六十三 盆 三
深い枝葉を割って、オレは川辺の岩の上へ降り立った。
「んーー…ここにも居ないかぁ」
弦造さんたちと別れた後、陣さんを探して歩いているのだが、結果は今のところ芳しくない。
木々が茂った見通しが悪い場所から出ればもしかして、と思ったけれど空振りだ。
「まあ…仕方ないけどな」
そもそも、陣さんの行動範囲は他の方たちと比べて断然広い。その風のように速く走る脚と巨体に見合った体力を駆使して、白鳴山全体を見回っているのだから当たり前だ。
あっちこっち歩き回るのだから、それを探したとして、必ず見つかるとは限らない。
白鳴山は大きな山だ。オレは日暮れまでに行って帰ってくることが出来る範囲を遊び場にしているけれど、館の反対側や、大きな崖とか密集した木々の向こう側なんかの、行くのに難儀しそうなところはあまり行ったことがない。
あまり、だ。
何度か冒険心に任せて、調子に乗って突き進み、気付いた頃には日が暮れてしまって困ったことがあったけれど、それでも山の全部に行ったことはない。
因みに周りのカラスがオレの居場所を館に報せてくれていたのか、日が暮れて直ぐに陣さんが迎えに来てくれた。怒られるかと思ったけれど、誰も一切怒ったりしなかった。
皆して『夢中になるほど楽しかったのか』と、何をして遊んだのかをにこにこ尋ねただけである。
夜の山は危ないというのに、怒ることがないっていうのはどうなんだろう。暗くなって道を失い、夜闇の中で獣に襲われたりするかもしれないとは思わな…いんだろうな。
道に迷ってもカラスが居所を知ってるし、陣さんが巡回してるから、人を襲うような危険な獣は居ないし、そもそも天狗の山で天狗に守られているオレが夜だからと言ってあんまり危険なかったわ。
精々虫刺されとか、足元が分からずに転んだりするかもしれない程度か。
まあ、暗くなってから無闇に歩き回るような馬鹿なことはしないけど。
あ、さてはみんなオレが暗くなってもその場でじっとしてるって分かってるからあんまり心配してないのかな。その辺りは信頼されてるのかな。
陣さんの姿を求めて見回しながら、取り留めも無いことを考えていたら、頭上に張り出した枝に、カラスが留まって見下ろしているのを見つけた。
「あ、そういえば」
オレは立ち止まって、黒い姿を見上げた。
「さっきは師匠やヤタさんに報せてくれて、助けてくれてありがとうございました。とても感謝しているって、みんなにも伝えて下さい」
にこりと笑って頭を下げる。
カラスたちが見守ってくれていたお蔭で、あの出来事は直ぐに収束したのだ。それを想えば自然と頭は下がった。
というか、オレが外で安心して居られるのも彼らが居てくれるお蔭だし、館の面々が、オレが何処に行こうと何も言わないのだって彼らのお蔭だ。カラスたちが居なければ、きっと常に誰かが付き添うことになっただろうし、そんなのは遠慮したい。
そう考えてみると、オレってカラスたちに世話になりっぱなしだった。
そのカラスは、じっとオレを見つめて、かあと鳴いた。
人に比べてちょっと変わった感じではあるけれど、とても温かな気持ちになっているのを感じ取った。…前はカラスの心を感じることは出来なかったけど、何だかどんどんオレって鋭くなってる?
翼を鳴らして飛び立ったのを見送りながら、複雑な気持ちを持て余した。
他人の感情が読めるというのは、自分のことながらあまり好きではない。出来ればなくなればいいと思っている。だけど、言葉を喋れない者たちと接するのには、とても有効なのだ。
そういえば、この山に来てから、この感覚が嫌だと思うことが無くなったことに気付いた。
「…みんな、オレを嫌がったりしないからかな」
どうやらオレは、嫌いだと思われなければ、これを別段嫌悪しない人間だったらしい。
嫌いだと思われてるのが分かるから嫌だったんだろうか。
例え感じ取れなくなったからと言って、嫌われているのは変わらないし、分からなくなった分対応しにくくなるのは考えるまでもない。というか、危険を察知できずに酷い目に遭うだろうに。
――――そうは思うけど、やっぱり嫌なものは嫌だなぁ。
嫌悪を浴びるのは辛いし、その上で直接その心が分かるのは苦しい。
だけど、それが無かったとしたら別段嫌な力ではないのかもしれない…そう、今の環境になってから思う。
川沿いを上流へ向かいながら、とてもとても今更ではあったが、オレは自分のことを頭の片隅で考えた。
他人に注意することに手一杯で、今まで自分のことを顧みる余裕が無かったのに気が付いたからだ。
「みんな、優しいし、オレのこと好きだし」
ちょっと自惚れが入ってるようなことを呟いてみる。そしてそれは多分事実だと思う。
「…オレも、みんな好きだし」
当たり前のことを口にして、ちょっと笑った。口に出すまでもないことだ。
館の面々はもうオレにとっては家族のようなものだ。とても大切で、大好きだ。
「それ以外は…」
過去出会った、それ程多くない、しかしオレには多すぎた人々を思い出す。それらは群像だった。個では思い出したくもないものだと思っている自分が居る。
けれど、嫌でも個で思い出してしまう、一番最近出会った人が浮かんでしまって、思わず顔を顰めた。
「ああ!ここにいたのね!!」
若い女性のような高い声がして、驚いて足を止めたオレの前に、一羽のカラスが舞い降りた。
そんなに大きくはないし、眼が多かったり足が多かったりしない、普通のカラスに見える。オレにはその辺りに居るカラスと並んでも見分けがつかないだろう。だけど、喋るってことは、妖怪なのかもしれない。
ただ、その漆黒の羽は他のカラスに比べて艶やかに光を弾く。多分、カラスの間だと美人なんじゃないだろうか。
「始めまして。あたしはツテと言います」
突如やってきたカラスは、驚いているオレを、数歩先から見上げて挨拶してきた。
ヤタさん以外の喋るカラスは初めて見る。しかも、挨拶に合せてお辞儀をしてくれる、礼儀正しいカラスだ。
「始めまして。三太朗です。ツテさんは師匠の配下の方ですか?」
毎回知らない妖に出会う度の恒例になった文句だが、予想に反してカラスは首を横に振る。
「いいえ。あたしはお屋形さまではなく、ヤタさまの下の者です。だから、あたしに敬語は使わないで良いですよ。ああでも、歳を重ねて変転し、更に言葉を覚えたのを認めてくださって、名前を賜ったの!だから心は直下の方々と同じよ!お屋形さまのためにならどんなことだってできるわ!!」
高らかに言いながら胸を膨らませる様子はとても誇らしげで、師匠のことだろう、"お屋形さま"と呼ぶ声には真っ直ぐな尊敬と喜びが籠る。
出会って直ぐだけど、素直で純粋なのがよく分かる。その上師匠を慕っているのだから、悪いカラスでは絶対にないだろう。
「へえ、お名前は師匠に貰ったんですね。変転…ってことは、ツテさんは妖ですか?」
「そう!文を運ぶだけじゃなく伝言役としてお役目を頂けるようになったから、"伝"と付けて頂いたの!三十年を経て只のカラスから"渡鴉"に成ったから、とても遠くへのお遣いも素早く出来るようになったわ!知っています?渡鴉は天狗の方々によくお仕えするのだけど、お屋形さまの渡鴉はあたしを含めて三羽しかいないの!あたし、お屋形さまの文をもう何度も運んだのだけど、あたしが一番早くて正確だって褒めてくださったの!!」
褒めて貰ったと浮かれる様子は無邪気でとても好ましい。弾けるような喜びに、自然とこちらもにこにこしてしまう。ちょっと敬語が砕けるのも愛嬌があって逆に良い。堅苦しいのより親しげな方が好きだ。
同時に密かにちょっと背筋を伸ばした。只のカラスなんてとんでもない。ものすごく年上だったのだ。敬語は使わなくて良いって言われたけど、敬語を使うことに決めた。
「ええと、伝さんはオレに御用なんですか?何か師匠から伝言とか」
探していた様子だったのを思い出して訊いてみる。急な用事だったら多分、見知った方が来るとは思ったのでそこまで大事なことではないと思うけれど。
伝さんは、ふっかり膨らんでいた羽を寝かせて急に細くなってしまった。浮かれた様子は拭い去られ、打ちひしがれて。
今まで名誉と尊崇に顔を輝かせていたというのに、今そこに漂うのは悲哀と後悔だ。
気楽に尋ねたオレは驚いた。
「三太朗さん。あたし、貴方に謝ろうと思って探していたんです」
「謝る?」
謝るも何も初対面である。話したのも最初なら、会ったのも初めてだ。オレに謝るような何をするにもこれからだろうに。
だが、伝さんはひとつ頷くと、かあと力なく一度鳴いた。
「あの二人の僧侶を案内したのはあたしなんです。霧の壁の外から導き入れて…その所為で貴方には怖い想いをさせてしまいました。本当にごめんなさい」
オレはきょとんと瞬いた。
「そんなの伝さんの所為じゃないでしょう。謝る必要なんて全然ないですよ。案内したのは師匠かヤタさんの指示でしょう?伝さんがあの二人を嗾けたとかならまだしも、自分の仕事をしただけなんだから、何も悪くないですよ」
オレは至極当然なことを言っただけなのに、伝さんは感謝が籠った眼差しをこちらに向ける。けど、消えない後悔と悲しみがオレの心に引っかかった。
「そう言ってくれてありがとう。許されなくたってどうしてもひと言謝りたかったから、救われた気分です。…じゃあ、あたしはもう行きます」
「え、待って!待ってください伝さん!!」
ばさりと翼を鳴らして飛びかけるのを、思わず制止した。慌てて近寄って、両手も出して押し留めると、やっと翼を畳んでくれた。
彼女の心は尋常じゃなかった。悲しみと後悔、諦念と、決意。
オレは全部を感じ取れるなんてことはないけれど、分かるだけでも痛い程張り詰めて、何かに思い詰めているのが分かる。
このまま日常に戻る、だなんて到底思えない。
オレは伝さんの前に座り込んで屈んだ。これで目線が同じになる。
驚いた様子の彼女の目を覗き込んだ。
「伝さん。本当に、伝さんの所為じゃないんです。あの二人が何をするかなんて、伝さんが分かりっこないんですから」
「…そうね。ありがとう。じゃあ、あたし、もう行かなきゃ」
「急ぎのお仕事ですか?」
「そうよ。お仕事。とっても急ぎなの」
嘘だ。
「どんなお仕事です?」
「書簡を運ぶのよ」
「書簡って、用意する前に伝さんが呼ばれるものなんですか?書き上がったから運んでって頼むのが普通だと思うんですけど」
「…今回は予定されてたから、この時間に来てって言われたの」
「でも、今は来客中ですよね?曲りなりにもお客さまが来ているんだから、この時間に呼ぶのって可笑しくないですか?普通はお客さまが来る前か帰った後ですよね」
「…予めご用意なさってて…」
「ならどうしてそのときに頼まなかったんですか?急ぎなんですよね?」
「…」
伝さんは、とても良い方なんだと思う。
だってこんなに嘘が下手だ。それに、誤魔化し始めた頃から罪悪感がすごい。根っから素直で、真っ直ぐな方なんだろう。
そして、責任感がとても強い。
「ねえ、正直に話してください。何しにどこに行くんですか」
「…」
黙り込んだ黒い姿から感じる決意と緊張は、覚えがある。
状況と併せて考えると、伝さんが何を思っているのかは、自ずと見当がついた。
オレは感謝した。…以前にこんな心を感じていなければ、伝さんを行かせてしまったかもしれないから。
オレの友達、宜和が居てくれて良かった。
見当が付いたなら、幾らか手が思いつくので、一番穏便なのをやってみることにした。
「伝さん、急ぎのお仕事じゃなかったら…もしかして、オレとお話するの、嫌…?」
しょんぼりと眉を下げたら、伝さんはぎょっと動きを止めた。
「え!?そんなことないわよ!?あり得ないわ!」
「だって…嘘ついてまで離れたいんでしょう?」
「あの、それは、えっと…」
「オレ、何かやりましたか…?」
「してないし、嫌だなんてそんなことは絶対ないわ!!」
おろおろと下から顔を覗き込んで、困り果てた様子でかあと鳴く。
あまり困らせるのも可哀相だけど、足止めが成功して内心胸を撫で下ろした。さて、そろそろ話を次に進めようか。
「ああ、そんな顔しないで頂戴。あのね、貴方ってあたしたち、ヤタさまの部下にとっても人気があるのよ」
「え」
…と思ってたら思いがけない話が始まった。
「貴方が来た当初って、すごく危なっかしくて、目が離せなかったのよね。まだ分からないかもしれないけど、お屋形さまのお弟子さんだからあたしたちにとっても大事な方なの。だから、みんなあなたが怪我しないかってすごく冷や冷やしてたの。ほら、人ってすごくひ弱だから」
そりゃ、妖怪に比べたら人なんかすごくひ弱だろう。心配してくれたのはわかる。それに、この山に来た当初ってことは…あれか、刃物が滅茶苦茶怖くて、それが衝撃で落ち込んだ時期だ。あの情けない時期…っていうか真っ暗な部屋に引っ張り込まれて泣かされたときに大勢のカラスに見られたよな!?うわ、あれ見てたらひ弱って思っても仕方ないっていうか恥ずかしいんだけど!?
顔が熱くなって思わず俯いたオレに何を思ったのか、伝さんが慌てる。
「貴方は何も悪くないわ!あたしたちから見て人全体がひ弱に思えるってだけなの!それで見てたのね。それから貴方も山に慣れてきて、あたしたちと接する機会も増えてきた頃まで、腫れものに触るって言うの?どう扱えば良いのか分からない感じだったのだけど、貴方と話した子がね、とってもいい子だってみんなに言って回ったのがきっかけだったわ」
「へ?」
オレは戸惑った。だって、特別なことはした記憶がない。
「だってね、貴方はあたしたちにもとっても丁寧に話しかけて、物を頼むときも対等の存在みたいに扱ってくれたじゃない。普通の人ってカラスに話しかけるどころか、近寄ったら気味悪がったり怖がったりするの。嘴が大きくて怖いのかしら?でも貴方にはそれがなくて、それにいつもおはようございますとか、こんにちはとか、沢山話しかけてくれたでしょう。あたしたちは喋れないって分かった上で、すごく親しく話しかけてくれて、にこにこ笑ってくれたじゃない。貴方は当たり前のことだと思ってたかもしれないけど、あたしたちはすごく嬉しかったのよ」
覚えはある。
この山のカラスはみんなヤタさんの部下だって聞いてから、見かけたら挨拶ぐらいはしておくことにしたのだ。
外に居る時に館に伝言を頼む機会もあるし、愛想が悪い人より、良い人の方が気持ちよく頼みを聞いてくれると思ったから。
「それから、あたしたちが何か些細なお手伝いをしたら、毎回必ずありがとうって言ってくれるし、無茶なことして怪我したりしないし、お屋敷のお手伝いだって沢山して、お屋敷の方々に可愛がられて、何よりお屋形さまに目を掛けられてて、それから顔もとってもかわいいんだもの。みんな直ぐに貴方が好きになったわ。貴方の護衛の当番はいつも取り合いなのよ」
オレにカラスの護衛が付いていたという驚きの事実。道理で対応が早いと思った。しかも当番制だった。独りで居ると思ってやってたあれこれが、温かく見守られていた、しかも当番ってことは交代ごうたいにみんな見てたってことに赤面を禁じ得ない。
それからのべた褒めである。赤面が捗る。何も特別なことはしてないのに、それが嬉しかったとか…それに顔?オレの顔ってもしかしてカラスにモテるの?
「それに最近外を歩く貴方を見かけたら幸せになれるとか、話しかけられたら変転が近づくとか言われ始めたわ!」
「オレは撫でたら家内安全とか商売繁盛とかいう宣伝文句の仏像と同類ですか!?」
オレはついに突っ込んだ。思い詰めた様子だったから黙って話を聴いてあげようと思っていたというのに、なんだか負けた気分だ。ていうかすごく生き生きしてるんだからもう良いよね?もうこの褒め殺しの羞恥に耐えなくていいよね!?
伝さんはなぜか勝ち誇ったように胸を膨らませた。
「あら、ご利益はしっかりあったわよ!!だってあたし、貴方の護衛当番の次の日に変転したんだもの!!」
「噂の出所だった!?」
「そうなるわね!みんなあたしの話をすごく真剣に聴いてたわ!あ、心配しなくても全員隈なく言って回ったからみんな知ってるわよ!」
「何の心配!?ねえなんでその話知らないカラスがいる心配すると思ったの!?」
「でもまあそんなのは瑣事ね!噂がなくたってみんな貴方に話しかけられたいし、近くで見守りたいし、役に立ちたいと思ってるんだから!貴方は今この山の視線を独占してるのよ!!すごいわね!!」
「すごい恥ずかしいですよ!!」
「照れちゃってかーわいい!」
「かわいくないですから!」
真っ赤になって顔を覆ったオレを下から眺めて「むっふっふー」と変な含み笑いをしていた伝さんは、しかしある瞬間しゅんと暗くなった。
「…そういう訳で、貴方を嫌だとかそんな風に思うことは絶対ないから」
「伝さん?」
手を退けて視界の中に捉えたカラスは、悲しげにオレを見上げていた。
「あたし、こう見えて以前は老いぼれカラスだったのよ?よぼよぼで、ヤタさまにずっとお仕えしてたお情けで、お山で面倒見て貰っているだけの役立たずだったの。あれだけ弱っていたし、三十余年も生きてきたのに何の変異もなくて、もう変転は無理だと思ってた。だけど、貴方を初めて間近で見た夜に変異が始まって、無事渡鴉になれた」
ちょこちょこと膝元に近づいて、そっと首を傾げて目を閉じた彼女は、「きっと貴方のお蔭ね」と優しく言った。
「…オレは何もしてませんよ。偶然です」
「そうね。そうかもしれないわね。でも、そんなのは関係ないの。貴方はあたしにとって奇跡を呼んでくれたかけがえのない存在よ」
だから、という柔らかな声を聞きながら、嫌な予感に戦慄する。
「だからあたしは…貴方を害しようとした人を招き入れてしまった自分が許せない。例えそんなつもりがなくたって、あたしがやったことが元で、取り返しのつかないことがあったかもしれないのに違いはない。あたしはこれからヤタさまにお願いして、貴方の守りにしてもらうわ」
「…守り?」
嫌な予感が止まらない。守り、という言葉に嫌な意味はひとつも無いはずなのに、オレは伝さんから目が離せなかった。
目を離せばば恐ろしいことが起こる気がして。
「そう。守りよ。あたしの力を使って、貴方を守るおまじないをするの。そういう術があるのよ。今のあたしは普通のカラスより速く長く飛ぶぐらいしかできないけど、守りの術なら話は別よ。これからはあたしが貴方を守るわ。ね、素敵でしょ?」
嘘は無い。だけどそれがとても恐ろしい。
速く飛べるだけのカラスに、守る力を持たせる術なら確かに素敵だろうが、美味いだけの話だとは考えられない。
伝さんは謝りに来たと言い、自分が許せないと語った。なら、彼女が望む守りの術とやらが良いものである筈がない。
「どんな術なんですか。守りの術って……『守りにしてもらう』ってどういうことです?ねえ、その術をかけたら、伝さんはどうなるんです?」
「…」
黙り込むってことは知られて不味いと白状しているようなものだ。
ひとつの予感は確信に変わる。
だって、かつて自分に罪があると認めた友が、決意を持って師匠に望んだのは―――罰。
「まさか、命を」
「さよなら」
「駄目!!」
ぱっと飛び立とうとしたカラスを、形振り構わず飛び掛かって捕まえた。全身を使って抑え込むと、岩場に体を投げ出すことになったが構わなかった。
ばたばた暴れる伝さんを抑え込み、なんとか顔をこちらに向けて目を合わせた。
「術と引き換えに死ぬつもりですか!!それをオレに背負わせる気ですかあなたは!!そんなのは願い下げなんですよ!!」
カラスを更に引き寄せて、触れんばかりの間近で目を覗き込んで猶叫ぶ。
「そんな重いもの要らないんだよ!!要らない物を押し付けて自分だけ満足するつもりならそれは自己満足だ!!何の侘びにもならない!!」
腕の中の抵抗が止む。間近で睨みつけると、カラスは怯んだように固まった。
「でも…あたしに出来るのはそれぐらいしかないのよ…」
ついに認めた弱々しい声に、一気に沸点に達した。
「死ぬ気になれば何でも出来るでしょう!?死ねばもう何も出来ないんだよ!!したくたって、何を思い残してたってもう何も出来ないんだよ!!」
父は死んだ。兄たちも死んだ。
一番上の兄は、家を継ぐ準備をしていた。領地を継いだらすることを数えて、勉強して、大変そうだったけどそれでも将来を思い描いていた。
二番目の兄は、長兄を支えるとずっと言っていた。周りの者を取り纏めて、率先して色んな人に会って、将来兄の助けになろうと努力していた。
父は、そんな二人を見守って、いつも嬉しそうに『あいつらもまだまだだがな』と笑っていた。
脳裏に浮かぶのは彼らの笑顔だ。
自分たちが死ぬだなんて考えずに未来を見ていた家族の笑顔。
「死にたくないって言っても死ぬときは死んじゃうんだよ!!なのに自分から棄てるのか!?投げ捨てるみたいに!!命はそんなに軽いものじゃないだろ!!それならあんたはオレを襲ってきた野盗と同じだ!!どうでも良いものみたいに自分勝手に命を終わらせようなんてふざけんなよ!!!」
叫び終わると、しんと空気が静まった。
耳が慣れると最初に川の音が戻って、次に鳥や獣の鳴き声が戻ってきて、最後にさやさやと揺れる枝葉の囁きが耳に届く。
肩で息をしながら、瞬きひとつしないカラスの目を睨み続けた。
「…分かった。もうしないわ」
そっと、間近で黒い目が瞬きした。
「あたしが悪かったわ。ごめんなさい。だから、だから―――もう、泣かないで」
困り果てた伝さんが、オレを刺激しないようにそっと語りかける。力の抜けた腕から抜いた翼で、濡れた頬を器用にそっとなぞった。
「…伝さんの所為だから」
「そうね。あたしが悪いわ。ごめんね」
もう必要なくなった拘束を緩めて、空けた片手で新しく流れてきた涙を拭った。
伝さんを抱えたままのろのろと起き上って座り込む。
「どうしても気が済まないっていうなら、これからオレの手伝いをしてよ」
「手伝い?」
締まらない状況になってしまったが、最初に用意していた提案をしてみた。
「そう。手伝い。伝さんはオレに悪いことをしたと思ってるんでしょう。だったら勝手な押し付けをするより、オレに償いをする方が理に適ってるはずです」
「ええ、そうね。その通りだわ」
「じゃあもう、勝手なことはしないでよ」
「うん。わかった」
「絶対?」
「ええ、絶対しないわ」
「本当に?」
「本当よ」
そこまで言って、やっとオレは伝さんを信じてあげることにした。
伝さんがオレを宥めて賺して落ちつけようとしているのは知らないふりで、問題なく目的を達成したことにした。
「じゃあ、今陣さんを探してるから、付き合ってよ」
「いいわよ。あ、だったらあたしが空から探してあげるわ」
だから放して?と言うカラスに、オレはにっこり笑った。
「やだ。もうちょっと抱っこしてるー」
「え、えー?」
「じゃあ、罰で!」
「ちょっと、それ言ったら通ると思ってない?」
「思ってないですよー」
こうしてオレはつやつやのもふもふを抱えて、引き続き陣さんを探しに歩き出した。
歩けば歩くほど、廊下の景色は変わっていく。
幾つもの襖が並び、角を曲がれば木戸が見え、格子窓の向こうを覗けば中庭が見える。
「…なぜ開かん」
明然は憮然と呟いて、開こうと手を掛けていた襖を放した。
先ほどから、少年を探すために何枚もの襖や扉を開こうとしているのだが、どれもこれも引こうが押そうがびくともしないのである。
仕方なく、扉を叩いて声を掛け、耳を澄ませて中に誰も居ないのを確かめることにしているが、本当に居ないと確かめられないのがもどかしい。
「ええい、立ち止まっている暇は無い!」
明然は吹っ切れた。
この山に来てからこっち、思い通りになったことなど何一つないのだ。だったら一々全てに躓いていては何も出来ない。
ならばいっそのこと、一番大事なこと以外は全部気にしないことにして、目的に向かって邁進することにしたのだった。
次々に襖を開け…られない。
どんどんと扉を開け…られない。
構わず明然はずんずん館の中を進み、少年を呼ばわり、開けられそうなところは全て開けようと試みる。
「負けぬぞ…物の怪!」
行く手を阻む襖の他に、冷静さを欠いた僧を止める者はここには居なかった。
だいぶ疲れてきた明然さん。