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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
68/131

六十 痛み

主人公のトラウマ回。



 驚きつつもかろうじて身を捻る。相手も俊敏に跳び退いたお蔭で衝突はせずに済んだ。

 だが、無理に避けようとした所為で体勢を崩し、オレは飛び出した勢いのまま受け身も取れず獣道に落ちた。


「あぐっ」

 叩きつけられて息が詰まる。ばきばきと派手な音がして、ぶつかった細い木が折れる。下草を圧し潰し、体中あちこちぶつけながら、坂を何度か転がり、止まろうと突っ張った手を地に擦って(ようや)く止まった。


「なんと!?いかん!」

「いけません御師(おし)さま!!」


 しわがれた声がして、張りのある大きな声がそれを圧する。人の声だった。館の皆の声と、とこがどうとは言えないが全然違って聞こえた。

 心臓が大きく跳ねて、閉じていた目をこじ開けた。


 向こうから足早にやって来るのはお坊さまが二人。片方は杖を持ったおじいさん。片方は、つやつやした数珠を持ったおにいさん…驚いた顔と、怒った顔。


――――ああ、驚かせちゃった。それに怒ってる。突然飛び出してしまったから無理ないな。もう少しでぶつかるところだったし、すごく驚いたんだろう。謝らなくちゃ。


 起き上ろうとしたとき、若い方がおじいさんを強引に制して前に立ち、倒れたオレに向かって一歩踏み出した。


「子どもに化けたか!本性を現せ物の怪!!」


――――え。


 何を言われたのか解らなかった。最近聞かない言葉で、どういう意味の言葉だったかを咄嗟に思い出せなかった所為だ。

 ただ、声に乗って押し寄せた怒気と敵意が、無防備な頭に飛び込んで引っ掻き回した。

 身動きが出来ない。何も考えられない。ただ、手が震えた。


「これ!」

「ご覧ください御師さま!やはり物の怪は人を襲うのです!招かれて来た我々にも不意を突いて襲い掛かったのが証拠でしょう!!」


――――もののけ…物の怪…? 


 呆けた頭に現状が染み込む。

 背の高い僧。睨む目は鋭く、オレを真っ直ぐ、憎々しげに。もののけだと、オレのことをそう言って、まるで、敵だと言うように―――


「あ、あ…」

 息に変な声が混じった。

 寒かった。包まっていた温かいものを全部剥ぎ取られて真冬の池に放り込まれたような気分で、腹の底から凍って行くような気さえした。


 忘れていた。この山に人は居ないから、人がオレを見てどう思うのかなんて忘れ去っていた。

 分かっていた。ここが妖の山だと知っている人が、ここに居るオレを見たら、こうなるってこと。…これが当たり前の(・・・・・)反応だってこと。


 当たり前なのに、当然なのに、なんで、どうして…こんなに動揺するのか。


「これ、やめよ!」

「いいえ御師さま!子どもに化けていようと油断なりません!…!動くな!!」


 起き上ろうとしたら、驚くほどの鋭い音を立てて数珠が鳴った。

 怒鳴る声に体が勝手にすくむ。


――――どうして先を気にせず走ってきてしまったんだろう。なんで、どうして、人が来るって聞いていたのに外になんか出たんだろう。今日は出たくないって引き籠ってもみんな怒ったりしなかっただろうにみんなは意地悪しないし優しくてあったかくてこんな冷たくない怖くない…なのに人はどうしてこんなに怖い。


 ぐちゃぐちゃになった頭が、後悔と恐怖をない交ぜにしたまま空回る。

 くらくらして吐き気がした。這いつくばって顔だけ上げたまま、目を見開いて固まるしかなかった。


「我らを襲ってなんとする、化け物!!」

「やめよ!明然!!」


 ばけもの。血が傷口から流れるように、記憶が流れ出す。

 ここに来る前、人は奇妙な目をしてオレを見た。ときに小声で化け物と後ろ指を指した。ときに何人も集まって、気持ち悪いと正面から罵った。

 敵意が、嫌悪が、容赦なく刺さって。


 気付けば、かつての癖もが甦り、オレは知らない内に、困ったような笑いを張り付けていた。

 頭が少しだけ静まる。落ち着いて良く考えなくては生き延びられないと、眠っていた本能が警鐘を鳴らす。


 喉の奥で、何でもない普通の声を準備して、おどけたように誤魔化す言葉を幾つか思い出して、直ぐに使えるように頭の中に並べた。


 受け流してしまうのが一番だと知っていた。

 罵声も中傷も『えー、そんなことないですよー、酷いなぁ』とか言って、軽いノリで肩を落としてため息ひとつ。

 大袈裟に嘆いて、適当に相手の勢いがなくなったところで、急がず焦らずその場を去るのが良い。


 相手が前以上に苛立つことなく終われる手段。敵対しないで済む戦法。

 久しぶりだけど上手く出来るだろうか。こんなに手が震えてるのに、上手く喋れるだろうか。


 待てよ、とふと考えた。

――――オレは前とは違う。そもそも天狗に成りたいんだから、物の怪と呼ばれるのなんか平気だ。オレは物の怪に成りたいんだから大丈夫だ。


 そうだと内心で頷く。大丈夫だ。平気だ。考えてみたらどうってことないじゃないか。


 オレが目指す先は化け物なんだから。


 ざわめく心が凍りつく。静寂が戻る。傷も痛みも氷の下に隠れてしまうと、手の震えが治まった。


 怒れる僧を見上げた。今までが嘘のように、全然怖くなんかなくなっていた。

 そういえば師匠のお客さまをこんなところで足止めしてしまってはいけないな、とふと気付いた。


「何を企んでいる!口が利けぬかそれとも化け物は人の言葉を知らぬか!!」

 何かしら喋らなくては落ち着きそうになさそうな人を見上げ、突きつけられた数珠がきらっと光るのを眺めた。

 化け物と言われても否定の必要がないなら、やっぱり謝るべきかなと考えたとき、突然日が陰った。


 雲がかかったのではない。何かが日の光を遮った濃い影だった。

 影がかかったのは一瞬で、それはオレの上を風を切って飛び越し、勢いそのままに僧を殴り飛ばした。


「てめえ三太朗に何してやがんだぶっ殺すぞごるぁあ゛!!」

 罵声が轟いた。

 怒りに身を震わせて、背に翼を畳んだ次朗さんが立ち塞がっていた。


 ふわり、と温かいものに包まれる錯覚がして、ぎしりと氷が軋んだ。


「じろ、さ…?」

 思わず呼び掛けたら、準備していたはずの普通の声は、いざ出してみれば震えて掠れて小さかった。

 あれ、可笑しいな。平気なのに。平坦な思考で小首を傾げる。こういうときはもっと軽快に喋れるはずなのに。こんなのは変だ。


 肩越しに振り返った次朗さんが目を見開いた。

 酷く動揺したように揺れた瞳はしかし、直ぐににっと笑った。

「おれさまが来たからには安心してろ!そこでちっと休んでな!!」

 力強い声が沁みて、肩が震えた。何かが込み上げて来る気がして、オレはそれを努めて無視した。無視しなければ、何かが弾けて溢れてしまいそうだった。


「おのれ、新手(あらて)か!!」

 直ぐに体勢を立て直した僧が叫ぶ。やめろと老僧が叫ぶのも最早聞こえていない。


「てめえは只じゃおかねえ!!」

 身構えた次朗さんが吠える。こんなに怒ったのは見たことがないな、と思う。最初に会ったときも怒っていたけれど、こんなに激しくはなかった。

 彼のこんなに鮮烈な、熱い怒りは知らない。


 両者は睨み合い身構える。

 次朗さんは拳を握って腰を落とし、対する若い僧は、暴力には無力そうな数珠をそれでも堂々と両手で構えた。


 オレは内心狼狽えた。悪いのは突然飛び込んで驚かせたオレなのに、次朗さんは今にも殴りかかりそうだ。

 そしたらきっとあの人は怪我してしまう。さっき殴られた頬も赤くなって痛そうなのに、もう一度殴られたらもっと痛いに違いない。それにどういう手を使う心算か知らないけど、あの人も黙って殴られたりしなさそうだ。


――――次朗さんが怪我をする?


 その可能性は愕然とするほど恐ろしかった。オレの所為でオレの為に来てくれた次朗さんが怪我をするなんか考えたくも無い。

 止めなくては。そう思ったけれど、どうすれば止まるのか分からない。どうしたら無事のまま終われる?


「止まれ!」


 制止の声が突如落ちてきた。

 だがそれを合図にして目の前の背中が前に出る。兎に角とめねばと遮二無二伸ばした手で掴んだのは…次朗さんの右足首だった。


「おわっ!?」

 結果、次朗さんはつんのめり、宙に頭をぶつけて(・・・・・・・・)止まった。

 向こうでは、老僧に押さえられている若い僧が、何かに打ち付けたように腕を押さえているのが見える。

 両者動きを止め、何か分からないけど、取り敢えず喧嘩は止まったようだった。


「あ…」

 見上げた目に、大きな翼が映った。


 彼は、黒の翼を宙で畳み、軽い音をたてて降り立った。


「師匠…」

 オレを振り返って、黒衣の天狗は僅かに顔をしかめた。

「…来るのが遅れたようだな。すまない」


 その声を掻き消すように、ばさばさと羽音がして、続いて大きなカラスがその傍らに降り立ち、二人の僧を睥睨(へいげい)する。更に三羽、近くの枝にカラスが留まって鳴いた。


「何をしておるか!」

 ヤタさんの声がした。


 師匠たちが止めに来てくれたのだ。染みるように理解した途端、安堵感に脱力した。

 良かった。きっと師匠ならこの場を正しく収めてくれるだろう。もう誰も怪我をしない。…もうきっと何も言われない。


 ほっとしたら手からも力が抜けた。

 頭をぶつけて苛立ち、手を振り解こうとして丁度足を振り上げた次朗さんが、抵抗なくするっとオレの手が外れた所為で勢いよく目に見えない何かに足をぶつけて悶絶したのも目に入らなかった。


 師匠に向かって三羽のカラスが口々に鳴く。師匠は彼らを見て時たま頷いた。話を聞いているのだと直感した。師匠はカラスの言葉が解るのだろう。

 やがてカラスが黙ると、ゆっくりと振り向き、僧たちに向き合った。


恵然(けいぜん)。申し開きはあるか」


 冷たい声に驚いた。声は聞いたことがない程、厳しく硬い―――怒ってる?


「申し開きは、できませぬ」

「御師さま…!?」

 進み出て頭を下げたのは、恵然と呼ばれた老僧だった。


「我が不肖の弟子が、この山の方に乱暴を申しました。止めきれなかったは拙僧の責。誠に申し訳ない」

 師匠に、次にオレに深々と頭を下げる僧に目を見開いた。謝られるとは思わなかったのだ。ちゃんとした大人が、オレみたいなの(・・・・・・・)に頭を下げて謝っている。

 オレは異様なものを見た心地で、傘を脱いだ禿頭(とくとう)をまじまじと見た。


 驚いたのはオレだけではないようで、若い僧もまた目を剥いた。

「おやめを、御師さま!」

「やめるのはそなたじゃ明然。この(たわ)け者が!!」

 ついに恵然が怒った。余程驚いたのか、明然が押し黙る。

「そなた、よもや何をしたか己で分からぬのではあるまいな!恥を知るが良い!!」

「ですが…」

「やめよ!」


 苛立だしげにヤタさんが叫ぶ。それに呼応して、無数のカラスが一斉に鳴き騒いだ。

 気付かない内に黒い鳥の群れが木々の枝を埋め尽くしていた。それだけでなく更には空を舞いながら見下ろすのも居て、それら全てが責め立てるように騒ぐさまは不気味そのもので、大丈夫だと知っていても身が縮む。思わず次朗さんの衣の裾を握った。

 気付いた次朗さんが、背をぽんとあやして、更に鋭く僧たちを睨んだ。


 ばさりとヤタさんが翼を畳みなおすと、残らず全部の声が止んだ。不意に訪れた静寂に、わーんと耳が鳴る。


「招かれた身でありながらよくも我らが山の者を(そし)り、傷付けたな!!万死に値う!!」

 ヤタさんが重々しく宣言する。違和感に「え?」と呟いた声は、もう一度上がった数百の鳴き声にかき消された。


「何を言う、わた「黙れ!!」

 明然の声を遮って叫んだのは次朗さんだった。さっとオレの肩を抱いて支えると、燃えるような目で睨みつける。


「こんな傷だらけにして、倒れたまんま助け起こさねえで化け物だのなんだの罵りやがって!その上しゃあしゃあと口答えなんざ良く出来たもんだな!!」


 追ってまた鳴き声が轟き渡り、僧の声を掻き消す。見えないのが不思議なほどの濃い怒りが渦巻いているのを感じて身震いした。

 守るように抱えられながら、オレは次朗さんを見上げ、厳しい顔で前を向いた師匠を見上げて、…自分の体を見下ろした。


「うわ」

 転がった所為で衣は土まみれで、所々ほつれている。手足のあちこちに打ち身と擦り傷が出来て血が滲む。俯いて目の端に揺れた髪まで黒っぽく汚れ、急な動きでぽろっと土の欠片が落ちた。…これは酷い。


 気付いた途端に襲ってきた痛みに、痛いな、とかなんとか思ったとき、唐突に今の状況が全部理解出来て、血の気が引いた。


――――もしかしてもしかして、この傷全部あの人がやったことになってないか!?


 はっと顔を上げれば、最早(もはや)高まりきった怒りは煮詰まり、今にも無数のカラスが襲い掛からんと身構えている。

 カラスの嘴は鋭くて大きい。あの数に襲われたら人間なんかひと溜まりもない。


 彼らはきっとやるだろう。そしてそれを師匠たちは止めない。半ば確信に変わった予感に冷や汗が浮く。

 日々暮らす中で接してきた彼らを思い出す。どんな風に考え、喋り、行動するのか。聞いた逸話の数々、この目で見てきた彼らは優しかったがしかし、身内を傷つけるものに容赦は無かった。


 人が躊躇するところを躊躇わないところもある。ある意味それは当たり前だ。


 何故なら彼らは人に似ていても人ではないのだ。


「ちょっと待って下さい!!」

 夢中で声を上げていた。立つのももどかしく膝で前へ出て。だが直ぐに目に見えない何かに額をぶつけてそれ以上進めなくなる。痛い。


「どうした」

 振り返った師匠が、優しくオレの顔を覗き込む。


「誤解です!誤解があります!待って!!」

「誤解?」

 ざっと音を立てたような気がするほど一斉に、無数の目がオレを向いた。


 集まった視線にすくみそうになる自分を叱咤して、懸命に訴えた。

「そうです!この人たちが道を通ってるときにオレが気付かないで走ってって突っ込んじゃったんです!これは上手く着地できなくて転んで出来た傷です!!あの人たちは何もしてません!!」


 明然が目を見開くのが一瞬見えた。

「ああ!?おいこら三太朗!」

 けど直ぐに引っ張られて、視界一杯に次朗さんが映り込む。高まったままの感情もがオレを向く。


 直ぐにちゃんと言わなかったからだろうか。誤解させたままここまで来たのに、今更訂正するなんて恥をかかせたとかって怒られるんだろうか。

 それは確かにオレが悪い。だから甘んじて受けようと、怯えたまま次朗さんを見返した。


「だからってこいつらが悪いのは変わらねえだろうが!!」


 何を言われたのか分からなかった。悪い?何が悪いんだろう。

 オレが知らないところでこの人たちは、何か悪いことをしていたんだろうか。

 反応が無いオレを揺すって、次朗さんは尚も叫ぶ。


「怪我したお前を助けもせずに化け物呼ばわりして、傷つけて泣かせたのは変わらねえだろうが!!こんな奴らの肩を持つこたねえんだよ!!」

「え…」

 言われて初めて、自分が泣いているのに気が付いた。頬に手をやって、確かに濡れているのを知って驚く。

 肩を掴む手に力が篭って痛い。


「てめーは怒って良いんだよ!ちゃんと避けたんだろ!?あいつに当たらねえようによ!その所為で怪我してんのにあいつボロクソ言いやがって!やっぱ許せねえ!!ああ畜生、ししょーこの結界解けよ!もう一発ぶん殴ってやる!!」


――――まさか。

 オレは放心したままぐるっと周りを見回した。


 毛を膨らませているカラスたち、じっと僧を睨んでいるヤタさんと師匠、罵声を上げる次朗さん。場に充ちた怒りは全て僧たちに向いていて、それは、オレが嫌な想いをしたんだと、それを怒ってのものだと、そう言うのか。


 胸の奥の冷たい塊が軋んでひび割れる。

 痛かった。平気だと思ってたのに、すごく痛かった。本当はずっと痛かったのだ。


 そこにあるのは弱さだった。当たり前のことで一々傷付く、オレの弱くて脆い心。


 オレはついに認めた。オレは弱いってことを。皆が来てくれたってだけで安心して、気が緩んで、弱気になってしまう弱い心を認めた。

 情けなくて消えてしまいたかった。何よりあの僧に弱さを知られたくなかった。知られたらもっと恐ろしいことが起こる気がして、ただ帰りたかった。誰も傷付けない、温かいあの館に今すぐ帰りたかった。


 あちらを睨みつけながら不可視の壁を殴る次朗さんを、抱きついて止めた。


「次朗さん。やめて下さい。もう良いですから」

「あ゛あ゛!?」

 鬼の形相で振り返った次朗さんの目に映ったオレは、へらっと笑っていた。

 ちゃんと作れた表情と、上手く出た声に弾みを付けて、オレは明るい調子で言った。


「お客さまは、あまり妖のことをご存知じゃないんですよ。緊張してるところにオレが飛び込んじゃったもんだから、びっくりして怖かったんでしょう。ほら、驚いた人って怒りっぽくなるじゃないですか。だからあんな風に言っちゃったんですよ」

「だからって(ゆる)すのか!?」

 正面からぶつかる苛立ちに尚も微笑んで、オレはあっさり頷いた。


「だって、オレも最初皆さんにびびって逃げ回ったりしました。咄嗟に怖がるなって方が無理ですよ。オレは、怒ってませんからもう良いです」

 カラスたちが騒めく。近くの者と意見を交わすように小さな声で鳴き声を上げる。それが纏まり、山全体がざわめいているような錯覚がした。


「三太朗よ」

 間近に寄ったヤタさんが優しく呼びかけて、あたたかな眼差しが注がれた。

 日溜まりに手を置いたようなあたたかさに、少し余計な緊張が緩む。


「それで良いのか?」

「…はい」

 オレが心から頷いたのを確かめると、黒い鳥はふむとひとつ唸った。


 一斉に翼が鳴り、無数のカラスが残らず飛び立つ。


「恵然」

 ちらっとオレを見た師匠が、僧を睨んで冷たく言う。


「は」

「次は無いぞ」

「肝に銘じますじゃ」

 老僧が深々と頭を下げた先がこちらのような気がして、オレはふいと顔を背けた。やめてほしい。


「おいこらてめえ!三太朗が赦してもおれさまが赦さねえ!!」

「次朗さん、行きましょう。もう昼餉じゃないですか?帰りましょうよ。ねえ、良いでしょう?師匠」


 師匠を窺うと、目は二人に向いたまま、ああと頷いた。

「早く戻って手当てをしてもらえ」

「ふむ。それが良かろうな」

 続いてヤタさんも頷いて、一瞬だったが心配そうに擦りむいた膝を見た。


「先帰ってろよ!こいつに落とし前付けてやる!!」

「ねえ、次朗さん、そんなこと言わないで、足痛いから負ぶって下さい!…ダメですか?」

 息巻く次朗さんに、掴んだ裾を引いて見上げると、やっと黙ってくれた。


 兄弟子は滅茶苦茶大きな舌打ちをひとつして、それでもさっとオレを背負うと、ばさっと音を立てて翼を消した。

 びしっと下品な手真似をやって、僧たちをもう一睨み。


「覚えてやがれ!」

「次朗さん、それ三下(さんした)の台詞ですよ」

「ああ?」


 そんなやり取りをしながらその場を後にする。山道に入り、目に映るものが山の景色だけになって(ようや)く体の力が全部抜けた。


「ねえ次朗さん、まだ怒ってるんですか?」

 黙って歩いている背中から怒りが冷めないのが気になって、そっと声を掛けた。


「当たり前だろ!何だあの糞坊主!!最後まで侘びのひとつも言わなかったんだぞ!」


 そういえばそうだったか、と今更気付いた。けど、もうどうだって良かった。

 オレにとっては気にしても仕方ないことで、もう終わったことだ。

 だけど、次朗さんはどうでも良くは無いようで、むらむらと苛立ちを発しながら、今度は矛先がオレに向く。


「てめえもてめえだ!何悟りきったみてぇな顔で許してやがる!腹立たねえのか!!倒れたところを言いたい放題言われてよ!!」

「えー?許してる訳じゃないですよ」

 正直に言ったら、兄弟子は意外そうに黙った。


「だって許すって、怒ってるのを、怒りやめて気にしないようにすることでしょう?オレ最初から怒ってないし…」

「だから!なんで怒らねえんだよ!」

「それは最初から、助けてくれるなんて期待、してないし。当たり前の反応するのに一々怒っても…」


 虚を突かれたように次朗さんは絶句し、立ち止まった。すっと怒りが冷めたけれど、感情(こころ)が逆に冷たくなった気がして、分からないなりに慌てた。


「あ、でも、いきなり怒鳴りつけられたのは怖かったけど、そこまでじゃないし別にあそこまですることないかなって…」

「…なあ、三太朗」

 ぶっきらぼうな声は、なんだか不貞腐れているように耳に入ったけれど、泣きそうな響きとして届いた。


「お前がさ、どんな奴だかおれは知ってる。その上で言う。そうやって波風立てないように出来んのは良いことかも知れねえけど、嫌なことは嫌だって言って良いんだ。筋が通らねえことがあったら、間違ってるって叫べば良いんだ。悪くねえお前が悪もんにされんのが、おれらにゃきつい」


 言い終わって歩き出す。緩やかで規則的な揺れを感じながら、次朗さんの言葉は、いつまでも心に反響して尾を引いた。

 言葉に詰まった。何を言って良いのか分からなかった。


 嫌なことは嫌だと言えと、そんなことを言われたのは初めてだった。だって、オレは平気で、なんでもないことで―――


「ほんとは、嫌だったんだろ?」


 重ねて問われて、浮かべかけた反論は消えてった。


「…うん」

 考えるより先に、ぽろっと声になって零れた。


「そうだろ。我慢しなくて良いんだぞ。お前は悪くねえんだから」

「うん…」

 今度は素直に頷けた。


 誰も助けてくれなかった。

 家族は助けてくれようとしたけど、彼らに火の粉がかかるのを恐れて、知られないように隠した。いつしか声を上げるより、誤魔化して我慢して受け流すことを覚えた。大事な人たちを、オレと同じ目に遭わせたくなかった。…知られたくなかった。オレが謗られ罵られるような存在だと、思われたくなかった。


 だけど、彼らはもういない…もう、良いのか。


 オレはぎゅっと大きな背中にしがみついて、こっそり笑った。嬉しかった。


「平気ですよ。オレ」

「…てめー、なんも分かってねえな」

 呆れたように溜息を吐いた次朗さんに、「そうじゃなくて」と笑った。


「次朗さんが怒ってくれたから、平気になったんです。もう大丈夫です。あのね…」


 こつん、と額を次朗さんの肩に当てた。

 オレの代わりに怒ってくれたのは、不快な気分にしてしまったと考えたら申し訳ないけど、ただ、嬉しかった。


 広い背中に額をつけたら、労わるように軽く脚をぽんと叩く温かい手がある。

 次朗さんの足取りは、いつもからは想像もできない程静かで、出来るだけ揺らさないように気を付けてくれているのが分かった途端に目頭が熱くなった。

 慌てて目に力を込める。懐かしい感じがした。


 かつて、他の者へ知られない時と場所を選んで人に囲まれた。

 それでも何処から知ったのか、オレを罵る人囲いを割って、兄たちが来てくれるときがあった。

 その場の者を追い散らし終えたら、二の兄上と三の兄上はオレの手を引いたけど、一の兄上がいるときは、オレが何を言っても必ずオレを負ぶって連れ帰った。


 そうして、オレは殊更ゆっくりした足取りに揺られながら、こっそり少しだけ泣いたんだった。

 こんな風に。



「…ありがとう」











 明然は、ふっと肩の力を抜いた。呆然自失としていたのを自覚して、自覚できたことに、危機が去ったことを知った。

 正直、恐ろしかった。なんという山なのだ。無数のカラスに睨まれたときには、最早これまでかと思った。

 同時に、あの窮地を救ったのが、自分が糾弾していた物の怪だったのも思い出して、落ち着かない…罪悪感に苛まれる。



「…御師さま、申し訳ございません」

「明然…」


 咎めるような目をした師を見て、制止を聞かずに先走ったのを悔やむ。

 視界が狭まっていたのを自覚する。狐に化かされたのは確かに恐ろしい出来事だったが、物の怪があのような者ばかりだと、いつの間にか思い込んでしまっていた。

 美しい娘に化けるのだから、子どもに化けるモノが居ても可笑しくはない。傷付いた子どもの振りをして油断させたところを襲いかかる心算かもしれないと、疑心暗鬼に陥ったのだ。か弱そうな外見にもう騙されるものかと、あの皮一枚の下には邪悪な素顔が嗤っているのだと思い込んだ。


――――物の怪にも、心ある者が居るのか。


 思えば、傷だらけになったあの子どもを怒鳴りつけたのは、間違ったかもしれない。


『ほら、驚いた人って怒りっぽくなるじゃないですか。だからあんな風に言っちゃったんですよ』


 聞いた言葉を反芻する。

 確かに自分は驚いていたが、それだけではない。

 ずっと警戒し続けてきたところに飛びかかられて、来るべきものが来たように思った。だから、思っていた通りに苛立ちと危機感を順当に全て余さずぶつけてしまったのだ。


 殴られた頬の痛みに、血相を変えて助けに来た長身の天狗を思い出す。彼もまた思い遣る心を持っていた。心無かったのは自分だ。…間違っていたのは自分だ。傷つけた相手をも庇って声を上げた子どもを見たとき、そう悟った。


――――飛び掛かられた、というのも誤解だった…あの物の怪を信じるならばだが。


 意地を通すように付け足して、情けない生き物になった気がした。

 あの子どもは、自分に一言の謝罪も求めずに庇ったではないか。なのに、自分はどうだ。恐怖に眼を曇らせ、慈悲を説くべき仏門の徒にあるまじく傷つけ、己の非を素直に認められずにいる。


 やはり自分は師の言う通り、何も知らないのだ。物の怪にもあのように心があることも、死に瀕したときの恐怖も、恐怖から疑念が生まれるのも知らなかった。

 そう、自分は恐ろしかったのだ。あの物の怪が言う通り、また騙されて痛い目を見るのが恐ろしく、見たままを信じることが出来なかったのだ。


 正しいことをした心算だった。だが実際はどうだ。

 自分たちが居ると知らずに山を駆け降りて、ぶつかりかけて間一髪で避けた代わりに怪我をした子どもの妖。助け起こしてやるべきだったのに自分は何をしたか。

 起きようとしたのを動くなと怒鳴り、怯えて固まってしまったところへ化け物と罵り…。


 妙な髪と目の色をしていた。まだ上手く化けられないのかもしれない。それほど幼い物の怪だったのかもしれない。

 血相を変えた山の主もが駆けつけるのだから、大切に可愛がられ、守られている子どもなのだ。


小童(こわっぱ)が。謝る相手は独りか痴れ者!」

 吐き捨てるような冷たい声がして、はっと明然はこちらを睨むカラスと…黙って佇むその主に向き合った。


 黒の天狗。師の話を聞いて考えていたよりもずっと小柄で、驚くほど若い顔をしていたが、こちらが慄くほどの鋭い気配を発している。

 だが、自分がまず謝るべきはこの存在だと気付いた。

 この場で己の非を認めるのはひとかたならぬ決意が必要だった。だが、元はといえば自分が蒔いた種なのだ。

 意を決して傘を脱いで頭を下げる。


「申し遅れ、申し訳ございませんでした。騒ぎを起こしてしまい、本当に申し訳ない。彼はああ言いましたが、疑うべくなく拙僧の過ちです。確かに、拙僧が許しを請うべきはあの小さな妖。どうか彼にも謝罪を「だから貴様は痴れ者だというのだ!」


 大鴉が怒りの声を上げた。今までで一番強い怒りを感じ、同時に只ならぬ気配が、肌が粟立つような恐ろしい気配が、冷たく見つめる天狗から流れ出すのを感じて、圧されて一歩後退る。


「あれは()だ」


「え…?」

 耳を疑った。

「それは、誠でしょうか」

 恵然もが驚きを露に問いかけるのに、ちらりと一瞥をくれて、黒い目がまたこちらに戻る。


「ああ。未だ人の、末の弟子だ」


 二人は絶句した。天狗の山に居るのはすべて物の怪だと思っていた。そうでなくともあんな白茶けた髪と目。目の前の天狗などは翼が無くば人と見紛うが、あの少年は疑問もなく物の怪だと思い込んでいたのである。


「何故人が居るのです…?」

「だから、弟子に取った」

 驚きのまま呟いた恵然の問いへの答えはなんとも素っ気なく、要領を得ない。


「畏れながら、どうしてあの子はこの山に来ることとなったのでしょうか。親元を離れ、一人で」

「貴様が知る必要はない」

 にべもなく打ち捨てる口調に恵然が詰まるのを他所に、明然ははっと肩を揺らした。


「お待ちを!」

 思わず口を挟んでしまい、射るような目を受けて後悔しかけた。だが、ここだけは訊かねばならない。

「非礼は如何様にもお詫びいたします!ですがどうかこれだけはお聞かせ下さい!先ほど貴方は"未だ"と、"未だ人(・・・)"と申されましたか!?」

 恵然もが目を見開いたのに構わず、天狗は簡単に頷いた。


「未だとは…まさかあの子はいずれ人ではなくなると!?」

「ああ」

「そのことはあの子は知っているのですか!?」

「ああ」


 面倒そうな短い返事に眩暈を覚える。

 彼は知っていながら何故ここに居るのか。先の様子からは無理に山に閉じ込められている風ではなかった。寧ろ物の怪たちに懐いた様子に見えた。


――――まさか、知ってはいても幼い身では理解出来ていないのではないのか。人外に()すという意味を。


 自分であっても想像の埒外のこと。彼がその重みを理解しきれていなくとも無理はない。

 だとすれば誰かが教えてやらねばならない。―――手遅れになる前に。


 そう思った瞬間に口を開いていた。

「では…では彼にもう一度会わせて下さいませ!お願いでございます!!」

 不快気に眉をひそめられて、思わずたじろぐが、退く訳には行かない。"未だ人"の内に会えたのは御仏(みほとけ)の引き合わせであろうと思った。彼を引き止めてやらなければならない。人の道を外れていこうとしている幼い者を見捨ててはおけない。


「何を厚かましい。貴様が生きておるのが最大の譲歩!この上更に恥を上塗る振る舞い、控え居れ!!」

 翼を鳴らして上の枝に飛び上がった大鴉が睨み付ける。


「弟子が申し訳ございませぬ。しかし、拙僧も一度話したく思います」

 恵然が庇うように前に出て、負けぬ厳しい目を向けた。


「ほう?会ってなんとする」

「無論、思いとどまるよう話します」

 天狗の険の篭った眼差しにも一歩も退かず、老僧は毅然と頭を上げた。


「人から外れるとは、幼い身で選ぶのは余りに重い。知ったからには引き止めるが人の道ですじゃ」

 覚悟の篭った決死の言葉を、天狗は嘲笑った。


「お前もあれを妖だと思っていただろう。弟子に至っては化け物だと散々罵っておきながら、実は人だと言われれば即座に同胞面か」


 さっと顔色を変えて口を開きかけた明然に先んじて、きっと睨んだ天狗が吐き捨てる。


「言っておくがあの色は生まれついてのものだ。あれは我らに多くを語らぬが、ここへ来るまでの扱いが如何様なものだったか貴様らの態度を見てよく分かった!あれは最早(もはや)我らが身内。この上更に傷つけるのは許さぬ!!」


「いいえ!お聞き下さい!」

 思わず明然はその場に額ずいた。迷いは無かった。

「…何の真似だ」

 低めた声に、どうかお聞き下さいと返しながら、明然は腹を括った。


「お怒りは至極最もです。貴方の大切な弟子を、我が不明不徳により傷つけてしまった。この上更に傷つけることは無いと誓いまする。ですがどうか、どうか一度彼を引き止める機会をいただきとうございます!」

「何故か」


 天狗の口調は元の静けさを取り戻した。だがそれに気付く余裕もないまま、明然は必死に訴えた。

「貴方がどうお考えなのか拙僧にはわかりませぬが、人にとって、考えようによっては死ぬると同義の大事なれば、仏門に身を置く我らが自ら死に逝かんとする幼い人を見捨てることは出来ませぬ。彼にとっても考える機会は多い方が良い筈。あの歳で人の世に未練なくここへ来たとは思えませぬ!戻る道を失ってから後悔しても遅いのです!」


 懸命の叫びに、僅かに天狗と大鴉は目を細めた。

「戻ってなんとせよと言う。化け物と罵られながら生きよと言うか。あの様を見たろう。懸命に堪えて、如何にか乗り切ろうとして震えていた。己で泣いているのも気付けぬほど追い詰められた様子を。人であることを取って、ああして生きて行けというのか」


「それを決めるのは彼であるべきです!拙僧は決して無理強いはせぬとお約束します!もし山を降りるのであればこれからの助力は惜しみませぬ!」

 勢いで言い切って、明然は膝を突いたまま天狗を見上げた。

 その顔は意外にも静かで、冷たい様子を残してはいても、こちらの言葉を余さず受け止めているように思った。

 そうして気付いた。先の言葉は、あの子どものことを想って心から案じて居らねば出ない。


「…ですが、どうしてもならぬと言うのならば、諦めます。彼はもうこの山の者でありますから」

 気付いてしまって、自然と言葉の強さは抜けていった。


「しかしせめて彼に直接謝罪をしたく思います。どうか、してしまったことに許しを請う機会をいただきたく」

「あれとお前を会わせたくはない」

 眉ひとつ動かさない白い顔を見返して、尚も訴えた。


「彼が会いたくないと言うのなら…無理強いは致しませぬ。今このまま終わってしまえば彼は人に嫌悪するでしょう。ですが、彼が人でなくなったとしても、人であったことは消えませぬ。かつての自分が人の中に数えられることが…苦しめることになるやもしれません」

 苦い想いが込み上げた。

「その一端となった拙僧が何を言うかと思うでしょう。ですが当人だからこそ、少しでも和らげることが出来るのです。少しでも良い形で事態を終えることが出来ると考えます。どうか、彼と話したく」


 はっ、と短い溜息が聞こえて、明然は自然と下がっていた視線を上げた。

「良いだろう」

 佇む天狗は、じっと己を見る大鴉を見た。

「…好きにするが良い。但し、取り継ぐことはしない。探せ」


「有り難く!」

 好きにしろということは、説得も叶う。思いがけず願いが通ったことに声を弾ませた。その耳に、しかし、と静かな声がした。


 視界から黒い姿が唐突に消えた。

 え、と声を上げた目の前に、白い顔が現れる。


「あれをもう一度傷つけてみろ。そのときは命をもらう」


 間近で覗いた黒い相貌は深かった。ただ底に苛立ちが燃えるように揺らめいているようだった。

 何を言う間もなく、翼の音ひとつ鳴らして、小柄な天狗は空へ駆け上る。

 恵然に一瞥をくれて、黒い姿は去った。



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