幕外伍 瑞女ノ二
6/5 時系列が明らかにおかしかったので修正しました。
半月前→ふた月半前
なぜこんなにずれたし…。
あと、気になったところもちょこちょこ加筆しましたが、筋に変わりはありません。
小雛たちは、上流層が住む町"門内"の屋敷を訪ね歩き、変事はないかと訊いて回った。
道行く人にも聞き込みをするが、門内に入ってからは、整備された道は人影がほぼなく、通る者があっても急ぎ足が常だったので、そちらはあまり捗らない。
ここに住んでいる者たちはきっと、炎天下に出歩くなどという愚かなことをしなくても良い生活をしているのだな、と小雛は小さく溜息を吐いた。
人に話を聞き、何か心配ごとがあると言うなら、簡単な清めの法を施し、護符を配り、縁起の良い方角などを助言する。
はっきり言って地味だ。だがこれが大祓いの前準備、前祓いの全てだった。
小さな草でも集まれば草原になるように、小さな乱れを都中に散った術者がそれぞれ正して回れば、全体の乱れが整う。故に如何に些細なものであれ乱れを正せ…というのが神宜省からの触れであった。
そういうものでもない気がしたが、一人で何を言っても無駄なので、小雛は黙って足を動かしていた。もし言ったとしたら、一人ではなかったのかもしれないが。
術者たちがどう思っているかは別にして、道中は実に順調だった。
普段であれば、神宜省の印がない術者は胡散臭く見られて門前払いが関の山なのだが、身分のある者ほど験担ぎが好きなようで、"あの鬼退治の"橘家ならばと行く先々で快く迎え入れられたのである。
橘家も今ならいけると踏んで、他家が手を出し難い門内を選んだのは明白だったから、思惑通りと言えばその通りだった。
噂など下らないとばかり思っていた小雛は、意外なところで役に立つこともあるのだと、少しだけ考えを改めた。
屋根の下へ入れるのは、今はそれだけで有難いことだったのだ。
招き入れられれば、やれ座布団だ茶だ菓子だと下にも置かない扱いをされる。
初めての好待遇に驚き、慣れないことに何だか座りが悪い思いでいた術者たちだったが、名乗ると「かの有名な方々にお会いできるとは光栄」と畏まられて「どうぞ何卒お願いします」と頭を下げられれば悪い気はしない。
駄目で元々という風に頼まれる普段を思えば雲泥の差。普段から勿論本気で取り組むのだが、気合いの入り方が違うのは仕方がない話だ。
ただ、弁が立つとはとても言えず、気が回る訳でもなく、更には体調が優れない小雛は、皆張り切っているな、とぼんやり思いながら、仲間が聞き取りをしたり護符を書いているのから少し退いたところで霊刀に片手を置いて目を閉じていた。
体が怠く、くらくらと目眩がするゆえのことだったが、どうやらどっしりと落ち着いて精神を研ぎ澄ませているように見えたらしく、代わるがわる覗きにくる家人たちが「流石は橘の…」などと囁きあっていた。
小雛にとっては、興味の外のことである。
最初の内、柚葉はにこにこと、瑞女は当然だと誇らしげに、広亮はほっとした様子で、侃爾や阿弥彦までもどこか満更でもなさそうにしていたのが、微妙な表情に変わるのは直ぐだった。
というのも、邸内に悪いものが居ないか見てくれ、いついつに病人が出た部屋を清めてくれ、当主やご内儀の部屋をとりあえず清めてくれと、頼まれることはそんなものばかりだったから、浮わついていた気分も落ち着いて、現実が見えてきたのだろう、と小雛は無感動に眺めた。
「特に困ったこと、ないんだねぇ」
息子の官吏の試験が近いから、という理由の部屋の清めを終え、魔除けの簡単な結界を張って仕上げとして屋敷を後にしながら、柚葉が呟いた。
「…まあ、拍子抜けではあるよな」
危険がないのは良いことかもしれんが、と侃爾がぼやいた。
「あれだけのことであんなにお金もらっちゃって、いいのかなぁ」
庶民な感覚の柚葉の心配事はそこである。
清めだなんだと何かする度、結構な金子が動くのを目の当たりにして恐々としていたのだ。
一度に支払われるものだけで、ひと月程度は毎食外で食べられるほどの額だ。
阿弥彦がきっちりと証文を交わしていたから後から何かを言われる心配もないのだが、どうしても『あんなに簡単なことで』と思ってしまえば後ろめたく、冷や汗が止まらない柚葉だった。
「まぁ、『この程度のことで大袈裟な』ってのは驚いたが…」
ほっほっほと鳩のように笑っていた瓜実顔を思い出して、侃爾は思わず身震いする。
侃爾にすれば触るのさえ恐ろしいような気がする金額を泡銭のように渡されて、証文を認めようとした阿弥彦へ向けて言ったのがこの台詞だった。感覚が違いすぎて溜息も出ない。
そして、代表して金をまとめて預かっている阿弥彦を恐ろしそうに見た。あの役を代わるぐらいなら、屍鬼を五、六体相手にする方がマシだと、若き術者は本気で思った。
「ああいう人種には、私たちに何かしてもらった、というのはそれほどの大事なんでしょ。別にお金は有るところには腐るほど有るんだから、気兼ねなく貰っておいたらいいのよ」
呆れ半分に瑞女が言った。
「なぜだ?あの程度の雑霊を祓うのは、術者なら誰でもできるだろ」
「そうね。でも祓い清めるのは言ってしまえばおまけよ。あってもなくてもどうでも良いわ」
「えっ…ど、どうでも良いの…?」
真面目に取り組んでいた、清め担当の広亮は衝撃を受けた顔をした。
「切羽詰まったことがなんにもない人たちには、ってことよ。考えてご覧なさいな。物を売るでもなく、作るでもないあの人たちが、働く代わりにいつもしてることはなぁに?」
うん?と阿弥彦と小雛以外が首を傾げた。
きらびやかで豪華な上流階級の暮らしは、平の術者にとっては想像の埒外なのだった。
「…お喋りと自慢よ。同じような連中の間で、商品の代わりに顔と名前を売るのがお仕事。新鮮な噂話が通貨。どれだけ話の中心に居られるかが一番の関心事。言い換えればそれ以外は興味なんかないのよ」
身も蓋もない言い様に何とも言えない顔をした仲間たちに「兎に角ね」と瑞女は嘆息した。
「あいつらにとって大事なのは、"今流行り"の私たちと話した、ということよ。さらに何か儀式めいたものを受けておけば、それだけで話の種として半月は保つ。ついでに私たちとお近づきになれれば、また話を仕入れられるかもしれないしねぇ。まあ、あまりあんな人種に期待しないことだわ」
そう言う瑞女も、ついさっき浮かれていたのを小雛は覚えていたが、別に話に加わる心算はなかったので黙っていた。
次の屋敷の前に来たとき、小雛はふと違和感を覚えて顔を上げた。
「…いる、か…?」
ほぼ同時に、阿弥彦が眉をひそめて呟いた。
「いない。けど気配はあります」
瑞女が迷いなく言い切った。一同に緊張がはしる。
何が、と聞き返す者はこの場には居ない。疑う者もまた皆無だ。謎かけめいた表現に、訝る者もない。
合図もなく全員が立ち止まり、瑞女が感じ取ったものを探すために早口に呪を唱え、見えざるものを見る"第三の目"に力を注ぐ。
小雛は、体調の所為か普段のように集中できず、小さく舌打ちした。昼の活動は、思っていたより厄介だった。
瑞女はただ、更に多くを見破ろうとするかのように、目を眇めて屋敷を見上げた。
察知において、瑞女はこの班で一番。消耗していれば感度が落ちることはあるが、術を使わなくとも霊なるものを見て、妖しの気配を感じとる。
その感覚は、ときに術を使った探知を越えた。
「駄目だ。わからん」
「あたしも何も」
侃爾が最初に首を振り、柚葉もそれに同意した。
「う、うん…。でも、確かに瘴気はあるみたいだ」
広亮は、気配を探るのを早々に諦めて、別の術で場を探っていたようだった。
手にした霊苻を振り、仲間に見せる。
小雛が横目で見たそれは、所々が染みのような形に、薄く灰色に染まっていた。負の霊力、瘴気がある印だが、色はごく淡い。
「小雛は」
「……」
阿弥彦が問うのに、軽く首を横に振った。違和感以上のことは分からなかったのだ。
情報が出揃ったのを受け、術者たちは目を見交わした。
「瑞女が気配を感じ、広亮の術に瘴気ありと出た。他の者は予感以上のことは分からぬ、と」
代表して阿弥彦が纏めた。皆を見回し、全員が頷くのを待って結論を出す。
「憑いているな」
阿弥彦が重々しく断じた。
霊なるものが人に取り憑いている、と。
霊が人に憑くと、その人の存在に隠されてしまい、霊の気配は希薄になる。
ただ、人の生気を喰らって力が増せば、隠れきることが出来なくなる。その段階に至れば、憑かれた人は力の殆どを喰われていて、その人自身も幽鬼のようにやつれてしまっているのが普通だ。
そうなっていたなら、憑り殺されるまで一刻の猶予もない。
また、人に憑いた霊は、隠れていても少しずつ瘴気を吐く。力が増せばその分瘴気も増すので、状態を探る目安となる。
故に憑き物を探し出すにはまずは瘴気を探すのが常道だったが、弱い瘴気は人の出入りが多かったり、清めとなる事象、雨や風でも散って消えてしまうので、先ずは疑わしい人の目星を付けてから探るのが通例だった。
「幸い、瘴気も淡く、気配も弱い。今日見つけられたのは僥幸と言えよう」
今回は偶然、まだ弱い状態で見つけ出せた。
確かに僥幸。この程度ならば、祓うのもあまり苦労ではあるまい。
小雛は、風呂敷に包んだ霊刀を撫でて確かめる。手の中の得物は、いつも通りの頼もしい感触を返した。
――――確かに本調子ではないが、問題ない。
行くぞ、という号令に、応、という返事が五つ揃った。
門を叩いた者らをじろじろと怪しむように見た庭番の翁は、阿弥彦が取り次ぎを頼めば渋々引っ込んだが、直ぐに慌てふためいて帰って来て愛想笑いをした。
家の者の程度が知れること、と瑞女はごく冷静に酷評した。
こと貴族に区分される者に対しての評価は辛口になりがちな自覚はあるが、改めるつもりは全くない。人が聞けば同族嫌悪と言うだろうが知ったことか。
「大殿さまと北の方さまがお会いになられまする」
「左様か。では案内願おう」
こちらです、と翁が踵を返した瞬間、密かに全員が目を見交わした。
突然訪ねたというのに、屋敷の主とその本妻が会うという。本腰を入れて向き合う姿勢だ。
――――主夫妻は気付いている。但し、庭番の様子からして、まだ話は家中に広まってはいないわね。
目を合わせた全員が――無関心そうな小雛も含めて――同じ意見なのを、これまでの経験から感じ取った。
家中の誰が憑かれているかにもよるが、確信でないにしろ、上が感付いているなら何も気付いていないよりずっと話は早い。
果たして座敷に案内されて程なく、中年の男女が姿を現した。出された湯飲みに手を触れる暇もない。表面上の余裕を取り繕う余裕もないのだろう。足早に上座に向かう様子を見ながら、瑞女の中で予想が確信に変わった。
男の方は第一印象は"小者っぽい"それに尽きる。
余程急いで来たのか、衣は上着ばかりは上等だが、その下に着た袿はよれているのが、座るときの動きでちらりと見えた。突然のことに大慌てで着くたれた普段着の上からまともな衣を羽織ってきた、といったところか。動作もそわそわと落ち着かないし、仕草もあまり優雅ではない。
――――奥方の方は少しはマシね。
夫を気にしている様子だが、落ち着いている。重ねは減らしつつも上品な衣装を揃え、髪も急に整えたにしては乱れはない。
優れたとは言わないが無難ではある。
幸い、この二人に物の怪が憑いている様子はなかったが、どことなく顔色がくすんでいる。
薄っすらとではあるが、ここにも瘴気があるのかもしれない。その所為で体の調子を崩していると考えられる。
「その方らが橘の占者であるか」
そわそわと扇を開いて顔の半分を隠しながら、男が開口一番に言った。
占者とは、占術を専門に行う術者だ。橘家は怪異が増える前、上流層向けには占いを主流に行っていたから、貴族にとってはまだ橘といえば占者、という感覚なのは分からないでもない。が、今日回った中で初めての反応だ。
――――鬼退治の話が伝わっていないのかしらね。
橘が物の怪退治で名を上げたのはふた月と半ほど前、瑞女たちが鬼と戦ったときからだ。今では知っていて当たり前なほど定着したものだから、世情に疎いにもほどがある。
――――噂が広まり初めの頃に、外と遣り取り出来なくなるほどの何かがあった、というのはどうかしら。…例えば家族の態度が豹変した、とか。
ただの予想だが、そこに結び付けて考えておく。
「いえ。橘の者ではありますが、占者ではありませぬ。魔払いを主に致す払魔師です」
代表して阿弥彦が丁寧に答えた。男女は"占者ではない"と言われて僅かに肩を落とし、"払魔師"と聞いてはっと緊張した。
顔を隠して表情を読まれないようにしたつもりだろうが、貴族としての教養がある瑞女には仕草で丸わかりだ。
「払魔師、と申すのは、悪霊を退ける者のことか」
「左様です。怨霊や妖魔の退治をしております」
「その方らだけで行うのか」
「はい。支度や前準備は他の者に任せることもございますが、大概はこの六名にて行います」
「ほう!それは…」
身を乗り出しかけた男の袖を「殿」と呼びつつ女が引いた。妻の顔をみて、興奮しかけていた男は我に返ったらしいが、代わって女が口を開いた。
「その、払魔師とやらが我が館に用があると申すのじゃな」
奥方は男よりも慎重なようだった。落ち着いた声で語り、阿弥彦だけではなくこちらにもじっくりと目線を送ってくる。
来訪者を計っているのだ。信用できるか否か、問題を解決できるか否かを。
「お困りごとがあるやもしれぬと思われましたので」
阿弥彦は対応を改めたようだ。丁寧な物腰を変えず、だが本題に自分から話を向けていく。
「なぜ?」
奥方もまた応じた。貴族らしい回りくどい言い方を捨てて、単刀直入に切り込んでくる。
「我らがお屋敷の前を通り掛かった折、こちらの方角から、怪しき気配を感じました故、よもやお宅からならば大事だと思い、確かめに参ったのでございます」
「…なるほどのぅ」
貴族は外面を重んじる人種だ。
間違いなく家人が物の怪に取り憑かれている、と断言すれば、そんな不吉なことを言うなと反発する。しなければならない。
言いふらされでもしたら家の評判に傷が付くからである。弱みを信用できるかわからない相手に打ち明けることも、同じ理由から出来ない。
また、信用できる者らだとしても、大騒ぎして相談し、調べてみて実は何ともなかったとなれば恥だ。取り巻きが居るほどの上の家なら、周りが大騒ぎをした所為にもできるが、中位や下位の貴族は物事がはっきりするまで様子を見る傾向にあった。
だからこそ、阿弥彦はこの屋敷だと確信しながらも否定する道を用意して一歩譲ったのだ。受けたとしてもこちらの勘違いで済ませる心算があると示して。
術者とて勘違いで屋敷に乗り込んだとすれば名に傷が付くのだが、可能性を示したことで、憑りつかれていると認めたり、真っ向から否定する以外の道が出来る。
それでもこちらを怪しんで申し出を断るなら…もう手を引くしかない。所詮一介の術者が頼まれもしないのに踏み込める問題ではないのだ。
――――まあ、その心配は無さそうねぇ。
するりと奥方は夫に顔を向けた。
「殿、こう言っておられるのですし、一応言うてみても良いかと。万が一ということもございますし」
「ほ、ほう。奥よ。そう思うのか」
「はい。大事かも知れぬと聞けば、不安になってしまいました」
「ふむ。他ならぬそなたがそう言うのであれば…そうじゃな。それも良いじゃろう」
最初から乗り気だっただろうに、勿体付けて当主が頷いてこちらに向き直り――
「では、内々に言いたきことがある。そちたち、奥へ参れ」
――奥方に制されて開きかけた口を閉じていた。
どうやらこの家は、女主人が実権を握っている。奥方を味方に付ければ、万事やり易そうだ。
こちらへ、と夫を引っ張って立った妻の背中を追って歩きながら、瑞女は阿弥彦を密かに見直した。
今までお膳立てされた後、行けと言われた通りの場所に行き、戦ってきた。現場に立つ術者が依頼人と顔を合わせるのは、魔払いが確定した後なのだ。
勿論瑞女もこのような場に立ち会うのは初めてだ。
――――できないわ。
阿弥彦と自分を置き換えてみて、そう結論した。どういう流れで事態が動いているかは読み取れても、同じことをやってみろと言われれば、出来る気が全くしないのだ。
自分でこれなら、他の班員にはとても無理だ。というか、現場に立つ術者たちの殆どが無理だろう。
ごく当然の流れでそこまで考えてみれば、単なる嫌がらせだと思っていた昼番も、この班が行くことになった理由はまともだったのではないかとふと思った。
――――大祓いにかこつけた依頼が増えて、占術の方面で外向き担当は手一杯。でも昼回りをしない訳にいかないから、貴族と交渉できる現場の術者を探して、名前が挙がったのが、班長。
だったら仕方がない、と思いかけて、思い出して振り返った先で、小雛が青白い顔で目を落とし、ふらつきながら歩いているのを見て、やっぱり小雛も行けと言ったのは嫌がらせに間違いないと、苦々しく断定した。
小雛は唐突に目が覚めた。
ぱちりと音が立ちそうな勢いで目を開けた先には、馴染みのない部屋に…馴染みの者。
「あ、起きたね小雛ちゃん。具合はどう?」
直ぐに寄ってきた柚葉に答える前に、刀を抱いて横になっていた姿勢からゆっくりと身を起こした。
特に眩暈はしない。寝起きの気怠さはあるが、あれほど小雛を悩ませた頭痛はすっかりなくなっていた。
「問題ない」
「そっか、良かったぁ」
湯気のようにほわりとした笑みを浮かべた柚葉は、立ち上がって入口の方へ歩いて行った。
よく見れば開け放たれた障子の脇の柱に霊符が貼ってある。――目眩ましの術符だ。それを柚葉は剥がした。おおかた、小雛が眠ってしまったので、外から部屋を覗いた者がいても分からないようにしたのだろう。
入口の向こう、御簾越しに見える外は、空が赤く染まり、影が濃いようだ。
――――夕方。
それも、陽が沈んだ前後だろう。普段起きる時刻とそう違いはない。畳の上で枕もないのに、随分と長く眠ってしまったものだ。
清められた部屋には、出入口以外にも四隅の柱に結界の札が貼ってある。部屋に居るのは柚葉と小雛の二人だけだ。
――――そう、確か、依頼を受けて、前準備の間の控えの部屋として部屋を借りた…。
真っ先に部屋を清め、結界を張って…あとはよく覚えていない。
小雛は休んでいろ、と誰かに言われて、それで横になった記憶を辛うじて引っ張り出した。だが、それ以前は座っているのがやっとで、どういう話になったのかは頭からすっかり抜けてしまっていた。
「みんなはね、息子さんに会いに行ったの」
小雛は何も言わないのに、柚葉は微笑んで状況を教えてくれた。
屋敷の主夫妻は、息子の様子が可笑しいのだと語った。
様子が変わったのに夫婦が気付いたのがひと月余り前のことだったらしい。
どうにも顔色が悪く、ぼんやりした様子だったので、どうかしたのかと訊いたのだが、本人は何でもないの一点張り。寝つきが悪いだけだと言って笑っていたのだという。
そういうこともあるだろうと一度は納得した夫婦だったが、息子は日が経つにつれて、良くなるどころか徐々にやつれていく。
薬師に生薬を作らせてみたものの効果はなく、塞ぎ込むようになり、ついには十日ほど前から部屋から出ることもしなくなり、親にも会いたくないと扉を開けなくなってしまったという。
長い日にちをかけて段々に悪くなってきたものだから、思いきった対処に踏み切る踏ん切りが付かずに今に至る。
「真夜中に叫んで飛び起きたりが続いててで、ここ三日ぐらいは、夜中に起き上がってふらふら庭に出てくるんだって。ご両親が心配して、侍従さんに部屋の番をさせてたらしくて、幸いちゃんとその場で呼び止めて事なきを得たんだけど、後で訊いたら起きたことを覚えてないの。でも、侍従さんは、ぶつぶつ誰かの名前を呼んでたのを聞いてたの」
「そう…そうなってまで、なぜ術者に話をしなかったの」
「なんかね、夢見が悪いだけだからっていうこともあるんだけど、実は今縁談が進んでいて、今悪い噂を立てたくなかったんだって」
そのまま治らなければ、遅かれ早かればれるだろうに何を考えているのかと、小雛は無表情の下で呆れかえったが、柚葉は同情たっぷりに「ちゃんと解決して、心置きなく婚儀を上げられるようにしてあげないとね!」と何やら決意を固めた。
「あら、小雛、起きたのね」
入口から顔を出した瑞女に軽く肯く。
「そう。こっちの支度は良いわ。あの三人ももうすぐ帰ってくる」
「何かわかりましたか?」
真剣な顔で尋ねた柚葉を向いて――瑞女は思い切り顔をしかめて見せた。
「ええ!下らない話なら山ほどね!!」
足音荒く入ってきた瑞女は、らしくなくどさりと腰を下ろして溜息を吐いた。
「あの男、私たちが術者だと知るや否や全部喋ってくれたわ。全くどうしようもないことに、原因は痴情のもつれよ!」
「えぇ…?じゃあ、縁談先の人と何か…?」
恐る恐るを装いながら、柚葉の目が輝いているのに小雛は気づいてしまった。
柚葉は、他人の恋愛の話が好きだ。とりわけ山あり谷あり試練有りの、一筋縄ではいかない感じのものが大好物なのだった。
小雛には心底理解できないことである。
だが、柚葉の期待に反して瑞女は首を横に振った。
「色々とぼかそうとしてたけど、どうやら衣装を地味なものに変えて門外で遊んでいたらしいのよ。そのときに知り合った人妻と良い仲になったんですって」
"門外"というのは、庶民が暮らす町だ。住宅があり、商店が並ぶ。小雛たちの拠点である橘家も、門内に近いが区分で言えば門外にある。
庶民の人妻を引っかけた貴族の男が霊に憑かれるということは、原因は相手の女の生霊か、その夫の恨みか。
――――何にせよ、対処はできる。
傍らに置いた、白木の拵えの霊刀を無意識に撫でた。
「ええ…それって、道ならぬ恋…!?」
…柚葉は小雛とは別の方向に思考をすっ飛ばして楽しそうにしていた。
「そうだったらまだ良いんだけどねぇ。あの男、全く本気じゃなかったのよ」
苦々し気にしつつ、瑞女もまた身を乗り出しているのに小雛は気づいた。だからなんだ、と言う訳でもないが。
「相手の方が入れ込んでしまって、どうやら夫に毒を盛ったらしいのよ。それで獄中に捕らわれたんだけど、あいつは縁談もあるし良い機会だってそれを見捨てたのよ!」
「えええ!!酷い!!」
柚葉は掌をころっと返して憤った。それに「でしょう!」と瑞女も同調して大きく頷く。
二人にとっては、毒を盛ったとしても女の方が絶対的に被害者らしい。小雛は両方ろくでもない、と思ったが、関係ないこととして黙っていた。
「それで、憑りついてる霊っていうのは」
「ええ。毎晩捨てた女の声が聞こえるって言っていたし、私も女の気配を感じたから、まず間違いない」
「生霊?死霊?」
始めて言葉を挟んだ小雛に、瑞女は途端勢いを失って首を振った。
「分からない。そもそも、憑りついているけれど、あいつの中に入っているのではないみたいね。決まった時間に現れて呼ぶの」
「ああ、だから夜中に応えて出て行っちゃっていたんですね」
「そういうこと。外で見つけた瘴気もあいつから発されたのじゃなく、昨日の晩に来た霊のが残っていたようね。私が感じたのは、あの男に向けた執念が凝ったものだったという訳」
そうだったんだね、と柚葉が呟き、ひとつ大きく息を吐いて気持ちを切り替えた。
「じゃあ、外からくる霊を迎え撃つことになったんですか」
「ええ。今裏門以外の場所を清めて、結界と探知の術式を張ったわ。最後の見直しに移ったから、私は先に話しに抜けてきたのよ。…ほら!先に知っていた方が手間が省けるから!!」
急に何やら様子が可笑しくなった瑞女に、柚葉がにんまりと笑った。
「もう、瑞女さんー、小雛ちゃんが心配で早く戻って来てくれたんでしょう?」
ぱっと瑞女の頬に朱が上った。
「ち、違うわよ!!なんでそんな突拍子もないことを思い付くのよ!!」
「だってだって、霊が来てから決行なら、話によれば始まるのは夜中だろうし、時間ありますもんねー」
「ちょ、ちがっ…!ほら、決行までに現場の下見とか!もし小雛が使えないなら止めは侃爾の仕事だから段取りの見直しもするし!!」
「ですねー、小雛ちゃんが調子悪かったら色々困るし、心配してくれたんですよねー」
「お、お黙り!!その顔をおやめ!!!」
きゃっきゃとじゃれ始めた二人を尻目に、小雛は自分に関わりのありそうなところだけを拾って、一理あると納得した。
決行までに現場の下見は確かにした方が良い。
刀だけを手にして、小雛は裏門の見当をつけて外に出る。
まだ夜空と呼ぶには足りない空には、辛うじて幾つか星が瞬き始めている。
立ち上がった小雛は、二人に背を向けながら微かに顔をしかめていた。
手にした刀が普段よりずしりと重い気がしたのだ。