五十七 前日
次朗さんの謝罪と猪を受け取った日を境に、オレと皆の関係が少し変わったように思う。
例えば食後にいつもの「ご馳走さまでした。すごく美味しかったです」に「明日は瓜が食べたいです」を付けたり、「師匠おはようございます」に続いて「今日こそ紐を取りますからね!」と自然に言えるようになったり。
皆の方も、今まではオレが何かをしていたらそっと見守るばかりだったが、今は書写をしていたら「書き順が間違っていますよ」と教えてくれたり、何か考え込んでいたら「悩み事か?」と声を掛けてくれたり、くすくす笑いながら「寝癖が直ってませんよ」と髪を直してくれる。
それに、今まではたまにだった、師匠と夕餉をご一緒する頻度が増えたような気がする。
気がつけば小さなことでも、全く重要じゃないことだって自然に話の種にできるようになっていた。
劇的に何か変わった訳じゃない。もし傍観者が居ればどこが変わったのか分からないかもしれない。
それでも、オレたちにとっては確かな変化で、少しのことだけど大きな違いだった。
今までとても良い関係を築けていると思って満足していたけど、今の方が好きだ。ほんの少ししか違わないのに…こんなに心が軽いだなんてすごく不思議。
オレは茂み伝いにさっと走った。我ながら音を立てない完璧な忍び足。
場所はお馴染み白鳴山。外を歩いていたら、風上から陣さんの声が聞こえて来たのでそちらに向かっている最中である。
声が聞こえているということは誰かと喋っているということ。それなら今日こそアレが成功するかもしれない。
それなりの回数挑戦してきたけど、陣さんは鋭くて、まだ明確に成功したことは一度もない。
今日こそはあの背中へ飛び付いてびっくりさせてやる。
まあ、忍び歩きしてるのは、ついて来たがる次朗さんに見つからないようにってのもある。
別に付いて来られて嫌な訳じゃないけど、オレを探す次朗さんになるべく見つからないようにするのが案外楽しくて、鬼事と隠れん坊の間みたいなものは、オレたちの今流行りの遊びと化していたのだ。
落ち葉の吹き溜まりを避け、苔むした岩を踏み越え、風下から慎重に、しかし素早く道を上る。
茂みの陰から山頂付近の広場を覗くと、果たして灰色の狼が座っていた。
見れば大きな背中はオレに飛び付かれるべくこちらに向いている。陣さんは話に気を取られて、気付かれている様子も無い。まさに千載一遇の機会だ。
…にも関わらず、直ぐに近寄ることは出来なかった。
――――あれ、誰だろ?
陣さんと話しているのは、見たことないほど大きな鳥だった。
この間"オレが知る中で最大の鳥"番付の記録を塗り替えた、"巨大化したヤタさん"をゆうに越える大きさだ。
頭は座った陣さんよりも高い位置にあり、足はオレを鷲掴みして余るだろうほど大きい。今は畳まれているが、翼を開けば小屋の屋根ぐらいはありそうだ。
曲がった嘴。鋭い目。焦げ茶色の背と頭に白い腹。そこにいたのは巨大な猛禽。おそらく鷲だ。
「…確かに仔犬にしては少々大人しいきらいはあるが、臆病ではない」
「だが…」
「案ずることはない。貴殿に会おうとも尾を巻いて逃げることはせぬよ」
「…腰を抜かすのでは」
「私にさえ、最初から気後れせず話しかけた。騙されたと思って一度会ってみれば良い」
ふたつの声には、それぞれ鳥が喉を鳴らす音や、獣が鼻先で唸るような音が混じっていて、遠くからでははっきりとは聞き取れなかったのだけど、遮るものが無くなって、はっきりと会話の内容が聞き取れた。
陣さんの話に時折短く返事をしている鷲の声質は男で、何だか不安げな響きが漂う。対する陣さんは宥めるように穏やかに話している。
なんでそんな話になってるのかさっぱりだけど、どうやら陣さんが鷲に仔犬を紹介しようと説得していて、鷲さんは仔犬が自分に怖がるんじゃないかと心配しているようだ。
――――あ、白鳴山の方だ。
仔犬なんかひとくちで食べてしまいそうなのに、いたいけな仔犬が怖がることを心配して尻込みしてるところで確信した。彼からは、この山の皆と同種の気配がする。
きっと、強そうな外見に反して優しい方に違いない。
オレは警戒をすっかり捨て去った。
さて、それは良いとして、問題がある。
――――初めて会った方には挨拶…でもっ!
オレは逡巡した。
出て行って初対面の挨拶をするのが正しいのはわかってる。…だけど、目の前のふかふかした背中は魅力的過ぎた。
今や、この数ヶ月狙い続けた陣さんの背中はオレには光り輝いて見えた。―――強い陽光を浴びてるから当然だとかいう突っ込みは不要だ。
兎に角あれに飛び付くまたとない機会を逃すのは余りに惜しかったのである。
常識と悪戯心の狭間で迷いに迷った。だが、初対面とはいえ白鳴山のモノだ、ということがなんとなく挨拶の優先順位を下げた。
ついにオレは前進を開始した。
「主もあれの度胸を褒めていた。巨躯に驚くやも知れぬが、怯えることはなかろう」
「しかし…」
オレは話し声に合わせて足を進める。微かな音も声に紛れてしまうように。…ところでオレも仔犬に会わせてもらえないだろうか。ちょっと撫でたら満足するから。ちょっとだけで良いから。
「弦造にも怯えることなく直ぐに懐いた。試してみる価値はあるだろう」
「…そうなのか」
鷲さんが感心したように呟く。
オレは内心で大きく頷いた。その仔犬は見る目がある。弦造さんは見た目は怖いが、中身はとても面倒見が良い温かい方なのだ。やっぱ分かるやつには分かるんだよな。…仔犬、人懐こそうだな。オレもなでなでとか、もしかしたら抱っことか出来るかな。
「ヤタどのの天眼が急に開いても驚くこともなかった。驚かそうとしたヤタどのの方が感心していたほどだ」
「ほう、それはすごいな」
心の中で、鷲さんに同意した。
小さい動物って、急に動くものにはすごくびっくりしてしまうものだけど、ヤタさんの天眼…額の真ん中の真っ赤な目は何もなくても怖がりそうなものなのに、いきなり開くのを見ても平気なんて、肝が座ってる仔犬だ。将来強い犬になりそうだ。
そのとき、ふっと鷲の目がこちらに向いた。
陣さんに向かい合っている鷲と陣さんの背後から忍び寄るオレは、鷲がこちらに目を向けたなら真正面から目が合う。
――――今ばれる訳にはいかない!
オレは咄嗟に口元で人差し指を立てた。
お願い知らないふりして!という必死の念が届いたのか、鷲は何も言わずまた陣さんに目を戻した。…話が分かる方だ。
鷲さんの印象を上方修正した。
「それに賢い。初めは驚いたとしても、話せば直ぐに貴殿とも打ち解けよう。それでもまだ迷うか」
「…まあ、な」
煮え切らない鷲の様子に、陣さんは少し呆れたように尾を一度だけ振った。
あと数歩の所まで来ていたオレは、尾が起こした風を感じて立ち止まった。
そしてオレもちょっと呆れた。
弦造さんもヤタさんも怖がらないんなら、仔犬は鷲さんも大丈夫だろう。そこまで肝が座ってるんなら寧ろ、そこらの人間よりも落ち着いて対面できるんじゃないだろうか。
鷲さんは仔犬はか弱くて怖がりっていう先入観に囚われすぎな気がする。
「いつまでもこのままという訳にはいかぬぞ。主もまだ貴殿を紹介出来ておらぬのを気にしておられた」
「まあ、それは、な」
オレはちょっと驚いた。師匠が仔犬に会ってるなんて知らなかった!なんでオレにも教えてくれなかったんだろ。
おっと、鷲さんは目をさ迷わせた…ふりをしてオレをちらちら見ている。
懸命に素知らぬ顔を装ってくれてるんだけど、明らかに不審だ。これは不味い。
ばれるのは時間の問題だと判断を下し、一気に勝負をかけるべく膝をたわめた。
「あれは怖がらぬというのに。寧ろ悲しむやも知れぬ。己だけ貴殿を知らなかったのだから」
「それは…あっ」
「!?」
オレは全身を弾ませて灰色の毛皮に飛び込んだ。ふかふかの背中にもふっと埋まる。
――――やった!成功だ!!
その瞬間である。陣さんは『ぎゃん』という部類の、だが恐ろしく太くて大きな吠え声を上げて身をよじり大きく跳び…かけてたたらを踏んでつんのめった。
「おわわっ!?」
多分、振り払おうとして直前でオレだと分かってやめてくれたんだろうが、オレは首の皮を掴んだ手を支点にして振り子のように、それなりに勢いよく振り回され、陣さんの肩を越えて前方へでんぐり返った。
「済まぬ、三太朗!怪我などしてはいまいか!?」
オレがしっかり掴んでいる為に、うなじの皮が前に引っ張られて、首が明後日の方向に曲がっている陣さんが焦って言う。
「だ、大丈夫ですっ!」
オレは、まだ首の皮一枚にぶら下がったまま急いで答えた。
怪我はない。ないがしかし、足が地に着かないのでぶらんぶらんしている。
陣さんの大声に驚き、予想してなかった動きに驚き、急に変わった視界に驚き、更に不意を衝いて至近距離でばっちり対面してしまった初対面の鷲さんに緊張した上に足が宙に浮いてる状態になったオレは、陣さんの首の皮にぶら下がったまま、兎に角何かしなくてはと焦った。
「は、初めまして三太朗です!!」
言ってしまってから、同時に気付く。
――――初対面の挨拶より前に色々あるだろ!?
自分の行動に衝撃を受けるという間抜けなことをして一時硬直したオレに、ついに鷲さんが噴き出した。
……とりあえず、思いきって手を離したら、大した高さもなく直ぐ下が地面だった。
「改めて、これが三太朗だ。三太朗、彼はハリ。空より主の縄張りを見回る役目を負う者だ」
陣さんが上機嫌に、伏せた体の前側、前足の間に座らせたオレを示した。
場所は木陰に移った。心地良い風が吹いていることもあって暑くはない。
「…よろしくお願いします。ハリさん」
「ああ、よろしく。新しい雛よ」
ハリさんはそんな風に挨拶してくれた。鳥だからあまり表情が変わりはしないが、見下ろす目は少し細められて…伝わるものから、苦笑してるんだろうと見当を付けた。
――――無理もないよなぁ。
ちょっと罰が悪い想いで座り悪く身動ぎした。
。陣さんが、まさに仔犬を抱えているような優しい感情をオレに向けてくるのから推察するに、恐らくだけど、前足の間に座らせられてるのって、人間にしてみたら膝に座らされてるようなものだと思う。
落ち着かない。けして座り心地が悪いのではない。ふっかふかだ。寧ろありがとうございます。
しかし初対面の方の前で子ども扱いされてる気がして気恥ずかしく、目を逸らして陣さんを見上げた。
視界を占めるのは喉元の毛皮。
顔は全然見えないが、後ろの方からさっさっと何かが草を払うような音が聴こえる。まあ、何かというと、陣さんの尻尾が動く音なんだけれど。
きっと顔が見えたら嬉しそうに目を細めていることだろう。寡黙な陣さんにしては珍しい浮かれ具合である。
ハリさんにしてみたら、普段沈着冷静な頼れる同僚が子どもを抱えて上機嫌に尻尾を振って浮かれているのだから、苦笑も出るというものだろう。
何故こうなったかというと、端的に言えばオレが陣さんを驚かすのに成功したからである。そりゃもう見事に不意を突けたようで、陣さんは本気で驚いた。…そして大喜びした。
躍り上がらん勢いで『もうこんなに上手く気配を消せるとは!!』と大興奮で尻尾は動きっぱなし。『お前には狩の才能がある!』と褒めっぱなし。『将来が楽しみだ!』と浮かれっぱなしで、『これは是非とも主に報告せねば!』と走り出そうとしたのを、まだ鷲さんに紹介して貰ってないことを理由にどうにか引き留めた。
普通、驚かされたら怒るのではないかと思うが、そんなことは欠片もなかった。
考えてみれば何のことはない。
落ち着いた大人に見えていた陣さんも、白鳴山の保護者軍団の一員だっただけである。
つまり、下に馬鹿が付く類の親の仲間である。残念過ぎる。
オレは、やらかしたことを深く反省した。
今回のことが皆に知れ渡れば、驚喜する保護者がどっと増えるのは自明だ。
陣さんは師匠も鬼の襲撃に出かけるときに随従に選ぶほどの実力者。油断してるところを突いたとはいえ、彼の背後を取ったとなれば、普段からオレを褒めるのが得意な彼らはここぞとばかりに褒めるだろう。『すごい!』となでなでされるのの百倍か千倍は大袈裟に褒めるだろう。当の陣さんの反応からして、怒られることはまずないと断言できる。
そこまではかなり現実に即した予想が出来るが、肝心の褒め方は想像できない。
確かなことは言えないなりに頭を働かせてみた結果、春祭と収穫祭と盆と正月が一気に来たみたいなお祭り騒ぎになって、お赤飯と尾頭付きの鯛が食卓に並び、今日を記念日にしようと重々しく師匠が宣言した。
悪夢か。
ちょっと窘められ、『ごめんなさーい、もうしません。えへへ』と笑って済ますことになるだろうという甘過ぎる見通しを立てた過去の自分を全力で殴りたい。
このままでは出来心でやった小さい悪戯が白鳴山の歴史に残るということに成り兼ねない。なんだその恥ずかしい罰。あ!もしかしてこれが悪戯の罰!?
「噂をすれば影とはよく言ったものだな」
オレの葛藤を知らずに、ハリさんが可笑しげに言った。
「噂?」
意味が解らなくてこてんと首を傾げたら、もふもふの灰色頭が横に降りてきた。
「丁度お前の話をしていたところだ。そろそろハリどのを引き合わさねばならぬと」
オレは反論しようと陣さんの方を振り向いて、予想以上に近かった首元の毛皮に埋まった。もふい。じゃなくて、だって彼らがしていたのはオレの話じゃなくて仔犬の話…って、ええ!?
「聞いていた通り物怖じせぬ、良い雛だ」
「それだけではない。三太朗は聡くてな、主も特に期待しておられる。ゆくゆくは山主だといつも仰せだ」
「なるほど、此度のことで証となろうな」
「左様。主もお喜びになろう」
先に随分褒められていた"良い子の仔犬"が自分のことだったのに愕然としている間に、鷲と狼は嬉しそうに話を続けていく。
じわじわ顔が熱くなる。
――――師匠やめてって言ったのにまたオレの知らないところでまたみんなにそんなことを!
「そ、そういえばハリさんは"張"って字を書くんじゃないですか!?」
踠いて、いつの間にかオレを巻き込んで丸く踞っていた陣さんの毛皮からなんとか顔を上げると直ぐに話を遮った。
表情は分からないが、彼らからは少しの驚きが放たれる。
「ほう、何故そう思うのか訊いても良いか」
「ええ、もちろん」
話題が変えられるなら幾らでもお話しますとも!
「先日、師匠は配下の方にお役目に沿ったお名前を付けるって伺いました。それで、ハリさんのお役目が見回りなら、ハリは"見張り"の"張"じゃないかなって思ったんです」
「その通り」
ハリさんは、満足げに羽毛を膨らませた。
「如何にも、私は"張り役"の張。主より領内を見渡し変事なきよう見張れとの御命を頂戴している。しかし斯様な僅かな言葉から推察するとは恐れ入った。そなたは誠に我が主の弟子たる者だな」
師匠の弟子にふさわしいと言われるのは何より嬉しく、でも手放しで褒められるのはやっぱりちょっとこそばゆくて、照れ隠しに陣さんの毛皮に伏せて小さい声で「当たりでした」と報告した。
柔らかく喉を鳴らす音がして、陣さんが笑ったのが分かった。
「流石は三太朗だ」
彼の穏やかな満足感を感じ取って、オレは満ち足りた。彼らが褒めるそのままの凄い自分ではないけど、少なくともこのふたりを喜ばせたのはオレの手柄なのだ。
柔らかく緩んだ空気が、不意にふと引き締まった。
「?」
気配の変化を感じ取ったのが先、見回してその裏付けとなることを見つけたのは後だった。
いつの間にか張さんは羽毛を寝かせて細くなり、少し翼を浮かせている。陣さんがそっと体を伸ばしていつでも動けるように構えた。
そしてふたつの視線はオレの背後の木立の方、正確には広場に続く道の方を向いている。
追ってそちらを向いたとき、オレにもそれが聞こえて来た。
「さぁーんたっろさぁーんたっろ、どっこだーろなぁーっと」
何ごとかとふたりにつられて高まりかけた緊張を消して、オレはほっと笑った。
聞こえてきた声は次朗さんのものである。いつものように、出掛けたオレを追ってきたのだろう。
それにしても通った跡を残さないように気を付けているというのに、どうやってここが分かったのか。
立って迎えようと動きかけたそのとき、巨大なものがすぐ横を高速で飛び過ぎた。
「うわっ!?」
張さんだ。地面に触れんばかりの低空を凄まじい勢いで飛んで行ったのだ。そう理解が及んだ瞬間、起った突風に襲われよろめいた。
オレが体勢を立て直したときには、陣さんまでもが傍の茂みの向こうへ消えていた。
ひょい、と小道から現れた次朗さんは、向かって来る張さんを見て、いっそ天晴れな速さで脱兎の如く回れ右して逃げ出した。
「待てっ!次朗!!」
甲高い鳴き声が混じる叫びを上げて、張さんが追って木立へ入りかけ、その巨体が通らずに、あわやぶつかるかというところで急上昇した。
木々の枝を掠めてあっという間に高空へ上がり、豆粒のようになった張さんを呆気にとられて見ていると、道の方から次朗さんの悲鳴が上がった。
慌てて目を戻せば、悠々と陣さんが戻ってくるところだった。
陣さんの口からは、じたばたする次朗さんの下半身が生えていた。
そのときになって気付いた。これは彼らの狩だと。
張さんが次朗さんを追い、取り逃がしたふりをして、潜んだ陣さんの方へ追い込んだのだ。
合図も無い華麗な連携には只々感嘆するばかりだ。―――こんなところで発揮しなくてもいいのに。
狩の成功を見てとって舞い降りた張さんが、勝利の雄叫びを高らかに響かせた。
「ついに捕まえたぞ次朗!今度という今度は許さぬ!逃げ回った分は説教に上乗せだ!日暮れまでみっちり絞ってくれるわ!!」
…次朗さんは張さんにも何かやらかしていたらしい。
オレは山を一周して、川辺の岩の上でつくねんと座り込んでいた関を拾って館に帰って来た。
本当は木登りもしようかと思ったのだけど、なんとなく次朗さんが怒られてる声が聞こえてくる気がして、気が削がれた。
「でもしない訳にはいかないからー、やっぱりあそこだなーっ」
話しかけても関は返事をしないから、誰にともなく呟いてオレは玄関を迂回した。
弾む足取りが柔らかな影に入り、苔に覆われた地面を踏む。
細いせせらぎを跨ぎ、盛り上がった黒い根に爪先を置いた。
舞い散る花弁を見上げて、笑みを浮かべる。
そこは裏庭だ。
オレはあれから、何度もこの桜の木に登っている。
師匠は特に何も言わなかったし、何よりこの木に登るときだけは付き添いが必要なかった。
裏庭は師匠の部屋が近い。だから、例えオレが落ちても師匠が対処してくれるのだ。
だから、オレは一人になりたいときはこの木に登っていた。
館に居れば、誰かと一緒に居なくても壁がオレのことを見ている。いつの間にか慣れてしまって普段は意識することは無くなったけれど、誰の目も無い場所に行ってみれば、心のどこかの最後の緊張が解けるような気がした。
館が嫌な訳ではないのだけど、この木に登るのは、言わば少しの休憩のようなものだった。
「あ、しまった。関を持ってたら登れないや」
ふと気付いて呟く。木登りにはすっかり慣れたが、片手が塞がったままだと流石に無理だ。
うーっと唸りながら、持ち上げた関と見つめ合う。
相変わらず黒い丸い目は何の波風も立たない様子で、ただゆっくり頭が上下している。…勿論自分で上まで登ってくれるなんてことは期待できそうにない。
「一緒に登ろうと思ったのになぁ」
もふもふを抱えてぼんやり木の上で過ごすというのはとても良い思い付きだと思ったのに、残念だ。
仕方なく木の根元に関を置こうとして、師匠の部屋の障子が開け放たれているのに気が付いた。
「あれ?師匠?」
部屋には師匠の姿が無かった。代わりに権太郎さんと釿次郎さんが何やら忙しそうに動いているのが見える。
オレは更に残念な気分になって溜息を吐いた。
師匠が居ないのなら、この木に登るのもお預けだ。誰かに声を掛けて、外に木登りに出なくてはいけない。まあ、態々言わなくても、登る木を決めてそこいらのカラスに言えば直ぐに誰かが来てくれるのだけど。
もう一度師匠を探して、改めて部屋の方に目を向けて気付いた。
「掃除…?」
キツネとタヌキの手にあるのが雑巾や箒なのを見て取って呟いた。
実は館で掃除はとても珍しいものである。大抵の汚れは館自身が綺麗にする。カビも生えない。埃も積もらない。
物を散らかしたときなんかは自分で仕舞うし、何かをこぼしたときは流石に拭くけれど、日々箒で掃いたり雑巾で拭いたりしなくても良いのである。
他に細々と仕事がある筈のふたりがどうして態々掃除をしているのかが気になって、オレはそちらに向かった。
「おや、さんたろさん。お帰りだったんですねぇ。主さまはお出かけですよ」
「あれ、さんたろさん。お帰りなさい。今日はお早いんですなぁ。主さまはもうすぐお帰りだと思いますよ」
オレが声を掛けるより先に、ふたりが気付いて顔を上げたのに微笑み返す。
「ただいま帰りました。お掃除ですか?」
「ええ、そうなんですよぅ。明日にはお客さまがお見えなので」
「お客さま?」
白鳴山に客が来る。オレの知る限り初めてのことだ。…以前、師匠の知り合いが探し物をしに来ていたらしいけど、そのときオレは熱を出して寝ていたのでお客に会ったことはない。
「けど、天狗は立ち入りが禁じられているって」
来客が無い原因にあたりを付けるとしたらそこだ。白鳴山の付近は危険だということで、天狗は近づけないことになっている。
余程の理由があるのかと気を引き締めかけたオレに、吊り目のキツネが雑巾と首を横に振った。
「ああ、違います違います。天狗じゃなくて人ですよ。だから止められたりしないんですなぁ」
「へえ…」
盲点だったな、と思って頷いた。
確かに天狗じゃなかったら来るのは自由だろう。天狗の山に来るのは天狗だと無意識に思ってた…え?
「って人!?なんで人!?誰!?」
驚愕して叫んだら、まあまあ落ち着いて、と縁側の段差を利用して釿次朗さんによしよしされた。
ああ、あなたもか。縁側に上がってから喋れば良かったと思いながら、オレは少し切ない気持ちになった。
この館に来てからオレの頭は撫でられっぱなしだ。多分師匠がことある毎に楽しそうになでなでするからだと思う。多分恐らく絶対大体師匠の所為で、今やオレの頭をなでたことがないモノは希少だった。今ひとり減ったが。因みに権太郎さんは初めて会ったときに撫でている。…ってそんなの今はどうでも良くて!
現実逃避したがる思考を振り払って、のほほんとしているふたりに向き直った。
「どうして人が、この山に。しかも、掃除をしてるってことは師匠のお部屋に来るんですよね?なぜ?」
意図せず必死さが滲んだ声にタヌキとキツネは、目の前の子どもは意外に人見知りなのかもしれない、と少しの違和感に理由を付けた。
「ああ、来るのはお坊さまですよ。毎年この時期に、ほーよう?とかで何やらむにゃむにゃ言いに来るんですよぅ」
「おぼうさま…」
一瞬空白になった頭を、無理やり起こす。
有り難いお経を『何やらむにゃむにゃ言う』と言われては、元仏教徒としては何かもやっとするところがあるが、そこは取り敢えず置いておく。
兎に角明日お坊さまが"ほーよう"…多分"法要"のために、経を唱えに来るので掃除をしているということか。
そういえば、そろそろ盆だろうか。法要で来るなら仕方がない、と何とか納得して、抱きしめていた関をゆっくり置き、桶に引っかけてあった雑巾を手に取った。笑顔を作って二人に向ける。
「…師匠がお帰りになるまで、お掃除手伝いますね」
「おや、ありがとうございますねぇ」
「助かりますなぁ」
黙々と手を動かす沈黙に何かを感じたのか、権太郎さんが外で何をしてきたのかと尋ねたのを皮切りに、ぽつぽつと山での話をした。
「それで陣さんが次朗さんを捕まえたんです!」
いつのまにかぽつぽつがしとしとになってざあざあになるぐらいに熱が入った。あの連携はそれほど素晴らしかったのである。というか巨大な鷲と巨大な狼が共闘するという夢の展開に心躍らない少年がいるのだろうか。いや居ない。因みにオレが陣さんに忍び寄った話は省略した。戦略上重要なことだったのでやむを得ない。
「おお、ついに張さんに捕まりましたか」
「やっとこれで終わりですねえ」
感慨深げに呟くふたりに、何が終わりなのかと疑問に思ったが直ぐに合点がいった。どうやら次朗さんの逃走劇は張さんに捕まったことで終了するようだ。
「えっと、師匠に怒られて、ヤタさんに連れてかれて、先輩たちや弦造さんとお篠さんにも連れてかれてて、あと弓さんに泣かれてたし、ごんたろさんとぎんじろさんもお説教してましたし…あ、前に壁に埋まってたのはびっくりしましたよ」
何かやらかす度にももちろん怒られていたが、それとは別に、家出していた分のお説教を食らっていたのを知る限り数え上げた。
――――って全員に怒られてるじゃん。
どうやら次朗さんは館の全員から大目玉を食らったことになる。他にも色々やるものだから…どれだけ怒られてるんだろう。
どんなに怒られてもけろっとしている顔を思い浮かべて逆に感心した。物理的にも精神的にも打たれ強い。
「…ところで、張さんの名前の漢字、オレ当てられたんですよ。見張りの張でしょって!」
どこまで行ってもしょうもない話題だったので、ちょっと褒めて貰えそうな話を持ち出した。オレだってちょっとだけなら褒めて欲しいのである。
「へえ!それはすごいですねぇ!」
「ほんとに!さんたろさんはやっぱり賢いですなぁ!」
期待通りに褒めてくれて、嬉しそうに笑ってくれるのにえへへと笑い返した。そうそう、これぐらいが丁度良いのである。けして将来は出世するとか、お赤飯を炊こうとか、記念日にしようとか、そういうのは望んでいない。
名前繋がりでふと気になった。
「あ、でも権太郎さんと釿次郎さんの字の意味は見当が付かないです。師匠はお役目に因んだ名前を付けるって聞いてるし…」
このふたりの仕事は家事。太郎と次郎は置いておくとして、"権"や"釿"にそんな意味があっただろうか?ていうか字の意味もいまいち分からない。
首を捻るオレに、ふたりは同時にああ、と頷いた。
「そういう意味では、この名前に意味はないと思いますよ」
「あたしらは、主さまじゃなくて奥方さまにお名前を頂いたので」
「へえ奥方さま……奥方さま!?」
オレは本日二度目の乗り突っ込みをかました。驚き過ぎたのである。
「おくがたさまってあの奥方さまのことですよね!?え、師匠の奥さまですか!?」
「そうですよ。主さまの細君です」
「とてもお優しいお方でねえ、とても仲がよろしくて、こっちが照れてしまう程でしたよ」
「えぇえ」
勘違いしてはいけない。この『えぇえ』は否定の意味を持っていない。師匠に奥さんがいただなんて想像だにしていなかった驚きを表している『えぇえ』である。
正直天地がひっくり返るような衝撃だった。そして人は驚き過ぎると真顔になって、言葉が短くなるのだということを実地で学んだ。その結果出た『えぇえ』であるので、この短い言葉の中にはオレの驚きの全てが詰まっている、非常に中身の濃い『えぇえ』なのである。
「まあ、師匠は頼りになる方だし、奥さんが何羽かいても可笑しくないですよね」
「いえいえ、今も昔もお一人だけですよ」
「とても仲良しでしてねぇ」
ああ見えて師匠は長生きだ。今も昔も、と言われるからには一緒になったのは相当昔なんだろう。その頃からの連れ合いで、すごく仲がいいと言う。それで、きっとこの危険な地域の山主になることになって、安全なところに置いてきたのだろう。たまに師匠が出かけるのも、もしかしたら会いに行ってるんじゃないだろうか。
「師匠と奥さまはどんなご夫婦なんですか?間違っても師匠は『食事は美味く作れ』とか『いつも綺麗でいろ』とか『俺より先に寝るな』とか言いそうにないですけど…」
師匠は優しいけど、間違っても妻の尻に敷かれる男には見えない。けれどオレは夫といえば妻の尻に敷かれている父上が一番に出てくるので、それ以外というと中々出て来なくて、無理やり捻り出したら正反対の亭主関白まで想像が飛んでいった。
ふたりは「なんですかそれは」と笑ってから、ちょっと考える素振りを見せた。
「その話で言うなら、『食事は美味く作れ』というより『お前の作るものは何でも美味い』ですかね」
「ああ、良いそうですなぁ。そういう言い方をするなら『いつも綺麗でいろ』っていうより『いつも綺麗だ』ですかな」
「『俺より先に寝るな』は絶対仰いませんね!『無理せず早く休め』とか『俺より先に起きたら一番に挨拶してくれ』はありそうですね」
「え゛」
「『何か気付いたら我慢せずに言え』とか」
「『浮気はしないが、お前が嫉妬したときは言ってくれ。申し開きの機会が欲しい』とか」
「それと「ちょ、ちょっと待って!」
更にお代わりをくれようとしたのを急いで止めた。甘過ぎである。何に甘いって嫁に甘い。渋いお茶とか辛いものが欲しい。
「えと、新婚のお話ですよね…?」
一縷の望み的なものを込めて、座り込んだ姿勢から上目遣いにふたりを見たが。
「いえいえ」
「ずっとそんな感じでしたよ」
「うわぁ」
オレは非常に中身の濃い『うわぁ』を出した。大体さっきと同じ経緯で出た言葉なので、説明は必要ないだろう。
それは百歩譲って良いとして、非常に困る。何が困るって、話にでてきた台詞は如何にも師匠が言いそうだと思ってしまう辺りがすごく困る。只の弟子にさえあれなのだから、愛した女に対してならそりゃもう甘いだろうと普通に想像が付く。普通の顔をしてあまあまの台詞を吐く師匠が目に浮かぶのである。
オレは、乾いた笑いをこぼして熱々のご夫婦に敬意を表した。
そうして、知らずにとんでもない失言をしてしまった。
「そんなに仲が良いご夫婦なら、やっぱり会いたいでしょうねー」
ふたりの動きが固まった。
しんと部屋が静まり、空気さえ冷えて固まってしまったような錯覚に襲われた。
遠くの鳥の声がやけに耳に付く中で、オレの戸惑いに満ちた「え」という音が転がった。
「…そう、ですねぇ。会いたいでしょうねぇ」
いつも和やかな口調が、今回ばかりは静かだ。長すぎる沈黙を取り繕うように言ってくれたのに、それは白々と響いた。
嫌な予感。きっと根本的なところに食い違いがある。
流してしまいたい。だけど、これは恐らく知るべきことだ。それも多分、聞けるのは今しかない。
オレは怯えたまま殆ど義務感で口を開いた。
「…奥方さまは、今、何処に…?」
「…」
答えはどちらからも返っては来なかった。
ただ、ふたつの視線が、そっと一点を向いた。
恐る恐る振り向くとそこには、床の間があった。
左右に、明日の為なのか、菊と彼岸花が品よく活けられた、床の間。
その真ん中に、小さな位牌が、静かに置かれていた。
オレは、誰のための法要なのかを悟った。