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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
74/131

六十六 盆 六

ついに接触。


 たしたしと、岩場を叩く草履(ぞうり)の足音がする。

 傍の清流は、軽い足音程度は響く前に呑み込んで消してしまうが、遠くの甲高い鳥の声は遮る物のない小川の上を辿ってよく通った。

 きぇえぎょえぇと鳴く鳥が果たしてどこの何なのかは見当もつかなかったが、オレの耳には喧嘩でも売っているように聞こえても、剣呑(けんのん)なものは感じ取れなかった。


「んー?」

 オレはしかし違和感に小首を傾げた。

 おかしい。そこはかとなく何かがおかしい。

 ただの勘だけど。


 たかが勘。されど勘。オレの勘。

 いつも他人の感情を伝えてくるありがた迷惑な勘は、頼んでもいないのに知らせの虫にやたらと贔屓(ひいき)されている。


 ひとことで言えば気味が悪い。

 自分でも訳の分からないこの感覚は、いつも得体の知れない影のように纏わりついてくる。

 不意になんとなく、しかし無視できない違和感に襲われるときは尚更、こんなのなくても良いのにと考えてしまう。

 何が来るのかまで分かれば備えもできるが、そんなに都合の良いものでもない。


「あらゆることにはそう在る大元の理由がある…」

 不安になってきた中、そんな言葉を思い出した。

 嘘をつかない師匠が言ったことだ。勘と呼んでいるこれにも何か原因があるかもしれない。

 もしかすると、無意識に小さな異常を拾って違和感を覚えているのかもしれない。目に映る何かかもしれない。耳に入る音に混じっているかもしれない。

 気休め程度の気持ちで見回せば、意外にもそれは直ぐに分かった。


「…カラスが多い?」

 この山でカラスが多いのは常識だから、あまり意識していなかったが、いつもより確かに多い。

 いつもの数を五とするなら、今は八か九。

 ただの例えだ。実際はもっとずっと多い。小さい数を使って現実逃避してみたくなる程度には。


 山に変事あれば伝令として飛び、残りは集い鳴き騒ぎ報せる。

 敵であれば応戦し、客があれば案内もすると聞く。その判断はあの真っ黒頭に任されている。

 飛んで鳴いて考えられる警報兼、防衛予備員兼、案内員。それがこの山のカラスだ。

 きっちり順番の当番制でオレのお()りをしているという、蟻より統制のとれた彼らのこと、いつも以上に数が多いことに意味がないわけがない。良い意味だとも考えにくい。


 何があるのか。

 思う内にまた一羽向こうの木の陰に飛んできた。

 やっぱり何かある。思わず問おうと一番近くの一羽に目を向けた。


「あの…」


 ふいっ。


――――目を逸らされた!?


 拒絶だ。何気にちょっと傷ついた。


 カラスにもてると聞いていたから少々油断していたところの仕打ちは、焼き物の茶碗より脆い心に一筋のひびを入れるのに十分だった。

 心は千々に乱れ、涙は大河の如く溢れかえり、よよと袖を目にあて顔を隠して、もう誰も信じられないわと独り涙の傷心逃走を…って程では勿論ない。断じてない。

 だがカラスはそうは思ってくれなかった。


 ちょっと肩を落としたオレを横目で見たカラス。「はぅあ!?」というように嘴を半開きのまま凍りついた。

 周りの冷たい眼差しが注がれる。


 沈黙。だがその底には苛立ちが(くすぶ)っている。


 降り注ぐ批難の眼差し。高まる怒りは、ぎゅっと曲げた竹のように今にも弾けそうだ。

 いやいや大したことじゃないのに大袈裟なとは思うが、彼らは至極大真面目だ。

 ちょっとこの子が泣いちゃったらどうする心算(つもり)なのよ!?とかいう幻聴が聞こえた。

 なんでこんなに過保護なのか。あれか。オレを砂を水で固めた人形かなんかと勘違いしてるのか。ちょっと触ったら崩れるとでも思われてるんだろうか。


 とにかくこのままでは宜しくない。集団暴行にはしるカラスなど見たくない。ぼこぼこにされるカラスもまた然り。その原因が自分なんてそれこそ冗談ではない。

 なんとかしようと慌てて口を挟みかけたそのとき、宙を切り裂いて、矢のように飛び込んできた一羽のカラスがいた。


 助走ならぬ助飛でついた勢いのまま、その黄金の左を振り抜いた。 

「カァア!!(ばか野郎!)」

「グギャア!!(すんませっ!)」

 熱い教育的指導を受けて枝からぶっ飛んだカラスその一を追って、カラスその二が素早く飛び降りた。

 周囲の囲みがどよめく。おお、見事な蹴りからの連撃。


「カアア!カアアアア!!(何だ!その態度はぁああ!!)」

「カァア!ガァア、グァッ!(ごめんなさい先輩!つい、いたっ!)」

「カアアアアアア!!(何がついだてめえは何様かあ!!)」

「ゲァアァ!ガァアァッ!(はいぃ!愚かな羽毛畜生でありますぅ!)」

「カアァアア!カアアアア!!(正解だ!腹斬って詫びろおおお!!)」

「ギャアーーー!!(ぎゃあーーー!)」


「わぁー!待った!!そこまで!!」

 唖然と見守ってしまったが、慌てて割って入った。

 馬乗りになってその大きな嘴でがすがす下のカラスをつつき回していた先輩(推定)を捕まえて引き離す。


「オレは平気ですから!やり過ぎ!別に怒ってないし!!やめて!!」

 言いながらつつかれていた方のカラスを見る。良かった。怪我は無さそうだ。


 腕の中で大人しくなった先輩(仮定)は、首だけ振り向いて横顔で語った。

「カアァ、カア、カア、カアアア。カアカア(そう言って下さるなぁありがてぇが、こっちにゃこっちのケジメがありやす。お手出し無用に願いやしょう)」


 なんだか渋い。

 カラスながらにその背中は広い。

 漬け物石のように頑固な風格。濃く出してしばらく放置したお茶のような渋味。熱燗片手に毎晩後輩のお悩み相談でもしてそうな雰囲気である。

 心なしか手触りもふかっとした羽の下がごつごつ筋肉質に硬い。目は少し細めで、嘴の大きさが際立つ。

 足が掴むものがなくてわきわきしてるのを差し引いてもしっかりお釣りが来るぐらいの、うっかりついていきたくなる背中。渋い大人風味のカラスであった。


「それでも言います。やめて下さい」

 (いわお)のごとき背中に向かって語りかける。

「もう充分ですよ。こっちの彼も反省してますし、オレはもういい。オレが許すならここから先は罰じゃなくて私闘で、一方的な苛めだ。なのにあなたは勝手に同胞を手にかけるんですか?それが白鳴山のカラスのやり方?」


 視線で静まり返った周りをひと撫でして、足元で恐る恐る見上げる黒に止めた。

「当人同士の問題に嘴突っ込むのは正しくないですよ…きみも、悪いと思ったら一番に謝る先はどこ?」

「カアアアア!!(ごめんなさい!!)」


 途端、恐々と様子を窺っていたカラスはがばっと身を起こし、向き直り、頭を勢いよく下げた。

 嘴を打たないようにか体を丸めるように身を屈めたのだが、勢い余って脳天を強打した上ででんぐり返って仰向けに伸びた。

 慌てて翼を広げたものだから、体勢はまさに地に落ちたカラス。でろんと白目を剥いて嘴を半開きにすれば死んだふりとして一流だが、今のままでも立派に完全降伏の構えである。


 ふかふかの腹毛に目を奪われながら「別にいいよ、気にしてない」と言う。代わりに触らせて、とうっかり言いそうになったが我慢した。オレ、偉い。


「さあ、これでこの問題はおしまい。これ以上何かあるなら今言って下さい!」

 (しわぶき)ひとつない場をもう一度見回す。

 もぞり、と手の中で動く気配に気づいてそっと下ろした。


「カア…カアカア(坊っちゃん…立派になりなすって)」

 ひっくり返ったカラスの横で向き直り、目元にきらりと光るものを溜めて、カラス先輩(暫定)は渋い低い声で鳴いた。

 正面から見た顔には、喧嘩でもしたのか向こう傷が走り、嘴太(はしぶと)風味な逞しい面相に迫力を添えている。昔はやんちゃだったもんです、とか言うんだろうか。


「カアァ、アア、カア(カラスの無礼をも許す懐深さ、お見逸れしやした。不肖の後輩に代わってお礼申し上げやす)」

 深々と頭を下げた先輩(断定)の隣で、後輩カラスが慌てて起き上がり、先輩に倣う。しっかり見習ったのか、今度は上手に頭を下げた。

 野次馬カラスたちもわっと沸いた。そこここでため息のような声と、興奮しながら井戸端会議するおばさんに酷似した(さえず)りがあがる。

 やっぱりウチのとこのお弟子さんはちがうわぁ、といった感じがあった。


 オレはちょっと顔がひきつるのを堪えきれないでいた。なんとか一本調子に「もういいよ」と言うので精一杯だ。


 別に気にすることではないと説明して納得させるのが理想だったが、出来そうになかったためにこんな大事になってしまった。誠に遺憾である。


 オレは大勢に注目されるのは好きじゃないのだ。嫌いと言っても差し支えない。

 出来れば一番端っこでぼんやり眺めて「へー」とか他人事のように言ってたいのである。

 これからはこんなことにならないようにもっと話術を磨くことを心に決めた。


 あとはあれだ。衝撃的な事実に気づいてしまったのだ。


――――ついにカラスと会話しちゃったよ…!


 遠退く普通。近寄るは異常。自分は正気なのかと疑いたくなった。疑う相手は自分だ。これほど不毛なことはない。


 オレは天狗に弟子入りした身。普通の人になる夢は早々に捨てたが、元々持っていた異常性ばかりが伸び伸びと育っていくのはどうなんだ。

 さらに恐ろしいことに、カラスの言葉は、耳に届く鳴き声の調子と伝わる感情(こころ)を頼りに意訳したに過ぎない。会話しているという根拠は勘なのだ。

 そんなもの、十人居れば十人ともが根拠として認めはしないだろう。

 …もしかしたらオレが思い込んでいるだけで、実は全然通じ合っていないということもあり得るのだ。


 考えてみた。

 ただのカラスの喧嘩に「オレは平気ですからなんちゃら」とか言って割り込むオレ。「当人同士の問題にかんちゃら」とか偉そうに一人で語るオレ。

 最後に一人で成りきって仕切り「もういいよ」とかなんとか、沢山のカラスを前に言う。カラスは「こいつ何いってんだろ」ときょとん。

 満ちる微妙な空気の中にいる一人の変人勘違いくん。

 それは、オレ。


――――ダメだ。居たたまれない。


 想像を即座に打ち切った。

 深呼吸して落ち着いて、カラスたちに向き直った。こうなれば何が真実でも関係ない。

 勘が本当だった方が、カラスたちはオレと喋れるようになって幸せ、オレは変人でなくて幸せでみんな幸せだ。

 異常だなんだというあれこれに都合よく蓋をして、気を取り直した。

 世の中には、深く考えない方が良いものがあるのだ。


「そういえば、みんなで集まってどうしたんです?何かあったんですか?」

 諸々の出来事をなかったことにして最初からやり直すことにして問うた。

 だが、カラスたちが何か答える前に、オレは予感して辺りを見回した。


「?」

 さらさらと岩の間を流れ下る水に、さやさやと風に鳴る青葉は豊か。合間に見える空は青い。

 カラスが沢山居ること以外はいつもの風景に思う。そう思ったのだが…。


「…っ!」

 異物感というべきもの。

 例えるなら、豆の袋に紛れ込んだ小石で、白い紙に一点散った墨の染み。

 ここにあるべきでないもの。目立たないが、見付けてしまえば強烈に気になりだす何か。

 背後から近づくそれに、ぱっと振り向いたのと、声がかかるのが同時だった。


「やっと、見つけた!!」


 額に汗した若い僧が、危なっかしい足取りで、それでも急いで岩場を下って来ているのが見えた。





















 狼が示した道は…道などではなかった。

 岩場の上に人の頭ほどの石がごろごろしている。その合間を縫って、驚くほど澄んだ水が涼しげな音をたてて流れていた。


 足の下で石がごろりと動く度にひやりとする。

 転ぶのを恐れて思うような速さで進めないのがもどかしい。


「本当に、こんな場所を、子どもが…」

 今日何度となく思ったことを再び呟く。

 水辺を辿り始めて直ぐに息が上がり、山の涼しい日陰だというのに、湯を被ったように汗が吹き出した。冷たい川風が心地好い。


 豊かな山だ、と唐突に思った。

 明然の知る中に、こんなに高いのにも関わらず、天辺まで緑が豊かに繁る山はない。

 高い山は上に行くほど木々の背が縮み、水場も少なくなるのが常だ。


――――これが土地神ともされる天狗の力なのか。


 そんな馬鹿なと思いつつ、問うて肯定が返ってくればあっさりと納得してしまいそうだった。

 高地でさえ下界と同じように大きく青々と育つ木々。山頂付近であれ豊かに湧き出す清水。

 そんなことができるのならばそれは…


 小さな小鳥が頭上の枝で囀った。ちらちらと木漏れ日揺れる茂みには名も知らぬ花が咲いている。


 …これを行う力があるなら、それは恵みだ。生きる者にもたらされる恵みの力。

 正しく神の御業(みわざ)であろう。


「わぁー!待った!そこまで!!」


 明然ははっと前を見据えた。小川の水音に紛れて小さく、しかしはっきりと聞こえた…子ども特有の高い声。


――――あの子だ…!


 出来る限り足を急がせた。ちらりと幻聴ではないかと嫌な考えが頭を(よぎ)る。

 探して歩いたのはたった半日だが、途方もなく長かった。いよいよ見つかるときになって信じられないのは無理からぬことであった。


「そ……も、す…さい…」


 だが幸いなことに、最初よりも小さな声だが、今もはっきり聞こえている。

 幻聴ではあり得ないと確信を得て、明然は益々焦りに駆られた。早く行かねばまた見失うかもしれず、もう一度見つけ出せるかは分からない。


 川は緩くうねり、張り出した枝が邪魔をして先が見通せない。

 もどかしく思いながら、青年は足元に目を落として懸命に急いだが、不安定な足元の所為でその足取りは覚束ない。

 生まれたての小鹿よりは少しマシだが、颯爽と駆けつけるという理想には程遠かった。


 話し声は今も続いている。だが奇妙なことに、聞こえる声はひとつ。答える声はない。

 一体彼は何と喋っているのかと明然が不思議に思ったとき、幾多の声が沸き上がった。


 人の声ではない。少なくとも数十重なるそれは鳥…カラスの声だ。

 彼はカラスと話しているのだ。

 そんな馬鹿なと思ったが、明然もカラスと話した経験があるのを思い出した。

 尤もあのカラスは人語を喋ったがしかし、この山のカラスは人と語れる頭があるのだろうと思えば、一応の納得を見た。簡単な返答なら頷くなりなんなりすれば事足りる。そんなことよりも今は彼だ。


「そういえば、みんなで集まってどうしたんです?何かあったんですか?」

 声はもうはっきりと聞こえる。

 目上に対するように丁寧に語りかける声は、違和感などなく、とても自然だ。…反射的に奇妙に思ってしまう明然こそが、この場では異分子なのだろう。

 緑の目隠しを透かすように、顔を上げて更に急ぐ。


 周りの枝々に黒がちらほら見える。

 此方を警戒するようにじっと見張っている。

 その多さに予感する。彼らが守る者は、近い。


 最後の枝を潜り抜けた先に彼は居た。


「やっと、見つけた!!」


 長く探し歩いて(ようや)く会えた少年は、カラスに知らされたのか、明然が目に映したのと同時に振り向いていた。

 僅かに目を見開き、明然の声に押されるように一歩後退る。


 ぱっと少年の足元から、二羽のカラスが飛び立つ。

 その羽音に細い肩を震わせて、思わずといったようにもう一歩少年が下がった。


「ああ、待って欲しい!何もしない!本当だ!」


 慌てて言えば、びくりと体を揺らして、彼は足を止めた。

 こちらを伺うように見て、体ごと向き直る。

 どうやら一先ず逃げないで様子を見てくれるようだった。

 明然は、駆け寄りたいのを堪えて、その場に踏み留まった。

 怯えさせてしまえば逃げてしまうかもしれない。だからといって捕まえるなど言語道断だ。怖がらせては意味が無い。

 ならば近づく訳にはいかない。この距離が彼をこの場に留めている。


 とはいえ話すという、一番の目的はどうやら達せるようだとほっとして、明然は上がった息を整えながら、少年を改めて見た。


 木々の影に白く浮かび上がって見える髪。瞳もまた色が薄い。

 ふと、色に惑わされなければ、中々に整った顔立ちをしていることに気がついた。


 真っ直ぐこちらを向いた少し吊り気味の大きな目が印象的な、全体的に小作りな顔は、残る幼さも手伝って中性的な印象を与える。

 だが、すっと伸びた背筋や、力のかけ方に無駄のない静かな立ち姿が、少女らしさを打ち消していた。

 目にある理性。身構えながらもしっかりと立つ様子には気品めいたものさえ感じる。彼の出自はその辺りの農家ではあり得ないだろう。


 自分より遥かに足元が確かな様子に自信をなくしそうになりながら、探しても少年の顔には表情と呼べるものがないことに心配を覚える。

 辛うじて引き結ばれた口元と、僅かに見開かれた目に、やっと緊張の気配を見つけた。

 だが、子どもらしさと言えるものはついに見てとることはできなかった。


「ずっと、探していました。会えて良かった」

 自然に口調が敬語に変わった。

 雁瀬(がんせ)ない子どもとして扱うには、彼は冷静で知的だったのだ。


 そこここに巻かれた白布が痛々しい小さな体は、いつでも逃げ出せるように身構えていたが、瞳は明然の一挙一動を注意深く見つめている。


「…」


 語りかけても応えはない。歓迎されていないことは明白だ。

 明然のしたことを思えば当然で、居たたまれない想いに駆られてがばっと頭を下げた。


「私は明然と申します。先の行いをお詫びしたく、探していました。本当に申し訳ないことをしました。とても足りるものでは無いやもしれませぬが、許されるなら償いを…」


「…先の…?」


 蚊の鳴くような小さな声が、明然の声に重なったのを聞きとれたのは只々幸運だった。

 これを聞き逃せば顔を上げる機会が無かっただろうから。


 少年は相変わらず薄い表情ながら、どこか呆然としているように見えた。

 途方に暮れた、と言い換えても良い。不思議とそんな、寄る辺ない様子に見えたのだ。


「そう、先の…私が君に暴言を吐いた…」

 呟きが疑問だったと捉えて、明然は迷わず負い目を吐き出した。

 口に出して言えば、未だに胸が痛む。何も構わず走り出して穴にでも埋まってしまいたい羞恥と、体がすり潰された方がマシだと思える程の罪悪感に、自然と顔が歪んだ。

 だが、そんなことに構ってはいられない。…この少年の方が、何十倍も苦しかったに違いないのだから。


「君は人であるのに、化け物と罵り、脅した。君が私たちに害成すものと早とちりで決めつけ、酷いことを言ったのです。ましてや君は傷を負っていたというのに、己の保身などに目を(くら)ませて、僧として…いや、人として最低なことを」


 人として最低な、と呟く声が、ぽつんと落ちて転がった。

 その声に明然は違和感を覚える。

 意味の分からない言葉を反芻して、どうにか理解しようとする人の呟きに似ていたのだ。


「ええ、返す返すも非道の所業でした。髪や目の色などで君という人を判断するなど言語道断です。しかも傷ついた者を助けるでもなく、罵倒するなど」


「オレは…」


 小さな声が震えた。

 一度は開いた口が戸惑うようにまた結ばれて、また開こうとして閉じる。

 明然は、続く言葉を飲み込んで、じっと根気強く待った。

 じっと待つのには予想以上の苦労があった。

 目の前の小さな人は、相変わらず表情を動かさない少年は――顔を強張らせて、怯えているように見えたのだ。


「オレは」

 意を決したようにぎゅっと拳を握って、少年は口元を歪ませた。笑顔の残骸は、どこか泣きそうな顔に見えた。


「オレは天狗に弟子入りしました。貴方の言う"物の怪"になるんだから、化け物って呼ばれるぐらい平気ですよ」

 それに、と言いながら、追い詰められた仔鼠のような必死さで、灰の瞳が明然を見つめる。

「それに、人として最低だと貴方は言うけど、そんなことはないでしょう?」


 明然は、咄嗟に返す言葉が浮かばずに絶句した。何故彼が、己を傷つけた者を擁護するのか分からなかった。

 だが同時にまさかと思う。大人びて見えようとも幼い、という狼の言葉が蘇った。

 明然が黙っている間に、反論が来ることを恐れるように、少年は先よりも大きな声で捲し立てる。


「そりゃ、オレはまだ人だから、残念外れ、って感じですけど、人なんて眼で見て判断するものでしょう?見た目が小さいなら子どもだと思うし、大きければ大人だと思うものでしょう。そこに居るのが犬だか馬だかを決めるのも見た目です。だったら、人か化け物か(・・・・・・)を見分けるのだって外見(そとみ)じゃないですか。だから、貴方は何も間違っていないんだ。目で見て判断するのは人として当たり前(・・・・・・・・)なんだから…!」


 ねえそうでしょう、と縋るように訊く少年が、痛々しくて見ていられなかった。

 まさかと思っていればそのまさかだった。


 彼は自分が化け物と呼ばれることが当たり前(・・・・)だと思っている。

 幼い純真さで、そう刷り込まれたままに一途に思い込んでいる。

 自分なりに理屈をつけて、正しいことだと飲み込んでいる。

 感じる痛みと苦しみからは目を背けて。


 彼は確かに幼かった。

 自分の当たり前の世界しか知らず、疑うことなどない。

 この歳であれば普通だ。

 つまりはこの子は普通の子どもなのだ。――彼の当たり前は、普通ではないにしろ。


 当然だと思い込まなければ耐えられなかったのだろう。

 違うと叫んで、嫌だと逆らう程の力を、幼い彼は持たなかったのだろう。

 そうして、受け入れてしまわなければきっと、生きては来れなかったのだろう。


 害意を跳ね除けられないことを、弱いから悪いとは決して言えはしない。

 彼はまだ、自信を持って善悪を断じられる程に大人ではなく、確りとした正しさを持つ前にそれを歪めてしまった。


 こんなになってしまった彼から分かってしまう現実。

 彼を化け物と呼んだのは、ひとりふたりではあるまい。

 恐らく、彼を取り巻く周りが…


 仮にしっかりと正しさを持っていたとして、一対一で向けられる悪意に対抗できる者が大人にどれだけ居るのか。

 ましてや…大勢から浴びせられたとしたらどうだ。


 明然は瞑目し、救われてあれ、と心の底から願った。

 彼の不幸な思い込みを(ほぐ)してやらねばならないと、それが正しいことなのだと、誠実な僧は自然とその答えに行き着いた。


――――御仏よ、彼をお見捨てあるな。



 明然は今まで積んだ厳しい修行を思い出し、数度深く息を繰り返してどうにか心を鎮めると、やっと「そうかもしれませぬな」と声を押し出した。


「確かに、人は目で見てその物が何であるかを知るものです」

 明らかにほっとして、「だったら」と呟いた少年に小さく首を振って見せる。


「ですが、今は関係はありません」

 幼い人に伝わるようにと願う。出来得る限り優しく語る。真っ直ぐに言葉が届くように。


 もう大丈夫なのだと伝えたかった。必死になって、害されたことさえ受け入れてしまわなくとももう良いのだと。

 君をあれ程大切に思っている者たちが傍にいるのだから、もう無理をする必要はないのだと。


 哀れな少年に差し伸べられる手が何者の物であろうと、もう気にならなくなっていた。


 戸惑ったように瞬いた灰色の目をしっかりと見て、ぎこちなくも笑って見せる。

「今私が詫びているのは、言葉に悪意があったからです。どんな言葉であれ関係はない。相手を傷つけんとして発された(こと)()は、(すべか)らく悪口(あっこう)たり得るのです」


「…よく、わかりません」


 首を傾げた彼に、例えば、と明然は自分を指して見せた。

「とある人が私に『この僧め!』と言ったとします。"僧"という言葉は、普段から良く使われる。私自身も己を指して言います。だが、悪意を込めて発されたそのときから、この言葉は罵倒に変わる」


 聡い子どもは、ふっと息を詰めて身を強張らせた。

 明然は、気付いた子どもを褒める心算(つもり)で微笑みを深くして頷いた。今度は少しマシに笑えたことに安堵する。


「私の師は、言葉は操る者によって意味を変えるのだと教えました。君自身がどうであるかは関係が無い。例えて言うなら、あの言葉を…(あや)しの者に向けたとしても、罵倒は罵倒。私は君に、悪意を込めた言葉を吐いたことを悔いています。それを謝っているのだと、そういうことです。君はあんな言葉を…悪意をぶつけられるようなことをしてはいないのだから。それに君は人です。人に対して、君が例えどんな人であろうと、そもそも"化け物"などと――人が人に使って良い言葉ではない」


 明然はそのときになって(ようや)く、少年の顔から血の気が引いていることに気が付いた。

「どう…」したのですか、と続くはずだった声は途切れた。


 少年は激しく首を振った。明然の言葉を振り切るように。

 黄色味がかった灰の髪が宙に舞い、後ろで縛った赤い紐の先がぱたぱたとたなびく。


「違う、だって、そんな…違う!」

 驚く明然に、震える声が届いた。向けられた目は半狂乱にぎらついていた。


「人が人に使って良い言葉じゃないって!?それが本当なら、じゃあオレは人じゃないんでしょう!?そう思われてるってことでしょう!!」

「違う!」

 少年の思い違いだと捉えて、慌てて明然は口を開く。

「何がどう違うんですか!!」

 今やはっきりと泣きそうに顔を歪めた彼に、宥めるように、只の善意で僧は言った。


「君が悪いのではない。間違っているのは、君に言った方…周りの方です」


 うああ、とけして言葉ではない叫びが上がった。

 言われる言葉を打ち消そうとするように大きな声は、けれど確かに震えていた。

「なんで!どうして!!なんで今さらそんなこと言うんだ!!」

 顔を歪ませるのは恐怖だろうか。悲しみだろうか。諦めだろうか。

 初めてはっきりと浮かんだ表情は、血を吐くような叫びを伴ってただ悲痛だった。


「どうか、落ち着いて。気に障ったのなら謝ります…!」

 驚愕しながらどうにか言ったのはそんなこと。こんなことしか思いつかない自分がもどかしい。

 何故彼がこんなに取り乱すのかさえ分からずに、ただ焦りが(つの)った。

「だって、そんなの、オレは…っ!!」

 動揺からの涙を見て、明然は思わず一歩踏み出した。

 ただ放っておけないと思っただけの、動揺した子どもを前にした当然の善意だった。

 だが少年は目を見開き、はっきりした怯えを浮かべて後退る。

「いやだ…!」

「待って!!」

 彼はぱっと身を翻して駆けだした。

 明然もまた、遮二無二後を追う。


「待ってください!!」

 呼びかける声も聞こえているのか定かではない。

 前を行く少年は、すぐ脇の茂みに飛び込んだ。明然も直ぐ後を追い縋る。


 大人と子ども。直ぐに追いつけるだろうという明然の見通しは外れることになった。


 その身のこなしは只人とは思えない。悪路を難なく軽やかに、まるで平地を行くがごとく飛ぶように駆けて行く。

 まさに放たれた矢の如く駆け抜けるその速さは、彼我の距離を一気に開いた。

 さらにあれ程速く走っていても、速度は落ちるどころか寧ろ増していく。


 只の子どもができることではない。山に慣れているからだというのも限度がある。

 こう思うのは後ろめたいものがあるが、人というより人外を思わせた。


 人の(わざ)でなければ妖の秘術か。

「これが、天狗の弟子か…!!」


 懸命に追った努力空しく、間もなく明然は少年を見失った。



遅くなってすみませんでした(;→д←)

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