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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
78/131

七十 盆 十


 前の足音が止まる。手を引かれて歩いていたオレの足も自然と止まった。

「もう良いぞ」

 繋いでいた手が離されて、オレは(つむ)っていた目をそっと開く。


「ああ…」


 吐息と共に出た声は驚きか、感嘆か、それとももしかしたら怯えだったかもしれない。


 (あやかし)(みち)は、馬で旅して何日もかかる道のりを、これほどまでに近くした。


 目の前にあったのは…あの日、あのとき、付き添いの僧と二人で歩いた峠道。

 どんな巡り合わせか、夕暮れの光まで酷似して、記憶にあるそのままの色を現在に見せた。

 さながら、あの日にもう一度巻き戻ったかのように。


「…戻ってきた…」

 見開いた目が、辺りの景色を映し込む。

 否応なく、ざらざらした記憶(かこ)風景(いま)に重なった。手が震える。

 月が何度も満ちては欠けたというのに、まだあのときの恐怖は、これほどまでに生々しい。


 ざあっと風が駆け抜けて、丈高い草葉の向こうに下の里を垣間見せた。

 あちらに下る道から、あの男たちが上ってきた。


 下卑(げひ)た笑いを浮かべ、刀を手に下げ、哀れな旅人を(ほふ)ろうと…オレを、斬ろうと、刃を―――


「三太朗」

 凛と(とお)る声が、意識を(うつつ)に引き戻した。

 びくりと大きく震えたオレの頭に手を置いて、黒い眼差しが正面から見つめる。

「気を確かに持て。恐ろしいことなど何もないぞ」


 馴染んだ声を耳にして、無条件の信頼が、思考を省いて肩の力を抜かせた。

 師匠の手が軽く頭を叩く。あやすような拍子が、ばくばくと乱れていた動悸を落ち着かせていく。

 やっと瞬きを思い出し、いつの間にかぼやけていた視界が澄む。

 過去の幻影がゆるりと解けて消えた。


「よく見ろ。ただの山道だ」

 逸れた目線に釣られて、ゆるゆると辺りを見回す。

 下への道が見えた途端、ぞわりと背筋が寒くなった――けど、何も起こらない。上がってくる人影はなく、言われた通り、ただの山道だった。


 景色の差違は明らかだ。あの春の、伸び始めの草木が不揃いな山じゃなく、背を競うようにした、伸び伸びと鮮やかな緑を湛えた夏の山だ。

 当たり前だ。あれはもう過ぎ去った過去なのだから。


「――はい、そう、ですね。ただの山道、です」

 ぎこちなく喉が軋むような気がしたけれど、なんとかそう答えると、師匠は最後にぽんともう一度頭を撫でて、その手でオレの手を握った。


「すみません…」

 思わず謝った。ここに来たいと打ち明けたとき、過去の恐怖が蘇ってオレが怯えるのではないかと師匠は危惧し、許可を出し渋った。

 大丈夫だと言い張って許してもらったものの、実際はこの様。それ見たことか、と言われても仕方がない。


「良いさ。思ったより落ち着いているのだし、どうしても来たかったのだろう?」

「思ったより…落ち着いてますか」

 どうやら予想ではもっと酷かったらしい。今でも十分無様なのに、師匠から見たオレってどんな奴なのか…聞きたいような聞くのが怖いような…。


 そのとき、風が乱れるような感じがして、何の変哲もない道に陽炎が立った。


――――路が開く。

 何度か見たことがある妖の路。遠くの場所を近くに繋ぐ不思議の通い路は、さっき自分も通ってきたものだけれど、どういうものだか今もよく分からなかった。


 揺らぎは濃くなり、直ぐに水面(みなも)のように揺らめいて景色を乱した。その中からひとつの影が飛び出す。


「だらっしゃあああ!!」

 飛び出してきた次朗さんが、肩に俵担ぎしていた黒いものを容赦なく投げ落とした。

 ふぐっ、とかなんとか呻いたそれは…次朗さんが案内してくる筈の明然さんだった。

 手拭いで目隠しされていて、受け身もとれずに落っことされていたたと呻いている様子は、何も知らずに見れば完璧に、拉致された人である。

 思わず辺りを見回したが、目撃者は居ないようだ。


「次朗、遅かったな」

「こいつが!路端の茂みに引っ掛かったり!ふらふらよろけたりしまくるし!ダメだっつってんのに目ぇ開けそうになるから無駄に時間食っちまったんだよ!!」

 業を煮やして目隠しをかけ、荷物のように担いで来た、という訳だ。


「乱暴な…」

「だってししょー、あんな調子じゃ日が暮れちまうぜ」

「そもそもあの路で方々(ほうぼう)当たるとは。おおかた気が(はや)ったお前が気遣いを忘れて引き回したんだろう」

「んなこたぁねえ…ような?」

 しらばっくれて頬を掻く次朗さんを、師匠が軽く睨む。

「こら。ただの人相手だと忘れるなと言ったろう。出来ると言うから同行を許したのにもう忘れたか。やはり無理なら今直ぐに帰れ」

「そりゃねーぜししょー!分かったよ!出来る!次はねーよ!」

「本当だな?もう既に二言(にごん)あるが?」

「うぐっ…本気だって!本当、本当!」


 呆れたようにため息を吐く師匠に、子どものように言い訳をする次朗さん。

 場所は違えどいつも通りの光景が繰り広げられて、なんとなく力が抜けた。


「大丈夫ですか?」

「ええ。きみは平気ですか?」

「はい。師匠はオレに怪我させたりしませんから。…次朗さんがすみません」

「いや…」

 明然さんはなぜだかちょっと笑ったようだった。

 ついでに次朗さんが仏頂面で押し黙り、師匠が向こうを向いて含み笑う。

 …なんで?


 とりあえず、目隠しの結び目を解こうと悪戦苦闘している明然さんの手伝いをしなくては。見れば結び目はきつい固結びになっているし、このままでは日が暮れてしまう。

 一歩踏み出そうとしたところで、まだ師匠と手を繋いだままだったことに気付いた。…保護者に手を引かれて、小さな子どものようである。

 おもわず顔に熱が集まる…悪いけど、明然さんが目隠しされてて良かった。






「ここ…です」

 道なりに少しだけ下ったところが、あのときの場所だった。

 砂利が覗く道も、両脇にぼうぼう茂った草に押されて少し細くなっていた。

 新芽の柔らかい黄緑と枯草の褪せた茶色が目立っていた春に代わり、伸び上がった草木が茂って地面を覆い隠し、深い夏色に染まっているのが、夕日の色に塗り替えられていてもわかる。

 様変わりした、けれど見覚えのある道の脇、記憶の中であの僧が倒れた場所のすぐ近くに、土饅頭(どまんじゅう)がひとつ築かれていた。


「ああ、ちゃんと弔ってくれたんだ」

 多分、下の里人だろう。

 ここに墓を作ったのは、遺体を里まで運び下すのが手間だったのか。


「この墓は?きみの縁者ですか」

 訝しげに明然さんが問うた。オレは目を上げず答えた。

「――七明門院(しちめいもんいん)連尹(れんい)さん。オレを迎えに来た人」

「迎えに…?」

 それに軽く頷きながら、墓に眠る人を思い起こす。

 身分が分かるものは身につけていただろうか、はっきり思い出せない。

 どちらにせよ、彼を葬った者は報せを送る先が分からなかったんだろう。遺体を迎えに来る者もなく、気の毒な僧はそこに静かに眠っていたのだ。


 オレは墓の前に懐紙(かいし)を広げ、胡麻団子を置いた。

 三つを三角形に置いた上に、四つ目を乗せる。

 来ると決めたのが今日になってからだったから流石に見映えのする花は用意出来なかった。せめてと、花弁の重なりが少し菊に似ている気がしたので、たんぽぽを摘んできた。

 ささやかなお供え物を並べながら口を開く。

「明然さんには、この人の供養をお願いしたくて来ていただきました…この人にとって、初盆なので。頼むのが今さらになりましたけど、お願いしてもよろしいでしょうか」

 顔を上げたときには、明然さんは察した顔をしていて、何も訊かずに快く承諾してくれた。 




 じゃら、と数珠が二度三度と鳴り、次いで独特な節回しの詠唱が朗々と辺りに響く。

 何を言っているのか全く分からないけれど、不思議と死者の冥福を祈る気持ちは伝わってくる。

 明然さんにとっては見ず知らずの他人なのに、祈りはとても素直で、強い。

 張りのある声もよく透って、祈りは確かに死者に届いている気がした。


――――良かったね。

 心の中で、そっと語りかけた。きっと彼のまっすぐな祈りは、あの僧にも心地いいものだろうから。

 オレも声に寄り添うような気持ちで真摯に手を合わせた。無惨な最期だったけれど、どうか今は安らかにと、心から祈った。


 やがて最後に四度、同じ文言を呟くように繰り返して、読経が終わった。

「…ありがとうございました」

 ひとつ肩の荷が下りたような気持ちがして、お礼は素直に滑り出て行った。

「これが拙僧のお役目。礼には及びません」

 四角四面な定型句を澄ました顔で言った後、明然さんは一転して少し迷うような素振りをした。


「その…そろそろ訊いても良いでしょうか。きみが何故ここに居たのか。なぜ…山へ行くことになったのか」

 横目で窺えば、師匠は静かに沈みゆく夕日を眺めている。次朗さんはなぜか足元をしかめっ面で睨んでいた。

 どちらも特に口を挟む気はないようだ。

 他所の人にも自由に経緯を喋って良いのだと判断して、オレは務めて淡々と口を開いた。


「約束ですしね。まあ、そんなに面白い話じゃないですよ…(いくさ)で父親を亡くして、ちょっと家に居られなくなったんで、出家しようとしてただけ」

 軽くおどけた調子で言いながら、さり気なく視線を外して西の空を見た。

 今は誰とも目を合わせたくなかった。


「出家?」

 驚いたように二つの声が重なって聞こえた。

 そういえば次朗さんにも、話したことはなかったか。

 ひとつ、心を落ち着かせるように大きく息を吸って、オレはあくまで静かに、家を出ることになった経緯(いきさつ)と、ここまでの道のりを語った。


 思い返せば、流れが速い川を下るように、状況に流されてきた。

 何も出来なかった悔しさはある。だけど、抗う前から自分には何もできないことをどこかで分かっていたから、今思えば本気で抵抗したとは思えなかった。

 抵抗してみながらも裏で諦めていたあの頃の自分は、一体どんな心算(つもり)でいたんだろう。


 諾々(だくだく)と従うのが気に入らなくて、自分は反対だと意思表示したかったのは確かだ。現状を何とかする力がないのを知っていたけれども、誰かに伝えればひょっとして味方になってくれるんじゃないかと思っていたような気がする。

 いつだって事態を動かしていくのは大人で、子どものオレがどれだけ一生懸命考えて、必死に行動したって、彼らはひとつも取り合ってくれないから、自分だけで事態を動かすのを最初から諦めた。


 オレが嫌だと言ったって次の当主にと言い張った輩が居たように、それを迎え撃つ四の方さまだってオレの意見なんか無視だった。だから―――早く大人になりたかった。

 そうしたら彼らと対等に向かい合って、言葉には同じだけの重さが宿ると信じていたのだ。


 話し終わるころには、オレは自分の両手を見下ろしていた。

 いつだって、余りに頼りなく小さい、弱々しいこの両手。欲しいものも大事なものも全部取りこぼしてしまう。


「…大変だったのですね」

 やがて聞こえてきたのはありきたりの言い回しだったけど、薄っぺらくは聞こえなかった。

 ありったけの気遣いと、自分のことのように憂う心が沁みるからだろう。


「確かに、まあまあ簡単じゃあなかったかな」

 顔を上げないまま、そう(うそぶ)いた。

「でもちゃんと生きてるし、今は目標もあるんで、あのお蔭で師匠にお会いできたんだから結果を見れば却って良かったかもしれません」

「そう、ですか…」

 安堵するような、残念なような、複雑な感情(こころ)で口籠った明然さんをちらっと見た。

 彼の感情はすごく読み易かった。

 高遠師匠と比べてしまうからそう思うのかもしれないけど。


――――…って、師匠はなんで嬉しそうなんだ?

 よく見ればほっこりと微笑んでいるし、珍しく明らかな喜びがこちらに向かって流れて来る。

――――もしかして『あのお蔭で師匠にお会いできたんだから』とか言ったからだろうか。


 思い当たった途端、今まで平気だったことが急に恥ずかしくなってきて、オレはそっぽを向いて赤面を隠した。

 他の方が居る前で、『師匠に会えてほんとに良かった!』とか知らずに言ってしまったのに(ようや)く気付いたのだった。もう五つぐらい年下だったら無邪気に言えただろうけど、もうこの歳になると無理だ。背中の辺りがむず痒い。


「…ずびっ」

 そして、隣の次朗さんはなんでかさめざめと泣いていた。小さい声で「よかったなぁ」と繰り返しながら非常に感極まっていらっしゃる。

 あれか、大変な想いをした末に師匠に拾われたオレの話に感情移入しすぎたのか。

 ここで一緒に感動して、『次朗さんオレのために泣いてくれてありがとう!』みたいな気分になれれば良かったのかもしれないが、生憎(あいにく)オレは大体に於いて感情を(たかぶ)らせた人の傍に居ると逆に冷める性質(たち)なので、正直今傍に寄りたくない。

 お蔭で恥ずかしさは紛れたけれど…あ、やめて。その興奮具合でその目線、その感情の具合ってことは…。


 数多(あまた)の予想。たったひとつの直感。理由はないが確信をもって、これから身に起こる不幸を予見する。

――――抱きつきに来る…!

 オレは密かに察知して身構えた。次朗さんとはいえ、何が悲しくてこの暑い中、暑苦しく興奮したでかい図体した男に抱きしめられなくちゃいけないんだ。

 断じて御免被る。


 じり、と次朗さんの重心が前に傾く。

 オレはそちらを見ず、さり気なく腰を落とした。

 つ…、と次朗さんの腕が僅かに上がる。

 オレはいつでも(たい)を抜けるよう、軽くつま先に重心を移す。


 師匠が助けてくれはしないかと、オレは必死の想いで目線を送ったが――

――――滅茶苦茶微笑ましく見守ってらっしゃる!!


 (はた)から見たらほとんど姿勢も変わっていない分かりにくい臨戦態勢に、師匠はちゃんと気付いている。だが、師匠からは弟子たちが仲良くじゃれようとしてるようにしか見えないんだと直感した。

 助けはない。間合いが恐ろしく広く経験の上でも分が悪い相手に、己の力だけで逃げ切らねば待っているのは野郎の抱擁という絶望的な戦いが今始まろうとしている。

 次朗さんのつま先が僅かに進み、オレの(かかと)が地を擦る。両者動きだそうとしたまさにそのとき


「では、お父君の供養に寺に入る気は、ないのですか」

 空気を読まない声がした。

 何やら考え込んでいた明然さんが苦悩の表情で口を挟んだのである。

「あ、ないです。」

 次朗さんの警戒に忙しかったオレは何か考える前に返事をしてしまった。


「なぜでしょう。きみははじめ、出家して学問を修めたいと思っていたのでしょう?それは家のため、将来帰るためではなかったのか」

「もちろん、そうですよ。でももう出家とか無理なんで」

 隙を窺う次朗さんが、オレに何か言いかけるのを制して先に言った。

「強いる心算はありませんが…無理ではありませんよ。今ならまだ間に合うのを知っておいて欲しい。家に帰りたいなら、少し考える必要があるのではありませんか」

 視界の隅で次朗さんが片手を伸ばしてくるのを、明然さんに向き合う動きですっと避ける。

「その通りだと知ってますけど、する心算はないんです」

「何故です…」

 更に説明を求める気持ちは分かるが、正直いい加減にしろよと思う。機を逸したのにまだ諦めきれないのか、背後で様子を見ている次朗さんも同じくだ。


 次朗さんに気を付けながら明然さんに返事をするのはとても難しかった。

 前に館の書庫で見つけた兵法書に『多方面に戦線を張るのは下策』とあったのを思い出した。確かに、一方に集中して対処できないと両方ともの対処が雑になるし、自分に余裕がなくなるのを実感した。

 二兎を追う者は一兎をも得ず。いや、虻蜂(あぶはち)取らずかこの場合。

 こんな状態が長く続けば失敗し兼ねない。状況の打破は急務だ。


――――…っていうかなんでオレこんなとこで戦ってるんだよ!!

 (ようや)く気付いて自分に突っ込んだ。墓参りに来て何をしてる。オレ。

 我に返ってどっと疲れた。なんて馬鹿馬鹿しい。くるりと背後を振り返る。

 そっと忍び寄ろうとしていた兄弟子がぎくっと中途半端な恰好で固まった。


「次朗さん!話の邪魔したら真面目に怒りますよ!!」

「お、おお!?べ、べつに邪魔とかそんなんじゃねーし…」

「そうですか。だったら良いんですけど覚えといてくださいね!」

 返事を待たずに明然さんに向き直る。

 長期戦を嫌うなら短期決戦を仕掛けるべき。

 短期決戦には最初に大火力での一撃で先鋒を打ち破るのが定石(じょうせき)

 オレは一気に片付ける心算で目に力を込めてにらみ上げた。


「前から言おうと思ってたんですけど、オレが出家するのはあり得ません!」

 食い下がる隙を与えないようにきっぱりと言い切る。

「何故…」

「なぜって?そりゃ仏がオレを見捨てたからですよ」

 何事か言おうとする前に言葉をつなぐ。


「オレだけじゃない。この墓のお坊さまだってそうです。オレたちはずっと祈っていたのに仏は慈悲を垂れてくださることはなかった。可哀相にこの方は題目を唱えながら殺されました。思えば小さいころから信心を説かれて来たからずっと疑ってませんでしたけど、そもそも居るか居ないかわかんないものですし、今はなんであなたがそんなに熱心に信じられるのかほんとに不思議だ。どうしてなんです?」

 明然さんは狼狽(ろうばい)しながらも言葉を探した。


「そのように言ってはなりません。御仏(みほとけ)の慈悲を信ずることこそ、解脱へ続く道なのです」

「信じるだけで良いってよく聞きますけど、本当?」

「ええ、一心に題目を念じ、仏の慈悲にお縋りするのみです」

「へえ、じゃあオレも仏を信じるだけにして、この人みたいに死ねば良かったと?」

 墓を示してやれば、どこか刺されたような顔になる。しかし手加減してやる気はなかった。


「そんなことは。現にきみは生きています。御仏の(おぼ)()しでしょう」

「なんでも思し召しって言いますよね。良いことが起これば御仏のお蔭。それが天狗の師匠がオレを助けてくれたことだって御仏のお蔭だって?何でもかんでも節操なさ過ぎやしませんか」

 あまりの言いように絶句する明然さんを前に、いつしか波立っていた心のままにオレは苛立ちを吐き捨てた。


「オレを助けてくれたのは師匠で、仏さまなんかじゃなかった。あなたは仏を信じろって言うけど、今まで信じて一度も助けてくれたことなんかない」

 だから、と言ってオレは笑ってやった。

「もう一度信じて欲しかったら、この山道で襲われた日にオレを助けてよ」

 無理難題この上ない。一昨日来やがれと言ったのが分かったのか、明然さんは目を見開いた。


「師匠も山の方たちも、オレの意見を聞いて、望むことを大事にして、オレの良いように考えて親身になってくれる。人は変な色したオレを勝手に決めつけて、子どものオレは言いなりになれば良いって自分の都合を押し付けてばっかりだ。父上も兄上たちも人に取られた。オレを家から追い出したのも妖怪なんかじゃなくて勿論人。後ろ指さして、化け物だって言って、斬り殺そうとしたのだってそう」

 言い並べれば段々と落ち着いていく自分が不思議だ。

 喋りながら、考えが整理されていく。そうして出来上がったものから、すとんとひとつの結論が胸に落ちた。


「人なんか嫌いだ」


 言って、清々した。

 考えるのが悪いことのように思えてずっと目を背けてきたけどこれが、紛れもない本音だった。

 多分ずっと前から、形を取らないまま心の奥底にあった本心。

「なっ…」

「人なんか嫌いだ。居ても態々(わざわざ)何かしようとは思わないけど、関わりたくない。人里に戻るなんて真っ平御免だ。例え白鳴山を追い出されたって、人のところへ戻るぐらいなら何処かの山で一生引き籠って暮らす。野垂れ死んだって構わない。それで本望」

 歌うように言えば、どんどん心が軽くなる。もうオレを縛るものはなかった。


「追い出すことなどあり得ない。そんな心配をしていたのか?」

 不快気に呟く師匠の横で、次朗さんが大きく肯いている。それが何だかとても愉快だ。

「最初の何日かだけですよ。今はそんな心配してません。…ほんとですよ?」

「そうか。なら良い」

 師匠は奥さんが仏教徒なのを尊重して仏式の供養をしている上に、人贔屓(ひとびいき)なのを思い出した。随分なことを言ったのに、オレの心配だけをしてくれているのが師匠らしいと、そう思えるのが愉快なのだと気付く。


「待て、少し落ち着きなさい!」

 切羽詰まった様子で肩を掴む明然さんを見上げる。オレよりよっぽど平静を失っている。

「きみは、人ですよ?ご両親も、ご兄弟も人です!そんな、罰当たりなことを」

「両親も兄弟も好きですよ」

 必死な顔にあっけらかんと言ってやった。


「でも人は嫌いです。オレの大事な人以外は。もしかしたらこれから増えるかもしれないけど、でも今は他全部の人が嫌いです。知り合い以外、どうでもいいし、どうなっても構わない」

「…そんな、乱暴な。知らぬ者が皆同じくきみが嫌うような者ではないのですよ」

「知ってます。でも嫌いです。犬が嫌いな人にも言ってやったらどうです?『あなたが嫌うような犬ばかりではない』って」

「犬…。犬と人は違う」

「そうですね。姿形が違うし、声も違うし、何より犬の方が可愛いですね」

「真面目に答えなさい!」

 ついに怒ったな。とは思ったけど、実際追い詰められたのは相手の方だと分かっていたから、全く怖いとは思わなかった。


「真面目ですよ。今みたいに言えば殆どの人は同じように怒るってオレも知ってる。だけどオレにはそこが嫌だ。人は犬より上だって思ってるから、犬と一緒にされたら怒るんでしょう?他の生きものより人が上って誰が決めたんです?あなたが信じてる仏さまは犬と人を区別して対応を変えるんですか?」

 明然さんは呆然と動きを止めた。

「自分と他を比べて、自分の方が上だって思ってるのが嫌いです。あなたもそう。オレのことを可哀相な子どもだと思ってて、自分が上で、オレが間違ってる方に行こうとしてて、自分は正しいから、自分の方に導いてやらなきゃって思ってるでしょう。他の人に訊いたらあなたは良い人だってみんな言うんでしょう。でも、」


 一拍置いて、息を吸った。

「自分勝手にオレを間違ってるって決めつけるなよ!!」


 随分高い位置にある目を真っすぐ見る。

 言いたかったことを全部吐き出して、後は反応を待つばかり。

 逆上してオレを責めるか、まだ粘って説得しようとする恐れも確かにあったが、あまり考えなかった。

 背後に保護者を置いて汚いかと、今更ながらに思ったけど、でもきっとそんなのは関係なく、この人はもう悪足掻きはしない気がした。

 勘だ。


 夕日の最後の光が西に消えた。

 東から薄青の(しゃ)がかかる。

 時間をかけて色んなことを飲み込んで、明然さんはゆっくりと肩を落とした。


「…御仏の教えに、一切衆生(いっさいしゅじょう)に仏性ありというものがあります」

 何かを吹っ切るように大きく息を吐いて、お坊さまは静かに言った。

「これに言う一切衆生とは、生きとし生けるものの全て、との意。犬も人も、鳥も魚も虫も平等と…。御仏の慈悲は(あまね)く平等なのです。それは、誤解なきよう」

「そう…。覚えときますよ」

 オレに向いた苦笑は、さっぱりしていた。


「拙僧が間違っていました。お許しあれ」

「うん。確かに謝ってもらったから、もう良いよ」

 二人してちょっと笑った。嫌いだったけど、"普通"ぐらいに格上げしても良いかもしれない。


「実はね、知ってました。一切衆生って。たったの五日だったけど、この人は色んなことを話してくれた」

 物言わぬ墓を見る。最初はオレのことを気味悪がっていたけど、その内義務感からか様々なことを教えてくれようとした。

 彼も良い人だった。

「そうですか…。きみはまだ若いというのに、教わったことをきちんと身に付けているとは大したものだ。人は惜しい人材を逃したやもしれませんね」

 最後は穏やかに師匠たちの方へ言った。…お二方とも、そこで笑顔で大きく頷かないでください。親馬鹿がばれます。


「人の元へ戻らないのは得心いきました。ですが、天狗になりたいのは何故でしょう。…よもや、追い出した義理の母御に恨みなどあるならば、少し道を説かねばなりませんが」

 オレはきょとんと見返した。

 思ってもみないことを聞いて驚いた。


「説教も説法も要りませんよ。オレは四の方さまを恨んだりしてない。そんな理由はないんです」

 そうだなぁ、と少し記憶を(さかのぼ)って、納得がいく説明を探した。

「オレが出家したい、って言った七日後にお迎えが来ました。でも七明門院は遠くて、行くには舟やら旅車(たびぐるま)を使っても半月かかります。川を遡らなきゃいけないから、来るにはもっとかかります。文を出して迎えを寄越してもらうなら、もっとずっと時間がかかったはずなんです」

 気付いたのは、家を遠く離れてからだったな、と切なく思い出す。

 せめて出立より前なら、ちゃんと話ができたのに。


「迎えを呼んだのは四の方さまでした。だとしたら四の方さま…義母(はは)は多分、オレが言い出すもっと前に、兄上を寺に預けようって決めてたんだと思います」

 二人揃っていて家が割れるなら、片方を遠ざけるしかない。

 家督を弟に譲って、我が子を外へ出す。その胸中は如何ばかりか。


「オレを排除して家長に兄上を据えるのは出来ないことじゃない。でもそれが嫌だったんだと思います。だから、自分が身の振り方を決められる方を、兄上を家から出そうとしたんだ。義母上も家族と争いたくなんかなかったんです。…あの人は、オレの知ってる義母上は優しい人だったもの」

 物静かで、教養深い女性を思い出す。

 外で遊んで汚れて帰ると眉を顰める人だったけれど、手習いを上手にできたら微笑んで褒めてくれたし、ときには手招きして『秘密ね』と言ってお菓子をくれたこともあった。


「大っぴらに皆に言えれば良かったけれど、そうすると、兄上に付いた人たちが反対するでしょう。邪魔をして、ひょっとしたら焦った誰かがオレや妹や母上に何かするかもしれない。だから、ぎりぎりまで秘密にしてるしかなかったと思うんです」

 もしかしたら見当違いなのかもしれない。それを確かめる(すべ)はない。人の心は複雑で、混乱しきったあのときのオレは、ちゃんと周りの人たちを読み解くことが出来なかった。だけど、きっとこれが真実なんだと思っている。

 あの人はあの人なりに、家の…いや、オレや兄上に一番良い道を探っていたんだ。

 当たり前だ。

 あの人もオレの母だから。


「オレを想ってくれてたのが分かるから、家族を恨んだりしません。周りの人たちも…優しい人もちゃんといましたから」

 辛いことも多かったが、そればかりじゃなかった。

 兄と一緒に遊んだ里の子どもたちは、白茶けた頭をからかったりしたけれど、遊ぶときにはそんなことより足が速いかとか独楽を回すのが上手いかどうかの方が大事だった。

 オレが生まれる前から家に仕えている女中さんには、ただの子どもと同じように見てくれる人がいた。

 (うまや)番のお爺さんは、皆に半分法螺(ほら)の武勇伝を面白おかしく聞かせるのが大好きで、上手くねだれば特別な裏話を付け足してくれた。

 警備の家人に、手伝いに里から通ってくる姉やに、一の方さまの話友達の小母さん連中。

 オレに向いた白い目が、隠れてこそこそしないといけない程度には、温かい眼差しは多かった。


 鼻先がつんとしたのを気のせいにして、「そんな訳で」と言ってにっと笑った。

「天狗になって仕返しする気はありません。表立って家に帰れなくても、天狗になったら陰ながらでも家を守れるかなって思っただけ。ほら、雨を降らせたり、風を吹かせたりね。それに…」

 さすがにちょっと迷った。

 だけど、ただじっと耳を傾ける明然さんは、ちゃんと受け止めてくれる気がしたから、迷いは長く続かなかった。


「…もう、無力は嫌だから」


 りぃりぃと、虫が(くさむら)で鳴いている。

 口に出せば照れて落ち着かないのを誤魔化してそちらに目を向けた。もう昼の名残は消えかけていて、太り始めた月の光が薄明るい。


「…そうですか」

 ふっとため息を吐いた明然さんは「聞けて良かった」と笑った。

「納得行きました。無理を言って申し訳なかった。」

「もう下山に誘ってこないなら良いですよ」

 澄まし顔を冗談ととったか彼は笑った。




「さて、もう良いか」

 話の邪魔にならないように下がって静かに聞いていた師匠が一歩寄る。

「そろそろ次に行かねば夕餉が遅くなるぞ」

「あ、はい!すみません」

「次?」

 はいと頷いて、脚絆(きゃはん)の巻きを気にする明然さんに急いで言った。


「次のは明然さんは付き合わなくて良いんで、次朗さんと一緒に帰っててください」

 途端に次朗さんが「けっ」と言いながら不機嫌そうにそっぽを向いた。次朗さんは仲間外れが嫌いなのだ。最初から約束していたから、文句を言うことはないけど。

「どちらに行かれる?」

 明然さんは師匠とオレを見比べて、(いぶか)し気に首を傾げた。


「父の墓参りに。初盆くらいは行きたかったから」

 明然さんは一瞬目を見開いたが、師匠を見て何か納得したのか、なるほどと頷いた。


「…話す機会がまたあるか分からぬから訊きますが、最後に、きみの姓名(なまえ)をお訊きしたい」

 代わりに言ったのはそんなこと。

 眉を吊り上げて一歩踏み出した次朗さんを止めたのは、名前を問うのが妖にとってどんなことか理解している風だったから。

 オレは師匠をちらっと窺ってちょっと笑った。


「オレの名前は"三太朗"です!」




















 墓地は、夜闇が下りて暗かった。

 夜の墓場に来ようと思う日が来るなんて、前は考えられないことだった。

 何か恐ろしいことが起きるに違いないと夜闇を恐れていたけれど、今は全く怖くない。

 お化けが出たって師匠が守ってくれると知っているからである。

 いつもの顔をしてついてくれている師匠を頼もしく見て、オレは墓地の奥に進んだ。


 前当主と跡取りの初盆を盛大に供養したのか、日差しの残りに大輪の菊が白く浮かび上がる。

 束になった線香の先が赤く(くすぶ)って、人の気配は色濃いというのに、天狗の術か偶然か、墓場は人影ひとつなく静まり返っていた。

 花の隣に、干し柿を五つ数えて置く。

 ちょっと考えてもうふたつ奮発した。


「…ただいま戻りました。父上。兄上」

 応えはないのは分かっているけど、少し耳を澄ましてしまうのに苦笑した。妖怪が居るのに幽霊はいない訳がないとちょっと思ったのは秘密だ。そんなことを考えたと知れば師匠が気を悪くするかもしれない。


 黙って手を合わせる。

 様々なことが頭を過ったような気がしたけど、言葉になって浮かんでくるものは何ひとつなかった。


「――父が言ってたことがあるんです」

「何だ」

 しゃがみ込んだまま、顔を上げずに呟けば、数歩後ろから静かな声が返った。


「オレが他人と違うのは、生まれ持ったものだから仕方がない――」

 もう四年か五年も前だというのに、語る父上のどこか不敵に笑った顔と、無駄に自信たっぷりな声がありありと浮かんだ。

「だからオレは――」

『だからお前は――』

 そこで勿体つけるように一拍置くのだ。

「『ひとかどの人物になれ』って」

 さも名案だと言わんばかりに得意げに胸を張って、にっと笑っていたっけ。


「『誰にも(あなど)られることがないような、立派な人物になれ。周りのことなど気にせず直向(ひたむ)きに励め。努力するお前を(そし)る者などそちらが愚者だ。相手をする価値などない。どうすればなれるのか分からぬだと?なに、心配するな。この父が手本になってやろう!』って」

 一言一句間違えずに思い出して、自然と笑顔になっていた。


 確か、馬鹿にされたか(いじ)められただかでべそをかいていた小さなオレを膝に乗せ、びっくりした顔を見下ろして、父上は大きな声でがははと笑ったのだ。


「それからですね。頑張って勉強するようになったのは。見た目はもう仕方がないから、振る舞いにけちを付けられないように作法を覚えて、必死に文字を覚えて、計算も地理も歴史も頑張って。苦じゃなかったですよ。出来るようになればなるほど、父上がたくさん褒めてくれたから」

 あの頃のオレは『流石(わし)の息子だ!』と言ってもらえるのが何より嬉しかった。

 ひとかどの人物が何かなんて分からなかったけど、親が喜んでくれるだけでオレは希望を持っていられた。


「父上も母上たちも、オレを特別扱いはしなかったですよ。でも、他の兄姉たちと同じく人一倍頑張ったら目一杯褒めてくれました。他所の人に話すときだって、兄姉と同じように名前を出して、話を聞いてるだけじゃ普通の子どもだって思えるような話し方で。みんなも段々、見方が変わっていくんです」

 いつしかオレと兄姉を差別しない人が増えていったのは、父上たちのお蔭だった。


「成程。理にかなっているな」

 込み上げたものに息を詰まらせた間を、師匠が繋いだ。

「外見など、慣れれば気にならぬものだ。中身が好ましければ問題にもなるまい」

 ええ、と頷いて、笑うように息を吐く。


「だから今日、明然さんが同じようなこと言ってきたときに、実はちょっとどきっとしました。お坊さまだから父上の声が聞こえるのかな。とか馬鹿なことを思ったりして」

「…そうか」

 三太朗、と呼ぶ声は、僅かに躊躇(ためら)いがあった。


「帰りたいか」


 思わず振り返った。師匠は数歩離れたところから、いつものようにまっすぐ目を向けて来る。

 弟子にしてもらってから師匠は一度も、オレが山を出ることや、出たいかどうかなんて訊いたことはなかった。白鳴山に居るのが当たり前で、その他に選ぶ道などないかのように。


 オレは真っすぐ見返して、微笑みながら頷いた。

「はい。勿論帰りたいです。――でも帰るのは今じゃない。"ひとかどの"天狗になってから、家を守りに帰ります」

 師匠は少し目を細めて、そうかと呟いた。


「では、遅くならぬ内に戻ろう」

「はい。師匠」


 師匠について歩き出すその前に、墓に一礼して、下に広がる故郷を見渡した。


「―――さよなら」

 別れの言葉をそっと呟く。

 もう当分は、ここに帰ることはないだろう。
































 ざざざ、と背の高い草の合間を駆け抜けて、漸くたどり着いた木の根元を蹴って枝に駆け上った。

「ぎゃぁあああ!!」

 背後でまたひとつ、仲間の悲鳴がして、何かが地面に落ちる重い音を耳が拾った。


 男はひっ、と喉の奥を鳴らしながら、いっそう足を速めて木の上を跳び渡る。

 みな樹上の移動であればどんな種族にだろうと負けない自信があったのに、またもうひとつ金切り声がして、背後の気配が減った。


 霊山の主が留守らしいと聞いて、近くまで行ってみようと言う話になったあのとき、乗った自身を呪う。

 警戒が厳しくて、今まで天狗の縄張りに入れた機会はごく僅か。それも奥まで進んだためしはなかったから、情報に飢えていたのだ。

 こんなに長い間山の近くに潜みながらも、守りにどんな術を使っているのかさえもわからぬという焦りがあったというのは言い訳にもならない。


――――(おさ)は乗り気ではなかったのに。

 一族で一番の知恵者。彼らの尊敬する長が渋ったのに、押し切ったのは自分たちだった。

 膠着した状態でただ山を窺い続けるのに耐えられなくなったとはいえ、なんて馬鹿なことをしたものか。

 彼の頭を後悔が支配する。

 いつもは頭上を満遍なく飛び回っている鷲が、極端に山の近くしか飛ばないのに機を見て、今ならいけると浅知恵に任せた結果がこれ。

 正体の分からぬ追手にひとりずつ削られながら、命からがら全力で逃げている。


「おい、このまま帰る訳にはいかねえ!」

 仲間の声がひとつして、彼は青ざめた顔でそちらを見る。

「ああ、撒かねば帰れん」

「固まってちゃじり貧だ」

「別れて逃げよう」

「誰でも構わん。逃げ切って報告を」

「ああ…行くぞ!!」


 合図を聞いて散開する。

 同時に二つの声が甲高い悲鳴を上げた。


 ああ、と彼は泣きそうな顔で嘆いた。自分たちは確かに武闘派ではないが、その代わり足の速い者が選りすぐられている。なのに敵は易々と追いついてきて、遊ぶようにひとりずつ減らしていくのだ。こんな輩を従えている天狗に、束になっても勝てるのか?


 どこか遠くで、また悲鳴が上がったのが聞こえた。次は自分かもしれない、と絶望を覚えたそのとき、灼熱の痛みが脚を切り裂いた。


「ぎゃああああ!!」

 思い切り叫びながら落ちていく。その僅かの間に彼は見た。

 いつの間にか濃霧が後ろに迫っていて、その白の中にいくつもの影が蠢いている。


 得体のしれない影のひとつが腕を伸ばし、鞭のように振るう。

 ひょう、と幽かな音がして、落ちる男の腕が半ばまで断ち切れる。

「――あああああ!!」

 目の前が白く黒く赤くちかちかする。

 全身が叩きつけられる衝撃に息が詰まって、途切れかけた意識が繋がる。地面に達したのだとかろうじて分かった。自分の血飛沫が飛び散る。


 けらけら、と童子が何人も集って嗤うようなさざめきが、微かにあがる。

 霧に呑まれた白い闇の中、痛みにのたうつ男を囲んで影が笑っていた。


――――死ぬのだ。

 黒い不定形の影が腕を振り上げて、男はただ呻いた。

――――…長。




 どん、と全身を打つような衝撃がした。

 目の前が真っ白に染まり、幾多のかそけき悲鳴が長く尾を引く。


「……え?」

 傷の痛みも忘れて、男はぽかんと口を開けた。

 霧が晴れていた。

 いや、見れば周りの林の木は白く霞んで、向こうに行くほどぼやけて消える。ぽかりとこの場だけ、穴が開くように霧が消えているのだ。


「ふぅう」

 倒れた男の数歩向こうで、大柄な人影がむくりと身を起こしてはじめて、人が居るのに気づかなかった。

 筋骨は隆々と逞しく、手には反りのきつい大太刀を構えて、黒っぽい衣を着ている。


 ざわ、と霧が蠢く。その中にはやはり幾つも影が浮沈する。

 じわじわと白いもやが這い進み、穴を狭めてきつつあった。

 大男がそれに気づいて不敵に笑うのが見えた。獰猛な獣が歯を剥いたような笑み。


「―――…、――、―……!」


 動転した耳が拾った音は言葉に聞こえなかった。だが、それを奇妙に思う間もなく、男は瞠目する。

 きぃん、と薄い金物を触れ合わせたような涼やかな音と共に、反り刃が真白く輝く。

「かああ!!!」

 気合の声を上げて、大男が(やいば)を振り下ろした。


 白い光が炸裂し、視界が真っ白に染まって、また衝撃が身を通り過ぎる。

 思わず閉じた目を恐る恐る開ける頃には、辺りは静まり返っていた。


 暮れたばかりの暗い林に、白い霧はひとかけらも残っていなかった。


「――助かった…?」

 男は身に起きたことを信じられずに呟いた。逃げるしかなかった絶望の権化は残らず消え去って、自分は生きているという現実に頭が追いつかない。

 大男が声に反応してこちらを向く。

 倒れこんだ男を見ながらきびきびと背負った鞘に刀納め、懐から白い手拭いを出して歩きながら頭に巻く。


「…なんであねさん被り?」

 近寄って来た恩人を見上げながら、言わずには居れなかった。

 じろりとその鋭い目を向けられるに至って、はっと身を固くした。妖を狩ったこの男は仲間ではない。あの天狗の手下でもなさそうだが、味方である保証はないのだ。

 更には恐らく、この男は()だ。妖物の(ことごと)くを目の敵にしている、排他的な種族。

 どういうつもりで横槍を入れたのかは知れず、次あの刃が食い込むのは自分かもしれなかった。


 脚を切られて逃げられず、切られた腕は段々と感覚が遠い。

 どうすることも出来ずにただ恐々として相手を窺う。

 男の命運を手に、大男は眼光鋭いままにゆっくりと口を開いた。


「―――コニ、チワ」

「…は?」

 虚を突かれて、何を言われたのか分からないままぽかんとする。不機嫌そうに顔をしかめて、相手は苛立たし気に腕組みをした。


「ココ、ワ、ドコデスカ」


 混乱したままにしては奇跡的に、聞き取るのに成功した。(すなわ)ち『此処は何処ですか』と。

「…道に迷いなすったんで?」


 言語に不自由らしい相手に、根気強く聞き出すことしばし。

 残念ながらそういうことらしかった。





















「「あ」」

 二羽は同時に身動(みじろ)ぎした。

 揃った動きでお互いに目を見交わして、座っていた枝に立ち上がる。


影魔(えいま)が減った」

「魚が合流した」

「群れの方に帰るみたいだ」

「印はばれてないな」

「あいつら、組むかな?」

「お師匠に報告だ」


 頷き合って、闇色の翼で月夜に舞い上がった。



お盆のお話終了です。

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