幕外伍 瑞女ノ三
夜の帳が降りて暫く。
昼間は人の声も遠く、静けさばかりが際立っていた門内は、夜の方が喧しい。そこかしこで虫や蛙が夜を賑やかにしている。
裏側とはいえ庭は広い。表よりは狭いのだろうが、植木も庭石も少ないため、だだっ広い印象を受けた。辺りは篝火もなく闇に沈み、煌々と輝く半月が、うっすらと足元に影を生む。
備えを終えた術者たちは段取り通りの位置に付き、その時を待っていた。
普段通りのお勤めなのに、何かが違うと思ってしまうのは、今着ているのがいつもの闇色の帆衣ではなく、昼のままの檜皮色の羽織だからだろうか。
どうしたことだ、と小雛は少しの戸惑いを抱えていた。
段取りは諳じられるまで確認した。魔払いの依頼報告は本家に伝達して、無事に任は下りた。頭痛は治まっていて、少し体は重いが動けないほどじゃない。
今出来る限りのことは、全て良い方に処理できているのに、気が付けば任務以外のことを気にしている自分がいる。普段の格好じゃないとかいう細かいことを気にするほど繊細じゃなかったはずなのに。
きっと最後までそわそわしていた、屋敷の主人とその息子の所為だ。
火が魔除けになると聞いたとかで、ありったけの松明を燃やそうだの、家人にも秘密にしたいから誰にも気づかれないようにさっと終わらせろだの、そわそわと何度も会いに来ては訳の分からないことを言うのだ。
今回に限らず、小雛たちの班は不意討ち狙いの策をよく使う。相手は人ではないから、正々堂々戦う必要などないのだ。忍び寄り、潜み、罠を張り、隙を付き、最小限の労力かつ最短の時間で仕留めるのが、こちらの被害を減らす一番の方法だと分かりきっているのだから、あえて真正面から対峙する選択肢は存在しない。
今回も勿論『待ち伏せ』というこちらに有利な戦法を使う。
相手が来ると分かっていて、仕込みをする時間も充分にあるという幸運を最大限に利用する。
確かに怨霊の類は火を嫌うが、普段灯りを点さないのに大量に松明を燃やすなど、何かあると報せているようなもの。
警戒されれば待ち伏せの意味はない。
百歩譲って待ち伏せを諦めるとしても、火を燃やすのは悪手だ。
火を嫌がって諦める程度なら、そもそも物の怪になどならないだろう。
いつまでも機を待ち、こちらが油断して少し手が緩んだところで襲ってくる。毎晩、隈無く屋敷中を照らせる程の灯を燃やし続けられるはずもない上、時が経つ程力を蓄える相手に対して時間稼ぎはどう考えても愚かだ。
例え火を絶やさなかったとしても、火さえ効かなくなるほど相手が強大になったとき、抵抗も出来ずに憑り殺される。
現に、昨日までに敷地に入って来た様子は無かったが、外から人ひとりを操って庭に出せるようになっているし、裏門の表面には、よく見れば細かな引っ掻き傷が無数に刻まれていた。傷の多くは人の背丈程までにあるが、大人の男――阿弥彦の手が届かない高さにも幾つか刻まれていた。もうすぐ扉の上端にも届くほどの高所に。
つまり、段々と人の枠組みから外れてきているのだ。悪くすれば、もう人の形をしていないかもしれない。
門の上に傷が付けられるなら、そろそろ門を越えられるだろう。本当に、ぎりぎりのところで自分たちが気付けたことになる。
そういう風なことを丁寧に阿弥彦が説明したら、霊が外から来るなら屋敷の敷地に入れるなと言い出す始末。
では外で迎え撃つので屋敷では篝火を炊けば良い。しかし他所には物の怪に狙われていると知られるだろうが良いかと小雛が口を挟めばやっと黙った。
自分たちの安全より悪い噂が立つ方が怖いらしい。呆れた話だ。
幸い奥方が一部始終を見聞きした後『どのようにも良きようになされよ』と、全面的な許可をくれた上、二人を引き摺って行ってくれて鬱陶しい邪魔は消えたが、思い出すだに苛々する出来事だった。
――――全く調子の狂う。大人しく任せておけばいいものを。
彼らが籠った母屋の一室は今、煌々と灯りが点っている。室内なら灯を増やしても良いと考えたのだろうが、昨日までは平気で暮らしておきながら、実は物の怪が夜な夜な来ていたのだと知った途端にあの調子。…滑稽だ。
「小雛、気が散っているな」
近くに待機していた侃爾が不意に声をかけてきて、小雛はちらっと目を向けた。
「まだ本調子ではないだろう。無理なら無理と言え。一人でもしくじれば危険は全員に及ぶのだぞ」
侃爾が厳しい顔をするのも尤もだ。物の怪はこの世の条理から外れた存在。調伏はどんなもの相手であれ、何が起こってもおかしくない。なのに気を散らしているなど言語道断だ。
小雛は一度目を閉じ、息を深く吸って吐く。奥歯を噛んで雑念を払い、精神を固め、呼吸法で研ぎ澄ませる。
「…問題ない」
「そのようだな」
侃爾は普段の調子を取り戻したのを直ぐに察して注意を門へと戻した。意外だ。
つい先日まで小雛の様子などお構いなしで絡んできていたのに、いつからだろう。侃爾…他の班員たちも、小雛の様子を見ただけで内側を正しく察するようになったのは。
「来た」
視界の外で瑞女が言った。振り向かずに各員浅く頷く。
目は門から離さない。瑞女に言われた直ぐ後から、昼間に感じた違和感と同じものがどんどん強くなっていくのを感じたからだ。
術を使わなくてももう判る。小雛はいつも通り精神がすっと凪ぐのを感じた。
――――来る。
月明りにほの白く浮かび上がった門。そのぴったりと閉じた扉が、ぎしりと揺れた。
ぎっ、ぎっ、と小さく軋む音が、間を置いて何度も響く。だが、閂を下ろされた門扉は、夜目の利く小雛でも判別し難い程の小さな揺れしか起きない。
それでも、いつの間にか虫が鳴き止んだ夜の静寂に、その音は殊更に大きく聞こえた。
ぎっ…、ぎ……、ぎぃ……
間隔は段々に広くなり、音は徐々に小さくなり、やがてしなくなった。
しんと、耳が痛くなるような静寂が広がる。
あるとき、夏の夜のとろりと粘つくような熱気が、風もなく、しかしすっと冷えたような気がした。
「た、つの、しん、さぁまぁあ…」
奇妙に震える、か細い女の声。
ぎし、と扉が再び震えた。
白々と月の光を照り返す木目の上に、端からじわりと黒い染みが広がっていく。
いや、染みと見えたのは、黒い糸の束―――髪だ。
門扉の合わせ目から、ぞわぞわと律動する髪が広がっていく。水が紙に染み込むようにじわりと。
だがその動き方は、奇妙にも、闇の中で手探りする人の腕に似ていた。
髪の動きに合わせて擦れ合って、門が呻き声のような音を立てる。
――――まさか…
門を越えてくると予想を立てていた面々は密かに瞠目する。
「たつのぉ、しん、さぁまぁああ…」
髪が閂を探り当てた。
途端真っ黒に見えるほどの髪が巻き付き、重い音をさせながら横木をずらしていく。
ごりごり、と音をさせて、閂は己の職務を全うすべく踏み留まろうとしたが、やがて抗いきれず完全に抜けて、ごとりと地面に落ちた。
ぎぃぃいい…
ゆっくりと扉が開く。物の怪は、門を越えるのでなく、扉を開けたのだ。
ひとつの人影が、ゆぅらりと一歩踏み込んだ。――見る限り、人の形をしている。
地味な色柄の単衣の背を丸め、汚れた裸足を緩慢な動作で前へ出す。娘と言うには薹が立った、中年と言うには若いその女は、ざんばらに広がった黒髪を引き摺って歩いた。
ずりずりと、まるで貴族の姫の長い裳裾のように。
ぞわぞわと、風もないのに髪が動く。
絡まり、解け、体に巻き付き、ざらりと地を撫でて背後に戻る動きを、ひと束ひと束がばらばらに繰り返す。
ふわりと女の輪郭がぼやける…いや、瘴気が纏わりつき、濃いところの輪郭が隠れたのだ。
「――たつ、の…しぃん、さまぁ…」
のっそりと女が顔を上げ、うっそりと恍惚とした笑みを口元に乗せた。…上げ過ぎた顔は斜め上に仰向いて、青白い肌が髪の隙間から覗く。
目は大きく見開いているが、目線はどこにも合わない。愛しいものを呼ぶ口調は、おぞましいほどの情念を孕んで熱い。
まるで呪詛のように男を想って名を呼ぶ狂女は、ゆぅらりゆらりと揺れる足取りで、さらに前へ。
足が止まった。ぞわりと髪先が震え、首がこきりと、傾げた格好ながらも前を向く。
女の前に立ちはだかった阿弥彦が、女の双眸をひたりと睨み据えていた。構えた苻が淡く光り、低く唱えた真言が、物の怪の注意を惹く。
「そなたは誰だ。何故ここへ参った。答えよ!」
鐘の音にも似た勁い声が発される。霊力の籠った誰何に、女の肩が震えた。
"呼ばいの法"と言う術だ。霊力を用いて魂に直に問いを発し、人であった頃を思い出させて動揺させ、物の怪としての力を削ぐ。または挑発して我を忘れさせる術。
直接戦う為の術ではないがその効力は馬鹿にできない。
熟達した術者であれば一戦もせずに怨霊を鎮め、死出の道へ送ることも出来ると聞く。
名を呼べれば良かったが、あの男…辰之進は『名を呼べば来る』と怯えて頑として白状しようとしなかった。
小雛が見たところ、相手は瘴気も薄く、物の怪になって日が浅い。ならば人だった頃も思い出せるかもしれない。
この呼ばいで片付けられれば一番だが――
問われた女は両手で顔を覆い、子どもがいやいやをするように首を振る。
「そなたは何処の者だ。答えよ」
「ぅ、ぁあ、あぁあ、ぅぅ…ぅう、ぅうううう!」
掠れた声がひび割れた。いつしか呻きは唸りに変わる。動揺を表すように髪が波打ち、ざわざわと葉擦れに似た音を立てた。
唸り声は高くなり、今や体全体を揺すりながら頭を振り続ける。
「家は何処だ。どのように暮らしていた。家族は」
その問いが合図だったように、唐突に全ての動きが止まった。
「いない…」
地を這うような低い低い声がぼたりと落ちた。
「いない、いない…あたしぃいない!憎い、憎い憎いぃいいぁああああ!!!」
髪を掻きむしり頭を振り身悶えする。叫び荒れ狂った女は、やがて腕をだらりと下げた。見開いた目が月明かりに爛々と光って宙を睨む。
足元から、髪から、その口から、黒く見えるほどの瘴気が吹き出して、なまぐさい臭気が一気に広がる。
「なんでどうして来てくれなかったのぉおお!あたしあなたのためぇ!な、なんでもしたのに!!ぁあ゛ぁ!!嫌ぁあああ!!あたし!家族もぉおお!!捨てたのにぃいいい許さないぃいいい!!!」
血を吐く代わりに瘴気を吐いて、ぎょろりと動いた眼が阿弥彦を向く。
「取り戻すの会いに行くのぉお!全部捨てたからぁああ!あたし全部捨てたのぉお!!来てくれないならあたしが行くのぉぉおお!!邪魔ぁぁああするなぁああああ!!!」
奇妙に間延びした呂律の回らない叫びを上げて、 物の怪は阿弥彦に向かって突進した。
――――やはり、そう上手くはいかないか。
小雛が取り乱すことはない。名も呼べない呼ばいで片が付く望みは薄かったからだ。
呼ばいは最初から、誘い込むための手段。
一直線に阿弥彦に向かう物の怪は、思い描いた通りの道筋を通っていた。
「結!!」
ある一線を物の怪が越えた瞬間、瑞女の単呪が仕掛けておいた術を発動する。
開いた門扉の隙間を結界が埋め、阿弥彦の前にも青白く輝く障壁が立ち上がり、突っ込んで来た女は跳ね返されて蹈鞴を踏む。
「発!」
阿弥彦の手から投げられた霊苻が、流星のように夜闇に軌跡を描く。狙い通りに女の胴へ当たり、炸裂音と共に衝撃を発した。
「ひぁああ!」
後ろ向きに吹き飛んだ女に向かい、術で隠れて待っていた侃爾が走った。同時に広亮が屋敷の側で立ち上がり、手に印を結び、低く祝詞を誦す。侃爾の守り刀が鞘走る。
「――地に満ちたる穢祓い清め給え」
「百鬼降伏急急如律令!!」
侃爾が飛び込んでいく刹那、広亮が瘴気を払い去った。靄が晴れて澄んだ空気を白刃が薙ぐ。
「ひぁああああ、あああっあああああ」
女の悲鳴が響き渡り、侃爾が脇を走り抜ける。
黒い毛束が、目にも留まらぬ速さで侃爾の背中を追った。
「壁ッ!!」
槍のように突き出された髪の先を、阿弥彦の術が防いだ。
「手応えあり!霊体じゃない!屍鬼だ!!」
前に飛び込んで受け身を取り、素早く起き上がりながら侃爾が叫ぶ。
「あああ、ああああ…」
屍鬼が泣くように呻いた。髪の幾らかが半ばから斬り落とされてはいるが、手傷はない。髪を盾に斬撃を防いだのだ。だが衣の肩が少し切れて、火傷に似た跡が肌に浮いているのが切れ目から覗く。
「あ、わせて!逢うの、あたしはぁあ!!憎いぃあなたぁあ!!いやああああ!」
うぞうぞと蠢く髪を纏いつかせて、女が慟哭する。理性は言葉から抜け落ちて、ただわあわあと喚き散らす。
前に立った侃爾も最早分からぬのか、全方位に髪が舞い上がる。女を中心に、髪が黒い嵐のように荒れ狂った。
「範囲が広いっ!援護頼む!!」
舌打ちしつつ侃爾が刀を構えた。
「「壁!!」」
飛び退った侃爾が避けきれなかった髪を阿弥彦と瑞女が防ぐ。侃爾が振るった白刃が、更に数束を切り落とした。
対処しきれなかった分が掠め、侃爾の頬に一筋赤い線が走る。
「剃刀かよ!」
鋭い切り口のそれを拭う間もなく侃爾は避け、防ぐ。
踏み留まろうとしながらも、次手を仕掛ける隙を見出せずに逆にじりじり押されていく。
――――実体があるのが厄介だ。
あれが例えば怨霊の類だったとしたら、広亮の清めで無力化して、侃爾のひと太刀で終わっただろう。
物の怪として日が浅く、怪力も妖術も持たず瘴気も薄いが、髪だけ変異しているという変わり種。下手に人に近い所為で浄化の術の効きがいまいちで、こちらに直接攻撃出来るというだけでこれだけ手古摺る。
もう少しの間は侃爾だけで持ち堪えられるだろうが、もしものとき助力するのは自分の役目だろう。
――――だけど。
戦いの向こう側を見れば、息を整えた広亮が物の怪を見つめて印を結んだところだった。
――――問題ない。直ぐに終わる。
不意にするすると軒釣り簾の一枚が動いた。
「ぃああああぁぁああああ、ああ…あ…?」
周りを乱れ打っていた髪の勢いが落ちた。女は上がっていく簾の向こう…廊下の板に立った人物を凝視している。
未だ顔が見えないが、大柄の七宝紋の派手な小袖が、月の光に白々と照らされる。
派手な男物の衣。門外へ繰り出すとき、好んで着ているそれ。
「たつの、しん、さま…!!」
女の動きが完全に止まったそのとき、すっと広亮の指が女を指した。
「其は巌。背に重石。八重の桎梏十重の磐石――」
ぱん、と柏手を打つのに合わせて小雛は前へ踏み出す。手は刀印を結び、身を低く構え、目を眇めて相手の一挙手一投足を見逃さぬように機を待つ。
侃爾もまた、気を取られた相手の隙を突くべく駆け出した。
「たつのぉおおおじぃんざぁあ゛ま゛ぁああああ゛あ゛!!!」
濁った絶叫。篭るは悲哀か憎悪か。
ぶわりと髪が倍にも膨らみ、身を低く沈めた。大きく跳ぶための予備動作。
「こちらだ!!」
侃爾が横様からひと太刀入れる。難なく髪が刀を逸らす。残りの束が邪魔者を貫こうと突き出されるのを、侃爾はぎりぎりで躱しきった。
「――地毀ちて落つ」
広亮の術が完成する。物の怪が唐突に傾いで膝を突いた。どっ、と重たい音がする。
「ぅう゛あ゛!!あ゛あ゛あ゛っっ!!」
術に抗って叫び、身を起こそうと足掻きながら、しかし長くは保たず、庭の土を歪めるほどの勢いで地に突っ伏した。
「破ぁあ!!」
短呪を刃に乗せて侃爾が踏み込む。髪が迎撃に動くが、動きは鈍り、殆どが長く地を這って、先だけしか持ち上がらず、それでも足を取ろうと巻き付きに行く。
術がかかっても動いて前を阻む残りの髪を、侃爾が叩き斬りながら突き進む。
「発!!」
「壁!!」
阿弥彦と瑞女の援護が飛んで、足元の黒い渦を阻む。
「る゛ぅぅう゛う゛ぁあああ゛あ゛!!!」
女は土を掻いて、這って男の元へ向かおうとしていた。だが、術に圧さえつけられ遅々として進めず、更には侃爾が髪を避けながら前に回り込んだ。
「行かさん!!」
愛しい男を見るためにか、前方だけは髪を構えていなかった。侃爾が一気に間を詰める。
限界まで見開いた目に、刀を構えた侃爾が映った。
「るぅ…ぅぁあ゛あ゛あ゛ぅぐぁぁああああ゛あ゛あ゛!!!」
初めて絶叫が悲鳴染みた。命の危機を迎えたいきものに似て、最大級の恐怖が篭っている。
「あ゛あ゛あ゛ぁぁあああぅう゛う゛ぁがぁあああああ!!」
術に抗う力がどこにあったのか、それまで持ち上がらなかった髪も持ち上がり、迫る侃爾に向く。逆に屍鬼は恐れるように身を引いた。
――――今だ。
小雛は一気呵成に駆け出した。
目の前には屍鬼の背がある。その前には髪を引き付ける侃爾。完全な挟撃の形。
刀印を抜き放つ。迸る光を纏って、右手を剣とし、振りかぶる。
そのときだった。
「駄目!!戻って!!!」
悲鳴が聞こえた。柚葉の声だ。一部の隙もなく敵に集中していた思考が逸れて、半ば無意識に声を拾ってそう判断するまで一拍が要った。足は止めない。だが――
「きゃぁああ!!」
「っぁああ!?」
ふたつの悲鳴。何かが砕けるような音。なんだろう?流れるように刀印を切る形に導きながら、刹那の思考。瞬間、黒が膨れ上がり、弾けた。
「臨兵闘者皆陣列在前!!」
黒い波に呑まれる直前、反射的に四縦五横に九字を切る。
眼前の髪が霊力に焼かれ、刀印に切り裂かれるが、直撃は免れても腕に足に細かな衝撃があった。咄嗟の判断で大きく後ろに跳び、そこから更に右へ避ける。
小雛を追った髪の束が、追いきれずに地を打った。
距離を取ってはじめて、小雛は状況を理解した。
連携は完璧だった。だが屍鬼を捉える筈の九字が裂いたのは髪のみだった。つまり――しくじった。
――――何があった。
小雛は場を見渡し、素早く現状を把握する。
「う゛ぅう゛あぁああ゛っはぁあ゛あっあぁっ!!」
――嗤うような声を上げ、立ち上がった屍鬼はこちらを見ていない。真っすぐ屋敷を向いている。
その背には炎のように巻き上がる黒い髪。相当斬ったはずなのに、短い髪は見当たらない。最初より寧ろ伸びて、瘴気と共にぞわぞわと周囲を蠢いている。
――侃爾は吹き飛ばされたか自ら退いたか、屋敷側ではなく門の側にいる。受け身を取って立ち上がったところ。
――屋敷の前と門を守っていたはずの結界が壊れて消えている。砕けるような音は結界が破れた音か。
――術を使っていた二人、広亮と瑞女が記憶通りの場所で蹲っている。術が破れた反動か。
――屋敷の回廊で囮をしていたはずの柚葉が外に出てきている。柚葉の背後には阿弥彦。
――阿弥彦はもがく何かを押さえつけている。あれは…
「小雛!無事か!!」
侃爾が小雛を見失った様子で見回す。小雛が目を向けると直ぐに気付いて目を合わせ、屋敷と逆側に居た小雛が、何があったのか見ていないことを察した。
「あの馬鹿が結界に踏み込んだんだ!」
それだけで説明は充分。
阿弥彦が捕まえているのは、部屋に引き籠って震えているはずの辰之進だった。
恐らく物の怪の呼び声に操られ、呼ばれるままにふらふらと外へ出て結界の内側へ踏み込んだのだろう。
今回使ったのは内側のものを阻むための結界だ。この手のものは内からは頑強だが、外からでは簡単に壊れてしまう。例えば、結界を越える技を知らない者が無遠慮に踏み込めば、それだけでも術が乱れて消えてしまうのだ。
術はどんなものでも瘴気の流れを断つ。結界が消えて、外の瘴気を吸って力を得たか、結界が壊れた反動が行ったか、はたまたその両方か。広亮の術までも乱れ、破られてしまった。
「止ッ!!」
「ふごっ!」
正気を失ったままもがく辰之進に業を煮やして、阿弥彦がついに術で動きを止めた。本来は人に向けて術を放ってはいけないことになっているが、今回は已むを得まい。
そこまででの思考、状況の動きは小雛が九字印を切って数呼吸の間である。
術者たちは歳若くともそれなりの修羅場を潜ってきた。想定外の事態に、瞬時の判断で動くのは彼らにとって当たり前のことだった。時を無駄にする者などこの場にはいない。
霊符を構えた柚葉、辰之進を背後に放り出した阿弥彦、数歩向こうで刀を構えなおした侃爾を順に見る。広亮と瑞女は何とか顔を上げるがまだ立ち上がれない。
「前を行こう。いけるか」
「問題ない」
「良し」
侃爾と小声で言い交し、二人は合図もせずに駆けだした。侃爾が前を行き、片手に刀を、もう片方に霊符を出した。小雛がすぐ後を追い、九字の形のままの右手を腰の霊刀に沿える。
「たぁつのぉしぃんさぁま゛ぁああぁ、ぁあぁあはははははぁあ゛あ゛」
悍ましい笑声は割れて嗄れて、底の方でごろごろと嫌な音が混じる。
「ぃい、い、きましょ、さあぁ、もうあたし、あのひとぉ、いないぃからぁああ」
僅かに理性が戻ったように言いながら、嗤ってゆらりと手を伸ばす。凶器に変じた髪がうぞうぞと動き、その無数の鋩を辰之進に向けた。
他の者は目に入らないとばかりに注がれる視線を、柚葉と阿弥彦が遮った。
「通さぬ」
「ねえしっかりして!あなたはこの人が好きなんでしょう?だったらこんなの、間違ってます!!」
「ぅぅううるざぁいぃ!邪魔、じゃ、まぁああ!!!」
斜め後方から走り寄る小雛には顔は見えないが、うっとりとしていた声ががらりと変わった。
髪がぶわりと広がり、川の水が溢れ下るように術者たちに襲い掛かった。
「壁!!」
柚葉の単呪に重なり、阿弥彦が両手に構えた符を左右に向ける。
「鬼魅留止!急急如律令ッ!!」
柚葉の術は一瞬しか持ち堪えられなかった。押し寄せる髪の奔流に圧され、果敢なく砕け散る。だがその間に阿弥彦の両手の符が霊光を放ち、忽ち五人を包む伏せ椀型の結界を顕現した。
黒い波に呑まれる。注ぎ込まれるように襲い来る鋭い糸の川を割り、阿弥彦の結界は第一陣を防ぎ切った。
「斬!!」
侃爾の刀が霊光を帯びる。振り上げた刃は真っすぐ屍鬼を狙う。
「るぅぅう゛あぁああ゛あ゛あ゛!!!」
ごきりと嫌な音がして、女の首が捻じ曲がる。刀が届いたのではない。自ら強引に顔を侃爾に向けた所為。
真っ直ぐ伸びた髪の一部が首に引かれて目にも留まらぬ速さで動き、そのまま前に突き出された。
刃を髪が迎え撃つ。分厚い黒の奔流に接した刀から霊光が散り、切り裂いていくが、走る侃爾の足が押されて止まる。片手に持った霊符が投げ上げられた。
侃爾の背を踏んで、小雛は跳んだ。
ひょう、と耳元で風が鳴るほどに勢いよく跳びあがり、九字の霊力宿る右の手で、白木の柄を握って霊刀を抜き放つ。
だが、頭上の小雛を狙い、黒髪が槍のように鋭く空を裂いて伸びた。
迫るそれを一顧だにすることなく、小雛は刃を大上段に振りかぶる。――狙うは本体。
侃爾が弾き飛ばされた。ほぼ時を同じく、黒の槍が小雛に達する。その体を刺し貫こうとしたそのとき、侃爾が投げ上げていた霊符が込められた術を解き放った。
張られた結界が髪を受け止める。
別角度から狙う、もうひと束――「壁ッ!!」勾玉を捧げ持ち、なんとか立ち上がった瑞女が叫ぶ――止まった髪の横をすり抜けて、小雛が落下の勢いのままに刀を振り抜いた。
光が溢れるようなことはなく、ただ刃は光そのもののように鋭くましろく、物の怪を断つ。
ぶしゅぅ、と音がして、小雛に生温かいものが降りかかった。
「…え?」
「あ゛あ゛あ゛ぁあああああああああ…」
小雛の呟きを掻き消した断末魔が尾を引いて、肩口から腹までを袈裟懸けに斬られた女が、倒れた。
そのまま動かないのを、小雛には珍しく、呆けて見下ろした。
月明りに黒々と、水たまりが広がっていく。
「は…?」
小雛は自分を見下ろした。
黒く見える斑点が散っている。鼻がやっと腥い臭気を拾った。
――――これは…。
「小雛ちゃん!!大丈夫!?」
たたた、と軽い足音をさせて柚葉が、次に阿弥彦が駆け寄ってくる。
「やったのか!っ、おい!?」
侃爾もふらつきながら歩いてきて、振り返った小雛を見た途端大きく目を見開いた。
一足早く駆け寄ってきた柚葉は、先に小雛を見て、大した怪我が無いのを確かめると、顔を強張らせたまま首を振った。
「え…、これって…!」
動揺した柚葉の口を、訳が分かっていないなりに反射的に塞いだ。屋敷の廊下を近づいてくる人の声を聞きつけたからだ。
小雛は耳を澄ませた。――まだ遠いが、こちらに向かっている。
一般人がいるところで、術者が取り乱すわけにはいかない。侃爾の方にも目配せをする。
「…手傷を負った訳ではないんだな?」
「大きな傷はない」
女の死体を検分する阿弥彦を見る。流石に班長は落ち着いていた。
「話は後だ」
「…分かった」
小声で言い合って、柚葉と侃爾も頷いたとき「若さまぁー」と情けない声がした。
二人連れの男が手燭を灯してびくびくと、へっぴり腰でやってくる。
「わ、若さまぁ…」
「橘さまぁ…」
声は震えた小声で、夜目が利かないのか足元が覚束ない。――夜目が利かない上に、下手に小さな灯など持つから更に闇が深く見えているのだろう。それで歩くのが不自由なほど、二人とも脚が震えているのだ。
「こちらです」
「ひぃっ!!」
二人は面白いほど驚いた。声をかけた当人の広亮が、廊下に腰掛けたまま軽くびくっとしたほどだ。
「しゃんとしなさいな」
「う、うん…ごめん」
小声でたしなめた瑞女と謝る広亮の遣り取りで、家人二人はやっと声をかけてきたのが物の怪ではないと分かったらしい。
「た、橘のお方…?」
「はい。調伏は終わりましたよ」
女の優し気な声は、男たちを宥めるのに有効だった。恐る恐る近付いて、灯りの輪の中に眩しそうな広亮と瑞女が現れたのを見て、漸く泣きそうな顔で胸を撫で下ろした。
「お、終わったのですか」
「ええ。あちらで仲間が最後の検分を。もうじき、後始末を始めます」
暗かったが、他の術者たちが一箇所に集まっているのが、月明りに照らされて微かに見える。
どうやら本当に終わったらしいと、二人は安堵の息を吐いた。
だが片方が「あっ」と小さく叫んで顔色を変えた。
「若さま、若さまをお見掛けしませんでしたか!?手水へ行くと仰って、お止めしたのですが裏門とは方角が違うから平気だと…!」
「急に外へ降りられて、見失ってしまって!」
「あ」
「そういえば…」
血相を変えて訴える家人たちに、瑞女と広亮は顔色を変えた。
彼らの若さま辰之進は、邪魔だったので軽く術をかけてその辺に転がした、なんてことは言えない。更に悪いことに、全員がそちらにかまけている余裕がなかったので、実はそのままになっている。
端的に言って、不味い。
「だ、大丈夫。若さまはご無事です!」
さり気なく瑞女が声を張った。これまたさり気なく広亮が立ち上がってそっと辰之進を隠すように位置取る。
向こうにいた面々に無事聞こえたのか、「あ」とか「阿弥彦さん早く解いて」とかが微かに聞こえてくる。
物の怪の気配に逃げ出したのか、あれだけ煩かった筈の虫の声が間遠だ。早く戻って来なさいよ、と内心で虫に八つ当たりした。余計な話が筒抜けだ。
ごそ、と近くの地面で身動きする気配がして、広亮が慌てて駆け寄っていく。阿弥彦が術を解き、辰之進が身を起こしたのだ。
「うわぁっ!?」
広亮の声に、瑞女は反射的に振り向いた。
――――あの馬鹿、怪しまれるようなことするんじゃないわよ!誤魔化せるものも誤魔化せないでしょうに!!
「え゛」
思わず変な声が出た。
振り返って見たものは、立ち上がった辰之進と、突き飛ばされて尻餠をついた広亮。
それだけなら良かったが…辰之進は、ふらぁっと揺れていた。普通では考えられないほどの振れ幅で、倒れる寸前で持ち直し、別の方向へまたゆらぁ、と傾いていく。――明らかに普通ではない。
――――あのお馬鹿ヘタレ!!どこまで私たちの邪魔をすれば気が済むの!!
理不尽だと分かっているが、思い遣りと常識と分別を纏めて棚に放り上げ、つい瑞女は心の中で辰之進を罵倒した。
なんと、まだ辰之進は物の怪に操られたときのまま、意識がない状態で立っていたのである。操る者が居ないので、目的をもって歩いて行ったりはしないものの、素人でもひと目で異常は見て取れる。
はっきり言って、非常に不味い。
「わ、若さまぁあ!」
さらに悪いことに、広亮が驚いたのを聞きつけた家人二人が掲げた手燭の光が、その状態の辰之進を照らし出した。
「あ、ちょっと待って!!」
当然の如く駆け寄っていく二人を制止するが、そんなものを聞く筈もなく、結局はふたつの背中を追いかけた。
「え、えぇえ!?こ、来ないで!近付かないでください!!」
広亮が気付いて慌てて止める。
「えっと、あ!そう、浄化!まだ若さまは清めをしていませんから!!近付いてはなりません!!」
「そ、そうです!!憑りつかれてしまったので穢れを清めなくてはならないのです!!」
「えええ!?」
咄嗟に瑞女も話に乗った。追いついて回り込み、両手を広げて立ち塞がる。
「しかし…若さまはさっきまで共におられたのですが…」
「あの御有様は…」
「こちらに来てしまったときに穢れをまた付けてしまったのですっ!!それでああなってしまわれたのです!!!」
「えっ!!」
ずいっと迫って勢いで押し切る。誤魔化せている内に早くなんとか正気に戻さねば。
「「「ぎゃぁあああ!!」」」
…と思っていたら、家人二人が絶叫した。瑞女の背後、辰之進の方を凝視して。しかも背後からは広亮の悲鳴も聞こえたような気がする。――気のせいであってほしい。
――――ちょっと、今度は何よ!これ以上は勘弁しなさいよ!!
振り向いた瑞女は、出かけた悲鳴を根性で飲み込んだ。口を閉じていられたのは奇跡だと自分で思う。
なぜならば、頼りない灯りにぼぅっと照らされて、白い顔が夜闇に浮いていたのである。能面のような無表情に、なぜか点々と返り血を散らせ、手には刀という…作ったかのような出来過ぎの演出だった。
言うまでもなく小雛だ。そう気づいて瑞女は気が遠くなりかけた。
小雛のことだ。委細構わず最適だと信じる行動の最短を突っ走る彼女は、その見えすぎる夜目でもって辰之進の奇行を見て取り、やるべきことをやるために誰より早く駆け付けたに違いない。
やるべきこととは勿論、辰之進を正気付かせることだ。それはいい。問題は彼女が細かいことを気にしないことだった。
小雛は腰を抜かした三名を清々しいほどさらっと無視し、手にした刀を納めると、その未だ霊力を込めたままの右手で拳を作って辰之進に向き直り――
「待って待って待ってぇえ!!」
瑞女は寸前で間に割って入り、その凶行を止めることに成功した。
「…何」
容赦なく拳を相手の腹に叩き込もうとしていた小雛は、相変わらずの無表情で言った。これが本気だから性質が悪い。
「何じゃない!!あんたちょっとは自分の恰好考えなさい!!」
「?」
全く本人は分かっていない風に首を傾げているが、見ている方にはその光景は凶悪過ぎた。
血まみれの、亡霊と見紛う…というか亡霊にしか見えない女が、若い男を襲おうとしているのである。
ちなみに霊の影響で正気を失くしている人の気付けには、術を使う方法もあるが、腹――正確には丹田、もしくは頭に霊力を叩き込む方が手っ取り早いのは確かだ。
だとしても今の小雛がやれば外聞が悪すぎる。そして外聞だの外見だのというのは、小雛の考慮すべき範囲の思い切り外にある。
「と に か く ! あんたは右手を収めなさい!若さまは私がやるわ!!」
「…そう。わかった」
どうにか小雛を納得させ、さて穏便に術を使って気付けをするかと、瑞女は手に印を結びながら振り返る。――そのとき起こったことは運が悪いとしか言いようがない。
辰之進は瑞女たちの遣り取りの間もふらーっと揺れ続けていた。右へ左へ、前へ後ろへ。そのときはぐいーっと後ろに倒れかけ、限界一歩手前でぐぐーっと持ち直し、今度は前へと揺れてきていた。
辰之進は中々背が高い。その上体はよく撓っていた。前へくるとぐいーっと顔を前へ突き出す形になる。
それに気付かず、前方の瑞女が振り向いた。
二人の距離は瑞女の予想より、振れ幅分近くなっていた。
結果、瑞女の胸に丁度辰之進の顔が埋まった。
一瞬の空白。
「いやぁあああああああ!!!!」
ずぱぁああああん!!
「ぶほぅっ!?」
「「若さまぁああ!?」」
絹を裂くような悲鳴を上げた乙女が、霊力を込めていた右手を振り抜き、辰之進は顔から吹っ飛んだ。
その頬には、見事なもみじが色付いた。
因みにその後慌ててやってきた阿弥彦が、頬に霊力を叩き込むのは術者の間でよく使う気付けの方法で、今回は物の怪を払っても覚めないほど不味い状態にあったので迅速かつ強力に施す必要があったのだとか、倒した物の怪は死体が立ち上がったもので、調伏のときにまだ屍に残っていた血を浴びてしまったために小雛は血まみれになったのだとか、清めは終わり、もう物の怪が立ち上がることはない、屍は橘で引き取って然るべき場所に葬る、といった内容を、あの落ち着いた声音で丁寧に説明して誤魔化し、事なきを得た。
報告に行った先で家人一同並びに屋敷の主夫婦、間もなく目が覚めた辰之進本人でさえも丸め込む見事な話術をもって、阿弥彦は頼れる班長として、凄腕の術者を率いる橘家の者として、一部の者の間で評判を上げたのである。
ただ班員たちは、頼れる阿弥彦班長が、平静を保った仮面の下でかつてないほど焦っているのを察して、出来るだけ真面目な、如何にも良く出来る術者らしい顔で静かにしているという援護をしていた。
帰り道で「少しは口添えしろ」と班長に怒られたのは余談である。
「オン、アビラウンケンソワカ…」
小雛は瑞女に対処を代わり、傍らの大騒ぎなどどこ吹く風で、九字で宿った霊力を収める真言を唱え、略式の祓いの一種である弾指をし、ぱきんと音を鳴らした。
ふっと息を吐く。乾いてきた血糊が引き攣って気持ちが悪い。
そして小雛は眉を微かに顰めて考え込んだ。なぜ屍鬼を斬って血が噴き出したのかと。
屍鬼は文字通り、屍が物の怪に変じたもの。歩き、声を発して、生前の執着を晴らそうと行動するが、その身は動いていても心の臓が止まっている。無論のこと血が噴き出すことは、ない。
それにもうひとつ、引っかかることがある。血の付いた手を目の前に翳した。
――――生温かった。
降りかかってきた血は、確かに温かったのだ。
今まで屍鬼とは何度も戦っているが、命が抜けた体から出るものが温かかったことなど今まで一度もなかった。
これらが当て嵌まる事象。思い当たる中に、納得できるものはひとつしかなかった。
――――あの女、生きていた…?
あり得ない、と思いながら、それしかない、と思う自分が居る。
しかし、あれは絶対に物の怪だった。それだけは確かだ。女が生きていたのなら、生きながら物の怪に変じたということになる。
そんなこと、小雛は聞いたことがなかった。少なくとも、お伽噺の中以外では。
――――だから、班長は話は後だと言ったのか。
もし想像が当たっているのなら、あの場で終わる話になろうはずがない。
段々と顔を険しくし、小雛は無意識に右手を握り締め…違和感を感じた。
ぱき、ぱき…
何かが割れるような音。それと、右手の疼痛。
何気なく手を開いて持ち上げた小雛は、珍しく顔色を変えてその手を急いで袖に隠す。思い直して懐から出した手拭いを何重にも巻き付けた。
「?どうした、小雛…手をやられたのか!?」
他の者は大騒ぎの渦中であり、その様子に気付いたのは近くに居た侃爾だけだ。
「なんでもない。…縛っておけば血も出ない。帰ったら手当てをする。今はこれでいい」
「そう…だな。お前は昼のこともある。早く帰るに越したことはないな」
侃爾は特に訝しむこともなく、隠そうとしながらも心配が滲むしかめっ面をした。
それからのことはあまり覚えていない。動揺していたのだと後になって思う。
屋敷の者が橘本家に早馬に出て、やってきた引継ぎの者に後を託して帰路に就いた。簡単に言えばそういうことだが、小雛に思い出せるのはそれが全てなのだった。
「コヒナ!!」
ひとつの声が、小雛の意識を呼び覚ました。
「…春馬、さま?」
小雛はいつの間にか橘家の門の前に居て、そこに待っていたのは焦った顔をした春馬蔵人その人だった。
「ああ、コヒナ!ひどい目に遭ったね。全て聞いたよ。もう安心して良い。長老には話を付けてあるから、もう昼に出歩くことはないよ!ああ、こんなに顔色が悪い。全く無理をさせる。なんて血も涙もないんだ、タチバナの者は!!」
駆け寄ってきた長身の青年は、小雛の顔を覗き込んで自分のことのように嘆く。小雛の心はふっと軽くなった。
――――この方は、こんなにも私を案じてくださる。
「長に話を付けたとは誠ですか」
「勿論だよアヤヒコ」
共に帰ってきた阿弥彦に、春馬は気軽に頷く。知り合いだったのか、と小雛は初めて知ったことに瞬きした。
「そもそもこの子をタチバナに入れたとき、昼に出歩かせないという約束だったんだ。約束を破ったのはあちらなのだから、直ぐに確約を取り付けて来たよ!」
「…そうだったのですか」
小雛も初耳の話だった。ここまで小雛のことを考えてくれていたのだと思うと、じんわりと温かな気持ちになる。
無表情にでもほっとしている小雛と違って、班員たちの顔は険しい。
「班長…」
「私も、初耳だ」
深刻そうな顔で話しているが、小雛にはどうでも良かった。春馬が気に掛けてくれる。それだけで彼女は満たされていたのだ。他の事など問題にならない。
「さあコヒナ。先ずは診察に行こうか――それでいいね?アヤヒコ?」
「ええ、構いません。春馬どの、小雛を頼みます」
「言われるまでもない。任せておいで。ではコヒナ。いつも通りわたしの部屋へ行こうか。それから体の具合を聞かせてくれるかな?」
「…はい。春馬さま」
小雛は不意に、右手のことを春馬に話さなければならないという当たり前のことに気付いて戦慄した。
それまでは、いつも通り淡々と、やらなければならない手順のひとつとして『体の状態を報告する』という項目の中に他のことと一緒に放り込んで、気にもしなかったのに。
考えてみれば自分自身も動揺する"これ"を打ち明けられたら、春馬はどう思うか知れない。
今さらながら、何やら酷く恐ろしいような気がしてきた。
例えば小雛のことを気味悪く思ったり、異常だとして…遠ざけたりしないだろうか。接し方が変わったりしないだろうか。
それならそれで仕方がない。どうなっても自分は変わらないが。といつもの冷静な自分は思う。でも、それより奥の部分が震える。嫌だと震え、怯える自分が居るのだ。
――――でも、話さない訳にはいかない。
それは仕方がないことで、考えても無駄だ。いつもの自分ならそう割り切って終わるのに、このときはどうしてだか思い切れなくて、悶々としている内にとうとう春馬の部屋へ行き着いた。
「コヒナ、さあどんな感じなのか聞かせてくれるかな」
「春馬さま…」
手際よく動いて、ふんだんに明かりを灯して部屋を明るくしていく春馬を見ながら、小雛は口籠った。どうしても、話し始めの言葉が思い浮かばない。…そのまま言えば良いだけなのに。
「コヒナ?」
ついに春馬が訝し気に振り向いた。そのときになって、自分は酷い恰好をしていることに気が付く。灯に、点々と血飛沫が散った体が照らし出される。…調伏帰りなのだから仕方がない。呼んだのは春馬だ。なのになぜこんなに居心地が悪い。
小雛は頭をひとつ振った。こんな風に迷うのは自分らしくない。
「春馬さま…」
手拭いでぐるぐる巻きになった右手を袖から出して解く。手が震えた。
「…これは」
春馬が目を見開いた。それはそうだろうと小雛も思う。右手は、今見ても自分のことながら血の気が引く有様だった。
右手の指は軽く伸びたまま固まり、鈍い痛みがある。出血はない。ただ、表面がひび割れ、砕けていた。
その様は、生きものというより、硬くて脆い陶器に似ている。手首を返して角度を変えれば、ぱらぱらと細かい何かが僅かに落ちた。
「これは、どういうことなのでしょう…?」
声が震えた。どんな敵を前にしても怖いと思ったことはないのに、自分の右手の得体のしれない有様が、心の底から怖かった。
そっと、右手を春馬の手が包んだ。温かい。
「はるまさま…」
「大丈夫だよ、コヒナ。少し無理をし過ぎたようだね」
恐る恐る見上げた春馬は、いつもと同じ顔で、しかし心配そうに眉根を寄せていた。
「キミ、カタナを貰ったそうだね?今日も使ったのかい?」
そうっと優しく小雛の右手を裏返し、傾け、また表を向けながら、矯めつ眇めつ眺めて春馬が問う。
「…はい。止めを刺すのに」
「それかな。話を聞くに、キミのカタナはすごく強力なものらしくてね。レイリョク?あの不思議な力が変な風に働いたんだろう。キミの体は、陽の光に弱いことからして、少し特別なんだよ。昼に外に出て弱っていたからこんな風になってしまったんだね」
春馬はふと、青ざめた小雛を見て微笑んだ。
「心配ないよコヒナ。わたしがちゃんと元に戻してあげる」
「はい…」
小雛の心配は、風に吹き散らされる雲のようにどこかへ行った。案じていたのは別の事だったけれど。
何もかももう、どうでも良い。
右手が可笑しなことになっているのは変わりないのに、小雛の中ではもう全てが解決していた。
結局小雛にとっては、自分がどうなっているのかなど二の次で、春馬にどう思われるかということが一番の重大事だったのだ。
『…全く、困ったものだな。契約内容を考え直すべきか』
小雛に背を向け、治療の道具を揃えながら、小声で春馬は呟いた。
その顔には、小雛には向けたことがない冷徹な表情が浮かんでいた。
拙作に点数を入れてくださった方に、この場を借りてお礼致します。
とてもとても励みになります!ありがとうございました!
そしてもちろん、いつも読んでくださる方々にもお礼を。
私が書けるのは、読んでくださる人がいるからです。見てくださるだけでいつも励まされています。
これからも頑張りますので、どうぞこの先もお暇なときにでもお付き合い下されば幸いです^^