五十三 流れ着く者
白い雲がもこもこと浮かぶ空の下、なだらかな野の道を旅人の一団が進んでいく。
牛に牽かせた大八車には、掛けられた筵の隙間から、山と積まれた荷物が覗く。
荷を背負った旅姿の人影が十人足らず周りを歩き、その前後と隊列の中程に数人ずつ、合計でやはり十人程、籠手や脛当てを付けて槍や刀を持った武者たちが、油断無い面構えで守っていた。
何れも旅なれた風情で、その顔には見知った仲間同士でいる気安さと共に、山野を行く意味を知る者特有の軽い緊張があった。
方々で仕入れた品物を運んでは先々で売り歩く、旅商人の一団である。
東領に数多く居る商人たちの中でも、荷物の量といい、護衛の数といい、彼らは中々羽振りが良い方であるらしい。
旅を常とする商人たちは、仕入れに金がかかるのは勿論だが、店持ちの商人と比べ、旅費やら護衛を雇うのにも金が多く要る。したがって、できるだけ多くの荷を持とうとして、食費を削って粗食になる者が多く居たが、そういう者たち特有のどこかやつれた雰囲気が、この一行の面々にはない。食い扶持を減らす必要がないほどの蓄えがあるのだ。
普通、そういう者たちは野盗強盗の格好の餌食であるものだが、護りについている男たちの油断無い身のこなしと、明らかに修練を積んだ陣形を見れば、ならず者たちは企みを捨てざるを得ず、彼らは順調な旅路を辿っていた。
大きな丘をひとつ越え、ふたつめももう越えようかという頃、一行の先頭を進んでいた目付きの鋭い男が、中ほどの集団へ引き返してきた。
それが護衛の隊を率いる男であることに気がついて、隊商の頭取が隣の人物との話を切り上げて声をかけた。
「岩動さん、どうしたね。何事かあったかね」
岩動と呼ばれた武者は、恰幅の良い商人のにわかに緊張を浮かべた顔を前にして、安心させるように微かに眼差しを緩めた。
「いや、もうすぐ着くと、それだけだ。あの丘を登れば次の村が見える」
「おや、そいつは良かった!そろそろだとは思っちゃいたが、いよいよ無事に着けるとなるとほっとするね。ありがとうよ岩動さん。引き続き、あとちょっとよろしく頼むよ」
一転して満面に笑みを浮かべた商人に軽く頷いて、岩動は足早に先頭へと戻っていった。
その後ろ姿が遠ざかってから、ほらね、と得意げにまた隣の者に話しかけた。
「もうそろそろ着くんじゃないかと言ったでしょう?まあ、正直に言うとあんたたちお客さんが居るときに野宿になっちゃしないかと、ほんの少し心配になり始めたところだったんだよ。いやあ良かった良かった!」
言葉を受けて笑みを浮かべたのは、奇妙な人物だった。
さほど背が高い訳でもないのに、ひょろりとした印象を与える痩身に、よく日に焼けた肌をして、赤茶色の野袴と黄色の羽織を身につけ、細い体に見合わない大きな背負い箱を運んでいる。
頭にはこれまた変わったことに、黄色い幅広の帯を目の上にまで巻き付けている。凹凸のない体型と、目元が影になって見えないせいで、男だか女だか判断がつかない。そして帯からはみ出てあっちこっち飛び跳ねる髪は、夕日よりもなお赤い、燃えるような緋色をしていた。
ただ、大きな口から乱杭歯を見せてにっかり笑っているのを見れば、これだけ得体が知れない要素が揃っていても、不思議と人懐こく見えた。
「えらい気い使てもろておおきに。この辺はうちら初めてですよって、ほんまに一緒させてもろて助かりますわあ」
飛び出した言葉もまた、東領では聞かない訛りの強い早口だったが、商人は気にした風もなく笑って言った。
「いやいや、助かってるのはうちの方だよ。薬は何処へ行っても売れ筋だからね。木場さんが薬を広げてる横でうちの品物を並べりゃ、薬を買いに来たお客さんもついでに見てってくれるってなもんで!それに、うちらはこの辺に来るのは初めてじゃあないですがね、道やら事情に詳しいのは用心棒のあんちゃんたちの方さね。腕は立つし道には詳しい上に、そこらの荒くれ者と違って礼儀も正しいと来たもんだ!薬屋さんたちと同道できて、護衛に恵まれて、おまけにお天気も良い。いやあ今回の旅はついてる!」
商売で鍛えられた滑らかな口上に、近くを守っていた護衛の若者が少し照れたように頬を掻く。
言葉に反応したのは、彼一人だけではなかった。声が届いたほぼすべての者が、人好きのする丸顔をちらりと見て笑みを浮かべていた。
彼の旅が"ついてる"のはいつものことであり、それが商人自身の商品を選ぶ目や、旅の仲間や護衛を選ぶときの人を見る目の鋭さと、道中を和やかにする人柄の良さから来るものだと皆分かっていた。それを言ったところで、また『いやいや』と言って仲間を立てるに決まっているのを知っているからこその笑みだった。
木場も益々笑みを深くして、軽く首を横に振った。
「市邨さんの品物はちょっと見せてもろただけでも分かるぐらい質がええもんばっかりですやん。値段も他よりずっと安いし、うちが居らんでも売り上げは変わりませんやろ。お世話になりっぱなしで心苦しいわ。ほんまにうちらみたいな余所もんを一緒させてくれてありがとうございます」
なあ、と言いながら、体の陰で腕を曲げて横へ思い切り振り抜いた。
鋭い肘鉄が食い込んだのは、今まで一言も発すことなく黙々と歩いていた、熊のように大柄な男の腹だった。
ぐっと喉の奥を鳴らして木場をにらんだこの男もまた、風変わりな人物である。
その巨体は筋骨逞しく、腕など子供の胴ほどもある。その身を黒の羽織で包み、筒袴を穿いて、武人のように革の脛当てを着けている。黒の剛毛がごわごわしている頭には手拭いを被っているのだが、何故かその手拭いはあねさんかぶりになっていて、色白ながらも強面の大男に実に珍妙な印象を添えていた。
ついでにその目の色も他では見ない鈍い黄緑色だったりするのだが、そこはあまり目立ってはいなかった。
その大男は、じろりと木場を見下ろした後、市邨を見て浅く顎を引いた。
「アリ、ガト」
たどたどしい感謝の言葉を受け、商人はにっこり笑って、心もちゆっくり言った。
「いやいや、世布さん、どういたしまして。わたしも、ご一緒できて嬉しいですよ。あ、さあさあお二人さん、あたしゃあんまり道には詳しくないが、この辺は何回か通ってるんだよ。次の村が見えるってことは…おお!見えた!ほら御覧なさいな!!」
丘を登りきったところで、市邨は得意満面に客人たちに前方を指し示して、二人が思わず立ち止まって目を奪われたのを満足げに眺めた。
なだらかな下りの道は夏草を割って白く輝き、その先に広がるのは青々とした見事な稲田の海だった。風にそよぐ緑の向こうには輝くような白壁の家が建ち並び、夏の光にきらきらと煌めく豊かな川を背後に置いて、いかにも平和そうに人々が仕事をしているのが一望できた。
さらに遠く、川の向こうは林が山々へと繋がり、澄んだ青い空にこんもりと緑がせり上がって、真っ白な雲が青と緑をいっそう際立たせていた。
緑と青と白で出来たその景色は、思わずため息が出る程明るい美しさを帯びて広がっていた。
しかし、木場はその光景の中で一点に目が釘付けになった。山々の合間に遠く、だがひと際目を惹くその山は―――
「あれは…」
「見事なもんでしょう。ここからの景色は。ほら、あそこにある川で取れる貝で作った漆喰は、他のより白いんですよ。だからここらの家はあんな綺麗な白色って訳でね。うん?やあ、あんなに小さく見えるのにあの山に目が行くとはお目が高い!今日は天気も良いし綺麗に見えているねぇ!あれが、白鳴山だよ!地元のもんは『お山さま』って呼んでお祀りしてる聖なるお山だ。それも尤もな眺めだと思わないかね?白い霧がきらきらしてさ、綺麗だねえ!」
「せやな…ほんまに。あれが―――白鳴山」
目を離さないまま呟いた木場は、ほう、と息を吐いて市邨に向き直った。
「いやあ、ほんま見事な眺めですわ!そんで市邨さん。あそこがこれから行くとこですやんな?したらもう迷わなさそうやし、ここらでうちらはちょっと用足してから行きますよってに、先行ってくれませんやろか」
市邨はちょっと目をぱちぱちさせたが、やがて声を上げて笑った。
「あっはっは!うんうん、確かに、景色が良いところは解放感って言うんですかね、違うからねえ!分かりました、先に行って宿と商いの場所を確保しときますね!」
木場と世布は道の脇に寄って、歩いていく商隊の面々を会釈しながらやり過ごした。
最後尾の護衛が、あまり遅くならないようにと忠告して通り過ぎると、二人は顔を上げてもう一度遥か遠くを眺めた。
「…やっと着いたで。まったく見当違いの方向に行ってたもんやなあ」
思い切り伸びをした木場を、世布が睨み下ろした。
『もう現地民はいない。言葉を変えろ。聞きづらくてかなわん』
不機嫌そうな男に、骨っぽい指が左右に振られた。
「甘い、甘いで。ゼフさん。言語習得の肝は会話に有り!苦手やからって黙ったまんまやったらいつまで経っても喋られへんやろ。うちとだけやったら恥ずかしないし、練習がてら馴れてったらええやん」
『…必要ない。不自由なく通じる言葉があるのになぜ不便な想いをせねばならん』
「必要ない?知ってるでえ。ゼフさんがこっちの言葉を半分ぐらい聞き取れてないってなあ」
あねさんかぶりの手拭いを見て、木場はにやにやした。これをやったのは木場で、そのときに一通りの説明はしたのである。こちらの言葉で、だったが。
胡乱な目を向けたが、結局大男はふんと鼻を鳴らして話を打ち切った。
『つべこべ言わずさっさとしろ』
「あーこわ。そない睨まんかてええやん」
やれやれと苦笑いした木場が、耳元の髪を掻き上げると、そこには赤い石がついた耳飾りが揺れていた。
「あーもしもし?もしもーし……あれ?」
『なんだ?』
木場は耳に手をやって首を傾げた。
「おかしいなぁ、姐さんに繋がれへん…」
『…だから、言葉を変えろ』
聞き取れなかった世布の眉間にしわが寄る。だが、木場は目の前の相手をさらっと無視して手をぽんと打った。
「しゃーない。春馬さんに報告しよ」
『おい、聞け』
「もしもーし、春馬の旦那ですかいな?木場ですー。ご無沙汰しとります」
怒りの形相が凄いことになったが、話が始まったので引き結ばれた口は再び開かれることはなかった。ただ、殆ど殺気に近い剣呑な光が目に宿り、喉首を捻り潰したいと言わんばかりに、大きな手指が鉤爪の形に曲がって震えている。しかしその脅しはしれっと無視された。
「いやね、例の山が見えてきましてん。せやから姐さんに連絡しよかと思ったんやけど通信が繋がらんのでどうしたもんかなと…え、ああ、いや大変でしたわぁ。聞いてくれはります?うちら報せ貰うまで南の街道をずーっと進んでしまってて、ここまで来るんにえらい時間かかりましてん。まあ手掛かり求めてあっちこっち行ったのもあって遅れてしもたってのもあるんやけど。でもその分の働きは期待してもらいましょか。何しろええもんいっぱい仕入れて来たんで、取れる手はそら沢山…え?はい……は?なんやてぇえ!?」
『おい、どうした』
突然の素っ頓狂な大声に、流石に我慢できなくなった世布が声を掛けた。
木場はもう意地悪をしている場合ではないとばかりに世布に分かる言葉に切り替える。
『つい数日前に、次祭は…あの山の魔物にやられて依体を失い、首都で療養中だそうです…』
『は…?首都ぉお!?』
二人は後ろを振り向いた。
背後には、今まで旅してきた道が長く長く伸びている…辿って行けば、ふた月ほど前に通り過ぎた東都にも通じる道が。
『つまり…無駄足だったってことか!!ふざけんな!!』
『せっかくここまで来たのに…しかし優先したいことは他にあるし、ひとまず首都に…ん?』
恨みがましく白鳴山をじと目で見遣ったその先で、白い線が長く伸びていくのを見つけて、木場は目を凝らした。
『なんだ、あれ』
青い空に引かれて行くその線は、一瞬何なのか分からなかったが、後ろの方がふわりと解けるように乱れて溶けているのに気が付いて、それが細く伸びた雲だと直感する。
こんなことがあるものかと木場は瞠目した。雲とは、今もそこここに浮かぶもののように、ふわふわと柔らかそうに湧き上がって塊になるもののはずだ。断じて鋭く、急に、一直線に伸びていくものではないはずだ。
その奇妙な雲は常識を知らぬ気に、山々の上を水平に、すさまじい勢いで伸び、そして、ふたつの視線のまんなかで、真っ直ぐ白鳴山に突き刺さった。
途端、眩い光が迸った。
衝突した一点から発された光は、あっという間に山全体に行き渡り、これだけ離れていてさえ目がくらむ程の強さで輝き―――唐突に消えた。
唖然として固まった二人の耳に、落雷のような音が届くまで、少し時間がかかった。
「……春馬さん。なんか…山に落ちたで。なんやおもろそうやからこっちでこのまま動くわ。また連絡するさかい一旦切ります」