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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
64/131

五十六 白鳴山の問題児 下

前話から続いています。



「あー、次朗さんは…ほんとにもう」

 オレは木登りの汗を流しに風呂場へ行くため、着替えを持って廊下を歩いていた。

 機嫌はちょっと斜め。だって一日一度の武術を学ぶ機会が尻切れ蜻蛉に終わってしまったのだ。正直消化不良だった。まあ、確保術を教えてもらったのは良かったけど。


 脱衣所で着物を脱ぎ、風呂の戸を開ける。

 ふわっと暖かい湯気が立ち込めた中へ踏み込むと、湯船に浸かる心地よさを想って自然に口元が少し緩んだ。

 次朗さんのことは置いといて、今はお風呂。気分も汚れと一緒にさっぱりしよう。


 気持ちを前向きに切り替えて、湯船に入る前にかけ湯をしようとし…動きを止めた。


――――なんだあれ。


 なみなみと湯を湛えた大きな檜の湯船。その真ん中からにょっきりと棒が突き出ていたのだ。

 良く見てみると、只の棒ではない。竹だ。

 人差し指と親指で作った丸に簡単に収まるぐらいの太さの、長さ三節分ほどの青竹が湯の中から生えている。


 不意に竹の周りにぼこりと泡が立った。

「え?」

 嫌な予感がして身を引きかけたそのとき、湯面が見上げるほどに盛り上がり、だっぱーんと勢いよく弾けた。


「どっせーーい!!」

「うわぁ!…って次朗さん何やってんですか?」

 頭から湯を浴びせられて(ひる)むが、直後に半目になって呆れた。何子どもみたいなことしてんだこの方は。


 最後に見かけたときのぐったりした様子はどこへやら、元気いっぱいに湯から出てきたのは、今評判の次朗さんである。なお、評判が良いか悪いかは置いておく。


 そんなことより風呂に潜っていた次朗さんは当然裸だ。どうでもいいけど、背丈の割に体が薄いから痩せてるのかと思っていたのに、案外しっかり筋肉がついててなんとなく悔しかった。本当にどうでもいいけど!


 驚いたオレを見て会心の笑みを浮かべた次朗さんは、得意気に胸を張った。

「おう、聞いて驚け!竹筒でずっと水に潜ってたんだぜ!幾らでも潜ってられるんだぞ!ほら、これお前の分な!!」

「…わーびっくり」


 驚きの意味のなさ。水じゃなくてお湯だ。そもそも何でやろうと思ったよ。それでどうしてオレもやると思ったし。しかも無駄に用意周到だ。


 さてどこから突っ込むべきかと吟味し始めたとき、目の前に竹が突き出されて思わず受け取ってしまった。


「特別にコツを教えてやろう!!」

「え、まだやるとは…うわっ」

 ひょいっと、小さい子どもを扱うように軽々と持ち上げられ、湯船に入れられてしまった。

 この頃背が伸びてきたのを密かに喜んでいたオレはひっそり傷ついた。あくまで余談だ。


「先ずこうやっへくわえへらあ」

「え、え」

 いきなり実演が始まってまごつくが、次朗さんはオレの様子にはお構い無しで、楽しそうに咥えた細竹で水面をぱしぱし叩いた。


「ほら、やっへみろっへ(やってみろって)!」

「えと…」

「歯で噛まない方が上手く行くかもしんねえ。とにかく隙間なく咥えりゃいい。慣れない内は鼻は摘まんどけ」


 あれこれコツを伝授する顔は真剣だけど、その表情の下でものすごく楽しんでいるのを直感して、更に呆れる。

 そんな楽しいものか?風呂にずっと潜ってるなんて何の役にも立ちそうにないことを…聞いてるとけっこう簡単そうだな。


()う…?」

「そうそう!しっかり上向いてこの先っぽを外に出しとくのが味噌だ!鼻で息すんなよ?よし行くぞ!」


 どぼんと盛大な水音が風呂場に響いた。


 どちらが長く潜っていられるかという競争は、結局のぼせて負けた。

 敗因は体の大きさだろう。オレの方が小さいから次朗さんより直ぐに熱くなってしまうのである。

 くらんくらんと動く視界。ぐわんぐわんと揺れる頭に、大騒ぎかつ大慌てで介抱してくれるごんたろさんとぎんじろさんの声が反響する。ぼんやり霞んだ思考の狭間で、ふとあることが気になった。


――――次朗さんはいつから潜ってたんだろう。


 因みに次朗さんはオレをのぼせさせた罪により、双子天狗に連行された。




「うらぁああああ!!」

 オレは叫んだ。けして昨日風呂で潜り対決に負けたのが悔しかった訳じゃない。話を聞いた師匠に面白そうに笑われたからでもない。必要なことだから叫んでいるのだ。まあ鬱憤晴らしに丁度いいのは認めるけど。


 今日は山の南側の、枝ぶりも立派な(くすのき)に登っていた。

 目線が段々高くなっていって、視界を遮るものが減っていく。広がる空が次第に近く感じる頃には、諸々の苛立ちは心の隅に引っ込んで、無心で手足を動かしていた。

 そうして半分登った頃だったろうか。


「おりゃぁあああああ!!!」

「たぁああああ…あ?」

 突如叫び声が二重になった。霊山での木登りという、霊験あらたかなんだかばかばかしいんだかよく分からない修行が、オレの中でなんかアレな作用をして、声が一度にふたつ出せるようになった…とかそんなバカな。

 

 普通に考えてオレじゃない誰かが叫んでるんだろうと思って見下ろすと、なんと次朗さんが登ってきていた。しかもすごい速さだ。てか早っ!?

 見る間に近づいてくるのを見て焦った。

――――このままじゃ追い付かれる!


 後から思えば別に追い付かれても良いじゃないかと思うけど、このときのオレは冷静さを欠いていた。

 それでも、直後に『待てよ』と思いかけ…すぐにそのひと欠片の冷静さは吹っ飛んだ。


「ははははは!そらそらどうしたその程度かよああ!?さっさと行かねえと抜かすぞ鈍間(のろま)!!」

 声の中に優越感を感じとって、何か考えるより先にカチンと来た。


「なっ、鈍間じゃないです!!」

「はんっ!口だけなら何でも言えんだろ!!」

「誰が口だけですか!!」

「悔しかったら逃げ切ってみせろ!それともやっぱ出来ねえか!?止めるか?自信ねえんだろが!!」

「やらいでかぁああ!!」


 売り言葉に買い言葉。叫びまくってノリがおかしくなっていたのだと今なら分かる。何故あんな幼稚な挑発に乗ってしまったのだろう。


 取り敢えず、接戦を制したのはオレだった。


 しかし勢い余って上の方の細い枝にまで登ってしまい、当然のように枝が折れた。

 そして古来からの伝統に従って、オレは叫びながらまっ逆さまに落っこちたのだ。


「ええ!?」

 まさかオレが落ちるとは思わなかったのか、次朗さんが慌てて手を伸ばして飛び降りたけれど、その手が届く前にオレの体は真っ黒な羽毛に受けとめられた。

 それは、本日の木登り付き添い当番のヤタさんだった。但し、オレを助けるべく巨大化して、人ひとり余裕で乗れる大きさになっていた。


 冷静に考えれば、急に巨大になったヤタさんにびっくりしたり、高い木の天辺付近から落ちたことに怯えるのが普通だと思うのだが…。


「勝ったああああああ!!」

 受け止められてもなお、オレは勝利の快感のままに叫び続けていたのだった。


 その夜、夕食時には話が知れ渡っていて、「よっぽど嬉しかったのですね」と(ユミ)さんに非常に微笑ましげになでなでされ、『小さなことで大喜びする子どもっぽいやつ』だと皆に知られてしまったのに気付いて赤面したのは余談だ。


 因みに次朗さんはオレが落っこちる原因になった罪と、落ちるオレを即座に助けられなかったという余罪により、巨大なままのヤタさんに掴まれて連行された。




 オレは唸りながら空を見上げた。

 昨日はあんなに青かった空は灰色で、更に言うと雨が降ってて、おまけに地面もぐちゃぐちゃに濡れていた。あ、雷。


 雨がしばらく止みそうにないのを確かめて踵を返す。

 武術も木登りも休みだ。でも師匠は鬼の襲撃未遂事件の後からずっと忙しくしていて、今朝挨拶に行ったときも机に向かって書き物をしていた。

 座学の講義を頼むのも気がひけるし、たまには読書をしようかと思う。


 読書は好きだ。

 知らないことを知るのは純粋に楽しいし、知ってることでも新しい見方や考え方をなぞるのは面白い。

 何より、文字を追っているときの、心が静かになる感じが好きだった。


 自室に帰り、なんとなく書庫から持ってきていた書物を机に広げる。

 植物の生育と地理、気候の関係についての考察書だ。同じ種類の草でも離れた場所では背丈が違ったり、花の色や形が違ったりするらしい。それが何故なのかを調べた記録…あ、裏表紙に"婀酩天狗"って書いてあるから人じゃなくて天狗の本だ。


 内容に没頭し始めた頃、

「ひゃっはーー!!」

 すぱーん!と戸が開いて、騒々しく次朗さんが登場した。


「おう!こんなとこに居やがったのか三の字!!外行こうぜ!!」

「雨降ってますけど!?」

 思わず反射で言い返してはっとした。いけないいけない。この方はこれでも先輩なのだから雑な扱いは「別にいーじゃん行こうぜ!!」

 がしっと上腕を捕まれて思わず呻いた。


「あ?どした?」

「…なんでもないです」

 オレはそっぽを向いて嘘を吐いた。

 昨日無茶な木登り競争をしたせいで、色んなところが筋肉痛になっていたのだ。

 痛かったが意地でも素知らぬ顔を貫き通す。この方にだけはばれたくない。大笑いされた上にからかわれる未来しか想像できないからだ。

 しかし、現実は無情だった。オレを上から下まで眺めた次朗さんは、にやにやぷーっとやりやがったのだ。


「あー分かった!昨日ので腕やら脚やらいてぇんだろ!!ここがいてぇのか!それともこっちか!!」

「ぎゃあ!止めて痛い痛い痛い!!」


 その後痛いのが嫌ならこれはどうだと(くすぐ)りに発展。負けじと擽りかえした結果、オレの弱点が脇腹で、次朗さんの弱点が脇の下だという事がお互いに発覚した。


 笑い声か悲鳴か分からない叫びを上げながらどったんばったん大騒ぎしていたら、誰かが様子を見に来た。

 襖が開くか開かないかというところで気配を敏感に感じ取った次朗さんは、弓さんが顔を覗かせた瞬間に、疾風の速さで庭へ駆け去った。


 あまりの速さに、残されたオレが着物が脱げかけたまま、笑いすぎで息を荒らげてきょとんとしていると、何故だか弓さんが悲鳴を上げて、そこから大騒ぎになった。

 みんなが集まって来て、どうしてだか唖然とした顔で固まったり、次朗さんを最低だとか罵ったりし始めた。何が何だか分からないなりに何か勘違いがある気がして、慌てて経緯を説明すると、壁にも確認を取った後で騒ぎは収束した。

 聞いてもみんな『知らなくて良い』って言って教えてくれないので、なんであんな騒ぎになったのかは謎のままだ。


 とりあえず、あのとき弓さんは次朗さんの声を聞き付けて部屋に来たことと、次朗さんは山に帰って来てからずっと弓さんから逃げ続けているということを聞いた。




 ある日、今日は見かけないなと思っていたら、(くりや)の横で壁の手に胴体をがっしり掴まれているのを見かけた。

 その前でお玉を振りながらお説教していた権太郎さんと釿次郎さんが言ってることを聞けば、なんと次朗さんは厨へ忍び込んで今日のおやつのみたらし団子を食べつくしたのだとか。


 ちなみにその日のおやつは白玉餡蜜になった。

 大急ぎで用意してくれたものみたいだったけど、充分美味しかったのでオレとしては被害はなかった。が、みたらし団子が食べられなかったのはまた別の話。罰として捕まえられたままの次朗さんの前で見せびらかして食べてやった。


 でも余りに羨ましそうに見てくるので、一口分けてあげた。

「これに懲りたらもうしないで下さい」って言ったら「分かった」って言ってたけど、またするんじゃないかと思う。

 …本当に次朗さんってろくなことしないな。




 そんな毎日が続いた。毎日である。


 次朗さんは神出鬼没に現れては、くだらないことでオレの予定を狂わせて、その度誰かに連行されるか逃げて行く。


 木登りをすれば毎回張り合い、風呂場で待ち伏せはお約束。鍛練に乱入することこそなくなったものの、師匠と話していれば師匠にちょっかいをかけようとして返り討ちにされたし、自室で静かに過ごしていれば必ず出没する上に、夜に小便に起きれば暗い廊下で「わっ!」とやられた。

 半分寝た頭では察知することが出来ず、死ぬほどびびった。


 因みにぎりぎり持ちこたえたので大事には至らなかったが、あれだけはもうさせてはならぬと思って(ユミ)さんとヤタさんと師匠とお篠さんに言いつけると脅したら、土下座で許しを請うたので許してやった。




「なんでオレに付きまとうのかな…暇なんでしょうか?」

「奴は阿呆だからな。面白そうなことは何を置いても首を突っ込む」

「…そんなオレって面白いですかね」


 オレは字の練習をしながらヤタさんに愚痴った。

 ヤタさんは達筆で、オレはちょくちょく字を習っているのだが、今日は特に頼み込んで練習に付き合ってもらっていた。

 どうして急にそんなことをしてるのかというと、実は昼餉のときに宜和からの便りを受け取ったからだ。

 早速返事を書こうと思ったのだけど、それなら綺麗な字の方が当然良いだろうと思ったのだ。


「三太朗!」

 ひょいっと廊下から覗いたのは、珍しく次朗さんではなくて、双子の先輩たちだった。


「おー、字の練習か。偉い偉い!」

「おー、丁寧だし綺麗じゃん。上手い上手い!」

 いつも通り賑やかに手放しで褒めてくれる。大袈裟だ…でも褒められるのは悪い気はしない。


「そんな良い子にはひとつ分けてやるよ!」

「ほうら、胡麻団子だぞ~」

「わ!ありがとうございます!」


 机の上の白い紙にぽんと置かれたお菓子に歓声を上げた。香ばしい胡麻が沢山くっついた胡麻団子!中身はこし餡に違いない!


 疲れてきてたから丁度いい休憩だ。…と思ったけど、今書いているものはもうすぐ終わる。きりの良いところまで書いた方が良いだろう。

「これ書いちゃったら食べます!」


 オレはいっそう真剣に、速度を上げて取り組み始めた。

 先輩たちが紙を覗いて微笑ましげに笑い合うのも気付かず、せっせと手本通りに字を書いていく。


 残りがあと一行になったとき、体の両側を通って腕が机の縁に置かれた。


「あれー?何してんだ。お、これ最後?いっただきー」

「あ」

「あ」

「あ」

「あぁあ!?」


 ひょい、ぱくっ。

 誰も止める間もなく、お菓子は次朗さんの口に消えた。

 オレの字に皆が気を取られていた一瞬の隙を衝いた早業だった。


「この阿呆が!」

「なんてことすんだ次朗てめぇ!!」

「それは三太朗が楽しみにとってたやつだっての馬鹿!!」

「んぇ?」


 皆に怒られてきょとんとした次朗さんは、もぐもぐやりながら「えー。でも普通、喰わねえで置いてるんだから要らねえって思うじゃん?」と開き直った。

 あまりの悲劇に呆然と、今まで確かにおやつが乗っていた紙を見ていたオレの頭が、その声でようやく現実に戻ってきた。

 楽しみに取っておいたおやつが食べられてしまったという現実へと。


「う…」

「え、おい…?」

 頭上から、俯いて肩を震わせるオレを次朗さんが後れ馳せながら焦りつつ覗き込む。


「うがぁああ!!」

「うおっ!?」

 顔が近づいているのに構わずに、いきなり頭を上げる。顎を打ち上げたみたいな感触がしたが、構わず半身を捻って振り返った。もう怒った!


「たあ!」

 次朗さんの脇の下目がけて右手を突きだした。

「ふごっ」

 ぎりぎりで防がれたが想定内だ。間髪入れず、膨らんだ頬に左の人差し指を突き出す。

「やあ!」

「おふっ」

 顔を守って腕が上がり重心が後ろに行った瞬間、戻した右手で力いっぱい、オレを挟むように置かれていた脚を持ち上げた。

「とあああ!」

「うぉあっっ!?」

 がつん!と音がして、ばたついた脚の向う脛が机を蹴りあげた。


「もう知らない!!」

 悶絶したばかたれを残して、オレは足音荒く部屋を飛び出した。




 オレは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の次朗さんを懲らしめねばならぬと決意した。


 先ず最初に勝手口に行って、芋なんかを入れておく用の布袋を棚から一枚失敬した。

 その頃に、どかどかと大きな足音とオレを呼ぶ次朗さんの声がし出したので、ささっと弓さんの部屋の方へ回る。

 案の定、次朗さんの足音はこちらに来ることはなく、呼び声はどうやら山へ出て行ったようだ。

 気配が遠退いたのを確認して、その方向とは逆の下り道を選んでオレも山へ入り、素早く目的の物を調達して次朗さんの部屋へ急いだ。


 次朗さんの部屋は離れにある。

 彼が帰って来る前は離れなんか無かったんだけど、次朗さんは『離れはかっこいい』と考えているらしく、塗り壁に離れを作らせてそこに住んでいたのだ。


 母屋から遠く、他の目的のために来るなら不便だが、今回ばかりは好都合。中で何があっても他へ迷惑がかかることはない。

 オレは素早く侵入してきっちり戸を全部閉めると、ぱっと袋の口を開けた。


「よし、出てこい!」

 そこから出てきたのは、十匹の大きな黄金蜘蛛(コガネグモ)だ。

 そいつらがのそのそと部屋中に散って行ったのを確認すると、次に戸口に向かう。


――――大体この辺かな…っと。


 手に持っていた枝にくっつけておいた立派な蜘蛛の巣を、おそらく次朗さんの顔が来るであろう高さに張り付ける。

 かなりの高さだが、長めの棒を持ってきたオレに手抜かりはない。

 戸と柱に両端をくっつけて、間は撓ませてぶら下げる。これが戸が開くと同時にきちんと開くかは運次第だが、果たしてどうかな?


「三太朗ー!!」

 双子の先輩のどちらかの声が、少し遠くで聞こえて、びくっと肩が跳ねた。

 オレはじっと息を殺して、オレを探す全部の気配をやり過ごした。


 出て行けば見つかるかもしれないけど、一箇所に長居は禁物だ。部屋の主が帰ってくるのが一番不味いのだ。

 こういうことをやるときはあまり時間を掛けてはいけないという、上の兄弟から受け継いだ教えに従って、他のものには目もくれずそっと窓からとんずらした。

 もちろん窓はしっかり閉めた。




「ふう…」

 枝に座って足をぶらつかせながら、(わざ)と大きくため息を吐いてみた。

 むしゃくしゃした胸の内に幾らか風が通ったような気になったけど、いつもの木登りほどはすっきりしなかった。


 オレは随分久々に、叫ばずに木登りをした。それに初めて付き添いなしで高い木に登った。

 そんなことよりも、見つからないことの方が大事に思えたのだ。


――――ここならしばらくは気付かれないだろう。

 目の前に広がる薄紅色の世界を見渡しながら、自信を持ってひとり頷いた。


 オレが隠れているのは、裏庭にある万年桜の古木の枝の上。隙間なく咲き誇る花の中だった。ここに居れば下から覗かなければオレが居るなんて分からない。

 それも、太い枝の上に足も引き上げて、ごろんと寝転がってしまえば下から見ても見つからないだろう。

 ひんやりしたごつごつの枝を背中に感じながら、花びらの天井を見上げてくすくす笑った。探されているのに見つからないって、なんか素敵だ。


 攻撃的な日差しも花びらに柔らかく受け止められて、ふわりとした温かさを持って肌を撫でている。あるなしかの風が穏やかに花枝を揺らして、花びらが一枚ひらりと泳いだ。くるくると舞い、他の花びらと出会い、寄り集まってひらひらと、遥か下の地面へと舞い散った。

 控えめな桜の香気がほのかに空気を満たす。

 胸いっぱいに爽やかな芳香を吸い込んだら、むしゃくしゃしていたことが、膜一枚隔てたように少し遠く感じた。


 ここはただ静かで平和だ。

 久しぶりに穏やかな気分になった。振り返れば今まで如何に心が波立っていたかがよく分かる。…少し疲れているのも。

 無限に咲き誇る桜花の他は何もなくて、時までも曖昧で緩やかになっていく。

 この騒がしい半月間は幻で、実はずっとここに居たんじゃないかと思えてくる。


――――賑やかなのは好きだけど、たまにはこういうのも良い。


 高い木を探して色々な木に登ってきたけれど、ここだけはなんとなく避けてきた。

 師匠が桜の木を大切にいているのは知っていたし、よじ登るなんていう荒事はしてはいけないように思っていたんだろうか。

 登ってしまった今となっては理由は曖昧に霞んでいて、一応の枠に入れて固めてみてもしっくり来ない。


――――まあ、そんなのはどうでも良いか。

 オレは静けさを味わうように目を閉じた。




 柔らかい何かが頬を撫でた感触で目が覚めた。

 いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。すごく良く寝た後みたいに、ちょっと怠いようでいて体の奥がすっきりしていた。


「ぢぢっ」

 小さな温もりが頬にすり寄った。

「お前、豪風?」

 すちゃっと小さな前足を上げて、ふわふわのネズミは短く鳴いた。


「オレを探しに来たの」

 そう問えば、こくりと小さな頭が上下する。

「そう…」

 憂鬱がどうしても声に出てしまう。

 豪風は次朗さんのネズミだ。豪風に見つかるってことは、あの騒々しい方が多分直ぐにやってくるんだろう。


 自然に漏れた溜息と共に、上げかけていた頭をやや乱暴に枝へ落とした。

 ここの静寂は酷く心地がよくて、ずっとここに居たくなっていた。オレと桜以外存在しない平和なこの場所には、他の煩わしい何もかもがない。それはとても魅力的な気がした。…でももう終わりなのか。


「ちぃ」


 ふと、小さな体から、くっきりした心配と申し訳なさが伝わった。

「豪風…?」

 丸くて小さな体は、オレを慰めるみたいに寄り添ってじっと動かない。

「次朗さんに報せなくていいの?」

「ちぃ…」


 小さな返事は肯定も否定も含んでいるような気がした…きっとその直感は正しい。


「心配してくれてるの?」

 間近で見返す黒くてまるい瞳の中に肯定を読み取って、静まった心がふわっと温かくなった。灯る温かさに思わず笑みが零れる。

 言葉は自然に湧いて出た。


「お前が申し訳なく思う必要はないんだよ。全部次朗さんが悪いんだからさ。でも、ありがとう。大丈夫。確かにちょっと思うことはあったけど、こんなので次朗さんを嫌いにはならないから」

 確かに沢山迷惑だと思ったし、すごく怒ったけれど、それでも静かになった心に浮かんだ本音はそれだった。

 じっと見上げる目を見返して「大丈夫」と繰り返し、そっと指先で撫でてやった。

「ちぅ」

 柔らかな安堵を残して、豪風はオレの横をすり抜けて駆け去った。報せても大丈夫かどうか、正しく判断したんだろう。


「あー、休憩終わりかぁ」

 次朗さんを待つためにむくりと身を起こすと、いつの間にか体に乗っていた花弁が何枚もひらひらと落ちて行った。

 心には、貰った温もりが消えずにあって、心休まる静寂から出ていくのを考えても、そんなに嫌な気はしなかった。




「さんたろぉおおお!!!」

「どわぁっ!?」

 いきなり聞こえてきた爆音に、危うく仰け反りかけて座っていた枝に慌てて手をついた。

 太い枝だから後ろに倒れても多分大丈夫だとは思うけれど…正直肝が冷えた。


「どこだぁあ!うおおおお!!あっちかぁあ!!」

 騒々しい声は続いている。

 大きな声、とかいう次元を超えているすごい声だ。それも恐ろしいことに、段々大きくなってくる。…ってことは、最初の声はそれなりの距離から発されたってことになる。

 ここまで来たときにどんなことになるのかを想像して思わず顔が引き攣った。


「あ!豪風でかした!!こっちだなぁあ!!!」

 見つかる云々(うんぬん)ではなく、身の危険を感じて恐々としていたら、幸い声は聞こえなくなった。

 いや、大きさの落差で聞こえないように思えただけで、普通の大きさの声でオレを呼ぶのが聞こえてきた。

 同時にどすどすと土を踏む足音と一緒に近づいてくる。相変わらず騒々しい方だ。


「三太朗!そこに居んのか!?」

 やがて真下からした声に、ちょっとげんなりしながら見下ろした。


「はーい…って次朗さん。それどうしたんですか!?」

 見下ろすなり目を剥く破目になった。

 目線の先では、でっかい猪がでろんと白目を剥いていた。そしてその頭の下から次朗さんが見上げている。

 なんと次朗さんは猪をおんぶしていたのだ。しかも独りで持てるとは思えない体躯の、牙も立派な大物だ。道理で足音が重かったはずだ。


 次朗さんはオレを見て、あからさまにほっとした顔をした。

「これな、捕ってきた!」

「捕った!?」

 その場にどすっと獲物を置いて、先輩天狗はとんとんと身軽に枝を跳び渡り、あっという間にオレの横にすとんと乗った。


「悪かった!!」

 そしていきなり頭を下げた。

「…一応訊きますけど、何に対して謝ってるんですか」

「全部だ!!」


 オレの胡乱な眼差しに、いっそ堂々と胸を張って答え…直ぐに罰が悪そうになで肩を更に落として頭を掻いた。

「いや、お前の菓子を食っちまったのもだけどよ…お前がずっとおれのこと迷惑そうにしてたって、今回みんなにこっぴどく怒られちまって。そんなつもりじゃなかったんだが…」

 次朗さんは普段の快活な様子が欠片もなく、しんなりと遣る瀬無く苦笑して、手を打ち合わせるともう一度頭を下げた。

「悪かった!んでもってあれは侘びだ!お前が肉好きだって聞いたからよ!脂の乗ったの捕ってきたんだ!こいつでちょいと許しちゃくんねえか?」


 最後、ちょっと不安そうに上目遣いでこちらを窺うまでをジト目で眺めて、心から吐き出すようなふかぁあい溜息を吐いた。


「…迷惑そうにって言いますけどね、ほんとに迷惑してたんですよ?」

「ああ、ほんっと(わり)ぃ」


 直感が働いて、オレの目が更に冷たくなる。この方、悪いらしいから兎に角謝っとけ!って感じがひしひしとするのである。


「次朗さんは、オレにも都合があるっていうのに一切考えないで引っ張りまわすし」

「えっ」

「ゆっくりしたいときも、静かにしてたいときでもどかどかやって来て(うるさ)くするし」

「あ、う…」

「機嫌が悪くなったら直ぐに上から巻き舌で怒鳴って脅すし」

「うぅ、えっと…」

「師匠と話してるときは邪魔するし、都合が悪くなったら独りで直ぐ逃げるし、オレの話は聞かないし、オレの分のおやつもみーんな食べてしまうんです。お菓子だけじゃなく、どれだけオレの楽しみが奪われたことか」

「…おぅ」

「というようなことが嫌だって思ってるの、ほんとに分かってます?」

「正直すまんかった…」


 がっくり肩を落としてしょんぼりした次朗さんに、まあこのくらいで勘弁してやるか、という気になって肩をすくめた。

「これからはちゃんとオレの都合も考えて、そうだなぁ…胡麻団子と干し柿ください。あとオレのしたことも許してくれるんなら、水に流しますけど、どうです?」

「分かった!!」


 低く落ちていた頭が勢いよく上がる。合った目は子どものようにきらきら輝いていて、無邪気な喜びが弾けた。思うより先に苦笑が出る。ほんとにこの方は仕方ない。

 次朗さんはつられるようににっかり笑った。


「けどな、三太朗。許してほしいとかんなもん考えなくていーんだぜ!なんせおれさまはてめーの兄弟子!この山ではおれさまが兄貴なんだからな!!いつでも味方だ。何があっても!いいか、何があってもだぞ!!」


 高らかに成された宣言は、真っ直ぐで陰りひとつない。その迷いなさに驚いて、オレは何度も瞬きをした。

「兄…?」

「ああ!同じししょーの下にいるんだから、もうおれたちは兄弟も同然ってやつだ!もちろん紀伊と武蔵の兄貴たちもだ。でもよ、ししょーとか兄貴たちに言えねえようなことでもおれさまには相談しろよ?自慢だがおれさまは大概のことはやってきてるからな!てめーが何やってもこっそり誤魔化すの手伝ってやんよ!あと悪巧みはぜってぇ教えろよ?面白そうなこともおれさまが先な!!」


 楽しそうにあれこれと話すのを聞きながら少しだけ笑った。

「何の自慢ですか」

「そりゃもちろん、経験豊富ってことの自慢だ!」

「経験の種類が問題でしょそれ」

「こまけぇこたぁ気にすんなって!」


 堂々と笑って誤魔化した次朗さんは、唐突にオレの肩を引き寄せてがしがし頭を掻き回してきた。首ががくんがくん回る。とれるかもしれない。

「なあ、三太朗。おれにゃ、まだ打ち解けられねぇかもしんねぇけどよ、本当に何でも言って良いんだぜ。おれが嫌なら他の誰でも良い。もうちっと打ち解けて、遠慮なく寄ってっても良いんだ」

「え…」

 その声は次朗さんらしくなく柔らかで、オレは戸惑って随分上にある顔を見上げた。

 こっちを見た猫目がにっと笑う。そこにはオレを案じる色があった。


「お前はちっと…控えめってのか?おれさまからすりゃもどかしいとこがあってよ。おれなんかてめーとおんなじぐらいの歳のときゃ、もっとししょーに飛びついたり、我が儘言ったり、兄貴たちと喧嘩したりもしたもんさ。それが悪いたあおれさまは思わねえ。そんだけのことが許されてたんだからな。当然お前も許されてるんだ。寧ろ、ししょー辺りはそうして欲しいと思ってるぜ。勿論おれさまもな!」


 明るく言われた言葉は本音で、真っ直ぐオレの中に響いてきた。オレの中の硬いものを揺るがせて、これは邪魔だと言いながら、それでも許す温かい声。

 何だか不意に泣きたくなって、覗き込む目から目を逸らして溜息をつくふりをした。


「…次朗さんはもうちょっと悪いと思った方が良いんじゃないですか?」

「あ?おれさまのこたぁ良いんだよ!今はお前だっての!そしたら"足して二で割ったら丁度良い"とか言われなくなるだろーよ!」

「そんなこと言われてたの!?」

「おう、皆言ってるぜ、心外だっつの」

「その言葉そのままお返ししてもいいですか!?」

「返品不可だ」

「理不尽だ!」


 言いながら、自然と笑っている自分を見つけた。

 心にあるのは少しの寂しさと、それでも確かな楽しさ。


――――…もうオレには実の兄は居ないんだ。


 今はもう、白鳴山(ここ)がオレの家で、館のみんながオレの家族だ。きっとこれから、この先ずっと。

 得た実感はけして唐突なものではなくて、オレはきちんと受け止められた。

 目の前の欠点だらけでも陽気な天狗が、これからはオレのひとつ上の兄なのだ。


「…改めて、よろしくお願いします。次郎さん」

 笑みを深くして言えば、威勢のいい声が返った。

「おうよ!!」



 さっきの約束を本当に覚えているのかと疑わしくなってしまうほど明るく笑っている次朗さんは、おっと、と呟いて相変わらずでろんと伸びている猪を見下ろした。…桜に似合わない臭いがほんのり立ち上っている。

「ずっとあれ置いといたらまたどやされんだろな。ちっと待てよ」


 ばっと枝の上で立ち上がり、くるっと眼前に円を描くと、一筆書きで角が多い星をひとつ描き入れた。

「おーい、(サダ)?わりぃけどちっと来てくんねぇ?(シシ)捕ったんだけど裏に持ってくの手伝ってー?」


 あーとかなんとか言う声がどこからともなく聞こえてきて、光も炎も何もなく、ひょいっと定七(さだしち)さんが現れた。…空中に。


「え?うぉおおおお!?」

 ひゅーんどっかーん。まさしくそんな感じで鬼は真っ逆さまに落っこちた。

「えええ!?大丈夫ですか!?」

 思わず身を乗り出して覗き込めば、猪の脇に倒れた鬼は、ふぐっとかなんとか言った後に、しゃきーんと急に起き上った。


「おうとも!この程度痛くも痒くもありゃしねぇってもんよ!!お、運ぶのってなこれか!なあにこの炎将さまにかかりゃぁ軽いかるい!!」

 とりあえず元気そうで、オレは心配を気軽に棄てた。このふたりはすごく丈夫なので、ちょっとやそっとじゃ心配しなくて良さそうだと、覚えておく。

 そしてどうやら彼は随分見栄っ張りなようだ。ひょいっと猪を持ち上げ、軽さを見せつけるように片手で上下に振って、さり気なくこっちをちらちら見てくる。


 どう反応しようかと考えながら見下ろしていたら、次朗さんが脇をつついてきた。…わかりましたよ。


「わー、すっごい!流石ですね~~オレなんかじゃ絶対できないなー」

 手を叩いて笑顔を大盤振る舞いしてみる。

 これでどうだ。ちょっと棒読みなのは許されて然るべきだろう。ダメかな?

 ちょっと不安になったけどそれは杞憂だった。定七さんは益々胸を張ると、ふふんっとふんぞり返った。

「ま、そこのカラスもどきと出来が違うってことよ!ちょっくら持って行ってくらぁ!!…次朗てめぇ後で覚えてろよ」


 オレには得意気な笑みを、次朗さんには恨みがましい一瞥をくれて、鬼は猪を担いで歩いて行った。


「…ねえ次朗さん。前に定七さんを呼んだときの火と光は何だったんです?」

 定七さんを見送って、気になっていたことを早速聞いてみる。

 簡単に呼び出してしまったことをちょっと残念に思っていた。朗々と唱える呪文も、ふわっと光ってぼう!って火が出るのもちょっとかっこいいと思っていたのだ。

 夢破れた気分、と言うべきか。


「あ?ありゃ幻術だ。ああいう方がかっこいいだろ!あの術陣作るのにすっげぇ苦労したんだぜ?いい感じに詠唱が響くようにして、強すぎずかといって弱すぎない光が出るようにするのと、派手な爆発!あの炎の色が出るまでどんだけ大変だったか!!」

「つまり意味はないと?」

「だから、かっこいいだろ!!」


 そうだったこの方はこんな方だ。ここ半つきの、とても濃い日々で嫌と言うほど思い知ったではないか。

 かっこいいとか面白いとか思ったことは、意味がなくても全力でやるのだ。


「…そういえば、さっきすごく大きな声を出したのは?」

「ありゃ声を増幅したんだよ。でっけぇ声で呼ばわりゃ聞こえると思って急いで術式組んだんだが、豪のが見つけるの早かったな。次はおれさまが勝つから良いんだけどな!」

「あのまま近くに来られたら真面目にオレの耳がおかしくなったと思うんでもうしないでください」

 あれだけ離れていてあの威力だったのだから確信を持って言える。あの声量を間近で出されると、オレの耳はぶっ壊れるであろうと。


 襟元からちょろりと顔を出したネズミを、意外に優しい手つきでつついて兄弟子は笑った。

「だいじょぶだって!」

 屈託のない、明るい顔で。


 この野郎殴りたいとかちょっと思ってしまったオレは悪くないと思う。






 昼間のことを思い出して、ふふっと笑みが零れた。―――なお、目が笑っていないのを本人は気付いていない。


 手は淀みなくさらさらと動いて、文字を書き起こして紙を埋めていく。




―――その上、他人の都合を考えないし、常識はないし、無神経だし、短気で直ぐ怒鳴るし、いつも誰かが次朗さんを叱ろうと探しています。

 そんな次朗さんに付きまとわれて、オレには心が休まる暇がありません。

 もう少し控えめになってくれたらと何回思ったことか。しかし未だ半月しか経っておらず、これがこの先も続くのかと思うと溜息を禁じ得ぬ思いです。




 我ながら滅茶苦茶書いたなとは思ったが、本当のことなのが救いようが無い。

 だけど、それだけの方じゃないのを、オレは知っていた。

 今度はしっかりした笑みを浮かべて、いつも何かに目を輝かせている兄弟子の顔を思い描く。




―――でも、あの方は明るくて、細かいことは気にしないし、とても真っ直ぐで嘘を言いません。

 他から何をされても、その場で決着すれば直ぐに許し、後を引くことなく水に流せる大らかさを持っています。

 何かやれば全力で、いつも楽しそうにしていて、賑やかな方です。




 ずけずけやってきてはちょっかいを掛けて行く次朗さんが、オレを傷つけようとか思ったことは一切ないのを感じていた。

 心から楽しそうに、面白いと思ったことをオレと楽しもうとしているのに気付いていた。

 多分、あの方から見て、オレは面白いことが無さそうな顔に見えたんだと思う。やり方はどうかと思うけど、次朗さんなりにオレを楽しませようとしていたこと、何より早くオレと仲良くなりたいと思って会いに来てたのを知っていた。


 だから、怖い方だと思って怯えたのは最初だけだったし、何をされても結局は『次朗さんは仕方ないなぁ』と溜息を吐いて終わってしまう。

 そんな憎めない方だ。




―――余り褒めると調子に乗りそうだから、そろそろやめておきますが、悪い所はあっても根はとても良い方で、彼なりに可愛がってくれています。

 まだまだこれからではありますが、少しずつこちらの言葉も聞いてくれる姿勢が見られるようになり、この分だと上手くやっていけそうだと思っています。

 大変なことは多くあるでしょうが、お互い頑張ってやっていきましょう。


 書き切れないことが色々ありますが、それは次に会ったときにでも話しましょう。

 それでは、お体に気を付けられますよう。    敬具


    白鳴山 三太朗


 追伸 三太郎じゃなくて三太朗です。次は間違えんなよ。




「でーきたっと」

 書き上げた文を読み返して、誤字が無いかを確認する。うん。大丈夫そうだ。


 外を窺えば、とっぷり日が暮れていて、白い月が昇っていた。

 そろそろ、猪尽くしの夕餉の続きで始まった酒盛りも終わったかもしれない。そろそろ準備した方が良いだろう。


「師匠はお部屋にお帰りですか?」

『今しがたお帰りだ』


 問うてみれば案の定、酒盛りは終わったらしい。オレはまたにやにや笑いをしながらささっと寝巻きに着替えると、枕と書きあがった文を持って部屋を出る。

 裏庭沿いの濡れ縁を踏んだまさにその時、遠くからうぎゃーっと言うような叫び声が、夜の(しじま)に木霊した。あ、やべ。


「三太朗かこぅるぁああ!!!」


 怒鳴り声が聞こえてくる前にオレはさっと駆けだしていた。

 予想していたことだったから心には余裕がある。


 恐らく、お酒を飲んで気持ちよくなった次朗さんが部屋に帰ると、勤勉な蜘蛛たちがせっせと作り上げた作品だらけになっていたのだろう。戸を開けた瞬間にオレが仕掛けた巣に突っ込んだのであればなお良し。

 そして彼は正確に犯人を予想して怒鳴ったという訳。


 オレはたたたっと軽快に駆けた。

 物凄い巻き舌の怒鳴り声が聞こえるけど、もう全然怖いとは思わない。

 言い訳はちゃんと立つ。だって昼間、オレは確かに言ったのだ。『オレのしたことも許してくれるんなら、水に流します』ってね。

 つまりもうあれは水に流れている話なのである。とはいえ今追いつかれると、かっとなっている次朗さんは聞きやしないのは目に見えている。


 だからオレは走っていた。

 行先は師匠のお部屋だ。

 今までは小さなことで手を煩わせちゃダメだと思っていたけど、次朗さんが言うにはもう少し行っても大丈夫っていうか、その方が良いみたいだったので、ちょっとドキドキするけど頼ろうと思ったのだ。


 部屋へ着いたら、真っ先にこう言おう。『師匠ちょっと匿って!』って。

 そして次朗さんを落ち着かせて、上手いこと昼間のことを思い出させて決着したら、そのまま先輩たちの部屋に『次朗さんの夜襲が怖いから泊めて』って押しかけよう。


 走りながら楽しくなってきてふふっと笑った。

 想像上の師匠たちは、嫌な顔をするどころか楽しそうに笑っていたからつられてしまったのだ。


 そうして無事に辿りついた襖を開けて中へ滑り込む。


「師匠ちょっと匿ってください!」




高遠さんのお弟子さんはこれで全員です。

部下はまだ居る。

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