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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
72/131

六十四 盆 四


 がつっ。


 掴んで引いた襖は、お馴染みの手応えを返して開くのを拒んだ。

 開かないと知っても、明然(めいぜん)は気にすることなくさっさと歩き出し、次の襖へ向かった。


「誰ぞ居られませぬか!」


 がつっ。


 同じ手応えを感じて、またもすたすたと歩き、更に次の襖も開けられずに次へ向かう。

 彼はただ黙々と同じことを繰り返す。もう何回繰り返したかも忘れてしまった程、何度も何度も。


 何処に行ったか分からぬ少年を探すには、行き先の見当もつかない外よりも、先に館の中を探すのが良いだろうという判断のもと、こうして歩き回っているのだが、実は判断に自信が持てないでいたりする。


 そもそも屋内だからといって範囲が有限だと思うのが間違いのような気がしてならない。

 幾ら歩いても突き当りに辿りつけない廊下に迷い込んで、嫌と言う程思い知った。

 この山の物の怪がその気になれば、館の中はどんな屋敷よりも広くなる。もしかしたらこの山そのものよりも広くなるのではないか。意のままに広さを変えられるのだとしたら、館の中にあの少年が居たとしても、隠されてしまってどうやっても辿りつけないのではないか。

 そして更に悪いことに、明然にはその妖術を破る手段がない。


「ええい、考えるだけ無駄なことよ!」

 迷いを振り払い、更に気合を入れて次へ向かう。


 襖。開かない。襖。開かない。扉。開かない。木戸。開かない。襖。開かない―――


「まだまだ!」


 襖。開かない。木戸。開かない。木戸。開かない。襖。開かない。木戸―――


 すぱぁあん!


「あ」


 明然は、間抜けた声を洩らしたまま固まった。


 目の前に、今開けようとしていた木戸はなかった。

 代わりに空間がある。空間というよりも部屋だ。いや、部屋というには語弊があるか。


 足元は、木戸から少しの板間があり、先は一段下がって土間になっている。

 向こうには(かまど)が三つ並び、幾らかの桶や盥が壁際に並ぶ。あちらには水瓶や調理台。こちらには薪も一山。


 そう、そこは所謂台所であった。

 美味そうな匂いが満ちて、他の場所より仄かに(ぬく)いのは、今まさに竈の火が鍋を温めているからだ。


 なんと、明然自身も予想外なことに、ついに開く扉を探し当てたのである。

 随分派手な音がしたのは、無意識に開かないこと前提で、少々強い力で引いていた証拠であった。


 こうして目出度く、念願の室内探索へ移れることと相成った。…それだけなら良かったのだが、現実はそう上手いこと出来てはいない。


 くつくつと鍋が煮える音が、静まった台所に殊更大きく響く。

 竈の前に立ち、鍋の蓋を開けて玉杓子(たまじゃくし)を突っ込んだまま、こちらを振り向いて固まっている、黄色いキツネ。


 調理台の前に立ち、菜切り包丁を大根にあてたまま、こちらを見上げてやはり固まっている、茶色のタヌキ。


 注目されている明然もまた、呆気にとられて身動き出来ないでいた。


 繰り返し扉を開けようとするという単調な作業の中で、彼はぼんやりしてしまっており、そんな中、扉が開いた驚きと、獣が人のように着物を纏い、立って器用に料理をしている状況に、ついて行けなくなっていたのだ。

 ちなみに、その日色々あって疲れていたのも要因かもしれない。


 思考停止したなりに、明然は焦りを覚えた。

 理解が未だに及ばぬ物事は取り敢えず横へ置き、気になる一点へ目を向ける。


「…もし。鍋が吹き零れますよ」

「え?あああ!あっちぃ!きゃうん!」

「へ?あわわ!大丈夫ですか!?ほあああ!」


 丁度じゅうう、と音を立ててあぶくを溢れさせた鍋を、慌てて火から下ろそうとしたキツネが、熱い部分に触れてしまったのか、悲鳴を上げて飛び上がる。タヌキもまた大慌てでキツネの元へ駆け寄った。

 タヌキはなぜか、包丁を放した手には団扇(うちわ)を持って、一所懸命にキツネを扇ぐ。キツネもキツネで、飛び上がった拍子に放り出した鍋の蓋が頭に降ってきてまた悲鳴を上げ、その拍子に振り上げた玉杓子から熱い汁物が飛び散って、ふたつの悲鳴が重なる。

 阿鼻叫喚の台所で、どうにか鍋の始末がついているのは奇跡だ。


「…」

 明然は、置いてあった下駄を引っ掛けて土間へ降りると、近くの水瓶に自前の手拭いを浸した。






「いやあ、すみませんなぁ。びっくりしてしまいまして。助かりましたー」

「本当に、大騒ぎしちゃいましてすみませんねぇ。慌てると何をしていいか分からなくなるもんで」

「いや…」


 明然は、言うべき言葉が見つからず、場繋ぎに湯呑みの中身を一口啜った。

 豊かな香りと控えめな苦み、仄かな甘味が口の中に広がって、思わずほうと息を吐いた。丁寧に濃く淹れた一番茶だ。


 良い茶葉を使っている。その上、沸いたばかりの湯で雑に淹れればこのように豊かな風味は出まい。

 茶をきちんと知った玄人の仕事である。


 …とそこまで評して感心し、明然はふと冷静になった。正しくは、冷静になってしまった(・・・・)


「おや、どうしました」

「お代わりを淹れましょうかねえ」

「…お気遣いなく」


 後足で立ち上がり、喋り、料理し、ついでに茶を淹れるのが上手いという獣二頭。百人見れば百人ともが妖怪だと断言するものらを相手に、濡らした手拭いで前足を冷やし、ひっくり返しそうになっていた足元の桶を退かし、片付けを手伝った礼としてもてなされているという現状を正しく認識して頭痛がしただけである。

 蟀谷(こめかみ)を揉むぐらいは見逃してほしい。


――――何故私は物の怪と仲良く席を共にしているのだろう…。


 明然は物の怪を調伏(ちょうぶく)する側の筈だった。

 人に取り憑いた悪霊を払い、病を運ぶ妖魔を退治し、人を殺める物の怪どもを打ち払う側の陣営だった。昨日までは確かにそうだった。だから昨日キツネに化かされたという失敗は、退魔僧にあるまじきことだと未熟なりに反省しきりだった。

 そう、未熟だ。この二日で退魔僧を名乗るのは自分には烏滸(おこ)がましいとすら考えた。だが、だからといって立ち位置を変えた心算(つもり)はない。


「夕餉の支度はもう終わりでしたからねえ。あとは菜物を茹でてお浸しにするだけですから」

「そうそう、丁度もう休憩にしようかと言ってたんですよう」

「休憩したら洗濯物を畳みましょうかねえ」

「そうですなあ。あ、客間のお布団は干しましたから、気持ちが良いと思いますよう」


 明然は、今まで数度参加した調伏で掴んだ印象が、砂で出来た山のように形が解けて頼りなく崩れ去ろうとするのを感じた。

 生者を羨み憎んで呪い殺そうとする悪霊。夜闇に潜み、戯れに人を襲い喰らう醜悪な悪鬼。旅人を惑わし巣穴に誘い込んで人の生気を啜る魔物。

 相対してきたモノらは、ひとつの例外も無く悪逆にして非道。心など無く、言葉を交わすなど思いもつかない悪の権化であった。

 その上奴らはしぶとく、少しのことでは滅することは出来ない。倒れたと思い油断すれば、実はまだ生きていて仲間がやられてしまうということも良く有ることだと教えられた。


 未だ調伏の参加は只の数度だが、この認識が正しいと思うに充分な経験をしてきたと思う。

 物の怪は害悪だと。

 先達たちには油断するなと繰り返し繰り返し叩き込まれ、自分もまたそれが正しいと思う現実を眼に映してきた。


 なのに、だ。


「はいどうぞ。今日のおやつのくるみ餅ですよう」

恵然(けいぜん)さんにはもう持っていきましたから、気にしないでどうぞ召し上がれ」

「…かたじけない」


――――なぜ茶菓子を用意する。なぜ妖魔が人を持て成す。そもそもなぜ鍋や汁物で熱がる…!


 あのしぶとく邪悪な物の怪どもと、目の前の光景には眩暈がするほど落差があった。しかし、物の怪なのだ。こいつらはあれらと同類の筈なのだ。

 なのに、特にキツネなどは自分も師も騙されかけた危険な物の怪だというのに、どうして昨日見た物の怪と目の前のキツネが結びつかないというのか。


 葛藤を知ってか知らずか、化け狐と化け狸は―――そう呼ぶのは物凄く違和感を伴うことに―――のほほんと、全く無害そうに茶を啜っている。


――――御師(おし)さま…!私はどう考えれば良いのでしょう…。


 混乱極まり、ここに居ない師に助けを求めたものの、思い浮かべた師は、湯呑みを抱えくるみ餅を頬張ってまったりしていた。

 そしてそもそもここに明然を連れて来たのは師だということを思い出した。

 この事態の大本は師といっても過言ではないと、想像の師に恨みがましい目を向ける。ほいほいついてきた自分のことを棚に上げているのはこの際考えないでいた。


「それにしても、急に入って来るからびっくりしましたけどあんまり悪い人じゃあなさそうですねぇ」

「そうですなあ。まあ、さんたろさんが庇うんだから、そんな悪い人じゃあないとは思ってましたけどなぁ」


 のんびりと言い交わすのが耳に入って、明然は慌てて顔を上げた。


「さっ…あの少年は拙僧のことを何か…?」

 名を呼びかかって、寸でのところで言い直す。

 それに気付いているだろうに、キツネとタヌキは幸い機嫌を損ねた様子はなく、細い目をこちらに向けて揃って首を傾げた。


「さんたろさんですか?」

 頷く明然を前に、二頭は困ったように顔を見合わせた。


「…さんたろさんは、怒ってたみなさんを止めてましたねぇ」

「もう別に気にしてないから、仕返しなんて卑怯なことをして欲しくないって言ってましたなぁ」

「暴力を受けたんじゃないから必要ないってねぇ」

「自分は無事で、主さまも許してるから、もう気にしないで下さいって一生懸命に説得してました」


「…そう、ですか」

 肩を落としてそう言う以外無かった。暴力を受けてはいないと言うが、体ではないところがその比ではない程傷ついていた。最後に見た彼はそんな顔をしていたのを否応なく思い出す。

 庇われるよりも(なじ)られた方が気が楽だ。


「もしもし」

 タヌキがそっと顔を覗き込んで来る。

「あのですね、わたしらにはあなたがそんなに悪い人には見えないんですよねぇ」


「そうそう」

 キツネが首を傾げてこちらを見る。

「どうして皆さんが怒る程、さんたろさんを苛めたりしたんですか?」


「苛めた…」

 そうか、自分はあの子どもを苛めたのか。と、変なところに納得する。

 酷く当たったことが、恥ずべき物の名前を与えられて、重く心に沈む。


「…全て拙僧の不徳の致すところです。彼が襲ってきたと勘違いしてしまって…。今は…遅いとは分かっておりますが、とんでもないことをしてしまったと反省しております…」

 気不味くて顔を上げられなくなった明然に、あれまあとキツネとタヌキは溜息を吐いた。


「勘違いですかぁ。それは不運でしたねぇ」

「まあ、さんたろさんが走ってくるとびっくりするぐらい勢いがありますからなぁ」

「そうそう、近頃どんどん足が速くなって」

「いやいや、元から主さまがびっくりなさるぐらい速かったですし」

「無理ないですねぇ」

「無理ないですなぁ」

 意外にも理解が得られて、密かに驚いた。あの女や山の(ヌシ)のように、怒ると思っていた。


「彼に謝りたいと思い、探しております…居場所をご存知ありますか」

 一縷の望みをかけて尋ねたが、返答は否だった。


「怒ってる方たちを止めるって言って、外に行きましたよ」

「外ですか…」


 明然はがっくりと脱力した。

 無限廊下を彷徨い、女の怒りを浴びた後の長話に、数多くの開かない扉に向かったことの全てが徒労であったのだ。どっと疲れたのも無理はない。


 その肩をぽむっと二色の前足が叩いた。

「さんたろさんは、帰ってきたときよりはだいぶ落ち着いてましたし、ちゃんと話せば聞いてくれますよ」

「さんたろさんは、優しい子ですし賢い子ですから、真剣に話せば最後には許してくれますよ」

「ええ…ありがとう」


 慰めにぽつりと礼を言えば、二頭はいえいえと返された。

 なんとなく勇気付けられて立ち上がりかけたが、ふと興味が湧いて少し躊躇う。

「彼は…どんな人ですか」


 ぽつりと、独り言のように呟いた問いにも、彼らは拘りなく答えた。

「さんたろさんですか。そうですねえ、背伸びをする子ですねぇ。しっかりしようと頑張る子です」

 タヌキが垂れ目の目じりをさらに下げる。獣に表情があるなど今初めて知ったが…タヌキは笑っているように見えた。


「そうですなぁ。とっても良く出来る子ですなぁ。それでみんなに褒められるんですが、照れてすぐに真っ赤になる子です」

 キツネが口の端を吊り上げる。獣に心があるとは思わなかったが…キツネは誇らしげに胸を張っているように見えた。


「でもまだまだ子どもですから、失敗しちゃうことも沢山あります」

「その度に考え込んで、迷って悩んでますけどな、ちゃんと乗り越えて立ち直ります」

「ああそれと、意外といたずらっ子ですねぇ」

「後ろから近付いてわっ、とやられたこと、ありますなぁ」

「次朗さんと喧嘩して、部屋に蜘蛛をたくさん放したこともありましたねぇ」

「喧嘩する程仲が良いと言いますからね、仲良しさんですよ勿論」

「そうそう、どんな方とも気持ちよく付き合う子ですね。みんなと仲良しさんなんですよ」

「ちょっと表情は読みにくいですけども、笑うと可愛いんですよなぁ」

「そうそう。あんまり顔に出ない性格なんですよぅ」

「ご飯を残さない良い子です。いつも美味しいって言ってくれるので、作り甲斐がありますなぁ」

「甘いものも大好きなんですよ。でも他の方の分を取ったりしないで我慢できる子ですねぇ」


 語られたのは、先の女の話とはまた少し違う視点の、同じ少年の話だ。

 女は如何に少年が他より優れて居るのかを力説したが、今語られたのは、何処にでもいるような良い子の話。


「そう、ですか…」

 明然は複雑な心境で呟いた。

 少年を語る言葉の端々に、彼を可愛がる心が嫌でも分かった。近しい視点で、親しい目線で、少年を身内のように想っていなければこんな話は出来ないだろう。


「話してくださり、感謝いたします」

「いえいえ、こちらこそ助けてくださってありがとうございました。晩御飯は期待してくださいね」

「いえいえ、大したお構いもできませんで。お勝手から出た方が玄関に回るより早いですよ」


 ちゃんと会えたらいいですね、と手を振る二頭に会釈をして、明然は勝手口から外に出た。

 物の怪の中に居る彼を、人として生きるように、山を下りるよう説得せねばと思っていたというのに、決意が揺らいでいた。

 人なのだから、人の中に居るのが正しい筈なのに、それが正しいのか分からなくなってきている。


 明然の中の物の怪の印象が揺らいでいるのだ。それに気付けば、芋づる式に様々なことを悟る。

 例えば、どうやら自分は、人の中に居た方が良いと思っているというより、少年が物の怪の傍に居ることがいけないと思っていたらしいということ。


 この山の物の怪が、どうやら少年を温かい目で見守っているということを納得するにつれて、決意が鈍るのはある意味当たり前だった。

 物の怪が彼にとって悪いものではないなら、自分の決意の前提が覆る。


「…本当に、私は無知だ」


 見て話して、接してみれば、こうと決めてかかっていた自分に嫌でも気づく。

 全てに無知な心算であれと師に言われて、何を知らないというのだと不満に思っていたが、師が正しかったのだと今なら言える。素直に受け入れれば良かったものを、出来なかったのは自分が(おご)っていた所為。


 どうやら自分は頭が固いらしいと、重い溜息を吐いて山道へ踏み入った。

 ともかく彼に謝らなければ。





















 ばさりと羽音を鳴らして黒い翼が近くの枝へ降りる。

「見つけたわ。この先の(くぬぎ)の木の下で待ってて下さるそうよ」

「ありがとうございます。助かりました」


 オレは(ツテ)さんにお礼を言って、ふかふかのつやつやを抱え込んだ。そのまま早足で歩き出す。

「…ねえ」

「何です?」


 (ジン)さんが一向に見つからなかったので、仕方なく空から探してもらったのだ。

 やはり探し物は視界が広い方が捗る。


「あたし、なんで当たり前のように抱えられてるのかしら」

「別に良いでしょ。それとも嫌?」


 さて、橡の木の下ということは、少し登らなきゃいけないが、右手の枝道の半ばから少し外れて、茂みを抜けると近道か。


「…嫌じゃないけど、飛べるし歩けるから、下ろしてくれる?」

「だめ」


 きらきらした木漏れ日を見上げる。

 まだ日は高いが、時間は有限だ。陣さんはどう説得するのが一番良いだろう?


「ねえ、手が塞がってたら危ないでしょう。転んだときとかね。慣れてても山歩きなんだから」

「伝さんが飛んでも歩いても、オレと速さが違うんだからこれが一番良いでしょう。それに、これでも天狗の弟子の端くれですよ。何もなかったら転んだりしませんって」


 陣さんがその気になっているなら、もう何かしらやってそうな気はするので、それが無いということは意外と説得は簡単かもしれないな、と思いながら、茂みの脇をすり抜ける。

 何より陣さんは物静かで理性的だし、ちゃんと話せば大丈夫だと思う。


「なあに、その理屈は。次朗ちゃんなんて大人になってからも随分転んだり滑ったりしてたわよ…」

「へえ」


 不満そうな伝さんを撫でる。

 この温もりと柔らかさを、今は手放したくは無かった。さっきの動揺はまだ尾を引いていて、気取られないようにするのに骨が折れる。そうして波立った心が、腕に触れた温もりに癒されていく気がしていた。

 だから、本気で抜け出そうとしないのに甘えて、我が儘と分かっていたけど抱っこさせてもらっている。

 …あんなに簡単に泣いてしまったのを言い触らされないように捕まえているだなんてそんなことは、ほんのちょっとしかない。と、思う。

 この件については上手い口止めが思いつくまで保留だ。


「んー…三太朗さん、あなた撫でるの上手いわねぇー。あー、そこそこ、そこが痒いの」

「あ、ここ?」

「そこー。ああ、本当はお屋形(やかた)さまの弟子に羽繕いしてもらうなんて良くないのにぃー」

「こっちは?」

「あー…とっても気持ちいいーー」

 嘴や足が届かないであろう後頭部をかりかりすれば、伝さんがうっとりと気持ちよさそうに目を閉じた。


 さて、伝さんは満足そうだが、実はオレも満足だ。


 それは『喜んでもらえてオレも嬉しい』とかいう献身的な喜びではない。そっちじゃなくて、煩悩に近い方のあれだ。


――――あーこの羽毛!さらさらつやつやのふっかふか!!羽の量といい質といい軽さに温かさに適度な重み!!最高!!


 オレは堪能していた。この上なくご満悦であった。満足だ。

 オレは至高に出会った。他にも良いと思えるもふもふは沢山ある。どれも誰も彼もが素晴らしい。悪いところなど何ひとつない。比べるなどとんでもないことだ。だが、失礼を承知で伝さんは至高の一角と言って差し障りが無いと断言できる。

 これを触っていられるなら、多少の歩きにくさなど毛ほども気にならない。

 ああ、もし許されるならぎゅっとやりたい。だけど流石にそれは自重している。種族が違うとはいえ、大人の女性だし。抱っこはあれだ。ほら、種族が違うから許されて然るべきだ。

 さっき捕まえたときは無我夢中であんまり覚えていないのが悔やまれる。


「あ、陣さん!」

 そうこうしている間に、橡の木の根元にゆったりと体を伸ばしている灰色の狼を見つけた。


「三太朗。私に用だとか…」

 穏やかな眼差しが、オレの腕の中に止まり、すっと目が(すが)められる。

「う…陣さま…これはその…」


 彼女の立場からすれば居辛いだろうし、上下の関係にきっちりした陣さんなら不快に感じるんじゃないかと思う。

 半分はオレの我が儘で抱っこさせてもらってるのだから、オレは当然彼女にその所為で不快な気持ちになって欲しくは無い。まあ、もう半分はお仕置きという意味合いがあるのだけども、そこは今は関係ない。

 立場だとかそういうくだらないもののために、このもふもふを手放せと言われては堪らないのである。


 だけどまあ、この場を切り抜けるのは至極簡単だ。


 気不味そうに身動ぎした伝さんを、オレは寧ろ見せびらかした。

「伝さんと仲良くなったんです!」

 心のままににっこり笑って、ふかふかをわしわし撫でて堪能する。うん。たまらん。


 ご機嫌な子どもを眺めた陣さん(親馬鹿)は、オレの目論見通りに目元を緩めた。


「そうか。良かったな」

「はい!」

 終了。


 全員漏れなくオレを幼児扱いする親馬鹿勢が、大人の分別を強要して、身分やら立場やらを理由に(たしな)めることは無いだろうという読みは見事に当たった訳だ。

 目を白黒させている伝さんはどうやら、陣さんが隠れ親馬鹿だと知らなかったらしいが、これが現実なので諦めて貰う他ない。


「それで、用なんですけど…昼前のことについてちょっとお願いが」

「ああ、その件か」


 陣さんは苦々しい顔をした…ような気がした。顔は動いていないけれど、オレには分かる。

 やっぱり陣さんにも話は伝わっていたのだ。


「皆さんにも言っているんですけど、あの人には何もしないで欲しいんです。オレが怪我をしたのはあの人の所為じゃないんです」

 分かっている、と陣さんは頷いた。

「主がお許しになったのなら、私が何かをする気はない」

「良かった。ありがとうございます」


 有り難いことに、陣さんは大人の対応だった。気に入らない様子ながらもすんなりと了承してくれて安心した。

 ほっと息を吐いて、見上げる伝さんに笑い掛けたところに「だが」と声が掛かった。


「その身を傷つけてはいまいが、奴の所為でお前は随分嫌な目に遭っただろう」

「…まあ」

 良い目とは絶対に言えないのは確かだから、曖昧に頷いた。


 だがまあ、仕方のないことだ。


 そっと伝さんがオレに身を寄せてくる。ゆったりと立ち上がった陣さんがこちらに歩み寄った。

「それが我らには(いきどお)ろしい」

「えっと…ご心配かけて済みません…?」


 生きていれば嫌な目になんて山ほど遭うのに、そこまで怒ることなのかが、いまいち分からない。当たり前のことに一々傷つくことなんてないはずだ。首を傾げたオレに、もどかしげな心がふたつ寄り添う。


「三太朗。害されるのは、躰ばかりではないのだ。その精神、魂もまたお前自身。目に見えぬところもまた、害されてはならぬと私は思っている」


 間近で覗き込んで言い聞かせる狼の目は、とても温かい色をしていた。

 戸惑うオレがその中に映って、頼りなげに見返す。


「これだけは覚えておいて欲しい。我らは、どれがどこであれお前が傷つくのを見たくはないし、害した者を好きにはなれぬ」

 覚えていてほしい、と言われたなら、覚えておこう。そう思って、「わかりました」と返事をした。


 やっぱり陣さんも過保護だな、と心の中で呟いた。



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