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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
70/131

六十二 盆 二

奔走する弟子たち。


 土間の敷居を跨いで外に出ると、館の中とはまた別の心地好い空気にさっと包まれる。

 この瞬間がとても好きだ。静かで少し冷たい山の豊かな風の中に入ると、体の中まですうっと綺麗になる気がする。

 そして勿論、館に帰ってくるのも好きだ。冷えて静かになったところへ、温かくて優しい何かに包まれる心地がする。


 一度深く息を吸って吐くと、色々あってごちゃ混ぜになった頭の中が透明に澄むように思えた。


 考えるのは、勿論昼前のこと。

 あの出来事は、オレの中ではもう終わったことになっているのを確認する。丹念に心の隅々まで調べて、変な風に恨んだり気にして引き摺っていないかどうかを確かめた。


――――館の中は勿論安全だし、あんなことがあった以上、カラスたちもあの人のことを注意して見てる。何より師匠が全て知ってるから、二度目はあり得ない。二度とあんなことがない前提でなら、何も思う必要はない。そこいら中に味方が居るのだから、びくびく警戒しながら歩く必要はないし、もう会うことはないだろうから、忘れてしまえる。


 調査結果は問題なしとした。今回はちょっと運が悪かったのだ。


 どこかの鳥が高い声で鳴いている。

 当たり前だが何を喋っているのかは解らない。耳に心地良いだけのそれに、なんとなく安心した。

 今は抱えた以上の余計なことを考えたくなかった。


 余裕がなくて反射的に反応するばかりだった今までを思って、少し暗い気分になる。

 今ならもっと上手く返せたと思うことが幾つも思い当たって情けなくなった。

 その都度心の整理をしないとまともに受け答えできないオレはもしかして、頭の回転が鈍いのかもしれない。


 知らず知らずに吐いていた溜め息に気付いて、取り戻すように大きく吸い込んだ。

 これもオレの悪い癖だ。何か嫌なことがあるとどんどん悪いことを思い出してしまうのは。


「今はそんな場合じゃないっての」

 逸れていこうとする思考を修正する。これからひと仕事しなければならない。


 仕事というのは、オレを苛めたと思った妖怪たちがあの人を襲うことがないように説得だ。

 ただ、急がなければと、そう思うのに、歩き出す気になれない自分がいた。


 あれは、運が悪い出来事で、その場で済んだこととして流してしまうのが、いつものオレのやり方だった。


 何をされて言われたとしても、それを怒ったり恨んだりして、仕返しでもしようものなら、相手をもっと怒らせるからだ。そして更に仕返しをしてくる。オレが気に入らないとかいうあやふやなものじゃなく、今度はオレにやられたことが理由だ。

 具体的な理由は仲間を集める。多く集まれば事は大きくなる。

 相手が始まりだとしても、そんなものは忘れ去られ、関係ない者の間にも憶測が飛び交い、向こうの数は増え、膨れ上がる。

 そして全てオレの所為になるのだ。


 だから、此方が手を出した時点で負けだった。

 今だってあまり変わりはない。

 あの人に何かすればそれは『妖怪が人を襲った』ということになるだろう。

 手を出したのがオレだったとしても関係ない。彼らはオレを物の怪と呼んだのだ。彼らにとってはオレも妖怪なのだから、同じことだ。


 そしたらきっと『白鳴山には人を襲う妖怪が棲み付いている』ということになる。

 もしかしたら人がオレたちを敵視してくるかもしれない。悪くしたら妖と敵対しているという話の退魔師が、妖怪退治に出てくるかも。

 そうなったとしても師匠が負けるとは想像がつかないけれど、只でさえ敵に囲まれているこの山にオレの所為で新たな敵を増やすのは絶対に駄目だ。

 それに…人が好きだという話の師匠に、人と敵対させたくなかった。


 だから、オレがいつも通り流して忘れてしまえば良いんだ。それが一番正しい。


 じっくり考えても出た答えは同じだ。

 なのに、ひとつの声が耳の奥に何度も何度も戻って来るのだ。


『てめーは怒って良いんだよ!』


 思い出す度に温かい気持ちになる。もう我慢しなくて良いんだと言ってくれて、あんなに怒るほどオレの事を想ってくれる存在が沢山居るのを思い出して、口元が緩んだ。


 もう、独りで耐えて流して笑っていなくても良い。それだけで何もかもが大したことがなくなって、オレはまるで平気になれた。


 とても不思議で、すごく変な感じがした。

 心がふわふわして、どこか奥の方がむずむずする。

 けして嫌じゃないけど、馴れない感覚に落ち着かなくて、勝手に間抜けな感じに顔が緩んでくる。


 同時に、どうして良いか分からなくなった。

 みんなはオレのために怒っていて、次朗さんはオレも怒っても良いのだと言った。


 オレは悪くないのだと。


 悪くないオレが悪者にされるのが我慢ならないのだと。


 そうなのか、それなら怒ってみても良いんじゃないかと思った。


 よし、怒るぞ、といよいよ怒ろうとして…その先が続かなくて戸惑うのだ。


 怒っても良い、と言われても、何に対して怒れば良いのか分からない。


――――そもそも一拍気合を入れて怒ろうとするというのはどうなんだ?


 慣れないことをするのはとても難しかった。

 ただ、分からないなりに、次朗さんのように激昂して殴りつけようとは思わない。それは何か、間違ってる気がする。


「だって…怪我させられた訳じゃないしなぁ」

 人が痛いのは嫌だな、と、結局そこへ落ち着く。


 だったら、とりあえず分からないことは後で考えることにして、やっぱり今は過激に怒るだろう方たちを止めに行こう。

 そして、追々あまり角が立たない怒り方を見つけたらいいんじゃないかな。


 積極的な行動じゃないとは思うけど、やっぱりそれが一番良い。…あまり好きじゃない相手を助けようと思うのは、あまり気が進まないんだけれど、そんなことは言ってられないだろうと気合を入れた。


「よっし!行こうかな」

 先ずはひ弱な人なんか一撃で粉砕しそうな鬼、弦造さんのところへ行こうか。かっとなってばこん!とやってしまったら取り返しがつかない。


 勢いを付けて一歩踏み出して、少し思い付いたことがあって振り返る。

「…塗り壁も、仕返しとかしないで下さいね」


 あの大きな手は充分凶器なのだ。素材は普通に壁なので硬いし、かなり素早く動く。あれで殴られたら痛いじゃ済まない。


 帰って来たら白い壁が赤く染まってたなんてことを想像して、思わず身震いした。冗談じゃない。


 館の壁は何拍間か、真っ白だった。

 それから、不承不承という感じでゆっくりと、いつもより小さめな文字が浮かび上がった。


『承知した』


 壁は唯一、感情が読めない存在だけれど、この何を考えているのか分からないのっぺりした壁も、この分だとどうやらオレの心配をしてくれる内のひとりなのだった。


 館の壁に向かってありがとうと呟いて、今度こそ歩き出した。




















 黙々と、自分の足音だけを数えて進む。

 見えるのは板張りの廊下と白い壁だけだ。

 壁、分かれ道、壁、分かれ道、壁…。

 規則正しく一定間隔に、右も左も同じ物しか見えない。

 直角に廊下が交差して、その間は何も無い白い壁が埋めている。

 どこまで行っても同じ景色、薄暗い静寂。

 外に繋がるどんな窓もなく、かといって灯りもないというのに、全き暗闇にならぬのはなぜなのか。


 そんなことは無限に続くこの板張り廊下の前では瑣末なことではあるが、考え事でもしていなければ他には歩くことしかやることはなかった。

 明然(めいぜん)は変わり映えのしない景色の中で、焦燥を抑えてただ只管(ひたすら)に歩を進めた。


 妖術を破ろうと法術を試みて失敗し、直ぐに来た道を戻ったが、記憶とまるで違う景色を見つけただけだった。

 壁と通路の繰り返し…つまり行く先と同じ形に変わっていたのだ。


 誰も居ない通路。

 静かどころではない、風の音も鳥の声も、静かな場所でも当たり前にあった雑音の何もかもが消え去った静寂がそこにはあった。

 何も聞こえない場所だと、耳が音を作り出すというのを初めて知った。

 高く細い耳鳴りの中、不意にことりと音がしたような気がして振り向くこと数回、誰かの声がしたと思って足を止めること数回。

 聴いた瞬間に幻聴だと自分でも思うものの、もしかしたらと思う気持ちが消しきれず、結局足を止めてしまう。

 明然が止まれば、唯一の音源もなくなって、痛いほどの静寂の中で押しつぶされそうな心地がした。


 その時点で恐慌をきたして取り乱さなかったのは、さすがに彼は精神の修行をしてきた僧であった。

 だが、さすがに平常心とはいかず、知らず歩みが速くなってしまう。


「何を望んでいるのですか…」

 明然は独り呟いた。相手は物の怪(もののけ)。若しや得体の知れない妖術でこちらを見ているのではないかと思い至ったのである。


 だがその声は応える者なく虚しく消えた。

 誰も、何も居ない。

 自分以外の何者の気配もない空間というのが、こんなにも耐え難いものだということを初めて知った。


 ここが物の怪によって作られた場所、つまり今自分は物の怪の手の中だということも手伝って、じりじりと焦燥が高まる。


――――物の怪が偽りを言うと考えなかったのがそもそも間違いなのか。


「ここに居る場合ではないのです…彼を探しても良いと言ったのではなかったのですか」

 

 喋ることで己を奮い立たせ、明然は決然と前を睨んだ。

 曲がりなりにもあの少年を想っているように見えたのを思い返して、よもやあれも偽りであったのでは、と恐ろしい考えが浮かぶ。

 騙して山に引き入れ、喰うつもりか。まさかそんなことはないと思うものの、何を企んでいるか分からぬ相手の元に子どもを置いておく訳にはいかない。何をしてでもここを出て、あの少年を連れてここを出ねばならぬと思いかけ…前回の二の舞になりかけているのに気付いてはっとした。


 決め付けて失敗したのだ。同じことを繰り返す訳にはいかない。


「彼に謝らねばならぬのです。それがあの子の為になるとそちらも認めたのではなかったのですか」


 返事がないのを承知で、言わずに居れなかった。

 この期に及んで非難の口調だったことに気付いて口を噤んだものの、焦燥は膨らみ、明然を追い詰める。


 彼を見つけねばならないのだ。もし万が一、この妖術の中で果てることがあったとしても、あの(あやま)ちを清算せねば、死んでも死に切れぬとまで思った。


 自然に足音も荒く、目は鋭く、顔は強張っていった。だがある瞬間、その目が見開かれる。


「あれは…」


 差し掛かったもう幾つ目かも分からぬ交差路。

 左右と前に伸びる三つの道の内ひとつ。左手に伸びる通路の、そのまた先にある角の向こう側が薄明るく見えた。


 足早に向かえば果たして、角から覗いたその先は…。


「外…か…?」


 気が遠くなるほど長い間彷徨う間、何度も幻聴に惑わされてきた所為で、いざ抜け出す目処が立っても半信半疑だった。

 何度か瞬きをして、それでも確かに目線の先にあったのはやはり通路。だが、交差がない真っ直ぐな廊下は濡れ縁に続いていた。

 戸は全て開いており、夏山の緑が目に痛いほど鮮やかだった。


 日に温められた板の上に立ち、鳥の遠いさえずりを賑やかだと思って(ようや)く、あの気の狂いそうな通路から出たのだと実感した。


「なんと…」

 振り返れば、数限りない交差路は消えて、そう長くもない通路の先がたったひとつの曲がり角の先に消えている。

 なんともあっけなく、何の前触れもなく、あの奇妙な場所は無くなっていたのである。


 どっと疲れて、明然はその場に溜め息を落とした。

 狐につままれたらこんな気分であろうか。

 拍子抜けするほどあっさりと、物の怪は説得に応じたのであった。


 これは話が分かると思えば良いのか、意地が悪いと怒れば良いのか。

 結局何をしたかったのか分からぬが、これであの少年を探しに行けると思い直し、明然は改めて気を引き締め歩き出した。


――――何処に居るのだろう。確か、手当てをしてもらえと言われていたが…もう流石に終わったことだろう。


 だとすれば、彼はどうしているのかと悩む。部屋に居るのか、もしかすればあの年頃の少年らしく、外へ遊びに出たのやもしれず、天狗の弟子だというのだから修行ということも有り得た。どちらにしろ館に居るのかどうかは分からない。

 …あの場では気丈に振舞っていたが、今は落ち込んで泣いているかもしれないと気が付いてしまえば、やり切れぬ想いになる。

 子どもが泣いているかもしれぬと思うだけでも遣る瀬無いのに、それが己の所為だというのが更に暗鬱たる気分に拍車をかける。


 せめて独りで泣いて居らぬようにと願った。彼のために文字通り飛んできた者たちが居たのが救いだった。きっと傍に誰か居るだろう。それが人でないにしても。


 半分開いた障子に気が付いたのはそのときだった。

 角度的に中は窺い知れないが、青い畳と、どこぞへ続く襖が見える。


――――まず屋内を探すのであれば、中へ入るべきか。


 それは自分にとっては至極真っ当な考えだった。

 明然は自覚がなかったがしかし、以前の警戒心は長く無音の廊下を彷徨った間に削り取られ、外に出られた安堵から気が緩んでいた。


 よって、気軽に何気なく部屋を覗き込んだ。


 そして目が合った。





















「…って言うことがあったんです」

 オレは振動に逆らわず脚をぶらぶらさせながら、迫ってきた枝を片手で払い除けた。

 緑の葉が彩る細い枝は、少しの音を立てて逸れていった。


「そうか。そりゃ災難だったな」

 直ぐ横から太い銅鑼声がして、唸り声が続いた。

 のっしのっしと進む足が、獣道を侵食しようとしていた抜け目無い下草を踏み潰した。


「でもね、オレも無事だったし、仕返しとかしないでください。ほんとに大丈夫ですからね?」

 口調は静かだったが、オレは唸りに混じった怒りを感じて急ぎかつ心を込めて言った。

 ついでに右手に掴んだ髪を引っ張って、真剣度合いを伝えようとしてみる。


「だがおめえ、舐められっぱなしってなあ男が廃らあ。身内がやられたってなら落とし前つけてやらにゃおさまらねえだろうが、なあおい」

「うわっ!?」

 ぐいっと頭が回って、岩を彫って作ったかのような恐ろしげな顔がこちらを向いたのだが、髪の毛をしっかり掴んでいたために、オレは座っていた弦造(げんぞう)さんの肩から落っこちた。


 弦造さんほどの大柄な鬼の肩となると、オレが座ってもまだまだ広さ的には余裕だ。…なんだけど、肩車だったら不意に頭が動いても平気だっただろう。

 オレは弦造さんの背中で、反射的に髪に片手で掴まってぶらんぶらんしながら、今度は肩車してもらおうと考えかけてやめた。弦造さんの首は太すぎて跨がるのはきついのだ。ていうか高っ!?地面遠っっ!!


「おいおい(ぼん)、しっかり掴まってろや」

 子ども一人を髪でぶら下げても痛くも痒くも無いのか、平然とした声がして、巨大な手がオレの胴を掴んで元の位置に座らせてくれた。

 

「ありがとうございます。でも今のはしっかり掴んでたから落ちたんですよ…」

「鈍臭えなぁ!」

 ぼやきに笑い声が重なって、オレはむぅっと口を尖らせて振り向いた。


「言い返せないですけど…笑わなくても良いでしょう定七(さだしち)さん」

 後ろを歩いていたもうひとりの鬼、定七さんはげらげら笑いながら悪い悪いと手を振った。全然悪いと思ってないのは明らかだ。むぅと口を引き結んだらもっと笑われたので、もう気にしないことにする。

 ぷいっと前を向いたらもっと笑ってるけど、相手にしちゃダメなんだったら!


 次朗さんと一緒に帰って来てから、定七さんはご両親の家、つまり弦造さんとお(しの)さんの家に戻って、家のお手伝いをしているらしい。

 お坊さまに手出ししないよう釘を刺しに来たオレが出会ったのも、用事に行く弦造さんと手伝いの定七さんがふたりで歩いているところだった。


 最初は横を歩きながら話そうとしたんだけど、如何せん歩く早さが違いすぎた。

 彼らの一歩進む距離は実にオレの三歩か四歩分相当で、ゆったり歩いてるように見えてもずんずん山道を進んで行ってしまうので、隣を行くには走らなければいけなかったほどだ。


 一緒に歩くには歩く速さが違いすぎ、立ち止まって座る場所もない細い獣道。かといってオレに合わせて速度を落とせば、せっかちなふたりにとってはのったりのったりまどろっこしいことこの上ない。


 ちょっと考えた弦造さんにいきなり掴まったのは驚いたけど、持ち上げられて置かれた肩の上は案外座り心地が悪くなかったので、現在のような状態に落ち着いたという訳。

 けして肩に乗せて欲しいとオレがねだったのではない。…まあ、ちょっと楽しいのは言うまでもないけども。


「話は終わりって顔してますけど、ほんとに何もしないで下さいね?」

 有耶無耶にしてしまおうという気配を察して、歩みを再開した弦造さんの髪をもう一度引っ張った。


「ああ?」

 頭が動きかけて慌てて手を離したが、さっきのことを思い出したのか、弦造さんはあまり頭を動かさないままに横目で此方を見た。

 オレのために振り向かないでいてくれてるのは解るんだけど…正直睨まれてるように見えて怖い。実際はこれは心配の眼差しなので怖がったりはしないけど。


 そうこうしている内に、少し拓けた場所に出た。

 少し歩けば霧の壁があるぐらい、山を下った場所にある小さい広場は、木が伐り倒されてできた空白から青空が覗き、頻繁に使われている証に、陽光降り注ぐ地面には(まば)らにしか草は生えていない。


 弦造さんは、オレを近くの木の枝にそっと下ろした。

 やや低い位置にあるオレの顔に、少し屈んで真正面から目線を合わせる。

 その眼差しは思わずすくみそうになるほど鋭く、真剣だった。


「なんでそこまで庇う。坊。奴ぁおめえを苛めたって聞いてるぞ」

 やはりオレが報せる前に情報は出回っていたらしい。おそらく弦造さんだけではなく全員が知っているということだろう。

 なんとしても全員に会わなければならないと再確認して、オレは小さいながらも中々重たい溜め息を吐いた。…味方が多いというのも中々苦労するものである。


「そりゃ、嫌な気分にはなりましたけど、だからって弦造さんが一発殴ったら人なんか死んじゃいますよ」

 憂鬱になっていても仕方ないので説得を開始する。


「あ?…まあそうだろうが」

 そこで言葉を切った弦造さんは、未だ人であるオレに気を遣ってくれたんだろうけれど、あの人がどうなろうとどうでも良いと思っているのは明らかだった。


 …それが身内に手を出した人だからなのか、それとも人というもの自体がどうでも良いのか。

 考えかけてやめる。今はどうでも良いことだ。


「あの人はオレに怪我させた訳じゃないんです。なのにオレのために怒ってくれたみんなに殺されたら寝覚めが悪いし、絶対ずっと忘れられないじゃないですか。オレは今回のことはさっさと忘れたいのに。それに他の方に仕返ししてもらうのって格好悪いです。自分は敵わないから代わりにやってもらったみたいじゃないですか。そんな情けない奴になるのは嫌なんです!」


 ここへ来るまでに考えを詰めてきた甲斐あって、説得の言葉はすらすらと出た。

 皆が手を出すとオレが(おとし)められるから嫌だ、というのが要点だ。こう言われれば、オレのために怒っている方たちは手を出さないと思ったのだ。


 案の定、弦造さんは困ったような怖い顔で口ごもった。

「そうか…?まあ、確かに…だが」


 腹の虫がおさまらない様子の怖い顔は、言われたことに納得もしているのを感じる。あと一押しだ。オレは拳を握って力説した。


「それに弦造さんがあんな奴に合わせてむかついてやる必要ないですよ!"喧嘩は同じ程度の者同士の間でしか起こらない"って言うし、態々弦造さんが同程度に降りて相手にしてやる必要ないです。ほら、それに"落とし前つける"んなら自分での方が良いでしょう?オレだって頑張りますよ!!」


 勢い付いて言い切ったオレをまじまじと眺めた鬼は、面食らっているようだった。

 …何か変なことを言っただろうか。


 あまり長く見つめられ、不安になってから思い出した。オレって今結構ぼろぼろなのである。

 駄目だろうか。こんなに頼りないオレが頑張るって言ったって、信用して安心するより、逆に不安になってしまうだろうか。代わりにやってやらなきゃとか思ってしまうんだろうか。


 オレがどれだけ大丈夫だと言ったって、あっちこっち張り薬やら白布やら巻いた状態で"落とし前つける"とかなんとか言っても全然説得力はないのが事実だった。


 途端になんだか恥ずかしくなって、肩と目線が段々下がっていくのを止められない。勢い込んで言ってしまったけれど…考えなし過ぎたかもしれない。


「がっはっはっはっは!」


 いきなり発された間近の大声に体がびくっと跳ねた。ついでに笑い声に煽られた前髪がそよぐ。

 声が大きすぎて一瞬咆えられたように思ったけれど、どうやら目の前の鬼は笑っているようである。笑っていても恐ろしげな顔なのは悲しい事実というやつだ。


「そうかそうか!坊よ、おめえもいっちょまえに男だって訳だな!!」

 愉快そうにばっすんばっすん頭を叩かれて、伸びた背筋もこきんと曲がる。手加減してくれているのは分かるけど充分強力だ。頭どころか硬い木に腰掛けた尻まで痛い。ていうか背が縮むんじゃないかこれ!?


 やめて欲しいが楽しそうで止めにくく、結局弦造さんは思う存分オレの最近の成長を巻き戻した。ごりごりと大きな丸太を運んできた定七さんが横目でこっちを見てにやにやしてるのがすごく気になる。あんまりこっち見ないで下さい。


「おう、そこまで言うならおれは何もしねえでおこう。文句ぐらいは言うがな」

「ほんとですか!ありがとうございます」


 自分で意外なほど安心して、声が弾んだ。思ってた以上にオレは…あの人の心配をしてたみたいだ。


 嫌いだ嫌いだと思ってたけどやっぱり、どんな人だったとしても人が死ぬかもしれないと思ったら、そんなのは絶対に嫌だった。


 全く自分のお人好し加減は正直どうなんだと思うけれど。


「本当だ。だがな、無理はすんじゃねえぞ?心意気は一人前でもおめえはまだちっこいんだからよ」


 心意気が一人前。なんだかむず痒い。

「まだって、弦造さんからしたらオレがどれだけでっかくなっても"ちっこい"んじゃ…」

 照れ隠しにむすっとしてしまったけれど、鬼は更に上機嫌に笑った。

「お?んなこたあねぇぞ。次朗は中々育っただろ」


 遥か高みにある顔を思い出して、引きつった笑いが漏れる。…次朗さんで中々って、物凄く遠い道のりだった。脱"ちっこい"は無理かもしれない。


「親父ー、これで全部だぞー」

 またでっかい木を持ってきた定七さんに呼びかけられて、弦造さんは「おう」と返事をして振り返った。


「あ、お仕事のお邪魔しちゃってごめんなさい!オレもう失礼しますね!」

 そうだそうだ、彼らは用事があって歩いていたのだ。オレにばかり時間をとらせてしまってはいけない。申し訳なさから慌てて謝ると、ふたりは慌てて木から降りるオレを見てそっくりの笑みを浮かべた。


「んなこた気にすんな。またいつでも来い」





















 そこに居たのは美女だった。

 (うぐいす)色の袖を広げて座る姿は淑やかで、こちらに向いた顔は優しげで、少しの嫌悪を乗せていても感嘆して目を奪われてしまうほど美しい。

 何故ここにこんな女が居るのかと訝しむが、袖の下から僅かにはみ出したものに気付いて寸の間息を忘れた。

 彼女の足は鳥のような形をしていたのである。


――――物の怪…!


 明然を冷たく眺めた女は、興味を失ったように目を手元に落とした。

「っ、それは!」

 釣られて手元を見て、思わず声を上げた。

 そこにあったのは見覚えのある着物だった。自分のものよりも小さなそれは、あの子どもが着ていたものだ。


 明然の声に、今度はちらりと目線だけが投げられる。その目の冷ややかさに、思わず近づこうとしていた足が止まった。


「失礼、拙僧は恵然(けいぜん)の弟子で明然と申します。不躾ですが「そう思うならお控えなさいまし」


 思わず言葉に詰まる明然を尻目に、女はまた目を外した。

 明らかな拒否だ。

 歓迎されて居ないのは分かっていたが、いざ険のある声を投げられるとやはり(ひる)んでしまう。

 僧という立場で、更に上の方々にも覚え目出度い立場の明然は、ぞんざいに扱われるという経験が薄かったこともあり、戸惑って立ち尽くした。


 女は手を動かした。

 細い指が摘んだ針が跳ねるように動いて、着物のかぎ裂きを(たちま)ちかがって行く。


 あの裂け目の下には怪我があったかもしれないのだ。

 そう思うと居ても立っても居られない。


「彼の…」

 言いかけて、名前を呼ばれていたのを思い出す。確か、

「三太朗どのの怪我は」

 いかがか、と続けようとした言葉は、圧力さえ伴うほどの強い目線に断ち切られた。


「お止めなさい!名乗りなき者の名を呼ばぬという礼儀も知らぬのですか!それにその名はあの子のこの山での名。わたくしたちの身内としての証。狼藉者(ろうぜきもの)ごときが誰の許し有って口にするのです!恥をお知りなさい!」

「し、失礼を…」


 物の怪は名乗られなければ名を呼んではならないらしいということを初めて知った。だが、そんな言い訳が出来る空気ではない。


「本当に申し訳ない…失礼をしました」

 深々と頭を下げて誠意を込めて詫びることしか出来ない自分が情けなかった。


「本当に、同族だというのに、あの子とは雲泥の差ですこと」


 不意に聞こえてきた"あの子"。はっと顔を上げてしまった。

 女はまた目を落として繕い物を始めていた。

 その手つきは丁寧で、見下ろす顔は険が取れてどこか優しげに見える。


「…良い子なのですね」

 思わず呟いて、また合った目に反射的に慌てた。

 この短い間にすっかり彼女の眼差しが苦手になっていた。


「その、ご不快に思われたら済みませぬ!…ただ、大切にして居られるようだったので、つい」


 また怒りの言葉が来るかと身構えたが、じっと明然を見た女は、小さく「良い子ですのよ」と呟いた。


「とても、とても良い子なんですの。礼儀が正しくて、行儀が良くて…自分の方が大変でしょうに、いつもわたくしたちを先に気遣ってくれるんですの」


 繕いかけの着物を柔らかい手つきで撫でた女は、初めて優しい笑みを浮かべた。


「あの子は周りを良く見ていますの。悩みなど抱えていれば直ぐに気付いてどうしたのかと訊いてくれます。何か出来ることはないかと。なのにあの子はどんなことがあっても文句を言いません。どんなに上手くいかなくとも、心配をかけまいと隠していつもの顔をするのです」


 優しい子です、と呟いて、きっと彼女は顔を上げた。


「あの子の何が悪いというのですか。あんなに良い子なのに、何を辛く当たられねばならぬことが有るのです。髪ですか、目ですか。色などであの子の何が決まるというのです!何が劣っているというのですか!貴方のような者が居るから、可哀想にあの子は同族の中で傷ついて、未だに消えぬ傷を負っているのです!!」


「申し訳ない…本当に…」

 自分で分かっていた心算(つもり)でも改めて他人から言われると、言葉のひとつひとつが胸に刺さる。

 だが同時に心が決まった。自分が悪いのだと思いながらも、どこかにあった抵抗が全て消え去ったのを感じた。


「わたくしに謝っても仕方がないでしょう」

「はい。しかし貴女も、拙僧の行いで怒らせてしまいました故、申し訳ない」

 間髪入れずに頭を下げた明然に、女は黙り込んだ。


「…彼に謝りたいと思って探しております。無論、山の主さまにもお許しは貰っております。もし彼の居場所をご存知であれば、教えていただけませぬか」


「知りません」

「左様ですか…」

 嘘か真かはさて置き、きっぱりと言い切る声は気のせいか、少し棘が取れているように聞こえた。だからこそ、明然は無理に食い下がって聞き出すことはしたくなかった。


「では…もし宜しければ…彼のことをもう少し教えてはくれませぬか」

 いとおしげにあの子どものことを語る様子を思い出して言った。何も知らぬままで彼に会いたくはないと思ったのだ。それと、この優しい女性に憎まれたままで居たくないという心も少し。


 虚を突かれたような顔で何度も瞬いた女は、ややあって呆れたように眉を(ひそ)めた。


「昨今の僧は厚かましいですのね。…ですが、どうしてもと言うのなら少し話して差し上げましょうか」

「是非に」


 ほっとしたままに、勧められた座布団に腰を下ろした明然はまだ知る由もない。

 この山の者が、少年本人に親馬鹿と称される程、彼を溺愛していることを。




 一刻ほども経っただろうか。

 明然は若干よれた様子で廊下をふらふらと歩いていた。

 女は水を得た魚のように生き生きと、かの少年が如何に賢く、優しく、素直で可愛らしいのかを喋り続け、今しがたやっと解放されたところなのであった。


 彼女があの子どものことをこれ以上なく、それこそ我が子のように大事にしているのが、嫌と言うほど良く分かった。あのとき山の主含めて物の怪たちが血相を変えて駆けつけたのを思えば、恐らくそう思っているのはあの女だけではないだろうという結論に至った。

 であれば、もう少年の話を訊くのは止した方が良いやも知れぬと、肩を落として溜め息を吐く。


 とはいえかなりの疲れと引き換えだったが得たものは大きかったと言えよう。


『あの子に感謝なさいな。あの子が報復を禁じたお蔭で、今貴方は生きているのですよ』


 別れ際に言われた言葉を噛み締めるように思い返す。

 女は結局、少年の居場所は知らなかったが、山の物の怪たちに、明然に報復しないよう釘を刺すために出かけていったと最後に教えてくれた。


 正直、どんなに詰られるより一番(こた)えた。

 彼は恨むでも落ち込むでもなく、自分を害した者のために動いているのだから。


「…会わねば」


 そう呟いた若き僧は、あの子が騙され、害されるためにこの山に連れてこられたとはもう思えなくなっていた。

 その心は、少年を探し始めたときとは変わりつつある。

 自身では未だに気付いてはいなかったが。



白鳴山の洗礼を受けてだいぶ染まってきた明然さん。


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