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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
75/131

六十七 盆 七

葛藤と結論


 オレは全速力で駆けた。

 足の運びは無茶苦茶で、息の仕方なんか出鱈目(でたらめ)だった。これでは長く走れないと心のどこかで思った気がしたが、それでもやめられなかった。

 心を奥底から全部引っくり返される恐怖に追い立てられて。

 後ろを追ってきていた気配を振り切っても、足を緩めることはしなかった。


「ぅあっ!!」

 ついに足がもつれて、木の根に(つまず)いて転ぶ。

 突いた手は顔を打つのを防げたけれど、盛り上がった太い根で強かに腹を打って息が詰まった。


 立てなかった。

 無茶な走り方をした所為で体が自分のものじゃないみたいに重かった。

 胸の中で心の臓が早鐘を打つ。息は充分以上に荒いのに、どれだけ吸っても足りなくて、笛のような音が混じった。


 体が苦しい。けれど、それ以上に心が破裂しそうに荒れ狂っていた。


『君が悪いのではない』


 何度も何度も、あの僧が言った言葉がぐるぐる回る。


『間違っているのは』


 やめろと呟きながら意味なく首を振る。


『周りの方です』


「なんだよ…なんで今さら…!」


 オレの髪と目を見た人たちは、オレを化け物と呼ぶものだった。

 それは仕方がない。だってオレの髪は、目は、父とも母とも全く違う。だって、普通の人はこんな色をしてない。だって、普通の人は他人の感情なんか読めない。

 オレは化け物って言われても仕方ないのだ。

 それが正しい。だから、受け入れて飲み込んで、受け流して忘れてしまうのが正しいのだ。


 だからそうした。

 みんなが正しいから、それを受け入れるオレも正しかった。


 だけど…みんなが間違ってるならそれは、オレも間違ってるんじゃないのか?


「当てずっぽうに決まってる。あいつに何が分かるんだよ…」


 オレはうつ伏せに倒れたまま呻いた。

 声には全く力が無かった。


 今朝には"化け物"と心の底から信じて言っていた声が、今度は"詫びたい"と言った。

 心の底から悔いた声だった。

 後悔と気遣いが、分かりたくなくても響いてきた。


 あの僧は誠実に、真っ直ぐに、嘘ではない気遣いを込めて、オレを見つめ、オレに話しかけ、オレに謝り、そうして、心の底から確信して、オレを化け物と呼ぶ方が間違いなのだと断言した。


 彼の言葉には筋が通っていた。

 彼の説明は全部明快だった。

 彼の話を聞いたら、オレ自身でさえ成程と思った。思ってしまった…だけど。


「だったら、どうしろって言うんだよ…」


 オレの周りは、あの人々は間違いだというんだろうか。

 オレは間違いに取り囲まれていたというんだろうか。

 だとしたら、だとしたらあの痛みは、あの苦しみは、あの悲しみは、あの喪失感は。


 それを押し隠して受け入れて諦めた、あの更なる苦痛は何だったのか。

 受けなくても良い重苦を、ただの間違いで受け続けていたと、そういうのだろうか。


 そんなのは受け入れ難かった。今さらだった。

 他のやり方なんか知らないのに、これからどうすれば良いのか分からなかった。


 必死に考えたって、あの人の言ったことを否定する言葉は出てこない。


――――じゃあ、オレの信じていたものは、間違い?


 オレは(・・・)間違い(・・・)


「嫌だ…いやだよ…」

 そんな筈はないという心の声は囁きの小ささ。

 気遣いと共に優しく渡された残酷な可能性を撥ね付ける強さは、最初からない。

 認めるしかなかった。


 今や何もかもが揺らいでいた。

 オレの心の奥底の土台がぐらぐらと揺れている所為だ。

 上に乗せて組み上げた何もかもが共に揺れていた。

 間違いの上に組み立てたオレというもの自体が間違いにさえ思えて、訳が分からなくなって涙が出た。


 意識しないほど当たり前だったものが、実は間違いだったとしたら。

 だったら、その他のことは?

 オレにとっての当たり前は、本当に全部信じても良いものなのか?

 全部確信を持って、自信を持って、当たり前にしておいて良いのだろうか?


 わからない。…わからない。


 やってきたこと、やろうとしていたこと、考えてきたことの全てとそこから少しずつ作ってきたオレ自身だって。

 ぜんぶ全部、信じられなくなってしまった。


「オレは…だって、オレは…嫌だったのに…!」


 痛みだけは皮肉にも鮮明だった。

 隠していた何もかもが脆く揺らいで消えそうな分、却って鮮やかにはっきり浮き上がっていた。


 嫌だった。苦しかった。

 だけど、仕方がないって諦めた。

 そうするしかなかった。

 あそこで生きていくためには、他に道はなかった。

 あいつら全部を敵に回して、立ち向かってもどうにもならないのは分かっていたから。

 だったら、いなして躱して逃げて、確かな敵にならない道しかなかった。


 それが正しいと思わないとやってられなかった。

 正しくなければ耐えられない。耐えられなければ…家族はどう思うだろうか。


 オレの大事な、一番大切な人たちは。

 きっと、オレが苦しむと一層苦しんでしまう。

 だから、全部受け流して、大したことない顔をしなきゃいけなかった。

 それが一番正しかった。

 だって家族が苦しむのが、オレにとって一番の間違いだったから。


――――でも、苦しかった。


 その苦しみを、無視なんかもう出来なくなった。

 次朗さんの背中で、もう良いのかと気付いてしまった瞬間から。

 いや、あるいは、この山に来て、オレを傷付ける者が誰も居なくなったそのときから。


 背筋を這う寒気を感じない生活を知って、苦痛は過去になった。けれど、振り返れば薄れるどころか知らないふりができない程色鮮やかだった。

 忘れたままにしておきたかったそれを、あの人は思い出させてしまった。


 恐ろしいのはその先だった。進んでしまうと踏み止まれないのが分かっていた。

 この先は沼だ。嵌まってしまえば抜け出せない。沈みながらきっとオレは、化け物と罵った奴ら全部を憎んで恨んで、呪う。


「どうしろって、言うんだよ…!」


 なにもかもが現実感を失って、不安定にぐらぐらしている中で、燃えるような屈辱と怒りを感じた。

 間違っている癖に、間違いを正義と偽り振りかざしてオレを打った連中が、あの高みから見下すような優越感に充ちた(わら)い顔が…どうしようもなく怒りを掻き立てる。

 あんな奴らに良いようにされて、それを正しいと思っていた自分さえ我慢ならなくて。


 ぼっ、と。

 胸の奥に炎が灯るような気がした。


 何もかもを燃やし尽くす炎。

 怒りと憎しみと悲しみと苛立ちと嫌悪と苦痛で出来た、灼熱の業火。

 生み出す元になったあいつらを、オレを化け物と言ってせせら笑った者の全てを、逃げて押し殺して間違いを正しいと思い込んでいた、愚かで矮小な自分自身をも、粉々に砕いて、燃やし尽くしてしまいたい。


 だが、もうあれは過去のこと。奴らはここにはいない。

 ここにいるのは自分だけ。過去の自分を呪って、煮えたぎるこの怨みを抱えているしかないのか。

「いやだ…」


 様々なものを押し込めていた蓋は、色んなものと一緒に、曖昧にぼやけて消えていた。押し留めるものはもうないように思えた。

 何もかもぶち壊して、この怨みの炎で()き尽くす。そんなことが出来れば。

 その想像は、どうしようもなく甘美だった。だけど、具体的に何をどうしたら良い?


――――ああ、そうだ。


「天狗に成れば…!」


 いずれその望みが叶うのだと気付いた。

 望めば叶う。その希望は、胸の中を真っ黒に塗りつぶした。


 天気さえも思いのままに扱う天狗。風の(やいば)を操る(あやかし)を前にしたら…人なんて大したことはない。

 思いのままに蹂躙して、大風で全て吹き飛ばし、大雨で何もかも押し流し、向かってくる者は風の刃で切り刻み、そして嗤いながら言ってやるのだ。

『お前らが言った通り、化け物になってやったぞ。さあ、これで満足か』


 思い描けば胸のつかえが取れるような気がした。

 今までの苦しみを全部まとめて叩き返してやるのだ。あいつらは平伏(ひれふ)して、オレの痛みを知るだろう。

 そう思うのはこれ以上なく心地良く思えた。

 圧倒的に強くなって、あいつらの前でそれを見せつけてやるオレは格好い気がした。


 格好良くて、強くて、それで――

 ――…耐え難いほど醜い。


 そんなのは醜い。あんなのは汚い。

 憎んで怒りを撒き散らす。自分より弱い者を打ち倒して嗤う。言い返せないでただ耐える相手を罵り、(たの)しむ

 そんなのは、あんなのは。


――――あいつらと同じじゃないか…。


 オレを化け物と呼ぶ度に、あいつらの心が醜く歪むのをかつて感じ取った。

 人を恨んでいる者を見たときに、寒気がするほどの(おぞ)ましさを感じていた。


「やだよ…あいつらと同じもので居たくないんだ…。あんなのになりたくないんだ。あんな、穢らわしい、あんなのの、同類に…!」


 やっと口に出して言えば、(くら)い快楽が少しだけ色あせるような気がした。


 あいつらと同じところまで下りてしまうのが負けだと、前にオレは決めなかったか。

 だから、相手なんかしてやらないと、勝手にやっていればいいんだと、そう強がった。


 それがなんだと今は思ってしまう。

 だからと言ってあいつらを放っておくのか。許すのか―――そんなのは我慢できない。


 心がふたつに引き裂けるようだった。

 あいつらに報いを与えてやりたいと、灼熱の憎しみが叫ぶ。…だけど、怨みつらみを人にぶつける悍ましさを思えば、身震いするほどの嫌悪がした。

 どうしようもなくて、見開いた目から涙が溢れた。


――――苦しい。苦しい…苦しい…!


 なんでこんな風に苦しまないといけないんだと、明然をも恨んだ。

 そもそもあの人が放っておいてくれたなら、オレはずっと安らかで、地に引かれるのに似た強さで復讐に惹かれることもなければ、崖から落ちながら宙に踏み止まろうとするような虚しい足掻きと分かりながら、嫌だと願うこともなかったのだ。


 どうして謝りになんか来たのか。

 なんでオレが化け物じゃないって気付いてしまったんだ。


「何をしろって…言うんだよ…っ」




『我慢しなくて良いんだぞ。お前は悪くねえんだから』



 過去から木霊す温かな声に、オレは息をするのを忘れた。


『嫌なことは嫌だって言って良いんだ。筋が通らねえことがあったら、間違ってるって叫べば良いんだ』


 背負われた背中で、確かに聞いた。

 優しい慰めだとばかり思っていたけれど、今思えば、あれは、明然と同じことを言っているように思えてならない。


 次朗さんもか、と思った。

 次朗さんもオレが間違いだとそう、思って…オレを否定して…。


 …でも、どうしてだろう。冷たくて苦しいこの熱さを、次朗さんに向けようとは思えないのは。

 我慢しなくて良いって言われたのに…我慢してたことが、何だか、正しかったみたいに思えるのは。

 可笑しいな。


 そうか、と思う。

 強張っていた体中の力が抜けた。

 ぐっと腹に木の根が食い込んで痛かったので、ずるずると上半身をずらして位置を変えてみた。


『悪くねえお前が悪もんにされんのが、おれらにゃきつい』

 次朗さんは確かに言った。


 ああ、とオレはか細い溜息を吐いた。


 きっとあの兄弟子は、分かっていたのだ。

 オレ自身が分かっていなくても、察して感じ取って心配してくれていた。


「そっか…知ってたのか」間違ったことを正しいと思い込んでいたこと。

 知っていただけで、そっとしてくれていた。

 無理に掻き回さないで、ただ傍にいてくれた。


 がさつで、空気を読まなくて、身勝手の上に馬鹿で、乱暴で、どこか抜けている次朗さんを良く知っている。

 彼が本当はとても優しくて、面倒見が良くて、物事をよく見ているのを知っている。


 彼は味方だと自然に思えた。


「次朗さん」


 半ば放心して呟いたら、次々に蘇る顔がある。

 オレを助けに来てくれた、師匠にヤタさんに、カラスたち。礼参りに行こうとしていた先輩たち。手当をして、労わってくれた館のモノたち。優しい、この山の妖怪たち――オレの味方。


 オレが化け物呼ばわりされたのを怒っていた。罵った方が悪いと責めて、オレの為に怒ってくれた。


 今思えば、オレには理解できない気遣いの言葉を何度も聞いた…みんな、最初から知っていたんだ。

 辿り着いた結論は、最初から知ってたかのようにすんなりと馴染んだ。


――――なんだ。分かってなかったのはオレだけだったんじゃないか。


 納得は唐突だった。

 オレが気付いて不安と混乱の坩堝(るつぼ)に叩き込まれたこのことをみんなが知っているんだと思えば、なんだかふっと息が楽になった。


 一人じゃないと思った。

 今まで気づかずにはみ出していたオレが、みんなと同じ側に来れたような。オレが間違っていたことを、気づかない間にもみんなが知っていて、心配してくれていたんだろう。

 気遣いを知れば、他のモノに当たって逃げるんじゃなくて、ちゃんと自分の真ん中に向き合える気がした。


 オレはゆるゆると身を起こして座り込んだ。

 混乱しきっていた頭はまだごちゃごちゃで、目元に溜まっていた涙がぽたぽた落ちた。

 泣いた所為か頭がずきずきして、怪我した上に無理に走ったからか体中が痛くて、見てみたら幾つかの白布は緩んで血が染みていた。

 その上転んだ所為で新しい傷さえできていて、せっかく着替えた新しい衣は埃だらけだ。

 酷い姿だ。


「…平気」


 あいつらが間違ってるって認めてしまえば、オレは我慢できなくなって、一番嫌いなモノになってしまうと思っていた。

 あの苦しみを押し付けてきた奴らを憎む醜いものになってしまうと知っていた。


「平気だよ」


 (くすぶ)る怒りはまだあるけど、もうなんだかどうでも良かった。

 そんなことより、大事なことに気づけたから。


 悪くないオレが、悪いって言われたから、みんなは怒ってくれた。

 だったら、悪くないんなら、今までのオレの在り方は、正しかったんだろうって。

 間違いなんかじゃなかったって。


「みんなが、オレの為に怒ってくれたから、平気になった。もう大丈夫」


 広い背中を思い出す。

 あのとき見つけた温かいものがあるから、オレはちゃんと平気になった。今度こそ。


――――なんだ、平気って言って、大丈夫ってずっと思っていたけど、本当の平気はこういうものだったんだ。


 こんなに簡単で、なのにこんなに温かい。


 もらった言葉を何度も思い出したら、ゆっくりゆっくりと、胸の内の熱は冷めていった。

 次朗さんの声は、記憶の中でも明快で、オレがごちゃごちゃ難しく考えていたことを全部取っ払ってしまったようだった。


 そうしたら、一番底に、オレの一番大事なものが残った。

 原点を思い出した。

 また埋もれてしまわないように、大切に抱え込む。

 もう迷う必要はなかった。


――――我慢しなくていいんなら…やりたくないのに我慢してやらなくて良いよな?


 答えは単純だ。なりたくないものならならなきゃ良いのだ。

 なりたいものになればいい。


 恨みも憎しみも怒りも辛さも、苦しみもあるのかもしれないけれど、そんなものより、こっちの方が大事だから、くだらないことに構ってやる暇も余裕もないのをオレはずっと知ってたじゃないか。

 オレはそんなに強くなくて、格好良くなくて、出来ることなんかそんなにない。余計なことをしながら一番大事なことも抱えていられるほど器用じゃない。


――――復讐なんてやってたら、家族を守ってやれないじゃないか。


 大事なものは少ないから、ひとつだって失いたくない。


 オレの一番深いところにある願い。これだけを握りしめて、天狗にさえ食い下がって弟子入りした。


――――だから、すっこんでろよ。


 炎の名残に言ってやって、傷だらけでもゆっくりと立ち上がった。


 ふらついたけど、寝転がっていたのが良かったのか、体は少し楽になっていた。

 見回せば幸い見覚えがある場所だった。

 行先なんか考えずに闇雲に走ってたさっきの自分に苦笑する。


 頭は一度ぐちゃぐちゃになって、何が正しいのか間違っているのか全部見失った。でも一個だけ大事なものを取り戻した。

 それだけで、迷うことはもうなかった。

 何て単純。だけどそれでいい。それが良い。


「あー…馬鹿だなオレ」

 思い返せば結局のところ、謝られただけなのに取り乱し、走って転んで怪我を増やし、ひとりで混乱してひとりで考えてひとりで納得しただけだ。

 多少なりとも落ち着いた今思えば、何なんだと呆れてしまう。

 あのときのオレにとっては一大事に思えたことだけど、もっと大事なものを見定めてみれば、大したことじゃないと思えそうだった。


「大したことじゃあ、ないね」


 言ってみれば明らかに強がりだったけれど、そう、『まだ』強がりなだけで、これから本当になるから良いんだ。


「ああ、ちょっとすっきりした…から、もう全部、すっきりさせよう。そうしよう」


 今こそ訊きに行こうと思った。

 師匠に訊きたくて、それでも訊けなかったことを。

 今なら、尋ねて返った答えがどうであれ、オレはオレらしく受け止められるような気がしたから。


 それに、意地を張らずに心残りとも向き合おう。きっと今日が最後の機会だ。


 館に向かって歩き出す前に、ふと思い出すものがあった。

 次朗さんの背中で、昔のことを思い出したことを、思い返す。


「兄上も、知ってたのかなぁ」

 目尻に残っていた涙がひと滴、頬を滑って顎から落ちた。

 途中にあったひっかき傷がぴりっと痛んだけど、それだけだ。





















 高まっていた火気が緩んで消えた。

 濡れ縁から庭に目を向けていた高遠(たかとお)は、長い息を吐いた。

 手元に渦巻いていた、蒼白く輝く火鎮めの術陣が、役目を終えて霧散する。


「大丈夫だったみたいですね」

 濡れ縁に腰かけている武蔵(むさし)が、ほっとしたように振り向いた。

「ああ。何とかなったようだな」

 と気楽に言った師に双子は頷いたが、最後の一羽は仏頂面で口を引き結んでいる。

 次朗、と呼びかけてやると、ふいとそっぽを向いた。

 こういうところがいつまで経っても子どもっぽくて却って可愛らしいと、高遠は思っている。

 師匠馬鹿は末の弟子だけに発揮されるものではなく、平等に全ての弟子に発揮されるものだった。

 明らかに手遅れである。


「大丈夫だったろう。次朗、そう不機嫌にしているものではない。あいつが帰ってきたら何事かと思うぞ」

「…うっせぇ」

 ぞんざいかつ乱暴な、とても師にする返事ではないひと言を残して、三番目の弟子は翼を鳴らして飛んで行った。

 それを高遠は容認する。

 今は難しい年頃なのだと理解していたのだ。素直になれない時期なのだろう。だが、可愛いものだ。

 最後まで遮ることなく話を聞いていたし、不機嫌な顔を何とかするべく飛んで行ったのだと高遠にはお見通しであった。


 弟子を見送るその顔は、菩薩のように優しげだった。


「良いんですかー?お師匠ー」

「良いさ。直ぐに行ってやるべきだと言うのを、俺の一存で却下したのにもきちんと我慢していたのだし、上出来だ」


 ちゃんと我慢できて良い子良い子。と言われるのは幼児の特権だが、高遠にとって次朗はそれに類する感じである。

 白鳴山に於いて大人扱いまでの道のりは途方もなく長い。

 因みに次朗が不貞腐れる原因がその辺りにあるのを高遠は気づいていない。


「まあ、気持ちは判りましたけどねー」

 辛うじて大人扱いされている紀伊(きい)は、先ほどのやり取りを思い出して苦笑した。


 末の弟子の火気が高まったのを感じ取り、高遠はそれを鎮めるべく術式を編み、上の弟子二羽はいつでも動けるように身構えたが、次朗だけはそのまま飛び出して行こうとしたのだ。


 この山であれば、どこに居ても術は届く。弟子たちもこの山で育って、同じく巧みに術を操る。

 幸いにして三太朗の火気が発現するのは初めてではなく、対抗術式は抜かりなく準備してあった。

 もしものときでも、三羽の弟子が高遠と共に待機していれば、何があっても瞬時に対応が可能。

 あらゆる不測の事態を想定し、充分以上に備えもしていたと自負している。


 傍に行く意味は殆どなく、それどころか何が切っ掛けで火が出るか分かっていない現在、万が一会いに行くことが要因で火が顕現し、更には彼の中のモノ(・・・・)が目覚めてはことだ。

 もしそうなったとしても、現場に行くより先に何通りかの術を試す必要がある。行くのは最終手段になるだろう。


 しかし、引き留めた兄弟子たちと師を前に、対処を教えておいた筈の三番目の弟子は烈火の如く怒った。


『あいつになんかあったって分かってんのに独りにしておけってのか!!』


 経験から察するに、火気が(たかぶ)るのは、三太朗が取り乱しているとき。

 冷静に論理的に、準備を整え予定通りに動く高遠と双子に対して、次朗は純粋に弟弟子の心を案じていたのだ。


 結局は『心の問題はあいつが乗り越えるしかないものだ。任せておくのが信頼だと思うがどうだ?』と狡い言い方をして丸め込んだが、あのときの、弟弟子を思い遣った次朗の怒りは、思い出しても胸をすくようなものだった。


 心情的には痛いほど分かる。理解してやりたいと高遠も思う。だが、実際は次朗が行くのを許さなかった。


 高遠とて三太朗は勿論可愛い。きっと目に入れても痛くないに違いない。

 例え高遠の分の土産の饅頭まで、双子と一緒になって全部食べてしまったとしても、見て見ぬふりをして美味そうに食べていたという話に切なく笑って良かったなと呟けるほどに可愛がっている。

 高遠にとっては破格のことである。


 勿論次朗も可愛く思っている。

 年相応の分別は必要だと色々と躾けてはいるが、慕ってくれているのは幸いなことだ。と高遠は優しい気分になって微笑んでいた。

 しかしあの小さくて自分勝手で幼かった次朗が、下の者をしっかり気に掛けるまで立派に育って、としみじみ感動に浸っていたのだ。


 子のいない高遠にとって弟子たちは我が子に同じ。

 いつまでも末っ子気質だった次朗が三太朗という弟分を得て、上らしく成長していることを喜ぶ親心である。


「…なんで行ってやらないのかをもっと説明してやったらあいつももっと素直に従ったんじゃないかと思うんですけどねー」

「……あ」


 喜んでいた高遠は、その辺りまで気が回っていなかった。

 自分たちが気付いて助言なりとするべきだったな、としっかり者の兄たちは反省した。

 人でも天狗でも、まだまだ親の心が読めない弟たちと微妙にうっかりしているお父さんの間を取り持つ役目は、年長の子にお鉢が回ってくるのである。


「あの、お屋形さま…」

「何だ?(ツテ)

 おずおずと声をかけた、使い走りの渡鴉(ワタリガラス)にも、高遠は気さくに返した。

 こういうところはほんとに尊敬できる師匠なのになぁ、とこそこそ言い合っている弟子たちの声はそつなく聞き流した。


「もし宜しければ…次朗さまにお言葉をお伝え致しましょうか?」

 あたしの翼なら追いつけるでしょうし、と差し出すように提案したカラスに、天狗は苦笑した。

「いいや。あいつに説明を怠ったのは悪かったが、あいつも朧気には察しているからこそ従っている。気遣いは嬉しく思うが、今回は必要ないさ」

「仰せのままに…」


 素直に礼を取りながら、知りたがりのカラスは密かに落胆していた。次朗は朧気に察していたとしても、伝にはさっぱり分からなかったのだ。


「さて、中断してしまったな。お前の件は、先の話で決着としても良いか」

 静かに確かめた高遠に、カラスは緊張で身を震わせながら頷いた。

「はい。あたしはこれからは…三太朗さまの傍へ控え、変事有れば最速でお屋形さまにお知らせしてご覧に入れます。お屋形さま並びにヤタさま。寛大なご処置に感謝致します」


 身を低く、丁寧に二方向へ礼を取る。

「寛大な処置?咎を全て下の者に負わせて誤魔化す(やから)と我らを同じと見るでない。…元よりそなたの責はないのだ。此度のこととて罰などではないのだぞ?」

 高遠の(かたわ)らからしたしわがれた声が、最後には静かに言い聞かせるに至って、伝は寧ろ嬉しそうに元気よく答えた。


「はい。お心遣い本当に痛み入ります。ですが、あたしはやっぱり自分が許せないんです。虫の良い話とは承知の上ですが、罰でなくてもご命を承ったことで少し救われた気分なんです。どうか、ご用命を取り下げたりなさらないでください!」

「今一度良く考えよ。あの小僧は確かに只の子どもに見えるであろうが、先に教えた通り、そうではないのだ」

「ええ、承知の上です」


 伝は揺るぎない瞳で、雲の上の存在にも臆さずに言った。

 彼女はわかっている。普段はあの子どもを傍で守り、有事の際にはその場を脱して知らせるという役目を負うということがどういうことか。

「例え、不意に現れた炎にまかれて焼け死んだとしても後悔はありません」


 危険なモノが三太朗の内側に居るという話を聞かされて仰天した伝だったが、そんなことで彼の為に償いたいと思う心は(いささ)かも欠けることはなかった。

「危険かもしれなくてもあたしは…あたしを惜しんで泣いてくれたあの子の傍にいてあげたいんです」


 彼を傷つけた元凶を山に招き入れた負い目はある。だが、伝にとって最も心動かされたのはそこだった。

 立場として上の者な筈の三太朗が、たかが渡鴉(ワタリガラス)ごときを失いたくないと涙を流す。それほど惜しんでくれたということは、感動を通り越して衝撃だった。

 例えまだ立場が分からぬからだったとしても関係はない。いっそ立場を考えなくとも、自分を想って怒り泣く存在を好ましく思わない訳がなく、あの不安定な子どもを放っておけないと居ても立っても居られない想いに駆られた。

 だが自分には役目があり、命じられることなく勝手に動くことはできない。故に彼女は包み隠さずすべてを主たちに話し、下命を願ったのだ。

 尚、泣いたことを知られたくない子供心はついに理解しなかったので、悪気は全くない。


 望み叶ってやる気に満ちた様子を見てそうかと微笑ったのは、山の主。

「では聞け。三太朗の""は順調に改善し、いつもはよく流れているが、ときに不自然に滞る。気が滞れば当然乱れ、そこから火が顕現するやも知れぬ。あれの内経(ないけい)は常に気に掛けておけ」

「は、はい!肝に銘じておきます!」


 尤も、と黒い目は外へ向かった。

「あの僧と出会ったようだからな、上手くすれば気の(よど)みは…如何にかなるやも知れん」

「どういうことでしょうか?」

 思わず聞き返してしまって、無礼だったと気付いて固まった伝に目を戻した高遠は、やはり穏やかに微笑っていた。


「先に見たとき、かつてなく淀んでいた。原因の少なくともひとつに見当がついたということだ。あの僧はその辺りを突くだろうし、凝り固まった考えを解すに案外効くのではと思ってな」

 伝は不敬だろうが構わずまじまじと高遠を見た。

「それって…三太朗さまの傷を抉るに等しいのでは…」


 最も触れられたくない場所を目一杯ぶっ叩かれるのを知っていながら放っておいたのだと言われてしまっては、眼差しに非難が混じってしまうのを止められなかった。


「まあ、そうとも言えるな」

 どこまでも天狗は悪びれない。


「だがな、行ってやることは出来ん。弱った者は傍の親しい者に寄りかかってしまうものだ。道を見失ったあいつは、今傍に行けば俺に兎に角頼るだろう。俺の決定を失った己の芯の代わりにする。俺が何も言わずとも、俺ならどう言うかを心に浮かべ、すがり信じる。それでは駄目だ。あいつにはあいつの答えがあり、他の者の意見を己のものとしてはならない。あいつは自らと向き合い、己を見定めなくてはならない。己の芯を持たねばならんのだ」


 凛と言い切る天狗に迷いはない。

 二羽の弟子も、傍らに控えた大鴉も、静かに聞いているのみ。


 獅子が我が子を千尋の谷へ突き落とすが如く、幼いからと護るばかりではない厳しさで高遠は弟子を育てているのだと、伝は目の覚める想いで納得した。

 結構本気で放置しては甘やかしてばかりだと思っていた考えをこっそり改めた。


「できるとお思いなのですね…?」

 高位の者の(ことごと)くが了解しているなら、伝はそうと了解するしかない。それでも不安と心配に駆られて尋ねた伝に、高遠はこともなげに(うなず)いた。


 答えは至極単純だった。

「三太朗は俺の弟子だ。出来ぬ筈がない」

 揺るがぬ声。そこにあるのは信頼。


 名を与えたそのときから、彼に接し、言動をつぶさに見て聞いてきた日々で築き上げてきたもの。

 あの少年は高遠の弟子。彼が望み、高遠が見込んだ。

 そして高遠にとっては、己の弟子であるということは、信じるに能うという証だ。

 それ以外に理由はなく、それ以外の理由は必要なかった。


「火気も鎮まった。もうあいつも落ち着いただろうから、行くがいい」

「あ、はいっ!」

 高遠には信じるに足る理由でも、伝には不足である。高遠が自信満々すぎて勢い納得しかけ、いや待てよ、と違和感を覚えていたカラスは、急に話が変わって慌てて返事をした。


 思うところがあったとしても行けと高遠に言われてしまえば話は終わりだ。

「それでは失礼いたします!」


 自慢の翼で舞い上がった伝は、ふと思うところがあって、館の屋根を見下ろした。

 高遠は、なぜ三太朗のところへ行かなかったのかを伝が気になっているのを察して説明してくれたのではないかと。


――――それに『もう落ち着いただろうから』って…結局全部お屋形さまの予想通りになったってこと…?

 流石はお屋形さま、と思う一方で、まさかぁ、とどうしても思ってしまうのは、さっきのお(とぼ)けが脳裏にちらつくからである。

 兎に角三太朗のもとへ行けば分かることだと思いなおし、伝は一路、仲間の気配が固まった方へと進路を取った。




「「さーてとー、俺らも続き行ってきますね」」

 カラスを見送った双子が、そっくりの動きでぽんっと濡れ縁から勢いよく立ち上がった。

「そうか、どこまでいった?」

「釣りも終盤ですねー。印をつけたやつがいるんですけど、中々巣に帰ってくれないんですよ」

「だから、ちょっと追い立ててやったら逃げ帰るかなーって思ってて」

「予定外に一旦帰ってくることになっちゃいましたけど、まあ問題ないっしょ」


 高遠の指示で山外に出ていた彼らは、三太郎の大事と聞いて帰って来ていた。

 問題が片付いたと見て、続きに赴こうとしていた。


「成程な。油断はするなよ」

「「はい、もちろんですよ、お師匠」」


 お師匠ヤタさんいってきまーす、と気軽に手を振った双子は、ふざけ合いながら飛び去った。

 まるきり遊び盛りの少年に見える彼らだが、心配は要らないことを見送った二者は知っていた。




投稿にかかりきりになっており、現在校閲が間に合っておりません><;

誤字脱字、分かりにくい表現など有りましたらすみません!

…そんなときはお手数ですがこっそり教えてくださるとたすかります。。。

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