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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
73/131

六十五 盆 五


 分け入った山は、来たときと同じく鬱蒼と深い。

 薄暗く見通しの悪い夏の山は、時折じっと視線を投げ掛けるカラスを見かけるのも相まって、はっきり言って不気味だ。

 気のせいではなく実際見張っているのだろう。何か下手なことをすれば、あのカラスたちが一斉に襲いかかってくるのだろうと予想がついて、一度その寸前まで行った経験者は身震いした。


「本当にこんな中を子どもが彷徨(うろつ)いているのか?」


 耳元に来た羽虫を手を振って追い払いながら、明然(めいぜん)は独り()ちた。


 子どもの足でこの深い山を歩くなどとても信じられない。

 木々は丈高く幹太いものから、細く小さく、数多くの葉を繁らせたものまで、様々な種類が混在する。見上げれば高く伸び上がった枝がまるで天井のように、雑木林に蓋をしていた。

 目線を下げれば低木とはいえ茂みはかの少年の背丈より尚高く、足元に積もった落ち葉は踏むとよく滑る上、盛り上がった木の根や石がごろごろしていて、そこここに生える苔や下草と共に足を取る。

 道と名が付いていても人ではなく獣が行くに相応(ふさわ)しい細道は、今にも消えそうな頼りなさ。何せ歩けば枝がそこここで張り出して、ぴしぴし顔に当たる上視界を絶妙に遮り、歩き難さに拍車をかける。

 注意深く見回しながら進んでいる故に、分かれ道が今のところ無いのは確かだが、道を見失えば館に戻れるのか既に自信がなかった。


 自分ですらこれなのに、子どもがそんな―――


「…そういえば、走っていたな」

 明然たちが歩いていた道の横様から、彼が放たれた矢のような勢いで走ってきたのを思い出した。

 道の脇から来たということは、当たり前だが道の無いところを通ってきたということだ。

 …探し人の行動範囲は途方もなく広そうである。


 早くもげんなりして溜息を吐きたくなったが、明然は気持ちを奮い立たせて進む脚に力を込めた。


 少年がどこに居るのかは勿論皆目見当がつかないが、進む明然には取り敢えずではあるが迷いはない。

「大分、近づいたか」


 繰り返し高く響く音が聞こえる。

 館を出て直ぐに聞き付けたその音は、日常で馴染み深いもの。推測が正しければ、薪割りの音だ。

 薪を使うということは、火を使う知恵のある者であろう。であれば話も出来るかもしれない。

 割るのはあの少年ではないかもしれないが、宛もなくさ迷うよりはマシだろう。


 黙々と歩くこと(しばら)く。

 幾つかの分かれ道を注意深く記憶して進み、段々に近付く音に、もうそろそろかと思っていたそのとき、密集した茂みが不意に途切れて、目前に現れた光景に明然は目を丸くして固まった。


 そこにいたのは、巨大な鬼二体だった。

 その場は木々が伐り倒された広場になっており、切り取られたように覗く空は明るく輝き、遮るものがなくて鬼の様子がよく見える。

 小山のような体躯は筋骨隆々。これぞ悪鬼というような凶悪な顔は、眉根を寄せて歯を食い縛っている所為で更に(いか)つい。


 そんな鬼が…薪割りをしていた。


 この山で目にしてきた物の怪の中で最も凶暴そうな顔貌の鬼が、一心不乱に薪割りをしているのだ。…はっきり言って、似合わない。

 生肉や屍肉でも貪り喰っていそうな外見をしながら、敵に対するような、まさに鬼気迫る顔で薪割りをしている鬼にどう反応して良いか分からない明然に気付くことなく、鬼たちは二人がかりで次々と、山と積まれた木を割っていく。


 その手つきは鮮やかで、腕が振り下ろされる度に、小気味良い音を立てて木が真っ二つに割れて飛ぶ。辺りに散乱する割れた木片を見てみれば、驚くべき正確さで、同じ大きさに揃えられていた。

 薪割りに職人技というものがあるならばこれであろう。ただ―――


「なぜ、素手?」


 勤勉に働く鬼たちは、鉈も斧も持たない手を振り上げ、切り株に立てた薪に手刀を振り下ろしていた。

 そして冗談のように鮮やかに、かっこーんと木が割れ飛ぶ。

 下手な刃物などよりも綺麗に割れているのを見れば、成る程道具など要らないやもしれない。鬼は素手で薪割りをするものなのだろうか。というか、鬼が薪割りするなど考えたことはなかった。というよりも…鬼!?


 明然はやっと、鬼が薪割りしていることより、鬼そのものに驚くべきなのを思い出した。

 大分疲れて鈍くなってはいたが、彼はまだ常識を捨ててはいなかったのである。なお、それが当人にとって幸せかはまた別の話だ。


 明然の頬に嫌な汗がじわりと伝う。


――――刃物もなしに、あのように木を割る怪力。まともに受ければ人溜まりもない…。


 じりじりと後退しながら、指先で数珠を無意識に探る。

 危機感高まり、緊張が募って、更にじわりと距離を取ろうとしたそのとき―――不意に片方の鬼が顔を上げて明然を見た。


「あ!てめえは!!」


 つられてもう一体の鬼もがこちらを向く。恐ろしい顔の中で眼光鋭いまなこが見開かれる。開いた口から放たれた胴間声が耳に届くよりも早く明然は身を翻し―――逃走はたったの二歩で中止された。

 つんのめりながらも止まったその先、距離にして七歩向こうの土を、じゃり、と踏みしめる足がある。


「!?」

――――細身の女。額には…角!!


 明然が相手を見て取ると同時に、仏頂面の鬼女が、手に持った草履を見事な投擲姿勢で振りかぶった。


「こんのバカちんがあーーーー!!」


 ずぱぁああああん!!


 鋭く宙を飛んだ草履は、その軽さなど関係無いとばかりに目にも止まらぬ速度を叩き出し、盛大な炸裂音を響かせて若い僧の顔面に着弾した。


 草履がつい忘れていた柔らかさを思い出し、ずるっと滑って落ちかけるが早いか、白い手がその胸ぐらを掴み上げた。

 退魔僧のたしなみで常時展開されている守りの術式は、瘴気を纏った怨霊程度なら不意打ちでもまず破れないのが売りだったが、白鳴山の鬼女の白い手を阻まんと一瞬光っただけで儚く砕け散った。


「あんだだね!うちのおチビに手ぇ上げたってえ(クズ)野郎は!!一体どういう了見で坊やにあたったってんだいこのスットコドッコイ!慈悲だのなんだのほざいてる癖にやることがあれってんなら(あっさ)い底が知れるじゃないかいええ!?口回して説教くさい話ばっかしてる暇があんだったらその飾りのフシアナかっぴらいて自分の行いから見直しな(ゴミ)坊主!次やったらこのあたしが直々に細切れにしてすり潰して塵屑みたいに…ちょっと!!聴いてんのかい!?」


「おい、お(しの)

「…かーちゃん。多分それじゃ返事できねえと思うぞ」

「あ゛あ゛!?」

 怒れる鬼女は誰よりも迫力のある顔のままで息子を振り向いた。

 襟首を締め上げた手の上に、かくんと明然の顎が落ちた。

 鬼の力で存分に揺さぶられた気の毒な僧は白目を剥いていた。今の彼は目を見て話を聴くどころか頭の内側が見ていることだろう。返事はちょっと期待できない。


 目が逸れた隙に、弦造(げんぞう)が白い手から僧をそっと救い出し、ついでに妻の手にぶら下がっていた手拭いと竹の水筒も失敬する。

 ぐったりしてしまった男を木陰の柔らかい草の上にそっと寝かせ、手拭いを水筒の水で湿らせて目の上に置いてやった。


「う…」

 虫の息な明然は、死にかけの虫よりも緩慢にもがいた。

 見る者に哀れを誘う姿であった。


「かーちゃん、三太朗はこいつに手ぇ出すなって言って回ってんだ。やっちまうのはちょっと良くねえと…思うんだけどな…?」

 でっかい図体(ずうたい)を縮めて、荒ぶるかーちゃんを息子が宥めようと試みる。

 引けた腰が家の権力図を表している。

 今まさに絶対支配者に控えめにでも立ち向かう彼は勇者であった。

 じろりと睨んだ天下のかーちゃんは「はんっ」と勇者に返答あそばされた。


「やっちまうなら何か言う前にそっ首引き千切ってやったさ。あたしが仕返ししてどうすんだい。こいつをやった後にあの子に『あいつはもう居なくなったから大丈夫だよ』とでも言や良いのかい?それで喜ぶ子じゃあないだろ。何よりあの子の為になんないよ。何かある度に周りが全部なんとかしてたらなんにも出来ない子に育っちまう。まさかあんたらあの子に止められなかったらやる気だったのかい?これだから男ってのは!!」

 男どもは返す言葉もない。


 女は呆れを全面に出した半眼で溜息と言うには荒い息で苛立ちを表現し、目の前上方にある息子の顔を勇ましく睨み上げた。

「手当てして話を聴いて助言して、相手に文句言うぐらいは許されるだろうさ!でもね、こういうのは当人同士でタイマン張ってきちっと白黒つけなきゃ収まりつかないないもんだろ。他が手ぇ出しゃ変に引き摺る。だがねえ―――」


 女はだんっと片足を踏みしめ腕組みすると、(ようや)く手拭いをずらして周りを見られるようになった余所者に向かって、威厳たっぷりに斜めに構え、顎をしゃくった。


「もう一度あんたが手ぇ出すってんなら話は別だ!あたしの目が黒い内はもうあの子に指一本に罵詈雑言ひと言たりとも許しゃしないよ!!」

 言い切った彼女は今この場の誰よりも男前だった。


「…まあ、あんたに思うところが無いじゃあねぇが、今は大人しく横になってな。まだ目ぇ回るだろ」

 弦造はとても顔は怖いが、その分を補える程情に篤い男であった。

 無抵抗である限り、頭の中身がぐらんぐらんと揺れて起き上れない、可哀相な者には何もする気はない。あと、妻がちょっとやりすぎたことをほんの少し申し訳なく思ったりしないでもない。

 彼は感謝を込めた眼差しがちょっとうるんでいても見ていない振りをしてやれる大人であり、自分たちに許される範囲ではもう充分に報いを受けさせたことにしてやったのだった。


「うちのかかあが言ったのでおれたちが言いてえこたぁまあ全部だ。それに、あんたがあいつに謝りてえって探して回ってるってのはカラスに聞いた。きっちり反省してんなら、おれから重ねて言うのはやめとくさ」

「は、い…申し訳、ない…」


 お篠は忌々しげにふんっと鼻を鳴らした。

「あたしらに謝ってどうすんだい。詫びはあの子にしな!」

「…ご(もっと)もです」


 明然はつついた弥次郎兵衛(やじろべえ)のようにふらふらながらもやっと身を起こした。

「つかぬことをお聞きしますが、彼の居場所はご存知ありませぬか」


「知らん」「知らんな」「知らないね」

 きっぱり言われてがっくり肩を落とした。外は広い。宛てもなく探すのは難業事だ。せめて手がかりなりともなければ、踏み出す一歩も迷う。

 だがやらねばならない現実がここにある。

 明然は流石は厳しい修行を経た僧であった。逆境に在ってその決意は鉄よりもかたくなり、精神は霊山でまさに山岳修行者のようにつよくなる素養を秘めていた。きっとあてどない探索は彼を無心の極致へ誘うことだろう。


 情に厚い鬼は、その死んだ魚の方がもしかしたら澄んでいるかもしれない目を見て居心地悪く身じろいだ。苛めているような錯覚がしたのだ。

「あー、さっきはここに居たがよ、別の奴探しに行っちまった」

 相変わらず怖い顔を恐ろしげに(しか)めて弦造が言う。因みに恐ろしくとも彼なりの気の毒そうな顔である。


「あいつ結構足速いかんなぁ」

 定七が頬を掻いて、父親より母親に似た顔を少し空に向ける。因みに何かを考えるような仕草だが、心当たりがないので訊かれないように目を逸らしただけだったりする。


「今日は会ってないよ。知る訳ないだろ」

 切り捨てるように言った彼女は、ふと空を見上げた。


 おおーーーーん…


 どこかで獣が遠吠えした。それは十重二十重(とえはたえ)にこだまして響きわたり、明然には出所がどこだか見当もつかない。

 だが、お篠はふーん、と呟いた。


「あんた悪運が強いねぇ」

「?」

「今あの子は高台に居る」

「え!!」


 思いがけない言葉に一時、彼はまばたきも忘れた。だが直ぐにがばっと身を乗り出すと、勢い込んで尋ねる。

「それは誠ですか!?」

「勿論本当さ。嘘なんてついて何になるんだい」

 お篠はわらった。擬音を当てはめるなら"にやり"。実に意地悪そうな悪どい笑みである。夫と息子が何とも言えない顔でちょっと顔を逸らした。無関係ですと頬辺りに書いてある。


「こっちの道を真っ直ぐ上がって、ひとつ目の分かれ道は真っ直ぐ。ふたつ目を右に折れたらあとは直ぐに着く。せいぜいそのつるつる頭を地面にめり込ませて許しを請えば良いさ」






















 耳を塞ぐように、と言われて従順に従ってはいたものの、(ジン)さんの遠吠えは強烈だった。

 体の底までびりびりと振動し、頭に直接音を叩き込まれるようだ。


『本気で無理だから!』と言って遠くに避難した(ツテ)さんと一緒に退がれば良かった。『ああそっか耳が塞げないもんな』なんて能天気なことを思ったついさっきの自分に考え直せと警告したい。

 オレは陣さんから五歩ばかり離れただけの場所で、しゃがみ込んだまませめて祈った。耳がおかしくなっていませんようにと。


「じきに来るだろう…大丈夫か?」

 辛うじて陣さんの声が耳鳴りの向こうから聞こえたので、オレはほっとして頷いた。耳はどうやら無事らしい。


「大丈夫です…すごく大きい声ですね」

「ああ、奴の見回る範囲は広い。これくらいでなくては端に居たなら聞こえぬだろう…ああ来た」


 つられて見上げた向こうの空に、黒い点を見つけて目を(すが)める。

 点は見る間に大きくなって、やがては巨大な鷲となって頭上を旋回した。


「おお、三太朗!」

「こんにちは(ハリ)さん…うおぁ!?」

 鷲は落ちる速度で一気に降りてくると、すぐ頭上で翼を広げて勢いを殺し、どすっと音を立てて目の前に着地した。

 成程旋回しながら降下するよりよっぽど素早く降りられるのだろうが、その代償としてオレは突風に襲われた。

 衣の裾がばたばたとたなびき、前髪は全部逆立ち、吹き付ける埃を避けて目を瞑ったら、風に煽られて二三歩おっとっととよろけて陣さんの毛皮にもふっと埋まった。


「おっと、済まぬ」

「いえ、大丈夫なので気にしなくて良いですよ」

 もふもふに埋まっただけなので全く問題ない。寧ろありがとうございます。


 張さんは、華麗な飛行からは想像がつかないよてよてとした歩き方で、それでも素早く近付いてくると、頭をぐいっと下げて上から下までオレをとっくりと眺めた。


「ああ、我らの雛よ。酷い目に遭ったそうだな。大事無いか」

 狼狽(うろた)える寸前の心配が、人のように表情を作れない鳥の顔でもはっきりと解る。

 オレは彼の様子を注意深く探って、その中に純粋な心配以外のものを見つけようとした。


「はい。オレは大丈夫です。ちょっと転んで怪我したぐらいで元気です」

 鷲はほっと安堵したようだった。

「ならば良い。…飛びたてずに落ちるは雛の特権。大丈夫だと自ら言うならばそこまで案ずることはなかろうさ」

 心配を見透かされた陣さんが、ちょっと後ろめたそうに一度尻尾を振った。


「あの、張さん。お仕事中にお呼び立てしてごめんなさい」

「そのようなことは気にしなくとも良い。寧ろ、そなたのことが気にかかっていたから顔が見えて良かった」

 頃合いを見計らって切り出したオレに、張さんは裏表のない温かな心を向けてくれる。そこに陰りはなく、雲ひとつない蒼穹のように澄み渡っているような印象をもたらした。


「本当にオレは大丈夫なので…あの、お客さまたちには構わないであげてください」

 上手い言い方が見つからなくて少し分かりにくかっただろうが、張さんは察しがついたのか少し思案気に頷いた。


「私としては無論不愉快ではあるが、今も山にて生きているのだから高遠さまのお許しがあったのだろう。主が許すとお決めになった者に手を出す愚かをする気はない故、案ずるな」

「ありがとうございます…」

 非常に理性的なお言葉だ。次朗さんあたりは張さんか陣さんの爪の垢でも煎じて飲めば良いのじゃないかとちらっと思ったのは内緒だ。

 そなたが礼を言うことではない。と気負いなく言ってしまえる張さんはとても格好良かった。


「三太朗。今回はそなたに落ち度は無いが、糧となるものを探しておくのが良いと私は思う。災禍も乗り越えて育て。そなたにも学ぶべきところは必ずあるはずだ。例えば走るならば周囲を良く探らねばならぬことなど、な」

「う…っ、はい」

 笑い含みに言った張さんは、かなり正確に今回のことを把握している。

 そして彼は周りを警戒するのを仕事にしているのだ。その道の玄人から見てオレの足りないところはここだという助言だろう。文字通り痛い目に遭ったオレは、反発など全くしないで素直に頷いた。


 良い子だ、と頬をオレに擦り付けた張さんは、ではまたな、と言い置いて、だんっと地を蹴って飛び上がった。

 かなり上で翼が風を掴んで羽ばたくが、下に居てもけっこう強い風を受けてやっと我に返った。

 張さんの頬の羽毛はまさに極上の肌触りだったのだ。オレが反射的に、消えゆく過去の感触を正確に記憶に刻みつけようとしてぼうっとしてしまう程に最高だったのである。


「あ、ありがとうございました!!」

 やっとお礼を叫んだときには、もふも…張さんは高空で旋回していた。

 数回大きく円を描き、ゆるりと元来た空へ滑って行く。


――――今度会ったときに、成功した話を何か用意しておいたら、また褒めてくれるかな。


 煩悩上等。あのもふもふに触れるというなら気合も入ろうというもの。

 オレは密かに決意した。必ずやまた張さんの頬の羽毛に触らせてもらおうと。


「さて、では私もそろそろ行こう。お前はどうする?」

「あ、陣さんもお役目中にありがとうございました。オレは…あっ」


 大事なことに気が付いた。

 伝さんが戻っていないのである。


 慌てて見回したが、巨狼の咆哮を避けて飛んで行った方角はもちろん、目の届く範囲のどこにもあの美形カラスは居なかった。


――――逃げた。


「オレ一回館に戻ります!」

 素早くいくつかの考えを纏めて、そう結論する。

 もう馬鹿なことはしないと言ってはいたし、あのときの伝さんは嘘を言っていなかったけれども、気持ちというものは移ろうのだ。

 独りになって何かの拍子に暗い気分になれば、また自分を責めはじめるかもしれない。だとすれば行くべきところは―――


「そうか、では気を付けて行きなさい」

「はい!ありがとうございました、失礼します!!」


 オレは今度はヤタさんに会うために駆け出しかけて、あちこちの傷を思い出し、早足で妥協した。

 もう一度転ぶのは御免だ。





















 がさがさと、辛うじて低木の間に出来た隙間を潜り抜けて、明然は坂道をえんやこらと上っていた。

 目の前には、通る者が道と呼ぶなら何とか道と言えなくもない、木々の合間にちょっと出来た隙間が伸びている。

 これが道と言うなら、十回淹れた茶葉に湯を通した色のない液体も茶と呼べる。淹れた者が茶と言い張れば茶である。


「迷わない目印があるだけでも有り難い…」


 今の彼は無心であった。

 周囲の出来事全てが有り難く思える。

 何度も妖怪たちに己の仕出かしたことを責められ、窘められ、間違いを思い知らされた。

 そして彼は真面目であった。長い登山の道のりの間、黙々と足を動かしながら、何度も過去をなぞり、考え、悔いて、その果てにいつしか無我の境地に達しつつあった。

 見つかるも見つからぬも、御仏のお導きであろうと思うようになったのだ。

 今回のことも全て、己の未熟と向き合えという思し召しだと気付き、彼は試練に真摯に向き合った。


 修行者は肉体を追い込んで極致に至り、精神を高めようとする。

 疲れて何も考えられなくなったところに、雑念のないまったき精神を垣間見るというあれである。

 今の彼はまさに山岳修行者であった。


 上る程に段々木々の隙間が目立ち、夏山の登山で汗の浮いた禿頭(とくとう)にきらきらと陽の光を投げかける。

 宗教上の理由で綺麗に剃り上げた頭はとてもよく光った。


「止まれ」


 低く唸るような声が青年を止めた。

 小道を塞いだ影がのそりと立ち上がった。


 巨大な灰色の狼。

 その身は明然が乗って来た馬よりも巨大で、その顎はひと噛みで青年の上半身を食い千切るだろう。

 立ちはだかるはまさしく猛獣。しかも人の言葉を喋るならば妖怪変化の類。その気になれば死をもたらす存在を前に、明然は


「初めてお目にかかる。拙僧は東岱山寺(とうたいさんじ)の明然と申します」

「…」

 挨拶をして会釈した。

 角度が変わったことにより、頭から放たれた光線が狼の目を直撃して黄色の眼光がしぱしぱした。


 このお伽噺(とぎばなし)のような山において、彼はとうとう相手の見た目を気にしないで接する技を身に付けたのである。

 それほど弦造さんは怖い顔でも人格者であった。山歩きに必要だろうと手渡された杖はいつまでも大事にしようと若い僧は決めている。

 因みに陣に会った明然の反応を後に知ったお篠は舌打ちした。巨狼に腰を抜かせば良いと思っていたのだとかは語られず、定かではないが。


 見定めるように己を見る狼にひたと目線を返し、明然はつかぬことをお聞きしますが、と切り出した。

「灰色の髪のお子を探しております。どちらに居らっしゃるのか教えていただけまいか」

「ほう?」


 陣もまた、驚けば良いと思っていたので、肩透かしを食らった気分で目を眇めた。

「謝りたく思い、探しております。どうか、教えていただきたい」

 その声は意外に真摯だ。

 三太朗を化け物と罵る(やから)とは思えない。ひと言言ってやろうと身構えていたが、出端を挫かれた。


「…何故私が知っていると思う」

「鬼の方々と共に居るときに丁度、遠吠えを聞きました。それを聞いて鬼のご婦人が『高台に居る』と。あの遠吠えは貴方でありましょう。であれば、あのとき貴方は少年と共にいたのではと思ったのです」

「お篠か…」


 思慮深い狼は考えた。

 あの鬼女は三太朗をとても可愛がっている。『息子より可愛い』と言って(はばか)らない彼女が、滅多な者を寄越す訳はない。

 語られる言葉は明瞭で筋が通る。受けた印象も想像とは全く違う。

 ならば問題になるのは、この者が自分たちの守り育てるべき同胞にとって為になるのか否か。


「会ってなんとする」

 見返した目は直ぐそこの川の水のように澄んでいた。

「非道の行いを詫びます。そして彼が望むだけの償いを」

「それをあれが望まぬでもか」

「はい。彼が望まなくとも、彼にとっても必要なことでありますれば」


 その目はどこまでも真っ直ぐだ。

 言うことも、悔しいが共感が持てる。

 陣もまた、三太朗には逃げずに向き合い、区切りを付けるべきことがあるのではないかと思っている。

 そして、彼ならできるとも思っている。

 己の主もそう思ったからこそ、この僧の説得に応じたのだろう。

 忠実な狼の答えはひとつだったが、素直にはいそうですかと教えてやるのは業腹(ごうはら)だった。


 ぐるる、と低く唸り声を上げて一歩近寄れば、明然は思わず動きを止めた。

「貴様が言うか。たかが髪の色で己が同族も化け物と見る貴様が。どの口が彼の為などと言う」


 のし、とまた踏み出した太い足が、落ちた枝を踏み折る。

「貴様の言が信用されると思うてか。想い改めれば即ち許されるとでも?」


 ゆるりとしかし力強く動いた足が踏んでいた地面には、落ちていた石が場所はそのままに、深く埋まっていた。

「答えよ。返答如何によっては貴様のその頭、我が牙にて噛み砕こう」


 彼我の間はもう数歩分もない。

 互いの瞳孔までもはっきり見える距離で立ち竦んでいた明然は―――


「…何の真似だ」

 膝を折り、その場に平伏した僧を見下ろして、陣は低く唸った。

 下げた頭がちかりと瞬く光を捉え、跳ね返って陣の目に直撃していた。非常に眩しい。まさか狙ってやっているのではないかとちらと思ったが、偶然だと陣は結論付けて、さり気なく身を引いて避けた。


「許されることとはとても言えませぬ。ですが先ずは貴方にもお詫びを。貴方の大事なお子に酷いことを申しました。今となってはとんでもないことだと思っております」

「…今後悔するなら何故言った」

 伏したまま、明然は「己の不徳故に」とはっきりした口調で言った。


「拙僧は無知でした。ですが己の知ることばかりが世の全てと思い込んでおりました。知らぬが故に妖に怯え、それを認められなかったのです。飛び込んできた彼を物の怪の襲撃と早合点してしまう程、恐怖に目がくらんでおりました」

「今は知っていると?」

「世に知らぬことは数限りなく有りましょうが少なくとも、拙僧が相対してきた物の怪とは別に、人を慈しむ心ある(あや)しの者が居ることや、人の髪や目の色は黒色のみではないことは知りました」


 妖も人と同じく言葉を交わす存在であること、人の本質は外見には無いことを悟り認め、知らなかった過去の自分を悔いている。

 しばらくの沈黙の後に、陣はふと溜息を吐いた。これ以上は角が立つ。後に尾を引くしこりは残すべきではない。


「…三太朗は、館に戻った。そこの川沿いに真っ直ぐ下り、右手に見えた道を上れば早い」

「ありがとうございます…っ!」

 認める言葉を聞いて、ぱっと顔を上げて喜色を浮かべた明然の頭がぴかっと輝き、狼に目つぶしを食らわせた。

 三度目だ。(わざ)とか否かを陣は真剣に考えた。


 早速と立ち上がった明然は、子どもを案じる狼に、ふと思いついた質問を投げかけた。

「ときに…拙僧は見当もつかぬのですが、彼が何故この山に来たのかをご存知ですか」

「何故そのようなことを気にする」


 低く問い返した陣に、明然は慎重に言葉を選んだ。

「狼の仔が狼の親元で育つのが自然であるように、人は人のもとで育つのが(ことわり)でありましょう。普通であればそれが幸せなのは自明。彼のことを思い遣るあなた方が手元に置く程、彼は親元で不当な扱いを受けたのかと案じております」


 それは一種の賭け。

 どう言葉を選んでも、あの少年の為にならぬと思ったなら人里へ連れて行こうという心が匂う。それを察せば、手元から可愛がっている少年を取られまいとして、何をされるか知れない。

 妖たちがまるで親のように少年を慈しんでいると見たからこそ出た言葉。

 愛玩動物を愛でるように、籠に鳥を飼うようにしているのなら、まず間違いなくこの狼は牙を剥くだろうと、どこか片隅で考えながらも、明然は不思議と恐れなく狼の目を見返した。


 そして僧の見る目は確かだった。


「過去のことなど知らぬ。人はなぜ斯様に無駄なことを考えるのか。その暇があるならもっと注意深く現在(いま)を見れば良い。どんな道を来たとしても我らの群に居る三太朗は、我らが同胞に足る仔犬だ。必要なのはそれだけではないのか」

 いっそ不思議そうに狼は瞬いた。

 人と同じ言葉を話してはいても、狼の価値観はやはり人とは違うのだと明然は察した。だがそれは不快なものではなかった。

 恐らくだが、あの少年もそう思ったのだろうと、理由はないが確信した。


「…そうやも知れませぬ」

 なんとなくさっぱりした気分で相槌を打った明然に、「だが」と狼は何かを考えるように口籠った。


「三太朗は家族を大事に思っている。そんな話を聞いたことがある」

「そうですか…貴重な話、誠に有り難く」

 礼を口にし会釈した明然に、狼は静かに言った。


「あれはあまり過去を語らぬ。家族を慕っているのは確かだろうが、自ら望んでここに居る。あれは大人びて見えようとも幼い。あまり無理に訊き出してくれるな」


 はい、と答えるのを確かめると、巨狼は(こだわ)りなく踵を返した。

 驚くべき速さと軽やかさで飛ぶように駆け抜けたのを見送って、明然は水音に向かって茂みを掻き分け、急な斜面を一気に滑り降りた。

 無駄な時間ではなかった。だが、もう少しで少年に追いつけるかと思うと気が急いた。


次話はちょっと遅れるかもしれません。。。

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