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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
86/131

幕外陸 侃爾ノ一

一旦ここで区切ります。

もう少しだけ、幕外続きます。


 晴天の下、日の光を受けて白く輝く道は広く、何台もの荷車が同時に行き交ってもなお、人が間を通る余裕がある。

 うだるような暑さをもたらす日差しは強い。

 陽炎が揺らめき立ち、風もなく、水の気配も遠い。涼を求めて目を転じれば、道の両脇に立ち並ぶ商店の軒から落ちる、青みがかった黒い影は染め抜いたようにくっきりと濃い。


 しかしながら、炎天下をものともせず、大路(おおじ)は活気が満ちていた。


 道行く振り売りが「めざぁーしぃー」と、歌うように長々と声を響かせれば、横の八百屋が「安いよ!今なら西瓜(すいか)にゃ胡瓜(きゅうり)をつけるよ!」と高らかに呼び掛ける。

「塩はいらんかね!」と塩屋が叫べば、負けじと「酒のご用は酒蔵栄七(さかぐらえいしち)!!」の声が上がる。


 小間物屋があり、貸本屋があり、食事処が良い匂いを漂わせる。

 それらの間を色とりどりの衣を纏った無数の人々が、まるで川を流れる水のようにうねり行く。

 賑やかな声は混じり合い、区別のできない雑多な喧騒となって活力を振り撒いた。


 真夏の日差しの下でも、蒼竜京(そうりゅうきょう)の大動脈、四道の一本、南の大路"離午大路(あきまおおじ)"はいつもと変わらず生気に満ちていた。

 それもそのはず、ここは民の暮らす"門外"だ。取り澄ました上品な貴族ばかりの"門内"より活気があるのは言わずもがな。さらにこの界隈は、商店が軒を連ねた買い物処であり、門外の中でも最も賑やかな場所と言っても過言ではない。


 『赤子のむつきから棺桶まで、一生に要る物何でも揃う』とは、離午大路に沿って広がる商業区、交万街(かいまんがい)の謳い文句だ。

 朝から夕方まで千客万来。年明けから年の瀬まで人が途切れることがないこの街は、真実、都で一番活気があると誰もが知っている。

 蒼竜京(みやこ)は東領でもっとも人が多い場所だから、交万街は東領の中で一番だ、などとこの街で育った者は皆胸を張る。


 他所で聞いてはただのお里自慢かと思うが、この光景をひと目見れば、誰もが圧倒されつつ納得することだろう。

 そんな活気。他では目にすることはないほどの果てない人の波だった。


 行くものと来るものでぶつかり合いかけながらも、滞りなく流れていた人波が、あるところで滞っていた。

 川の中で顔を出した岩に当たるように、人々は一旦止まり、脇へ避けて歩いていく。

 長く立ち止まる者もいて、やって来た者が邪魔そうに睨むが、直ぐに同じ方向に目を向けて、物珍しげに「おお」と呟く。


(たちばな)の術者だ」


 けして大きくはない声は束なり、いつしかざわめきとなって往来に満ちた。

 その真ん中を、檜皮色(ひわだいろ)の羽織を翻らせ、日除けの傘を目深に被った五人の男女が粛々と歩いていく。


 背に負った橘の御紋。

 その顔ぶれを見渡した情報通が、やや大きな声で隣の者に言う。


「ありゃ、橘の阿弥彦(あやひこ)だ!鬼退治の班だよ!あの凛々しい面構えは間違いねえや!!」

「おめぇ、橘の紋羽織を見たら毎回そう言ってるだろうが」


 あきれ混じりの指摘が返るが、誰も気にも止めない。

 鬼退治の班だと騒ぐ明るい声は随所で聞こえ、やがては歓声が混じって、声高に彼らに声援を送る者が出だす。

 ついには道行く彼らを大歓声が取り巻いた。


 前はともかくここ最近、妖魔に幽霊、魑魅魍魎の噂は数知れず、被害の話もまことしやかで我が身に近いのが現状。

 民草が怯え惑乱していたところに、数々の魔払いの逸話が噂として流れ出した。

 災禍の中でも実を拾おうと、各術者の家が自家の活躍を噂として流したのである。


 中には随分見栄を張って話を盛りに盛った者らもいたようだが、一般の者たちは真偽などわからない。

「そんな凄いことができたならもしかして自分も助けてもらえるかも」と、怪奇な事象に悩む人々が殺到した。

 頻発する怪異の噂に不安を抱いて、何でもないことを怨霊や妖怪の仕業だと思い違いした者らも多かったがしかし、中には本当に悪霊の類に取り憑かれた者もいた。

 集まる人の数が多ければ、割合的には少なくとも、そこに混じった悪霊憑きが増えるのは道理である。


 大した力もないのに話を盛った家はたまらない。

 出来ないと慌てて断り、名声どころかいんちき呪術師と(そし)られて、都に居られなくなった一派があれば、無理をして魔払いに挑み、依頼人共々皆死んだという悲劇もある。


 結果的に、噂を盛って背伸びをしようとする者らは居なくなり、力のない家は淘汰されていった。


 そんな中、橘家は人々の期待に見事に応えたのである。

 橘家。鬼退治の一派だ。


 鬼が出たという事件の舞台は景地門(けいちもん)という身近な場所で、しかも被害が出たのは自分たちも身近に接する警備の兵衛(ひょうえ)

 何人も喰われたと聞き、さらには景地門から怪我を負った兵が這う這うの体で逃げ出すのを見た者も多く居るとくれば、話の信憑性はいや増す。

 その人喰い鬼を退治したというのだから、都のどの術者よりも、人々が橘家に寄せる期待は大きかったと言えよう。


 連日橘家には、怪異に遭って助けを求める者や、魔除けの護符と清めを欲する人々が殺到した。

 橘の一派は、それをそつなく捌いて見せたのだ。


 助けを求めた者の中で、気のせいだった者にはこれから先も安全であるようにと護符が配られ、本当に悪霊が憑いた者には速やかに祓いが施された。


 大祓いに備えるため、(すめらぎ)に、微力ながら助太刀すると称しての昼回りはやめる訳にはいかず、夜は夜で魔払いの人員を減らす訳にはいかず、さらには力及ばない家がどんどんと消えていく上での大量の依頼である。


 魔払いができなくとも、小さな術者の家にはそれなりの役目があった。

 怨霊は倒せないが、霊を寄せ付けにくくする護符は作れたし、占いをして、危険な方角や縁起の悪い場所を教えることも出来たのだ。

 小さなことかも知れないが、実際それで満足する人は多くいて、彼らのお蔭で身を守れた者も多かった。

 だが、そういった役目をこなす者たちが居なくなり、全ては残った大家(たいか)が受け持つこととなってしまっていた。


 橘家の内側でも、当然の如く人手不足で天手古舞(てんてこまい)になっていたのだが、そんなことはおくびにも出さず、澄ました顔で粛々と、必要な処置を施していった。

 無様なところを外部に知られるまいという意地である。


 その甲斐あり…費用が格安だったのも手伝って、今や民草の間で橘家の人気は不動のものとなっていた。

 橘家だけではなく、様々な術者たちが昼に市中を回り、様々な術を施して都を清め、その際には出来得る限り良い印象を持たれようと血の滲むような努力を重ねていて、今の都では術者たち全般の人気が高まってきつつある。

 その中でも橘は一二を争う人気を博していたのである。

 

 だからこその大声援。


 当の彼らは黙々と前を向いて歩くのみで、愛想を振り撒くこともない。

 しかしそれが玄人っぽいと、周りは勝手に盛り上がり、ただ歩くだけで彼らの評判は鰻上りに上がっていく。


 彼らはすっかり、都の流行となっていたのだ。






 騒ぐ民衆を横目でちらりと見て、侃爾(りょうや)はむず痒い気持ちを押し殺し、口を引き結んでいた。

 普段はどんなに頑張ったとしても、礼を言われることさえ(まれ)なこの稼業。こんなに笑顔を向けられることも、ましてや応援されることもないのだ。

 広亮(ひろと)などは、ただ歩くだけなのにがちがちに緊張して顔を引きつらせているが、侃爾は違った。

 人々に認められるためにやっていることではないが、こうも歓迎されれば何やら誇らしい。

 だが、『寡黙で堅実な印象を守れ』という本家の指示で、こうして無表情を心がけて、黙々と歩いていたのだ。


 そう。術者の見分けがつく訳もない人々は、橘の者を見れば必ず鬼退治の班だと空騒ぎをしているのだが、今回は珍しく本当に"鬼退治の阿弥彦班"なのだった。


「…お祭りの準備をしてますね」

 隣を行く柚葉(ゆずは)が、侃爾にしか聞こえない小声で言った。

「…そうだな」

 侃爾も出来るだけ口を動かさずに返す。


 眼だけを動かして、今真横を通り過ぎた呉服屋を見れば、他の店と同じく祭り用の赤提灯を軒に吊るしている。

 ここに来るまでに通った河原にも、いくつも屋台が組み立てられていた。


 明日から数日掛けて大祓いが執り行われる。それと同時に祭りが始まる。

 人々は、大祓いに合わせて夏祭りをするのだ。

 めでたい催しにかこつけて、文字通りお祭り騒ぎをしようというのである。

 怪異が頻発している現在でも前向きであり続ける。都の民衆はこんなにも(たくま)しい。


小雛(こひな)ちゃんにも、教えてあげなきゃ」

 嬉しそうに柚葉が呟いた。


 大祓いの間は、魔払いの家は全てその活動を止める。つまりは休みだ。

 術者が動いていれば、手助けがあったともとれる。

 国の威信をかけて行われる大祓いは、助けなど必要とせず、全ての穢れを消し去れるという建前上、けちが付くようなことは決して許されないのだ。


 前準備にこき使って何を言うか、とは思うが、久々の休みがもらえるとあれば、文句を言う気にはならない。


 弾んだ小声で、柚葉が小雛に伝えることを数えるように、周りの店とその出し物を確認している。

 鬼退治の班の六人目。敵に止めを刺す調伏役を務める彼女はここにいない。


 小雛はあの後体調を崩した。

 昔掛かった病の後遺症で陽の光に弱いのにも拘らず、仕事だからと無理をして昼に外に出たことが原因だ。

 昼に出歩いた上に、夜には魔払いをこなすという、健常な侃爾でさえ少々辛い任務をなんとか無事に終えられたのは僥倖だった。


 しかし小雛の負担は大きかったらしい。

 らしい、というのが侃爾にとっては苦いところだ。小雛はいつもの無表情を崩さなかったし、動きも普段と比べて遜色ないものだった。

 だが帰り着くなり彼女の主治医である春馬蔵人(はるまくらと)が連れて行き、次の日に小雛は絶対安静だと伝えられたのを思えば、班員たちに分からないように、不調を隠していたのだろう。


 さらには、春馬の口添えがあったのか、次からの昼回りを小雛は免除になったのだ。

 喜ばしいことだ。

 班員たちは皆、小雛がふらつきながら歩いていたのを知っている。あんな無理をさせずに済むならそれに越したことはない。


 だから、自分たちの班長、阿弥彦が言って通らなかった願いが、春馬の要請で簡単に叶えられてしまったことに釈然としないのは、侃爾の心の問題だった。

 そんなことを理由に不機嫌になったり、口に出してぼやくほど子どもではない侃爾だが、考える内に眉が寄っていく。


 春馬蔵人が医者だというのは知っている。橘家の離れに住んでいる、客人だというのも知っている。

 だが、一介の医者に、上層部に口出しする力があるものだろうか。


 それだけ小雛の容態が深刻だったとか、そもそも小雛が超重要な人物だったなら分かるのだ。

 だが、前回の昼回りから四日が経って今日は五日目。

 その間に二度、夜の討伐が入ったときに小雛も参加したが、平然と屍鬼をばっさばっさとなぎ倒していた。無表情で。

 様子はいつも通りで、体調が悪いとは思えない。

 そして小雛もただの払魔師にすぎない。彼女は有能ではあるが、替えが効かない人員という訳ではないのだ。

 この滅茶苦茶に忙しい時期、昼に出る回数を減らすならまだしも、免除になることはそうそうない。


 侃爾の知る橘家上層であれば、こき使って倒れたならば休ませ、しかし回復したならまた送り出すだろう。


 そう考えると非道で冷酷のように思えるが、特別彼らが酷いという訳ではない。それほど手が足りないのだ。

 ましてや小雛――並びにこの班は、鬼退治の立役者という付加価値がついて、今はこの上なく人々()に受けが良い。

 貴族のところへ遣るのにこれ以上の適任は居らず、実際侃爾も、夜の討伐の後こそ半日の休みを貰ったが、その後は貴族家巡りをせざるを得なかったのだ。

 貴族は無邪気な民衆とは違い、術者の選り好みをするからだ。


 彼らは訪ねてきた他の班を叩き出すことはしなかったが、鬼退治の班ではないと知るやあからさまに落胆して見せ、素っ気なく対応し、中には「鬼退治の班を連れてこい」と言い放った者も居たらしい。


 侃爾としてはふざけるなと言いたい。自分たちと他の班にそんなに大きな実力の差はない。あるのは評判だけだと。

 だが瑞女(みずめ)に言わせれば、貴族は実力よりも評判が大事だというから、苦い顔をしながらも何も言えないのである。


 なにせ、術者というのは客商売なのである。

 貴族(お客)にそっぽを向かれてしまったら、実入りが少なくなる。

 実力は大切。実績も大切。だが、外面(そとづら)というのは、実よりも先に必要になる、根っこであり幹であり枝なのだ。

 客がなければ商売はできないのは道理。お客さまは神さまです。神さまにばちを当てられたら痛い目を見るのはこちらだ。

 世知辛い世の中である。


 そんな訳で侃爾たちは忙しい。それを上層部も知っているから、小雛を班から外して休ませるというのは、出来ればしたくはないはずだ。

 それに、上というものは、自分たちが決めたことは覆したがらない。

 例えどんなに些細な、それこそとある者が嫌がらせ紛いに指示したことでも、上層部が決めたことであれば、他からの口出しで思い直すなんてとんでもないと考える。

 威信に関わるからだ、なんてのは建前で、本当は下の者の言いなりになれば負けた気になるからだろうと侃爾は思っている。

 下らないが、そういうものだ。


 だが今回、春馬蔵人は上層部の決定を覆した。

 "鬼退治の班"を率いて、家中でも発言力を増した阿弥彦でも出来なかったことをやったのだ。


「春馬蔵人…何者なんだ」

「春馬さまですか?」


 無意識にこぼした呟きに返事があって、侃爾は驚いた。…なんとか一瞬動きが止まるだけに留めたので、誰も気づいては居ないと思いたい。

 幸い侃爾を驚かせた当人は、気付かずうーんと首を傾げている。


「お医者さまで、病気の研究をしてる学者さんだって小雛ちゃんが言ってましたよ。昔小雛ちゃんの病気を治してくれた人なんですって。春馬さまがどうしたんですか?」

「別に、ただの医者が本家に口出しして、よく通ったなと思っただけだ」

 ぶっきら棒な口調の侃爾を振り仰いで、柚葉は戸惑うように何度か瞬きをした。


「口出し…って、ああ。小雛ちゃんの昼回りの免除ですか。そうですねぇ。そう言われれば、とっても幸運でしたね!」

 幸運だったで片付けて、能天気ににこにこし始めた柚葉にため息を禁じ得ない。

 もう慣れたが、彼女は基本的に楽天家であり、あまり物事を勘ぐって考えることをしないのだ。


 ついでに本家のお達しの"寡黙で堅実な払魔師"のふりが崩れていると注意しようと思ったが、侃爾が考え事をしている間にいつの間にか交万街を抜けて橋を渡り、人通りが少ない方へ来ていたのでやめた。

 柚葉も周りに人が居ないから気を抜いたのだと察したのだ。

 周囲に目配りが出来なくては、妖魔の討伐で囮役は務まらない。柚葉はこう見えて、見るべきところはきちんと見ているのだと侃爾は知っていた。


「春馬って人は、頭領(とうりょう)のお客なんだって聞いたことがあるよ…」

 広亮が振り返って会話に加わった。

 ほっとしつつもまだ少し青い顔をしている。よっぽど人に注目されるのが苦手なのだろう。


「へえ、長さまのお客さまなんですか」

「僕はそういう噂を聞いたよ。近頃怪我人とか、多いから。他所から来て土地に不慣れなあの人を住まわせる代わりに、橘の術者を治療してもらってるって。お世話になったって言ってる人から聞いたから、治療をしてるのは間違いないよ」

「そうなのか」


 広亮はこう見えて知り合いが多い。

 侃爾も中々顔が広い方だと思っているが、見るからに人畜無害な広亮と勝気な侃爾では、知り合いの層が違う。

 実力をひけらかすということをしない彼は、真面目で親身になって話を聞ける人物だ。

 話し易い雰囲気と朴訥な人柄で、悩み事の相談や愚痴によく付き合っているらしい。――見た目通り気弱なので、気の強い者らから苛めの標的にされやすいのが難ではあったが。


「それでも、怪我人の治療してるだけで上層に意見が通るものかな」

「それだけじゃないってこと?」

 広亮は侃爾を見ながら、少し考えるような間を置いた。


「…治療もすごく大事なことだと思うよ。今は本当に人手が足りないし、怪我をしたり疲れた人が、早く元気になって現場に戻ってくれないと本家も困るだろうし、春馬さんを怒らせたくなかったんじゃないかな」

「しかし、免除だぞ?頻度を減らすとかじゃなく、免除だ。小雛ももう治ったのに、昼回りは相変わらず休みだ。小雛が鬼に止めを刺したんだって連中(きぞく)も知っていて、小雛に会いたいと言う奴も居るのにだ」

「それだけ小雛ちゃんの働きに期待されてるってことだと思いますよ。ほら、あんなにすごい破邪の剣をくれたのは長さまだし」


 破邪の剣。

 橘家が小雛に与えた直刀(ちょくとう)のことだ。

 鍛え方や素材から、仰々しい(いわ)れがあるのだと想像に難くない、何重にも破邪顕正(はじゃけんしょう)の念が込められた強力な霊具だ。

 侃爾も主に刀を使っているが、比べ物にならない威力を誇る。

 だが、あれを使うためには多くの力が必要だ。そう何度も使っていられない。

 対して侃爾の刀であれば、力は劣るものの長い戦闘にも耐えられる。一長一短だ。

 よって、この班では持久力に勝る侃爾が主に前で戦い、威力に勝る小雛が止めを担当する。


 今まで小雛の剣を以て倒れなかった敵は居ない。一人で戦っているわけではないから剣の威力だけではないが、それでもすごい剣であることには違いない。

 あれを与えられたというだけで、本家の小雛への期待も分かる。


「…期待はされているんだろう。でもな、小雛は地位もない(ヒラ)の術者だぞ。他と不公平になることを、医者を怒らせたくないだとか、期待をかけているだけで本家がやるだろうか」

 言ってから、舌打ちしたい思いに駆られた。


――――これじゃあ、二人の意見を聞き入れてないみたいじゃねぇか。

 侃爾は一度大きく息を吐いた。気持ちを落ち着けるためだ。

 同僚としては素直に喜びたいが、納得がいかなくてもやもやする。だからといって、仲間の気分を損ねたくはない。


「――すまん。俺もあいつが昼番を免除になったのは良いことだと思う。…だが、釈然としない」

「そうねぇ。私もだわ」

 言って、広亮の隣で瑞女が横顔を見せた。


「私たちもだけど、小雛は橘家で今一番評判の人よ。脂が乗ってる。話題なんていうのは直ぐに流れて消えていくんだから、使えるときに使わなくちゃ宝の持ち腐れというものよ。小雛の使いどころは、今ここよ。例え討伐に出られなくなったとしても、昼の巡回だけで充分な利がある。体の調子を見て、一日置きだったとしてもね。それが解ってないほど本家もお馬鹿じゃない筈」

 語る瑞女の言葉には淀みがない。

 小雛の体調や、本人がどう思うかを完全に切り捨てた、冷たいともとれる冷静な言い様だった。


「…でも、小雛ちゃんはあんなに辛そうでしたよ。春馬さまだって小雛ちゃんがどれだけ体調が悪いか分かっていたから、上に掛け合ってくれたんだし、それをちゃんと汲み取ってくれたんじゃないかって思います。それにもしも小雛ちゃんが倒れて…もう討伐に出られなくなったりしたら、それこそ外聞的にも本家も困るでしょう?」

 瑞女と同意見ではあったものの若干むっと来た侃爾より先に、眉根を寄せた柚葉が言う。

 こんなに不服そうな柚葉は珍しい。それほど小雛を物のように"使う"と言われたのが不愉快だったのだろう。


「あら、外聞っていうのは取り繕えるものよ」

 瑞女は顔色ひとつ変えずに皮肉っぽく肩をすくめた。

「小雛が倒れたっていう事実だけを使って、悪霊と刺し違えただの、怨霊を我が身に引き受けただのと広めれば『流石は橘家の術者!』ってまた評判が上がるのよ。そして小雛がこの先討伐に出られなくなったとしても、小雛や私たちを使って作った貴族との繋がりは切れないわ。それは、一介の術者の働きが釣り合う訳がないほど大きな利益よ。そうして一人の払魔師と、ついでに医者を一人失ったとしても充分お釣りが来る。だって医者は貴族に紹介してもらえば済むし、評判を上げればより多くの術者が橘の門を叩くでしょうからねぇ。二人の抜けた穴は充分以上に埋められて山になるぐらいよ」

「……」


 すらすらと言い切った瑞女に、柚葉は言い返さなかった。

 その顔には言い負かされた苛立ちはない。それどころか、先ほどの不愉快気な様子も消えて、どこか神妙な顔をして瑞女を窺っている。

 侃爾もまた、まじまじと瑞女を見た。

 皮肉気で小馬鹿にしたように、含み笑いさえ零しながら横目でこちらを見る彼女に違和感を覚えていた。

 どこがどうとは言えないが、今言ったことは瑞女らしくないように思えた。


「じゃあ…瑞女はどうして小雛が昼番を免除になったと思う?」

 広亮が静かな口調で問えば、瑞女は「そうねぇ」と顔を前に戻した。


「順当に考えて、小雛が昼回りして得られる利益より、小雛を休ませても得られるものの方が大きい。もしくは、小雛を使い潰して失うものが大きい、ってところかしら」

「それはどういうことだ?」

 侃爾は反射的に返して、歯噛みする。

 何も考えずに、答えだけを求めるのは、自分の能が足りないと認めるようで不愉快だ。

 小雛を"使い潰して"などと言われたことに苛立った。それを表に出してしまったことも不本意だ。


 瑞女は好んで刺々しい言い方をするが、それは好意を素直に言い表せない性格なだけだ。仲間を物扱いする人間ではないと班員たちはよく知っている。

 彼女がこう言う言い方をするのには何か理由があるはずだ。なのに感情的になってしまった自分が気に入らない。


「考えられることは幾つかあるわ」

 対して瑞女は、拘り無げにそう言った。

 涼し気な声で、侃爾が及ばぬ考えをいとも簡単そうに出してくる。

 それが悔しい。


「ひとつは、小雛が実は一介の術者じゃなかった場合。私たちみたいに、何か特別な素性を抱えてるときね」

「でも、小雛は商家の生まれだって言ってたよ…嘘を吐いたと思っているの?」

 不安げに広亮が言ったのを、瑞女は即座に首を振った。


「いいえ。あの子が嘘を吐くなんてまだるっこしいことをするとは思えないわ。言いたくないなら言わない。何をどう言われても黙るのが小雛でしょうよ」

 ふん、と鼻息と共に吐き捨てるが、小雛のことを理解しているから言えることだ。

「少なくとも出身のことじゃあないんでしょう。私じゃ予想も付かないわ。でも例えば特別な素養があるとかだと、あり得そうじゃない?」


「それを僕らにも黙ってる…?」

 広亮は決定的に情けない顔になった。仲間だと思っているのに、小雛からは信頼されていないように感じている顔だ。

 侃爾は思わず言った。


「あの小雛だぞ。訊かれなかったから黙っていた、なんていうことが充分あり得る」

「そうね。私もそれが一番あり得ると思うわ」

「そうですねぇ…小雛ちゃんだもんね」

「あ、確かに」


 あっさり全員の結論が一致した。

 彼らは小雛の性格をよく理解していたのだった。


「他には、春馬蔵人が私たちの知らないところで、重要な役割を持ってる、ってところかしらね。あの人に出て行かれては困るから、ご機嫌取りは必要。だから小雛は昼番を免除された」

「治療以外に役目があるってこと?」

「そう」

「…具体的には?」

「知らないわよ。知る訳ないでしょう?私が知っているのは、小雛をどうしても外せないはずの昼番を、本家が免除したことだけだもの」

 瑞女はあっけらかんと言った。


 侃爾は呆れが隠せない。柚葉と広亮も、肩透かしを食らった顔をしている。

「よくもまあ、想像だけでそこまで膨らませられるもんだな。何か俺たちの知らんことを掴んでるのかと思ったら…」


「侃爾」


 今までからかうように軽やかだった瑞女の声が、重苦しく静まった。


「あなた、ちゃんと違和感が持てたんだから、確証がなくてももっと色々考えなさいな。柚葉と広亮も、そんな楽天的に構えていては駄目よ。小雛が昼番に引っ張り出されたように、私たちにも何か無理を言って来るかもしれないのですもの」


 侃爾ははっとして、目が覚めた想いで瑞女の背中をまじまじと見た。

 彼女が自分たちを案じてああいう話をしていたのだと、ここで初めて気づいた。


「橘は長く貴族相手に占いをしてきた家よ。頭の使い方を、少なくとも貴族を相手にしていられるぐらいは知っている。そして少なくとも小雛と春馬蔵人には、何かある。それを隠してるのが橘本家なら、油断してちゃ駄目だわ。一度は小雛を顧みない命令を下したんだから、本家は私たちも守ってはくれないわよ。あっちは私たちの望むことだから気にしないだろうと思ってるかもしれないけど、今回のことは理屈に合わない。何かが隠れてるかもしれないのだから、後からもっと何かが起こっても不思議じゃあない。私たちは小雛の傍に居るんだから、巻き込まれるかもしれないしねぇ」


 振り返らない瑞女が何を見ているのかを知った。――先頭を行く、阿弥彦だ。

 今までの言葉は、阿弥彦に聞かせるためのものだったのだ。


 彼は橘の名を持つ人間。

 何か知っているのかもしれない。

 だがそれを黙っているのなら、真面目で堅物な彼は訊いても答えてくれはしないだろう。


 だから瑞女はただ話した。

 こう思っているのだと彼に知らせるために話していたのだ。

 何を狙ってのものなのかまでは侃爾にはわからないが。


 阿弥彦は振り返らない。

 黙々と歩みを進め、前だけを見ている。


 自然と四人の目が阿弥彦の背に集まる。

 気付いているだろうに、彼は何も言わなかった。


「――なんてね」

 幾らかの沈黙の後、瑞女はおどけ笑いを乗せて言った。


「まあ考え付くようなことが本当に起こるなんて、滅多にないものだし、案外柚葉が言うように、本家が小雛を思い遣って休ませたか、春馬さんとやらが怒り狂ったのが怖かったとかそういうのだったりして」

 自分でも本気にしていないことを言っていると、特に鋭い訳でもない侃爾にも分かる。しかし瑞女が今までの話を冗談にしよ(・・・・・)うとしている(・・・・・・)のもまた明らかだった。


 何事もなかったことにしようと、そういう意図が読み取れて、侃爾も頭を切り替えることにした。

 こんなことで阿弥彦とぎくしゃくしたくない。


「そう、ですね」

 柚葉が阿弥彦から目を離して、瑞女に笑いかける。

「ねえねえ、瑞女さん!明日からのお祭り、ちょっと覗きに行きません?大祓いの間は術者は動いちゃ駄目って言われたけど、遊びに行くなら良いだろうし」

「いいわねぇ。どこ回ろうかしら?」

「ええと、河原の屋台の飴屋さんでしょ?お面屋さんでしょ?それから…」

 明日の予定を楽し気に言い合い始めた二人は、もう先ほどまでの重苦しい雰囲気は残っていない。


――――切り替えの早い奴ら…。


 結局何も解決していないのを忘れていない侃爾は、半眼で彼女らを眺めた。

 だが女性の会話に割り込んで文句を言うなどという怖いことはしない。


 和気藹々とし出した女性陣と阿弥彦を見比べて、最後に侃爾に向けて広亮は苦笑した。

 彼もまた、侃爾と同じことを考えていたのだろうと察せる笑みだった。しかしそこには安堵が濃い。

 さっきまでの空気は居辛いものではあったから無理もない。


「…ねえ知ってる?もう大祓いの儀式は始まってるんだよ」

「え?そうなの?」

「明日からじゃなかったんですか?」

 唐突に投げた広亮の話題に、二人が目を丸くする。それに少し笑って、広亮は朗らかに肯いた。


「本祀は明日からだけど、皇や神宜官(じんぎかん)の清めをして、先ずは宮中の祓いをするんだよ。その儀式は今日なんだ」

 へぇー、という声が三種類出そろったところで、初めて先頭の男が振り向いた。


「そろそろ雑談をやめろ。もう着く」

 応諾する声が四人分綺麗に重なった。

 そこに(わだかま)りは一切なかった。






 門外の片隅、のこの区画は、物々しく武装した兵衛がうろつき、彼ら相手に商売をする者ぐらいしか、一般人は立ち入らない。

 一行がやってきたのは、兵部(ひょうぶ)省管轄の詰め所のひとつだ。

 罪人を拘留する場所である。

 それも、殺人や火付けなど、重大な罪を犯した者らが、沙汰を待つ場所だった。


「よくおいでになった」

 門の脇に立った兵に阿弥彦が名乗れば、丁重に門を通される。

 直ぐにやってきた若い官に引き継がれ、案内された先にあったのは、木造の倉庫のような建物だった。

 その前に待っていた、部下を従えた初老の男がきびきびとした動作で会釈をした。

 兵部卿。門外の警備を行う、兵部省の長である。


「貴殿らがあの鬼退治の班か。よく来られた」

「いかにも私が班長の橘阿弥彦と申します。早速始めたいのですが」

 挨拶もそこそこに切り出した阿弥彦に、兵部卿は不快を感じることはなかったのか、逆に満足気に笑んだ。

「宜しくお願いいたす。こちらだ」


 幾らかの遣り取りのあと、緊張の面持ちで部下の一人が扉を開くと、すえた臭いがうっすらと鼻先に漂ってきた。

「広亮」

「は、はい」


 先に立って入ろうとした男を止めて少し退がった阿弥彦の脇を抜けて、広亮が戸口に向かう。

 否応なしに注目が集まって、広亮の顔は引き攣っている。

 だが、侃爾はあまり心配せずにそれを眺めた。

 兵衛たちは、兵部卿に至るまで全員が怪訝な顔だ。

 彼らの顔には『こいつ何?』とでかでかと書かれている。確かに、気弱そうで頼りない広亮は、何かを任されたなら「大丈夫か」と思わずにはいられないだろう。

 彼の実力を知らない者は、だが。


 広亮は、気を落ち着かせるように一度大きく息を吸った。


 音高く、拍手(かしわで)が鳴った。

 次いでもう一度、騒めく人の気配を割くように、辺りに乾いた音がする。


 すっと背筋が伸びた。広亮の雰囲気ががらりと変わる。

 先ほどのおどおどとした頼りない様子は拭い去られ、どこか荘厳な雰囲気を纏って凛と立つ。

 周りを囲む怪しむ顔は驚愕に変わり、彼が醸し出す気配に呑まれたように、その場の兵は全員が声もなく目を見開いていた。


 正確に東西南北に拝礼し、広亮が口を開く。


「――天津宮(あまつみや)神留坐(かむづまりま)大神等(おおかみたち)。諸々の禍事(まがつごと)罪穢(つみけがれ)を祓い給い清め給え。守り給い(さきわ)え給えと、(かしこ)(かしこ)(もう)す」


 ぱん、ぱん。


 朗々と祝詞を()声を追って、また二度の拍手が鳴り響いた。

 ふわり、と淡い光が場を包み、瞬きの間もなく消えた。


 誰もがその光を見たが、ほんの僅かな間のこと。しかし見間違いかと思う者は少なかった。

 広亮の持つ雰囲気が、それを許さないのだ。


「…あの、終わりました」

 簡易的な清めを終えた広亮が、自分を凝視する顔を見渡して、ひっと小さく喉の奥を鳴らす。

 ざっと血の気が引いて、顔は引き攣り、肩に力が入り――完全にびびっていた。




 建物の中は暗く、すえた臭気が籠ってじめじめとしていた。

 床は張られておらず、土がむき出しだ。


 中には物が少なく、十歩四方の建物なのに、がらんとした箱のようなそこは、もっと広く感じられた。

 そうして、中を覗いた者たちの視線は、自然に一点へと集まる。

 がらんどうの真ん中に、四本の青笹が立てられ、縄が渡されているのだ。


 結界である。


「貴殿らの指示通り、中に入るのは昼間だけとしておる」

「結構。問題もなさそうです。――侃爾、瑞女」

「「はっ」」


 名前だけの指示を受け、侃爾は真っ先に暗がりに足を踏み入れ、きっかり三歩後ろを瑞女が続く。

 むわり、と何かが腐ったような臭気が鼻を突くが、構わず結界に歩み寄った。


 油断なく腰の霊刀に手を掛けながら、そこにあるものを見下ろす。腐臭の大本がそこにあった。


 結界に封じられていたのは、女の死体である。

 左の肩口から腹まで、痛々しい切り傷が走り、左腕は取れかけている。

 夏の暑さで腐りかけて、傷口は正視に耐えない有様で、肌は黒ずみ、近付いた今では顔をしかめたくなる腐臭が立ち上っている。

 はだけた着物の合わせから見える肌に火傷のような跡が散っているのははっきりわかる。

 ざんばらの黒い髪。中年というにはまだ若い女。


 それは、目を閉じ、着物こそ白い装束を着せられていたが、紛れもなくあの日侃爾たちが戦い、小雛が斬った物の怪の女だった。


「大丈夫。瘴気はありません」

 侃爾の後ろから屍を確認した瑞女が入口に向けて言えば、残りの班員と数人の男たちが近寄って来た。


 侃爾はそちらを見ずに、女を油断なく探り続ける。

 あのとき確かに物の怪として人に取り憑いていたはずの女は、一切そんな名残もなく、ただの(むくろ)としてそこに転がっているのみだった。


――――立ち上がるおそれは、なさそうだ。


 一切油断はしない。ただの確認だ。

 この場においての侃爾の役目は、気を抜かないで有事に備えることなのだから。


 侃爾たちの班がここに来たのは勿論仕事のためだ。

 今回の仕事は、一度物の怪になった女を荼毘(だび)に付すのに立ち会うことだ。


 あのとき物の怪として調伏された女は、弔う前に一度兵部へ引き渡されたのだ。

 なぜなら、この女は罪を犯した罪人だったからだ。

 あの屋敷に来る前、彼女は自分の夫に毒を盛った咎で捕らえられていたのだ。


 罪人の生死は兵部の管轄である。きちんと確認をせねばならぬとして、橘家が勝手に死骸を焼いて埋葬するのに待ったが掛かり、橘はそれに応じた。

 その代わり条件を付けた。

 女の犯した罪や経緯、その他の諸々を教えること。

 直ぐに弔わないというのなら、また物の怪として起き上がるやもしれぬとして、安置する場所に結界を張り、いよいよ弔うときには橘の術者を立ち会わせること。


 兵部卿は全てを了承した。兵部方にとっても申し出はありがたいものであった。

 彼らは生きている人を相手にするのは玄人であっても、物の怪への対処は門外漢であった。


 一も二もなく返事をしたがしかし控えめに希望を出した。

 彼ら兵部にとって、鬼を退治して自分たちを助けた班ほど頼りになる者はいなかったので、できれば"鬼退治の班"を寄越してほしいと。


 今回のことは、橘家にとっても是非とも知らねばならないことがある。

 快く答えてもらえるに越したことはないとして、その願いは聞き届けられ、こうして侃爾たちが赴くこととなったのだ。

 

「兵部卿。この者の素性と死因をお教え願えますか」

 結界から出す前に、念入りに清めを施している広亮と柚葉をよそに、阿弥彦が早速問いかけている。

 だが、返ったのは何とも言えない困惑の顔だった。


「この女の名はおしん。(たつみ)区の長屋住まいで、夫が息子二人居る。死の直接の因は…この刀傷であろうよ。他に命に関わる傷はなく、如何なる病の気配もない。骸を引き取ったときには硬くなり始めであったし、間違いなくこと切れて直ぐの死体であった」

「……左様でしたか。では、この者は捕らわれた獄で死んだのではないと」

「いかにも」


 兵部の長は、何故こんなことを訊かれているのか分からない様子ではあったが、きちんと答えてくれた。

 彼にしてみれば、この刀傷を付けたのは橘の術者なのだから、不思議であろう。


 だが、侃爾たちの間には、緊張が走った。

 動揺は流石にない。もしかして、と思っていたことだから、やはりか、という気持ちが強い。


 緊張は、有り得てはいけないことの確証が強まってしまったが故である。

 女の死因が刀傷であったというのなら、物の怪であったときもまだ生きていたことになる。


 生きながら(・・・・・)物の怪になった(・・・・・・・)など、有り得ないにも拘らず。


「では彼女の罪と、その経緯をお教え願う」

「良かろう」


 侃爾は女の死体を視界に収めつつも、彼らの会話に耳を傍立てた。

 脳裏にあるのは、血を被って呆然とする小雛だ。

 生きものを斬ったのかもしれないと気付いて、侃爾が知る限り初めて、虚を突かれた顔で呆然としていた。


 橘にとっては、人が生きたまま物の怪に化けるかどうか、というところを知りたいのだろうが、侃爾にとっては、小雛の心が軽くなる要素が何かあれば、と思わずにはいられない。

 払魔師は、死してなお起き上がる道理に外れたモノを倒し、鎮め清めて本来あるべき死出の道へ送り出すのが役目。

 死体を斬ることはあっても生きた物を斬ることなどあってはいけないことなのだ。


 もしこの女を小雛が殺めた、ということになったとしても、貴族の邸宅へ踏み込んだ罪人の女を成敗した、というだけのこと。罪に問われることはない。

 だがそんなことは問題ではないのだ。小雛の驚きは、混乱は如何ばかりだっただろうか、と思うと心が苦しくなる。

 彼女が呆然としている顔が目蓋の裏に焼き付いて離れなかった。


「おしんを捕らえたのは月初め。夫を毒殺せんとした咎だ。事のはじめは、同じ長屋に住む者が、尋常でない様子で叫びながら走り去る男を目にし、驚いて家に行ってみれば、おしんが尋常でない様子で叫び狂って暴れていたために取り押さえたこと。だが、狂乱して叫ぶ内容に、夫に毒入りの汁を飲ませたとあったために御用となったのだ。胸元の火傷は、夫が抵抗した拍子に汁物がかかったのであろう。家にあった汁をネズミに食らわせてみると(ことごと)く死んだため、毒を盛ったのは間違いない。その後の聞き込みで大山内(おおやまち)家の御曹司、辰之進(たつのしん)どのに懸想(けそう)して、思い余って夫を害せんとしたことが分かった」


「聞き込み?おしんは何と言っていたのです」

「何も」

「何も?」


 訝し気に問い返した阿弥彦から、おしんの死骸に目を戻し、兵部卿は眉をひそめて重々しく言った。

「捕らえたときから錯乱し、狂気より覚めることがなかったのだ。叫び(わめ)きはすれど、如何なる問いにも答えることはなかった。ただ、辰之進どのの御名を呼んでいるのは分かったが、他は意味不明の叫びばかり。物も食わず、水も飲まず、弱っていったそうだ」


 兵部卿の声は沈痛で、おしんを悼んでいるようだった。

 娘ほどの歳の女が辿った運命を憐れみ、惜しむような声音で、弱った彼女がある日忽然と姿を消したことを明かした。


「最後の方は弱り果て、身動きもままならぬ様子でぶつぶつと何やら呟いていたと聞いている。見張りも、立つことも出来ぬ有様で牢脱(ろうぬ)けするなどと思いも寄らなんだと申した。」


 柚葉が清めの水を振りかけ、守りの小刀を抱かせてやって、額に魔除けの紋を施している。

 低く響いているのは広亮の祝詞だ。

 ゆっくりと尾を引くような調子を持った声が、神々に現世の罪穢れを祓い清めることを(こいねが)う。


 おしんは、死んでしばらく経っているがため、顔色も分からず、膨れかけた顔は人相さえ変わった有様ではあったが、頬や目元の辺りに、やつれた名残を確かに残していた。


「夫の方は如何しました」

「無論、探したが、今に至るも見つからぬ。だが、喚きながら河原を下って都の外へ出ていく男を見た者が居る」

「毒を喰らったのに、都の外まで走ったと…?」


 可笑しな話だ。

 殺そうとする毒に当たったというのに、健常の者でも辛い道行きを走破など出来はしまい。


「偽りなどせぬぞ」と兵部卿はどこか憮然として言った。

「そういう薬が出回っておるのだ。飲んだ者はもがき苦しみながらも、何処(いづこ)かへ走り出そうとする。大概は途中で力尽きて倒れ、その場でのたうち回ってこと切れる。だが、走り抜けて人里を出ていく者も、中には居るのだ。おしんが正気を失ったのも、この薬を浴びた所為やも分からぬ」

「何から出来たどのような薬なのです」

「…分からぬ」


 兵部卿はいよいよ不承不承(ふしょうぶしょう)という様子で、苦々し気に自分たちの至らぬところを明かした。

売人(ばいにん)は幾らか捕らえたが、奴らの仕入先(しいれさき)まで辿れなんだ。毒自体は押さえたものの、調べ途中の今は未だ何から出来た物なのかは分からず、飲んだ者も直ぐに死んでしまって、助ける(すべ)も見つかっておらぬ」

「左様でしたか…。ときに、出回っている、ということは、他にも飲んだ者が居ると?」

「うむ。…見た目は水と変わらぬ故に、差し押さえるのが難しいのだ。思いの外、広く出回ったようで、都の外からも時折、この毒の話が流れて来る」


 この件は内密に願う、と最後に言った彼に班長が是と返したところで、広亮の祝詞が終わった。


「清め終わりました」






 焼き場で遺骸を焼き、郊外の墓場に埋葬されるまでを見届け、おしんについて取り纏めた書を受け取って、侃爾たちは帰路に就いた。


 西日が眩しい。

 全てが黄色く染め抜かれた都は、夜に向けて人々が家路を急ぎ、店仕舞いをしている。

 夜が危ないのを皆知っているから、道行く者は全て急ぎ足だ。橘の御紋を見ても、騒ぎ立てる暇もなく、会釈をしたり笑いかけては通り過ぎていく。


「結局のところ、おしんさんはあのとき、生きていたんでしょうか…?」

 不安げに弱々しく、柚葉がぽつりと呟いた。

「はっきりとは分からぬ」

 応じた阿弥彦の言葉には誤魔化しはない。

 ただ、苦々しい顔で、あれは間違いなく物の怪だったと付け足した。

「少なくとも、人ではないものだった」


 班の全員が事実として知っていることだ。反論する者は誰も居ない。

 ただ、何かの間違いであれと願っていたことを、阿弥彦が認めたのを受けて、やはりそうだったのかと全員が重く受け止めた。


「やはり…生きたまま化けたと、そういうことでしょうか」

 問うた侃爾に、重々しく阿弥彦が頷く。

「聞き調べたことに間違いなければ…そうなる」


 事態は深刻だ。

 なぜなら――侃爾は向こうを足早に歩いていく男を眺めた――場合によっては、どこにでもいる普通の人でさえ、ある日物の怪に化けるかもしれないのだ。


 ある日隣人が化け物になる。そんなことになれば、どうなることか。

 具体的に思い浮かびはしないが、侃爾は思わず身震いした。


「化けた切っ掛けとしては…やっぱり、出回っているっていう毒でしょうねぇ」

 瑞女が考え考え、班員の顔を見渡した。


「抱えた大きすぎる情念も因としては考えられるが、やはりそうだろうな」

「ってことは…」

 強張った顔で、班員たちはお互いを窺う。


「毒を盛られて駆け去った者たちも…ということ?」


 広亮の震え声に口を開く者は居なかったが、お互いの目の中に、その答えを見た。


 息詰まるような重苦しい空気に、殊更(ことさら)足音が大きく聞こえる。


「…はっ。広亮、そんな顔をするなよ」


 侃爾はあえて明るい口調で言って、広亮の背をどやしつけた。

「明日から大祓いがあるんだろう。案外、運気が乱れに乱れているからかもしれん。なら、大祓いで全部片が付くだろう?」

 一瞬虚を突かれた顔をした広亮は、次いでぎこちなく笑った。

「そ、そうだね…そうかもしれない」


 応、と力強く頷いて見せれば、柚葉がにこっと笑った。

「そうですね。あたしたちが知っていることの中に答えがあるとは限らないですし」

 まぁあ、と瑞女が大げさに仰け反った。

「あら、侃爾もたまには良いこと言うのねぇ。びっくりしたわ」

「おいそれはどういう意味だ!」

「そのままの意味よ。いつも小雛に要らないことばっかり言っているじゃないのあなた」

「なっ…はぁっ!?おまっ……そんなことねえ!!」


 たちまち真っ赤になって怒る侃爾に、瑞女が、柚葉が、広亮が噴き出し、阿弥彦さえもが前で肩を震わせた。


 少々不愉快ではあったが、憮然と黙り込みながらも、いつもの調子に戻った仲間に囲まれているのは悪い気はしなかった。


「あーははは!」

「お前は笑いすぎだ!!」

 瑞女だけは気に入らなかったが。


 ふと、沈む夕日を見つけて、そろそろ小雛は起きただろうかと思う。

――――あいつがここに居たら、どうなってたんだろうな。


 彼女が居ないことを少々寂しく思いながら、侃爾は橘の屋敷の門を潜った。




 


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