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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
66/131

五十八 前日・釣り

天狗勢の釣りのお話。


 さらり、と襖が静かに開いて、白髪混じりの男が座敷に踏み込んだ。

 中肉中背の、どこにでも居そうな地味な男だった。ただ、何かを感じてよくよく見直した者は、その考えを改めることになるだろう。


 身に纏うものは衣は勿論、足袋や帯飾りに至るまで、派手さはなくとも見る者が見れば息を呑むだろう上等な品ばかり。立ち居振舞いはゆったりとしながらも、体の芯が揺れない動きからは武道の心得があることが見てとれる。年相応の年輪を刻んだ顔は柔和ではあれど、どこか侮り難い雰囲気を醸し出していた。


 一見地味ながらも、ただ者ではない。

 その様子は、まさに爪を隠した鷹を思わせた。


 だが、男は室内に先客を見つけると、ぱっと少年めいた満面の笑みを浮かべた。


「先生!よくいらっしゃいました!!」

「ああ。(すばる)。邪魔している」

 答えて顔を上げたのは、天狗の高遠。

 ここは竹倉(たけくら)の国を治める、横山家の邸宅の奥座敷。迎えたのは、前国主である横山昴だった。


 高遠を認めた瞬間に、国の重鎮たる威厳はあっさり霧散した。鷹と思えたただ者ならぬ空気はどこへやら、今の様子を例えるならはしゃぎ回る犬だろうか。


「そんな、邪魔だなんてことはあり得ませんよ。いつでもいらして下さい!いっそ我が竹倉領(くに)の山に住んでくださっても良いんですよ?お社ももうすぐ出来上がると聞いていますし、神社の方でも…あ!うちの屋敷でも勿論構いませんよ!」

 無邪気な様子ではしゃぐのは、子どもであれば可愛らしいが、残念ながら昴は息子に家督を譲った男である。当然歳も相応に取っている。


 身内以外には見せられないだろう様子も、高遠は少し笑って見ていた。

 数百年も生きた(あやかし)は、たかが数十年生きただけの人など子どもも同然だったので、多少しわがあろうと微笑ましいものだった。


「すまんな。山を離れる訳にはいかないんだ」

 宥めるように言われても、昴は少し笑い声を漏らした。もちろん高遠が竹倉に移り住むなどと本気で考えていた訳ではない。実のところこのようなやり取りは彼らが会う度挨拶代わりに繰り返されるものに過ぎなかった。


 昴は「残念」と軽く肩を竦めた。

「では、お気が変わりましたらなんなりと。半分ぐらい期待しないで待ってます」

「半分は期待しているのか」

「もちろんですよ」

 言いながら、高遠の向かいに用意されていた座布団へ端座する。

 当然のように、席は下座だ。


 脇に置かれた盆から急須と湯呑みを取り上げ、手慣れた様子で自分と相手の分を注ぎ入れながら、昴は済まなそうな顔で言った。

「来ていただいて恐縮なのですが、例の件はもうしばらくかかりそうです。申し訳ない」


「ほう」

 黒い目が意外そうに瞬いた。

小瀬木(おせぎ)の若い主は竹倉ほどの大国の誘いにも靡かぬのか。父と兄を失った今、主家との縁も深くは無いなら渡りに舟だろうに」

 返ったのは曖昧な微笑だった。

「うちを知って毅然と断るなら逆に見処がありますけれど、残念ながらそうじゃない。…いや、まだ彼らがどんなものかは分かりませんが。実はね、遣いの者はご当主に会えなかったんです」


 高遠は眉をひそめた。

「それはまた、何故(なにゆえ)

「病だそうです。高熱が続いて気も確かでなく、話せる状態ではないとか」

「…お前がそう言うなら、仮病ではないのだろうな?」

 昴は笑みを消して頷いた。

「もちろん、もちろん。きちんと裏は取らせましたよ。仮病を使うほど嘗めた態度をとるなら、ちょっと怒ってやろうと思ったんですけど、どうやら本当に病気みたいでしてね。家中は大騒ぎだそうです。熱を冷ます薬を持たせて薬師(くすし)を送りましたが、まだ朗報はありません」

「病…か」


 高遠は痛ましそうに目を落とした。つられるように昴も湯呑みに口を付ける。

「これから小瀬木は揺れるでしょうね。戦で先代と兄君二人が亡くなり、当主は病に倒れて明日をも知れず、若い彼には無論跡継ぎはいない…」

 昴は一度言葉を切って、高遠を窺った。

「小瀬木の若い当主…義人(よしひと)くんには弟が居たのですが…騒ぎの一端は彼のようです」

「ほう…?」


 慎重に、不自然にならない程度に、昴は高遠を窺う。根拠のない勘だが、この天狗は何かを知っているのではないかとふと思ったからだ。

 こういう勘は馬鹿にならないものだ。勘に頼って窮地を乗り切るなどという話はざらだ。彼自身平坦な道ばかりの人生ではない。どうにもならなくなった窮地に、勘で新たな道を見出したことが何度もあった。

 しかし不確かなもの故に、高遠に真っ直ぐ問うのを躊躇していた。一方で、何か知って良そうな素振(そぶ)りがあれば逃さず問えるよう、神経を尖らせる程度には本気でもある。


 高遠に違和感がないことを確かめて、昴は言葉を続けた。


「彼らは腹違いの兄弟で、次期当主の座を争った結果、弟が敗れて出家しました。しかし、寺に着き次第報せがあるはずだったのが、ひと月ふた月経ってもありません。心配した当主が遣いを出したのですけども、遣いの者は寺に弟くんが居ないことを確かめて戻ってきました。それどころか、寺に着いてもいないと」

 一度言葉は切れ、少し躊躇するような間があった。


「…ご当主は更に探すように命じたのですが、周囲がそれを止めたそうです」

「止めた?何故」

「居なくなった弟に関ずらっている暇がない、というのが表向きの理由ですね。義人くんは急いで元服(げんぷく)したものの、元服したからといって急に大人にはなれる訳はない。急に家を継ぐことになった彼には教育も経験も足りません。更に、家中には先の跡目争いのときに弟に付いた者もいます。一丸となって新当主を支えるのは難しく、領民にも不安が広がっている。一番悪いことには、主家たる大炊(おおい)は、春の(いくさ)に大敗したのにまた再戦の打診をしてくる。問題だらけだ。時間も手も余分にはないどころか足りない始末。とても行方不明の弟を探すことなんてできません」


「成程、一理あるが…表向きには、と言ったな」

「はい…」

 肯定したものの、昴は少し言葉を探すように目を伏せて、茶で口を湿らせた。


「…実は、弟くんは、先代の子ではないという噂が。両親共に毅然と跳ね退けていたので今までは表に出なかったのですが、否定の口がひとつ減ったことで抑えられなくなったみたいですね。お家争いで兄に付いた者たちはその噂を理由に、血筋が定かでない者を探す余裕などないと。それに、弟くんにも派閥がありましてね。そちらの者もまた探すのを諦めたとか。こちらは真偽は不明ですが…弟くんが行方知れずになったのは、兄が絡んでいるという噂があります。逆恨みを恐れた兄が弟を…という訳です。例え彼が無事でいようと兄の手の者を出す訳にはいかず、自分たちが行こうにも、人手の無い今、兄にばれないよう探すのは難しい。もし見つけても、ばれればまた弟は狙われてしまうと考えたのでしょう」

「そうか…」


 子どもひとりの生死を確かめない。人としては無情な対応だが、上に立つ者は人の情を優先していられぬことが多々ある。

 その場の二者は共にそれを良く心得ていた。だからこそ、内心はどうあれ淡々と会話は続いていく。


「ただ、義人くんは最後まで弟くんを探せと言い続けていたそうです。それも混乱の一因になっていたんでしょうね。そして、その間に義人くんが病に倒れ、探す探さないと言っている場合ではなくなりました。今彼の代わりに家を支えているのは、義人くんの生母だそうです。中々の女傑で、戦の準備をさせに来た大炊の使者にも一歩も引かずに交渉の場に立ったそうですよ。『主人どころか次期当主も戦場(いくさば)から戻らず、新しい主は病に倒れました。もう当家には挿げ替える頭はございませんので、毟り取られては戦の勝敗に関わらず当家は滅びます』って。喪服を纏って淡々と告げる彼女には、使者も負けたみたいですね。兵糧(ひょうろう)等、物資の上乗せを引き換えに兵馬の拠出の免除をもぎ取りました」

「気丈な女だな」


 高遠は、昴と共に少し目元を緩めた。弱い立場ながらも、毅然として一矢報いて見せた女の気概は、彼らにとっては小気味よいものだった。


「ええ。彼女の為にも、なんとか上手くことを運びたいと思っておりますから、少々お待ちを。まあ、大炊さんも負けが込んできて家来の方たちにも不満が溜まってるみたいですから、まさか農地が忙しい時期に働き手を奪うなんて無茶はできないでしょう。開戦は早くとも刈り入れの後と見て、時間は少々の余裕がありますからその間に義人くんが回復すれば何とかできるかと思うんですが…」


 昴は語尾が濁った自覚があった。それは僅かなことだったが、己を良く知る相手が、声の響きを聴き取って次に何が続くのかを待っているのもまた、言葉で言い返されなくとも分かった。

 言うか言うまいか、高遠が来る寸前まで迷って言うのを止めたことだが、迷いを匂わせてしまえば言わずにおくのは収まりが悪い気がして、昴は結局口を開いた。


「ちゃんと、義人くんやその母御の説得は何とかなるとは思うんですが、家中の動揺が厄介だ。あれを宥めるには少々根深い。落ち着かせなければうちに引きこんだとしても、小瀬木が直ぐに傾いてしまっては意味がないな、と」

「お前がそこまで言う程なのか?」

 意外そうに瞬く目を見返して、昴は困ったように頷いた。

「ええ、なんてったって、居なくなった弟くんが源の波紋が大きいんです。小瀬木の四男は、当主の座を兄に奪われ、失意の中で家を追われて、更には道中で兄の刺客(しかく)に殺された。そういう噂が(まこと)しやかに語られているんですよ」


 それ自体は良く有る噂だ。おかしなことに、人は雌雄を決した勝負があれば、勝者を称える一方で、弱者の悲劇を膨らませて勝者を謗りたがるものだ。だが、問題はそこにはない。


「今回の病は、弟くんの呪いなんだって信じている人が吃驚(びっくり)するほど多いんですよ。次の戦を呼び込んだのも彼だと思っている節さえある。この調子で悪いことが重なるなら、呪いの噂は他にも広がるでしょう。もしかしたら、うちの者たちにも。そうなっては、小瀬木をうちに引き入れるのは、人心の乱れを呼ぶことと同義だ。たかが噂とはいえ、馬鹿になりません。だから、今のうちに何とかしておきたい」

 噂は枝葉を伸ばし、同時に水面下に根を張った。

 昴が知らない何かを土台とし、根は恐ろしく深く張り巡らされているように感じたのだ。

 人は更に噂に実を見ている。恨みを抱えて死んだ四男が、その呪詛で兄を殺し、家を潰すということを、しっかりと根を張った噂を基に置いて、事実になるのではないかと怯えている。


 噂を支える根幹はどこか。そう考えたとき、ふと浮かび上がるものがあって昴は眉を寄せた。

「彼らも、小瀬木の四男もどこかおかしいんですよ。正当な血筋か定かでないって噂をしながら、それが何故かと問われれば揃って口を閉じる。義人くんの病が呪いだと怯えることも不自然に思えます。まるで、次は自分が呪われるんじゃないかと思っているように思えます。けれど、なぜそう思うのかは絶対に語らない。四男坊にあったことは喋るのに、彼がどんな人だったのかは語られない。示し合わせて隠そうとしてるみたいに全員が…」


 戻ってきた遣いの者からの報告を思い出して、そこにあった違和感が蘇る。何かすっきりしないものがあるのに、その正体に行き着けないのがもどかしい。

 いつの間にか視線は落ちて、言葉は独白の様子を帯びた。それに気づいたようにはっと顔を上げて、昴は「困っちゃいますね」と眉を下げたまま微笑んだ。


「いっそ、実は四男坊が生きていれば、義人くんの病は呪いなんか関係ないって示せるんじゃないかなんて考えちゃいます。うちが探そうかなぁ。もし見つかれば、噂なんて根拠のないものをすっきり吹き飛ばせるかもしれませんし」


 表面上は穏やかな一瞬の後、天狗は言った。


「確かにな」


 昴がいくら注意深く見てもその様子からは、ありきたりな相槌以上の何かを感じ取ることは出来なかった。




「…それで、離れる訳にはいかないお山からお出ましになったのは、よほどの理由がおありなんでしょう?」

 何も掴めなかったことに内心で少しがっかりしつつ、昴は気を取り直して話題を変えた。


「いや、大層な理由はないさ。今は少しであれば遠出も叶うから、様子を見に来た。弟子が皆戻って来たからな。紀伊に武蔵が居ればまず問題無かろうが、そこへ次朗が加われば心配も要らん」

 機嫌良さ気に茶菓子をつまみながら、さらりと弟子への全幅の信頼を語る高遠に、昴は目を細めた。


「おや。貴方は例え心配要らなくても、大した用もなく出歩いたりなさらないでしょう。報告を聞きたいなんて、そんな程度でいらっしゃるとは思えないんですよ。今度は何を企んでおいでなんです?」

 額面通りに取らないという昴の言葉は、高遠の苦笑を引き出した。


「お前に会うのに一々企みを持たねばならん決まりはあるまい?」

「決まりはありませんよ。ですが、幾つかの都合が重ならないと来て下さらないのは、僕が一番良く知っていますよ。何せ八年もお顔を拝見しなかった経験があるもので」


 気不味そうにする天狗を尻目に、男はにこやかに茶をすすった。

「頼み事をするなら顔を合わせて、と思う程度に律儀でも、何も用がなく、こちらが元気だと判っているなら会いに来るのを面倒がる程度にものぐさ。貴方はそんな方ですよ」


 高遠はまじまじと教え子の顔を見た。

「…言うようになったな」

「二十数年も波に揉まれていると小さい肝も据わりますよ」


 答えた昴の顔は涼しいものだが、言葉には重みがあった。

 国を背負い、守り育てた二十年余りの年月の長さを思い、道のりの険しさを感じて、高遠はふっと息を吐いた。


「…企み、というほどのものはない。ただ、釣りをしてはいる」

「釣り?」

「そう。釣りだ」


 両者の間に沈黙が落ちる。

 庭に設けられた鹿威しが、高く鳴った。


「ああ、確か釣りはお得意でしたねえ」 

 ぽつりと呟いた声は気楽に響いた。「まあな」と返す高遠にも笑みが浮かぶ。

「今度は何を釣るんです?」

「まだ分からん。だが、獲物は二手居るようだ。両方未だに正体は余り分からぬが、先日片方がかかって、もう少しのところで取り逃がした。春先から狙っているやつだ」

「おや、春からとは気長ですねぇ」

 目を細めてどこか自慢げに、高遠は笑った。

「釣りの基本は待つことだぞ昴。網を張って餌を撒き、針を沈めて、何食わぬ顔をして待つ。それが案外難しいが、ある程度寄ってくればこっちのものだ。あとは針を動かして引っかけてやっても良し、追加で網を投げても良し。兎に角寄ってくるまで待つのが大事だ」


 楽しそうに語る天狗に、男は「流石です」と面白そうにくすくす笑う。だが、ふっと目を手元に落とした。

「そこまでいったのに逃がすなんて残念ですね」

 昴はそっと高遠の湯呑みに追加を注いだ。

「一度逃がした魚は、しばらく寄っては来ないでしょう?」


 もう一度見た高遠の笑みは、悪戯をしている子どもに少し似ていた。

「確かにな。だが諦めずに網を張っていたら少し寄っては来たようだ。まだ諦めるのは早いな。今のうちにもう片方を釣り上げておきたい故、今少し餌を撒いている。今日尾鰭(おびれ)程度は掴めるやも知れん。上手く行けば巣穴が解る。先ずはそこが目標だな」


 心待ちにしている様子を見て、昴は思わずふふっと笑みを零した。

「おや、なら大変なときにいらしたんですね。影ばかりで姿が分からない獲物がいよいよ掛かりそうな正念場で、お留守になさって良かったんですか?」


 天狗は機嫌良さ気にくっくっと喉奥で笑った。

「今回ばかりは俺が居ない方が釣れるのではと、弟子どもが言うものでな。任せてある。なに、奴らなら抜かりなくやって見せるだろう」











 馬が二頭、山道を辿る。

 馬蹄の音が軽快に響き、麗らかな夏の景色に明るい拍を打った。


 乗っているのは二人の僧形(そうぎょう)の男。片方は年老いて小柄、片方は若く長身。老人と若者という違いはあれど、二人は共に背筋は伸び、動きは機敏で、老い衰えた風でも、未熟な様子もなかった。

 装いは揃いの白脚絆(きゃはん)網代傘(あじろがさ)をかぶった黒装束。雲水(うんすい)と呼ばれる旅姿だ。

 両者共に姿勢に無理がなく、馬に乗り慣れた様子が見て取れる。いや、馬だけではない。墨染の黒衣である直綴(じきとつ)や、簡略された袈裟の絡子(らくす)に始まり、脚に巻いた脚絆や、荷を入れた風呂敷と小さな行李(こうり)まで、二人の旅道具は揃って使い込まれたもの特有の落ち着きを醸し出していた。


御師(おし)さま。あれを」

 黙々と馬を進めていた若者が、不意に声を上げて馬の足をゆるめた。

 彼の見た先を辿った老人は、ゆるい登りの山道の先、木陰に女が蹲っているのを見つけた。


「急な病やも知れません。先に参ります」

「ふむ。暑さの病であれば先ずは水を進ぜよ」

「はい」


 馬を急かせて若者は道を上って行った。

 馬蹄の音は聞こえているだろうが、女はぐったりと木に凭れて動かない。近付くにつれて、少し褪せた空色の小袖と緋色の細帯に、すすきの模様があるのを見つけた。座った脇に黒紫の風呂敷包みが置いてある。あまり遠出をする格好ではなく、僧は、山向こうの里人(さとびと)だろうと見当をつけた。

 あと数歩のところで馬を下り、足早に女の傍へ寄った。


「もし、ご婦人。何ぞあり申したか」

 ちらちらする木漏れ日を透かして間近に見た女は、思った以上に若く、娘と言った方が似つかわしいのに先ず驚いた。

 声に気付いてのろのろと顔を上げた顔は白く、髪はすらりと長く真っ直ぐで、光をはじいて美しく煌めく。

 くっきりした目を縁取るまつ毛は長く、小ぶりな唇は紅く、滑らかな肌には染みひとつない。

 幼げながら驚くほどの美貌がそこにあって、若い僧は思わず息を呑んだ。


「…ああ、お坊さま」

 気だるげな声と共に、ふわりと甘やかな香りが仄かに鼻をくすぐる。深い色をした瞳が潤んで、ぼやけた目が若い僧に向いた。

 若者の喉が知らず鳴る。


「少し、無理をしてしまったみたいです…。暑くて、でも、もう少しで家だと思って、急いでいたら…頭がぼんやりして、躰が重たくなってしまって…」

 もう一度ぐったりと目を閉じた娘は、思わずどきりとしてしまう程、儚げで…無防備だった。


 若い僧は目の遣り場に困りながら、気を引き締め直した。兎に角、この娘は具合を悪くして木陰で休んでいたのだから、助けてやらねばならない。決して下心などはない。そう己に言い聞かせる。

 僅かに汗ばんだ首筋からする甘い香りに、頬が赤らむ。

 彼は心の中で経を唱えてなんとか心を落ち着かせると、腰に下げた荷袋から、水の入った竹筒を取り出した。


「…暑さに(あた)ったのでしょう。水を」

「まあ。ありがとう、ございます」

 水筒を受け取る小さな手が、僅かに触れる。手が震えないようにするのは、持てるだけの意志をかき集めなくてはならなかった。


 こくり、と鳴る白い喉。ほう、と小さく吐かれた息が、何故かくっきりと意識に焼き付く。

 伏せられていた目がもう一度若者を映して、花が綻ぶような笑みが浮かぶ。ふわり、と彼女の周りが明るくなった気さえして、僧は心の中で経を早口で唱えた。

 先ほど唱えた略式の経、"単経題目(たんきょうだいもく)"ではなく、朝の勤行(ごんぎょう)で唱える"天喜式目(てんぎしきもく)"だ。唱え終る頃には若い者たちの脚が痺れてしまう程度に長い。


「ありがとうございました。少し…楽になったようです」

「それは良かった」

 読経の成果か、落ち着いた声が出て若い僧は内心胸をなでおろした。そして気を引き締め直す。

 仏に仕える身としては、具合の悪い娘に水を飲ませてさようなら、とは行かない。


「直ぐに家だと申されたか。良ければ馬で送りましょう」

 娘は立てない様子だ。これでは一人で家に帰れないだろう。それにこんな状態で放っておいたら、もしならず者が通りがかれば恐ろしいことになる。獣が出れば命を失うかもしれない。家の者も心配しているだろう。

 後付けで幾つもの理由が思い浮かぶ。それが言い訳であることに気付いて、僧は自分の馬の後ろに娘を乗せて山を越える想像を振り払った。


 湧き上がる煩悩に負けじと、高速で天喜式目を唱え終え、"全環昇目(ぜんかんしょうもく)"を唱え始める。

 これは月に一度の儀式に唱えるお経で、これをよく念じれば三千世界の歪みが正されるとされる有り難いものだ。因みに、低い僧位の者は途中で交代が許される程に難解で、気が遠くなる程に長い。


「ああ、ありがとうございます。けれど、お坊さまも旅の途中なのでしょう?ご迷惑になるのでは」

「いいえ。拙僧(せっそう)らの行き先はもう近い。明日中に着けば良いところを、早く着きすぎたと話しておりました。気になさりますな」

 内心はどうあれさらりと言い切った僧に、曇った顔がぱっと明るくなる。それだけでふわふわした気分になってしまう。

 これではいけないと思い直そうとするものの、娘が立とうとしてよろめくのを見て、慌てて手を伸べた。


 手は一歩遅く、娘は木にしがみついて(こら)えた。

 気不味くなって手を戻す前に、娘が振り返った。

「あ…」

 娘は差し出された手を見て少し顔を赤らめた。つられて思わず真っ赤になった僧を見上げて、恥ずかしそうに俯く。


「あ、いや…お一人で馬に乗れぬでしょうから、その…」

 思わず口籠って、直後に固まる。

 小さな手が、そっと若者の手に乗せられたのである。


「お坊さま…」


 最早(もはや)娘から目が離せなかった。ふわりと香る甘い匂い。僅かに己よりも熱い手。吸い込まれそうなうるんだ瞳―――




明然(めいぜん)!!!」


 雷のような大音声が二人の世界を切り裂いた。

 それが己の名であることに、はっと道の下を振り向きかける。


 刹那、風が吹いた。


「ぎゅああああ゛あ゛あ゛!!!」

 間近で濁った大音(だいおん)(とどろ)き、明然は反射的に掴んだ娘の手を引きながら跳び退るが、余りの手応えの軽さにたたらを踏んで倒れかけた。

 視界の端に捉えた己の手の中に娘の手がある。ただし手だけだ。手首から先は何もない。


「!!?」

 驚愕して顔を上げると同時に突風が襲い来る。枝葉が騒めく音がやけに大きく耳を打って、今まで音が聞こえていなかったことに遅ればせながら気付いて愕然とした。

 そのせいで、明然は走って逃げる娘を追うことを思いつけなかった。思いついたとしても、手遅れだっただろうが。




 小さな背中は今までの気だるそうな様子なく、敏捷(びんしょう)に走る。そこへ突風が、突風を纏った不可視の刃が狙い(あやま)たずその脚を襲った。


「ぎゅあぁあ゛!!」

 小柄な娘が悲鳴と共に、突き飛ばされたように宙を飛んで茂みに倒れ込む。斬り飛ばされた片足が離れた場所に落ちた。

 ざん、と音がして、頭上の枝葉を割って、黒々とした影が娘目がけて落下する。


「やめろぉおお!!!」

 (ようや)く足が前に出る。渾身の制止の声を発して駆けようと踏み出した足が、すいと(すく)われて天地が回った。


「ちょっと大人しくしていろよ」


 いつの間にかそこにいて、片足を出して明然を転ばせた少年が、気楽そうに肩をすくめる。

 悲鳴が絶たれて、重く湿った音が聞こえた。




 ぎしぎしと軋むような気がする手足を何とか動かして起き上る。

 鼓動が速い。


 少し高くなった視界。

 茂みの向こう。娘が走って行った方。

 息が(うるさ)い。


 木々の間。人影。立っている。

 その、横手の木の幹。てらりと光る。


 赤い飛沫。


「んー?おい、起きてるか?」

 呆然と座り込んだ明然を見下ろして、間近で少年が首を傾げた。

 見上げた顔は何も起こらなかったかのように平然として―――


                           ―――背に、翼が。


「おのれ!!妖怪変化(ようかいへんげ)が!!!」

「おお?」

 咄嗟に素早く立ち上がり距離を取ると、懐から紫檀(したん)の数珠を引き出し鳴らす。


「何怒ってるんだ?」

「黙れ物の怪!か弱き女を手にかける非道を見逃せるものか!ここで調伏してくれる!!」

「?何言ってる?」


 じゃ、じゃ、じゃ、と素早く三度数珠を鳴らして法力(ほうりき)を高め、袖を払い、右手の中指(ちゅうし)示指(じし)を立てて構えた。

「おい!聞けよ!!」

 物の怪が顔色を変えて身構えるのを待たず、霊句を唱えんと丹田(たんでん)に気を入れた。


「明然!待たぬか!!」

 目前に人影が立ち塞がる。これでは物の怪の姿が見えない。

 邪魔だ。只々邪魔だ。今は何を置いてもあの娘の仇を討たねばならないのに。


退()け!」

 叫んで押しのけようとしたそのとき、素早く額に拳が突きつけられた。

 じゃらん、と人影の持つ水晶の数珠が力強く鳴る。


「喝!!!」

 裂帛の気合と共に放たれた弾指。

 額に指を弾いただけの軽い痛みが走る。だが同時にがん、と思いきり殴られたかのように頭の芯が揺す振られる程の衝撃に襲われ、視界がくらりと揺れた。


「っ!」

 ぐわん、と耳が鳴る。ちらちら踊る木漏れ日に目がくらんで、思わず目を瞑って(うずくま)った。


「明然。しっかりせぬか」

 人影が声を掛ける―――いや、師だ。それは共に馬で旅してきた師の声だった。


「御師…さま?」

 ふぅう、と老人は大きな息を吐いて額の汗を拭うと、ゆっくりと頷いた。

 だが、なぜ師ほどの人物が物の怪を、罪も無い娘を(ほふ)るような魔物を庇うのか分からず、刺々しい目で睨んだ。


「何故お止めになるのですか」

「しっ、明然、心を鎮めよ。良いか。お題目を念ぜよ。そうして心を鎮めたら、ゆっくりじゃ。そなたの手にある物を見よ」

 じゃらん、とまた水晶の数珠が鳴らされる。

 その硬い音を聞くと、ぼやりと煙った意識がぬぐわれるような心地がして…同時に肌が粟立つような予感が沸き立った。明然は大人しく、眼を閉じて単経題目の文言を一字ずつ念じてから、そっと左手を見た。


「…これはっ!?」

 手の中のものを取り落として、更にまじまじと見た。

 そこには、娘の手がある。娘の手であったはずの、獣の前足が。


「そーいうこと」

 がさがさと茂みを掻き分ける音がして、少年の姿を取った物の怪がもう一人、傍に寄るやいなや獣の死骸を突き出した。

 思わず身を引き、顔を顰めて背ける。


「さっきまで手なんて繋いで仲良さそうにしてただろ。冷たいじゃん?よく見ろよ」

「何…?」

 言われて反射的にちらりと見直した。それは、喉の辺りを切り裂かれた獣―――狐だった。

 左の後足と右の前足が、あの娘が斬られたものと同じ部分が斬り落とされた死骸だった。


 思わず乾いた笑いが零れた。気付かない訳にはいかなかった。

「まさか…」

「そのまさかさ。お前は化かされてたんだよ。狐にな」


 さっと血の気が引くと同時に、頭の中に知らぬ間に掛かっていた靄が晴れた気がして、明然は瞬いた。

「…拙僧は」

「どうやら、術は解けたようじゃの。大事にならず、良かった」

「術…!?」

 安堵したように呟いた師は、くるりと物の怪たちに振り向いて、深々と頭を下げた。


「不肖の弟子が無礼を致しましたの」

 師に頭を下げさせているのに遅れ馳せながら気付いて、明然も横へ並んで頭を下げた。

「…助けて下さったのに無礼をしました。申し訳ない」


 くすくすとふたつの含み笑いが聞こえた。

「いやぁ?面白かったから別にいいよ?」

「まあぁ?お前が本気出してもどうってことないし?」

 あんまりといえばあまりな言い草に、内心むっとしたのを押し隠して顔を上げると、また化かされた気になった。

 そこに並んだふたつの顔は、寸分違わず同じ作りをしていたのだ。


「んじゃあ、俺らは行くけど、気を付けろよ坊主ども?」

「年に一度白鳴山(はくめいざん)に招かれるのは特別なんだ。山に入りたいやつはごまんと居るんだからな」

 けらけら、と少年たちが笑って、明然たちの目的地を口にした。そこで漸く気付いた。

「あなた方は、白鳴山の…?」

 何だ気付いてなかったのか、と更に笑われて、顔に血が集まるのを感じた。


「この先に沼地を作って待ち構えてた蛇どもは片づけた。どうやらお前らを始末して、成り済まして入る気だったらしい」

 狐の死骸ををぶら下げた方の少年が、腰帯の後ろに束ねて丸めた蛇の皮を叩いた。

「崖の上で待ち伏せしてた鬼どもも片づけた。どうやらお前らを脅して内側から結界を破らせる気だったらしい」

 近くにいた方の少年が、腕組みをして嗤う。


「そしてここで待ち構えてた狐も今しがた片づけた」

「どうやらお前らを縄張りに誘い込んで、術で操り山に呪物を運ぶ気だったらしい」

「まあ全部終わったことだ」

「お前らは気にせず進むと良い」

「但し山が開くのは明日だ。今夜はどこかで夜を明かせ」

「じゃあな、坊主ども」

「じゃあな、また明日」


 交互に口が開くが、まるでひとりが喋るように間断なく、同じ声が淡々と言い終わる。

 黒の翼が同時に鳴って、彼らは飛び去った。


 追って見上げた木々の隙間から、遠くともひと際高く荘厳に、行先が―――白鳴山が聳えていた。




「…御師さま。申し訳ありません」

 明然は改めて師に詫びた。心から申し訳なかった。

 妖魔に化かされ、師をさえ誰か分からぬ程に錯乱したのは失態以外の何物でもない。


「良い。まだそなたは行脚(あんぎゃ)も一度目であろう。経験を積むための旅じゃ。恥じ入るよりも糧とせよ」

「はい…」

「なに、儂とてそなたがあの狐の手を取るまで、あれが何者か見通せなんだ。巧妙な妖術じゃが、儂も修行が足りぬということよな」


 軽い調子で言う師が自分を気遣ってくれているのを感じて自然と頭が下がる。深い溜息が出た。

 一人前の心算(つもり)で居たがために、この度の失敗は(こた)えた。


「なんて、未熟な」

 師に聞こえぬ小さな声を零し、明然は立ち上がる。

 せめて今出来ることを―――狐の切れた脚を探して弔うために。






























「なあ紀伊(きい)気付いたか」

「ああ武蔵(むさし)もちろんだ」

 山に向けて飛びながら、双子の天狗は言い交わす。


「見てたな、やつら」

「ああ、見てたな」

「ヤタさんによれば、術の気配がするモノ」

(ジン)によれば、木に登る獣」

 くすくすとふたつの楽しげな笑い声が重なる。


「目敏くお師匠が出かけたのを見つけて出てきたな」

「自分が見つけられるなんて思ってないんだな」

「印は付けた。もう逃がさない」

「後は機が熟してから、釣り上げるだけ」

「ちょろちょろ鬱陶しかったな」

「上手いこと山の術の範囲ぎりぎりを出入りするんだもんな」

「でももう終わりだ」

「ああ、終わりだ」


 主が留守の白鳴山という餌に、獲物は釣られて、気付かぬままにまんまと針にかかった。

 けらりと二羽は陽気に笑い合う。中々楽しい釣りだったと振り返って。


 ひとしきりささやかな成功を喜んだ二羽は、山に着く頃には狐と蛇の皮をどうするか話をしていた。

 その顔には安堵が色濃い。

 なぜなら、可愛い末の弟に見つからずに帰りつけたのだ。

 せがまれれば何の話でもしてやりたいが、今回の外出の話をすれば怯えさせるのは確実だから、隠しておきたかったのだ。


 弟弟子の為の外套や首巻を作ってもらうと話が纏まった頃にはもう、その日の出来事は取るに足らないものとして、二羽の頭の片隅に埋もれた。



※その頃の次朗さんはお説教タイム。

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