六十九 盆 九
明然は一心不乱に小道を急いでいた。
館の屋根が木々の隙間から見えたころに突然聞こえはじめた声を辿って。
『うぉおおりゃああああああ!!!』
何がどうなってああなっているのかは知らないが、叫んでいるのは先ほど取り乱して走り去った件の少年だと思われた。
どうなるかは分からずとも、もう一度会わねばならない。いや、会いたい。
拒絶の言葉しか貰えないのであっても、それはそれとしてひとつの結果だ。少なくとも言われた意味がわかるという点では今現在より百倍はましだ。
実のところ明然はどうして少年が混乱して駆け去ったのかがさっぱり分からなかった。
自分との会話が原因だろうから漠然と自分が悪いのではないか、と想像しているが、そんなどっちつかずの状態は明然の厭うところのど真ん中。
それはもう我慢ができないほどの嫌さ加減なのである。
『お前が悪い!』と言われれば『はいすみません!』と土下座もできる。『ここが悪い!』と言われれば『申し訳ない!』と改めることもできる。だが、『あなたが正しい』と言って返ってきたのが『何で今さら』と『嫌だ』だったのだ。なんだそれは。
明然は、正しいと言われて嫌だと言うその心など全く想像もつかなかった。何が不味かったのかが分からないのが焦りと困惑を呼ぶ。
こんなふわふわと宙に浮いたような不安定な状態など、気持ちがそわそわと落ち着かない。すぱんと白黒つけて、正しい方向を見定めてしまいたいが、その答えはあの少年しか持っていないのだ。
彼が心配なのと相まって、明然はいっそう足を速める。
「…また、カラスか…!!」
緑の隙間に見え隠れする黒が増えて、探し人がこの先に居ると確信する。
あの少年は黒い翼に守られている。
今朝の今で、多くのカラスと相対するのは勘弁願いたいが行くしかないと、明然は悲痛な覚悟を決める。
大事な子どもをあんな風にしてしまったのだから、今度こそ襲われるかもしれない――と考えたところで気が付いた。
――――はて、あの場にも確か、多くのカラスがいた筈だが…。
周りを囲んで、一部始終をじっと見ていた多くの目があった。
なのに、少年が走り去ったあとも明然に手出しをしようとはしなかった。嵐の前の静けさかそれとも―――
――――まさか、カラスの意思に沿うていた?
大事な子どもを混乱させることが?
そんな馬鹿な、と即座に否定しつつも、異様な予感がそこにはあった。
――――まさかな。ただの鳥がそのような深い考えを…というか意味不明だ。罵るのは駄目で錯乱させるのは良いのか?
カラスの判断基準は語調の荒さだろう。
自分はあのとき穏やかさを心がけて話していた。内容を理解できていなカラスたちは、少年の動揺が明然に原因があると判断できなかったに違いない。だから襲われなかったのだと理屈をつけ、結論して、明然は予感を振り払う。
今は進むことだけに集中したかった。
『たぁあああああああ!!!』
何をしているのか、大声はまだまだ続いている。
今は行く方向に迷わなくてありがたいが、絶叫し続けるのは普通ではない。気でも触れてしまったのだろうか。
カラスが一羽、急かすようにかあと鳴いた。
――――…カラスが万が一、彼が嫌がることでも黙認しているとして、その意識を統一したのは誰だ。その大元になった考えは誰のものだ。
通りすぎたはずの思考が戻ってきて、ちらと別の方角を垣間見せる。
この山に於いては、その答えは明らかだ。
「まさか…な」
彼にとって、それは仮定の話に過ぎなかった。
空の青みが引いていく。
雲の白さは黄色を帯びた。
光は強く、益々眩く真っ直ぐ突き刺さってくる。
かと思えば、背後から紺の夜が忍び寄る気配がする。
今日という日はあと僅かになっていた。
オレはぜいぜいと肩を揺らして息を整えた。
思い切り叫びまくってすっきりした。やっぱり木登りは良いものだ。
「大きい声、出たわねー」
枝に座ったオレに寄り添った伝さんが、感心したようにかあと言い添えた。
「いつもこんなものですよ」
「そう?すごいわね!」
つい返した素っ気ない答えにも、伝さんは優しい。
気不味さを誤魔化して見回した目に、だいぶ傾いた日の光に照らされて、陽炎の向こうから突如湧き出すように黒い翼が現れるのが映った。
「次朗さん!こっち!!」
そのままいつもの山の上の方へ行こうとした兄弟子に向かい、慌てて立ち上がった。
今日はさすがにいつもの高さまで木をよじ登る元気は出なかったから、オレからすれば少し背が低めの木を選んでいた。
今居るのは霧の壁の少し上あたりの斜面。いつもはもう少し山の上の方で木を物色する。
「今日はこっちか!三の字…おいおい一瞬影にでもなっちまったのかと思ったぜ」
「この頭で影は流石に言えないでしょう」
直ぐに気付いてやってきた次朗さんは、伝さんが譲った場所に陣取って、ひょいと眉を上げて見せた。
今のオレの出で立ちは、いつもと違って上下とも黒い。足袋と草履は黒ではないけれど、充分西日の熱を吸ってかっかと熱くなる、夏場を自ら地獄にしていくひと揃いであった。
影、というのも、解らなくはないが、それも普通の髪色だったらだろう。
「そのかっこしてるってこたぁ、許可は出たんだな?」
「…はい。師匠はちゃんと話を聞いてくれて、最後には分かってくださいました」
この衣は、いつの間にかオレのために用意してくれていた物の内のひとつだった。
師匠はオレが何があっても困らないように、滅多に使わないものまできちんと揃えてくれている。
隅々まで心を配ってくれるのが有難く、何も返せない自分が申し訳ない。
「そうか。な?おれさまの言った通りだったろ!!」
「はい。そうですね」
オレの切ない気分を吹き飛ばすようににっかり笑ってぐりぐりオレの髪をかき回す次朗さんは、片手に袋を抱えている。
「それ、もしかして?」
「おう!ちゃんと手に入ったぜー!こっちが胡麻団子でこっちが干し柿な!ほらよ」
布の袋に入っていたのは紙の包みがふたつ。
言われるままに開けて確かめてみると、言われたものがちゃんと入っていた。
「ありがとうございます。こんなにたくさん…」…何人分になるだろうか。どっさりある。
「おうよ!感謝しまくれ!!」
こんなにはいいのに、と言いかけたのを呑み込んで、もう一度「ありがとうございます」と繰り返した。
兄弟子は益々得意げに胸を張っている。
まあ良い。多くて悪いものでもない。余れば皆で食べてしまえば良い。
「ねえ、次朗さん。外へは師匠が送って下さるそうです。次朗さんは…」
「勿論、おれさまも行く」
食い気味に言った彼は真顔だ。
「兄貴たちは出掛けてるが、そう遠くにいるわきゃねえ。留守居組も居るし、ししょーとおれさまがちっと出てたってなんも起こりゃしねーしよ」
いかにも詰まらなそうに口を尖らせた次朗さんに、緊張が解れて思わず笑ってしまった。
「何か起これば良いって思ってるみたいですよ」
「なんか起こりゃ良いって思ってんだよ。クソ退屈だっての。だりー」
この山でなにか起こるなら、十中八九は悪いことだろうに、不謹慎なことだ。だけど次朗さんらしいと言えばらしい。
「…そういえば、次朗さんが十年も山を出てたのって、やっぱりこの山が退屈だったからですか?」
ゆさっと枝が揺れた。がさっと葉が鳴り、みしっと木が呻くような音が重なる。
…次朗さんが、体の均衡を崩して落ちかけたのだ。
「なっ…ななな、ま、まあそういうこった!」
なんとか体勢を立て直した次朗さんが言った。次朗さんの名誉のために多くは言わないが、冷や汗が酷い。
「………へえ。そうなんですね」
「そうだよ絶対的にそうなんだよ!!…あ、ししょーにおれさまも行くって言ってきた方がいいなうん!そんじゃちっと行ってくっか!んじゃまた後でな!!」
何を言う間もなく早口で言い切ると、すちゃっと片手を上げて兄弟子はばさばさと騒がしく舞い上がった。
動揺が飛び方に出ている。
「…行っちゃったわねぇ」
「…そうですね」
そんなに訊かれたくない何があったんだろうか。
「まあ、あの方がいると落ち着いてお話できそうもないし、悪いけど外してもらって正解だったかも」
目を落とすと、今まさに客人が茂みを掻き分けて、オレの視界にまろび入ったところだった。直ぐにオレに気づいて立ち止まる。
こちらに向いた目には驚きと迷いが見えた。近寄って来ないところを見ると、声をかけるのを躊躇っているのかもしれない。
「そうかもね」
同じく見下ろした伝さんがそっと寄り添う。
大丈夫だと言う代わりに背中を撫でれば、気持ちよさそうに目を細めながら少し心配を緩めてくれた。
緊張はあるけど、自分でも不思議なほど落ち着いている。もう、取り乱すことはなさそうだった。
「もし!」
いかにも緊張した、短い呼びかけに応えて視線を投げる。
「下りるので、少し待ってください」
流石にこの距離で話すには、喉が疲れそうだから。
オレが下に着くまで、明然さんは腕を上げたり下げたり、うろうろと数歩ずつ立ち位置を変えたりと、挙動不審が目立った。
上るより下りる方が簡単なので、ほんの短い間ではあったが、オレはこの人はちょっと疲れておかしくなっているんじゃないかという意見を固めつつあった。
――――そういえばこの人、オレをずっと探していたっぽいよなぁ。
慣れない山を必死に駆けずり回っていたんなら、それはもう疲労困憊の極致だろう。少し悪いことをしたかもしれない。
最後によいしょっと弾みをつけて、背の高さぐらいの枝から飛び降りると、あっと小さな声が上がった。
「お待たせしまし「なんて危ないことをする!!」
がしっと両肩を捕まえられて、間近で怒られてしまった。…なぜ?
「こんなに高い木に登って!しかも下りるのに下の枝へ飛び降りるなんて無茶を何度も!!僅かに狙いが外れればどうなったことか!!こんな真似をすれば命がいくつあっても足らぬぞ!!」
「あ、あー…なるほど」
あの背高杉に比べればそう高くはない木なのだけど、この人にとっては十分高い木なのだろう。
というか、手を滑らせて落ちたら確かに笑いごとでは済まない。いつも落ちても良いように誰か付いていてくれるので、そういえば落ちる心配をしていなかった。
逆に新鮮な気分である。
「ああ、えっと、心配かけてすみません。大丈夫ですか…?」
「私のことなど今は気にしなくて宜しい。どこか怪我は?捻ったりはしてはいますまいな?」
「ええ、大丈夫です」
「…よかった」
鬼気迫る表情を漸く緩めて明然さんは脱力した。酷く疲弊した様子でため息など吐いている。
滲むのは本物の安堵。
そこまで注意深く読み取ってから、オレはやっと少し気を緩めた。
今までの言動の全て。感じ取ったものの全てを鑑みれば、為人が少しずつ見えてくる。
悪い人ではないと、今更ながらにそう直感した。悪い人じゃないこととオレへの接し方は同じ括りにしてはいけない。
――――正しいことじゃなくても、そういう人は多いからね。
まだ馴染みきっていない考え方をしてみて、ほんのり苦笑する。現実は変わらないのに、感じるものは確かに違っていたからだ。
相手の様子を窺っているのは、オレだけではなかった。
明然さんもオレの肩の力が抜けたのを感じ取って、一先ずは気が鎮まったようだった。
「…意外に落ち着いているのですね」
「?ああ、そうだった。さっきは、意味が分からないことで混乱して逃げちゃってごめんなさい」
明然さんは「いや…」と口籠った。
「そういうことではなかったのですが…いえ、きみが謝ることではありません。あれは私に原因があるのでしょう。何がきみをあそこまでにしてしまったのか、正直に言えば分からないのですが」
半信半疑、といった風に迷い迷い言って、そこで困ったように首を振った。
「ですが考えてみれば、私の行状はきみを怖がらせるに足るもの。不意に現れて話しかければ、冷静でいられなくとも不思議はありますまい…こちらこそ、一度ならず二度までも申し訳ないことをしました」
「そんな、良いです。謝らないでください」
「ですが」
「良いんです」
我ながら、他人からは異常な行動だったと思う。オレの落ち度だというのに謝られてしまっては、逆に申し訳なかった。
「謝らせておあげなさいよ」
ばさばさと羽ばたいて、上から様子を窺っていた伝さんが降りてきた。
「謝らせないことと、謝った人を受け入れて赦すことは別のことよ。謝らないと収まりがつかないってこともあるの。だからこの人のことを考えるなら、謝らせてあげたらいいと思うわ」
「そういうものですか」
「ええ。経験者が言うんだから間違いないわよ」
目線ほどの枝に留まったカラスは、大人らしく落ち着いた声で「それがさり気ない気遣いというものよ」とオレを諭した。
それからくるりと頭を巡らせて、面白そうに明然さんを見る。
僧ははっと肩を揺らした。
「あなたは、案内の…?」
「ええ。少しぶりですね」
そういえば、伝さんはお客の案内役をしたんだった。
この人の所為で思い詰めたこともあったというのに、今の彼女はもう一切気にしていない様子で平然としていた。
「さ、もう謝罪を受け入れてくれますよ!もう一度謝ってみたら?」
茶目っ気たっぷりに小首を傾げるカラスに、なんとなく場の空気が緩んだ。
「かたじけない。では改めて、申し訳なかった」
そう言う明然さんに、オレは驚いてしまった。
妖怪は嫌いなのかと思っていたのに、伝さんにお礼を言ったのが意外だったのだ。
「――はい。確かに謝罪を受け取りました。こちらこそ…急に走り出してごめんなさい。ちょっと、思い込みが深くて混乱してしまったんです」
「ええ、こちらも確かに謝罪をいただきました」
そんなことを言い合うのが何だか可笑しくてちょっと笑ったら、明然さんもゆるく笑う。
「今日のことはお互いにもう気にしないってことにしませんか。謝ってもらったし、オレはもう良いので」
「……きみがそれで良いのなら」
明然さんはとても驚いたようだった。まあ、オレは控えめに言って酷い目に遭ったのだし、加害者側からするとあっさり赦したのが意外だったんだろう。
明然さんの一件がなければオレはずっとあのままでいただろうから、そこを考えれば差し引きして零としても良いと思えたのだ。
今のオレは、歪んだところがまっすぐになったような気がしていた。以前は、自分が罵られても当たり前のことだと思っていたけれど、そんなことはないんだと思えるようになったら、なんだかいつも背負っていた重たいものを下したように、とても軽くなった。
自分を後ろめたく思わなくて良いのは、なんというか素晴らしいもので、その切っ掛けをくれた明然さんを赦さないでいる理由はなかった。
――――まあ、嫌なことされたのは忘れてやらないけど。
それはそれ、これはこれと思えるのも、すごく新鮮だ。悪くない。
「先ほど、きみの声が聞こえたのですが、何をしておられた?」
「あー…ええと」
――――…答えにくいけど…ああもう、別に良いか。
後ろめたいことはないんだし、と開き直った。もう怖いものはない。
「修行です」きっぱりと言い切る。
「ええと、修行の中身は…?」
「ですから、叫びながら木登りするんです」
「………叫びながら木に登る、修行?」
目を白黒させて困惑している明然さんの気持ちはとても、すごくよく分かるが、大真面目な顔で大きく肯く。
「ええ。天狗に成るためなんです。ついでに声を聞きつけた明然さんが来てくれるんじゃないかな、とは思ってましたけど」
「天狗になる…」
思わずといった様子で呟く声。明然さんの目には逡巡。口元は迷いと何か悩んでいる所為で力が入っている。
「はい。オレは天狗に成るために修行中なんです」
にこりと笑って答えた。そこに気負いはない。オレにとっては当たり前のことなのだから、気負う必要などどこにもなかった。
「なぜです…」
張り詰めたものを漂わせて、どこか途方に暮れたようにオレを見てくる。
「きみは人だ。なのになぜ、何故に天狗を目指すのか」
「それは」
オレは言いかけて、やめた。この人が何を言いたいのかがまだ見えなかった。
それを戸惑いと受け取ったのか、明然さんは真剣にオレの目を覗き込んだ。
「人は人であるように生まれつくのです。それが理というもの。天狗になるというのは、人の道を外れるということに他ならぬこと。人をやめるということだと忘れてはいまいか」
ここで明然さんは一度言葉を切った。
何かをまだ迷うように少し眉を寄せている。伝わる心も波立っていて、揺れ動く。
オレはただ、何を言われるのかを静かに待った。
人でなくなることなど、弟子入りしたときから納得ずくで、もう通り過ぎた問題だ。
恐れなかった訳じゃない。今までのことが全部夢だったらと願ったこともある。
最初のひと月は眠れない夜を何度明かしたことか知れない。
ただ、考え抜いて得た結論はいつも変わらなかったから――もうこれ以上悩んでも仕方がないんだと悟ったのだ。
やがて、揺れていた心が定まるときがくる。
目に確かな意思を宿して、静かに口が開く。
「山を下りませぬか。人の中で暮らすのです」
「…え?」
人の中で暮らす。――思ってもみなかった提案に絶句した。
今まで只まっすぐに、天狗に成るとだけ思っていた。追い出されるかもしれないとは思ったことはあったが、そういえばこの山に来てから、人里に下りて暮らすことを考えたことは一度もない。
明然さんはオレが戸惑っても構うことはなかった。
「きみが人である内に。今なら人の元へ戻れます。逆に言えば天狗になってしまえば戻れぬのですよ」
「オレは…」
考えなかったわけじゃない。覚悟はしたはずだった。だけど、一番痛いところに触れられて、オレは思わず顔をしかめる。
脳裏にさっと過ったのは、懐かしい人影。
言いよどむオレとは反対に、話すほどに明然さんは勢いづいた。
「どんな経緯があって天狗の山に来たのか私は分かりませぬ。ですが分からぬなりに考えはしました。考え付くどんな理由もきみが人を捨てて人外へ堕ちるに足るとは思えませぬ」
堰き止められていた水が解放されたかのように、明然さんは喋り続ける。言葉は滞りなく流れるのに、その顔は酷く必死だ。
なぜ、と思わないでいられない。どうしてこの人はこんなに張り詰めて、こんなに必死になってオレを人に繋ぎとめようとしているんだろう。赤の他人のために、懸命になって。
見れば旅装束の僧服はあちこち汚れている。目の下には疲れからか隈がうっすらできてしまって、オレの肩を掴んだむき出しの手の甲には、草で切ったのか細かい傷が走っている。
――――オレにはできない。こんなに他人に必死になるなんて。
オレはそのとき確かに、明然さんに感銘を受けた。他人のために我が身を顧みず動ける人が一体この世にどれほどいるんだろう?
「確かに人はきみに辛く当たったやもしれませぬ。逆にこの山の妖しの者たちがきみに優しく、大切にしてくれたのだと分かっています。ですがそれだけなら、人をやめる必要などないではありませぬか。人をやめねばここに居てはならないと言われたのですか?人里にきみを真っ当に扱う人々がいればどうでしょう?髪ではなく目ではなく、きみ自身を見る周りが居れば、きみはここに居て、天狗になることはないのではありませんか?」
――――ああ。
オレは密かに息を吐いた。僅かな齟齬。認識の違いが、明然さんの思念に沿って揺蕩いかけたオレの目を覚まさせる。
感じたのは、幽かではあったけど、確かに落胆だった。
「我が寺なら、きみを悪く言う者など居りません。学問もできるよう取り計らえます。僧になりたいならば無論のこと、職人になりたいなら口利きもできます。きみが世のため人のために働ける立派な人になれば、見た目など誰も気にしなくなります。きみにも自信がついて、例え余所者が何と言おうと気にせずにいられるようになるときが必ず来ます。そうすれば…故郷にも戻れる日が来る」
今のはかなり胸に来た。突かれた、と言っていい。
どうしてこの人は、オレの弱いところばっかり正確に突いてくるんだろう。
故郷に戻りたいかなんて、考えるまでもない。それに、ああ。『世のため人のために働ける立派な人になれば』なんて本当にどうして言うのか。――畜生。
オレは歪んだ顔を見られたくなくて俯いた。
力の入った肩が震える。動揺はそのまま、肩に置かれた手を通して伝わっていく。
「私たちと共に行きましょう。寺に来るならば、いいえ、他の場所を選んだとしても出来得る限り私たちが助けます。きみは…人の中で生きるべきです。今までの不遇を取り返して、新しい場で、新しく始めるべきだ」
「…」
静かに言い切った声が余韻を残して消え去って、山は元の静寂に満たされた。
戻ってくるのは鳥の声、風の音。
随分濃くなった木々の影の中で、気の早い虫が歌声を競う。
「ありきたりの表現ですけど、言わせてもらいますね…」
じっとオレの答えを待っている沈黙を、オレは容赦なく切り裂いた。
「何も知らない癖に、勝手に決めつけないでくれませんか。不愉快だ」
顔を上げて、驚いた顔をまっすぐ見る。目に力を込めて、強く。
懸命に考えてくれたのだろう。必死に想像してみたんだろう。
だけどこの人は、オレが"人から離れたい"んだと思っている。オレが"天狗に成りたい"だなんて、思ってもみない。
そして当たり前だけど、この人はオレのことをちょっと毛色が違うだけの普通の人だと思っているのだと、そんなことが心に刺さっていた。
オレが感情を読み取れるのは誰にも明かしていないことなのに、分かってないんだとがっかりするのは身勝手だ。だけど決定的にオレを不快にしていたのは事実だ。
…ただ、分かろうとしてくれたのは素直に嬉しかったけれど。
「オレはここに居たいから居るんです。人に受け入れられなくて嫌だったから逃げたみたいに言われるのは心外だし、すごく苛々するんでやめてください!新しい場で新しく始める?オレは白鳴山で始めたんだから今更ですよ!!それに何です?天狗になることはない?馬鹿言わないでくださいよ!!あなたは考えたかもしれないけど自分で言ったように『考えはした』だけ。なのに自信満々に語ってオレのこと全く知らない癖に偉そうに指図して」
唖然呆然として…分かり易く言うと"ぽかーん"としている明然の手をぱしっと肩から払い落とした。
「関係ないのに嘴突っ込んでこないでくださいよ!!」
……言ってやった。
オレは清々して大きく息を吐いた。ああすっきりした。
確かに立派な行いができる人だとは思う。分かろうとしてくれたのは嬉しかった。けど
――――それとこれとは別なんだよ!
オレはこの人が嫌いなのだった。
出会いから最悪。謝られて色々と緩和されたのは認めるが、根本的なところで好きになれないものを感じていた。好き嫌いに理由はない、というやつだ。
例えどんな立派な説得をされて、オレの心を読んだようなことを色々混ぜられたとしても、嫌いな相手に言われれば威力半減どころか逆効果。『だからどうした偉そうに』ってなもんで、オレの神経を逆なでしまくってくれたのである。
謝られても赦さないような子どもっぽいことはしないが、やっぱり気に入らないのだ。
どこかから、面白がるような目線を感じた。
「きみは…いや、そうですね。確かに」
案外早く明然さんは立ち直った。
「確かに私は、きみの経緯を知らぬと言いながら、烏滸がましかった。先ずは何故ここに来たのかを尋ねるべきでした」
気を静めるように、大きく息を吐いている。
「きみがここに居る理由を、教えてもらえませぬか」
最初からそう言えよ。とオレは内心で毒づいた。なんで一応考えてみた程度で語り出すんだよほんと。とかも考えながら、得意の何でもない顔は崩さない。
「いいですよ」とさらりと答えた。そろそろ本題に入らないと、お待たせしてしまう。
「ただ…その前に少し、お願いしたいことがあるんですが良いですか?」
「勿論。私に出来ることなら」
「ありがとうございます。ちょっと一緒に来てほしい場所があるんです」
「はい…と言いたいところですが、山歩きには暗い時分だ」
黄色っぽく染まっていく頭上の空と、もう影より闇と言う方が似つかわしい周りの暗がりを目で示す。
「明日にしませぬか。出立前に時間を取りましょう」
「いいえ?」
気遣い?そんなの知らないと、ずばっと申し出を切り捨てた。もう少し優しく言っても良かったけれど、なにぶん急いでいるので省略した。
若干顔をしかめた明然さんに笑いかける。
「心配しなくて良いですよ。恵然さんにはちゃんとお話してあります」
師匠と話したあとすぐに、会いに行って明然さんを借りる話は付けてある。
因みにそのとき、恵然さんの分のくるみ餅を譲ってくれたし、とても優しくてお茶目なお爺さんだったのでオレのあの人への評価はとても高い。
「御師さまに会ったのですか!?」
「はい。だから遅くなっても問題ありません。それに、送ってもらうので山歩きもしなくていいです」
明然さんの驚きはさっぱりと無視。
もうちょっと詳しく話してほしそうだなーと感づいたけどそれも無視。
「送ってもらう、ですか」
「はい――話は終わりました。お待たせして済みません」
オレはぱっと振り向いて向こうの木立に声をかけた。ああ、と返ってくる静かな声に、目の端に明然さんが驚きをもう一段階引き上げるのが見えた。そろそろこの人、目が零れて落ちるんじゃないだろうか。
「山の主…!?」
そちらに一瞥だけくれた師匠は、オレにはいつものように柔らかく微笑んだ。
明然さんはまた一段階驚きを深めたみたいだ。師匠が優しいのにびっくりしたみたいだ。
大事なことを思い出したオレは、くるりと四半周回ってぺこりと一礼。
「見回り中、付き合ってもらってすみません。ありがとうございました」
「構わない。では、私は失礼する」
前半はオレに、後半は師匠に言い置くと、がさ、と茂みを鳴らして、今日の木登り見守り当番、陣さんが駆け去る。
明然さんは面白いほどびくっと身を震わせて驚愕した。陣さんはずっとあそこに居たのだけど、全く気付かなかったらしい。
しかし大丈夫かこの人。びっくりしすぎてどうにかなったりしないだろうか。
「おれさまも居るっつーの!こっち向けよごるぁあ!!」
明然さんの横ざまから、次朗さんが奇襲をかけた。
「ぐふっ」とかなんとか言いながら腹パンによろめいた明然さんは…驚くべきことに、次朗さんをきょとんと見上げたあと表情を弛めたではないか。
「おお、これは天狗どの。あなたもいらっしゃるのか」
「お、おう…そうだけ、ど?」
そうですか、と言いながら、ほっとした様子の明然さん。対する次朗さんは、なぜか乱暴にばしっとやらかしたのに怒るどころか逆に安心されてしまって、目を白黒させている。
まじまじとお二方を見比べて首を傾げた。なんだこれ。
――――この方たち、朝は一触即発だったよな…?次朗さん、今本気で殴り掛かる感じじゃなかったし、明然さんもなんであんなほっこりしてるんだ?
何があったし。
「ではそろそろ行くか」
一切合切をさらっと流して、天を仰いだ師匠が言った。
追って見上げた空は朱色が差し始めている。
日没まではもう少しあるだろうが、時間があるに越したことはない。
「はい。お願いします」
「そういえばどこに行くのです…?」
明然さんはこの場で唯一、目的地を知らない。
オレは明然さんを見上げて言った。
「山の外へ。話は着いてからにしましょう」
当作品が10000PVを達成いたしました!
これも読んで下さっている皆さんのおかげです。最大級の感謝を。
ありがとうございます<(_ _)>
記念にもっと良い何かを用意できればよかったのですが、ささやかなお礼ということで活動報告に、主人公が恵然さんに会いに行ったシーンを載せています。
より良い作品にしていけるよう頑張りますので、これからもどうぞよろしくお願いします<(_ _)>