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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
94/131

八十一 おひらき 中

※流血の表現があります。グロくないように気をつけてはいますが、苦手な方はご注意ください。



 唐突に体の感覚が戻って、びくっと体が跳ねた。

 隠れている茂みががさっと鳴って、衣織は身を強ばらせる。

 はっと吸い込んだ夜気が胸の底を冷やして、ぼやけた意識が瞬時に覚醒した。

 どこにいるのかが一瞬判らなくて混乱する。その所為で固まってしまって、それ以上音をたてずに済んだのは幸運だった。


 幸い、音は盛大によろめいた男の派手な悪態に紛れたようで、こちらの場所はまだばれてはいなさそう。


「――落ち着いて。君は走るだけでいい。…他は何とかするから」


 間近の声は密やかだ。

 聞き覚えのある声に半ば以上放心しつつ頷き返しながら、衣織は体の内側を叩き続けている鼓動を片手で押さえた。


 まばらに落ちてくる月光。

 しかし目を開いているのが馬鹿馬鹿しくなるほどの闇。

 ざらざらと鳴るのは群れ繁る木葉で、そこへ叫び声と打音が混じる。


 どうやら今は、茂みから走り出る前で、衣織はまだ少年の合図を待ってしゃがんでいるときみたいだと気がついた。

 さっき見たのは、衣織の夢だったのだ。


 比較的直ぐに落ち着くことができたのは、伊達に長くこれ(・・)と付き合っていないからか。

 詰めた息をゆっくりと吐き出しながら、衣織は今見たものの正体を受け止める。

 少し先に起こる悪いことを、押し付けるように見せるあの悪夢が目を閉じた拍子にやって来たのだと。


 隣の、半ば影に溶けたような少年を盗み見た。

 当たり前だが、うっすら光るように見える白い頭には汚れはない。目は落ち着いた様子で前を向いている。


 血の臭いはしない。怪我もない。生きている。


 しかし、夢だと分かったとしても、寧ろ恐怖がどんどんと膨らんで、顔が勝手に強張る。


――――どうしようどうしよう。このままじゃこの人が死んじゃう!


 彼の言う通りにするとああ(・・)なってしまうのは、衣織には確かな事実で、だからといってどうすれば良いのかなんて皆目見当もつかない。


 何度もあの光景が目蓋の裏に蘇って、背中にぞわぞわと悪寒が這い上り、嫌な汗がじっとりと手のひらをぬめらせる。


 重い音を立てて落ちた少年。血みどろで倒れていた、あの開きっぱなしの目を覗き込んだ情景を思い出して、背中に冷や汗が伝う。


 衣織を助けに来てくれた彼は、衣織を逃がすために…死ぬのか。


――――でも、あの大雨のとき、山津波は来なかったのだし…今回も外れるかもしれない。


 ぽろっと浮かんだ思いつきは、良いもののように思えた。

 そうだ、あの夢は外れることもあるんだと、自分に言い聞かせる。

 衣織は無事に川まで行けるようだったし、夢が外れるのなら二人とも無事に切り抜けられるだろう。


 その想像は良いものだ。信じられるほど確かなものだったらの話だが。

 そして衣織はどうしても、これっぽっちも信じられない。


 どうしたらいいか分からないのに時間は容赦なく進んでいく。

 衣織はばくばくと鳴る胸を押さえて、服の上からいつもの癖で懐のものをすがるように握り込んだ。


――――どうしよう。どうしよう…!


 普段の衣織なら、それとなく周りに注意を促し、出来ることはやったと自分に言い聞かせて終わりにしたことだろう。

 彼女にとって、自分の異端たる所以(ゆえん)を隠し通すのは最優先のことだ。

 だからこそ、村人がひとり倒れたとしても、自分で走って探しに行こうとしなかった。


 ひとつは自ら動いたときに、その理由を問われれば、夢を話さざるを得ないから。

 もうひとつは、普通の人(・・・・)はこんな夢を見ないからだ。


 ないのが当たり前なのだから、目を背けていたとしても、誰からも衣織は責められない。

 衣織が黙っている限り、普通の人はそんな夢があるということすら思いつかない。

 言わなければ、衣織は普通の人でいられる(・・・・・・・・・)


 だからこそ、あの長雨のときにも最初は黙って逃げようとしたのだ。

 例え自分がそうではないと知っていたとしても、せめて表面上はごく普通の人でいるために。


 しかし今、衣織は考え続ける。

 焦り惑い半狂乱に、どうにかしたいと自らの出来ることを探し続ける。

 現状に対して小娘ひとり、あまりに無力。

 だが、理由など考えることさえもないままに、彼女は初めて悪夢に立ち向かおうとしていた。


 ひときわ大きくぶつかる音がして、ばきばきと枝が折れる音が続いた。


「行けっ」


 軽く衣織を押しながら、少年が駆け出した。


 茂みをよろめき出ながら待ってと伸ばした手は届かない。






 オレは狙いをつけて、放たれた矢のように駆け出した。

 正面から向かわず、木の陰を伝って回り込む。

 大柄な猿は、刃物も使えない身では倒せないだろうと思うが今回は、時間さえ稼げれば良い。なら、やりようはある。


 様子を見ている間中、しきりに耳を押さえながらふらふらと走り、辺りの木にぶつかっては怒り狂って吠えていた猿は、予想通りこちらに気がついてない。


 オレが走っている足音も、触れた茂みが鳴っているのにも気が付かないのは、ひょっとして本当に耳が聞こえてないのかもしれない。

 こちらに近付いて来ているのは、多分わめいてた通り鼻が利くからだろう。


 知識としては知っていて、女の子を安心させるために言ってはみたが、まさか本当に耳を利かなくさせられるなんて思ってなかった。

 少し驚きながら目の前に集中する。


 全力でやるだけだ。というか、全力でやるしかオレは知らない。

 実質今回が初めての実戦だから、どんな力加減でどうなるのかなんてまだ分からない。

 手加減なんか出来る訳がない。出来ることを出来る限りやって初めて、この局面を乗り切れる。出来ると信じる。


 けれどいざ初めての戦いを目の前にして、実はそんなに難しいことのようには思わなかった。


 あの猿は進み方が速く、見るからに力が強そうだ。

 きっとオレなんか一発食らうだけでやられてしまうだろう。

 だが今、あちらこちらに酔っぱらいのようによろけてはぶつかったりしてるのを見ると、狙いをつけて殴りかかることなんか出来そうに見えない。


 どんなに力が強くても、当たらなければオレは無傷でいられる。全部(かわ)せば良いのだ。

 例えこちらの攻撃手段が貧弱でも、足留めさえ出来れば良いのだから問題ない。


――――耳を潰したなら…今度はこっちだ!


 ざっ、と枝葉を鳴らして猿の目の前に跳び出す。

 こちらに気付いて振り向いた顔に向かって思い切り石を投げ、着地。勢いに乗ったまま次の茂みを突っ切った。


 猿の叫び声が轟く。ほとんど獣の咆哮なその中に「目が」という言葉を聞き取り、伝わってくる怒りと驚きの度合いを測って、放った石が目に(あた)ったのを知る。


――――良し!


 走り回って撹乱し、隙を見つけて石を投擲。これを続けられれば充分な時間を稼げるだろう。


 猿を中心に円を描くように走り抜けながら、次の石を拾う。

 今度は背後に出て、後頭部に向かって投げる。

 中る。

 走り、回り込み、投げる。

 今度は脇腹に中る。

 走る。

 投げる。

 中る。

 走る。


「ちょろちょろすんなぁあああ!!!」


 猿が闇雲に振り回した腕が脇の木を強打して、重い打撃音と共にめしめしと幹が軋む音がした。


――――本当に素手かあれ!?


 オレの胴体より太い木がゆっさゆっさ揺れるほどの膂力にも驚くが、それほどの力で殴りつけながら、全く痛そうにしてないのも脅威だ。


――――肌が鉄かなんかで出来てるのか。


 たたっと走り込み、また石を投げた。無事な方の目を狙ったのだが、動揺が収まってなかったのか、僅かに狙いが外れて頬に中る。


 内心舌打ちしながら駆け抜けようとしたオレは、目を見開いた。


「うがあああああ!!!」

 怒り心頭に達し咆哮した猿の顔に、ぶわっと毛が湧き出す。


 それは異様な光景だった。吠え猛る巨漢の頬から首筋、手の甲までもがみっしりと灰茶の毛皮に被われて、残りの皮膚は燃えるように赤く染まり上がる。


 猿の――まさしく二本足で立つ猿となった妖怪の、潰し損ねた片目がオレをじろりと捉えた。


「そこに居たかぁアア!!!」

「っ!?やばっ」


 慌てて木の密集した場所へ逃げ込み、直ぐに方向を変えて走る。

 だが、色んなものにぶつかる音がどんどん迫って来る。

 内心焦りながら足を速めた。

 振り向く余裕はなくても分かる。迫る音、撒き散らされるのは激怒。猿は片目だというのに見失うことなくオレを追ってきている。


「そこだァアア!!」


 殺意が爆発し、頭めがけて飛んで来た拳より大きい石を横跳びに避ける。

 そのまま何度も切り返しながら、茂みや木々を間に置くように逃げるも、石が飛んでくるのは止まらない。

 大体外れるが、ずっと狙いは頭だから、夜に目立つこの髪を目印にしているのは明らかだ。


 振り返らず避けられるのは、事前に攻撃の意思を読み取れるからだ。

 石が手から放たれただろう瞬間に、持ち前の勘の良さで身を躱す。これが出来ない普通の人間だったなら、おそらく命はとうに亡い。


 しかしやけに速い。そう思ってちらっと振り向けば、四つん這いの猿が右手…右前足に石を拾うのが見えた。


 足が多い方が転びにくい分速いのだ。二足のときと同じくふらつきぶつかりながらも、転倒することがないからその分速さを保っている。

 そして猿とは元々四足歩行をする生き物だ。二足と比べて速さで劣ることもない。


 さっと木を回り込んで飛来物を避ける。重い物が幹を打つ音がした。

 川が近いだけあって、探せば幾つも石は見つけられた。

 投石が尽きるのは期待できない。


 ここに至っても、オレに焦りは遠かった。


 ぎりぎりまで目を見張り、相手の呼気さえ聞き取れとばかりに耳を澄ませ、どんな小さなことも拾えるように全身全霊で情報を集め、努めて冷静に事態を認識し続ける。

 最善を尽くすために、自分がどんどん研ぎ澄まされていく。


 だからこそ、唸りを上げて飛んで来たひと抱えもあるような石が鼻先を掠めていったとき、オレは川に向かう選択をした。

 もう時間稼ぎは充分だろうというのもあるが、悔しいけど限界を感じていた。


 直線距離で本気で走ればまだ分からないが、切り返し折り返ししながらだと、猿との距離は段々に詰まって来る。

 一直線でも追い付かれない保証はないのだから、捕まらずに辿り着くためにはまだある程度離れている今しかない。


「待でぇえええああ!!!」


 急にまっすぐ走り出したオレと同じく、追跡する猿も動きを変えた。ただ急に方向を変えたためによろめいた。

 どん、とかばきばき、という音に続いて、めしめしと木が折れる音がした。


 しめた、と思った。

 木が折れるほどの力がかかるなら、態勢を崩したのだろう。上手くすれば転んでいる。この隙に距離を稼げる。と。


 だが、意気揚々と力を込めた足は、小さな悲鳴が聞こえた瞬間、凍りついた。


 折れた木が地面に叩きつけられたのとほぼ同時。飛んだ破片にでも驚いたのだろうと察するに易い。

 そうじゃない。そこではない。何より問題なのは、悲鳴は女の子のもので、背後から聞こえた(・・・・・・・・)ことだ。


 思わず振り返った先、猿は別の木を支えに立ち上がりかけた格好で横を見ていた。


 流れてくる恐怖と焦りに気付いたのはそのときだ。猿の視線の先、感情の大元には――


――白装束の、少女。


「何やってるんだ!!走れ!!!」


 あらんかぎりの大声を振り絞る。彼女は大きく震えてやっと走り出した。

 肩を覆った黒布をはためかせて懸命に駆けていくが、その速さはオレから見ればじれったいほど遅い。


 先に逃げたはずなのになぜあんなところに居るのかとか、オレの苦労はなんだったのかとか、そんなことは全部放り出し、オレは全力で走り出した。川に背を向けて、女の子の方へ。


 猿が大きく吠えながら四つ足で追っていく。あっちの方が近い。


――――早く、早く、速く速く速く!!!


 只でさえ速くなった足が、念じるのに従って自分でも信じられないほどの速度を生む。

 まさしく飛ぶような勢いで追った。


()う゛ぅうう!!もう゛喰ってやるぅうう!!!腕千切って足折って(はらわた)掻き出して頭かち割って骨の髄までしゃぶり尽くしてやる゛ぅううう゛う゛ぁああああ゛あ゛あ゛!!!!」


 猿が跳ぶ。聞くに耐えない欲望を吐き散らしながら倒れ込むようにしていっぱいに伸ばされる毛むくじゃらの腕。その下へ間一髪体ごと飛び込んで少女をかっさらう。

 だん!と叩き潰さんとするように地を打つ音が間近で響く。

 勢い余って二人で幾らかの距離をごろごろと転がった。


 なんとか途中で突っ張って止まり、受け身を取って起き上がる。女の子がもう少し先で木にぶつかったのにかまわず振り向いたそのとき、ぞわりと鳥肌が立った。


 目にしたものが何なのかを意識するまでの一瞬、オレは攻撃の意識を感じて護り刀に手をかけたまま動きを止めた。


 動けなかった。


 もう言葉としての意味はない叫びを上げ、仁王立ちになった猿。手には――懐刀。


 まばらな光が抜き放たれたやいばにしろく弾ける。

 暗い木葉の天井に、真下から断ち割られる満月の幻を見た。


 刃に目が取られて逸らせない。血の気が引く音がした。

 尻をずって後退っていたのを、手の下に尖った石を踏んで気付いた。

 吠えながら近寄ってくる猿を呆然と見上げることしか出来ない。


「あ、あ…」

 がくがくと体が震える。

 意味の分からない声が漏れて、しかし耳には代わりに、あのときオレを追い詰めた男の高笑いが響き続けた。

 恐怖の底へ引き摺り込まれ、何がどうなっているのかも分からない。


「嫌ぁあ!!立って!!!」


 裏返った半狂乱の叫び声が、幻聴を切り裂いた。


 叫びを合図にしたように落ちてくる刃を、間一髪転がって避けられたのは奇跡だった。

 懐刀は虚空を切り裂き、地面を打つ。猿が大きく均衡を崩してよろけた。


 そのとき何かが頭上をゆるい弧を描いて飛んで行った。

 なんとか、という風情で猿まで届いたそれは、大した勢いもなくて、何も考えていないであろう動きの腕にも造作なく払い落とされてしまう。


 途端、それは弾けた。

 小さな袋の中身は煙のように広がって、猿の上半身を包み込む。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」

 今度上がったのは、怒りの叫びではなく悲鳴だった。続いて激しく咳き込む。苦痛と恐怖と混乱が夜を掻き乱し、オレの頭を殴られたかのような衝撃が走り抜けた。


 我に返る。

 一方的にオレを追い詰めて殺そうとしたあの野盗の姿は霧散して、目の前のものがオレでも抗える存在だということを思い出して。

 あの抗うことを思い付くことさえ出来ない絶望は霧散した。


「あがあああああああ゛あ゛!!!」

 猿が煙を追い払おうと滅茶苦茶に暴れ狂う。

 煙はふわふわと揺らいで呆気なく薄くなった。


 仄かに何か、甘いような苦いような匂いがしてきて、慌てて強ばった体を無理やり動かし、距離を取る。


――――こんなときに固まってる場合じゃないんだ!


 猿の手に握られている刀は、オレの小刀と比べても少し小ぶりで、巨大な猿が持つと小枝のように小さく見えた。


 なのに、振り回されて風を切る音がする度に、体がびくっと震える。

 自分が不甲斐なくて死にたくなるけど、反省も後悔も意識の外へ押し遣って振り向けば、人柱の少女が、何かを投げた格好のままで固まっていた。


 守ろうとした相手に守られたのだと、起承転結の順序をすっ飛ばして辿り着く。

 後れ馳せながら何を投げたのか疑問に思う間もなく、猿の絶叫が爆発した。


「ごむずめ゛ぇええええ゛!!!!」


 ぞわ、と肌が粟立つほどの憎悪を感じて、オレは前傾姿勢のまま少女に突っ込んだ。

 手をひっ掴み、そのまま駆け出す。


「あっ!!」


 少し走ったところで、悲鳴が聞こえると同時に手にがくっと力がかかって、オレはつんのめりながら急停止した。

 すかさず振り返って、倒れ込む女の子の細い肩をなんとか支えた。


 なんて馬鹿なことをしたものか、焦るあまりオレの速度で駆け出してしまったのだ。

 引っ張られたこの子が足の動きが間に合わず転んでしまうのは当然だった。


「ぐぉおおあああ゛あ゛あ゛!!!!」


 猿が一歩ずつ進み初める。苛立ちを表すように荒々しく。怒りの深さを表すようにゆっくりと。


「立て!逃げろ!!」

 返事はなかった。

 少女は立てない。座り込んだまま目を見開いて身動きをしない。


 せっかく開いた距離がみるみる縮まっていく。

 少女を庇う位置につきながら、焦りを孕んだ思考が空転した。


――――何かないか

――――どうすれば

――――あれの狙いはこの子だ

――――オレだけだったら…逃げられるんじゃ…?


 少女を囮に、全力で走れば確実に逃げ切れる。

 それを責める者は山にはいない。


 一瞬浮かんだ卑劣な考えが、心を怒りで染め上げた。


――――か弱い女の子一人放っておいてオレだけ逃げられるか!!


 それは、卑怯なことを考えた自分への怒り、そして

――――なんでなんで、いつもどうしてオレばっかりこんな目に合うんだ!!


 とっくに諦めて呑み込んだはずの、世の理不尽への憤り。

 今現在も、この東領の大半の人は安寧を抱えて日常を送っている。なのにオレは――この子は。


――――オレだって安寧(あっち)に居たかった…!こんなことになったのはオレの所為じゃないのに!!


『もう逃げるのは嫌です。力が無くて泣くのは嫌です』


 苛烈な焦りと怒りの底で、弱々しい声が囁いた。

 かつて変わることを切実に願って弟子入りした、弱いオレの声。

 

 あの頃から、いやそれよりもっと前から、オレの願いは変わらない。

 理不尽に踏みにじられなくなること、そして――


『守ります』


 オレは弱かった。戦うとかじゃなく、本気で向き合うことをせず逃げてばかりだった。

 あのとき師匠に告げたのだ。弱いままでは果たせない、手の届かない目標を。


 今はどうだ。あのときと同じなのか。

 どうすれば良いのか。その答えは。


 沸騰したようだった頭の芯が、すうっと冷めた。


 握りしめたままだった護り刀"空器(うつき)"を掲げ持つ。


 迫り来る巨体をひたと睨む。


――――オレが無事でかつ、あの子を無事に連れ帰るには…守れば良い。


 それには

「おまえを」


 この場においての理不尽の権化。オレたちを叩き潰さんとする者。

 両手で握った硬い木が、じんわり熱を持った。


「たおす…!!」


 獣の吠え声を響かせながら、猿が刃を振り上げる。

 軽く地を蹴った。前へ。


 体が羽のように軽く感じた。思考は澄んで、恐れはひとつ壁を隔てたように気にならない。


 唸りを上げて迫る腕は正しく豪腕。しかし動きは単調に過ぎる。

 掻い潜るのは容易かった。懐に飛び込んだときに弾けた動揺が、まさかオレが向かってくるとは思っていなかったのだと教えてくれた。


 しゃん。


 両手で引けば、涼やかな音と共に刃が姿を現す。


「あああああああ!!!」


 目の前にある腹へ斬り込んだ。

 幻の痛みとあの日の光景が一瞬に満たない間に百万遍も通り過ぎ、訳の分からない熱さが全身を駆け巡り、頭の芯がじんわりと凍てつく。

 少し前に鉄かと思った肌は、意外にもすんなりと刃を通して、肉を断つ手応えが伝わってきた。

 そのまま脇をすり抜け、半回転しながら敵へ向き直る。


――――攻撃が決まっても、動きを止めないこと。

 もはや身に焼き付いた、師匠の教えを反芻する。その場に留まらず立ち位置を変えた。

 跳び下がって間合いの外へ出る。


「ぐあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

 オレを追って長い腕が(くう)を裂く。煌めく白刃を半身になって避け、半歩進んでよろけた相手の伸びきった腕を斬り付ける。

 鮮血が(ほとばし)る。硬い腱を斬る手応え。


――――相手の動きを良く見て、躱すのを優先すること。


 倒れ込むように掴みかかってきた手も見えている。躱し、握ったままだった鞘を、届く位置に降りてきた喉仏へ叩き込んだ。


 僅かに芯を外した手応え。

 大きく後ろへ跳び、身を低くして横薙ぎの腕を遣り過ごす。捻られた上半身が戻る前に、脇を抜けて背後を取る。


――――機会を捉え、突け。


「おおおぁあああ!!」

 広い背中を駆け上がって、やいばを刺す!


 重い手応えと共に、呆気なく刃が根元まで埋まった。

 細くて薄い刀は骨の隙間を縫うようにして、猿の首元へ突き刺さっていた。


 猿がもがき暴れる一瞬前に、オレは足を踏ん張り、全身を使って刃を引き抜いていた。


 師匠が、動きを止めるなと言っていたから、その通りにしようとしただけだ。

 だがそれが、猿の命脈を絶った。


 勢いを付けて引き抜いた所為で、猿から転げ落ちる。

 素早く受け身を取って向き直り、次はどう来るのかと警戒して見上げた先で、高く血飛沫が吹き上がっていた。


 猿は最初、放心したようにオレを眺めた。

 騒々しかったのが嘘のように静かに。


 呆然と目をこちらに向け、そうして、ごぼごぼと喉の奥で湿った音を鳴らして、前のめりに倒れた。


 どん、と重たい音がした。




主人公覚醒。

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