知らなかっただけ。見えなかっただけ。


 危険はそこにあり、みんなが傍にいて、自由におやりと言うならば。


 山にいるときと何が違うのか。

 山に居るのと同じように、何も怖いものはないのだ。


 (いら)えまでに空いたのは僅かに一拍。

「――はいっ!!」


 青い炎に背を向けて走り出した。

 オレもいつも通り、成すべきことに全力を傾けるために。




 足は軽やかに動き、飛ぶように景色が過ぎる。

 青い光と黒い影の蠢く範囲を通りすぎて、闇に影が溶け込むそこへ、オレは躊躇なく駆け込んだ。


 少女を追って駆けるのはさっきと同じだというのに、心はまるで違うものが満ちていた。


――――守られている。


 オレにはあんなに難しいことなのに、彼らは容易くそれをする。


――――示されている。


 オレが目指して走り出したその先を、迷わぬように指し示し、手本を見せた上でやってごらんと背中を押してくれたのだ。


 恐れも迷いも焦りも全て消えて、成すべきことへ向かう心だけがある。

 それは、師匠の赤い紐を追って飛びかかるときの気分に似ていた。


 いくつもの太い幹を回り込み、分厚い落ち葉の上を素早く渡る。

 鋭く尖り、一点に集中して狭くなっていた視野を緩める。拡げる。

 自然体にいつも通りを心掛けて、満ちる数多(あまた)の心に手を伸ばして拾い上げるのではなく、受け入れて眺める。

 

 敵意ばかり鮮やかに浮かび上がっていた今までとは違って、全て不確かにぼやけた代わりに全ての感情の波が、のびのびと遠くまで色鮮やかに咲く。

 風の中に、幾多の存在を感じ取った。


――――追うべきは、ひとつ…あれだ!


 覚えのある気配。求めるひとつをつかみ取る。

 ぐんと速度を増し、一気に駆け抜けた。

 次々に立ちはだかる木々の合間を抜け、分厚い闇を突き抜けて、ついに目が、きらきらと光る樹皮の群れ、その端を捉えた。


 林を抜ける兆し。途切れた天蓋から注ぐ月光に照らされた木々。


 そこへ向かってよろよろと進む人影。――横様から迫る、ふたつの獣影。


 ふらついた少女が近くの木に手を付く。

 ざざっと鳴った灌木を反射的に振り向いて、そこに迫る二頭の猿を見る。

 

 慟哭の形に開いた口が息を吸い込み、絶望の色を写した瞳がただ手を伸ばす己の運命を間近に見つめて。


「らぁああああああ!!!」


 オレは望まぬ流れの全てを切り裂くように、精一杯の雄叫びを上げた。

 たんっと軽い音を跡に残して踏み切る。


 振り向く右の猿が晒した喉に、抜きっぱなしの短刀を、体ごとぶつかるように突き刺す。

 小さくとも鋭い刃は骨のない部位を、筋も肉も柔らかいもののように切り裂いて、オレは僅かに減速しつつももう片方の猿の前に躍り出た。


「なんっ、がぁっ」

 驚愕に動きを止めた相手を見逃さず、左手で帯から抜いていた鞘を、隙だらけの腹へ突き立てる。

 腹を抱えて(ひる)んだところに伸びきっていた右手を引き戻し、下がった喉へ(きっさき)を繰り出した。


 よろめくように避けられて、刃先が首の横を引っ掻けた感触。構わず外側へ振り抜いた。ぬるい血が飛ぶ。

 背後で喉の裂けた猿が倒れる重い音。

 間髪いれず風を巻いて太い腕が伸ばされるが、そこにオレの上半身はない。


「ぐッ!?」

 振り抜いた右手を追って上体を倒し、反動を使って跳ね上げた脚が敵の顎を上手く捉えた。


 地を叩いて身を起こしながら回し、半回転して鞘尻を横面に叩き込む。

 呻いて膝をついた気配を背後にして、オレは乱暴に刃を納めながら駆けた。


「行くぞ!」


 木にすがって呆然としていた少女の腰を左腕で引っ掻けるようにして抱え、半ば以上支えながらもそのまま走る。


 勝ちを見誤らない。

 オレの目的は猿をやっつけることではなく、この子を無事に連れ帰ることだ。


「あ、あなた…!」


 つられて走り出しながら呼び掛ける高い声に続きはない。

 濃い驚愕と恐怖の中に、確かに混じった安堵を見つけて、頬が自然とゆるんだ。


「もう、大丈夫だから!」

「だいじょう、ぶっ、て」


 進むごとに段々と、白い光が増えていく。

 頭上の枝葉が間引かれ、細い柱のように地に突き立つ月光が、数を、太さを増していく。


 天井を支える木々が背後にどんどん流れて、視界から退いて去る。


 背後の気配は遠い。だが、左右から挟むように迫る敵意。それと――


「跳ぶぞ!!」

「えっ!?」


 行く手を阻む全ての幹の柱を通りすぎたとき、繁る葉の遮幕へ向かって思い切り踏みきった。

 強引に両腕を閉じて少女を引き寄せ、空中で抱き込む。


「があああ!!」


 左右から飛びかかる獣が、獲物の急な跳躍に拍子を外されながらも即座に追撃に移るのが分かる。

 伸びてくる腕、しかし鋭い風切り音を耳が拾って、オレの笑みは消えない。


「たああああ!!」


 叫びながら突っ込んで来た闇の塊――黒い鳥が、嘴の先から猿の横面に突き刺さった。

 弾け飛んだ猿がぶつかり合い、腕がぶれる。


 からくも猿の手をすり抜けたその瞬間、幾重もの柔らかなもので撫でられるような感触と、細く固いものに叩かれる小さな無数の衝撃に頭から突っ込んだ。


 周り全てで奏でられる枝の折れ割ける破砕音と葉の擦り揺れる摩擦音の連鎖を一気に突き抜けて、オレたちは白い世界に投げ出された。


「川だっ!!」


 小高くなった林の(はた)から飛び出して、オレは少女を抱えたまま、束の間空を飛んだ。


 黒い視界に慣れた目が眩むほど明るい、光ある世界。

 川岸に撒き散らされた石は鈍く輝いて、奥に白く煌めく水面を囲んでいる。

 そこいら中に白い輝きを配っているのは、頭上に輝く満月だ。隠すものがなにもない、白く輝く満月だ。


 進む勢いが衰えて、同時に落下が始まる。

 推進力は水に届かず、下はごろごろと岩が転がる岸部だ。そのまま落ちて叩きつけられたらきっと死ぬほど痛い。

 が、見下ろしたオレはふっと安堵の息を吐いた。


「いやあああああああ!!」

「へぅぐっ!?」


 少女が、耳元で甲高い悲鳴を上げ、完全な不意討ちを食らった耳に大打撃。

 くらくらっとしたところに、遮二無二すがり付く腕に力いっぱい首もとを締め上げられて息が詰まった。


 着地の準備もできないまま落ちていく。

 長く悲鳴が尾を引くのに耳を持っていかれながら、それでもオレは鮮明に複数の敵意が方々から向かっているのを感じ取っている。


 血の道が塞き止められてすっと気が遠くなり、がんがんと頭の中で鐘が鳴っているような脈動を感じながら、オレたちは――柔らかい毛皮の上に落ちて一回弾んだ。


「あああああぇっ!?」


 悲鳴の最後を種類の違う悲鳴で締めくくり、少女がぱっと腕を開く。いや、混乱しきったなりに新たな何かに捕まろうと(もが)く。


「ぜはっ!ぐふっ」


 解放されたオレは、大きく息をついたが、もう一度毛皮に着地して息が詰まる。

 くらくらしながら、なんとかかんとか、ずり落ちかける体を立て直して、それから無駄にじたばたして落っこちかけている少女の腕を捕まえて引き上げた。


 ざんっ、と枝葉を抜ける音が複数響く。

 月明かりの下に躍り出た猿たちは、思わず足を止めた。

 川の傍に居る、自分たちが追ってきた獲物と、それを背に受け止めたまま悠々と佇む、巨大な灰色の狼を目にして。


「やれやれ、お前はまったく仕様のないやつだな」

「…すみません」


 (ジン)さんが、全く怒った様子なくのんびりとオレを振り返る。

 怒りどころか、こちらに向いた目は手のかかる子どもを慈しむような温かな輝きを宿していて、オレは安心感に全身から力が抜ける心地を味わった。

 全部やり遂げたのだと理解する。もう何も心配はいらないのだ。


 当然のように猿の群とかは清々しくすっぱりさっぱり全部無視である。なぜって、もう気にする必要がないから。


「だが、ひとりでやり遂げたのは重畳。さすがは主の弟子…」


 満足そうに、それこそ自室に居るかのようにのんびりとオレを褒める声は、朗々と猿のもとへも届く。

 彼らの怒りはこれ以上なく煽られた。目の前に未だ諦めることなく立っているというのに、もう全て終わったのだと、この場の敵など眼中にないのだと宣言されて。


 三頭の猿が先走った。

 ぎらつく抜き身を振りかざし、石の転がる不安定さなど関係ないとばかりに、自分たちをコケにした不心得者に飛びかかる。

 一拍置いて複数の弓が起こされ、弓弦が乾いた音を奏でる。


 オレは陣さんの背中にいて、憤怒に染まったみっつの顔を何をすることなくただ眺めた。


 大口を開け、牙を剥き出し、血走った目を見開いている殺意の塊。

 その醜悪なものが、オレと陣さんに爪を、牙を、刃を伸ばす。

 高い音を道連れに、僅かに弧を描いて迫る矢尻が凶悪に煌めく。

 吹き付ける悪意が触れられそうなほど迫ったそのとき。


 月が陰った。


 一瞬にしてみっつの顔が視界から消える。

 入れ替わりに打撃音。摩擦音。濡れた粘性の何かを磨り潰す音と、硬いものが容易く砕ける破砕音の重奏がこだます。

 同時に巻き起こった突風が、全ての矢を吹き飛ばした。


 ぱらぱらと、僅かに飛んで来た細かな砂埃を払って、オレは高い位置にある頭を見上げた。


(ハリ)さん!」


「ふむ、三太朗。ああ、やり遂げたようだな。それでこそ白鳴山の雛」


 舞い降りるとは口が裂けても言えない直滑降の果てに、猿をもののついでのように踏み潰し、巨大な鷲はオレを見つめて優しくそう言った。


 不測の事態が起こったら川へ逃げろと言われていたのは、川へ、木のない場所に出たならば、高空に待機した張さんが見つけて助けに来てくれるからだ。


「駄目だ、鷲まで…!」

「クソっ!仕方ない、逃げろ!」


 悠々と立つ狼の雄姿。降り立った鷲の偉容。

 その実態はオレに甘々な親バカだが、敵にとっては絶望が形を持ったような存在だ。

 形勢の不利をようやく悟り、猿が泡食って逃げ出す。


「最初から逃げとけばいいのに」


 呟きは、彼らの逃走が遅きに失していることを哀れに思って思わずこぼしたもの。


 陣さんも張さんも、泰然と敵の無様を見送るだけで、林に逃げ込む猿を追いはしないが、奴らと相対しているのはこの二者だけではないのだ。


「ぎゃあああ!!!」


 全身の全ての力を絞り出したかのような絶叫が響き渡り、しかしそれさえも掻き消して身体中をびりびり震わせる爆音が轟いた。

 ひとつの音ではない。百も千も重なった雄叫びだ。

 逃走者が、林に走り込んだ倍する勢いで弾き出された。


 闇に沈む林の影が膨れ上がり、爆発した。


 宙を吹っ飛ぶ猿に、何十もの影が追いすがる。直ぐ様群がる黒が覆い尽くし、手足を振り回して抵抗する猿があっという間に見えなくなる。


 その一頭を皮切りに、次々に猿が林から飛び出してきた。最初の一頭のように抵抗した末に跳ね飛ばされる者もいれば、素直に自ら走り出る者もいる。

 尤も追いたてた側は、従う者にも逆らう者にも平等に襲いかかった。


 カラスだ。白鳴山に住まう師匠の忠実な尖兵たちが、暴力的な数で以て猿たちに襲いかかる。


「――ほら、もう遅い」


 幾多の影が飛び回り、無数の羽音が充満した。

 川原を満たしてなお空を覆い、月は隠されて闇が増す。

 油断できないはずの強者も、圧倒的な物量の前には為す術なく黒い翼に覆い隠されていく。


 追い詰めていた者らは追い詰められ、戦況は考えるべくもない。


「三太朗さん!」


 弾んだ声が舞い降りて、オレは急いで腕をさし延べた。

 軽く舞い降りた彼女は、太い爪のある大きな足でしっかりオレの腕を掴んで留まった。


(ツテ)さん」

「ああ、三太朗さん!怪我はない?大丈夫?あなたいくらなんでもあれは無茶をし過ぎだと思う…います、よ…?」


 夢中で飛んで来たんだろう。伝さんは勢い込んで言い始め、陣さんと張さんが居るのに気付いて失速。崩れていた敬語を立て直しつつ尻すぼみにごにょごにょとお説教を締め括った。


 無言で見つめる陣さんにすくみ上がった艶やかな翼を精一杯宥めるように撫でた。


「さっきは助けてくれてありがとうございました。でも無茶なんてしたつもりないですよ?」


 ふわふわの首もとをなでなでしながら、オレはふーっと長い息を吐いた。

 緊張が解れて溶けて、息と一緒にさらさらと流れ出ていく。

 一気に指の先まで重たくなったように感じながら、オレは笑ってしまった。


「来てくれるって分かってましたから」

 

 複数の敵に追われながら、それ以上の数の味方が囲んでいるのを知った。

 視野は狭く、思考は固く、当たり前のことを見落としていたと同時にきづいた。


 あんなに大事にされているのだから、オレの安全に対して何重にも考えられているのは当たり前なのだ。


 いざというときに助けられるようにしながら、オレのしたいようにやらせてくれていた。

 それが嬉しくて、そして最後までひとりで出来なかったことが少し歯痒い。


 けれど、多分師匠はひとりでやり遂げるよりも、みんなを頼ったこのやり方を喜ぶだろうとなんとなく思う。

 多数の配下を従えて、それぞれの長所を借りているのは師匠も同じ。

 つまりはそれが、白鳴山のやり方ということだろうから。


「そ、そう?助けになれたなら、これほど嬉しいことはないわ!」


 照れ隠しなのか嘴をすり合わせ、さあ、と伝さんは翼を畳み直した。


「今度はお屋形さまのご命があったので、みんなとちょっと外回りに行ってきます。…三太朗さんはちゃんとお山に帰るのよ?」


「そんな心配しなくても、もうくたくたです。ちゃんと陣さんたちと帰りますよ」


「そう?だったら良いけれど…それじゃ、行ってきますね!」


 勇ましくかあとひと声鳴いた伝さんを、腕を差し上げて送り出す。

 黒は黒い群れに飛び込んで入り交じり、あっという間に紛れてしまった。


 それを合図にしたように、地に降りていたカラスも全て飛び立つ。カラスの群れは鳴き交わしながら旋回し、それから一気に上空へ舞い上がった。


「うわ」


 思わずぽかんと口を開けて声を上げた。

 見送って見上げた空には、更に多くのカラスが旋回して待っていたのだ。


 白鳴山の全てのカラスが出張ってきているのだろうその巨大な群は、全部のカラスが合流すると、一斉にひとつの方向へむけて飛び去った。


 鳥が去った代わりに、しん、と静寂が舞い降りた。

 さらさらと流れる川の音が、却って静けさを強調する。


「…あ、もう大丈夫だからね」


 オレはやっと思い出して、広い背中に同乗している少女を振り返った。

 彼女は自失した様子で呆然と、力の抜けた目でオレを見た。


「これから山に帰るんだ。陣さんに乗せて貰えるからすぐだよ」


 カラスが去った方角を見上げていた陣さんが、その黄色の眼差しを少女に向ける。


「空からは張さんが見てくれてるから、もう襲われることもないし」


 同じく首だけ回してカラスを見送っていた張さんが、くるりと顔を前に戻す。


「あ、ぎんじろさん!ごんたろさん!!」


 がさがさと茂みを掻き分けて、タヌキとキツネがのんびりと斜面を下ってくる。


 少女はそれぞれをゆっくりと交互に見返して、


「………あぁ」


 白目を剥いて気を失った。


「え!?おあっちょっと落ちる落ちる!陣さんしゃがんで!伏せてください!!」


 なんとかかんとか、石の上に叩き付けられる前に穏便に地面へ降ろすことに成功した。


「あれまぁ」


「どうしたんでしょ」


「きっとお疲れなんですよぅ」


「ああ、たくさん走ったみたいですしなぁ」


「……そうですね」


 呑気(のんき)なやりとりはかなり的外れで頓珍漢(とんちんかん)だったが、主に大きなお二方の心の平安のためには同意しておくしかなかった。


 ともあれ、こうしてオレにとって、そして彼女にとって、大変で散々な祭の夜は幕を閉じた。


 帰り道は白鳴山の外ではあるのだけれど、敵の気配を感じることもなく、まるで緊張することなく帰り着くこととなる。


 結果を見れば一件落着。何も失うことはなく、大きなものを得た。

 文面で記録したならば、大成功という評価で間違いはないだろう。


 オレは最後の肩の荷を下ろした気分で息を吐き出した。










「おや、さんたろさん?どうしました?」


 さて帰ろうとした矢先にふらふらと歩き出したオレを見て、ごんたろさんの声がする。


「さんたろさん?もう帰りますよ?」


 ぎんじろさんが怪訝そうに駆け寄って、下から顔を覗き込むが、オレは答えられずに川辺にどかっと膝をつき、勢いで上体も曲げる。


「ぇう゛、ぐぼぇ…」


 慌てて起こそうとした手を振り払い、オレは吐いた。


 辺りに漂う血生臭さが刺激になり、何度もなんどもえずいては、苦い液体しか吐くものがなくなるまで吐き戻した。


 体の中身が空っぽになったような気がするぐらいだったけれど、目の奥と手に残った記憶は出ていってはくれない。


 がたがたと震える両手を月光に翳せば、どす黒いものがべっとりとこびりついてぬらりと光る。




 オレは、この手で――殺したのだ。





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