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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
63/131

五十五 白鳴山の問題児 上

日常の話。

きりが良いので今回はここまで。次話に続きます。


 オレはにやにやしていた。

 気持ち悪いかもしれないが、他に誰もいない自分の部屋でくらいちょっと気を抜いても許されるべきだろう。ではいつも気を張ってるかと言われると困るけど。


 オレはちらりと襖の方に目を向けた。

 廊下の方は静かなものだ。何の異常もありはしない。なら、まだ時間はあるだろう。


 持っていた紙をそっと文机に置くと、まっさらな紙を用意した。

 先の紙は、今朝届いたオレ宛の(ふみ)だ。

 なんと、友達の宜和(よしかず)が、約束通り手紙をくれたのである。

 友達からの便りというだけでも嬉しくなるというのに、その内容もとても明るいもので、ついつい自分のことのように嬉しくなった。


 学舎での勉強が難しいこと、新しく出来た仲間とふざけあったこと、頼りになる先輩たちに連れられて仕事をしたことから、ちょっと食わせものな支部長の話まで。

 今までが何だったのかと思うほど、良い方たちに囲まれて、忙しくしながらも東都の支部に馴染んできたそうだ。

 支部長のことは"たぬきじじい"とか書いてあったけど、言葉の選びはどこか感謝と親しみが感じられて暖かかった。


「『こっちに来たら食堂の名物定食を奢ってやるぞ』かあ」

 呟いて密やかに笑った。

――――あいつ、人に奢れるぐらいちゃんと稼ぎがあればいいけど。


 逆にこちらが差し入れを持っていくべきだろうかと、半分本気で考えながら筆を走らせた。




―――拝啓 宜和殿

 昼日中(ひるひなか)の日射しは未だ強くとも、朝に夕に秋の気配が次第に濃く思われ始めたこの頃。

 戴いた便りに壮健な様子を感じ、喜ばしく存ずる。

 様々な出来事を面白く読み、また顔を合わせる日を楽しみに、この文(したた)め候。

 貴殿が発たれて早半月、白鳴山は変わりなく―――




 さらさらと動かしていた手を止めた。

 家で習った手紙の書き方に従って書いているんだけど、これで良いんだろうか。


 因みに敬称は"殿"で合っている。

 天狗は実力で階級が決まるが、一応階級外の上下もあって、山に属している天狗とそれ以外では山天狗の方が大体は上だとか。

 宜和が協会内に幾つかあるらしい組織に属していたり、何か役目を負っていれば話は変わるらしいが、オレは長天狗の山の、しかも山の長の直弟子(じきでし)ということで、階級がなくても宜和よりは上になる。

 形式だけで実がないものだが、宜和に"様"と使うのは良くないそうだ。


 だからその辺は良いとしても、言葉が堅苦しいかもしれない。

 ご機嫌で便りを開いて、読み始めた途端目が虚ろになる宜和が目に浮かぶようだった。

 だって貰った文は完璧に口語で、書き出しなんか"久しぶりだな、三太郎 元気か"だ。砕けている。砕けすぎて初っ端から間違っている。三太()ではなく三太()なんだよな。


 ちょっと考えて、まるっと全部にまあ良いかと結論した。だって宜和だし。

 それより続きが問題だ。全然"変わりなく"なんかないのである。


 うろりと迷った筆先が、やがて動きを再開した。




―――白鳴山は変わりなく、ともいかず。

 長く山を離れていた兄弟子がご帰還なさり、賑やかに日々を送っております。

 兄弟子は次朗という名で、背が高く、派手で、声が大きくて―――




 少し文を崩しながら、つらつらと書いていく。

 ここまで書いてしまったのだから、まあ正直に書いてしまっても良いかと、オレはさらりと書き加えた。




―――ちょっと馬鹿です。






 衝撃的な初対面の次、二回目に次朗さんを見つけたのは、日課の木登りを終えて館に帰って来た庭先だった。

 次朗さんは、ちょっと身を屈めてこちらに背を向け、きょろきょろしていた。


「あれ、次朗さん…お疲れさまです」

 思わずそう言ってしまうぐらい、次朗さんはよれよれになっていた。ついでにげっそりして、げんなりして、しおしおだった。

 朝会ったときにはあんなにぴんぴんしていたのに、これではまるでついに捕まってこっぴどく怒られてげんなりしたいたずら坊主のよう…あれ?比喩になってないかも。


 そんなへろへろな次朗さんだったが、オレが話しかけると、びくっと身を震わせてこちらを向くと、ぱっと生気が戻って元気になった。

 瞬時に復活するとはすごい。


「ああ?三太朗か!おう!おれさまはまだまだ平気だぜ!!ほんとだぞ!!」

「あ、そうですか。良かったです」

 …見た目はしゃんとしたものの、返事のずれ具合で、頭の中はまだへろへろみたいだと察した。

 とりあえずにこにこ笑って頷いておく。


「こんなところで独りでどうしたんです?」

 きょろきょろしていたし、何か探し物だろうか。だとしたらお手伝いできるかもしれない。

 けれど、次朗さんは首を横に振った。


「あ?独りじゃねえよ。ほら挨拶しな」

 次朗さんがひょいと襟元からつまみ上げたモノを見て、オレは思わず歓声を上げた。

 それは、薄茶に緑が混じった、まるで苔が生えた木肌のような色をしたネズミだった。

 普通のネズミよりも耳が倍は大きく、そして三割増し毛皮がふっくらして、まるい大きな瞳が愛くるしい。


「こんにちは。初めまして。三太朗です」

 挨拶したら、次朗さんの手のひらに座ったネズミは、ちょこんと頭をさげた。挨拶してくれた!


「こいつは豪風(ごうふう)だ!豪、おれさまの後輩だ、可愛がってやんな!」

 思わずまじまじと小さな毛玉を見てしまう。

――――豪風…見た目に反して強そうな名前だ。


 豪風は、次朗さんに「ぢっ!」と鳴くと、見事な後ろ宙返りでオレの頭へ跳び移った。

「おおお!」

 オレは感動した。普通こんな小さい生き物は臆病で、捕まえなくては触ることはできない。なのに今、小さなもふもふが自分からオレに飛び乗って来たのである!!

 感動のあまり指を伸ばすと、驚かせないようにそうっと豪風の背中らしき毛皮を撫でた。柔らかい!(ジン)さんの毛皮より繊細で、(セキ)の羽毛よりしなやかな感じだ。陣さんと関の手触りもそれぞれ最高だけども!

 温かくて小さな生き物は、撫でられるまま大人しくしていて思わず口元が緩む。あ、指にすり寄ってきた!



 少年は気付かなかったが、次朗はそんな様子に面喰(めんくら)っていた。

 彼は、三太朗をちょっと驚かせてやろうと考えていた。

 小さいとはいえ獣がいきなり頭に飛んでくれば驚くと踏んだのだが、予想は大きく外れて弟弟子は驚くどころか至福の表情で豪風を撫でている。

 因みに怪我をさせるつもりも怖がらせるつもりも無かったので小さな豪風を使った。次朗なりの一応の気遣いだったが、気遣いが過ぎたようだと小さく唸った。

――――一筋縄じゃいかねえってか。なら次だ。


 最初は少しの思いつきだったが、いつの間にやら弟弟子を驚かせることは次朗の目的と化していた。

 そのときには、三太朗が帰ってくる前に考えていたことは綺麗さっぱり忘れていた。



「…あ、そうだ」

 次朗さんは何か思い付いたように、悪そうな顔でにやっとわらった。

 悪そうな顔が似合う方である。

 不意に、遥か上にある顔がぐうんと近づいてきて、オレは思わずちょっと身を引いた。


「おう、もう一人てめーに会わせてぇ野郎がいる!ちっと下がりな!!」

「え、あの…」

 オレは少し戸惑って口籠った。もう一人と言うが、他には誰もいないのだ。

「早くしろよ!」

「は、はいっ」


 またすごい巻き舌で威嚇されて黙る。やっぱこの方怖い。

 オレが下がると、次朗さんは肩幅に足を広げて立ち、手のひらを下に向けて、右腕を前へ真っ直ぐ伸ばした。


「我が声に応え、目覚めよ!」


 オレは思わず息を飲んだ。

 次朗さんの声と共に、手のひらの真下の地面に、複雑な記号を組み合わせた丸い紋様が展開し、青白い燐光を放ったのだ。

 師匠や先輩たちが時折宙に描く"術"と同じ色の光。だけど、こんなに大きくて複雑なのを書かずにぱっと出せるなんて思わなかった。


「彼方より()く来たりて(あまね)く天地を業火に染めろ!」


 高らかに上がった声はいつもと違う響きを帯び、その体からまるで陽炎のような揺らぎが立ち上る。


「獄炎の化身、炎将(えんしょう)ッ!!」


 光が爆発し、火炎が(ほとばし)る。同時に響いた音が獣のような咆哮だと気付いたとき、炎が逆巻き立ち上がり、爆散した!


「うわっ」

 千切れた炎の塊がオレを掠め、咄嗟に豪風を掴んで横へ跳んだ。

――――あっぶな!…ってあれ?熱くない。


 感じた違和感に首を傾げるのと同時に、吠え声が急に大きくなって耳朶を打つ。


「我が名は炎将!盟友雷将の敵を打ち砕き焼き尽くす者なりぃっ!!がーっはっはっは!」

 炎を弾き飛ばして姿を表したモノが高らかに名乗りを上げた。

 身の丈は長身の次朗さんよりなお高く、赤銅色の肌に黒い髪、二本の鋭い角が天を指す。

 その声は腹の底にびりびりと響くほど大きく、笑い声は山々に木霊した。


 頭に角がある人型の妖怪。つまりは鬼だ。

 急にド派手な登場を決めたのには驚いたが、それはそれとして、オレはとりもなおさずその得意げな顔を見上げてからぺこりとお辞儀した。

 初対面の挨拶は大事だ。


「こんにちは。初めまして炎将さん。三太朗と言います。これからどうぞ宜しくお願いします」

「え?あ、こりゃ丁寧にどうも」


 直後に、あれ?こんなはずじゃなかったのに、みたいな感じで首を捻った次朗さんと炎将さんの上に、黒々とした影がかかった。

 あっと思った瞬間には、冗談みたいな音を立ててふたりの頭に岩のような拳骨が落っこちていた。うわ、痛そう…。


「探させやがってガキ!!」

「げげぇっ、そうだったぁああ!」

「そうだったたあご挨拶だなこら!さてはやっぱり逃げ回ってやがったなぁあ!!」

 しゃがみ込んだふたりの背後から、体の芯が震えるようなどすの利いた声が降ってきた。


 炎将さんよりもさらに高みにあるのは、怒りの形相と見下ろしているせいでできた影の相乗効果で怖さ倍増した、師匠配下の鬼、弦造(げんぞう)さんだった。

 この怖さ、オレじゃなきゃびびってたね。激怒がオレに向いてないのが分かるから、オレはへっちゃらだけどね。


 怒れる鬼の鋭い眼光が、次朗さんの次に炎将さんを射抜いた。

「てめぇ!定七(さだしち)か!帰って来て親に挨拶もなしたあどういう了見だあ゛あ゛?…っ!(ぼん)!?」

 オレを見つけた鬼の目が見開かれる。でっかい方たちの中に混ざっていたから、直ぐに気づかなかったんだろうか。酷い。

 ともあれ落ち続けていた雷が一旦止んで、怖い顔がオレを認めて見る間に強張った。滲むのは焦りだ。

――――怒った顔でオレを怖がらせてしまったと思って焦ったのかも。そんなに気を使わなくて大丈夫なのに。


「こんにちは。弦造さん」

「…お、おう」

 いつも通りぺこりと挨拶すれば、弦造さんはちょっとほっとしたようだ。オレが怖がってないって分かってくれたかな。


「あの、息子さんですか?」

 炎将さ…定七さんを見て尋ねれば、弦造さんは大きく頷いた。

「ああ、不祥の(せがれ)で定七って言う。次朗が出てくのに知らん間についてって十年も…ってごるぁ!!」

 弦造さんがオレに気を取られている間にそうっと逃げ出そうとしていたふたりの肩を、巨大な手ががっしり捕まえた。


「ぐうっ…おい、雷将っ!なんてとこに喚び出してくれてんだこら!」

「てめーとおれさまは一蓮托生だ!一人で助かろうったってそうはいくかざまあ見やがれ!」

「あ゛あ゛!?ざけんな何が一蓮托生だ!てめえだけでやってろ馬鹿!!」

「なんだとてめーやんのかこぅぐふっ」


 ずごんっというような音と共に、またもや拳骨がふたつ振り下ろされた。

「喧嘩すんな馬鹿ども!いい加減観念しやがれ!」


 好奇心を満足させたオレは、後の騒ぎは興味が湧かなかったので、そうっと手を緩めて手の中のふわふわが無事かどうか確かめていた。

 蓋にしていた手を開くと、ぱっちりした黒い目と目が合った。怪我も無さそうで胸を撫で下ろしたときに、それは聞こえて来た。


 ずどどどどど。

 声に出して言ってみればそんな感じの音だ。気付いて数秒の内にどんどん大きくなっていく。

 これは普通に考えて音の元が近づいて来てるんじゃないか。音の方向は…背後!?


 気付いて振り向きかけると同時に何がが凄い速さで間近を通り過ぎる。反射的に飛んでったものを探して首を巡らせた。


 そして見つけた。

 それはそれは綺麗に両足を揃え、一直線に体を伸ばして…足から定七さんに突き刺さっているお(しの)さんを。


――――こんな秀逸な跳び蹴り見たことない。


 どっかーん、というような音がして、定七さんがぶっ飛んだ。

 えんしょおおー!という次朗さんの悲鳴を背景に、お篠さんがふわりと降り立つ。と同時に上半身の捻りが効いた左の拳が次朗さんの頬に抉り込まれた。

 ずっどーん、というような音がして、次朗さんがかっ飛んだ。


 問答無用で大柄な男ふたりを張り倒したとは思えない、華奢な指がびしっと定七さんに突きつけられた。

「十年もどこほっつき歩いてたんだいこの馬鹿息子が!何度帰るよう手紙を出したと思ってんだええ!?次朗もだよ!どんだけ大将が心配してたと思ってんだい!!よくまあ能天気な顔で帰って来れたもんだね!どんな神経してんのか疑っちまうよ!!それとあんた!」

「あ?おれか?」

 指が向けられて、弦造さんが怯む。

「そうだよ!あたしがあの子の声聞き付けて来るまでに何でとっ捕まえて帰ってこなかったんだい!時間はあったはずだろ!!こいつら直ぐ逃げるんだからさっさとふん縛って連れて来な!!」

「あー、えーっと…すまん」


 何か言い訳を探しかけて結局素直に降参した弦造さんに、勝利の鼻息をふんっとやり、ついにその鋭い眼差しが真っ直ぐこっちに向けられた。

 ひたすら空気になろうとしていたオレはびくっとした。目の中の未だ消えない苛立ちに、ぶっ飛ぶ覚悟を決めかけたそのとき、その目はふわっと緩んだ。


「三太朗、お帰り。今日も暑かったろ。風呂を使って来なよ」

「あ、はい。ただいまお篠さん。そうします」

「何だその扱いの違い!?」

 いつも通りの優しい声にほっとした。いつものお篠さんだ。外野の騒音は無視だ。

 豪風をそっとその場に置き、見捨てて行くオレへのふたつの怨嗟の声を聞きながら踵を返す。


「かーちゃんちょ、ちょっと待ってくれええ!」

「今までししょーに絞られてたんだから見逃してくれよぉお!!」

「とーちゃん後生だから!!」

「あぁああ!帰って来るんじゃなかったああ!!」

「黙りな、見苦しいよ!」


 玄関で振り向くと、ふたりは鬼夫婦に引き摺られていくところだった。

 連れて行かれる次朗さんの肩に登った豪風が、ちっちゃな前足を振ってくれた。






 今から思えば、吹っ飛んだふたりの心配をすべきだったかな。

 しかしまあ、怒られるのが嫌で逃げ回った挙げ句、派手な音を自分でたてて捕まったのは自業自得だし、そもそも逃げ回るのが悪いだろう。

 怒られるときには大人しくしおらしく怒られておく方が軽く済むということを学ばなかったのか。…それとも、鬼夫婦はそれだけ怖いのだろうか。悪いことした子は鬼が懲らしめに来るって本当だったのだろうか。


 適当に端折って顛末を書くべきかなと思ったけど、武士の情けで止めておいた。

 あの後逆恨みされたりしないかと心配したのだけど、そんなことはなく、次の日に会ったときにはけろっとしていたのに感心したので。

 ただ…恨まれたりはなくて良かったけど、違う意味で困ったんだよな。


 黒々とした墨の文字が新たに連なった。




―――そして、ちょっと鬱陶しいです。







次朗さんが吹っ飛んだ次の日、オレは師匠と相対していた。

 いつも通りの裏庭で、最早習慣になった朝の手合わせだ。


 蹴り、掌底、また蹴り。

 幾つかの組み立てを考えながら、今日は積極的に紐は狙いに行かないことに決めていた。

 それには理由がある。昨夜、約束通り紀伊さんと武蔵さんに秘策を授けてもらったのだ。

 秘すべき策ゆえ説明は割愛する。ただオレの戦略を見直さざるを得ない革新的なものだったと断言しよう。

 それだけではなく、先輩たちは助言を踏まえて戦略と手順を組み立てるのも、師匠攻略作戦会議をひらいて手助けしてくれて、いつでも相談を受け付けてくれるという万全の支援体制が整っていた。


 ただ、そうやって立てた戦略にはちょっと問題があって、今のオレには実行は難しく、色々と考えなくてはいけないことがあってまだ実行には至らない。

 だから、今日の手合せは幾つかのことを試しながら練習する場だ。焦りは禁物。確実に出来るようになってから挑む時間はある。


 そう思えるようになったのは、師匠の攻め手を前の防御を参考に受け流すのも大分慣れてきて、対処の度に重心がぶれることがなくなってきたこともあり、心に余裕が生まれてきていたからこそだろうか。


 師匠の蹴りを右へ流し、続く手刀を避け、次はオレの番だと、前へ進んで掌底を打つ。


「もらったぁあああ!!!」


 突如聞こえた声、強引に体が引かれる感覚。ぐっと腹が押されて息が一気に追い出された。

 鋭く視界が回転し、気付くとオレは苔生した地面を何度も転がっていた。

「おぶっ!?」

 何かにぶつかって止まる。閉じた目を開くと、舞い散る桜の真下にいた。どうやら桜の木の、盛り上がった根っこにぶつかって止まったらしい。


 どん、という音がして、地面が振動した。

「こら!邪魔するんじゃない」

 顔を上げるとそこには、顔から地面に突っ込んだ次朗さんと、次朗さんの腕を取って地に押さえ付けた師匠がいたのだった。



 そのときのことを順に説明するとこういうことだ。


 オレが掌底を打ち、それを師匠が受けたとき、師匠はオレの隙を見つけていて、もう反対の手はオレを捕まえようと死角で動いていた。

 そして、オレに意識を向けて両手が塞がった瞬間、次朗さんが師匠を背後から奇襲したのだ。

 それが角度的にオレを巻き込みかねなかったので、師匠は已む無くいつもの"両手でゆっくりふわっと投げ"ではなく"片手で素早く転がし投げ"に切り替えてオレを危険な場所から逃がし、同時に次朗さんを"鋭く叩きつけるお仕置き投げ"で地面に落とすという離れ業をやってのけた訳だ。

 背後から迫る気配を察知し、慌てることなく適切に対処する師匠はやっぱすごいや。

 しかし次朗さんは何がしたかったんだ?


「くっ…命冥加(みょうが)な」

「命狙ってたんですか?」

 おっといけない。気が緩んでいたから次朗さんの言葉につい反応してしまった…って次朗さん、なんでそんなきょとんとしてるんでしょうか。


 片腕を背中側に捻り上げながら背骨の辺りを踏むという、本気の確保の体勢で、師匠が呆れた溜息を吐いた。

「次朗…"命冥加"とは運よく命が助かったという意味だ。『覚えていろ』というような意味はないぞ」

「え?」

 困惑、驚き、羞恥。

 次朗さんの感情がどんどん移り変わって行くのが手に取るように分かった。どうやら次朗さんはちょっとかっこいい捨て台詞だと思っていて、意味まで深く考えていなかったらしい。


「も、勿論知ってましたよ!やだなーししょー…いてててて!」

「お前はまた、全く…。新しい言葉を覚えたなら意味まできちんと知っておけ。格好付けたつもりで間抜けを晒している」

「分かりましたからししょー捻らないであだだだだ!」

 師匠はさらっと次朗さんの悲鳴を無視して、オレを呼んだ。…良いのか?


「丁度良いから覚えておけ。このように押さえれば関節は動かなくなる」

「あ、はい」

 見ればなるほど、関節が反るような感じになっていて、これでは腕は曲げられない。

「でも師匠、腕は曲がらないけど、肩は動くのでは?どうして動けないんです?」

「コラ何冷静に質問してんだいででででで!!」

「それはな、腕を捻っているゆえ、このまま無理に動こうとすれば肩が外れるからだ。一度やってみると分かる。引き過ぎないようにしろ。存外簡単に外れる」

「え、はい」

「やってみるな!いたたたたた!!!お前実は怒っ…いだだだだだだ!!」


 こうして、その日の鍛錬はそのままお開きになった。


 折角の鍛錬を邪魔されたことに気を取られていたオレは、予想もつかなかった。

 次朗さんの邪魔がこれだけで終わらないことを。



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