七十五 祭りの準備
それから忙しくなった。
師匠は約束通り、祭りの日の手伝いに必要なことを教えてくれるようになったからだ。
遊ぶ時間は減ったけれど、苦ではない。それどころかやっと役に立てるのかと思うと嬉しかった。
山の外に出てのお役目。
しかも、オレひとりではないにしろ、敵がいると分かった上での外出だ。
安全な山でのほほんとしてるより危険なのは間違いないけど、師匠の配下が一緒だって言う話だから、怖いとはあまり思わなかった。
戦いとか防衛のお手伝いではなく供物の回収というのが情けないけど、最初はこんなものだろう。
いつか必ず皆と肩を並べられる日が来るさ、と思っておく。
今回は他の方も一緒な分、肩を並べると言えないことはないし、山に来た最初を思えば大躍進だ。
まず教えられたのは地理だった。
ばさりと床に広げられたのは、座布団を六枚並べたよりもなお大きな地図だ。
「すごい…」
思わず感嘆の声が漏れる。
その地図は真ん中に白鳴山を置き、その周辺一帯の山や谷、森に川といった地形、そして人里が髪の毛程の線で書き込まれ、沢山の色を使って鮮やかに塗られた、恐ろしく詳細で鮮やかな品だった。
食い入るように見入っていると、師匠が「気に入ったか」と可笑しげに笑った。
「これがこの山の縄張りだ。この範囲を、張が見渡し、陣が見回っている」
地図上に走る白いいびつな円をぐるりと指が辿った。
白い線は、ほぼ地図の目一杯の範囲を囲っている。
白鳴山の大きさを考えればかなりの広さだ。
「陣さん?師匠、陣さんはいつも山にいらっしゃるんじゃないんですか?なのにこの広い範囲を見て回ってるんですか?」
山に出るといつもどこかには居る灰色の巨狼を思い出して訊いた。
地図を見る限り、一直線で端まで行くなら、陣さんの足の早さだと直ぐだろうけど、隈無く見回るのだとしたら、いつも外にいるぐらいじゃないと流石に無理だと思う。
尤も、オレの前では実力を隠していて、いざというときには『これが私の真の姿だ!』とかいって別の形になったり、ものすごい力を発揮して今よりもっとずっとすごい早さで走れるようになるとかだったらわかる。ていうかそっちが良いな。かっこいい。
「陣には配下が居てな、普段はそいつらに見張らせている。夜には陣も出て見回り、その際に報告を受ける。だから、お前がいつも外に出る刻限は山に居るだけだ」
師匠の説明は予想とは違ったけど、なるほどと思った。
ヤタさんに部下のカラスが居るように、陣さんにも配下が居るのだ。
陣さんを一回り小さくしたような狼の群れを思い浮かべた。うん。もふもふだ。悪くない。
「緊急時には遠吠えで知らせ合っているから、山の外にいるときに遠吠えが聞こえたら気を付けろ」
想像上の狼の群れが、陣さん張りの凄まじい声で一斉に吠えた。
近くに居たオレは為す術なくきーんってなってくらくらっときてばったり倒れた。
「はい」
真剣に頷いた。
"吠える狼に気を付けろ"は、オレの心に深く刻まれた教訓である。師匠に言われずとも、絶対にやらない。
……冗談はさておき、遠吠えが聞こえたら緊急事態だということだとオレはちゃんと理解した。
師匠は良しと頷いて、地図の五ヶ所を示した。
「さて、ここが人里だ。そしてこちらが祠。供物は祭りの日の月の出に、村から祠へ運ばれる」
村はどれも地図の端の方にある。
というか、白鳴山の裾野は広くて、しかもさらにふたつの小さな山があるので、平地は地図の外側に少ししかないのだ。
次に示したのは三ヶ所。
いずれも集落よりも白鳴山に近い位置にある。
周囲はどうやら林だ。
「オレはここにお供えを取りに行くんですね」
「そうだ。この内のひとつ――ここだな」
示されたのは、山の南側にある印だった。
他の祠よりも少し遠いように見える。近くにある里はひとつ。
一番地図の外側にある村だ。
「分かりました。近くの村はひとつってことは、…ひとり、迎えに行けば良いんですね」
「その通りだ。他の者だけだと会うなり怖がって取り乱すやも知れんが、お前が居れば大丈夫だろう」
「えぇ…?大丈夫、なんですかね」
オレは前髪を引っ張ってみた。
いつも通りの変な色をしている。こんな髪のやつがいたところで、普通に怯えると思う。
だが師匠は笑って「大丈夫だ」と繰り返した。
「考えてみろ。陣や弦造が居るんだぞ。お前のような人で、しかも子どもが居ればそれだけで少しは落ち着くだろう」
「……確かに」
中身は文句なく優しいけど、外見はどう考えても若い女の人が見て和むとは思えない巨体を思い出して、失礼ながら同意せざるを得ない。
――――権太郎さんや釿次郎さんなら、人畜無害そうだけど…いや、後足で立って歩いて喋る獣ってだけで明らかに妖怪だから、駄目かもしれない。
「片方には紀伊と武蔵を。もう片方にはお篠と弓を振り分ける」
女の子を怖がらせないことを最大限に配慮した振り分けである。
紀伊さんと武蔵さんなら、翼を仕舞えば普通の少年にしか見えない。
お篠さんと弓さんは、やっぱり女性だから、その分気安いかもしれない。
お二方はひと目で妖怪だと分かってしまう外見だけど、他に人に見える方と言えば師匠と――
「次朗さん…は」
「あいつは怖がる女子どもの扱いには向かん」
「でしょうねー」
この振り分け以上のものはなかろうとふたりで頷き合った。
――――なるべく女の子が怖がらないように頑張ろう。
そう思いながら地図に目を落としたとき、白鳴山の山裾に、ぽつりとひとつ書き込まれたものを見つけた。
「これは…村ですか?」
他の村と同程度の大きさの土地が、村と同じ薄い黄色に塗られている。書かれたいくつもの四角形は家だろう。
ただ、その村は他の集落よりも山に近く――というよりも多分、半分霧の中にあるのではないだろうか。
「…ここが社だ」
「え!師匠の神社!?こんなに近くにあったんですか!?」
オレは改めて神社の表記を凝視した。ここに師匠を祀る人たちが住んでいるのだ。
人はあまり好きじゃないが、思った以上に近いところに人がいたと知っても、何故かあまり嫌じゃなかった。
きっと師匠を好きな人たちだからだと思うからだろう。
師匠は「さて」と空気を変えるように手を打った。
「本当は外へ連れて行って見せてやりたいが、今回は流石にできん。いつもと違う動きをしてやつらに怪しまれたくはないからな。今回は地図で我慢だ。地形を覚えてしまおう」
「はい!」
「よし、では地図の覚え方のコツを教えよう。先ずは自分で思うようにやってごらん」
「分かりました!」
オレはその日の内に、祠とその周囲の地形、それに照らして方角まで分かるようになった。
次の日の鍛練はいつもとは少し違った。
師匠が二の腕ほどの長さの木刀を持っていたのだ。
「これからひと月、武器を持った相手への立ち回りを教える」
「はい!」
オレはわくわくしながら返事した。
武器を相手に戦えるようになったら、それこそ"戦ってる!"って感じだ。
なんかいよいよ強くなってるって感じがするじゃないか。かっこいい。
――――それに、もしかしたら刃物を克服するのが早まるかもしれない。
そう思えば否応なしに期待は高まった。
「何を思っているのかは大体分かるが」と師匠は苦笑した。
「教えるのは逃げ方だ。生き残ることが第一と心得ろ。お前のような体の小さい者がひと太刀でも受ければ命に関わる。向かって行くよりも無傷で逃げ切るのが先決だから、相手の動きを見切り、不意を突いて逃げろ。その方法を学べ」
「あ、はーい」
残念だったが仕方がない。師匠の言うことが正しいのは分かっている。
そもそもオレは不意討ちで襲われたとき、相手が面白半分な双子先輩だとも察することが出来ないほどの大混乱に陥った前歴があるのだ。武器を持った敵を前にして、冷静に対応できるとは到底言い切れない。
それに、刃物を見るとどうなるか自分でも分からないのだし、最初から逃げることだけを考えていた方が無難だろう。
「良いか、三太朗。お前は先ず他の者とはぐれぬようにしていろ。それで敵方と相対することはなくなる。不測の事態が起きてひとりになった場合、そして運悪く相手に見つかった場合のみ、敵と対峙することとなるだろう」
「はいっ」
オレは不満が出ていた顔を引き締め、背筋を伸ばした。
情景描写は聞くだけで不安が込み上げる内容だった。
皆とはぐれた夜の森で、しかも武器を持った敵と出会ってしまった場合、と言われれば、対処を習っておかなければ、落ち着いて行動できないだろう。…いくら訓練しておいても、いざそのときなったら頭からすっぽ抜けるかもしれないけど。
「あの、師匠」
オレも攻撃するわけではないと知って、少し気になったことがあった。
「なんだ」
「木刀は普通の刀の長さじゃなくて良いんですか?」
これか、と言って師匠は手にある短い木刀を見た。
オレの木刀…じゃない、抜けない短刀の使い方を教えてくれるために短いものを用意してくれたと思ったのだけど、そうでないならどうしてだ。
「武器を持った敵への対処を学ぶなら、せめて実戦と同じ大きさの武器に慣れた方が良いのでは?」
「その通りだ」
師匠は嬉しそうに目を細めた。
「よく分かっているな。だからこれを選んだ、と言ったらどうだ?」
「え…ってことは、相手も短い武器を使う…?」
半信半疑に確かめるのを受けて、師匠はそう、と頷いた。
「祠のある辺りは人の手が入らず、木が生い茂っている。長物を振り回す余地はない。故に、短い得物を使う。自由に取り回せぬ刃など荷物でしかないからな。それぐらいなら殴り掛かる方が有利。武器を使うとしてもこのぐらいのものが妥当だ」
このぐらい、と言いながら木刀を持ち上げて見せる。
「もしあいつらが長物、例えば刀を持ってきたとしてもそれはお前に有利に働く。刀が木に引っ掛かったところで隙を突いて逃げればいい。最も注意すべきなのはこの長さだ。故に先ずはこれに慣れるべく鍛錬する。尤も、林にも開けたところがないとは言わんし、そこではやはり刀を使って来るだろう。次には長物を使った訓練もしよう。だが先ずはこちらだ。良いな?」
「はい!分かりました」
よしよし、と頷く。
「先ずは間合いを確かめる。いつもの通りにやってみようか。ああそれと、お前も小刀を使っても良いぞ。刃がなくとも間合いが長いのはやり方によっては有利。先ずは利き手でない方で持て」
「あ、はい!!…利き手じゃない方ですか?」
「そう。次に利き手で持つ。その次には入れ替えながらだ。両方で扱えた方が便利だからな」
「両方!わかりました!!」
それからは、いつものような実践訓練が始まった。
両手で武器を扱えるようになることを夢見て、オレは益々張り切ったがしかし、あくまでいつものような、である。
師匠はいつもの体術を主体に、それに短刀での刺突と払いを織り交ぜた動きをした。
最初は武器にばかり目が行ってしまって、全く別物だと思ってしまったけど、蹴りが飛んできたときに、咄嗟にいつもの鍛錬で身に着いた動きで防いで、普段の動きとあまり変わらないことに気付いた。
いつもと違うのは、厳密に防御側と攻撃側に分かれていないこと。
いつもなら、オレが攻めた後に師匠が攻める側になり、師匠が攻めた後はオレが攻めるのだけど、今回は、最初から師匠が攻めてきて、オレは防御に回った。
最初は防ぐだけでいっぱいいっぱいになってしまったけど、少し慣れて余裕が出て来ると、ひたすら防いだり避けたりするだけなのはちょっと面白くなかったので、隙を見つけて反撃したりもした。
振り抜かれた腕をかいくぐり、外側へ回る。死角に出たところで身を低く沈め、一気に接近して守り刀で一撃!
かん!と乾いた音がして木刀に止められた、と同時にひょい、と足を払われて体勢を崩した。
反射的に受け身をとって転がり、立ち上がろうとしたところで、頭に木刀がまっすぐ落ちてきた。
すっこーん。
「いてっ」
「武器に頼り過ぎだな。だから防がれると動きが止まる。攻めるときは一発入れることよりも寧ろ動きを止めぬことの方が重要だ」
「はいっ!」
オレは返事をして素早く立ち上がった。
これもまた、いつもと違うことのひとつだ。いつもはオレが失敗したらひょいっと投げられるんだけど、今日は木刀で軽く叩かれるのだ。
これも実戦を意識してのものだろう。それは良い。それは良いんだが。
「…ねぇ師匠?」
「なんだ」
「その木刀、オレを叩くとき、普通の木刀よりすごくいい音がするような気がするんですが…」
普通は木刀で人を叩いたら、もっとくぐもった音がするはずだ。
上の兄たちの鍛錬で、防具じゃないところに当たったときはそうだった。
そして、木刀は真剣とは違って切れないが、代わりに洒落じゃないぐらい腫れて数日苦しんでいた。悪くすると骨が折れるらしい……要らないことも思い出してしまった。
とにかく、こんな"すこーん"とか"ぱこーん"とかいう軽くてなんか頭悪そうな音はしないはずなのだ。
「ああそのことか」と言って師匠は、たまに見せる悪戯してる子どもみたいな楽しそうな笑顔になった。
「術だ。この方が楽しいからな」
「オレは楽しくないですけど!?頭の中身空っぽみたいで不愉快なんですけど!?ていうかそんなことに術使わないでくれます!?」
師匠はにーっこりと非常に機嫌よく笑ったまま、木刀をぽんぽんと宙に放り投げる。
「なら、喰らわないようになれば良いだろう?」
「………ご尤もです」
んなろう無茶苦茶言いやがってこのお師匠さまはと憮然としたら、木刀の代わりに手のひらが落ちてきた。
「なに、いつもは攻め手が防がれても一々止まってはいないだろう。お前なら直ぐに出来るようになるさ」
「…はい」
そう言われたら頑張ろうと思うのは我ながら単純かもしれない。
でもしょうがないじゃないか。師匠が出来るって言うんだもん。それって絶対出来るようになるってことだからな?
何せ神さまだし。何せ師匠だし。
――――よっしこうなったら攻めの訓練じゃなくても師匠から一本取ってやる!!
かっこーーん。
「あだぁ!?」
「防御が甘い。攻めようとしたときが一番無防備になる。先ずは守りを固めろ」
「はぁい」
攻めと守りの両方を同時に行うのはとても難しいことだと理解したオレは、いつか出来るようになることを密かに決意しつつ、大人しく防御と回避を先に習得することにした。
斯くして、オレは毎日の鍛錬でいつもより多く痣を作るようになり、それと引き換えに、守り刀を腕の延長のように扱うことが出来るようになっていった。
文字通り、相手の攻撃から身を護る道具として。
訓練の間、師匠はオレが刃物を見ると動けなくなることには一切触れずにいて、オレもまた、相手が武器を持っていたらその時点でもう駄目なんじゃないかと薄っすら思いながら何も言わなかった。
みんなとはぐれなければ良いだけだし。
午後。
いつもなら昼餉を頂いた後は自由時間にしているのだけど、今日は三羽の先輩たちに呼び出された。
「よっし三太朗、今から敵に追われて逃げるときの訓練をするぞ!」
「師匠は今少しお忙しいから、いらっしゃるまで俺らが見てやるぜ!」
「ありがたく思えよこら!!」
「「お前は態度でかすぎだっての」」
武蔵さんと紀伊さんが次朗さんの頭をはたくのに笑いそうになりながら、なんとか「よろしくお願いします」と頭を下げた。顔が見えないようにして誤魔化したとも言う。
「うんよし」
「じゃあ先ずは大事なところからいくか」
双子の先輩が手招きするのに従って木影へ行くと、木の根元を示された。
「追われたときは周りにあるものを素早く把握すること」
「そして使える物はなんでも使うこと」
例えば、と武蔵さんが落ちていた石を拾う。
「只の石でも顔に向かって投げれば、普通の奴はそっちに気を取られる」
「その間に茂みにでも飛び込めば、少しの間でも見失うだろう」
「なるほど」
納得しきって頷いた。
「隙を作って距離を離していけば、いつかは逃げ切れるってことですか」
「んな無茶なことすんじゃねぇよ」と次朗さんが呆れかえった顔で言った。
「てめーはガキで、今回追って来るのは猿の野郎だろうが。てめーが体力で太刀打ちできると思ってんじゃねぇぞ。その前にぜってぇ追いつかれるっての」
「あ…」
それはその通りで、オレは言い返せなかった。
走って逃げたとしても、普通の人の大人相手にも逃げ切る前にオレの方が疲れてしまうだろうし、足は速いつもりだけど、妖怪相手に通用するかと言えばそれも確かじゃない。
――――逃げるときって、ものすごく危機じゃないのこれ!!
「この馬鹿」
武蔵さんがぽんと跳び上がって次朗さんの腰に膝を叩き込んだ。
「いでぇっ!兄貴何すんだよ!」
「言い方が悪いっての!何最初に怖がらせてんだよ!」
「えぇー?びびったのかてめー弱むしゃぎゃっ」
今度は紀伊さんが反対側から脇腹に肘を叩き込んだ。
「対処できるように教えようってのに何学ぶ気削ぎにかかってんだよ!!」
「今お前が何しようとしてんのかちゃんと考えて喋れよ!だからお前はいつまでも馬鹿だってんだろ!!」
まったくもう、と声を揃えて首を振り、そっくりの動きでふたつの頭がオレの方を向いた。
「さて、この馬鹿の言ったことは置いとけ。そうなる前に誰から探してくれる。だから逃げるって言っても時間稼ぎが目的だ」
「それでも走らなきゃいけないけど、要はさ、お前が疲れないようにすりゃいい話だ」
「疲れないように…?」
逃げるのに疲れないとはこれ如何に。
「つまりさ、さっき言ったみたいに石で隙を作って見失わせるだろ」
「そしたら茂みの中でも岩の陰でもいい。ぴったり張り付いてじっとしろ」
「はいぃ!?そんなことしたら直ぐ追いつかれちゃいませんか!?」
オレの度肝を抜いた先輩たちは、涼しい顔で「じゃあちょっとやってみようか」と言った。
案ずるより産むが易し、ということで、オレは逃げる紀伊さんを追いかけることになった。
追っかける方の気持ちが分かれば、逃げ方も分かるということらしい。
「そんじゃ行くぞー」
「はい!」
明るい山の中を、小走りに紀伊さんが走り出し、オレも背中を見失わないように後を追った。
先輩は力の入ってない足取りで軽やかに走っていく。全然本気じゃない。
速さはそれほどでもないし、頑張れば追いつけると踏んで、オレは一気に加速した。
落ち葉を踏む足音が早まり、オレに触れた灌木の葉がせわしく揺れる。
すると紀伊さんは、さっと身を低くして地を擦るようにすると、そのまま半身で振り返ってそれを投げつけてきた。
石が付いていた泥や砂を飛び散らせながらオレの顔目掛けて飛んでくる。
紀伊さんにだいぶ迫って来ていたオレは、慌ててそれを避けた。
「うぉわっ…と、あれ?」
それでも足を止めずに何歩か走りながら前を向くと、忽然と紀伊さんが消えていた。
気を逸らして隠れるのだと話に聞いてなければ混乱してしまっただろう。
「すっげぇ…ほんとに居ない」
「だろー?」
思わぬ近さから声がして、慌ててそちらを向くと、今通り過ぎた木の向こう側から腕が伸びてひらひらと揺れていた。
「息が苦しいかもしれないけど、なるべく抑えるのがコツな。んじゃ、今度はお前がやってみろよ」
「はいっ」
何度かやってみて、上手く顔に向かって石を投げられるようになったところで館の方へ戻った。
「お、来たな。お帰り」
「ただいま戻りました武蔵さ、ん…次朗さん…?」
「おう」
ぽかんとしたオレの前で、腕やら顔やらに異様な模様が書き込まれた次朗さんと、筆を手にした武蔵さんがにやりと笑った。
「んじゃ、技術的なこととか小技はちょっと置いといて、体力作りといこうじゃん?」
「体力作り…って何を」
次朗さんに描かれた模様をまじまじと見ながら戸惑うオレに、次朗さんがふんぞり返る。
「おうおうおう!これからてめーにゃ全力で逃げてもらう!追うのはこのおれさま!期限はししょーが来るまでだ!!」
「了解です…けど、その模様、何なんです?」
んっふっふ、と武蔵さんと次朗さんが悪そうな顔で含み笑う。
「ちょっとばっかし仕掛けしたんだよ。お前には全力で逃げてもらうからなー」
「見て驚けよ、行くぞごらぁ!!」
双子の先輩が揃って屋根の上に跳び上がり、次朗さんが腰を落として構える。同時に、体中の模様がぎらつく光を発した。
「うおおおぉおおおおおお!!!」
両の拳を握り締め顔を伏せるその身が一瞬縮み、次に爆発的に膨れ上がった。
「えっ!?えええ!?」
めきめきと恐ろしい音を響かせて、体中の肉が盛り上がる。
背中が膨らんできて、両肩の後ろから翼の代わりに蟷螂の鎌に似た突起が生える。
腕は太く更に長く伸び、両足も太く、骨は曲がって、獣の後足のような形に変わる。
頭を突き破って牛のような角がねじれ上がり、体中の皮がどす黒い鈍色に変色した。
「次朗…さん…?」
太くなった首が動いて、ゆっくりと顔が持ち上がった。
よく知る兄弟子とは似ても似つかない、怪物の醜悪な顔がにまりと嗤った。
踏み出したかぎ爪の足が、ずぅん、と腹に響く音を立てる。
思わず一歩退いたたオレに向かい、怪物は巨大な鎌を振り立てた。
「ふはははははははは!!!!」
奇妙に歪んだ声音のけたたましい笑い声を間近に受けて、オレは回れ右して全力で駆けだした。すぐ後ろに、巨大で重い何かが空を切って落ちたのを感じた。
耳元について回る耳障りな音が自分の悲鳴だと気づいたのは、息が切れてからのことだった。
たぷん、と水盆の中で水が揺れて、映った像が僅かな間ゆらりと乱れた。
奇妙な盆だった。
鈍い鉄色をした真円は、大人が両腕で円を描いたほどの大きさ。
障子越しに横ざまの光を受けて、張られた水の隅々まで部屋の中を映し込み、その深さは一見して分からない。
代わりに目を惹くのは、縁にびっしりと彫り込まれた記号の羅列。
只人が文章として読めない呪い文字は、ほんの薄っすらと、青い光を発していた。
誰の手も触れないのに、また水がたぽんと揺れる。
じっと見つめた黒い目が、乱れた波紋に呑まれて消えた。
ゆらり、と揺らいだ水は、鎮まる前にまた新たな波紋を描いた。
ふらり、ふわりと揺らめいて、波紋はぶつかり合い、溶け合い、やがて無数の漣になって、すべての像を乱し隠した。
しゃん
遥かな遠くから響くように、洞の中を通ったように、何処とも知れぬ彼方から、涼やかな鈴の音が届いた。
しゃん しゃん
沈黙を等間隔に区切る音を受けたように、漣に満ちた水面に、雨を受けたようなまるい波紋がいくつも浮かぶ。
やがて円い波は小波を消し去り、最後にぽつりとひとつ落ちてから、水面は鏡のように平らに戻った。
いや、そこに映ったのは、盆の前に座る者とは全く違う顔。――女だ。
『かけまくも畏き我が神よ。お久しゅうござりまする』
水に映った女が恭しく一礼した。
彼女が持った神楽鈴が、しゃなりと小さく音を立てる。
「ああ。久しいな、千登瀬。息災のようで何よりだ」
気楽に言った高遠に、女はその優し気な目元を緩めた。
『はい。あなたさまのお恵みを頂けておりますれば、皆息災に暮らしております』
仰々しくはあれ、聞きたかったことを耳にして、天狗はもう一度「何よりだ」と頷いた。
「此度の祭りもまた、柱が供えられる。頼むぞ」
『…仰せのままに』
千登瀬は眉を曇らせた。
『高遠さま。僭越は百も承知でございますが、お願いがござりまする』
高遠は意外そうに瞬きをした。
「お前が願いとは珍しいな。言ってみろ」
『今年は、お山ではなく社にて、娘たちを休ませとうございます』
ためらいなく言ったその顔に、真意を読もうとするかのように黒の眼差しが細まる。
「なぜ?」
『彼女らに、人里へ帰ることの意味を言い聞かせたく』
そう言う千登瀬の声は、かすれて細かく震えていた。
己が神として祀る存在へ意見することは、彼女にとっては並々ならぬ決意を必要とした。
震えるほどに緊張し、畏れ多い行いに己で慄く。
「…お前がそう言うなら、そうしよう」
『ありがとう存じます』
「だが、何があった」
問われて暫く、千登瀬は言葉を探すように目を伏せて、やがて思い詰めたような瞳を高遠に向けた。
『今を去ること二十余年。高遠さまは旱に雨をあそばし、近隣の者は神威を感じて柱を捧げました。その折も、柱の者をふたり、人の下へお返しになりましたのを覚えて居られましょうか』
「ああ。どうしても人の中へ戻りたいと言うから、里へ戻ることは出来ぬと言い含め、竹蔵へ送った」
『つい先日、その内ひとりが戻って参ったのでございます』
「戻って来た?」
つい怪訝な顔で訊き返す。
どうしても社へ行くのは嫌だ、知らない土地でも構わないから人の傍で生きていきたいと、涙ながらに懇願した少女たちのことは、高遠もよく覚えている。
無理やり留め置く気はなく、ならばと幾らかの金と荷物を用意してやり、教え子である昴が太鼓判を押した商家に、住み込みで働けるように話を付けて、配下に送らせた。
出来得る限りの便宜を図って送り出したし、彼女らも一時は唖然と目を見開いたものの、最後には心からの感謝を込めて礼を言った。
それで終わりの話だったはずだ。
『その者は、自分はかつて椰古村からお山へ出された柱であると名乗り、社へ入れて欲しいと申しました。高遠さまのお渡しになったお守りを持っておりましたし、名乗った名は当時聞いたものでしたので、おそらく間違いありませんでしょう』
「その者はどうした」
『俗世の穢れに塗れ、祈りも負わぬ者を御社へ置くことはなりませんので、奥の門を鎖しておりましたら、下の者らが連れて行きました。それからどこぞへと旅立ったと聞きましたが、以後は存じませぬ』
素っ気なく言い放ちながら、千登瀬は思い詰めたような痛ましい顔をしている。
「なぜ戻って来たのか、聞いたのか」
『はい』
女の溜め息が水面を滑って、その心のように像をゆらりと揺らめかせる。
『彼の者は、高遠さまのご忠告に背き、里帰りをしたそうなのです』
「それでか…」
『はい。面差しが残っておりましたのでしょう。村の者に身元を見破られ、追われ、社へ逃げて参ったと。自業自得の行いではございますが、そういうこともあるのだと、来る者たちにも伝えとう存じます』
「そうか。ではよくよく言い聞かせると良い」
『はい。ありがとう存じます』
深々と頭を下げた女は、安堵したように口元を綻ばせた。
それでも目に溜まった悲しみは晴れてはいない。
淡々と、平静な顔を崩さない高遠もまた、ほんの少し遣る瀬ない想いを味わっていた。
あくまでほんの少しだ。ことは彼の身内に関わりないことだから、動じることはない。
だが、かつて自分が忠告し、気を掛けてやったということが、彼の心に少しの影を差した。
怒りはない。
時が経つ内に、危機感は薄れていくものだと、ずっと山を守っている彼は良く知っている。
だから無理はないが、かつて少女の無事を願ったことも事実だった。
「では、一度館で会った後、そちらに送ろう。頼むぞ」
『仰せのままに』
そっと指を伸ばして水に触れれば、ふわりと広がった波紋が千登瀬の顔を乱して消した。
波が静まったときには、水鏡は何事もなかったように部屋の天井を映していた。
「終わったか。あるじよ」
さらりと障子が開いて、配下のカラスが悠々と部屋へ入ってくる。
「ああ。今済んだ。何かあったか」
「何かというほどのことはありはしない。ただ、東都で大祓いがあったとの報を小耳に挟んだが」
「大祓い、だと?」
訝しい顔をした主を見上げ、ヤタはいやに人間臭い仕草で鼻で笑った。
「その様子ではやはり何も感じずか。東領隈なく清め祓い、怪異をたちどころに収める最上の祓いの儀と豪語してはみても、せめて端々ならともかくこの地にでさえ何の変化もないとは笑い話にもなりはせぬな。嘆かわしい。五百年の昔、応竜と共に行われた大祓いは豊芦原全土に届いたものを」
吐き捨てるヤタを前に、高遠の溜め息が畳に落ちる。
「そうか。大祓いならもしやと思ったが、霊流を正すに至らなかったか…」
「うむ。あれでは天地の力どころか、東都とその周辺を清めるぐらいが関の山であったようだ。一応の膿はなくなったようだが、力の流れそのものが歪んでおるままではじきに戻ろうよ」
「…ないよりはまし、という程度か」
「まぁ、焼石に水を注ぐよりは有意義であろうがな」
重苦しい沈黙が部屋を満たした。
このところ、悪い知らせばかりを受け取る。
その中に、東領の全域でちらほらと、天地を巡る力、"霊"の乱れがあるとの情報がある。
以前この山を攻めようとした鬼の一族は、故郷に病が蔓延したため、移動を余儀なくされたという。
その原因は恐らく、霊流の乱れであろうと高遠たちは結論していた。
出来得る限り情報を集めてはいるが、他にあのような例はない。
だが知らないところで同じように故郷を失って移住せざるを得ない者らが居たとしたら、ひと悶着起こるのは避け得ないだろう。
そこが天狗の縄張りであれば、高遠の同胞が犠牲になるかもしれないのだ。
だからこそ、東都で行われる大祓いが上手く行けば良いと願っていたのだが…。
うわぁああああああ
難しい顔を突き合わせたその間を、遠くの山々へ木霊する叫び声が横切った。
うん?とふたりして外へ目を向ける。
ぎゃぁあああああああ
またもや悲鳴が、確かに彼らの耳に飛び込んだ。
しかも微かに、悲鳴に重なってけたたましい笑い声も聞こえるようである。
「…あやつは今日はどうしたのだ」
「……さあ…。走る訓練を、紀伊と武蔵に任せておいたんだが…何をしているのか」
ああああああぁああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛
聞こえる声はもはやひっくり返って、声というより何かそういう獣の鳴き声のようになってしまっている。
声は遠くに行ったり近くへ寄ったり、右へ行ったと思えば切り返して左へ動き、また右へ進むことを思えば、成程走る訓練をしているのだろう。
しかし訓練というには手加減なく走らせているようで、じっと聞いている限りではかなりの速さが出ているように思える。
可愛いこの山の末が、どこからあんな声を出しているのかという悲鳴を上げて、しかも山を全力で駆け回っているという珍事に、ふたりは無言で立ち上がった。
「ぎゃぁはははははは!!」
「ぎゃあああああああ!!!!」
どずんどずんと恐ろしい地響きと、ついでにけたたましい笑い声が追って来る。
教わった何もかもはとっくに頭からすっぽ抜けていた。
追って来る怪物は変形して六本足になり、陣さんより巨大な口をばっくり開いて、その粘つく粘液が糸を引く、小さい刃物のような牙が二重に列を成した口腔にオレを取り込もうと迫ってくる。
六本足に加えて背中から伸びた二本の鎌が時折りオレのすれすれに打ち下ろされて、うすら寒い破砕音が炸裂する。
あれは次朗さんだと分かっている。
感じ取れる範囲では、敵意も殺意も何も感じない。そう分析できる程度に冷静さを保っている。
だが、逃げずには居れない。悲鳴も止められない。怖すぎる。
あまり見た目に囚われないで他者を判断できる自信があったのに、やっぱり見た目というのは大事なのだと考えを改めた。
あと、追いかけてこないことと、気が狂ったように笑ってないこともとても大事だ。
「ぐあっははははは!!捕まえたらくっちまうぞ!!それとあとえーとなんか色々酷いことするぞ!!きっと痛いぞ!!これは本気だ間違いない!!」
「雑!!見た目気合い入ってる割に脅し文句雑すぎ!!」
「うるせぇとっとと走れ!!じゃねえと泣かすぞこらぁあ!!」
ぱっと道の横へ飛び込んで、木の幹を支点に四半周。そのままの勢いで走り続ける。
もう何度目かわからない方向転換をして、今度は館の方へ走った。
そのとき、目の端に救いの神を見た。
「あ!師匠帰って来たぜ!!おい止まるぞ!!せーので止まろうそうしよう!!いくぞ!せーのっ!!」
「…って言って止まったら捕まえるつもりなんでしょ!!知ってる!それ知ってる!!友達相手にやったことある!!てか考えること子どもと一緒ってなんなの次朗さん何歳なの!!」
「今年で八十二!!」
「微妙に人間年齢で想像出来て色々残念だよ!!」
オレは叫び返しながら、必死の想いで師匠の位置を見定めると、最後の力を振り絞って突撃した。
「ししょうたすけてぇええええ!!!」
恥も外聞ももはやない。そんなものはとっくに涙と一緒に流れて行った。
師匠は少し目を見開き、しかし黙ってひょいと濡れ縁から庭に下りる。
こちらに向かって歩いてくる師匠とすれ違った。
――――よかった、助かった…!
瞬間、当たり前だが目の前には館の濡れ縁があった。
全力で走って来た足は、勢いがついて止まらない。
「ぎゃぁあああああ゛あ゛あ゛!!!」
さっきとはまた違った意味の悲鳴を上げて、為す術なく突っ込んで行く。
ぶつかると反射的に目を閉じたその瞬間、体全体を、薄い布か、もしくはぬるい水でもくぐったかのような感覚が押し包んだ。
ふわりと体が軽くなり、足が地から離れて浮かぶ。
あれほどの速度が一気に減じるのを感じて、オレは驚いて目を見開いた。
世界は、薄く光る半透明の白い膜に覆われていた。――術、という言葉が頭の中で踊る。
「全く、元気なことだな。小僧」
呆れたようなヤタさんの声に反応する間もなく、怪物の巨体が軽々と宙に放り投げられるのが見えた。
そんな風に、様々なことを教わりながら、オレはひと月を過ごした。
ちなみに脅かされながらの決死の逃走訓練は、オレの猛反対を押し切って師匠命令で続行され、ひと月が経つ頃には、ちょっとやそっとでは冷静さを失わず、かつ全力疾走でもかなりの間走り抜けられるほどの持久力を手に入れていた。
訓練だけではなく、夜にはしばしば話し合いの場にも同席し、日々入ってくる情報から作戦が詰められ、思いつく限りの事態を想定した案が練られていくのにも立ち会った。
そして今夜、満月が山の端から顔を出す。
――――祭りが始まる。
「必ずやライダーめを討ち取ってご覧に入れます」とかって夜な夜な水鏡に向かって話しかける千登瀬さんが思い浮かんだのは内緒。
当作品は次話から不定期更新になります。済みません(;→д←)
詳しくは活動報告にて説明させていただきます。
打ち切ったりはしないので、そこはご安心下さい。
活動報告↓
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