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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
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七十七 祭囃子


 風が耳元で細い叫びを上げる。

 さらさらと乾いた音を立てて、影に姿を変えた草木が飛ぶように過ぎていく。

 まさしく風の速度で駆けながらも、巨狼の足運びは驚くほど静かだった。

 静かなのは足音だけではない。やや頭を下げて身は低く、背中の高さはほとんど変わらない。

 一歩ごとに軽く上下するものの、乗っている感覚で言えば馬よりも舟に近かった。


 深い毛皮に半ば埋もれるようにしがみつきながら、そういえば走る(ジン)さんに乗せてもらうのは始めてのことだと気がついた。

 いつもオレを乗せるとき、彼はゆっくりと歩き、その間に他愛もない雑談を楽しむ。


――――あれはすごく楽しい時間なんだけど…ああ、陣さんが走るとこんな風なんだってもっと早く知っていれば良かったのに…!!


 湧き立つのは後悔の念だ。これまで彼の背に乗った回数は数えきれないほど。

 しかし、その全てが穏やかな歩みと語らいのときに終始した。

 だが今は、慣れたはずの巨狼の背中からの景色は一変していた。

 いや、景色どころか…世界が違う。


 目を刺すような風に目を細め、逆らって顔を上げる。

 夜の景色はぼやりと明るく、その上で意外なほど明暗の境がはっきりと分かたれていた。

 夜を染め上げる満月は、薄雲ひとつない晴れた夜空にあって眩いほどの光を放ち、月光に照らされて白と黒に塗り分けられた山々は、その起伏ごとにくっきりと稜線が浮かぶ。

 昼間の景色よりも色数を落としてすべてを薄青に染め上げられた世界は、昼間を生きてきたオレには未知の何かを孕んで静かに広がっている。


 だが、光景は静かであっても、オレの記憶にはとてつもなく刺激的なものとして刻まれることだろう。

 幻想的とも言えるそれら景色が一歩ごとに僅かに上下して、怒涛の如く迫ってきては、風を巻き、容赦なく打ち付けながら脇をすり抜けて遥か背後に吹き飛んでいく。


 風は強く、まさしく叩き付けられるごとくであり、むき出しの顔を冷やすけれど、顔を伏せることなんてありえなかった。


()っぇええ…!!」


 思わず口に出た。

 勿論小声ではあるが、籠った情熱は叫んだとしても変わらない。ていうか叫びたい。声を大にして思い切り絶叫したい。


――――速い速すぎるすごいすごいすごい!!!


 勢いは凄まじく、前方遠くに見えていた岩が一呼吸の間にもう後ろの彼方に遠ざかり、軽く跳躍すれば速度を落とさないまま川を飛び越え、木々を縫うように駆ければ樹木がまるで自ら道を譲っているのかと錯覚するほど滑らかに通り抜ける。

 暗い林の中だといってもお構いなしで、下草を風と同じ音を鳴らしながら闇と共に踏みつけて、木葉から落ちた星を撒いたような細かな月光を横切って突き進む。


 細い隙間を抜けるのにも危なげはなく、障害物などないものと同じ。

 急な制動は皆無で、揺れも殆どない走りは快適そのもの。

 それどころか、この見えるもの全部が後ろにかっ飛んで行く爽快感!!夜に道なき道を行くのもかっこいい!しかも乗っているのは馬なんかじゃなくて、もっとずっと強くてかっこいい狼、しかも巨大狼!!

 これに興奮しない男はいるだろうか、いやいない!


 不安や緊張は景色と一緒になって落ち葉より軽く吹っ飛んでいった。

 沸き立つ心を陰らせるものは何もない。

 あるのはわくわくした快感!奮い立つ心!そして風になる!!


 この快感、もっと早く知りたかったあああ!!


「ぶふっ!?」


 何が起こったのか一瞬分からなかった。

 いきなり視界が効かなくなり、冷たい夜風は柔らかいけどごわごわしたものに遮られ、おまけに驚いて声を上げようとしてしまったばかりに、顔を覆っているごわごわのもしゃもしゃが口や鼻から容赦なく入ってくる。


 反射的に顔を起こそうとするも、さらに強く押さえられて深く沈む。


「こりゃ!さんたろさん、ちゃんと伏せて!!」

「落っこちたら大変ですよ!」


 たまらずもがきそうになって、間一髪思い留まった。今の状況を把握したからだ。

 

 オレは頭と背中を押さえつけられて顔が毛皮に埋まっていたのだ。

 左右から押さえつけて…走る陣さんから落っこちないように捕まえてくれているのは、オレより後ろに乗っていたはずの権太郎(ごんたろう)さんと釿次郎(ぎんじろう)さんである。

 オレが無意識に身を起こしかけたのに気付いて前へ移って来たのだろう。


 陣さんの背中は広く、子どもとそれより幾らか小柄な二頭が横並びにしがみつけるほどだということを初めて意識した。

 無論、いくら広くても並べば狭いので、殆ど密着している。

 その近い距離を以て、腕全体を使ってオレをがっしりみっちりしっかりと押さえているのである。

 小柄なのにすごい力だ。さっきからちょっとでも顔を浮かそうとしているのに全く動かない。流石は妖怪というところか。


 ……ていうか苦しい。息苦しい。

 陣さんの毛皮はふかふかすぎて顔を強く押し付けられると口どころか鼻までも毛で埋まってしまうのだ。


 え?何これ息できない訳じゃないけど吸う量が明らかに足りてない。くらくらしてきた。不味くないかこれ。

 

「全くもう、やんちゃは帰ってからにしてくださいよぅ」

「ふぐぐぅ…」

「はいはい、話は着いてからにしましょうなぁ」

「ほぐぅ…」

「落っこちたら幾らなんでも危ないですよ!」

「はぎふぐ…」

「一応急ぎなんですから、走る陣さんの邪魔をしちゃあ駄目ですな!」

「ふごうぐぅ…」


 離して下さい大丈夫ですごめんなさいと何度も訴えたが、声は潰れてくぐもった呻きにしかならず、懸命に頭を押さえる前足を外そうと手を掛けるもびくともしない。


 結局そのままオレは悪気皆無の無意識お仕置きを受け続けた。

 そしてふたりがぐったりしているオレに気づいたのは、祠に到着する直前だった。


「あ、あああ!!陣さんちょっと止まって!!」


 揺れが止まった毛皮から引き起こされて、やっと大きく息を吸う。

 オレにとって不幸中の幸いだったのは、目的地に着くまでそれほどの時が必要なかったことだ。――十倍ほどにも長く感じたけれども。


――――ああ、息が出来るって、素晴らしい…。


 朦朧(もうろう)としながらみっつの声が慌てているのを聞きながら、役目の最中に気を抜くのは危険だと学んだ。


 何時如何なるときでも冷静でいられるようになろうとかたく決意したのはそのときである。






「それでは…開けますね」

 オレは疲れた気持ちを切り替えて扉の前に立った。

 扉の前にはオレだけだ。びっくりさせるといけないので、他の三名は段の下で待っている。


 祠は林の中、そこだけぽっかりと木がない小さな広場で静かに月の光を浴びていた。

 木々の影が白壁に黒い模様を描く。

 風が吹く度に模様は得体の知れない生き物のように蠢いた。

 しっかりした作りだが古びている建物は寂しげで、それ以上におどろおどろしい。


――――こんなところに置き去りにされるなんて…可哀そうに。


 人の気配はなく、風の音や何かの鳴き声ばかりが大きく聞こえる林の中、しかも神への供物として、たった一人で。


 それは一体どれだけの不安だろう。


――――これ以上怖がらせないためには、やっぱり笑顔かな。


 焼け石に水かもしれないが、出来るだけ早く落ち着かせて、安心させてあげたい。

 それにはやはり鬼気迫る強張った顔より朗らかな笑顔の方が多少はましだろう。

 オレはまず大きく息を吐いて肩の力を抜くと、口元に笑みを置き、そっと扉に手を掛けた。


 白木の扉は古びた外観に反してすんなりと動き、ゆっくりと内部を晒した。





















 きぃい……


 ほんの微かな軋む音をたてて扉が開く。

 その人が連れてきた冷たい夜気が頬を撫でて、衣織(いおり)は思わず身震いをした。


「居た!」


 衣織を見止めたのか、嬉しそうな弾む声が…太い声が上がる。

 お堂の中よりも外の方が多少は明るい。踏み込んでくる者は黒々とした影に沈んでいる。


 ぎしりと床板が鳴る。

 影は低い声に見合って大きかった。衣織が座っていて、立つ者を見上げているのを差し引いても、それでも大きい。それは普段見上げるときにしないような角度に頭を傾けなければならないほど。


 呆然と見上げる衣織へ近寄った者が、細く小さな格子窓から辛うじて注ぐ月光を受けて、顔の半分が闇にくっきりと浮かび上がった。


 太い鼻筋に角ばった顎。

 一文字(いちもんじ)の眉は意志が強そうで、笑みに細まっていても目はどこか鋭い印象がある。

 体躯はたくましく筋肉質で、見たことがないなりに武士という人たちはこんな風なのかなと漠然と思った。


 大股で近づいた男は動きに迷いがなく、村人にはない風格があるような気がして、衣織の目には堂々として立派な…想像上の武士と重なって見えたのだ。


――――こんなに暗いのに、足元を確かめもしないなんて。


 ただの人ならきっと足元を気にしてゆっくり進んでくる。

 でもこの人は何も気にせず、まっすぐこっちを見て歩いてくる。まるで見えているかのように。そう気付いたら、ふと思った。


「……お山さま…?」


 足が止まった。

 拭い去られるように笑みも消えて、細めていた目を開き、男はじっと食い入るように衣織を見た。


 その沈黙は短かったけれど、衣織には丸一日のように感じた。

 笑みの消えた眼差しは益々強くて、もしかして怒っているのかと思えてくる。


 怖かった。何がどうとか考えるよりも先に、体の芯から恐怖が上がってくる。

 大きな男の怒りを買うのは、考えるだに恐ろしい。意識しない内にじりじりと退がり、右手首の縄がぴんと張った。

 逃げられもしないのに、殴り掛かられでもすれば。

 その想像は、してはいけない類のものだ。そんなことをしてしまったら、ただ座っているのも出来なくなる。

 衣織は自由な左手で胸元を押さえた。

 正確には、懐にある袋を。


 細かく震えるほど緊張しながら、全身を耳にして待つ衣織を前に、男はにぃっと嗤った。


「そうとも。わしこそが『お山さま』だ」


 ひぅっ、とかすれた笛の音のような音が喉から漏れた。

 問いの形をしてはいても、心にぽつりと浮かんだ呟きが零れ落ちただけのものだった。答えを期待していなかったのだと、答えられて初めて自分でも分かる。

 寧ろ、答えを知りたくはなかったのだと。


 ただの村娘の少女にとって、大人の男は大きく、しかも目の前の男は普段目にする男たちよりも恵まれた体躯を持っている。さらに、不安と恐怖がその影を巨大に見せる。


 近くに立った『お山さま』は、無暗に大きく、見上げる衣織に今にも覆い被さってくるように…大いなるもののように思えて、与えられた答えを疑うという考えすら思いつかない。


「嘘…」


 ぽろりと落ちた呟きは、あまりに呆気なく訪れた運命に対してのものだった。

 覚悟など出来るはずもない未知の、しかし自分に確実に訪れる"先"の、早すぎる到来へ向けた心の波紋を、反射的に音にしたに過ぎない。


 だが、『お山さま』はそうは取らなかった。

 見る間に機嫌悪く眉を吊り上げる。


「小枝のような小娘の分際で、わしを嘘吐き呼ばわりとは良い度胸だな!」

「ひっ」


 怒鳴られても咄嗟には何のことだか解らない。そんなつもりなくつい口を衝いた言葉だった上、衣織はもう長い間誰とも話さずにぼんやりと過ごして来たために、他者の心の機微を推し量る感覚が錆付きつつあったのだ。

 声を出すことも考え付かず、黙ったまま両目を見開いてただ見上げる。


 衣織に分かるのは、相手が怒っていることと、自分の命が風前の塵に等しい軽さなことだけだ。

 彼女に理解出来ることは少なく、出来ることは何もなく――もはや癖になってしまった探って動く指先の感覚に、はっと固まった。


 柔らかな衣装の中にある異物の感触。

 貰った薬。――"良く眠れる薬"だ。

 何もないと思った出来ることを見つけてしまって、衣織はただ震え上がった。"これ"の使い方は、望まなかったが知っている。

 こういうとき(・・・・・・)にこそ、使うべきではないのか。

 衣織は衣越しにそれを握り締め――


――ただ顔を伏せて身を丸めた。


 他者を傷つけることなど考えたこともないただの村娘には荷が勝ち過ぎて、衣織は却って動けなくなったのだ。

 そうして、手の中にある手段を考えることを止めて、それまでやって来たようにした。身を丸め、目を瞑り、(わざわい)が過ぎるまで耐える姿勢を取っていた。




 小さく丸まる衣織に、ふんとひとつ鼻息が降った。

 男は未だ不愉快そうながらも、一応矛を収める。


 元から彼は贄の少女を害する気はなかった。ただ少し脅して怖がらそうと思っただけの行動である。

 無駄な傷を負わせては、万が一連れ帰るまでに死んでしまっては意味がない。

 ただ歯向かおうとするなら面倒だから、力関係をはっきりとさせておけば扱いやすいかもしれない。それだけのことである。

 力弱い癖に生意気を言うので少々気に入らなかった、というのも嘘ではないが。


 怯えて身を縮め震えている有様を見て溜飲が下がった。


「ふん、一度目は見逃してやろう。だが次はない。口には気を付けることだな!!」

 威嚇を乗せて言ってやれば、頼りないほど小さい肩がびくりと震えた。




「おい、おいおい!何してる、早くしろ!」

 開きっぱなしの扉から、抑えた声が掛かって、衣織はまた盛大にびくついた。


 怯えた目を向けた先に居たのは、目の前の男よりふた回り以上は小さいもう一人の男だった。

 彼はちょこまかと動いてさっとお堂に入り込み、二度三度と入って来た扉を振り返る。


「居たんなら何ぼうっとしてるんだ!」

「…わしに対してそんな口を「小芝居打ってる暇はない。早くしろ、奴らが来る…!」


 『お山さま』は、ぞんざいな口調を嗜めようとしたようだったが、さっと顔色を変えて扉を振り返った。

 雑な口を利かれて、怒りっぽいお山さまがまた怒り出さないかと恐々としていた衣織は、怒るどころか小男の様子が移ったようにそわそわとし出したのを見て、恐怖の中ですこし困惑する。


「来るのか!?」

「そうだ、合図があった!早くしろ」


 言うなり小男はくるりと振り返ると、そこに供えてあった供物から、幾つか餅やら根菜を掴み取って懐へ突っ込む。『お山さま』もまた振り返って、衣織の、身を引きすぎて今や伸び切った右手へ手を伸ばす。


「ひっ」

 二度目の小さな悲鳴を上げて、衣織はまた目を閉じた。暗闇に閉ざした目蓋の向こう側から何かが千切れる音がして、次に強すぎる力で右腕が引っ張られる。


「きゃあ!?」

「静かにしろ!」

「お前こそ静かにしろ!見つかったらどうする!」


 思わず目を見開いて悲鳴を上げたのを理不尽に怒鳴りつけられ、さらにそれを押し殺した叫びが叱りつける。

 その構図の奇妙さに混乱しながら、衣織は必死に痛みに耐えていた。

 彼女は気が付けば、右腕一本で吊り上げられていた。手首を握った大きな手は、『お山さま』のものだ。

 つま先が床を掠めるほどの高さに吊るされて、一息に持ち上げられた肩が抜けそうに痛む。


「行くぞ、早く!」

「分かった!」

 言い合うのが聞こえるなり、視界がぐるんと回る。

 腹に衝撃があって息が詰まった。

 回った視界は高い位置で止まる。衣織は『お山さま』の背後を向く形で肩の上に担がれていた。

 今まで座っていた柱の近くを見下ろして、その場所に千切れた縄がだらりと長く伸びているのを見つける。

 それに何を思う間もなく、ぐんと体全体が引っ張られるような衝撃があって、すべての物が流れ出した。


 衣織を担いだまま『お山さま』が走り出したのだ。


「あっ…!」

 びゅんびゅんと耳元で風が唸り、物凄い速さで景色が通り過ぎていく。

 馬にも乗ったことがない衣織にとっては、想像の埒外も良いところの速度。しかも前が見えない体勢に、今までと別種の恐怖が湧きおこる。

 なんとか手を大きな背中に突いて身を捩ってみたが、乱暴に揺すられた拍子に強かに腹を打ち、ついでに背中にまで痛みが走って呻く。


「ええい、暴れるな!でないとただじゃ置かんぞ!」

「うるさい!奴らに聞こえたらどうする!」


 地声が大きい片方に、もう片方が小声で、しかし半狂乱に食ってかかる。

 幸か不幸か、人とは状況に慣れる生きものだった。

 衣織は未だ混乱と恐怖の中にあっても、いや、だからこその本能なのか、彼らの様子を受け止めることが出来るようになりつつあった。


 そうして、嫌な予感が膨らんでいく。

 彼らの様子が、何かに似ているような気がしてならないのだ。


――――…応太(おうた)


 今まで思い出すことなく、二度と考えることもないだろうと思っていた少年の姿があぶくのように記憶の中から浮かんで来て、つい心の中で呟けば、まさかと思いつつも確信に変わる。


 しきりに周りを窺って、早く早くと焦って、衣織を強引に急かした。

 怯えて周りを見回すあの様子と、この二人の落ち着きなさが脳裏でぴたりと重なった。


――――どうして?

 三者はあまりに違う。なのに同じだと思ってしまえばもうその考えは勝手に走り出す。


――――確か、あのとき応太は何をしてただろう。

 そう、村人の目を盗んで、衣織を連れ出そうとしていた。

――――怖がってた。

 捕まればただでは済まないことを知っていて、見つかることを恐れていた。

――――この人たちも…。

 そうだ、言ってはいなかったか。


『奴らが来る』

『見つかったらどうする』

『奴らに聞こえたら』


 まるで追われている(・・・・・・)かのような(・・・・・)


――――どうして。

 巡る思考はひとつの疑問にぶつかる。


 お山さまは、あの大雨を瞬く間に収めて見せた、あの大いなる力ある神が何から逃げるというのか。

 いつも泰然と白い霧を纏って、人の営みを遥か高みから見下ろしているのに、膝元(ひざもと)ともいえるこの場所で、一体何から?


 男たちが進む方向を変えたのはただの偶然だった。

 少しでも進みやすい道を選ぶための、少しの角度の修正に過ぎない。

 しかし、その少し変わった景色の中に、衣織は木々の切れ目を見つけた。


 正確には、木々の合間。葉の隙間から覗く、"白い山"を見つけてしまった。

 遠目にも月の光を白々と返す、霧を纏った霊山の姿。――白鳴山(はくめいざん)


 進む方向が見えない衣織が見るのは、当然背後だ。


 この男たちは、白鳴山から遠ざかっている(・・・・・・・)


 お山さまは、白鳴山(あの山)に住んでいるのではなかったのか。なぜ山へ帰らないのか。

 そもそも神があの山に住んでいるというのが村人たちの思い違いかとも思ったが、それはあり得ないことに気が付く。

 なぜなら衣織は見ている。


 白鳴山から伸びた(きっさき)が、分厚い雲を断ち割っていくのを、この目ではっきりと。


 ざっと血の気が引く。

 示す事実は、思いつく限りひとつだけ。


「あなたたち、お山さまじゃないのね!?」

「黙れ!!」

 動揺に裏返った高い声は大きく響き、男は更に焦って衣織を叱り付けた。


「おい黙れ、じゃないと」

「ちっ、おいいい加減にしろ!それ(・・)黙らせて来いよ、先に行く!」

「なっ!?待てよ!」


 男の片割れが制止を無視して足を速める。

 彼は持てるだけの品を抱えていたが、それでも相棒よりも荷物は少ない。元々の足の速さもあったのだろう。瞬く間に木々の合間を遠ざかって見えなくなった。


 そんなことには構うことなく、衣織はどこにそんな力があったのかと自分でも驚くほどの勢いで無茶苦茶に暴れた。


「離して!!離してよ!!嫌!!!」

「ええい黙れ!大人しくしろ!!」


 これが終わりと思い定めたはずなのに、自分を連れて行くのが神ではないと知った途端湧いて来たのは凄まじい嫌悪感だった。

 自分を担いでいる手から嫌な臭いのする黒くて汚い何かがにじみ出て来るような気さえして、衣織は気の狂わんばかりにもがいた。


 対する男は女、しかも無力な子どもなど鼻にもかけない力を持つ。逃がさないように担いでいることなど簡単だが、それは前提に過ぎず、肩の上で暴れる少女を迅速に黙らせることこそが必須だ。

 しかし軽く掴まえていられても、黙らせるのは骨が折れた。

 何しろ男は是が非でも少女を生きたまま連れて行かなければならない。

 男の力は強過ぎて、下手なことをすればか弱い命など力余って捻り潰してしまいかねないという(おそれ)が彼を躊躇わせた。

 皮肉にも、衣織のひ弱さが最大の危険を遠ざけていたのである。


「もう構うか!黙れ!!」

 しかしその危うい均衡は長くは続かない。すぐそこに追手が迫っているかもしれない焦りが彼の結論を促した。

 このままでは人柱が手に入らないどころか自分の命も危機を迎える。それでは本末転倒なのだ。


 暴れる衣織に奮闘しながらも進めていた足をついに止めて、男は衣織を肩から投げ落とした。

 悲鳴を上げて地に落ちた衣織は、強かに背中を打ち付けて呻く。幸いにもそこには分厚く落ち葉が積もっていて、怪我はない。

 だが受け身も取れない彼女には十分な衝撃だった。


「かはっ!」

 身動き出来ない衣織の腹に足を置き、凶悪な形相で男が真上から睨み付けた。

「もう我慢ならん!よく聞けよ小娘、これからひと声でも上げれば今ここで(くび)り殺す!!」


 本物の殺気に晒されて、衣織の頭に上った血が一気に下がる。

 がくがくと震える体を足に感じて、男は脅しが充分に効いたことを知る。


「…だがな、大人しくしているのなら今しばらくは生かしておいてやろう」

 目を細め、猫撫で声で少しの希望を目の前にぶら下げてやる。隠しようのない(なぶ)る調子を帯びた笑みが浮かぶ。


 見開かれた瞳に涙が一杯に溜まるのを見て、男は暗い喜びを感じながら陽気に告げた。


「まあ、どちらにせよお前は我らに喰われる定めだ。いつ死のうともお前にはあまり違いはなかろうがなぁ!」


 ひくっと少女の喉が鳴る。

 目一杯の悲鳴は先の脅しに堰き止められて喉元で詰まって消えた。

 しかしながら底知れぬ恐怖と絶望が膨れ上がり、涙に変わって頬を滑り落ちた。


















 



「あれ?」

 間の抜けた声が滑り出た。

 オレは少しだけ開けていた扉を全開にする。


「居ない…?」

 祠の中はひっそりと静まり返り、闇ばかりが溜まっていた。

 中に居るはずの女の子は影も形も見当たらない。


「どうしました?」

 ひょこひょことキツネとタヌキが上がって来て、横から祠を覗き込む。


「居ないんです…お供え物はあるんですけど」

 小さな祭壇の脇に小山になった品々を見る。


 暗くてよく見えないが、芋が積まれ、瓜が置かれているのは分かる。あちらにある足つきの台に乗っているのは無花果(いちじく)や梨、柿だろうか。他にも袋があったり、箱があったりと、中身が分からないものが幾つかある。

 俵もふたつばかり見えるし、その横に置かれている(かめ)からはほんのりと酒精が香る。


 オレの故郷の秋祭りよりも沢山の品々からは、これを用意した里が豊かなのがうかがえる。

 それに、採ったばかりに見える作物は立派なものばかりで、出来の良いものを選りすぐったのだと直ぐに分かった。

 つまりはそれだけ、村人たちが師匠を敬う気持ちが強いのだと思う。

 なのに、主役であるべきものが欠けているのだ。


「あれまぁ…どうしたんでしょうね」

「これはまぁ…どうしようもないですね」

「ええ?」


 一番大事なものがないというのに、お二方はどこまでも呑気に見回した。


「たまにあるんですよねぇ、逃げる人が」

「そうそう。小さい刃物をこっそり忍ばせておいて、上手いこと」

「え、逃げたって…どうするんですか!?」


 オレは慌てて戸口を振り返った。

 夜の林を背景に座り込んだ、陣さんが豪快にひとつ欠伸(あくび)をした。


「どうもしませんよう」

「えぇえ!?」


 焦るオレを見上げて、権太郎さんと釿次郎さんはまぁまぁとあくまでものんびりとオレを宥める。


「だってねぇ、主さまは無理に人柱が欲しいお方じゃありませんし」

「人身御供がなくたって、別に他の里と差別するなんてことはありませんし」

「それに、逃げたくて逃げた人を追っかけて、余計に恨みを買うこともありませんよぅ」

「追っかけられたら怖いもの。望まれないのに迎えに行っても、怖がるばかりで可哀そうでしょうなぁ」

「でも…っ」


 反論は途中で詰まる。

 確かに、人身御供にされるなんて、本人にしてみればそれは嫌だろう。

 師匠はとても優しいし、来た女の子を間違っても傷つけたりはしないし、来た後のこともきちんと考えていらっしゃるのだけれど、人柱本人には知る由もないことだ。

 だから、逃げ出したいのは普通なのだろう。

 そして逃げて自由になったのなら、それはそれで良いことなのではないだろうか。


――――師匠は別に、居なかったって言ったら『そうか』で済ませそうだし…。

 考えてみればそれほど問題はないように思えて、オレはすっきりしないまま曖昧に頷いた。


「さ、荷造りを手伝ってくれますか」

 迷う素振りで考え込んだオレに、やんわりと目尻を垂らして権太郎さんが言った。


「そぉれ!」

 掛け声と共に、ぼぅ、と小さな音がして、青白い光が堂内を照らし出す。

 見れば釿次郎さんの前足の上に、小さな青い炎がふよふよと揺れていた。


「これって、狐火(きつねび)ですか?」

「そうですよ!これで良く見えるでしょう?」

「はい…そう、です、ね…?」


 青白い火を見ていると、何かが記憶の底から蘇ってきて、オレはぼんやりと虚空を見つめた。


「暗い部屋、揺れる青い火…白い、壁…うっ…頭が…」

「さんたろさん?どうしましたか」

「……………なんでも…そう、なんでもないです!さあ、ちゃちゃっと荷造りして、ささっと帰りましょうそうしましょう!!」


 オレは考えるのを強引に止めた。

 わりと結構しっかりと、強制肝試し事件はオレの心に根を張っているようなのだった。




「さんたろさん、こっちにどんどん持って来てくださいな」

「はい!」


 オレはそこいらの物をかき集め、権太郎さんが広げた二枚の風呂敷の上にどんどんと運んでいく。

 多いと言っても、三名でやればそこまでの量じゃない。

 程なく釿次郎さんと力を合わせて、ごろんと最後の俵を転がし込んで、ふぅとひと息吐いたところで…これどうやっても風呂敷に包めるもんじゃないよなとかそういう余計なことを考えそうになって、オレはにこやかなまま明後日の方向を向いた。


 オレは悟っていた。

 妖怪たちがやること成すことすべてに驚いていては身がもたないのだ。

 どうせ、夜でも昼のように明るい部屋を指して『なぜ』と問うたときのように『術だ』のひと言で片付けられてしまうのだ。

 きっとあの風呂敷はびよーんと伸びるか何かして、山積みの荷物を容易く包み込み、ついでに小さくなったり軽くなったりして、彼らが背負える荷物になるのだろう。

 術とはなんと素晴らしい。

 荷車に積んで引っ張ったりしてあくせく働いている普通の人たちが知れば、努力が馬鹿らしくなって泣くか笑うか怒り出すに違いない。

 この世は実に理不尽である。


「…って、あれは?」

 逸らした目線の先、柱の陰に白っぽいものがちょろりと覗いているのを見つけて、なんとなく興味を惹かれた。

 お供え物がある方とは祭壇を真ん中に置いて反対側の壁際だ。

 もしかしてこっちにも何かあるのだろうかと、軽い気分で近寄って、柱の裏に回り込む。


「縄?」

 拾い上げたのは白々とした縄だ。

 古いものがほったらかしになっているのかと思ったが、青い光の中で矯めつ眇めつしてみても目立った汚れはなく、触ってみた限りでは、短く切れた端がぴんぴん飛び出ていることもない、古いどころか真新しい品だった。


「切れてるけど…」

 それなりの長さがある縄は、その片端はきちんと切り揃えられているのに対し、もう片側は不揃いにほつれてばらばらになっている。


 言い知れない予感が背を這い登った。


「…ねえ、ごんたろさん」

「はいはい何ですか?何か見つけたんですか」


 呼べばほてほてと軽い足音が近寄った。

 振り返った顔が強張っているのに気づいて、不審そうに首を傾げた。


「さっき、人柱の人が逃げることがあるって言ってましたよね」

「…ええ、言いましたよ」

 向こうで作業をしていた釿次郎さんが、怪訝そうにこちらを見た。


「小さな刃物を隠しておいて、って言ってましたね」

「…そうですねぇ」

「ってことは、ですよ?刃物で切らないと逃げられないんですよね?もしかして、人柱って、祠に来たら、縛られる、とか…?」


 ふたりはちょこちょこと寄ってくると、オレの手元を見て何かを納得したようだった。


「ええ、まあ、確かにそうです。村の人たちにとっては主さまへの大事なお礼ですからねぇ、一応逃げないようにはしてますね」

「でもでも、傷が付かないようにはちゃんと気を付けてるはずですなぁ。縛られてるからって、痛い目に遭ってはないはずです」

「だから、さんたろさんが心配しなくても大丈夫ですよう」

「そうそう…」


 後半は一切耳に入って来なかった。

 確認したことを何度もなぞり、手の中にある縄を凝視する。


――――じゃあ、この縄は、人柱を縛ってた縄だ。切れてて…でも、おかしい。


 何故なら、縄の片側は途切れ、ざんばらに乱れているのだ。

 刃物で切られたというよりも、強い力で引き千(・・・・・・・)切られたかのように(・・・・・・・・・)


 ざっと、このひと月で学んだ敵の情報が記憶から掘り起こされて流れ出す。


 猿。群れる(あやかし)

 目くらましや結界術を使うが、警戒すべきは肉弾戦だと習った。

 俊敏に木々の間を跳び回る膂力と人に比べものにならない体力と怪力を持っている者も居ると。


――――怪力。

 手の中にある縄は、人では到底引き千切るのは無理だ。

 だが…それが、妖なら、どうか。


「権太郎さん、釿次郎さん!」

「えっ、はいな!?」

「ほぇっ!?」


 オレは焦りのまま、叫ぶようにふたりを呼んだ。

「人柱は猿に浚われたのかもしれません!!これ、刃物の傷じゃない!こんなのを千切るなんて人じゃ無理だ!!」

「さんたろさん、兎に角落ち着いて」

「落ち着いてる場合じゃありません!猿に人が!師匠の人柱が!このままじゃ食べられて「さんたろさん!」


 強い口調に圧されて一時黙った合間に、ふたつの前足が左右から腕に触れた。

 宥めようとする意志。彼らの心は穏やかで、動揺は少しも見当たらなくて、オレは少なからず混乱した。どうしてこんなときに落ち着いていられるのか。

 彼らは異常なほどいつも通りの優しい声音で話し出す。


「大丈夫ですよぅ。主さまは、ひとり受け取る人柱が少なくたって充分お強いですからなぁ」

「例え人柱ひとり分の力を得たって、お猿に何も出来やしませんよぅ。主さまが負けたりはしません。心配は要りませんからねぇ」

「…!!そんな話じゃないでしょう!!」


 生じている話のずれにふたりは未だ気付いていないのか、小首を傾げている。


「人一人の命ですよ!?師匠を信じてる人が死のうとしてるんですよ!!迎えるべきこちらがどうして放っておけるんですか!!」


 責任がある。そう思った。

 それと同時に、違う、とも思った。

 自分でも言葉に出来ない。だが大事なことは、責任などではない。もっとずっと血が通っていて、温かいものだ。山のみんながいつもくれるような何かだ。

 もどかしい想いを抱えてただ祈るようにふたりを見る。


 ああ、と彼らは納得したように頷き合った。

 伝わったのかと安堵しかけて


「そういえば、さんたろさんの同族(・・・・・・・・・)でしたねぇ(・・・・・)


 緩みかけた心は、吐こうとした息ごと凍り付いた。

 向き直った彼らは、少し困ったように見上げて来ながらも、穏やかな調子を崩さない。

 瞠目したオレを(うかが)って、彼らは優しく…この上なく冷酷に告げた。


「同族が酷い目に遭うかもしれないって心配するなんて、さんたろさんは良い子ですねぇ。それにちゃんと完璧にお仕事をしたいって思うのは、さんたろさんの良いところですねぇ」

「でもね、さんたろさんのお仕事は、祠にある供物を(・・・・・・・)ちゃんと持って帰ることですからなぁ。人柱は居なかったんだし、別に主さまも怒ったりはなさいませんよ」

「えっ…!」


 まさに絶句だ。何も言葉が出ない。

 察してしまった。彼らとオレとの価値観の違い。認識の違い。


祠に人柱は居な(・・・・・・・)かったんですよ(・・・・・・・)


 彼らには、祠から盗られたものを、取り返してまで運ぼうという気持ちがそもそもないのだ。

 仕事は、祠に置いてあった供物を持って帰る、ただそれだけだという、認識。


 そうしてそれが生きた人であっても関係ない。

 そこまで人に思い入れがない。


 仕方がない。だって彼らは――人じゃない。


「もしかして、追っかけたいんですか。さんたろさんは」

 うんうん唸って考えながら、権太郎さんが言う。


「は、い…!」

 そう返しながら、頑張ってどうにかオレを理解しようと考えてくれているのを感じ取って、オレは背筋に寒さを覚えた。

 彼らにとっては…頑張らないと理解できないことなのだ。

 オレと彼らの間に、致命的な隔たりがあると、痛いほど思うのは始めてのことだった。訳の分からない焦りが高まる。

 オレと彼らが別のものなのだと突きつけられれば、どうしようもない不安と焦燥がそこにあった。


「でもねぇ、どっちに行ったかもわからないのにどうやって追うんです?」

「それは…あ!そうだ!陣さん!!」


 希望を見つけ出して、オレはぱっと動き出す。

 祠を飛び出して、外で待っている頼みの綱に駆け寄った。


「陣さん!どっちに人柱が運ばれたか臭いでわかりませんか!?」

「…わかる」

「良かった!だったら「三太朗。それは、いけない」


 静かな声が、オレの言葉を押し留める。

 強い眼が、勢い付いた意思さえ怯ませる。立ち尽くしたオレに顔を近づけて、子どもに言い聞かせる根気強さで、低い穏やかな声をゆっくりと紡ぐ。


「三太朗。我らの群の仔よ。思い出すが良い。月がひとつ生まれて死ぬほどの間学んでいたのは、縄張りへ出て、無事に主の下へ帰るためのものだったはず。それ以上を、自らに出来ることをはき違えてはならない」


「それは…でも!」

 オレは体中の何か力強いものを探りかき集めるようにして、必死に黄色く光る眼差しを見返した。


「確かに、オレが習ったのは逃げることぐらいです!でも、陣さんや権太郎さんと釿次郎さんが居れば、追うことも出来るはずです!!」

「ならぬ」

「なぜ!!」


 楯突く小さなものを前に、苛立つよりも寧ろ愛おしむように、巨狼は目を細めた。


「一に今の我らの役目は、お前を連れ帰ること。同胞でもない者のために、大切なお前を危うくするような勝手は出来ない。二に、迂闊に敵方深くまで行くのは愚行。それをするほど我らは油断していない。如何に自らに信があろうとも、敵を侮ることをこそしてはならない。僅かの油断が危機を招くことは、嫌になるほど良くあることだ」


 理路整然と諭されるほどに、オレを支えて張り詰めていたものがしぼんでいく。

 陣さんの言葉は正論そのもので、オレが投げ返すことが出来ない重さがあった。


 反論なんて出来る訳ない。

 彼らは…師匠たちは、みんなこんな風にして、優先順位を付け、余計な危険を避けて、永い、ながい間あの山を守って来たのだと、そう、悟ってしまったから。


「お前は聡い。良い成獣(おとな)となるだろう。…無事に育て」


 肩を落として俯いたオレにそっと頬を摺り寄せ、陣さんは褒めてくれた。

 ゆっくりと頭が冷えていく。


――――なんで、オレはこんなに必死になってるんだろう。ここに居たのは見ず知らずの人で、皆にとっても…そんなに大事なものじゃない(・・・・・・・・・)


 居たら少し得なのかもしれないが、危険を冒してまで手にする価値はないのだと、みんなが思っているのは今や明白だった。

 確かに納得できないところはあるけれど、陣さんたちを是が非でも説得しようと思うほどではない。


「わかり、ました」


 ややあって力なく告げた了承に、保護者たちは銘々頷いて微笑んだ。

「じゃあ帰りましょう」

「ええ、帰りましょう」


 荷物を抱えたふたりに促されて、身を低くした陣さんの背中に上る。

 黙ったままのオレを誰も責めたりしない。彼らは優しく、いつも通り見守っていた。


――――これでいい。だって、オレは…人じゃなくなるんだから、人を、人だからって、気に掛ける必要はもうないんだ。


 (どうぞく)であるということを取り除けてしまえば、オレが人柱を案じる要素は、師匠が手にするはずだったもの、ということしかない。

 その師匠にとっても、あまり重要ではないと言う。


 オレだって、他人より自分が大事だ。


 そう思ってしまえば、助けたいと思う気持ちを発する素はもう見当たらなかった。


 よっこいしょっと掛け声をかけて、最後に釿次郎さんがよじ登り、それを確かめた陣さんがゆっくりと立ち上がる。


「では掴まれ」

「…はい」

 頷いて身を伏せる。狼は軽やかに駆け出した。



 そのとき、静かな夜の向こうから、唐突に何かの奔流が押し寄せた。


 熱い、だが触れると寒い。爆発する勢いでオレを喰らい、呑み込み、染み入り、掻き乱し、揺さぶり、叩き付けるような衝撃をもたらした。


 それは残らず灰となるまで焼き尽くされるような恐怖。(こご)えて()て付き芯から砕けるかと思うほどの絶望。

 遠くにあって手に取るように分かるほど濃厚な、誰かが放つ声なき最大級の悲鳴が、信じられないほどの強さで以てオレを打ち据えた。


 その(みなもと)は、ごく自然に理解された。

―――人柱の人だ。


 体が強張る。沸き立つ熱が駆け上がる。

 そうして、惑い曇って閉じかけた目が、開く。


 人柱は――彼女は(・・・)生きている(・・・・・)のだという悟り。実感。

 人柱、生贄、人身御供。そう呼ばれて物のように扱われて、呼んで想像した無機質な何かではない。ものを想い、熱を持ち、泣き笑うもの。


 彼女が発するこれを、オレは知っている。

 命尽きんとするときの暗い情動。底なしの恐怖。

 狩られる獲物の悲歎(・・・・・・・・・)


 満月の夜がオレを包み込む。騒めく木々が、暗い細道が、彼女の孤独と恐怖と絶望が自らの同質の過去と混ざり合い、混乱と動揺に濁った思考を突き抜けて、易々とひとつの心へと辿り着く。同時に迷いも躊躇いも何もかもが消え去って、すっと思考が研ぎ澄まされる。


 真っ直ぐ見つめた。

 助けたいと思った気持ちの最奥。

 オレの真実。


 オレは――彼女は、オレだ(・・・)


「ごめんなさい、行きます!!」


 オレは駆ける巨狼の背から飛び出した。


 驚きの声と制止の叫びは耳に入ってそのまま抜けた。


 走った。

 あのときと同じ満月の下、あのときと同じ暗い木々の隙間を。

 かつて独り駆けたのは逃げるため。今は、真逆の目的を持って。


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