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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
87/131

幕外陸 侃爾ノ二




「――罪と()ふ罪は不在(あらじ)と、科戸之風(しなどのかぜ)天之八重雲(あまのやへぐも)吹放事之(ふきはなつの)如く、朝之御霧(あしたのみぎり)夕之御霧(ゆふべのみぎり)朝風夕風(あさかぜゆふかぜ)吹掃事之(ふきはらふことの)如く、大津邊(おほつべ)()大船(おほぶね)舳解放(へときはなち)艫解放(ともときはなち)大海原(おほうなばら)押放事之(おしはなつことの)如く、彼方之繁木(をちかたのしげき)(もと)焼鎌(やきがま)敏鎌以(とがまもち)打掃事之(うちはらふことの)如く、(のこ)る罪は不在(あらじ)と、祓賜(はらいたま)清賜事(きよめたまふこと)を、高山之末(たかやまのすゑ)短山之末(ひきやまのすゑ)より――」


 紫宸殿(ししんでん)に、神宜(じんぎ)の官が唱和する祭詞(さいし)が響き渡る。

 しゃん、しゃん、と巫女たちが神楽鈴(かぐらすず)を鳴らしながら舞う。

 かぐわしい(こう)がくゆり、古い木の香りと混じって、僅かな風に乗って広がり薄まり、広がる。


 種々の儀式を執り行うためにある白木(しらき)(きよ)らな御殿は、夜闇の迫る夕日の中でその趣を変え、鮮やかな橙色に色付いている。

 五つ重ねの壇の上にある神招(じんしょう)の大窓が開け放たれたその先は、内裏を守るように伸び上がる坎子山(かんしざん)を背後に従え、紫宸殿の一角である癸宮(みずのときゅう)が見える。

 今居る壬宮(みずのえきゅう)との間に、二本の渡殿(わたどの)が通り、ふたつの宮とふた筋の渡殿に囲まれた、白石を敷き詰められた斎庭(ゆにわ)もまた、黄色い光の下で輝いていた。


 ひと際目立つのは、庭の中央にぽつりとある堂だ。

 真上から見れば六角形をしている堂は、白木の紫宸殿に対してくっきりした丹塗りの柱や、極彩色の彫刻が施された(はり)が目を惹く、小さくとも壮麗にして絢爛な建物だった。


 左右に祝詞を聞きつつ、巫女の舞を下に見て、窓と同じくやはり五段の(きざはし)の上に設えられた高みの席に、一人の男が堂々と座していた。

 纏う壮麗な紫の衣。御立纓(ごりゅうえい)の厳めしい冠を被り、見事な顎髭(あごひげ)を蓄えている。

 歳はもう五十を過ぎたが、その鋭い眼光に宿る知性と意思、気迫は、彼を実際の年齢よりも十は若々しく見せ、どこか武人のような激しささえも感じさせる。

 彼こそが、この東領(とうりょう)を統治する今上(きんじょう)(すめらぎ)その人であった。


 皇は、真正面に見える大窓をひたりと見据えていた。

 正確には、大窓の中央に見える六角堂を。


 皇の居る壇上から臨めば、大窓はこの座所(ざしょ)から堂を見るために設えられているのだと分かる。

 高みから見る景色は、完全な左右対称だった。

 左右に神宜官がずらりと控え、正面下段にて巫女が左右に分かれて神楽舞を奉納し、大窓の左右の壇には、やはり対称になるように花や灯火台が並ぶ。

 座所の背後に控える近衛侍(このえじ)でさえ、二人一組。


 この場に於いて対となるものがないのは、皇と六角堂のみ。

 いや、左右に於いてではなく、前後とするならば、皇と六角堂をこそ対と成すための配置であった。


 ぽぉん、と高く(つつみ)が鳴らされる。

 高く低く変化を付けて、(しょう)竜笛(りゅうてき)が加わった。

 巫女が四人加わり、さらに賑々しく舞い踊る。


 それらに目を向けることもなく堂へ注がれていた視線が、ふと脇へ逸れた。


「…亮南媛(あきらなひめ)か」

「御意」


 しゃなりと滑るように足を進め、一段下に女が立った。

 緋色袴(ひいろばかま)に白い千早(ちはや)を身に付け、長い房飾りの付いた前天冠(まえてんかん)を頭に飾った巫女だ。


 身につけた衣はひと揃い全てが絹。布地と同色で目立たないが、千早の袖から髪を結う紐にさえ緻密な紋様が縫い取られていて、腕に結び、首から下げた組み紐には、(みどり)の勾玉が揺れる。

 さらには冠は輝く金。

 目立つのは房飾りだが、そこここにさりげなく真珠や玉があしらわれている。

 舞っている巫女たちとは比べ物にならない豪奢な装いは、彼女の身分が遥か格上であることを如実に表していた。


 そんな豪華な衣装に身を包んでいるのは、影を含んだ玲瓏(れいろう)たる美貌の人物。

 顔には皺のひとつもなく、櫛目の通った長い髪は艶やかで白髪の一本も見当たらない。

 だが、その底知れない落ち着きを備えた双眸が、古老のような空気を足している。

 まさしく年齢不詳。三十や、ともすれば四十にも見えるのに、二十歳(はたち)前と言われても否定はできない。


 神に仕える謎めいた女は、口元に穏やかともとれるあでやかな微笑みを浮かべ、さらりと袖を払って優雅に拝礼した。

 見る者の目を奪う華を備えた礼はしかし、気のない一瞥(いちべつ)に迎えられる。


「余が今ただ見ているのみであるとて、儀の只中に青竜に仕える神祝(かむほうり)の長が余所見ごとに誘うとは珍しいものよな」

 皮肉さえ見え隠れする素っ気ない物言いをどこ吹く風と聞き流し、亮南媛は微笑みを崩さない。


「これは()なることを。何を於いても参れと(おお)せあそばしたのは主上(しゅじょう)でござりましょう。お召しならばと参上つかまつりましたのに」

 儀式の最中を選んでやってきて悪びれずに言う涼やかな声は、皇の笑いを引き出した。

 皇の低い笑い声は、楽の音に紛れて他へは聞こえなかったが、間近の亮南媛の耳に粘り付いた。


「ほう。呼べば来ると申すか。これまで散々余の命を無視しておきながら言うことがそれか。大した忠義よな」

「畏れながら、妾は東領を支える御柱、守護青竜にお仕えする者。青竜をお支えすることこそ、主上のお助けたると愚考いたしました。特に先のお召しの際は手が離せぬご病状でした故に…。その旨は確かに主上もお分かり下されましたでしょう」

「ふん。確かにそのような(ふみ)を寄越したな。だが貴様が功比(いさひ)の宮へは呼ばれれば飛んで行くのを余が知らぬと思うておるのか」


 詰まらなそうに言い放たれた瞬間、変わらず微笑む亮南の視線がほんの僅かに揺れるのを、鋭い眼差しは見逃さなかった。


「…まあ。いと尊き君に斯様な()(ごと)を吹き込んだのは如何なる者でしょう。お信じなされませぬよう」

 続く言葉は一拍遅れ、その僅かな間に真実味が致命的なまでに抜け落ちていた。

 それでも巫女は表情を崩さない。


「ほう?行ってはおらぬとな?」

「病を得られてからは、妾は片時も離れず守護竜の御元へ(はべ)っておりましたれば」

「よく言う」

「…真実でありまする」


 笑む巫女と、冷たく見下ろす皇の目線が交差する。

 高い笛の音が、雅やかな笙の音が、ゆったりとした拍子(ひょうし)を打つ鼓の音が作り出す華やかな神楽は、しかし二人の間の沈黙に交じっては、ただ白々しい。


 沈黙を破ったのは、皇の溜め息だった。

「今は大事のとき。用は他にある。申し開きは後に聞く」

 巫女は無言で(うやうや)しく一礼した。

 全ての本心を微笑みの下に押し隠したまま。


 だが、次のひと言が、彼女の笑みを消し去った。


「鎖に繋ぎ引き摺ってでも、青竜を連れて参れ」


 その剣呑な一言は、折悪しく音の継ぎ目を突いて幾らか大きく聞こえ、下段の官の数人が思わずちらりと盗み見る。

 しかし主君の不機嫌な様子に怯えた顔になり、ぱっと目を前に戻した。


「主上…!幾ら主上とはいえ守護たる瑞獣にあまりに「二度は言わぬぞ」

 初めて顔を曇らせた亮南の言葉を皆まで聞かず、冷淡に切り捨てる。


「うぬは何を思い違うておる。見よ。この儀であれ本来は彼の者への祈祷。しかし祈りを受ける筈の当の青竜が堂より()でぬが故に、祈る相手が居らず窓へ向かう、斯様に滑稽(こっけい)な有様よ」

「しかし…彼のお方はお加減が優れず…」

 弁解を鼻で嗤って、皇の眼光に熱が灯る。

 動ぜぬ態度を保っていた巫女でさえもたじろがせるほど強く。

 目に激情を宿しながらも、その口調は気味が悪くなるほど静かだった。


「この十年、加減が悪いと儀式の全てに出でぬ。それだけなら未だしも我が東領の大事、さらに大祓いまでも知らぬ顔で居るのは罷り通らぬ。安寧を守るために居る筈が、国が乱れたこの有事にも何も動かぬとは何のための守護。何のための柱ぞ。己の役目を果たさぬならば居らぬと同じこと。何としても果たしてもらう」


 巫女は、震える息を吸い、腹の前で手を握り合わせた。

 悲しげに下がった眉は万人の哀れみを誘うものであったが、東領の支配者には届かない。


「主上…青竜は、神の国よりいらせられた神使(しんし)にして、神に等しきお方にございます。幾らあなたさまとて、守護なる瑞獣(ずいじゅう)を軽んぜられる御振る舞い、御罰(おばち)を下されましょう」

「軽んじておるのは貴様だ。女」


 ぐいと身を乗り出した皇の、怒りに燃える(まなこ)が大写しとなり、亮南はついに僅かに顔を強張らせた。


「瑞獣の側に上がり、余と等しき高みに至ったとでも思うたか。片腹痛し。余の上に在られるは、豊芦原を創りたまいし双祖神(ふたおやがみ)のみ。守護の任を放り出した無価値な竜など比べるべくもなし。貴様など意味なき獣の下に付く只の女よ。いや、貴様のごとき責務も分からぬ愚者が側に居るが故に、青竜も眼が曇っておるのやも知れぬな…」


 最後に皇は、(おのの)く女を威嚇するように目を細め、地を這うような低い声で言った。


「行け。でなくば神祝を青竜惑わす害悪と断じ、一族郎党全ての首を()ね、瑞使正護(ずいしせいご)の血脈をすげ替える」


 亮南媛は、(こら)えることも出来ずに身震いした。

 皇とは、瑞使正護――守護瑞獣青竜の世話役――に就いて以来の長い付き合いである。親しく近しく接して来たわけではないが、皇は一度やると決めたなら、誰が何と言おうが必ずやると分かる程度には彼を良く知っていた。

 

 例えそれが、代々青竜の世話を担う、東領で最高位の(かんなぎ)の系譜を全て惨殺するという凶行であろうとも。


 亮南媛は無言で、強張った顔を隠すように深く一礼し、段を降りた。

 最初から、彼女の選ぶ道はひとつしかないのだ。

 

 一回り小さくなったように見える背を見送りもせず、皇は堂に目を戻した。


「…宜しかったのですか」

 左後方に控えた近侍が、不安げに囁く。

 いついかなる時も己を守る側近を、皇は幾許(いくばく)か肩の力を抜いてちらりと見た。


「神祝を脅したとあらば、神官たちの反感を買いましょう」

「良い。近頃の神祝の所業は目に余る。これで己の立場を弁えれば良し。出来ねばすげ替える。そうでなくば滅びるのみぞ」


 厳しい眼差しは、青竜の居る堂を射抜く。

 殆ど口を動かさず、儀式の壮麗な楽音に紛れるように、鉛のように重々しく事実を声にした。


「東領が、な」


 主君の意志が固く、その目は自領の安寧に向いているのを知って、近侍は「差し出がましい口を利きました」と慌てて詫びた。


 逆らう巫女が憎くて脅した訳ではない。

 意のままにならない青竜を疎んじて、我を通そうとしたのではない。

 その証拠に、青竜が病に掛かったと聞いて十年、あらゆる儀式への欠席を赦した。

 己の命に従わない亮南媛を、溜め息を吐きつつ何度も黙認した。

 ここに至って強硬に命じたのは、(くに)の大事に関わるからこそ。


 彼には他を出来得る限り許す度量と、しかし最も大切なものの為に断固として決断する胆力がある。

 皇は、自らが泥を被ろうと、手が血塗られようと、東領のために尽くすだろう。


 それが分かった近衛の胸には、新たに敬服の念が沸き上がっていた。

 これまで何年もこの皇に仕えてきた彼だが、大祓いにまで至る国難に(のぞ)むのは初めてだ。

 この大事に、身を捨ててでも東領に尽くす主を持てたこと、そして彼をこの手で護ることが出来ることに喜びさえ感じる。


 鷹揚(おうよう)に頷いて許す主に、必ずこの方を護るのだと決意を新たにして、近衛は定位置に戻った。

 

 儀式はそれ以後、何事もなかったかのように進んで行く。

 完全に日が沈んだ頃、皇は御祓(みそぎ)を経て衣を替えた。

 壮麗な紫の絹から、簡素な生成りの麻へ。


 場を移し、双祖神を祀る神棚がある西臨(さいりん)の間にて神に礼拝し、捧げられていた神膳と神酒を以て晩餐とする。


 この儀式は神の食卓に臨席するという意味がある。

 だからこそ、(ぜい)を尽くした衣ではなく、神代(かみよ)の昔、皇の一族が神より土地を拝領したときに着ていたと伝わる質素な真麻の衣を纏い、あの頃と変わらぬ敬意を持っていることを示すのである。


 祭壇に祀られた鏡と水晶玉の前で、皇は種々様々な料理に、決められた順序でほんの少しずつ箸を付けていく。

 最後に白い装束の神宜官が、神膳の横に並んでいた素焼きの銚子(ちょうし)を持って来る。

 女官(にょかん)が反対側から近付いて、皇の手に朱塗りの盃を持たせた。


 注がれるのは透明な酒だ。

 ふわりと酒精が香り、満たされた盃を捧げ持った皇は、(しば)し瞑目した。


「御酒を頂戴つかまつる」


 双祖神に感謝とこれから先の安寧を祈り、ぐっと盃を干し…


「ぐッ…!がはっ」


 酒を飲むや咳き込んだ。官が慌てて駆け寄り、手巾(しゅきん)を差し出す。

 若く見えても皇は老境に差し掛かっている。

 これまで特に滞りなく儀式を進めて来られたが、酒を飲み込み損ねて()せたとしても仕方がないと、この場の誰もが思った。


 だが皇が差し出されたものに気付いた様子はなかった。

 咳はいよいよ酷く、少量の酒を吐き出し、さらには喉を掻きむしりもがくに至り、その尋常ならざる様子にざわめきが上がる。


「主上!?」

 呆然と立ち尽くした官を押し退けて、部屋の隅に控えていた近衛侍が駆け寄る。

 彼が駆けつける目前で、皇は苦悶の表情で口から泡を吹いて倒れ込んだ。


 絹を裂くような女官の悲鳴を皮切りに、混乱の幕は上がった。


「主上が、主上が!!」

「あなや!やや!」

「私ではない!断じて違う!!」

「誰ぞ侍医(じい)を!(はよ)う!!」

「何ぞ!?誰が!!」

 叫ぶ者、部屋を飛び出す者、へたり込んで呆然とする者。

 怒号と悲鳴が交錯し、波紋を拡げるように混乱は広がっていく。


「主上っ!お気を確かに!!」

 掻き回されたような騒ぎの中、近衛に抱き起こされた皇は、聞き知った声に反応してか、見開かれ、血走った目が束の間焦点を結んだ。


「はや…て、ど、く…」

「主上ッ!!毒!?毒にござりまするか!?」

 絞り出された音は、辛うじて言葉となって意味を届けた。

「水を!」


 周囲の人が何人か、もたつきながら駆け出した。

 だが、よろめき走る官人たちより、己が行く方が速いと気づき、もう片方の近衛が走り出す。右往左往する者たちを押し退け、誰かが飛び出した後開けっ放しになっていた扉へ向かう。

 その背を見ず、とにかく主君を休ませようと、蹴散らされた物の散乱する床から皇を抱き上げ、端に移動したそのとき、最大級の悲鳴が爆発した。


「何だ!?」

 咄嗟に腕の中の皇を庇って身を捻りながら振り向くと、今しがた同僚が向かった扉の方で、血飛沫が上がったところだった。


 白刃が閃き、またひとり官人が倒れ伏す。踏み込んできたのは覆面の男たち。

 慮外者(りょがいもの)の方から、腕を押さえた同僚が駆け戻ってくる。


「何がどうなって…お前、腕を」

「浅手だ。ともかくお逃がししなくては」

「外はどうなっている!味方は!?」

「外の衛士(えいし)は居らぬ!奴らにやられたか、そもそも奴らの仲間だったか」


 どこより安全な筈の内裏での凶行に、ふたりの頭に"謀反(むほん)"の文字が躍る。

 この頃の変事は皇の治世が穢れているからだとして、早く日嗣(ひつぎ)皇子(みこ)へ譲位せよとの密かな声があるのは知っている。先には神祝の巫女に厳しい態度を取ったということもある。

 その他に、皇が信念を持って積み重ねた行いは、東領のために成されたことは疑いなくとも、誰かの反感を買うものも多かった。

 まさかと思いながらも幾つかの顔が浮かぶ。


 呻く主君を上着で隠し、焦がされるような想いで立った。ともかく逃げねばならない。逃がさねばならない。

 神に祈念する清めの儀式に、武器を帯びた兵を置くことは出来ず、戦える者は皇が無理を通して伴った近衛のふたりのみ。

 警護の隊は紫宸殿の外に配置されているはず。


 この場は敵が押さえたとしても、その外側には必ず味方が居る。そこまで逃れ、一刻も早く皇の治療をせねばならない。


 部屋の中に居た者らは無差別に斬り倒されて、本来清らかであるべき神を祀る広間は、噎せ返るような血臭が充ちている。

 腕を怪我しながらも太刀を引き抜いた同僚の背を睨み、抜き身の短刀を持ったまま主君を抱える。


 助けを求める女官の絶叫に心中で詫びながら、ふたりは一箇所に狙いを付けて、一直線に駆けた。

 物を投げて抵抗した官を追い詰めて殺した男を走り抜けざま斬り捨て、横から斬り込んできた刃を切り返して相手の首を薙ぎ、前を塞ごうと動いた男を突き殺して、一気に扉を抜けて走る。


「行った!行ったぞ!!」

「逃すな!!囲めぇえ!!」


 そんなに多く居る筈もないと思うのに、追っ手の怒号は四方八方から聞こえた。

 前を塞いだ二人組をなんとか抜いて、駆け込んでくる三人を避けて庭に降り、囲もうと動く四人の内の一人を斬って、とにかく人気(ひとけ)のない方へさらに走る。

 肩を矢までもが掠めて足元に突き立った。


 こんなに敵の数が多いのはおかしい。この騒ぎに外の兵が気づかぬ訳はなく、気付いたならば、敵はもっと少ないはず。

 それに幾らかの手引きがあったとしても、水も漏らさぬ構えの警備をこれ程の数がすり抜けて来られるものだろうか。


 嫌な予感に焦燥感がいや増していく。

 一体どこをどう抜けたものか、気付けば宮殿の外へ出るどころか、最北の宮の裏へ迷い混み、奥の山際に追い詰められていた。


 刀を打ち合う音が微かに聞こえる。どうやら警備隊がやっと動いたようだった。だが、事ここに至っては気休め程度にしかならない。

 周りを囲む白刃に、せめて手にした血刀を向けながら、ふたりは絶望に目の前が暗くなる想いでいた。


 やがて、囲む人垣が割れる。

 松明に照らされて、ひとつの人影が進み出た。


春宮(とうぐう)…」


 日嗣の皇子功比。皇の実の息子である。

 彼は抱えられた皇を見止めると、強張った顔を堪えきれないように弛めた。にぃっと歪んだ口元が、橙色の火に照らされて、影濃く嫌らしい弧を描く。


「貴様らか!父上を(しい)し、朝廷(ちょうてい)を騒がせる大罪人どもは!!」

「なっ!?何を言われますか!!」

(とぼ)けるな!神に捧げ奉る神膳に毒を盛り、西臨の間の者を皆殺し、玉体をも連れ去らんとした大逆、月の(もと)に明らかである!!」

「斯様なことは、御座いませぬ!!」


 堂々と言い放つ功比に叫び返しながら、あまり驚くことはなかった。


 日嗣の皇子であれば、警備に己の息の掛かった者を送り込める。己の親衛隊を使って襲撃も出来るだろう。

 皇の警備隊も、今のように言いくるめたのだ。

 誰でもない日嗣の皇子の言うことならば、多くの兵が従っているに違いない。

 そして、神前に供えられた酒に毒が入っていたのを知っているのは、皇と自分たちの他には、犯人しかいないのだ。


「う…あぁ……」

 そのとき、皇が苦し気に身動(みじろ)いだ。

「主上!申し訳ありません、(たばか)られました…っ」

 絞り出すように詫びた。

 皇は、もう声も聞こえていないのか、何かうわ言を呟きながら、力なく虚空へ手を伸ばした。


 いや、指し示している。

 近衛隊が居るだろう内殿(ないでん)とは逆の、自分たちの背後…坎子山へ続く藪を。


 ふと、ざわめきが耳を打った。

「主上はまだご存命ぞ」

「どういうことだ、弑されたのではなかったか」

「もうお命はない故、弓を許されたのではなかったのか」


 囲んでいる兵の動揺は、水面にさざ波が立つように広がっていく。

 こちらに向いた(きっさき)が揺れ、構えられた弓矢が下がる。


「おい、奴ら、騙されていたのに気付いたようだぞ」

 じりじりと後退ってきた同僚が囁く。

「どういうことだ」

「おそらく、こいつらの(ほとん)どは、功比さまの親衛隊じゃない。おおかた、主上が害された故に、下手人を追えと、言われた兵だ。主上がもうお隠れに、なったとして、弓を射る許しを、与えられたんだろう。ご遺体に傷が付くよりも、下手人を決して逃がすな、とか言ってな」

「そうか、それで」


 皇が生きているということは、至尊の君に武器を向けたということだ。

 何を言われたかは知らないが、功比の言葉も色々と怪しげなことが多いと気付く者も多かったのだろう。それ故の動揺。


 やけに言葉の間に息を挟む同僚を見れば、顔色は真っ青だった。

 手当てもなく走り回り、腕の傷からは今に至るまで血が流れ続けていたのだ。


「良いか、俺が隙を作る。お前、先に山へ走れ」

「だが…あきら」

「俺はもう、あまり走れん。後ろは任せろ…頼む、はやて」


 血の気の引いた顔を見れば、真実は明らかだった。断腸の思いで頷こうとしたとき、大音声が響き渡った。


「何をしておる!主上がご存命なれば、早うお助けせい!!」

 功比の横に立つ武人の怒号だった。声の勢いに押されるように、数名の武器が持ち上がる。


「お助けするならばそやつらを討て!春宮功比こそ主上に毒を盛り、神事を穢した大罪人ぞ!!」


 真実の持つ力か、血まみれの近衛が振り絞った糾弾がざわめきを生み、不審を増幅する。何人もの兵が功比を振り返り、戸惑って立ち尽くすのを見てとって、今とばかりに山へ駆け込んだ。

 背後に怒号が膨れ上がった。続く剣戟の音。何人かを寝返らせることが出来たのかもしれない。


 雑木の繁る場所に肩から突っ込んで無理やりに突き進む。

 足を取られてよろめきながら、草木を揺らす派手な音を立てて獣道へ出た。そこからひたすらに駆ける。


 直ぐに松明の輪は遠くなった。

 夜の山は一切の明かりなく、深い黒に塗りつぶされている。

 闇は味方だった。逃げる者を覆い、追う者から隠す。

 足元など見ても仕方がない。転ばぬようにと慎重になる暇もない。ただ足の感覚だけを信じて動く。


 抱えた体が熱を持って震えているのが分かる。

 何ももう考えられない。ただ大切なものを抱え、逃げる。


「そっちか!?」

 思いがけず真横から声がして、直後に幾つも風を切る音がひょうひょうと鳴る。

 肩に衝撃。そこからじわりと広がる熱を感じて、弓で射られたのだと気づいた。途端に熱はそのままの質量を持って痛みへと変わる。


 近衛はただ声もなく駆け続けた。

 幸い待ち伏せはもうなく、盲射(めくらう)ちの矢はもう飛んでは来なかった。


 人の気配のない方へ、どんどんと山の奥へ分け入っていく。

 解毒や手当のためには人里へ戻らなくてはいけないことなど、死に追い捲られた彼の頭にはもうない。

 人の手の入らない山を、暗闇の中ここまで来れたことはこれ以上ない幸運だった。だが、奇跡のような運もいつまでも続かない。


 片足が獣道を踏み外す。反射的に身を捻って横倒しになった。彼が出来ることはそれだけだった。

 鍛えているとはいえ大人の男一人を抱え続けた腕が力を失って緩み、皇の体が投げ出され、斜面に斜めに生えた木に引っかかる。

 もがこうとした。しかし体は、まるで粘った泥が纏わりついたように重く、思うように動かない。

 近衛は一人、声もなく斜面を滑り落ちて行った。































 陽が沈んで(しばら)く。侃爾(りょうや)橘屋敷(たちばなやしき)の裏門を出た。

 依頼があれば昼番があった日も関係なくこき使われるが、今日は魔払いの依頼はなかった。今晩の外出は仕事ではない。


 大祓(おおはら)いが決まって後、蒼竜京(みやこ)中の術者の家が昼も夜も働いたのが効いているのか、ここ十日ほどは怪事の話は間遠(まどお)になった。夜の仕事にこうして空きができるほどには。

 少し前では考えられないことだ。

 いや、さらに前であれば、これでもまだ多い方だ。橘家が魔払いをするのが、占いのついででしかなかった頃は、魔払いの依頼など、月に一度ある程度。半年も何事もなく過ぎる年もあったように思う。


――――小雛(こひな)あたりは、この忙しい橘家しか知らないだろうが…ん?


 静まり返った都の道に、自分のとは違う足音が聞こえて、侃爾は思わず足を止めた。

 侃爾は術者の端くれとして、夜目が利くし勘も働く。瑞女(みずめ)などには及ばないが、それでも来る者が人かそうでないかぐらいは分かる。

 じっと目を凝らせば、道の向こうから白装束の一団がやってくるのが見えた。――人だ。

 白の水干(すいかん)に立て烏帽子(えぼし)。どこぞの神社に仕える術者か。


――――前日まで最後のお勤めか。ご苦労なことだな。


 無理もない。滅多にないこの機会に、なるたけ多く巡って名を売っておきたいのはどの家も同じだ。

 その点で言えば橘は特別だ。名を売る必要がない。

 橘が有名になった立役者(たてやくしゃ)が自分たちなのだと思うと、侃爾は少し誇らしい気分になった。良い気分を押さえつけて口元を引き締めながら、歩みを再開する。


 間もなく一団とすれ違った。相手も流石にこちらが人なのを察知していたようで、霊具を構えられることもなく、誰何(すいか)されることもない。

 以前一度行き会った陰陽師(おんみょうじ)は、居丈高(いたけだか)な物言いで姿を現せだのと命じ、侃爾が霊具を出して見せるまで信じなかったが、あれは三流でもきかない、四流の振る舞いだ。


 使える(・・・)術者は、目の前に居る者が妖しの者か否かを看破出来て当たり前だ。


「……ちっ、橘葎(たちむぐら)か」


 侃爾が来た方角に橘屋敷があるのに気づいたのか、すれ違い様に悪態を吐かれた。"使える術者"とわりと良い評価を入れていたところに"但し人としては()"と付け足しておく。

 明らかに聞こえるように言ったのだろうが、こういう手合いを相手すれば切りがないので、腹が立とうと当然の如く無視だ。


「はん、奴も混ざりものの術を使うに違いないな」

「誇りも何もない顔とはあれか」

「今に術の(ことわり)に乱れが生じて野垂れ死ぬだろうよ。まあ当然の帰結であろ」


 …無視、だ。顔は関係ないだろ、と思ったがぐっと飲み込む。

 侃爾がひとりでいるからこそ、ああして言いたい放題に悪たれ口を叩くのだ。班で歩いていたなら、目を合わせもせずに通り過ぎたに違いない。

 自分たちが大勢でなくば文句も言えない可哀相な弱虫どもなのだから、相手をしてやることはない。

 代わりに"人としては下"としたところを消して"人品(じんぴん)は劣悪。嫁をいびる姑のよう"と記しておく。


 最後尾の横を(ようや)くすり抜けて、侃爾は腹立ちまぎれにふんと鼻を鳴らした。


 術者には系統がある。

 今の者らは、八百万(やおよろず)の神々の力を借りる神道(しんとう)。僧は仏に祈念する仏教。陰陽師は万物の理に通じて乱れを正す陰陽道(おんみょうどう)。他にも精霊の力を使う土着のまじない師や、調伏した妖魔を使役する者も居ると聞く。


 橘家は陰陽道の一派だ。ただ今は、多くの系統の術使いが所属している。

 侃爾の班も、侃爾や阿弥彦(あやひこ)、瑞女と小雛(こひな)は陰陽系だが、柚葉(ゆずは)広亮(ひろと)は神道の術者だ。


 今から十年ほど前、占いで未来に危機があることを知った橘家は、術者の不足を補うために積極的に人員を勧誘した。

 だが、勧誘は遅々として進まなかった。なぜなら、陰陽道の家は大部分が都にあり、都にある家は大概が己の流派を誇りとしているから、橘に合流しようという者は少なかったのだ。


 そこで橘家は苦肉の策として、様々な流派から人をかき集め、占いで市井に居る素質のある者を選び出して確保した。

 他の系統の者は橘に来ても陰陽の道に乗り換えずとも良いとしたことが功を奏して、声を掛けずとも橘の門を叩く者が多く来た。

 地方で燻っていた者が加わり、修行者や、大きな家の傘下に入りたい無名の術者、傾き途絶えかけた家奉公人も受け入れて、橘家は大きくなった。


 その内側は多系統の術者が入り乱れ、互いに優れた技を学び合う場である。

 陰陽系の真言(タントラ)を使い、修験道の系統から派生した単呪(たんじゅ)を唱え、神道の霊符を護符として持つ。大まかに術者の系統は分かれているが、ほぼ全員が系統に(こだわ)らずに術を学んだ、極めて特殊な術者集団が出来上がったのだ。

 ここまで来るのに摩擦がなかったとは言えないが、その甲斐あってこの怪異が頻発する時期にあって名を上げ、大成功を収めることが出来たと言える。


 面白くないのは、系統を守り家と伝統を守って来た他の派閥である。

 自らの流派に誇りのない者め、そうまでして生き残りたいかと(あざけ)(わら)っていたのに、自分たちは乗り越えるので精一杯な波を橘家は軽々と越えていき、あれよという間に成りあがってしまったのだ。


 幾らそんなはずはないと言ってみても事実は事実。

 すれ違い様に、多くの流派が混在する様を"(ざっそう)"呼ばわりするぐらいしか出来ないのだ。


――――だから、怒る気にもならんな。


 精々吠えろ負け犬、と心の中だけで吐き捨てていると、間もなく目的地に辿り着いた。


 目的地といっても何がある訳ではない。郊外にある只の空き地だ。

 侃爾は草のないところを選んで立つと、背負ってきた霊刀を鞘ごと手に持った。紐で結わえて鞘が抜けないように固定する。


 背筋を伸ばし、構え、振りかぶり、振り下ろす。

 びょおぅ、と風が唸るような音がした。


 ぼんやりと光を投げかける月の下、黙々と、何度も何度も振り上げては振り下ろす。

 鉄の刃をそなえた刀は重い。次第に体に熱が生まれ、汗が噴き出す。

 だが疲れは遠く、意識して息を整えながら、軽々と振るう。


 侃爾は、時間を見つけてはこうして刀を振っていた。

 広亮が単呪を特訓したように、侃爾もまた、自分の足りないところを補おうとしていたのである。


 侃爾は術者だ。術が使えれば物の怪相手には剣術はなくても構わない。だが生身である以上、刀を振り回せば疲れる。

 疲れたからと言って討伐中に『ちょっと休憩』と言えはしない。足が止まればそのまま窮地に立つことになる。

 前衛を務めるには、術の腕の他にも体力は必要不可欠なものなのだ。


 侃爾は持久力。同じく刀を扱う小雛には瞬発力がそれぞれ必要だった。

 侃爾が掻き回し、追い詰め、小雛の必殺の一撃へと繋げる。

 九字印の一撃が闇に閃き、仕留められなければ間髪入れずに白刃が弧を描く。

 しんと鎮まった横顔。鮮やかな太刀筋。

 女でしかもあんなに細身だというのに、戦いの間に息を切らしたところを見たことはない。いつも侃爾や、他の班員が作った機会を逃さず、最高のときに最適の動きをする。


――――俺は晩に鍛錬をしているが、小雛はどうやっているのか…。


 ぶぉん、とひと際不格好な音がして我に返った。

 一流の剣士は、木刀でさえ振れば鋭く高い音を響かせる。侃爾の剣の腕がそれ程ではないのは、音を聞けば明らかだ。

 しかも雑念が混じれば、音はさらに鈍かった。


「ああ、くそ」

「良い感じなのに何で止めるんだ?」


 悪態を吐いて腕を下ろしたところで、面白がるような声がして、不意を突かれた侃爾は飛び退いた。


「あはは!侃爾お前、おれに気付いてなかったのかよ!!」

「てめぇ、計馬(かずま)か」


 おうよ、と笑ったのは、同じく橘家に所属する一人、同年代の術者の計馬だ。

 討伐ではなく、占いやら護符書きを担当する班に居て、侃爾とはたまに顔を合わせては雑談する仲だ。


「いやーぁ、鬼退治の班が驚く顔なんて、珍しいもん見たなぁ」

「…言い残したことはそれだけか」

 にやにや笑うその顔に、手にしたものを構える。


「んぇ?おい、それは何だよ…?」

「頭を殴られれば記憶が飛ぶらしい」


 真顔。対する笑い顔が凍り付いた。


「そんなに驚いたの見られたの恥ずかしかったのかよ…」

「案ずるな。殺す気はない」

「えーと、侃爾さん?冗談ですよねぇ?」

「そんなことはない」

「…本気ですかぁ?」

「ああ」


 じりじり退がる計馬。すり足で近付く侃爾。


「ひぃいい侃爾、目が本気だって怖いってぇえ」

「武器は振り慣れているから任せておけ。お前は気付いたら朝になっていて、今夜のことを覚えて居ない。覚えていたとしても夢の中のことだ。ついでに(こぶ)が出来ているかもしれんが、まぁ些事(さじ)だ」

「全然些事じゃねぇよ!!何なの瘤が出来てるのに朝起きたら部屋の布団に寝てたとかそう上手い具合に行く訳ねぇだろう!!何全部夢だったみたいな感じにしようとしてるんだよ!!」

「はぁ?」


 侃爾は思い切り怪訝な顔をした。


「布団になんて入れてやる訳なかろう。なかったことにして俺は帰る。なんせ夢だからな」

「お前にとっても夢なのかよ!!」


 賑やかに騒いだ後、計馬ははぁあ、と深く息を吐いた。侃爾も何事もなかったかのように刀を下す。

 計馬とふざけるのはいつものことだ。


「ったくもう、相変わらず元気そうだなぁお前は。討伐方(とうばつかた)の班でそんな元気なの滅多に居ないぞ」

「そうなのか?」

「ああ。前祓いするようになってから夜番に加えて昼番も入ったろ?お蔭で皆無理が来たみたいでな。大体の奴がやつれて、暇があれば部屋で寝てるぞ」


 侃爾は首を傾げて「そうなのか?」と繰り返した。実に不思議だ。

「うちの班は全員元気だが?」

 広亮(ひろと)あたりは少々疲れた様子をしていたが、へたばるほどではなかったし、柚葉(ゆずは)も小雛も当たり前の顔をして夜の魔払いをこなしている。瑞女は不調があっても意地でも表に出しなさそうだが、隠せるなら疲れもそれほどではあるまい。


 計馬は何か酸っぱいものを口いっぱいに頬張ったような顔をした。

「はぁあ!?このクッソ忙しい山を幾つも越えた時期に全員揃って元気ぃい!?お前の班って、柚葉ちゃんとか小雛さんとか瑞女さまも!?」

「ああ。…ってなんだそのちゃんとかさんとか。瑞女にさまとかいらねぇだろうが」

 呼び捨ての侃爾とは、呼称で扱いの違いが如実である。


「おまっバッカじゃねぇの!?今日日(きょうび)女の子の同僚がどんだけ貴重か分かんねぇのかこの朴念仁(ぼくねんじん)!!おれなんか毎日毎日班のおっさんとかじじいばっかり顔合わせて!お客も貴族の奥さまとか占い好きなお嬢さんだったらいざ知らず、青い顔したじいちゃんやらやたら偉そうなおっさんに気難しいばあちゃんばっかり!せめてもの潤いがおかずお負けしてくれる食堂のおばちゃんっていうおれの気持ちが分かるのかよぁあ!?毎日女子の顔が見られてお前は恵まれてるの!!お三方とも種類の違う美人だぞ!!柚葉ちゃんは可愛いし、小雛さんは冷たい感じの美少女、瑞女さまは高貴な雰囲気にあのいつもはつんつんしてて偶に優しいところが大人気なんだからな!?ともあれ女性は全員尊い!!見目麗しい女子は特に尊い!!崇め敬い奉っても良いだろぉおお!!!」

「お、おう、悪い…?」


 血の涙を流さんばかりの慟哭(どうこく)は悲痛であった。

 多分に煩悩が混じった、というか煩悩しかない分本気の切迫感が増して、勢い侃爾は謝った。俺はなんでこいつに謝ってるんだと思わないでもないが、なんだか謝らねばならない気迫が満ち満ちていたのである。


 すっきりさっぱりと「分かればよし」とふんぞり返った計馬に今度は侃爾が溜め息を吐いた。

「で、なんでお前ここに居るんだ。態々(わざわざ)こんなとこまで来て、一体何の用だ」

 侃爾は少々不機嫌だ。知り合いに見られたくないから誰にも言わずに郊外まで出てきている。これで「面白そうだから」とか「お前をからかうためだ」とか言われたら今度こそ一発殴る。


「あ」と計馬は手を打った。

「そうそう、お前祭りとか興味なさそうだから知らないだろうから、ふたつばっかし教えてやろうと思って」

「祭りのこと?」


 計馬はお茶らけているが実は情報通だ。

 愛想よく話上手で、敵を作らない立ち回りが得意な計馬は、家中に独自の情報網を持っている。

 休みの日にはよく町へ出ていて、外にも知り合いは多く、内外関係なく侃爾の知り合いの中で一番耳が早い。


「そう。まぁ祭りっていうか(まつ)り。明日の大祓いで、皇が内裏(だいり)から出られて南の富雉神宮(ふちじんぐう)行幸(みゆき)なさるのは知ってるよな」

「ああ」


 そんな話もあった。

 大祓いの最初に、皇は蒼竜京の最北にある宮殿から、出て双祖神(ふたおやがみ)を祀る(やしろ)へ参りに行くのだ。

 富雉神宮は門外の南側にある。端ではないにしろ真ん中とは言えないほど南であり、そこまでに至る長い道のりを、皇とその護衛の精鋭、お付きの宮人(みやびと)たちが行列を成す。

 滅多に見られないやんごとなき方々のお出ましとあって、門外の住民たちはひと目見ようと今から通る道の脇で場所取りをしている者も居る。

 皇の行幸は今都で一番の話題だ。


「お前が昼回りから帰ってくる少し前に、門内で布告(ふこく)があったらしいんだけどさ…明日、皇のお出ましはなしになったらしい」

「は!?」

 侃爾は流石に目を剥いた。


「じゃあ何か?双祖神に参らずに大祓いを始めるのか?」

 双祖神はこの豊芦原(とよあしはら)の国を創った、最も力のある神だ。その力を借りずに大祓いをしようということに思え、反射的に『大丈夫かそれ』と思ってしまう。

 日々物の怪と対峙してきた侃爾には、雲蚊(うんか)の如く湧いて出るあれらが、いかに守護青竜と皇であっても油断していて根絶できるものに思えなかった。


「いや。参拝はするらしい。但し、行かれるのは主上じゃなく日嗣(ひつぎ)皇子(みこ)だ。どうやら主上はお体を悪くされたらしくて、大祓いは全部東宮功比(とうぐういさひ)さまが代わられる」

「それは…大丈夫なのか?こんな大事なときに主上が倒れるなぞ、凶事だなんだとお貴族サマが大騒ぎだろう」

 侃爾でさえ縁起が悪いと思える出来事を、見栄と縁起と伝統で生きている貴族連中が黙っているとは思えない。

 儀式自体は多くの人の手が入るし、要となる青竜は健在なのだから、皇と皇子が交代したぐらいでは結果は変わらないだろう。

 皇が万が一物凄い霊力を持っていたとすれば話は別だが、それならそれでここまで怪異を放っておきはすまい。


「ところがどっこい、門内は騒ぎになってないらしいぜ。事前に根回しがあったんだろう。ずっと主上は体調が優れなかったのかもしれないな。んで、万が一大祓いのときまでに治らなかったら息子に役目を代わるってことにしていたんだけど、本祀(ほんし)の前日に体調が悪化して急遽代役が決まった、とかそういうことじゃないかなぁ」

「ふぅん、そういうこともあるのか」


 何か少し引っかかるような気がしたが、侃爾自身貴族のことは殆ど知らない。言われればそういうものかとも思う。


「あとで瑞女にでも訊くか」

 瑞女であれば、違った見方を持っているし、貴族に詳しい。もしかすると侃爾の違和感の正体まで言い当ててしまいそうだった。


「そうそう!その瑞女さまなんだけどさ!!」

 途端計馬は生き生きと目を輝かせた。

 どこかで見たことがある気がしたら、色恋沙汰の話になった柚葉の目の輝きと同じだという、正直気付きたくない真実に行き着いてしまった。


「さっきおれが出てくる前に瑞女さまにお客があったんだってよ!!牛車!牛車だぜ!!それも(きら)びやかに飾り付けされてて、立派な黒牛(くろうし)()いたやつ!!貴族だ!!」

「瑞女に貴族の客だと?確かなのか?」

「勿論!おれもちらっと見てきたんだから間違いない」

 侃爾は刀を元のように背中へ負った。帰り支度をしたのを察した計馬が歩き出し、侃爾も横へ並ぶ。


 嫌な考えが頭を回っていた。瑞女と貴族を並べて考えれば、最初に思い浮かぶのは彼女の実家のことだ。

 瑞女が元貴族であることは他へは伏せられている。だから計馬には知る由もないことだ。

 瑞女が実の家族からも、危険な討伐方へ入ることを容認されていること――死んでも良いと思われていることを。


 貴族であるならば、鬼退治の班の中に瑞女の名前があることを、実家の連中も知っているだろう。

 評判になっているということはつまり、瑞女流で言うところの"価値がある"ということになる。


 前の瑞女には価値がなかった。だが今はあるとなれば、連れ戻しに来ても不思議ではないのではないか。

 しかも大祓いの直前に皇が倒れたという凶事にだ。

 実績のある術者に家を守らせようと思ったとき、身内に術者がいるなら、最初に頼る先は言わずもがな。今は落ち着いているとはいえ、怪異はびこる昨今、念のためにずっと屋敷に置いておきたいとなれば、血のつながりを利用して呼び戻してしまえばいい。


 他人の家のことだから侃爾に口出しできるものではないが、居ても立っても居られなかった。

 どうしても足早になってしまう侃爾を、「待てよ」と変わらず楽しそうな計馬が小走りに追った。


「なあそんな急ぐってことはお前、瑞女さまに気でもあるのか?」

「良いから答えろ、それで、乗ってたのはどういう奴なのか見たのか」

「ああ、案外質素にしてはいたけど、立派な衣を着た派手目な若い男だったよ」


 若い男、ということは父親ではないだろう。

 牛車に乗って来たなら、身分の高い遣いの者か――いや、瑞女の家は家格で言えば中流だと言っていたから、そんなに身分の高い使用人は居るまい。それでは兄だろうか。

 考えながらも道を急いだ。


「瑞女は館に居たんだよな?」

「居たはずだ。取り次ぎがちゃんと通ったみたいだったし」

 真っすぐに伸びる道を進み、橋を渡る。


「お前はふたりが会ったところを見たのか?」

「いーや。貴族が来て、瑞女さまに会いに、来たって知ってすぐ、お前に教えてやろうと思って、出てきたから、見てねぇよ」

「そう…いや待て」

 はたと侃爾は立ち止まった。


「お前、誰にも言ってねえのになんで俺があそこに居るの知ってたんだ」

 計馬は息を整えながらこの上なく楽しそうににっかり笑った。


「そりゃ、何日か前に、出ていくお前のことをつけてみたからだな!」

「てめこら何ろくでもないこと堂々と暴露してんだ」

「いいじゃん細かいことは。こうして役に立ったんだし」

「盗人猛々しいわ!!」


 侃爾が気付かなかったということは隠形(おんぎょう)の術を使ったのだろう。

 くだらないことで術を使って一切悪びれない顔に、よし殴ろう今すぐ殴ろうと拳を固めたそのとき、どこかで何か騒ぎがあるのが聞こえて顔を上げた。

 橘の屋敷のある方だ。


 足早に進んできた彼らは、もうすぐ橘屋敷が見えるというところまで来ていた。

 急いで残りの道を駆け足で消化して、屋敷の敷地の塀沿いに進む。


「それで、来た貴族ってのは、なんて奴なんだよ、お前のことだから知ってるんだろ」

「ああ、確か――」


「もうお引き取りを!!」


 月が青く輝く夜の静寂(しじま)を引き裂くような叫び声が響いた。聞き覚えのある女の声だ。

 いっそう足を速めた二人が揃って角を曲がると、向こうに見える橘家の正門の前に横付けされた牛車が見えた。

 門を出て来る背の高い男と、その背中を遠慮会釈なく押し出す若い女――瑞女だ。

 それとただ周りで見ている付き人が何人か。

 瑞女はどうやら怒っているようではあるが、見る限りでは、切迫感はあまりない。


「確か、大山内(おおやまち)家の辰之進(たつのしん)ってやつだよ。訪ねて来たのは」

「はぁ?」


 なんであいつが、しかも瑞女を訪ねてきたのかと首を捻ったそのとき、牛車に押し込まれようとした辰之進がくるりと振り返って瑞女に向き合ったのが見えた。


「ああ、なんとつれないお方なのか。しかしそれこそ恥じらいの裏返しなのでしょう、美しい方…」

「恥じらいも何も普通に迷惑なだけです!!」

「また心にもないことを」

「森羅万象に誓って本心です!!」

「ふふ、急に来たのがいけなかったのですね。また(ふみ)を差し上げましょう。返歌を心待ちにし「もう何でも良いから帰りなさい!!」


 丁寧な口調さえかなぐり捨てて、瑞女は絶叫した。

 そのまま渾身の力でひょろい貴族を、侍従が開けた牛車の後ろの乗り口へ突き飛ばした。

 普段取り澄ました彼女らしくない暴挙であった。


 だが、相手もひょろひょろの色白とはいえ大の男。

 女の細腕を掴んで引き寄せる。

 たたらを踏んだ瑞女は辰之進の腕の中へ納まってしまう。

 未婚の女性への暴挙に、流石に付き人が慌てて制止にかかるが、当の本人は、あまりのことに固まった瑞女を見下ろして、やたらキラキラした笑みを浮かべた。


「ああ、掴まえましたよ愛しのぅぐぼ「ぃいやぁああああああああああ!!!」


 乙女の右の拳が可愛げの欠片もない勢いで振り抜かれ、横面に喰らった男は頭から牛車に叩き込まれた。











「有り得ない!ほんっとにあり得ないわよ!だってよ?三日と明かせず意味の分からない文を送りつけてきたと思ったら、今度は本人が乗り込んで来るなんて非常識にもほどがあるというのよ!!」


 翌日も瑞女は苛立ちが収まらない様子で吠えた。

 因みに貴族の間では、若い女性はあまり人前に出るのは良いことだとされていない。男の方も、間違っても若い女子の元へ乗り込んだりせず、普通は手紙をやり取りして親密度を上げ、それから同じ宴に参加して、庭の片隅でこっそり会ったり、お忍びで同じ日に神社の参拝に行ったりという、まどろっこしくも奥ゆかしい手順を踏むものである。


「しかも何を言うかと思ったら『あなたの力強い一打が私の目を覚まさせたのです。美しい方』よ!!目を覚ますって文字通りの意味じゃないの!しかもひっぱたかれるのが好みとか頭がおかしいのだわ!!変態よ変態!!」


――――それ殴られたのが原因で頭がおかしくなったんじゃないだろうな。

 妙に打たれ強かった辰之進の様子を思い出し、薄ら寒くなった。

 侃爾は密かに昨晩計馬を殴らなくてよかったかもしれないと思った。『鮮やかな一撃で目が覚めたんだ!好きだ!!』とか言われたら、吐くかもしれない。――というか想像しただけで気持ち悪い。

 いや、男を相手に考えるからかもしれない。例えば小雛だったら……


――――殺される!!撲殺される!!

 なぜか自分が殴る方ではなく殴られる方で思い浮かび、瞬時に人体の急所に立て続けに拳を叩き込まれて意識を飛ばすまでいった。

 因みに単なる想像だ。流石に小雛であっても、相手を正気付かせるための打撃で打ちのめしたりはしない。はずだ。


 まぁまぁ、と横の柚葉が、露店で買ったみかん汁の竹筒を怒れる瑞女に持たせる。

 冷えているのか汗のかいた竹筒を傾け、豪快にごくごくと喉を鳴らして飲む姿は、居酒屋でくだをまく親父のごとく男臭い。


「そうですねぇあの人も不作法でしたねぇー」

「不作法なんてもんじゃないわよ!!あれが女扱いなものですか!!なよなよした生っ白いひょろ芽の癖に私に言い寄るなんて一千年早いというのよ!!」


 歴史書に載る単位である。

――――千年経てば言い寄る方も言い寄られる方も人外だろうな。


「そうですねぇ。瑞女さんの好きなのって守ってくれるような男らしい人ですもんねぇ」

「そうよ!ひと睨みで悪霊なんて霧散させられるような日に焼けて逞しい強い出世頭よ!!」

「おおー、上狙いますねぇ」

「当然、狙うなら上!理想は高く!夢は大きく!!」

「瑞女さんかっこいいー」


――――本当にあれ、みかん汁だったのか?酒じゃねえのか?


 道を歩きながらがなる瑞女と、にこにこと合いの手を入れる柚葉の手には同じ竹筒がある。

 今しがた通り過ぎた露店を振り返れば、確かに『冷蜜柑ノ汁』の(のぼり)が上がっている。


――――本当に素面(しらふ)かこいつら。


 確かめたところで疑問はなくならず、瑞女も落ち着くことはない。救いは今の蒼竜京はどこもかしこもお祭り騒ぎで、多少叫びながら歩いていても全く目立たないことだろうか。


「いやぁ眼福だなぁ」

 鼻の下を伸ばした計馬がほくほく顔でふたりを交互に眺めて言う。

「今のを見て眼福を感じられるとかお前相当だぞ…」

「お前は恵まれてるからそう言えるんだっての!滅多なことを言うとお前だけ締め出すからなー」

「あぁ、はいはい」


 今日は祭り。侃爾は真昼から喧騒の只中に居た。

 顔ぶれは小雛と阿弥彦(あやひこ)を除いた班員と、昨日も会った計馬である。

 小雛と阿弥彦も誘ってはみたが、小雛は昼に出歩くのを渋り、阿弥彦は今日も仕事があると断られた。


 彼らが来ないのは残念ではあったが、計馬の知り合いが丁度参拝に向かう春宮の一行が通る道沿いに宿を開いていて、食事をそこですれば見物させてくれるという。滅多にないことなので、残りの四人はお言葉に甘えることにしたのだ。

 因みに食事代はもう計馬を通して先方に払ってあるので、気楽な物見遊山である。


「ちょっと広亮(ひろと)!!」

「ぇぅええぇ!?僕!?」

 適当に計馬をあしらっていると、瑞女ががしっと広亮を捕まえた。

 他人の振りをして、出来るだけ気配を消して歩いていた広亮が、可憐な悲鳴を上げてこちらを涙目で見たので、手振りで諦めるように合図を出しておく。

 これまでの戦績から、この女子ふたりがつるんでいるときに抵抗して勝った試しはない。

 因みに単体であっても勝率は殆どない。つまり諦めるしかない。


「あんたはあんなろくでなしになるのではないわよ!?」

「はぃいい…」

「それとあんたはもっと堂々としてなさい!普段から気弱が過ぎるのよ、大体ねぇ…」


 (なり)こそ若い女だが、くどくどとお説教するのはまさしく酔っ払ったおっさんさながら。対する広亮は線は細くとも見た目はきちんと男だが、小鹿のように怯え切った涙目でびくびくとしている。

 どう見ても男女の属性的な何かが逆転している。


「なあ、あれ、ほんとにそんなに有難がるべきものなのか?」

 心からの疑問に、計馬は良い笑顔で言った。


「見た目が綺麗な女の子だったら何も問題はない!」

「お前ほんとに女に飢えてるのな」


 そうこうしている間に、ひと際賑やかな通りに出た。

 今まで歩いて来た道も広かったが、この道はそれをさらに三本束ねたよりも太い。

 都を南北に貫く大道、坎離大路(かんりおおじ)である。

 始まりは内裏。門内を通り、南の大門明喜門(めいきもん)を境に門外をも貫いて、最後に芳泉門(ほうせんもん)にて終わる、まさしく都を一直線に割る一本の道なのである。


 走って三十歩でも渡り切れるかどうかの大路はそれでも、今日に限っては所狭しとひしめき合う人で随分狭く見えた。

「こっちこっち!」

 元気に歩く計馬に従って歩けば、古びてはいても品の良い旅籠(はたご)に辿り着く。

 流石は大路沿いに店を開くだけあって、格式高そうな、まさに"老舗"といった佇まいだった。


「おい、計馬。ほんとにここ、入っていいのか?」

「いいのいいの。ほら、こっちだ」

 導かれるままに裏へ回り、裏口を計馬が叩く。


 店の者だろう。前掛けを付けた女が不審げに扉を開けると、計馬はにこりと笑って会釈した。

「どうもこんにちは。計馬と言います。おきょうさんはいらっしゃいますか」

「え、ああ!あなたが計馬さんね!聞いてますよ。ささ、お連れさんもどうぞ中へ」


 途端に愛想よくなった女に案内され、気が付けば二階の部屋で座布団に座っている。これぞと言いたくなる玄人の接客であった。


「なあ、こんな良い宿で、昼飯代があれだけって、何の詐欺だよ…」

 見るからに上品で、さり気なくも高そうな調度類にくらくらする。

 そうして運び込まれた食事もまた、料亭としては品数が少ないのだろうが、普段雑炊やらうどんやらで済ませる身としては、気が遠くなるほど豪華である。…後で追加を請求されたりはしないだろうか。


 その点他の面々は実に堂々としたものだ。

 考えてみれば広亮も瑞女も良い所の出であって、金には困ってはいないようだし、庶民と同じ感覚の柚葉は、人を疑ったりはほぼしない。きっと『わぁ、お安いのに良い部屋で美味しいご飯が食べられて運が良かったね!』とでも思っているのだ。


「っていうかお前、なんでこんなとこに顔が利くんだ」

「ここの先代のおかみさんが道で難儀してたからさ、ちょっと助けて、お礼に夕餉をご馳走になったから、お返しに魔除けの札を書いて、さらにお返しに昼餉に招かれて…ってやってたら、なんか仲良くなってさー」

 先ほど名前を出したのが助けたおかみらしい。

 情けは人の為ならず。人柄の良い者は得をするというのはこのことであろう。


「あ、侃爾さん計馬さん!ほら!きましたよ!!」

 窓の外を見てはしゃいでいた柚葉が呼んで、侃爾たちも窓へ近づいた。


 眼下は見渡すかぎりの人の波。

 よく見れば内側と外側で雰囲気が変わる。人種が違う、とでも言うのか。


 外側は雑多な着物を着た見物人だ。

 内側に向かい、思い思いに手を振り、声をかけている。

 彼らが見ているのは、揃いの羽織に防具を付け、槍を携えた兵たちだ。

 厳めしく前だけを見て整然と歩いていく。その後を、より道の内側で行く騎馬の武人。最奥をしずしずと行く、みやびやかな装束を纏っているのは、侃爾は役の名前など知らないが、傘を差されている貴族とその付き人たち。

 さらに大きな牛車と様々な色の衣を着た宮人たちが続く。

 かぁんかんと金物の音が響き、どん、どん、と太鼓が打ち鳴らされれば、甲高い笛の音が花を添える。


 上からの視界に遮るものがなくとも、分厚い人の層の向こう側を行く行列は、かなりの距離がある。

 目鼻立ちなど分からない。

 ただ煌びやかな雰囲気に呑まれ、いつの間にか全員が身を乗り出して食い入るように凝視していた。


 おお、と人垣がどよめいた。

 そちらを見ると、巨大なものがゆっくりゆっくりと動いてくる。侃爾はぽかんと口を開けた。――――でかい。


 それは、家よりも巨大な地車だった。

 二十頭も居る牛と、さらに数十人の人足(にんそく)に牽かれ、巨大な車輪が回転する。

 使われた木材にはそれぞれ贅を凝らした彫刻が見える。天女が舞い、花が咲き乱れ、竜が躍る。


 中段に乗るのは、鉾と弓を手にした武者たち。

 その上。二階にいる侃爾たちより上の位置にある、天台と言っても良い高み、四本の柱で支えられた屋根の下に、背筋を伸ばした人影がひとつ。


「あれが、日嗣の皇子か」

 遠目に、しかも薄布の付いた冠を付けているため、顔立ちはわからない。

 ただ、立派な衣を着て、前を見据えている姿は凛々しく見えた。


 そのとき、一陣の風がふわりと皇子の薄布を揺らした。

 布がめくれるほどの強さではなく、しかし確かに皇子に触れた風は、弱まりながらも一直線に侃爾のもとに吹き付けた。


――――なんだ?(なまぐさ)い…?


 薄いながら奇妙な臭気を風の中に嗅ぎ取って、侃爾は眉をひそめた。

 周りを見ても、計馬も広亮も、柚葉も変わった様子はない。

 気のせいかと思いかけたとき、瑞女が険しい顔で振り向いた。

 目を見交わし、互いに違和感を覚えたことを察して、そっと窓からふたりで離れる。


「あの皇子、穢れがある」


 瑞女が言いながら、通り過ぎる背中を振り返る。

 変わらずすっと伸びた座り姿は、もう臭いはわからない。遠いから当たり前だが、近付いたとしてもあんな臭いはしないだろう。


「大祓い…上手くいけばいいけど」


 行列が通り過ぎたあとも、瑞女の呟きが耳を離れなかった。






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