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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
93/131

八十 おひらき 上

痛い表現があります。苦手な方はご注意ください。


 駆けた。

 遠くから響いてくる悲哀と絶望を、勘を頼りに探りながらただ駆けた。

 感情(こころ)は、これ程離れていても目に見えないのが不思議なぐらいくっきりと伝わって来たから、大体の方角は分かる。

 声のない悲鳴に急かされて、息が切れてもいっそう足を速めた。


――――邪魔だな。


 人柱の方向を探ることに集中する片隅で、ふと思った。


 しらしらとした月光は、木々の隙間から細かく砕けて散り落ちるのみで、夜闇はそこかしこを覆ってオレの見える世界を狭くしていた。


 それに熱を持った息が(せわ)しく、疲れで体が段々重くなる。


 闇が邪魔だ。疲れも邪魔だ。


――――邪魔だ。


 目を見開き、出来得る限り見通そうと凝らす。乱れる息を無理矢理に整えて、蹴り出す足に力を込めた。


 うねる木々、苔むした岩、背丈ほどの低木の茂み。

 その全部を隠そうとする闇を睨んで目に力を込めた。


 風に煽られた葉の隙間から落ちる光がちらちらと踊り、揺れる枝も繁る草も何もかもが何か別のもののふりをして惑わそうとする。


 枝の隙間から見える月は満月。

 あのときと同じ月。


――――速く速く早く、早く!


 何かが背後に迫ってくる錯覚に、鼓動が一拍跳ねた。しかし、背後に気配がないのは、あの頃よりずっと鋭くなった感覚が教えてくれる。

 この焦燥は、きっと満月がもたらしたものだ。


 暗い山中にかかる満月は、オレにとって死の危険を濃く感じさせるものだった。


 間に合わなくなる前に行かなくてはならない。

 取り返しがつかなくなる前に取り戻さなくてはならない。


 行ってくる、と笑った兄たちの顔が浮かぶ。

 家を頼むぞ、と厳めしく告げた父の声が蘇る。


 怖い。

 勝手に細かく指先が震えてるのを感じた。吐き気が込み上げる。


 見通せない夜闇も、踊る影も分からなくなっていく。


――――自分から望んで人柱になったんだろうか。


――――嫌だったのかな。


――――行くって自分で言ったんだろうか。


――――行かなきゃ周りが収まらなかったのかな。


――――怖くて。


――――行きたくなくて。


――――でも、行くしかなくて。


 纏まらない思考の欠片が次々に浮かんで消える。

 顔も知らない誰かなのに、その心を想像すればするほど胸に迫った。


 その全部が…過去の自分が持っていたものだからかもしれない。


 ただの妄想だと思うには、伝わってくる心が似すぎていた。

 あのときのオレが居ると思えてしまうぐらいに。


 事情は違うことだろう。

 歩んできた道のりは似ても似つかないものだろう。

 だけど、彼女はオレと同じく独りで、理不尽な暴力に晒されて、死のうとしている。


 オレは師匠に救われた。

 だから、あの子も救われるべきだと思った。


 どうしてもオレ自身に被って思えるあの存在は、オレと同じく救われるべきだ。


 オレは救われた…オレは(・・・)救われたい(・・・・・)


 自分(オレ)人柱(彼女)の感情が、ぐるぐる混じって同じになる。

 走って熱くなった腹の底で、焼け付くような熱を持ち、膨らんでいく。


――――死にたくない死にたくない死にたくない…!!


 後ろから追ってくる。刀を振りかぶった男が。

 逃げないと、ここに師匠は居ない!逃げ切らないと殺される…!! 


 いや、これはオレじゃない――人柱(彼女)感情(こころ)だ。


――――引き摺られるな!


 はっとして、鋭く息を吐いて自分に喝を入れた。

 乱れかけていた呼吸を調えた。


 今のは何だったのか。

 他人の感情に呑まれるなんて、こんなことは初めてだった。


 夜の森を駆けるのとは別の恐怖が湧いてきて、鋭く一点だけを探ろうとしていた感覚を緩めた。


 そこに、人柱のとはまた別の感情(もの)が引っ掛かった。

 

 焦燥、怯え、苛立ち。


 そういう感情を撒き散らしながら、オレが感じ取れるギリギリのところを横切って行った。


――――(マシラ)だ。


 僅かな間に見失ったが、それが何者かを察した途端、心の底から熱い怒りが沸き上がった。


――――師匠のものをこそこそと盗っていこうとするなんて…許せない…!!!


 師匠はオレを救い、守り、導き、あらゆる必要なものを与えてくれた。


 師匠に拾われてなければオレは死んでいただろう。よしんば生き延びていたとしても、未来を夢見ることなく、死んだような顔をして怯えていたかもしれない。


 今こうして走っているオレは、一度空っぽになって…それから色んなものを与えられて出来上がったオレだ。

 抱えきれないほどの恩がある。それを抜きにしても、今やみんなは家族同然だ。


 だから師匠のものを奪い、山を害そうとする猿は、何よりも汚らわしいものに思えた。


 (はらわた)が煮えくり返るとはこのことだろうか。


――――絶対、絶対、好きなようにさせないからな!!!


 燃える怒りが、走ることと探ることに没頭していたオレの気を少しだけ散らした。

 景色を見直して、走りやすくなっていることに気が付く。


――――明るい?


 館を出たときと比べ、明らかに周りが明るい。

 あんなに黒々と塗り潰されていた山の夜は薄暗がりに変わり、たまった落ち葉とそれに半ば埋まった岩の境目まで見える。


――――それに、軽い。


 踏み出す足は、まるで重さなどないかのように軽やかで、いつの間にか、焼けつくような息も鎮まっていた。


 オレはその不思議を、当たり前のように受け止めた。

 なぜだかとても自然なことに思えて、疑問などなにひとつ思い浮かんだりはしなかったのだ。


 走り出したそのときよりも寧ろ軽快に駆ける。

 いつも走るより明らかに速く景色が後ろへ流れて行って、冷ややかな夜気(やき)を突っ切っていく。


 しっかり見えるお蔭で足取りは今までの数段確かで、幾ら走っても疲れないお蔭で軽やかに、そして静かに駆け抜ける。


 感覚はいよいよ鋭敏になり、目だけではなく耳も微かな音を拾える。

 いつの間にか、呑まれるほどの恐怖もが、一枚壁を隔てた向こうのように遠くなっていて、走る邪魔になるものはなにもない。


 やがて前方から何かが動く音が聞こえて、彼我(ひが)の距離が縮まってきたことに確信を覚えた。


『己の利を知れ』


 弟子入りしてから半年足らず。術や天狗のことこそ教えてはもらえなかったが、師匠はときに戦術や戦いの基礎になる考え方を教えてくれた。


『そして相手の不利を探り、突け』


 オレは師匠の教え通り、意識を凝らして探る。

 場は鬱蒼とした林。猿はその間を縫うように走っている。

 一直線に白鳴山の縄張りから出ていく道筋だが、もう少し北東の方が楽に通れることを、地形を学んできたオレは知っている。

 土地勘があまりないのだろう。


 人柱を探っていたのを止め、彼女を運んでいるもうひとつの気配に集中する。


――――苛立ち、怒り、焦り…愉悦?


 感じ取った感情を選り分けると、用心しているわけじゃない。どうやら追跡に気付いた様子はない。今なら――


――――不意を討てる!


 間もなく右前方の幹の合間に、動くものを見つけた。

 草染めの衣の大きな背中。

 やっと追い付いたのだと悟ったが、後ろ姿を見る限りでは猿というより人に見えた。


――――人に化けるって言ってたし。だったらやっぱりあれは猿だ…よな。


 初めて目にする猿は随分と大柄で、次朗さんと同じぐらいの上背がある。横幅は次朗さんの数倍はあって、いかにも力が強そうだ。


 一心不乱に小走りで進んでいく様子はどこか重たげで、俊敏な印象はないが、背が高いぶん足が長いのか、小走りに見えるのに中々速い。

 茂みを揺らし、落ち葉を蹴散らしながら進むものだから、一歩毎にがさがさと騒々しく音を立てている。

 もし見失ってもまた見つけるのは簡単だ。

 そして右の肩に白いものを担いでいた――動いた!


 揺すられて跳ね、衝撃を堪えるように腕を突っ張ったのは、まさしく白装束の女の子だ。


 間違いない。あれが人柱だ。


 オレは地を擦るように身を低くした。

 走り抜けざまに拳大の石を掠め取ると同時に素早く投げ、石を追うように一気に加速する。


 石は真っ直ぐ飛び、狙いの通り猿の頭の左側へ鋭く当たった。


「ぐがっ!?」


 痛手にはならなかったようだが、頭ががくんと揺れて相当驚いた声が上がる。体制が崩れかけて足取りが乱れた。


――――驚愕。


 猿が振り向こうとするより前に迫ったオレは、勢いを殺さず思い切り跳び上がる。

 軽くなった体はひと息に猿の頭の位置まで軽々跳べた。同じ高さになった猿の後ろ頭を睨みながら、腰帯に刺した小刀を鞘ごと引き抜く。


 小刀を腰だめにしっかり構える。

 猿が振り向くのに合わせて小刀の先を突き入れる。


 狙いは――耳!


――――驚愕、恐怖。


「ぐあっ!!」


 重い衝撃が手に伝わる。

 小刀は狙い(たが)わず耳に当たり、頭へ直角に突き入れた手応えがあった。


 鞘ごとだったために刺さりはしないが、走り込んだ勢いは十分だったようで、鈍い音を立てて首が大きく曲がる。

 そのまま大きく上体が泳いで、堪えきれずに巨体が倒れた。


――――ざまあみろ!


 一緒に落ちたが、オレは上手くくるりと受け身を取って素早く立ち上がる。猿は走っていた勢いのまま少し先まで滑っていく。

 そちらを見向きもせず、猿が倒れた拍子に放り出された白装束の少女に駆け寄った。


「行こう!」


 倒れていた彼女を強引に引き起こして、半ば抱えるように走り出した。


「までえぇえええ゛え゛え゛!!」


 背後から吠え声と聞き間違うような怒号が放たれたが、構わずひた走った。











 衣織は必死に足を動かした。

 力強く支えてくれる腕に従って、今までこんな風に走ったことなんかないほどの速さで駆けた。


 ことが起こったのは一瞬で、何かが飛んできて視界が回って、気づいたら投げ出されていたことぐらいしか分からなかった。

 けれどこの腕の主に従うしかないことは知っていた。


 今衣織に必要なのは、考えることでも見たり聞いたりすることでもなく走ることだけで、出来ることもそれだけだったから、暗闇に近い夜の山を、他のことなど一切考えずに、回された腕の導くまま駆け抜けた。


「あっ」


 無茶な走り方にとうとう足がもつれてしまって出た声は、小さくて他人(ひと)ごとっぽい呟きでしかなかった。

 走ることだけに集中していたから、声を出すということまで考えが及ばなかったのだ。


 転ぶ。なんて思ったときも、ぽんと心に浮かんできたその言葉の意味なんて分からなくて、衣織は間抜けにぽかんとしたまま、暗くて見えないが確実に迫っている地面に目を向けていた。


「ちょっ!」


 だが、ぐんと肩が引かれて、上体を強かに打ち付けることなくへたり込んだ。

 傍らの人物が衣織の肩を支えてくれたのだった。


 後れ馳せながら、ふいごのように荒い息に気付いた。その瞬間に()せる。

 喉がざらざらと引きつって、息を吸い込むごとに鎮まるどころか余計に咳が止まらない。


「落ち着いて…ゆっくりで良いから」


 側に居る誰かは背中を撫でて、小声でそう言ってくれていた。


「あ…けほっ、あいつは…!?」

「大丈夫。追って来てない」


 無理して出した声は、望み通りの答えを引き出したけれど、自分でも振り返ってあの男を探す。


 目を向けた背後には闇しかなかった。

 時々僅かな月光が、砕けたように細かくなってちらちらと降るけれど、その所為で却って闇の濃さが引き立つ。


 何も見えないのは怖い。

 いつ何が飛び出して来るかわからないから。


「…耳を強く打たれると、(しばら)く真っ直ぐ立てなくなるんだ」


 すぐ近くでした声に、肩が大袈裟なほど跳ねた。

 恐る恐る目を向ければ――背後より前方の方が少しだけ明るいことに気が付いた。

 傍らにしゃがんだ人の顔が半分、白っぽくぼんやりと浮き上がって見えた。


 背中を(さす)っていた手が、軽くぽんぽんと肩を叩いた。


「けっこう思いっきり行ったからさ、多分片耳も聞こえなくなっただろうし、まだ立てないんじゃないかな。あと、あいつが来たらすぐ分かるから大丈夫。今は近くにいないよ」


 落ち着いた声は柔らかく澄んでいて、自然と耳に入ってくる。衣織は少しだけ落ち着いた。


 どうやらあのとき、この人があの大男の耳を叩いた、ということみたいだった。それであいつを倒して、衣織を連れ出したのだと初めて知った。


 ……同時に、声が幼いことにも気がついた。

 幼い、というのは、大人ではない、という意味だ。

 女の人かとも思ったが、多分、男の子の声ではないのか。

 そういえばこちらに向いた顔も、よくは見えないけど何だかあどけないような気がするし、背中を丸めた様子はないのに目線の高さが同じぐらい。


「あなた…は…?」

 何者なのか、と続けようとしたけれど、咳き込んで声が途切れた。


「オレ?」と言うと同時に顔が動く。首を(かし)げたのかもしれない。

 おれ、というからにはやっぱり男の子だ。

 軽々と衣織を連れ去ったあの大男を、易々と打ち倒した、子どもは。


「迎えだよ。君を迎えに来た」

「迎え…?」


 望んだ答えとは微妙に違ったけれど、半ば呆然としていた衣織をはっとさせるには充分だった。


「あの…どこからの…?」


 先の迎えはお山さまを騙って連れに来た大男だった。

 衣織を食べるとか言っていたのだし、あの剛力は人離れしていたから、きっと人のふりをしたばけものだろう。

 そんなのから衣織を連れ去ってしまったのだから、きっとこの子は只者じゃない。


 衣織には、迎えに来てくれる人の心当たりはひとつもない。

 けれどけれどもしかしたら、村から秘密で迎えを寄越すことになっていて、人柱はみんな別の里にでも行くことになってるのかも。そんな取り留めのないことを考えた。

 だったらこの子は…どこかのお武家さまのところの子どもとかで、きっと武芸を学んでいるから強いし、いくら走っても息が切れないのかも。


 それとも、まさか、まさか――


 男の子はそっと衣織から手を離し、半身を捻って振り返る。

 片手を伸ばしてそこにあった茂みを掻き分けた。


 その先はどうやら坂になっているようだった。けっこう急な下り坂。

 遮る木が少なくて、枝葉の隙間が大きい。

 そこに遠くとも浮かび上がるように白いのは。


白鳴山(はくめいざん)だよ」


 直ぐに声は出なかった。

 息が震えて、勝手に喉が鳴った。


「ごめんな、あんなのより早く迎えに来れたら良かったんだけど…。怖かっただろ」


 優しく言う彼が、向こうからの月明かりに浮かび上がっている。


 顔だけ浮かび上がるように白く見えたのは、他を全部黒い服で隠していた所為だった。

 頭を隠すように巻いた黒布の下にあるのはやはり、衣織と同じぐらいの年だろう少年の顔だった。

 その中で、衣織の目は彼の目に釘付けになった。


 白っぽい目だ。

 (めしい)た老人の目を思い出した。けれどこの子の目は、真ん中のところじゃなくて、本来黒いはずの黒目が白いのだ。


 それはとても異様だったけれど、なぜか彼には似合っているように思った。

 そしてすとんと納得したのだ


――――人じゃないんだ。


 なぜだか怖いとは思わなかった。

 ただ、"人じゃない"とだけ思い浮かべてじっと見た。


――――お山さまの色だ。


 するっと口から声が出た。


「あなた、お山さま…?」

「お山さまって?」


 男の子はきょとんとして首を捻った。


「白鳴山に、居るんでしょう…?神さまじゃないの…?」


 まさかこの子も騙して連れていこうとしているのかと嫌な予感がしたが、彼は納得したように「ああ」と頷いた。


「そっか、お山さまって呼んでるんだな。その言い方するんなら、オレはお山さまの弟子だよ」

「…弟子?」

「そう。師匠は天狗で、大雨を止ませた方だよ」


 天狗、と呟いて衣織は黙り込んだ。

 お山さま、とみんな呼んでいたけれど、神さまが何者なのかなんて誰も教えてくれなかったから、この子が言うのが嘘なのか本当なのか分からなかった。

 まして、弟子が居るなんて知らない。

 疑うべきか信じるべきかまでも判断が付かずに黙り込んだ衣織を放って、彼は立ち上がった。


「まあ、いきなりそんなこと言われてもって感じだろうけど…とりあえず話は後にしよう。そろそろ立てる?」


 ぼんやり見ていたら、そっと手が差し出された。


「疲れてるだろうけど、ちょっと頑張って欲しい。安全なところまで行こう?」


 反射的に手を取れば、もう片方の手で肘を支えられて、無理なく立たされた。

 肘が離され、手を引かれて歩き出す。

 動作の全部が自然で、衣織は何を思う間もなく足を動かしていた。

 

――――知ってる人とは全然ちがう。


 今までは、衣織が嫌だと思っても、それを言う間もなく力ずくで従わせようとする人ばかりだった気がした。


 こんな、先ず言葉をかけて、衣織が動くまで待って、助けるように促すやり方は馴染みがなくて、何だか落ち着かない気分になる。


「あの、どこに行くの?」


 気持ちを誤魔化すように言ってしまってから、内容がすごく間抜けなことに気付いた。


 白鳴山から来たと言っている相手に、どこに行くのかは尋ねるまでもないだろう。


 ひとりで慌てていると、前を行く彼は「ああ」と言って少し振り向いたようだった。

 呆れた様子がないのに衣織はほっとする。


「もちろん、山までなんだけど…このまま歩いて行くには少し遠いから、仲間と合流するよ。そしたら乗せてもらえるから」

「少し…?」


 木々に隠れて今は見えないけれど、思わず白鳴山の方を見た。

 衣織が朝から夕方まで頑張って歩いても辿り着くかどうかという距離だったと思う。あれが少しなのか。


 他に仲間が居るということも気になる。

 だけど、直ぐに尋ねることは出来なかった。暗い林で、手を引かれてでも歩くのは難しいことだった。

 平坦な場所なんかない上、足元も見えない。さらに、普段衣織が歩くのよりも足早に彼は進んで行くのだ。


 疲れて息が上がるけど、文句は言わない。

 本当は走って行かないといけないのは衣織も解っていた――ほんの少しだけ振り返っても、背後はやはり暗くてよく分からない。


 今は大丈夫だと言われたし、辺りは静まり返っているけれど、あの男が追いかけてくるかもしれないのだ。

 そう思うと不安がまた高まって、衣織は懐を無意識に探った。


「ねえ…」


 怖さに負けて、弾む息の合間に呼び掛けた。


「あれはなんだったの…?化け物?」


 ちらと顔半分だけ振り返ったようだったが、また直ぐに前を向いてしまったから、どんな風な顔をしてたかはわからなかった。

 いや、例え向き直ったとしても暗くて表情までは見えないのだけど、顔が見えれば良かったのにと思うぐらいには、不自然な間があった。


「…あれはマシラ…猿の一族だって聞いた。人に化ける、力が強い種族」


 その声がすごく素っ気なくて、衣織は返事が出来なかった。

 何か怒らせるようなことを言っただろうか。


 今頼れるのは目の前の相手だけだということが不意に強く意識されて焦る。


――――気が変わって置いて行かれたらどうしよう。こんな暗い中じゃ一人で歩けない。…それに、私なんかすぐ追い付かれて食べられてしまう!


 この人を怒らせてはいけないのだ。


 手を握る強さが変わらないことを確かめながら、必死に何が悪かったかを考えるけれど、そもそも名前も知らない相手が何を怒るのかなんて分からなくて途方に暮れた。


――――そう、名前も知らないのよ。


 今降ってきたような発見だったが、名前を名乗り合う時間なんてなかったのだから仕方がないとして、相手にとっても衣織は全く知らない相手なのに、どうしてこんな風に助けてくれるのか。物のように引っ張って行くのじゃなく、出来るだけ無理がないように気を付けてくれるのはなぜなのかがひたすら不思議だ。


「…っ!(かが)んで!」


 抑えた声で言われ、手を引かれて茂みの間にしゃがみ込んだ。


「なにが「静かに」


 問おうとしたけど手で口を塞がれて、それ以上は言うのをやめる。

 まさかという思いと共に、鼓動がどんどん速くなる。

 すぐ近くにある男の子の顔を(うかが)った。


 彼はじっと明後日の方向を向いていたが、衣織に目を遣って、慌てた様子で頭に巻いた布を解くと、大きく広げて衣織をすっぽり包み込んだ。


「大丈夫」


 小声で言いながら自分は低く伏せている。

 なぜだろうと思いながらつられて伏せたが、隠されていた髪が、僅かな光でさえも弾く色だったのに目が止まる。


 そして唐突なこの行動の意味を悟った。

 白は闇夜に浮かび上がる。衣織の白装束を隠す為に、彼は髪を隠すのを諦めたのだ。


「…どこだ…っ!どこ行きやがったぁあ…!!」


 思わず肩が跳ねた。

 風が茂みを揺らすのとは違う、乱暴に掻き分けられた葉擦れ、さらにはどんっ、と何かにぶつかるような音が続く。


「ぐぅうう…畜生が…ただじゃ置かんぞ…!!」


 次に聞こえた吠え声は静かな林に雷鳴のように響き渡った。

 衣織は恐ろしくて身震いが止まらない。

 葉の隙間から覗く勇気も出ないけれど間違いない。あの男が追いついて来たのだ。


「こっちか…?幾ら隠れてもなァ、臭いで解るんだよォオ!」

 また重い物が何かにぶつかる音がする。

 衣織は縮こまって固まった。どうしよう、とそればかりが頭の中を滑っていく。


「――――そのまま聞いて」


 ほとんど消えそうなほど小さな声が、衣織の耳元に囁いたのはそのときだった。


「君の右手へ真っすぐ進むと、坂があって、その下が川になってる。合図したら、そこまで走って」


 え、と声を上げそうになって、慌てて息を呑み込んだ。

「心配しなくても、オレが時間を稼ぐから。川まで行けば、もう大丈夫だから」

「でも…」


 衣織は怖くて堪らなかった。

 一人で走るのも、……この人を一人で置いて行くのも。

 名前も知らないのに、衣織を逃がすために残ろうとする彼は、今やこの世で唯一の味方のように思えた。

 そう思われれば余計に離れるのが心細くて、ほんの微かに首を横に振る。――だが体の震えに紛れてしまって、多分相手には伝わらなかっただろう。


 がくがく震える衣織を見ないで、彼はじっと前を見ている。

 薄っすらとしか見えないが、同じくらいの歳に見えるのに、その横顔には動揺のひとつもないように見えた。

 なんでもなさそうな、平静な彼は、何もかもぐらぐらして、地面さえ崩れてしまいそうに思える衣織にとってたったひとつの確かなもののようだった。

 壊れたり崩れたりしない、しっかりした彼に、一人にしないでくれと泣いて縋ってしまいそうになったけれど、彼の声がそれを押し留めた。


「――平気だよ。あいつまだ真っすぐ歩けないみたいだし、君が川まで行くぐらいはちゃんと引き付けていられる。さ、準備して」


 慎重に手を伸ばして、その辺りの地面から何かを…握り込めるぐらいの石を半ばほじくり出すみたいに拾い上げた少年の声はほんの少し強張ってるみたいに聞こえた。


――――この人も、怖いのかな。

 不思議なほどすっと気分が落ち着いた。

 肝が据わる、とはこのことだろうか。川に流されて掴もうと考えた杭が、折れかけているのが分かったから泳ぐことを思いついた。そんな感じだった。


 少年が折れそうだとかは思わない。相変わらずしっかりした様子だ。

 だけど、きっとそれは一人だったらだ。衣織まで縋りついてしまえば、流石の彼も折れてしまうかもしれないということに気が付いたのだ。

 だから、衣織は言われた通り走るしかないのだ。




 ごん、と音を立てて大男が傍の木にぶつかって踏鞴(たたら)を踏む。


「行けっ」


 少年の声を合図に、ふたつの影が真逆の方向に走り出す。

 ひとつは一目散に川の方へ。

 もうひとつ、黒装束の少年が、男へ向かって走り込み、手にした石を投げた。

 風を切って飛んだ石は男の目元にぶつかって、野太い悲鳴が上がった。


 衣織は真っすぐまっすぐ、泳ぐようにして斜面を下って行く。

 灌木の隙間に体を無理やりねじ込んで、ばきばき音を立てながら勢い余って茂みから飛び出した。


 そこには木がなかった。

 月明りがくっきりと照らす、小さな草地の底に小川が流れている。


「そこかぁああああ゛あ゛あ゛ぐっ!?」

 男は怒り狂って叫び散らしながら振り向き、死角から滑り込むように飛び込んだ少年の膝蹴りを顎にまともに喰らってよろめいた。


 衣織は眩しいほどの月明りを浴びながら滑り降り、最後の一歩でつんのめって、膝丈の水に転がり込んだ。

「やった…!」


 思わず歓声を上げながら、必死に振り返る。

 何を言おうとしたのか、息を吸いながら大きく口を開けて、目を見開いて凍り付いた。


「ぐぉおおああああああ゛あ゛あ゛!!!!」


 男はもう茂みを越えようとしていて、叫びながら丸太のように太い腕を振り上げていた。

 周りをすばしこく走る小さな影は、きちんと避けられる場所にあった。はずだった。


 なのに、男がよろめきながら踏み出した足が滑ったのだ。

 腕の軌道が変わって、硬く握られた拳が恐ろしい速さで少年の体をとらえ、振り抜かれ、小さな体は宙を舞い、落ちて。


 何かが壊れる寒気のする音を立てて衣織の目の前に落下した。


 水辺の岩の上へ。


「…え?」


 不思議な色の髪が、黒く塗りつぶされている。

 てらてらと月明りを跳ね返す、黒い――夜闇に黒く見える、赤い血に。


 目が開かれたまま、瞳は何も映さない。

 少し開いた口からひと筋ふた筋、粘ついた血が流れ落ちる。


 鼻腔に届く、生臭い臭気を吸い込んで、衣織は絶叫した。





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