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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
67/131

五十九 訪問者


 川辺で夜を明かし、遠目にも壁のように濃い霧を目指して馬を進めた。


白鳴山(はくめいざん)(ヌシ)は黒い天狗。他の妖魔(ようま)に比して驚くほど話がわかる御仁ではあるが、その考えは人に似て非なるものじゃ。妖力甚大の(あやかし)であることには変わらぬ。我らを(ほろ)ぼすどころか、その気になればこの一帯を荒野に変えることもできよう。くれぐれも機嫌を損ねてはならぬぞ」


 師は道中、山に棲む妖のことをそのように評した。

 明然(めいぜん)は忠告に(だく)と返しながらも問わずには居られなかった。


「御師さま。なぜそのような危険な物の怪(もののけ)を野放しにしているのでしょうか。遠からず人里も在りますし、もしも気紛(きまぐ)れを起こして力を振るえば大変なことです」


 明然の脳裏には、己を騙した化け狐の姿がある。術中に嵌るとは自分の修行不足は否めないが、物の怪が危険なことの証左でもある。

 未熟を晒した恥は心に深く刻まれて、物の怪への嫌悪を増していた。


 ほう?と老人は、ちらりと弟子を一瞥した。

「危険な物の怪、か。ではそなたはどうすべきだと思う」

「…如何に妖力甚大とはいえ、一門(いちもん)退魔僧(たいまそう)を結集すれば勝てぬ相手はありますまい」


 師は、ほっほっほっと声を上げて笑った。

「若いのう。成る程、いつか大暴れして人死(ひとじに)がでるやも知れぬなら今の内に殺してしまえとな」

 明然は、師の直截な言い方に多少怯んだものの、未熟で浅はかだと言われたように感じて面白くなかった。

「悪霊や物の怪の退治は殺生に入りますまい。己を亡ぼすやも知れぬ物の怪が近くに在れば、近隣の者の気も休まらぬでしょう。相手は物の怪。滅することが衆生を救うことと考えます」


 老人は、しばらく前を見たままぽくぽくと馬の背に揺られていた。

「…己を殺すやも知れぬ者が傍に居れば恐ろしかろう、とそなたは言うか。ふむ、町を歩けば刀なり鉈なり帯びて歩く者を見ぬ日はないな。(やいば)を用いれば命を絶つに易しいが、殺されるやも知れぬとは思わぬかの」


 返った言葉は話の前半に触れない。それに不満なものの、言わんとするところを察して、明然は思わず言った。

「人相手とは話が違いましょう。御師さまもその考えは人に似て非なるものだと仰ったではないですか。相手は物の怪です。人が思いもつかぬ理由で暴れだすやも知れませぬ」


 ふふふ、と深い笑みが返事だった。

「左様。この山に通うて四十余(しじゅうよ)年になるが、その都度言葉を交わせど()の天狗はとんとわからぬ」

 これは話したかのう、としわだらけの顔が楽しそうに笑った。

「一度、嵐が重なって難儀しての。やっとの思いで山に着いたというに、あの御仁は眠りこけておった。儂が来たと耳元で騒ぐ弟子の声でも起きんかったでな、仕方なしにそのまま御供養を始めたのじゃ。そうしたら、むっくり起き上がってふらっと外へ出よる。どうしたのかと思うても供養の途中で立つ訳にも行かなんだが、気付いたら嵐がぱったりと止んでおった」


 明然は眉の辺りに力が入ったまま訊いた。

「つまり、天狗が嵐を払ったと?」


「ふむ。嵐が煩かったから止めたと言っておったな。だが不思議とあの山では嵐も弱まってそよ風のようになる。弟子の声の方が煩かったろうに可笑しな話じゃ。そう言うたら『山の外は風が強い。もしお前の小さな声があいつまで届かなければ困る』と言いおった。声ではなく祈りの心を届ける故に、音は届かずとも良いのだと言うたら、気抜けた様子で苦笑いしておったよ。所で余談だが、帰りに寄った村では既に幾つも水に呑まれて橋が落ち、風で屋根が飛ばされておった。あのまま続いておればどうなったやら」


 師の話は、信じられない事が多過ぎた。

 読経の声が聞こえないかもしれないと、家が飛ぶほどの風をあっさり収めるほどの…天候を変えるほどの力を持つなど最たるものだ。例え選りすぐりの退魔僧を集めても、討てるような気はもうしなかった。

 そもそも、思えば天狗が年に一度僧を呼んで法要を行うなどと言うのも可笑しな話である。


――――物の怪も死者を(いた)むのか。思い違いや寝坊をするのか。


 今の話の天狗は、想像していた妖とは違ってどこか人間臭い。冷たく恐ろしいだけの、呪わしいものとは何かが違う。

 唖然とした心地で押し黙った乗り手につられたように、片方の馬が足を緩め、老人を乗せた馬が僅かに前に出た。


「…物の怪が人を救ったと仰るのですね」

 結局これが言いたいのだろうと、少なからず毒気を抜かれて問えば、師はいつものように淡々と答える。

「儂はそうは言わぬよ。彼の御仁も言わぬ故に。ただ、気紛れで力を振るった(・・・・・・・・・・)天狗が居て、その結果助かった人が在ったやも知れぬがな。近隣の民が彼の御仁を天災から守ってくれる神として祀っておっても、当の天狗はそんなのは知らぬと言うだろうのう」


「…神?」

 一時愕然とした明然は、ややあって師の背に追い縋った。

「それは誠なのですか!?」

「嘘は言わぬよ」

 弟子の動揺にも見向きもせず、老人は飄々と前ばかり見ている。


「では、あの物の怪はそのままにしておくべきだとお考えなのですね?」

 信じられない気持ちで明然は尋ねた。彼の中では(あやかし)は害を撒き散らすもので、人が憎んで然るべきもの。敬い祀るなど思いも付かなかった。


 弟子の動揺を見て師は静かに言った。

「そなたは()き過ぎるな。求むる答えは儂がどう思うかで決まりはせぬであろう。誰が同意するかなどは瑣末。違うかね?行くべき道はそなたが見極めねばならぬ。例え儂がこうせいああせいと言うても、得心せぬだろうしのう」

 今度こそ明然はぐっと詰まった。


 話しながら進む内に、霧が間近に迫っていた。


 いつの間にか馬は道の土ではなく短い草を踏んでいる。見下ろした草地は青々としているが、目を上げていくと直ぐに靄をかぶり、白が濃くなり、草葉の影も滲んで霧の中に消えていく。

 霧に幾ら目を凝らしても白いばかりで全く見通せはしない。見上げれば日輪までもが滲んでぼやりと光っている。


 明然はこんなに濃い霧を見たことはなかった。

 透けるということが全くない。実は硬く、通り抜けることなど出来ないと言われてもつい頷いてしまいそうな、濃厚な白。それはまさしく壁のように聳えていた。


「これと今断ずるには、そなたは無知に過ぎる。そなたは才に恵まれておるが、それ故に己が知るものが全てだと思う癖がある。知る為には先ず己の無知を知ることじゃ。世は無明。無知がもたらす闇に沈んでおる」

「…何を知らぬと言うのです」

「何もかもを知らぬ。その心算(つもり)で居ることじゃ。でなくば知らぬ間に、救おうとした手で傷付けることとなろう。悟りの道は長く、そなたはまだ歩み始めたばかりじゃ。急くでない」


 かあ、と思いがけず間近で鳴き声がして、明然はぎょっと顔を上げた。

 二騎が足を止めると同時に、目の前を埋め尽くす白の中でばさりと羽音が鳴り、一点に黒が滲み出る。

 直ぐにそれは鳥の姿を取って、二人の少し前の地面に降りたってもう一声鳴いた。


「…カラス?」

「迎えじゃの」

 手振りで促され、師と共に馬から降りた。


「今年も案内(あない)、宜しくお頼み申す」

「御師さま?」

 屈んでカラスに丁寧に話し掛ける師の姿は異様だ。すわ妖かと思ってよくよく見ても、ただのカラスにしか見えないから尚更だ。だが、またもや手振りで促され、不承不承明然も頭を下げた。

「…宜しく頼みます」



「承りました」



 息が止まるほど驚いた。ひょい、と見上げたカラスが、どこか笑い含みな若い女の声で返事をしたのだ。


「ここより(かち)にて向かいます。馬は途中の水場に置いて行きます。荷は無くとも構いませんが、どうしても必要なら持って山を登れる程度でお持ち下さい。これより霧に入りますが、あたしを見失ったら直ぐに声を上げて下さいな。それでは参りましょう!」


 面食らった明然を気にせずすらすらと言って、どこか上機嫌にかあと鳴くと、黒い鳥はくるりと(きびす)を返して歩き出す。


 すぐに黒い体が霧に隠れそうになって、慌てて後を追う。

 得体の知れない霧につい踏み込んでしまったのに気付いたのは、周り全てが白く塗りつぶされた後だった。


 ふふふ、と唐突に師が笑うのが聞こえて、明然は一瞬だけ老人に目を遣った。

 少しでも目を離すとカラスを見失ってしまいそうで、余所見が出来なかった。


「知らぬことが多かろう?儂もこの山へ来るようなって己の無知を知った。儂だけでなく我が師も、そのまた師も…幾百年もの間、何人もの僧が繰り返して来た。この旅で、そなたも無明に目を開くことが出来るよう願っておるよ」

「このお勤めが代々、ですと?」

「左様。広まれば必ず要らぬ波紋が立つ故、密儀となっておる。そなたも重々、内密にせよ」

「…は」


 明然は何も言い返すことが出来なかった。

 師が毎年特別な供養に出かけることは知っていたが、行く先を教えられたのはここへ来る道中である。物の怪の山へ行くのは、害をもたらさぬように監視し、管理するためだと勝手に考えていた。

 だがどうにも、首に縄を付けている様子ではないし、そもそも数百年もの永きに渡っての伝統だと言う。古くからその存在を知りながら、討伐や封印という話にならぬのは、何か理由がある筈だ。それを見極めねばならない。


――――成程、御師さまの言う通り、まだまだ知らぬことは多い。

 師を含めた偉大な先人たちが、滅多な判断を下す訳も無し。明然はそう断じて気を引き締め直した。ここから先の全てを見逃さぬよう、よく目を開いておこうと。


 白い霧に包まれた中で、ただ一点、霞みかけたながらもなお黒い鳥を視界の中央に置いて進むと共に、物の怪への警戒がいや増した。

 霧を割って木々が見え始め、やがて密度を増した。人が伐らないまま育った巨木の林は、合間を埋める霧の所為で薄明るく、浮世離れして見えて、ここが人の世ではないように感じさせた。

 油断はできない。ここはもう物の怪の領域だ。


 木々の間の、人がやっと通れる程度の小道を辿る。上り坂は、自分が今山を登っていることを気付かせた。

 途中、木々の空白にあった小川のほとりに馬を繋いだ。道中、霧の中に入ってからはとんと獣の気配もしない。当然馬泥棒の心配もなかろうと判断して、更に上る。

 話すことも絶え、無限に続くように思える霧の中をただ黙々とどれほど歩いただろうか。


 何の前触れもなく、さっと視界が澄んだ。

 カラスを追って下ばかり見ていた顔を上げると、数歩先の茂みが見えた。ちらちらと踊る木漏れ日が眩しい。ざわざわと風が枝を揺らす音がして、鳥や獣や虫の声が混じって初めて、今までが異様に静かだったのに気付いた。霧の壁を突き抜けたのだ。


「さあ、案内はここまでです。道なりに上がればお館に着きますから、もう迷うことは無いでしょう」

ばさりと翼を鳴らして、目線程の枝に飛び上がったカラスが唄うように言った。

「ご苦労様でございました。助かり申した」


 丁寧に感謝を述べる師の横で、明然も頭を下げた。この鳥がいなくてはあの中で迷っていたことは確かだ。例え妖しかろうとも、助かった事実に礼はしておくべきだと思った。


「いいえ。ではまた」

 カラスは軽々と飛び上がり、枝葉の隙間から空へ消えた。


 案内役のカラスと別れて更に、明然は神経を尖らせる。

 何かを仕掛けてくるのならば、仲間を巻き添えにせぬよう、自分たちだけになったところを狙うのが常道だろう。こちらに何の落ち度がなくとも、相手は物の怪。僧侶を嫌って目に物見せようと思うやもしれない。そう思いついてしまえば益々気が抜けなかった。


「こちらじゃ。そなたもあの館を見れば驚くだろうのう」

 呑気に先導する師の後ろを黙って歩きながら、右手を内懐(うちぶところ)の数珠に触れさせる。口の中で何度も題目を唱えた。




 ざざざ、と小さな音が、尖った神経に引っかかった。

 ふと足を緩めて耳を澄ます。遠い?いや、思ったよりも近い。それも近づいてくる。


「御師さ…ッ!!」

 警告を発しようとしたそのとき、脇の茂みから影が飛び掛かってきた。











 なんとなく沈んでしまった気分のまま夜が明け、次の日が昇った。今日は客が来る。


「何かあったか」

 いつも通りに振る舞っているつもりでも、どこか様子が違ったのだろう。昨日から何度も心配の声を聞いた。その度『何でもない』と『客が来るので緊張している』を繰り返して誤魔化していたけれど、鍛錬の後でついに師匠にも訊かれてしまった。


「何でもないです…みんなそう訊きますけど、オレ何か可笑しいですかね」

 そう返して、苦笑いを作って見せた。

 こうすれば大体は誤魔化されてくれる。笑顔というのは便利なのだ。苦しかったり辛かったりしても、笑っていればいつの間にかその話は流れてしまうものなのだ。その内自分もなんでもない気分になってくるし、重宝している。


「ああ、可笑しいな」

 だけど、オレのいつもの戦法は、師匠相手には効かなかった。


 師匠はしゃがみ込んで真っ直ぐ目を合わせた。

「昨日も少し暗かったろう。何を落ち込んでいる」

「お客さまがいらっしゃるので、少し緊張してて」

「それだけでは無いだろう?」

「え、と、それだけ、で…」


 オレが言えたのはそこまでだった。

 真っ直ぐな目を見返して、誤魔化す言葉は最後まで言えない。よしよしと頭を撫でてくる優しい重みが、嘘を重ねるのを躊躇わせた。


「っ…流石ですね、師匠は。……なんで判ったんです」

 目を逸らして、代わりに思わず呟いた。

 だって、館のモノも最後には『人見知りだったのか』と言って大丈夫だと笑ってくれたというのに、師匠は一切騙されてくれなかった。


「判るさ。お前は俺の弟子だからな」

 そう言って師匠は笑った。理由などそれで十分だと言わんばかりに。

 嘘を吐いたオレを咎めることなく、しょうがないな、みたいな感じで優しく笑う師匠は…ああもうかっこいいなこの大人の余裕!何よりオレのことをちゃんと見てるってさらっと言う、その言い方が絶妙だ!畜生参った降参だ!!


 …何故か勝手に滲んできた涙を隠して俯く。

 どうやら、自分で思ってたより落ち込んでいたみたいだった。気にかけてくれているのが、心に染み入るように温かかった。


「どうした。何があった。…次朗か?」

 驚いて言う師匠の心配が膨らんでくるのを感じて、慌てて首を横に振った。


「違います大丈夫です!っていうか、なんで最初に次朗さんが出てくるんですか」

「最近何かあるとすれば大概次朗だからな」

「大体合ってるけど、残念ながら違いますよ!この頃次朗さん、ちゃんと気を付けてくれるようになってきたんで、嫌な想いはしてないです」


 だから平気ですよ!と力説したら、師匠が目を見開いた。珍しくあからさまな驚愕と動揺が伝わってきて、オレの方もびっくりした。

「なん…だと?あの次朗が、他者に気を遣う…だと?あの次朗が?」

「流石に酷い!」


 ところで、この頃気付いたことがある。

 自慢じゃないがオレはいつも何かすると褒められる。履物を脱ぐとき揃えて置くと褒められ、茶碗を並べるのを手伝うと褒められ、自分の使った座布団を片づければ褒められる。仕舞いには何もせずとも、やれ姿勢が良いだの所作が綺麗だのと褒められる。

 そうしている内に気付いたのだ。これは、皆がオレを次朗さんと比べているからではないかと。


 真偽のほどは、師匠のこの様子から大体察せてしまう。非常に残念だ。

 閑話休題。


「…師匠」

「うん?」

 促すことなく待ってくれていたのが分かってたから、オレは勇気を出して師匠を見上げた。


「あの、もう少し待ってください」

 心配してくれてるのに今はこれしか言えなくて、申し訳なさに眉が下がる。

「オレ、まだ自分でも整理できてないから、もうちょっとだけ待って欲しいんです。それで、オレが言えるようになったら、訊きたいことがあるんです。そしたら、その、ちゃんと言いますから…」

 ごめんなさい、と続けそうになって口を閉じた。余り沈んだ様子を見せてはもっと心配させてしまう。


 口を噤んで俯いては逆効果だということに気付かない弟子に、師は微笑んだ。

「そうか。では待っていよう。但し、どうにもならなくなる前に誰かに言え」

「…はい。ありがとうございます」


 自分にではなくても良いからいつでも相談しろと言ってくれることに、気遣いを感じてぎこちなくも微笑えた。

 師匠もまた笑みを少しだけ深くして、穏やかな空気が流れた。…そのときだ。


 どだだだだずざざざざざあああ!!!

 言葉にすればこういう文字になるだろう。そんな音を蹴立てて次朗さんが急停止した。


「おれさまの噂をしてる気がして!!」

 どんな地獄耳を持っているのか。どこからともなく走ってきた次朗さんはそう(のたま)った


「残念。もうその話題は終わりましたよ」

「なっ!?一歩遅かった、だと!?」

「しかも中々(けな)してた感じでしたね」

「んだとごるぁあ舐めた真似しくさってんじゃねぇぞあ゛あ゛!?」

「師匠が。」


 ぴたっと次朗さんは黙った。

 上体を屈めて上からオレを怒鳴りつけていたが、油が切れた蝶番みたいな動きで姿勢を正し、恐る恐る師匠の方を窺う。


「こら次朗。そのように直ぐ怒るものではない」

 面白いぐらい大きく肩を跳ねさせた次朗さんは、それ以上の叱責が無いことを確かめて、引き攣った絶望顔を引き攣った笑顔に変えた。

「そっスよねさーせん!以後気を付けます!!」

「ほんとに?」

 ちょっと面白かったので下から茶々を入れてみたら『ばっかてめえ黙ってろよ!』とすごい小声で言われた。…ほほう。


「えーでも、次朗さんが癇癪起こす度に怒鳴られるのって大抵オレだしー」

「ちょ、おまっ」

 次朗さんの引き攣った口元がぴくぴくする。


「謂われがないことで怒鳴られるのってすごく気分悪いしー」

「うっ、ぐぅ…てめぇ…」

 次朗さんは、じっと師匠が見つめているのに気付いて、滝のような冷や汗を流し始めた。

 因みに師匠はただ見ているだけである。だが、追い詰められた次朗さんには、どうお説教しようかと考えている顔に見えているのかもしれない。何せ本当のことだから言い逃れも弁解もできない。袋小路に追い詰められた気分だろう。


 怒鳴られるのは結構慣れたし、ついかっと熱くなってるだけで本気で怒ってる訳じゃないと悟ってからは平気になったのだけど、理不尽は感じていた。今回は溜飲が下がったのでそろそろ終わりにしておこうか。


 オレはにっこり、満面の笑みを振る舞った。

「でも、次朗さんがこれから気を付けるって言って下さったんだから、もうこんなこともないですね!安心しました。ね、師匠言ったでしょ。次朗さんはこの頃ちゃんと気を付けてくれてるって!」

「ふむ…」

 思案気にオレと次朗さんを見比べる師匠を見て、今の内だと思ったのか、次朗さんはさっとオレの肩を引き寄せた。


「そうそう!おれさまちゃーんと気を付けますから!!ほら、な!三の字!鍛錬終わったんなら行こうぜ!」

「え、どこに………そうですね。行きましょう次朗さん。師匠ありがとうございましたー」


 短い時間だったので師匠には分からなかったかもしれないが、話の空白部分にオレと次朗さんは目を見交わしていた。

 次朗さんが『頼むから合わせてくれよ』と訴え、オレは『えーなんで合わせなきゃいけないんですか』と返し、『後生だから!お礼するから!』『全く、しょうがないなあ。今回だけですからね?』『恩に着る!』というような会話があった。


 焦りまくって集中力が高まった次朗さんが僅かなオレの変化も見逃さず驚くほどの洞察力を発揮し、オレの感情を感じ取る能力と合わさることにより声でではなく目で通じ合ったのである。

 これぞ以心伝心。


 手を引っ張られて行く間に師匠を振り返ったら、苦笑しつつも微笑ましげにオレたちを見てたので、もしかしたら全部お見通しかもしれない。




「おう、三太朗よー」

 不意に次朗さんが呼んだ。見上げた顔は前を向いたままだったけど「なあ」という呟きは、明らかにオレに向いていた。


「…何考えてんのか知らねーけどよ。あんま悩むなよ。禿げんぞ」

 放り出すようなぞんざいな口調が、これほど心に響いたことは無かった。気が付けば、オレは引っ張られているだけだった手を、きゅっと握り返していた。

「はい…ありがとうございます」

「…おう」


 他の皆とは違う、何も訊かないで案じる言葉が、言葉とは正反対に真っ直ぐ向かってくる心配が、とても有り難かった。


 ぴたりと急に立ち止まった次朗さんは、はああ、と大きく息を吐き出した。

「あーもう、止め止め。辛気臭えのは性に合わねーっての!おい三の字!遊んでやっから付き合え!」

 照れたのかなんなのか、そんなことを堂々と宣言するのに呆れる。子どもか。ていうか遊んでほしいなら正直にそう言えばいいのに。まあ、何を言っても『うるせー!』で終わりだろうから言わないけど。


「え、良いですけど…何するんです」

「そうだな…鬼事(おにごと)だ。てめーがおれさまに捕まったら、明日の菓子半分寄越せ。てめーが逃げ切ったら今日のおれさまの菓子は全部やる。どうだ?」


 自分の思い付きに得意気な顔をするのにもっと呆れる。おやつを担保にオレを勝負に誘おうってのが正しく子どもの発想だ。

 もし負けてもオレは半分渡すだけで良い。それも、今日じゃなく明日にして心の準備をさせようってのが、中々頭を使ったところなんだろう………んー、今日のおやつを全部くれるのか…。


「…良いでしょう。約束ですよ?」

「おう、男に二言はねえ!」

 契約は成立した。


「じゃあ、おれさまはてめーが走り出して五十数えてから行く。範囲は無制限。時間は昼餉まで。それで良いな?」

「はい。わかりました」


 オレは内心でほくそ笑んだ。

 次朗さんは機会がなくて知らないだろうが、オレは足が速いのが自慢だ。しかも、鍛錬の成果か毎日山を歩き回ってる効果なのか、持久力も中々のものになったと自負している。

 昼餉までの短い時間なら、かなりの速さでも大丈夫だろうし、次朗さんが走り出すまでの間に相当距離を稼げる。


――――おやつは貰った…!


「っし!」

 短く気合を入れて、オレは走り出した。

 いーち、にーい、と次朗さんが大きな声で数えるのを背に聞いて、下へ向かう小道に走り込む。


 たたたっ、と土を踏む足音が、間もなくがさがさと下草を揺らす音に変わる。

 すささ、と体を擦って行く枝葉をくすぐったく感じながら、風を切って駆け下る。


 知り尽くした道を辿って行く。とても気分が良かった。体を動かすのはいつも楽しいし、勝ちの目がある勝負に挑むのはわくわくした。

 そしてもちろんおやつへの期待度がべらぼうに高い。

 ごんたろさんとぎんじろさんと仲良しなオレは、今日のおやつが特製くるみ餅だと知っていた。

 くるみ餅は、今まで二回しかおやつに出てない、滅多に出ないお菓子だ。丁寧に裏ごしした滑らかな餡と、ちょっと焼き色がついた香ばしい餅との相性は抜群。ぱくっと噛みつけば濃厚かつ優しい甘さが口いっぱいに広がって、飲み込めば余韻を残しつつもさっぱりする。ひとくち食べればもうひとくち食べたくなる、止められない止まらないとはまさにあのこと。

 ふたりが出してくれるお菓子は何でも美味しいが、その中でも三指に入る絶品おやつなのだ!


 オレは走った。真剣に負けられない戦いがここにある。


 出来るだけ音を立てないように茂みの隙間をすり抜け、たまに立ち止まって次朗さんの気配を探る。

 追ってくる音が近くなるときもあるが、緊張する程の近さになることはなく、相手が向かっている方向とは逆の方へ静かに進めば簡単に遠ざかることが出来た。

 山に通った獣道をオレは知り尽くしていて、通り抜けやすい木立や身を隠しやすい茂み、逆に迷い込んだら引き返すしかない袋小路や、隠れるものが何もない川辺も全部頭に入っている。もしかしたら、何年も留守にしていた次朗さんよりも詳しい程だ。

 行ってはいけない場所を避けて、次朗さんの動向を窺いつつ次に向かうべき場所を考えて走るのは、慣れるまでは少し難しかったが、思い通りに次朗さんを翻弄できればものすごく楽しかった。


 息が上がってきたが、オレは益々弾むような足取りで加速した。

 行く手を塞ぐ木の枝も、足を取る盛り上がった根も、良く滑る落ち葉も、オレの障害には成り得ない。

 視界は澄んで体は軽い。このままどこまでも走っていけそうな気にさえなる。走ること自体が楽しくて、夢中で足を動かしながら小さく笑った。


――――次朗さんの気配は山の上の方。なら、霧の寸前まで下って、東向きにぐるっと回ってから中腹まで上るか。


 そう決めて、道を外れて一気に斜面を駆け下った。

 立ち並ぶ木々を避け、斜めに張り出した枝の下をすれすれで潜り、苔を踏みつけて滑りかけながら、下の道を勢いを付けて跳び越えようと跳躍する!


 ざん、と音を立て、茂った葉を突き抜けた。

 広がる視界。見下ろした道。そこには―――



「御師さ…ッ!!」


 背の高い人影が真っ直ぐオレを見た。目と目が確かに合った。互いに大きく目を見開く。驚き、緊張、警戒、恐怖。相手の混乱が飛び込んでくる。


「えっ!?」

 そこに居たのは人、そう、人だ。何か月ぶりかの、オレ以外の人間だ(・・・・・・・・)


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