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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
79/131

幕外伍 瑞女ノ一


 ある男が居た。

 近所の商店に雇われている長屋暮らしの四十手前。十六年連れ添った妻との間に息子が二人居る。

 働きぶりは可もなく不可もなく、一家の人並みの暮らしの上、二、三日に一度酒を飲む楽しみを得る程度の稼ぎがある。

 目立った特技はないが、悪評もまた持たない。

 良くも悪くもごく普通。どこにでも居るような男である。


 そんな彼にはこの頃、悩みがひとつあった。

 妻との仲が冷めていることだ。

 何か原因と呼べることがあった訳ではない。一緒になってから、段々に気安くなるにつれて、互いが当たり前になっていき、同時に相手への強い関心も持たなくなっていっただけだ。


 喧嘩はしないが、話もあまりしない。

 近頃話しかけても妻が上の空なのにふと気付けば、なんだか落ち着かない思いがしてきていた。


「そいつはいけねぇよ」

 荷下ろしの合間に話せば、同僚はなんとも渋い顔で言った。

「女房との仲ってなぁ勝手に悪くなっても、勝手に良くなるこた、ねぇんだからさ。たまにゃあ酒じゃなくて土産でも買って帰って、子どもの話でも二人でしなよ」


 気の良い同僚は鴛鴦(おしどり)夫婦で通っている。

 子どもは五人。口を開けば半分は妻と子どもたちの話。仕事を上がっても寄り道せずに家に飛んで帰る。

 奥さんの方も、旦那が仕事が立て込んで遅くなったときには、提灯片手に心配そうに様子を見に来たことがある。

 首にかけてある丁寧に刺繍されたお守り袋は、病気をしたときに妻が寝ずに作ってくれたものだとか。

 そんな彼の話だったから、男もつい、妻との仲が温まる夢を見た。

 同僚のように、想い想われる仲になれたらどんなにか良いだろうかと。

 

 そう思ってしまえばなんだかそわそわと落ち着かず、いつもは酒を買って帰るところを、道端の出店に寄って、可愛らしい花が彫られた櫛を(あがな)った。

――――喜んでくれりゃ、いいが。

 ああだろうか、こうだろうかと、渡したときの反応を思い浮かべながら、家の方へ足を向けたとき、見覚えのある横顔が、人波に紛れてちらりと見えた。


 よく目を凝らして、目を疑った。

 向こうを歩いていくのは、男の妻だった。

 しかも隣にいるのは若い男。背が高く、遠目にも中々精悍な顔立ちの。

 妻は、見たことがないほど華やかな笑みを浮かべていた。






「あら、お帰り」

 とっくに日が暮れてから帰った男の前に、妻はごく普通の顔で夕餉を並べた。

「ああ…。急に店の手伝いが入って遅くなった」

 問いただす勇気が出ずに付け足した言い訳を、妻は「そう」と流す。

 あれは見間違いだったのかもしれない、と自分を疑う気持ちが湧いてくるほど、自然な様子だった。

 生まれて初めて見るように、まじまじと妻を見る。だが、仕草も見た目も、いつもと同じに見えて、同時にこの上なく疑わしくも思えた。


「ご飯が冷めますよ」

「あ、ああ…」

 目を合わせないのは、手元の繕い物が忙しい所為か、はたまた後ろめたい事があるからか。

 囲炉裏の火しか灯りがないのでは、顔色は如何(いかん)とも判断し難く、かといって浮気を直球で問い質すには迷いがある。

 だが考えていても埒が明かないのは明白。こうなれば言ってみるしかないだろうと、やっと決心がついた。

 景気付けに椀の中の味噌汁をぐいっと煽る。

「?」

 瞬間、どこか違和感を覚えて男は瞬いた。


「なあ…」

 舌触りか味か、その正体を頭が判断するよりも前に、鼻を曰く言いがたい匂いが突き抜けた。

 次いでこの世のものとは思えない味がして舌が痺れる。妻に尋ねようと息を吸っていた所為で思い切り()せた。水に顔を突っ込んでいるかのような息苦しさにのたうち回る。

 腹の底から広がるぬるい何かは何なのか。恐ろしい感覚が身体中にじわりとひろがっていく。そのとき、酷く冷たい声がした。


「ちゃんと飲んだわね。さよなら、あんた」

 男は目を見開いて妻を見た。耳を疑った。


 妻は薄く笑っている。助けようとするでなく、呆然とするでもない。当たり前の光景を眺めるようにして、針と糸を手にしたまま、夫に久々の笑みを向けている。

 男が真実に辿り着くまでに時間はかからなかった。


――――毒を!?

「が…っ、ぐぅ…!!」

 一服盛りやがったのか、と怒鳴り付けるつもりが、口から出たのは呻き声。

 目が霞む。苦し紛れに夕餉の食器を出鱈目に投げた。妻の悲鳴が聞こえた気がした。だが、男はそれに構うことが出来なかった。


「がぁあああ、あああああぁああ!!」

 腹から始まった違和感が、とうとう全身に行き渡った。その瞬間、凄まじい熱が男を貫き、喉が勝手に叫びを上げた。

 熱、いや熱とも思えるほどの冷感だったのかもしれない。ぞわりと肌が粟立ち、かっと全身が火照る。どちらにせよ強まっていくそれは痛みに限りなく近い。


 父ちゃん、と息子たちの声がしたような気がした。起こしてしまったのか、などと、そんな場合ではないのに頭の片隅で思ったのが不思議と意識に焼き付いた。


 間もなくそんななけなしの余裕も苦痛に飲み込まれて消えてしまう。

 喉を掻きむしり、もがきのたうつ拍子に土間へ転げ落ちる。

 これ以上ないと思えていた苦痛が一段増した。

 土間へ落ちたことと苦しみが増したことを結びつけて考えられたのは奇跡に近かった。

 蜘蛛の糸にすがる心地で上がり(がまち)に上体を引き上げれば、僅かだが楽になった。

 朦朧(もうろう)としながらも、地に近いよりも高い場所の方が苦痛が和らぐことを本能的に感じ取る。


――――高いところ…高い所へ…!


 男は苦しみから逃れたい一心で、よろめきながら立ち上がった。

 叫びながら戸を体当たりでぶち破り、道に置かれた何もかもを蹴り散らし、一路町の外れへひた走る。

 体は苦痛に(さいな)まれ続けて酷く重いのに、走り出せば景色は飛ぶように後ろに流れた。

 よろめき、方々(ほうぼう)にぶつかりながらも男は走る。

 屋根より高く、鐘楼(しょうろう)よりも高い場所…山へ。






















 目深に被った傘の縁から、小雛(こひな)は無表情に前だけを見ている。

 彼女の前には、あり得てはいけないことに、日の光降り注ぐ昼の景色が広がっていた。


 人が多く太い通りを避けて、建物の間が詰まった細い道の、さらに影だけを選んで歩いているというのに、陽光に弱い小雛には夏の昼間は強烈で、眩しくて目の前がちかちかと白くぼやけ、衣に隠れていない肌はじわりと熱を持って腫れぼったい。

 更にはさっきから始まった頭痛が、頭の芯を脈打たせる。

 未だ屋敷を出て直ぐだというのに、早くも最悪な気分になった道行きに、小雛の顔は能面のように無表情になったが、無表情自体はいつものことなので、あまり見た目には変わらなかった。


「小雛ちゃん、大丈夫?」

 だが、小雛が日の光に弱いことを知る柚葉(ゆずは)が心配そうに横から覗き込む。

「ああ、血の気が引いてる…!辛い?」

 何を答える間も置かず、柚葉が狼狽(うろた)えた声を上げれば、同道していた班員たちも、それぞれ振り向いた。

 見慣れた面々は幾多の戦いを潜り抜けた今でも、幸いにして欠けた顔はない。

 灰汁の強い顔ぶれがそろっていたが、この頃は互いに馴染んで、まずまず上手くいくようになってきていた。

 少しの違和感は、全員がいつもの黒装束ではなく、(たちばな)御紋(ごもん)が入った檜皮色(ひわだいろ)の羽織を着ているからだろう。

 昼の仕事は初めてのことだから、見慣れないのは当たり前なのだと思い至るまでに少しかかった。


「日の光に弱いとは聞いていたが、それほどか」

 班長の阿弥彦(あやひこ)が言った。小雛がいつもより若干左右に揺れながら歩くのに気付いて、深刻そうに顔をしかめる。

 小雛は聞いているという印に、軽く顎を引いた。

 口を開くのも億劫(おっくう)だった。


「あらあら。昼が嫌いだなんて亡霊みたいね」

 小馬鹿にしたように言った瑞女(みずめ)は、さりげなく、小雛に照り返す光を遮る位置に動く。

 この場の全員が、瑞女の素直でない言い様をよく知っていたので特に何も言わないのが普通になっていたが、その言い(ぐさ)侃爾(りょうや)は一応律儀に眉をつり上げた。

「瑞女!亡霊とは何だ亡霊とは!!その言い方はないだろう!…ったく、班長、それにしても何で急に昼番なんぞ回ってきたんですか。夜回りの功績に不服だということでしょうか」


 しかめた顔のまま阿弥彦へ問う彼もまた、小雛を案じてちらちらと様子を窺っている。小雛を気にしているのを隠している心算(つもり)なのだろうが、丸わかりだ。

 その不服そうな様子もまた、体質的に昼に弱いとして出した市中回りの免除願いを鼻で笑った上層部に対してのもの。ひいては小雛に無理を強いたのに(いきどお)ってのことだとこの場の全員が知っている。

 それが相手に伝わっているのかいないのか、伝わっても相手にされるかどうかは、泣き所だ。


「いや、我が班の成績に不服を唱える方は長さま方にも居はしない。…今は昼の務めも人を割かずに居れぬ故、夜回りのみでというのも難しい」

 阿弥彦は侃爾を宥めるように付け足した。

 だが後半は非常に事務的な口調であり、額の辺りに『なんで自分が擁護しないといけないんだ』と書いてある。

 しかし 阿弥彦にとって不本意ではあれ、事実は事実である。


 今、小雛が属する橘家をはじめとして、都中の術者が大わらわしている。

 もう直ぐに迫った大祓(おおはら)いの下準備のためだった。

 大祓いは、(すめらぎ)と守護神、それに仕える(かんなぎ)が執り行う清めと祓えの儀式で、これを行えば運気の流れが正され、災厄(さいやく)怪異(かいい)がたちどころに止むという。

 魍魎(もうりょう)跋扈(ばっこ)し、奇病災害が頻発する今の蒼竜京(そうりゅうきょう)の民にとっては、まさしく希望だ。

 どうあっても成功させねばならないと、祭祀を司る神宜省(じんぎしょう)の役人たちが奔走している。

 そうして、少しでも心配事を減らそうとでも言うのか、都の払魔師や退魔師たちに前祓いを命じたのだ。


 つまりは、自分たちの儀式で祓いきれないことを心配して、密かに仕事を減らしておこうという呆れた話であった。

 大祓いで祓い清める自信がないなどと取られ兼ねず、公になってしまっては民の心が離れるのは想像に難くないこの件は、勿論裏の話。表向きには、術者たちが自ら動いていることになっている。

 当の術者たちの間で、皇家の評判は大いに下がりはしたが、この前祓いには都中の術者の派閥が乗り気である。


 なぜなら術者とは、普通の市民にとっては『何だか良く分からなくて不気味だが、凄いらしい人たち』という認識だからである。

 一般人のいない夜闇の中で、人ならぬ者を調伏する役目ゆえに、その活躍が衆目にさらされることはなく、市井に流れる噂は各術者の派閥がさり気なくかつ必死に流したものと、人々が経験した怪異の経験譚が人伝(ひとづて)に伝わって混ざり合った上に尾鰭(おひれ)を付けて膨らましたものを乗せて、更に少し加熱調理したようなもの。

 つまりは『何か凄そう』な摩訶不思議な話のひとつ。裏の墓に去年死んだじいちゃんの幽霊が出るらしいよ、というのと大差がない扱い。『術者?それってつまりナニ屋さん?』という感じのものであった。

 そんなことのために日々必死に動いている訳ではけしてないのだが、努力が人々に認められないというのは常々、術者たちが地味に頭を悩ませている問題だ。

 術者は数が足りない。なのに人々の認識がこれでは、人員を増やそうとしてできるものではない。

 術のいろはを叩き込むには、最低限を身に付けるだけで通常数年。素質がある者にみっちりぎっちり詰め込んで一年程度はかかる。一人前の術者を育てるには、幼少の頃から教育を施すのが一番間違いがない。

 直ぐになれるものではない、よくわからない者のところに、家族や縁者を弟子に出そうという者は酔狂、というのが今の一般的な認識である。

 人手不足に喘ぐ術者にとって、せめて『将来払魔師になりたい!』と言って許されるのが小さな子どもだけ、という現状を打破するのが、密かな悲願なのであった。


 そこに舞い込んできたこの話は、彼らにとって渡りに船だ。

 何せ今回は秘密裏とはいえ皇家のお墨付き。真昼に堂々と家々を回って祈祷をしたり、魔払いの札を与えたりという、神宜省のお抱えどもが自分たちの領分としてやっていることを、大手を振って出来る。そして直接市民と接するということは、人々の意識を改める機会なのだ。

 当然橘家もこの話に大張り切りであった。

 だがしかし、大祓いが決まって人々の気分が上向いたからなのか、心持ち怨霊の類が少なくなったとはいえ、依然として夜の活動も気が抜けない現在、昼の仕事まで増えて、人手が足りずに天手古舞(てんてこまい)しているというのが正直な話である。


 阿弥彦の立てた推論は、理屈の上では的を射ているのだ。

「しかし、小雛だけ昼は外せば良かったのでは。下らぬことで貴重な戦力を欠くのは明らかに愚策です」

「……」

 ずばっと弱いところを突いた侃爾の言に、阿弥彦は返す言葉を持っていない。指令を受けたときに同じことを提案し、全員で行けと理由も告げられず苛立たし気に念押しされたのは記憶に新しい。


「おおかた、鬼の討伐をやっかんでる者の嫌がらせでしょうよ」

 続いて腹立たし気に吐き捨てたのは瑞女。


 人食いの鬼を払ったこの班は、様々な意味での注目を浴びていた。

 橘家は、これ幸いと大々的にこの功績を喧伝し、更に様々な悪霊払いの功績を上乗せして誇った。

 実際に兵衛(ひょうえ)にも被害が出た鬼のこと。怯えていた市井(しせい)の者たちは安堵し、珍しく自分たちがよく知る具体的な事件と結びついた術者の活躍話に仰天した。そしてなんと頼もしいことだと(たた)え、今では民草の間では『払魔師といえば橘』と言われている。

 面白半分に盛り上がっているだけだという事実には目を瞑って、橘では喜ぶ声が多く上がった。


 だが、華々しく活躍した班に称賛を向ける目と同じく、裏では(ねた)む眼差しもまた多い。呆れたことに、身内である橘の血に連なる、しかしさほどの功績や役目がない者たちほど、六人中五人が外様、唯一橘の姓を持つ阿弥彦は分家の出、という班が活躍したことを苦々しく思うらしく、"悪鬼斬りの勇名"にかこつけて、無茶な件を押し付けることもしばしばあった。

 それでもなおその全てを滞りなく処理できていたからこそ、今もまだ彼らはこうして無事で居るのだが、班への嫉妬の眼差しは日々強くなっており、鬼を斬った当人である小雛は、言わずもがなであった。

 しかし当人の実力と…尋常でない雰囲気のためか、実績がない故に妬むような輩は直接手出しが出来ない。

 そういう訳で、夜の悪霊払いに力を発揮する班に昼間の市中見回りを命じるなど、どこからか小雛が陽の光を嫌うと聞いた者らが画策したものだろうと瑞女は言ったのだった。


「嫌がらせ、な」

 侃爾は苦い顔をした。

 彼の脳裏にあるのは、あの悪鬼調伏の夜、鬼の首を持ち帰れなかったという悔いだ。

 彼が苦々しく思うあの出来事は、相手の喜ぶことでもある。功名で敵わないと見て『鬼を斬ったが首が盗られるとは情けない』と悪評を立てようとして密かに言い回っているらしい。その効果はさて置いて、侃爾の心を重くするのには成功していた。


 跳ねるように身軽く、侃爾の刀を避け、まんまと鬼の首を掻っ攫った狐面の黒装束は、他に出没したという話はない。

 現れないならそれに越したことはないが、異界を割いて現れたのだからあれは悪霊妖魔の類に違いなく、侃爾と小雛の二人で向かって取り逃がすような手練れが、どこかに居ると思うのはうすら寒い気分を掻き立てた。

 あのとき仕留められていたならばと、侃爾は悔いていたのである。


「嫌がらせ…」

 侃爾の横を黙って歩いていた広亮(ひろと)もまた呟いた。

 広亮の思い返すところは、侃爾とは違う。同じ心当たりがある柚葉、阿弥彦と目配せをして――小雛は真っすぐ前だけを見ていた――三者三様にため息を吐いた。


葭津彦(よしつひこ)か…」

「葭津さん、かなぁ」

「葭津かも…」


 事情を知らない侃爾と瑞女が不思議そうに面々を見回した。

「葭津?橘の葭津彦のことか?」

「何?どうしてそんな名前が出てくるの」


「実はねぇ」

「え…話すの?」

 数日前の出来事を話し出す柚葉に、広亮が小さな声で話してほしくない雰囲気を遠慮がちに示したが、全員に無視されて肩を落とした。彼にとっては知られたくないことが満載の出来事だったので。


 外様(とざま)いびりの標的になってしまったことと、その顛末を語り終わる頃には、聞いた二人ともが合点(がてん)がいったという表情を浮かべていた。

「呆れた。逆恨みではないの。本当に底の浅い男だこと」

「下らない。しかし捕まれば厄介なのは確かだな。おい、広亮。これからはもっと用心しろよ。お前は只でさえ気弱に見えるんだから人気(ひとけ)のない方へ行くな」

「…うん」

 見るからに勝気そうな侃爾は、間違っても苛めの標的になどならない。ため息交じりに頷いた広亮に、瑞女が「ねぇえ?」と猫なで声で迫った。


「その"人気のないところ"でー、しかも夕方にー、広亮と柚葉はなーにをしてたのかしらぁー?」

「え、あの、ちょっと、練習…」

「ふ、た、り、き、り、でー?なんの練習ー?」

「ひぃっ」

 獲物を見つけた猫よろしく、爛々(らんらん)と目を輝かせた瑞女に、広亮は小動物さながらの可憐さで恐れ(おのの)いた。

 引いたその肩をがしっと鷲掴みにして、舌なめずりする猫が「うふふふふふ」と笑った。非常に怖い。


「こんな虫も殺さない顔して隅におけないじゃないのー。うら若き乙女と二人きり、暮れの刻に人気のない庭の隅でなーにをしてたのかしらぁ?さあ、洗い浚い吐いてしまいなさいな!!」

「おい、瑞女。その辺に…」

「あら、侃爾が話し相手になってくれるの?いーわよー?想い人について熱く語ってくれるのよね?」

「……」

「侃爾!?」


 見兼ねて差し伸べられた助けの手は引っ込められた。捕まったが最後、弁が立つ訳でもない侃爾は抵抗も出来ずにとことんまで掘り返されて喋らされると直感してしまったのである。

 ちなみに阿弥彦は賢明にも知らないふりを決め込んでいて、柚葉はなぜだかえへへーと照れ笑いを浮かべていた。


「な、あ、に?」

 邪魔者が消えたのを見計らって、瑞女はにーっこりと微笑った。広亮の背筋を悪寒が駆け上る。

 逃げられない。

「面白い話じゃ、ないよ…。た、ただの短呪(たんじゅ)の練習です…」

「へぇえ?それはまた、どうして侃爾じゃなくて柚葉にー?もしかしてあんた、柚葉のこと」

「そ、そんなんじゃないから!」

「やだやだ、むきになっちゃってー、怪しいー」

「侃爾が、どこかに出かけてて!居なかったから!!」

「!?おい、馬鹿っ!!」

 巻き込まれた侃爾が焦った声を上げる。瑞女の目がきらりと光った。


「へぇえ!侃爾も日暮れに外歩きとは穏やかじゃないわねぇ?あんたってば、小雛という者が居ながら…」

「ば、馬鹿野郎!なんで小雛が出て来る!!」

「あぁらぁ!言っても良いの?」

「なっ、このっ、おまっ!!…今は俺より広亮だろうが!!」

「ええっ!?」

「そういえばそうねぇ。今は広亮ね、侃爾は後でじっくり聞くとして!」

「聞くな!!」

 広亮を生贄に逃げようとした侃爾が逃げ切れずに絡めとられたところで、流石に哀れになってきた阿弥彦が柚葉を向いた。


「で、事実は如何に」

「えー、恥ずかしーい」

「柚葉!?」

「ほほーう?」


 一旦は場の雰囲気に乗った柚葉は、広亮が悲壮な顔をしたのを受けて「冗談ですよぅ」と笑った。

「鬼との戦いを反省して、短呪の特訓を頼まれたんです。あたし、短呪は得意ですから」

 ね、と話を振られて、広亮は溜息を吐いて仕方なく頷いた。


「清め祓うだけじゃ、駄目だと思ったので…。あのときは気を失ってしまったし…何か、出来ることがないかと思って…」

 ああ、とみっつの声が揃った。

 あの戦いは面々にそれぞれの悔いを残しており、それが自分だけではないと知ったための、納得の声だった。


「お前は充分、役に立っていただろう。そんなに己を追い詰めるな」

 ぶっきら棒に言った侃爾に、広亮は力なく(かぶり)を振る。

「僕は…それじゃ足りないんだ」

 声に宿った頑なな色を感じ取って、侃爾が微かに眉を(ひそ)める。

「足りないって、お前な…」

「そうそう、広亮さんはよくやってるって思いますよ!経験を積んでお家に帰るっていう目標にまっしぐらで、成功しなくてもへこたれずにすごく真面目に頑張ってるの、あたしはちゃんと知ってますからね!!流石跡取り候補なだけあります!!」

「ゆ、柚葉…」


 無邪気に拳を握って柚葉が力説した。力付けようとしているのは伝わるが、いくつかの地雷を力いっぱい踏み抜いている。

「…成功しなくてもって、広亮、お前そんなに短呪苦手だったのか。そういや普段使わんな。使えなかったからだったのか」

「広亮、そなた…。いや、人には得手不得手があるのだ。あまり気にはするな。そなたには取り柄があるのだから…少しずつ、で良いのだぞ」

「え、家に帰る!?広亮あなた、外で修行して帰るような家の出だったの?それに跡取り候補!?どういうこと!?」

「うぅ…最悪だ…」


 訊かれたくない話ばかりを、一度に大暴露されて、広亮は恨めし気に柚葉を見た。

「一応、家の事は内緒なんだけど…」

「え、ああ!?ご、御免なさい!!」

 どうやら一切の悪意なく、素で励まそうとしただけのようだった。養殖ではなく天然の失言だったのだと場の全員が理解した。

「聞いちゃいけないことだったのね?」

「うん。ごめんなさい、瑞女。もう聞かないで欲しい」

「そう」

 瞬時にこの件については他言無用との暗黙の了解が成されて、この場は収まった。家の事のついでに、特訓の話も終わりになって、広亮は内心で胸を撫で下ろしたが、柚葉をじとっと見るのはやめられない。


「そういえば、柚葉だってどこか名のある家の出なんでしょう?僕的にはそっちの方が気になるんだけど…」

「え、あー…うちは、そう言っても良いのかなぁ」

 煮え切らない様子でうーんと唸った柚葉は、困った顔で首を傾げた。


「うちは古いって言えば古い家なんだけど、十五年以上前かなぁ、大巫女さまが駆け落ちしちゃったらしくて、今ではだいぶ傾いちゃって若い人で手分けして出稼ぎしてるんですよ」

「は?」

 突然の爆弾発言に、場の空気が一気に吹っ飛んだ。柚葉だけが一人「あたしも実は家に仕送りしててー」などと話を続けている。


「え、ぇええ?大巫女が駆け落ち!?なんでそんな…?」

「それって、良いの?」

 びっくり仰天する広亮と瑞女に、柚葉はえへへと誤魔化すように笑った。

「さあねえ。好きになっちゃったんだろうから仕方ないですねえ」

「それは仕方ないのか…?」

「ええ。だって、うちは火の神さまを祀ってるので、大巫女さまぐらいの力があれば、子どもを残すのは大事なの。なるべく強い血を残さないといけないらしくて、周りが色々と言ってくるので相手を自由に選ぼうと思ったら駆け落ちしかないですし」

「それが通るのか」と怪訝な顔をした侃爾に反して「ああ、そういうことね」と瑞女は理解を示した。


「そりゃ、好きになった人と結ばれたいものねぇ」

「ですよね!!あたしもそう思って、小さいころから大巫女さま凄いなーって思ってたんですよ!!あたしも大巫女さまみたいに好きな方と添いたいなーって」

「分かる!!やっぱりそうよねぇ」


 阿弥彦は『大巫女さまみたいに』駆け落ちだけはしてくれるなよ、とわりあい真剣に思ったが、目を輝かせている乙女ふたり相手に、賢明にも沈黙を守った。


「火乃神…」と呟いて広亮は少しの間押し黙る。

「火の神ってあれか?(かまど)とかの?」

「…違うよ。火之神は、もっとずっと恐るべきものだ。みだりにその名を呼ぶのも許されない」

 ぎょっとした侃爾に、広亮は硬い表情で「これ以上聞かないで。僕も良くは知らないから、話してはいけないことを言うかもしれないし」と釘を刺す。


「火の神を祀るのは、他とは違うのか」

 神に仕えるのは禰宜(ねぎ)の業、神道(しんとう)の術というものであり、柚葉と広亮以外はそちらとは縁がない。それはですね、と言った柚葉の顔に少し苦い物が漂った。


「火の神さまは、温もりと光をくれる反面、他の神様よりも荒ぶる神、それも御力が強い神でもあるので…荒御霊(あらみたま)として(あらわ)れてしまわれたときに、もう一度お鎮めしなくちゃいけないから、力足らずの者には大巫女は務まらないんです―――()き尽くされてしまいますから」


「…でもその家が傾いてるんだよね…?その口ぶりだと、大巫女は未だに不在なんだね?火之神を祀る家はそうそうないのに大丈夫、なの?」

 広亮の声は恐る恐るの調子を帯びた。

「んー…あたしが物心ついたときにはもうこんな感じだったし、案外大丈夫なのかなって」

「…結構緩いんだね…」

 なんとなく肩が落ちた広亮に、柚葉は「いやあそれほどでも」と何故か照れ笑いをした。


「あ、ねえねえ、侃爾さんは?どういう経緯(いきさつ)で払魔師に?」

「俺か?そんな大層な理由はないんだがな」

 気を取り直すように言った柚葉が侃爾に話しを振る。話の流れがこう来るのを予想していた侃爾は、仕方ないなという気分で前置きした。

 最初は皆がみな、お互いに馬が合わないと思っていた所為で、身の上話などしたことがないから、良い機会だと思ったのもある。


「俺に素質があると(うら)で出たとかで、橘の術者が勧誘に来たんだよ。俺は五男だし、うちは代々土着の精霊を敬う家で、家族もそういうのに抵抗がなかったから、反対も出なかった」

「へえ、じゃあ結構長く橘に居るの?」

(とお)を超えてからだから、(しち)年ほど前か。…今の橘じゃ、外から来た者の中では古株になるのか」

 色々と思い返すことがあったのか、複雑な顔になった侃爾は「瑞女は」と話を振った。


「私?私は中流ではあるけれど、貴族の出よ。次女だけれど」

 すたすたと歩を進めながら瑞女はどうでも良さそうにさらっと言ったが、聞いた者は一瞬固まった。

「瑞女さん…お貴族さまだったの!?」

「…え!?はぁあ!?お前、貴族!?」

「あら、そんなに大きな声を出さなくても聞こえているから、少しは周りに配慮なさいな」

 一同の驚きは大きかったが、貴族であると誇るでもなく明かした当の瑞女は涼しい顔だ。


「幼いころから、妙な影を見たり、他には聞こえない声を聴いたりしてね。育っても治らなかったから、お父さまが『これでは嫁にも出せない』と言って橘の術者に相談したのよ。そうしたら、術の扱いを知れば自ずと妙なものも見なくなると丸め込まれてねぇ。私を持て余していたことも手伝って、一も二もなく送り出されたという訳。人生ってよく分からないわよねぇ。私もまさか、占いなんかより実戦の方が性に合うだとか、更には現場に出ることになるだなんて夢にも思わなかったわ」

「…お前な…それで良いのか」

 どこまでもあっさりした瑞女に、侃爾が何とも言えない顔で尋ねた。


「もう力の使い方は分かったろう。ならここに居る理由はない。死ぬやもしれんのに調伏に出続けなくても良いのじゃないのか」

 瑞女は「まぁあ!」と大げさに驚いてみせると、次に淑やかに微笑んで見せた。

「お優しゅうございますのね。わたくし、そのように気遣って頂けるとは思いませんでしたわ。特別扱い痛み入ります侃爾どの(・・・・)!」

「おいやめろ」

 言い知れぬ悪寒がして、侃爾は身震いをした。


「失礼ね。やめるのはあなたの方でしょうに。術者になったそのときから、家の身分は関係なくなるのが決まりでしょう。私だけ特別に、この大変なときに現場を離れるなんて出来るものですか。このお馬鹿。考えなしに私を腑抜けにしないで頂きたいものね」

 不満げに顔をしかめたものの言い返せない侃爾を可笑し気に見て、「それに」と瑞女は首を振る。


「私が何をしてるのか、きっとお父さまもご存じよ。でないと流石に命の危険がある場所になど、出られはしないわ。間違ってお父さまを怒らせでもしたら橘の評判が地に落ちるもの」

 瑞女はほんの少し寂しそうに微笑った。

 現場に出るのを、家族が許可を出した。それは、死んでも構わないと、そう思われているのに他ならない。

 察した仲間たちが黙り込んだのに気付いて、瑞女は「やぁね。そんな顔するものじゃないわ」と笑った。


「私も誰かそのあたりの適当な色白貴族の嫁になって、歌を詠んだり音曲(おんぎょく)を奏でたり大人しくしているように出来てはいないのですもの。逆に渡りに船。なよなよして、何か私が見たり聞いたりしたら"不吉な"とか言うしか能のない軟弱ものより、寧ろ自分で調伏してやる!って気概の、強く逞しくて男前で優しくて金持ちで将来出世しそうな術者や武者を自分で選べるのよ。これは幸運ね!!」

 目を輝かせる瑞女に、柚葉だけは大きく(うなず)いていた。

 男たちは、そんな条件に合う人物が居るものかと思ったが、幸いなことに野望に燃える乙女(狩りをする野獣)を前に沈黙を守る程度の知恵は持っていた。


「小雛はどうなの?」

 黙々と足を進めていた小雛は、自分にお鉢が回ってきて流石に顔を上げた。

 以前であれば、無視を決め込んでいたものだが、仲間との連携に助けられる場面を幾度か経て、時に話を合わせることは大切なのだと学びつつあった。―――面倒ではあったが。


「…家は商家。流行病(はやりやまい)で全滅した。春馬(はるま)さまにお世話になって、術者を志願して橘を紹介して頂いた」

 億劫ながらに口を開き、短く締めくくった小雛は、頭痛を堪えてまた口を引き結んだ。

「春馬って、あの離れに住んでる異人?へえ、あんたあの人に連れてこられたのね」


「春馬さまはお医者さまなんだよ」

 小雛が辛そうなのを察して、事情を知っている柚葉が付け足した。

「小雛ちゃんがお昼に動けないのは流行病が原因で、今も三日に一回は診てもらってるんだよ」

 ね、と振り返った柚葉に肯く。正直言って、今は代わりに喋ってくれるのが有難かった。


「家は商家?だったら、修行を始めたのは橘に来てからということか?」

 小雛はちらりと侃爾を見て肯いた。侃爾は首を捻って怪訝(けげん)な顔をする。

「お前、それはいつからだ?どこで修行していたんだ。俺はお前と班を組むまで名も姿も知らなかったぞ。同年代の修行者なら、情報交換になるべく会うようにしていたんだが」

「………それは――」


 言いかけて小雛は口を噤む。痛みが酷くなって、思わず頭を片手で押さえた。

「おい…」

 驚いた侃爾と柚葉がどうしたのかと問う前に、さっと阿弥彦が小雛に寄ると眉をひそめた。

「頭まで痛むか――皆。もう止せ。流行病が元だというなら、少しでも無理をさせぬ方が良い」

 やや強引に話を切った阿弥彦に、その場の全員が()と返した。


「仕方がない子ねぇ」

 横目で小雛を見遣りながら、瑞女がふんと鼻を鳴らした。

「着いたら精々私か班長の陰にでも隠れていなさいな。病で生気が抜けた不景気な顔なんか見せたら不安がられてしまう。いいこと?あんたの所為で失敗なんかしたら、私たちまであのいけ好かない奴らに色々言われるのだから、病人はすっこんでいるのよ?」

 不機嫌そうに言い切った瑞女に、柚葉は「またまたー」と柔らかく笑った。

「体が辛いなら、お勤めは任せて貰っても良いから無理しないでねって、ちゃんと言えば良いのに瑞女さんったらー」

「お、お黙り!!」


 きゃあきゃあ言い合う女子二人を横目で見つつ、広亮は一人、視線で一人ずつを追いながら指を折った。

「――火之神を祀る(かんなぎ)の血筋の柚葉。土着の精霊に好かれた一族から乗り換えて術者になった侃爾。貴族家の姫君の瑞女。市井の出ながら才がある、陽の光に弱い小雛。僕はあの家の者だし…」

 見事に訳有りばかりである。

 橘の名を持つ阿弥彦。態々(わざわざ)問うまでもなく、彼がこの場にいる経緯(いきさつ)と家中での立場を、班員たちは薄々察してしまっていた。

「班長、貧乏くじを引かされてるみたいですね…」

「………言うな」

 苦労性の班長は、それはそれは深い溜息を吐いた。




「無駄話は終わりだ。もう着く。気を引き締めよ」

 応諾(おうだく)する班員たちと共に、上の空で頷く小雛の胸中は嵐のごとく乱れていた。


――――わたし、私、は。


 ずきずきと脈打つ痛みが思考を妨げる。しかし小雛はいつしか必死になって記憶を手繰っていた。


――――いつ(・・)から、どこで(・・・)修行をしていた…?


 立派な造りの大きな門を粛々と通っても、その答えは全く思い出せなかっ(・・・・・・・・・)()

 修行で身に付けた力、呪符の書き方、調伏後の清めの手順、(いん)の組み方、術の立て方。そのどれを取ってもすらすらと思い出せる。いざ使う段になっても、戸惑うことなく実行できる自信もある。

 だが、いつどこで、どのようにして習得したものか、誰に教わったのかということが、そこだけ切り抜いたかのように全然思い出せないことに気付いて、小雛は戦慄する。

 とろりと粘つくような暑気(しょき)の中だというのに、覚えている限り初めて、小雛は怖気(おぞけ)を震って背筋を寒くした。


――――体の不調の所為。そうに、決まってる。

 一度強く目を閉じて、そう自分に言い聞かせ、無理にも心を切り替えた。


――――私事は後だ。今は、仕事をしなくてはいけない。

 小雛は、逃げるように現実に目を向けた。



中途半端かな、と思いましたがここで切りますすみません(;→д←)

次も幕外話です。

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