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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
62/131

幕間 流れ行く先


 青い空が見える。白い雲が見える。

 緑の稲穂は、そろそろ重たげに首を垂れ始め、風にしゃらしゃらと涼やかな音を立てて揺れている。

 ほっかむりをした女がひとり、草刈りの道具を背負って、えっちらおっちらと畦道(あぜみち)を辿っていた。

 少し腰が曲がり、髪には白いものが混じる。手は長い間野良仕事をしてきた者らしく日に焼け、節くれ立ってしわだらけだが、足元はまだまだ達者だ。


 ぎらぎらした日射しを避けるように、俯き加減に黙々と、足元の影を踏むその歩みがふと止まり、風が鳴らす草鈴に誘われたように顔を上げて、自分たちの仕事の成果を満足そうに眺めた。


 曲がった腰を一度うーんと伸ばして、背中の籠を揺すり上げたそのとき、びくっと彼女の体が変に震えた。

 あっと思う間もなくその体が折れ曲がり、崩れ落ちる。


 忙しなく息をし、胸をかきむしり押し潰されたようなうめき声を洩らし、もがく内に手拭いが捲れて苦悶に歪む顔が露になった。


――――あのひとは。




衣織(いおり)ったら!」

 肩を揺すられて、衣織ははっと我に返った。

 少し仰向いた目に、煤けた梁と天井が映る。

「大丈夫かい?やっぱり奥で横になるかい?」

 どこか怯えたような声がして、何度か瞬いて目を下げると、村長の奥さんが気遣わしげに覗き込んでいた。


「…大丈夫」

 絞り出された返事に何事か自分の中で決着したのか、はたまた上部(うわべ)だけの問いだったのか。少し迷った後ではあったが、奥さんは結局衣織の元を離れて行った。


 目の前にあるのは、村長の家の座敷と、そこに並んだ種々様々な物、そして沢山の村人たちだ。

 座敷の戸は開け放たれていて、人々の間から、屋根の外も同じような喧騒があるのが見える。

 旅商人が立ち寄ったんだった、とふと思い出した。商人たちは通例通り、長の家に挨拶に来て引き留められ、ここで商品を広げた。

 前の騒ぎがあったから、今度は衣織も人の目があるところに連れてこられた。


 衣織は大人しいから大丈夫だろうという信頼と、季節が進むにつれて、以前に輪をかけて自分の中に閉じ籠って過ごしていることへの懸念がぶつかり合って、少し皆の間で揉めたようだが、不満たらたらの見張りを残して奥へ置いておくのと、他所の人に尋常ではない様子の娘を見られて不審がられるかもしれないのを比べ、後者を取ったのだ。


 当然だ、と思う。彼らには良い言い訳がある。

 丁度そう思っていたとき、商人が奥さんに声をかけるのが聞こえた。


「やあ、あの子はどうしたんだい?具合でも悪いのかね」

「いやね、そうではないんですよ」

 ここで奥さんは少し声を落とした。

「実は、あの子は今年、お山に上がるのが決まっていてね」

 お山に上がる。その意味するところを悟ったのか、商人ははっと目を見開いた。

「あの子は受け止めて心静かにしてるんです。今日はあたしらも、あの子の気が少しでも晴れるんじゃあないかと思って、表へ連れてきたんですよ。でもね、ぼんやりしてしまうのは無理ないことでしょうよ。そっとしといてやって下さいな」


 ちらりちらりと来る視線を、手元に目を落として受け流す。

 村の人たちは、衣織が贄に出されることを隠さなかった。それは、お山さまを祀っている集落はひとつではないからかもしれなかった。

 皆がやっていることだ、と思うのは安心するものなのだろう。彼らは後ろめたさを、他も同じ事をやっているのを理由にして和らげている。昔からやっていることだという理由をつけて、正しいことだと思って、あるいは思うふりをしている。

 だからこうして、他所の人にも特に隠さずに話す。正しいことなら隠す必要はないから。


 正しいとか、正しくないとかは衣織には分からないが、贄に取られるのがひとりだけじゃないと思っても、衣織はちっとも慰められたりはしなかった。

 衣織はもう何も思わなくなっていたから、慰められる必要なんかどこにもなかったが。


 少し疲れた気分になって、衣織はふうっと息を吐いた。

 どうしていつも通り、意識を溶かすみたいに、目の焦点をずらすみたいに、心を鈍くしていられなかったんだろう。


 随分久しぶりに目が覚めたような気がして、衣織は何度も瞬きをした。

 はっきり気が付いていても何も得なことは無い。分かりたく無いものまで分かってしまうんだから、何も感じないでぼんやりしている方が良いに決まっている。

 衣織に味方はいない。そんなことは今や分かりきっていたが、現実にふと立ち返る度、触れると痛む傷のように、どこかがひりひり痛くなって気分が冷たく暗く沈んでいくのだった。


 またぼんやりとした世界に閉じこもってしまおうと、そっと目を伏せたそのとき、さっき何かを見ていたような気がふっと湧いた。何だったか。


――――確か、ここに座っているときに呼ばれて…立ち上がろうとした拍子に白昼夢を見た…んだっけ。


 さわり。

 心に(さざなみ)が立つ。変な風に鼓動が跳ねた。

 衣織は胸を押さえて、いつも通り霞んで行こうとした意識を繋ぎ止めた。

――――私は何を見た?

 小さく眉の間にしわが寄った。


 確かたしか、酷く明るい空が見えた。日差しがさんさんと降り注ぐ田圃(たんぼ)が見えた。

 衣織はゆるゆると顔を仰向ける。

 当然そこには天井があって、輝くような夏空はどこにもなかった。広々とした田も、苦しみもがくおばさんも―――

 そこまでのろのろ考えて、衣織ははっと息を止めた。


「どうしたね。衣織や」

 間近で声がして、衣織は弾かれたように振り返った。

「まのさん…」


 衣織の脇で、しわだらけの顔を向けているのはひとりの老婆。この村で一番の年寄りの、まのだった。

「何か、あったけ?」

「…賑やかね」

 まだ整理がつかなくてそんなことを言えば、老婆の目がしわの中に沈んだ。―――どうやら、笑ったらしい。

「そんじゃろ、旅商(たびあきな)いは間が空いたけ、みんな浮かれおるよ。今日は浮かれすぎかもしれんが。まあ、あんなことがあったし、せんないがのう。ちと、衣織にはやかましかったか」


 あんなこと、というのは、突然お山さまが光ったことだとすぐ思い当たった。

――――光だけじゃなく、音もしたんだったかな。


 ぼやけた記憶を辿って、何日前のことだったかを思いだそうとしたが、果たせなかった。

 あれから何度か月が沈んだように思うから…一日以上前ではあるはずだけれど。


 時間は昼よりも少し前だったと思う。突然、何十何百もの太鼓を一度に鳴らしたような大きな音が響き渡った。

 慌てた様子で村長の家に駆け込んだ者が言い騒ぐのによると、お山さまが轟音を立てながら光ったのだという話だった。尾を引く光が突き刺さって、それが破裂したのだと言う者もいた。

 どちらにしろ、お山さまがお怒りなのではないか、何か悪いことの前兆なのではないかと、村人たちは怯えていた。

 それを忘れたくて、こうして行商を囲んでいつもより賑やかに騒いでいるのだろうか。


 お山さまが(ばち)を当てるようなことはした覚えがないし、この頃は夢を見ていないから、その出来事が悪いことの前兆なのかは衣織には分からなかった。


――――そう、夢だ。さっき見た夢。


 衣織は身震いをした。

 あれは、久々に見たが間違いない。悪い未来の夢だ。それも、人の顔がはっきり見えた。

 おかしなことに、前の山津波の夢のように、誰が誰だか見分けが付かないほど沢山の人に降り掛かる災禍の夢より、たった一人に起こる災いを見る方が恐ろしかった。

 自分の先がないことを知ってから、殆どのことがどうでも良くなったはずなのに、なぜかこれは知らないふりで忘れてしまうことが出来ない。


「…まのさん。今日は、お(たけ)さんは来てないの?」

 ついに、躊躇いながら気がかりを口に出した。

 お竹さん。言ってみると、曖昧だった印象が現実味を帯びた。夢に出てきたのは多分、お竹さんだろう。


「おや。確かに見とらんねえ。良いお日よりじゃけ、畑にでも出とるんじゃろうな」

 畑。日の照る田圃の(あぜ)

 繋がっていく夢と(うつつ)を断ち切りたくて、衣織は勢い込んで口を開きかけ―――けれど一度閉じた。


――――どう言えば良いの?夢で見たと言ったって、信じて貰える訳ないのに。


「どうしたね。お竹に何ぞ、用事かね」

 訝しげに問う老婆の顔を見たとき、やっと、言うべき話の筋道を思い付いて、衣織は急いで喋り始めた。


「用事、っていうほどのことじゃないの。…うちのお墓の面倒を見てくれてるお礼を言ってなくて。これだけ人が来てるなら、お竹さんも来てると思ったからついでに言おうと思ったの。でもいないのね。確かに良いお天気だけど、お店が出てる日に畑に出るなんて。もしかしてお店のこと知らなかったら気の毒だわ。こんな大きな行商滅多に来ないし、見逃したって後から気づいたらがっかりすると思うの。ねえまのさん。呼んできてあげた方が良いんじゃないかな」


 最後まで何とか言いきった。

 この頃黙ったまま過ごしてきたせいか、最後には喉ががらがらしてきていたけれど、言いたいことは全部言えたはずだ。

 これで誰かが様子を見に行ってくれれば良い。


 老婆は何故か少し顔を歪めて、袖で目元を擦った。

「そか、そか。衣織や、優しい子。自分が難儀なときにも、まだ人を思い遣ってくれるか…」


 衣織は驚いて、涙を浮かべたしわくちゃの顔を見た。

 布団はあるし、食事は何もしなくても出てくるし、掃除も洗濯も、その他の一切合切をしなくて良い生活は全然"難儀"じゃない。

 まのさんは何か間違えているのかしらとさえ思っている間に、老婆は人の間をちょろちょろしていた少年を呼び寄せた。


「なあに、大婆(おおばあ)ちゃん」

「よう来た、平助。悪いがね、ちと表へ出て、お竹を呼んできてくれんかえ」

「ええーっ」

 当然のように、少年は盛大にぶすくれた。

「おいら、今忙しいんだけど…」

「後生じゃ。今呼びに出てくれたら、明日(ばば)が草餅こさえてやろ。だから、行ってくれんかえ」

 平助は、老婆の顔をにらみながらむむぅっと唸った。どうやら一考に値する申し出だったようだ。

 迷って悩んで、ついには仕方なさそうに頷いた。

「…わかった」

「良い子じゃ。頼んだぞえ」

「絶対作ってよ!!」

 老婆は、早く済ませてしまおうとばかりに駆け足で去っていく少年を、顔をくしゃくしゃにして見送った。


 遊びたがりの子どもと、ご褒美をちらつかせて上手く手伝いをさせる老婆の、日常のやりとり。

 何か思い出したくないものが戻ってくるような気がして、衣織はかぶりを振って俯いた。


――――兎に角これで、私に出来ることは終わった。

 あの光景は今日じゃないかもしれないし、もしかしたらただの夢だったのかもしれない。

 だから、意味のないことをしたかもしれなかったが、少なくとも衣織の心を繋ぎ止めていた重石は消えた。

 これで元のように何も感じずに過ごせるようになるだろう。

 そっと安堵の溜息を吐いたとき、まのがくしゃりと笑い掛けた。


「さあ、これでお竹はじきに来るじゃろう。それまでの間、衣織や、ちと見て貰いたいものがある。来てくれんかえ」




 衣織は、まのに連れられて座敷を出た。

 出たと言っても、襖を一枚隔てた隣の部屋に来ただけだったが、人の気配が急に遠ざかったような気がした。


「やあ、お待ちしてましたよ」

 待っていたのは、人のよさそうな丸顔の商人と、沢山の布地だった。

 それと、村の奥さんたちが何人かいて、衣織を壁際の席へ連れていった。


「あの…これは?」

 衣織が随分戸惑って問えば、女たちは顔を見合わせた。何かを含むような間が空く。


「お前の(ころも)を作る布さね。衣織や」


 横へ来たまのが、暖かい手を衣織の膝に置いて、静かに言った。

「衣…?」

「そう、晴れ着だ。…お山さまに上がるとき、着るものじゃ」

 はっと身動(みじろ)いだ衣織を宥めるように、ぽんぽんと手が動く。


「お前は知らんかったか。お山に上がるのは、人の世を出て、神のものになると、そういうことじゃ。家を出て相手の家に入るように、お前はお山さまに嫁に行くのだよ。じゃけ、ここにあるのは花嫁衣装の布地じゃ」


 噛んで含めるようにゆっくりといわれた言葉は、衣織を(おのの)かせた。

「お嫁に行く…?」

 呆然と呟いた声は、震えていた。


 今までお山さまに上がるというのは衣織の終着点で、淡々と過ごした先に自然とやって来る突き当たりだった。

 なのに、嫁ぐだなんていうことなのだと言われて、震えるほど動揺していた。


 衣織にとっては、誰かの嫁になる、嫁ぐというのは…幸せになることと結び付いたものだった。

 その年頃の少女らしい思い込みはささやかな憧れで出来ていたゆえに、人生の終わりと嫁ぐことを重ねて捉えることをどうしても出来ないでいた。


「さあさ、とりあえず色と柄をご覧になって下さいな!そうすりゃ少しは気分が上がるってなもんでしょ」

 黙り込んだ衣織と、気遣わしげに傍に付いた老婆を見比べて、商人が明るい声で言った。

 あまりに無神経に思えて、衣織は少し眉をひそめて商人を見上げたが、彼は更に笑ってみせた。


「お嬢さん。どうにもこうにも暗い気分になることはあるもんですよ。にっちもさっちもいかんこともね。でもそんなときに暗い顔しててもね、気分が落ち込むばっかで物事が良くなった試しはないんですよ!どうにもならないんなら、それこそ落ち込んでるより明るい顔をしてるが勝ちってなもんだ。自棄糞(やけくそ)だろうと笑ってみりゃ、不思議と他の道が見つかったりするもんだしね!まま、騙されたと思ってうちの自慢の反物(たんもの)を手に取ってご覧なさいな」


 丸顔の中で小さく見える目は、口調に反して真っ直ぐに衣織を見返していた。

 なんとなく気不味くて視線を切って目を落としたら、手元に布が差し出された。


「この桃色の絹なんかはいかがかね!浜菊の縫い取りが可愛らしいでしょう。若い娘さんならこういう華やかなのが良いと思いますよ!」

 驚いた拍子に思わず受け取ると、よくお似合いだと褒められた。

「さあさ、こっちの赤いのは、大輪の牡丹と鶴だよ!こいつを纏やあ、お嬢さんも一人前の美女だ!赤い紅をさして小粋に決めりゃあ、もう大人の仲間入りだね!!」

 華やかな布地が広がって、隣に化粧道具もとんとんと並ぶのに、自然と目が流れた。

「ほうら、この竜胆(りんどう)色のはどうだい!こちらはちょいと大人しめな感じだが、ぼかしで見事に夜明けの空が描いてあるだろう?それに柄は桜だ!変わり種だがこういうのも綺麗だと思うよ!!」

 さらりとした手触りの布はつやつやした光沢があって、驚くほど軽かった。


 どんどん色とりどりの布が広げられていく。

 (くれない)(しゅ)若紫(わかむらさき)織部(おりべ)群青(ぐんじょう)菜花(なばな)(だいだい)

 商人の口にする色の名前は、良く知っているものから聞き覚えのないものまで様々だったが、衣織は柄と色を交えた語り口上を残らず聞いて、綺麗な布地を進められるままに次々と手に取った。

 いつしか周りの女たちも加わって、流れるような商人の話を聞きながら、あれこれと色鮮やかな布を見ていた。

 ふと気付けば、衣織も夢中になって手元の布を覗き込んでいたのだった。


 周りを見れば、奥さんたちはまるで娘に戻ったように頬を赤らめ、目をきらきらさせて楽しそうに歓声を上げている。

 その真ん中で衣織もまた、久しぶりに体の底が軽くなるみたいな、ふわふわした気分になっていた。


「良い顔になったじゃないかお嬢さん。こんな風に、綺麗な物を見ているのは楽しいだろう?」

 にこにこと商人が嬉しそうに話しかけたのに、ちょっと後ろめたさを感じながら小さく頷いた。

 最初から、楽しい気分になんかなりっこないと決めつけていたのを、なんとなく見通されていたような気がして恥ずかしかったのだ。


「そりゃあ良かった!さてどうだい?気に入ったのはあったかい?」

 改めて訊かれて、衣織は答えに詰まった。慌てて布の海を見渡せば、花嫁衣裳に相応しい華やかなものばかり。全部綺麗で、その中には衣織も着てみたいと思う物がいくつかあった。

 だけど、これで仕立てた衣を着て祭の夜に祠へ行くことを考えたら、なんだか違うような気がして衣織はちょっと口籠った。


「………白いのは、ないの?」

「え、白かい?」

 商人がきょとんとしたのに頷きながら、気分がすっと落ち着いた。


 そう、白が良い。

 やっぱり衣織は、どうしても華やかな晴れ着を纏う気にはなれなかった。

 それよりは、死装束みたいな、汚れのない白を身に着ける方が気分に合っているような気がしたのだった。


 商人が何を考えたのかは分からないけれど、彼はさほど間を置かずににこりと笑った。

「ああ、もちろんありますよ!とっときの白木綿(しらゆう)だ!白の絹糸で梅と鶴が刺してある縁起の良いものだよ!」

 出して貰った白い反物を手に取ると、他のを見ているよりしっくりくる気がした。


「ちょっと、折角の…晴れ着なんだから、もっと鮮やかな色のにしたらどう。ほら、明るい色の方がおめでたいだろう?」

 おばさん連中から声が上がった。振り向けば、彼女らは皆一様に不服そうな顔をしている。

 別に良いじゃない、と思いながらも結局衣織は、不承不承(ふしょうぶしょう)布地を膝の前に置いて項垂れた。


――――何がめでたいの。私が居なくなるのがそんなに嬉しい?


 そんな風に、思ったことを言えたらどんなにか良いだろう。

 言ったとしても、今さら変わることはない上、場の空気が一瞬で悪くなることは分かりきっていた。

 いっそ言ってやろうかとも思ったが、残りの日の全部をぎすぎすした雰囲気の中で過ごすだろうと思えば何も言えなくなってしまう。

 そうして、浮かれた気分が残らず消えてしまった途端、この高そうな布の代金を払うのは衣織じゃないことにも気がついて、寒々しい気持ちになった。我が儘なんか、言える訳がなかった。


「いえいえ、奥さんがた。白い花嫁衣装はとても縁起が良いんですよ!」

 明るい声がして、衣織は驚いて顔をあげた。


「ここらじゃあ、嫁入りの晴れ着は華やかなのを着るって聞いてたもんで、白は箱から出してなかったんですがね。なんと、色んなところを回ってみりゃ、白い衣装でお嫁に行く土地の方が多いんですよこれが!」

 商人はちらりと衣織に目配せをした。

「白い衣はね、"まだ何色にも染まっていません"という意味がありましてねえ。"貴方の色に染まります"ってな心を込めて白を選ぶ娘さんが多いんだそうですよ!面と向かって言えない言葉を衣装に込めるなんて、いやあ小洒落てるよねえ!!」


 衣織はきょとんと商人を見上げた。


――――染まる?何が?着物が?


 まじまじと白の布を見る。

 この布で作った衣装を着て嫁に行けば、勝手に違う色に変わるんだろうか。


――――きっと、嫁いでいった最初の夜が明けて、干した衣装を仕舞おうとしたら色が変わってるんだ。世の中にはすごい布があるのね。


 衣織は感心半分に少し残念に思った。輝くような白色が無くなってしまうのがちょっと惜しかったのだ。

 ただ、今の説明で奥さんたちはころっと態度を変えていた。

 うっとりと白い反物を見るようになっていたのだ。どうやら、白い衣装の謂れはおばさんたちの乙女心を擽るもののようなのだった。


「そう…でも、折角の晴れ着だからねぇ…」

 心が揺れているのが手に取るようにわかる様子で、おばさんたちは顔を見合わせた。


「いい加減にせいよ」

 (しわが)れた声が割り込んだ。

「自分が着るのでなし、衣織が欲しいのが一番に決まっとろ。好きにさしておあげ」

「それにね、白い衣は嫁いでから好きな色に染め直して仕立て直し出来るんですよ」

 疑問でいっぱいの衣織に、商人が取り繕うみたいにして言った。

「上等の布ですからね、肌触りも柔らかいし丈夫なんで、言っちゃあなんだがとても良い品だ。気に入ると思いますよ」

 見回すと、おばさん連中は、まのに言われて我に返ったのか、自分の気に入った布地をさりげなく手放したり、衣織を横目で見て意味ありげに笑ったりしていた。


――――他の布で、ぴったりに思うものはないし…。

 思い通りになったというのに、言い訳みたいなことを心で呟きながら、なんだか釈然としないまま、衣織は白い布を選んだ。




 表でばたばたと、騒々しい足音が重なる。

 口々に娘時代の思い出や、嫁いだときの昔話を語っていたおばさんたちは、櫛や紅を選ぶ手を止めて顔を上げた。

 すっかり疲れて、布以外の細々したものを選ぶのを丸投げして壁際で休んでいた衣織もまた、人が走り回る足音と、続いて聞こえてきた悲鳴のような大声に気付いてのろのろと襖を見た。暗い予感があった。


――――ああ、来た。

「大変だ!!」

 襖が開いて、村の若衆が飛び込んできた。

「竹さんが田圃で倒れとった!」

 騒めく室内。開いた襖の外から、必死な声と走り回る足音が入って来る。


 品物が寄せられ、出来た隙間に野良着の女が寝かされたのが見えた。――――お竹さん。

 まのが急いでそちらに向かうのを、衣織は雲を踏むような心地でよたよた付いていった。


「お竹が!?なんで!」

「分からん!!運んできたとこじゃ!」


 見下ろしたお竹は、恐ろしいほど歪んだ顔をしていた。

 何も見ていない目を半分開けて、ひっひっと聞いたことのない息を繰り返している。

 息の度に体がびくりびくりと、瀕死の魚のように動いた。

「お竹さん…?」


「湯を沸かしといで!衣織、奥へ…衣織を奥へ連れといで!柱に穢れがついたらことじゃ!!」

 いつものまるいお(ばば)からは想像も付かない強い声が、ざわざわと濁った空気を裂いた。

 ああ、と衣織は呟いた。

――――もしかしてただの夢かもしれないと思ったのに。あの山津波の夢が外れてから見なくなってたから、もう見えなくなったのかもしれないと思ってたのに。


「何かの(やまい)か」

「分からん。だが朝には元気だった」

「苦しそうな顔しおった」

「よもや、お山さまの祟りでは」

「もしや伝染(うつ)る病では」

「伝染ったらことじゃ、子どもらは家に帰して」

「まさか行商が持ってきたんじゃ…」

「やつらは何処を回ってここに来た」

輪才羽(わさいば)?あすこは何年か前に流行り病が…」


 呆然と連れ出されながら、密やかな声を耳が拾った。

 恐れに満ちた囁き。得体の知れない凶事に、憶測とも呼べない想像が飛び交う。(わざわ)いの正体を求める意識が自然と余所者へ向くのが分かってしまって、衣織は震えながら目を閉じた。


 あのときに似ていると思った。

 雨の中押し寄せた村人たちが、衣織を人柱に立てると言ったあのとき。

 雨を止めるためだと真剣な顔で衣織を捕まえた。確かなことは何ひとつないのに"そういうこと"にして納得してしまった空気。

 彼らはどうなるのだろう、と考える。

 衣織のように、とんでもないことになってしまうような気がして怖くて仕方がなかった。

 衣織はぎゅっと目を瞑って、瞼の裏の暗闇の中で、全部が過ぎてしまうのを祈った。




「病人かぁああ!!」


 突如響いた大声が、衣織の目を開かせた。

 足音高く駆け込んできた人が履物を放り投げて座敷に滑り込むと、驚いて動きを止めた人たちを押しのけて、お竹さんを見るや否や叫んだ。


「こりゃあかん!湯!それと飲める水持ってきて!あと塩や!!」

「あ、あんた!一体何を!?」

「じゃかあしい文句はこの人が助かってから言え!!」


 衣織は、いやその場の者たちは残らず目を剥いた。

 その人は、いきなりお竹さんに馬乗りになると、ぐいぐい胸の真ん中を押し始めたのだ。触るとかそんなものじゃなくすごい力で、押す度に信じられないくらい胸が凹む。 


市邨(いちむら)さんうちの薬箱取って!それやそれ!!」

「こ、これですね!」

 その人は運ばれてきた湯をひったくって大声を上げた。応じた商人が差し出した抽斗(ひきだし)がたくさんついた箱から、素早くいくつかの薬包を選び出すと、懐から出した薬匙で湯に量り入れて掻き回し、同じく懐から出てきた小さな吸い飲みでお竹さんの口に流し入れる。


「お竹が!」

 驚きの声が上がる。見ればあの妙な息は収まっていた。息が止まっているのかと思ったが、よく目を凝らせば口の辺りが小刻みに動くのを見つけた。―――生きてる…!!

「塩と水はまだか!?()よして!!」

 鋭い声が安堵に緩みかけた村人たちを叱咤する。慌てて誰かが走り去る音がした。


 その段になって初めて、衣織はその奇妙な人物をまじまじと見た。あの頭に巻いた変な布は何だろう。まるで良く熟れた烏瓜(からすうり)みたいな色の髪に、それに…何でも出てくるすごい懐。


「あ、あの、お竹はなんで…それにあんた、何もんじゃ…」

 恐る恐る問われた声にも、また懐から出した小さな擂鉢(すりばち)で何かを手早く()いていた手は止まらなかった。

「うちは薬屋や!あの病気は前見たことあるけどうつるもんやないから心配せんでええ。でもまだ油断はできひん!助けたかったら言う通りしてや!!」

「助かるんか…」

 今度は顔を青くして震えはじめたお竹さんを見て、怯えたように村人が呟く。薬屋は初めて手を止めてそちらを振り返った。

「助けるんや!!」


 遠くまで通ったその声に、村人たちはひとつになって動き始めた。










 夜、衣織が寝起きする部屋に、一人の人が訪ねてきて、衣織はびっくりした。

「あなたは…」

「毎度どうも。薬屋ですー」

 薬屋はへらっと笑ったが、直ぐにちょっと首を捻った。

「いや、ちゃうな、初めまして。薬屋の木場(きば)です。よろしゅう」


 木場と名乗った薬屋の背後を見た衣織は、少し安心した。戸が開いていて、そこから見える廊下の突き当たりに、知っているおばさんが見えたのだ。

 村人たちは衣織の扱いに神経質になっていて、知らない人と二人にしておくことは有り得ないから当たり前だったが、よく分からない人と一緒に居るのは怖かったので心強かった。

 落ち着くと、衣織は感心した。普通は知らない人に会わせるなんて許さないはずだから、木場が衣織に会いに来れるほど村人の信用を勝ち得たということになる。

 奇跡のように、誰がどう見ても死にかけている人を助けて見せたのだから、無理もないかもしれない。


「何か、用ですか」

 木場は、緊張した少女にへらっと笑い掛けた。

「いやね、お姉ちゃんのこと聞きましてな、気苦労も多いやろし薬を差し入れに来ましてん…大変なこっちゃな。嫌やろ、人柱になるんは」

 最後の言葉でふっと声が潜められて、衣織ははっと木場を見上げた。相変わらず歯を見せて笑っているが、その声は真摯に聞こえた。


「…理不尽やとわかっとるけどな、勘忍や。うちは余所もんで、止めるんは無理や。けどな…連れて逃げるんは出来るで」

 衣織は今度こそ固まった。

「なんっ…なんで」

 なんでそこまでしようとするのか。見ず知らずの小娘ひとり、放っておくのが普通だ。現に、あの人のよさそうな商人もそうしたではないか。


「とっときの薬やで!都のお大臣も愛用してる良いもんや!…そりゃ、間違ってると思うからや」

 前半は大きく、後半はやっと聞き取れる程度に小さくという妙な口調で語られたことに衣織は息が止まりかけるほど驚いた。慌てて廊下を窺うが、潜めた声はおばさんには聞こえていないみたいだった。


 衣織の小さな世界の中には、衣織がお山に上がるのは正しいと言う人ばかりだった。木場はそこに入ってきた異分子だった。

 驚きで呆然とした衣織は、次の言葉で更に目を大きく見開いた。

「この村の神さんはそりゃ、災害を鎮めてくれるかもしれへんけどな、その代わり女の子ひとり差し出せ言うんやったらそら邪神や。ろくなもんとちゃう。だから、大人しく一人で犠牲になるこたないんやで」


 その声は優しかった。その声は強かった。

 どこか歪んだこの村の"当たり前"の中に入ってきてなお、しゃんと背筋を伸ばして正しさを貫こうとしている気高さがあると思った。

 衣織はそっと肩から力を抜いた。


「ううん。いい。私はお山に上がります」


 村の人は正しくない。木場は正しい。それならそれで良い。だけどそれが何なのか。

 何がどうでも同じように、衣織が衣織であり続けるのなら、衣織はそれを願うのだ。


 望みはしない。好きでそうするのでもない。だが、神が衣織を受け入れて、終わらせてくれるのを願うのだ。


「そうか…」

 木場はそれ以上、一緒に逃げようとは言わなかった。代わりに懐から出された巾着袋がひとつ、畳にそっと置かれた。

「これは…?」

 巾着には、見たことのない文様がひとつだけ縫ってあった。

 丸の中にいくつも直線を引いた、不思議な模様だ。

「良く眠れるようになる薬でっせ!…袋の模様は、故郷の幸運の(まじな)いや。中身は、猛烈に眠くなって、体の力が残らず抜けて、寝てる内に死んでしまう薬や」


 伸ばしかけた手を、熱いものに触れたようにさっと引っ込めた。目の前の奇妙な人物が、得体のしれない恐ろしいもののように思えて、手が震えた。

 木場は初めて笑みを消し、しかし愛想の良い声で一度に一包み、寝る前に水で飲んでや!と言った。

「あんたがそう言うなら、こっちはなんも言われへん。けどな…せめて最期は、苦しまんとって欲しいねん」


 衣織は冷や水を掛けられたように身を震わせた。

 命の終わり。衣織が終わる。そう思っていた。だけど―――


 昼間のお竹の顔がちらつく。苦しみに歪んだ顔。泡を吹く口元。何かを掴もうとするように曲がった指。


―――だけど、そんなにすんなり、終わるのか。死ぬとは苦しいことなのではなかったか。怖いものだったのではなかったのだろうか。


 当たり前のことに今になって気付く。いや、最初は分かっていた。ただ、今まで都合よく忘れていたのだ。

 今すぐ走り出したいように思うと同時に、大声で笑いたいような気がした。

 終わりを受け入れながら、苦しむのが怖い自分が滑稽だった。

 だが、衣織の鈍くなった心は、直ぐに波立つのをやめる。元から知っていたことだった。他人に言われてもう一度思い出してしまったけれど、目を逸らしていはしたが、確かに衣織がどこかで分かっていたことだ。

 そう気付けば、もう平気な気がした。―――だから、手が震えるのも、目が薬に釘づけなのも気のせいだ。…気のせいなんだったら。


「飲み過ぎはあかんで!その辺気い付けてや!…もし何やったら、神にこの薬を盛るのもええ」

 新たに差し出された言葉に、また衣織はびくりと身を震わせた。


「…飲ませるのが一番ええ。けどな、そのまま相手にかけても、それなりに効果はある。撒き散らしたのを吸わせても充分や。神にどこまで通じるんかはわからんけど、酒に酔う神もいるっちゅう話やし、効くと思う」

 何も言えずに見上げた顔は、真っ直ぐこっちを向いていた。

「使い方は自由や。…けどな、もっと生きたいと思えたらそのときは、今の話を思い出して欲しいねん」


 木場さん、そろそろ。はいはい。そんでは夜分失礼しました。

 廊下から掛かった声に木場が応じて立ち去っても、衣織はじっと薬の巾着から目を離せないでいた。






























『さて、仕込みはこんなもんかな』

 案内の女について歩きながら、薬屋は小さな声で呟いた。

『どう転ぶか』


 脳裏には、生き延びる可能性を渡されて揺れ動く、ひとりの少女。

 平静なふり(・・)をしている、死を恐れる生贄の娘。


 木場の口元が、にいっと笑った。


木場さんの懐は四●元ポ●ット。

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