五十二 再会の約束 下
どこかでカラスが鳴いている。
伸び上がった入道雲は茜色に染まり、熱い日差しは黄色を帯びた。光は明日に力を残さないとでも言うように鋭く横様に注いで、下天のすべての影を引き伸ばしている。
黒々と濃い影の中で日が傾くと共に感じるようになった夕風を受けながら、叫び倒してかいた汗がじわじわ乾いていくのをぼんやりと感じていた。
胸の内のもやもやを意味のないただの音にして無我夢中で吐き出し続けている間は、力は尽きないように感じていたけれど、ふと気付いたときには、力の抜けきった重い体で枝の上で足をぶらつかせている自分がいた。
心の中は色んなものがぐちゃぐちゃに混じりあって煮えていた。叫びまくってもあんまり吐き出せた気はしないけど、ごった煮はようやく冷めてきて、やっと黙ったまま抱えていられるようになった。
でもまだ誰かといつもの顔で話せるようにはとても思えなくて、もうそろそろ木から降りるべきだけど、木の根本の陣さんが何も言わないのを良いことに、疲れたことを言い訳にして居座り続けていた。
ふと目の端にある雲が気になって視線を合わせる。立派な入道雲は、底がぼやけていた。
「…雨か。そういや前の雨から十日経つな…」
雨かな、明日。そんなどうでも良いことを呟きながら、なんとなく左手首の組紐の腕輪を弄る。そこに下がった数珠玉を指で探れば、少し心が慰められる気がした。
「三太朗ー!」
「うぉあ!?っっぶな!!」
思いがけない方向から声が聞こえて、危うく木から落っこちかけた。夏だと言うのにひやっと汗が引く。
「し、しっかり掴まっていろ!お前は飛べぬのだから落ちたら危ないだろう!」
顔を上げると、血相変えて飛んで来る宜和がわめいていた。
「宜和…腕…?」
言い返そうと思っていたのに、口から出てきたのは全く違う言葉だった。
枝と同じ高さを滑るように飛んで来た宜和は隣の枝にとまると、折れていたはずの左腕を真っ直ぐ突き上げて嬉しそうに笑った。
「そう!この通り治ったのだ!戴いた薬のお蔭でな!良い薬なのは確かだがまあ、あれはもう出来れば飲みたくはないが」
「そっか、治って良かっ…」
包帯の白がなくなった腕をさすって身震いした宜和に笑い掛けたら、変な風に頬がひきつってしまって思わず俯く。
「三太朗?」
「…ごめん、なんでもない」
「なんでもないようには見えぬぞ。どうしたのだ」
こちらの枝に移って来て顔を覗き込もうとするのを更に避け、顔を背けてかぶりを振った。
「なんでも、ない…」
言い終わってからほぞを噛む。これ以上なく下手な言い方。案の定、宜和が心配しているのを強く感じた。
――――失敗した。
「三太朗」
ゆさっと微かに枝が揺れた。ちらっと横目で見れば、こちらを覗き込んでいた宜和がオレと同じく東の空に迫る夜の気配を向いて、枝に腰かけていた。
「さっきは凄かったな」
顔を少し上げて疑問を浮かべたオレを見ずに、宜和は目を細めて含み笑った。
「ワシの代わりに怒ってくれただろう?飛天狗と色天狗…いや、今は小天狗なのか。降格処分は軽いとな」
「あれは…」
オレは少しの間言葉に詰まった。
「…あれは、オレがちゃんと意図を理解出来てなかっただけだよ…。相応の罰だったのに、師匠が妥当だって納得してるのも気付かずに、勢いだけで生意気に意見して…今は、反省してる」
ぼこり、と泡が湧くように、ごった煮の中から後悔が浮かび上がって心をかき乱す。口を引き結んで目線を落とした。
「それでも」
ぽつりと、穏やかな声が宙に漂った。
「ワシは嬉しかったぞ」
変わらず空を眺めたまま、黒い嘴が言葉を紡ぐ。
「お前は失敗だと思っていても、ワシを思い遣って師匠にもああして意見を言ってくれるのが、ワシはとてもとても嬉しかったのだ」
思えばお前はずっとそうだったな、と動く嘴を、オレは黙って凝視した。
「どうしようもなく愚かなワシをお前は最初から気遣ってくれた。怒らせてばかりでしかも理解の遅いワシに、分かるように説明し、諭して間違いを気付かせてくれた。悩みを聞いて、相談に乗ってくれた。手伝う義理など無かったのに、昨日は館の方々と繋ぎを付けてくれた。今日も、ワシを慮ってついて来てくれた。…だから、ああして謝ることができたし、罪をそのままにしておかずに居れた。いつも正しく怒るお前の見ている前で、間違ったことは出来ぬと思えた。そんな恥ずかしい真似は出来ぬと、そう初めて思えたのだ」
泡はぱちんと弾けた。
重くて濃いと、飲み込んで沈めておくしかないと思っていた中身は、湯気みたいにほわっと広がって消えて行った。
「今日、お前が長天狗にさえ引かずに、ワシのために意見するのを聞いてな、嬉しく感じて、そうして思ったのだ。こうして、ワシも誰かを嬉しくさせてみたいと。それで白鳴さまからの御命を頂戴したときに、すごく嬉しかった。いかにもワシがしたいことにお誂え向きなお話であったのだ。そう思えるようになったのはお前のお蔭だ。言い尽くせぬ程に感謝している」
ぎゅうっと喉の奥が締まるような感覚がして、またオレは俯いた。
ここだったな、と晴れ晴れと宜和が枝を軽く叩く。
「話をした。"自分の好きなものを目指せば良い"と教えてくれた。あれはまっこと、至言であったぞ。目から鱗が落ちるとはまさにあのことだった。お蔭でやりたいことが見つかった。そしたらな、こう、ぱーっと目の前が開けるような感じがしたのだ。素晴らしい気分だ。これが…希望というやつなのだな」
穏やかな目がこちらを向く。幸福と楽しさと、心配が混ざったそれは、とても温かくて―――オレは、苦い想いでいっぱいになる。ぐつぐつと煮えたち始めた苦いものにのめり込みそうになったそのとき、ぐいっと肩を組まれた。
思わず身を固くしたオレの肩を、宜和の左手が軽く叩いた。
「なあ三太朗。お前にはもらってばかりだ。多くを貰ったのに、何も返せておらぬ。だから今度はお前が何を悩んでいるのか聞きたいのだ。そうして独りで抱えておるのは、館の方々に話し難いことなのではないのか?なあ、ワシは頼りないかもしれぬが、話ぐらいは聞いてやれるぞ。誰ぞに聞かせるだけでも随分楽になることもあるのだ。なにせワシがそうだったから間違いないぞ!」
――――駄目なのに。
心配なんかさせちゃダメなのに。
心配なんてさせたくなかった。どんな嫌な想いも今はさせたくなかった。だって―――
温かい左手を感じて、唇を噛む。
折れた腕はもう治った。かかった疑いも晴れた。役目まで言い付かって、ここに居る理由はもう、ない。
―――だって……宜和はもう、行っちゃうんだから。
嫌な想いも、暗い顔もさせたくなかった。いい思い出だけ持って、前を真っ直ぐ見て気持ちよく旅立って欲しかった。
旅立つのを見送るとき、きっとちょっと不安そうにするのを見て「ほんとに大丈夫なのかよ」とかって茶化して、最後はそんな友達の背を叩いて「しっかりやれよ」なんて言って、笑って送り出したかった。
怖くて嫌なことばっかり思い出すだろうこの山を、ちょっとでも良く思ってて欲しかった。
言わなくちゃ。笑って『大丈夫』って、心配の全部を思い過ごしってことにしなくちゃ。
じゃないと、宜和が気持ちよく旅立てない。
「宜和―――」
オレは顔を上げた。
「―――翼が…生えないんだ…」
ああ、言うべきことはこれじゃない。そうは思うのに、止めようもなく、くしゃっと顔が歪んだ。
「薬は飲んだのに、もうひと月も経つのに生えてこないんだ。何やっても生えてこない。天の"霊"が足りないんだって言われて、取り込むために木登りだって毎日やってる。なのに何の予兆もないんだ!師匠は大丈夫だって言うけどそれでも…!」
話し始めると止まらなかった。何も考えられなくなって、ただせり上がってくる沸騰したものを吐き出した。
「分かってるよ!師匠が言うなら大丈夫なんだって。でも、それでもほんとなのかって思っちゃうんだ!オレはお前が思ってるみたいな完璧なやつなんかじゃないんだ!!師匠でさえ疑って、褒められても自信なんてなくて、何やっても満足に出来なくて、刃物だって見るだけで怖くて何も出来なくなって、いつだって一番に欲しいものは全部なくなっちゃうんだ!!」
言葉が噴き出すように湧いて出た。支離滅裂だと分かっていても、自分の声に押し流されるように言葉を続けた。頭がくらくらした。心はぐつぐつと煮えて、怒りによく似た熱を帯びている。
宜和が気遣う言葉を言おうとしているのを直感した。それにさえなぜだか苛立って、かっと熱が上がって、肩にあった手を振り払った。
「オレはお前が思ってるような奴じゃない!!だって、今日だってお前が褒められて嬉しそうにしてるときには『なんでお前だけ』って思った!!なんでオレは上手く行かないのにお前だけって…!!」
まだオレはすごく良い奴で完璧なんだと思ってるだろうこいつに、オレが如何に汚くて見下げ果てた奴なのかを思い知らせてやりたい衝動が突き上げる。
まだ言い足りなくて暗い熱のままに目の前の顔をにらみつけた。
「なんでお前ばっかりなんだよ!腕も治ってみんなに認められて希望も持って、なんで最初から羽が生えてるんだよ!!どうしてオレじゃないんだよ!!オレはなにもかも上手くいかないのに!!!」
叩きつけた言葉がそのまま跳ね返るような気がした。それは出て行った道をそのまま通って倍する勢いで元の場所を通り過ぎ、一番底に沈んだものに思いきりぶつかって盛大に飛沫を跳ね散らした。
「なんで上手く行かないんだ!!どうして強くなれない、どうして出来ないんだよ!!オレはどうして、なんで、こんなに駄目なんだよ!!!」
胸の内の苦いものに溺れる錯覚。
岸に打ち上げられた魚のように、オレはせわしく息をした。幾ら吸っても足りる気がしない。
じわっと滲んでくる苦しさが、そのまま雫になって頬を伝う。
熱は頂点を過ぎれば急に冷めていって、オレは寒々しさを顔ごと抱えて俯いた。
――――やってしまった。
宜和のそれまでの不幸も努力も全部忘れて、師匠に認められていく宜和を羨み妬んだ。一番なりたくないものになってしまったのに気付いて逃げ出したのさえ逃げだと自覚した途端、自己嫌悪で吐き気がした。せめて隠してちゃんとさよならしようと思ったのに、最後の最後で全部さらけ出してしまった。
声にして出してしまった言葉はどうやっても消えない。
時間が戻ればいいのに、幾ら願ってもそんなことは出来っこなくて、肩を縮めて幹に凭れ掛かった。
「…ごめん」
オレなんか放っておいて早く行ってしまえばいいのに。そんなことを思って、更に自分が嫌いになった。
「別に良いとも」
だけど、そんなオレを宜和はあっさりと許した。
「いやはや、逆に安心したぞ。お前も他と自分を比べたり、羨ましく思ったり、八つ当たりしたりするのだな!実を言うと、全くそんな風にならないのなら、ワシはどうしようと思ってたのだぞ?」
「…え?」
八つ当たり、と言われて、反論できない事実にずきりと胸が痛む。だけど八つ当たりされて責めもしない、何か嬉しそうな様子に惹かれて、ほんの少し顔を起こした。
「そんな者の気持ちはワシは少しも想像できぬのだものな。想像もつかない存在とこれからも上手くやっていける自信は無くてだな…。いや、良かった。今以上にワシらは仲良うなれそうだな、うん?」
「……宜和…」
おどけてみせてくれるのに、笑うことも出来ずにぼうっと見返せば、宜和はにっかりと笑って言った。
「思うに、お前は理想が高くて自分に厳し過ぎるようだな。それでは生き辛かろう?そこでだな、理想が低くて自分に甘いのに定評があるこの宜和が、もっと気が楽になる方法を教えてやろう!」
「…うん」
宜和は偉そうに腕組みをして、うむ、と重々しく言った。
「簡単だ。少し見かたを変えるだけだ。自分に都合の良い方向にな。例えば何か上手くいかない、出来ないと思ったときにな、"まだ"と付けるのだ」
「まだ…?」
「そう、『まだ』だ。お前は翼が生えぬと言ったが、それは、『まだ』生えてないのだ。強くなれないのは『まだ』強くなっていないだけなのだとな!」
まだ、ともう一度小さく呟いた。
それはなんだか、とても素敵な言葉のように思えた。まだまだ先が自分にはあるぞ、と自分に宣言しているみたいで、今の自分を少しだけ許して、前を向ける気がした。
「そうだ!ワシは『まだ』小天狗なだけだ!いつか偉くなって、がっぽがっぽ儲けて、塗り壁素材の御殿に住んで可愛い嫁だって貰うのだからな!今は『まだ』その時ではないだけなのだ!!」
「ふ、あはは…なんだよそれ。全部妄想じゃん…」
やっと少し笑えたオレに、楽しそうな笑顔が返った。
「妄想、上等ではないか。つまりは"こうなりたい"と希望を持っているということだろう。病は気からと言うし、案外お前に翼が生えぬのも、その辺りに理由があるのかも知れんぞ」
「え、そんなことは流石に無いって」
いやいや、と宜和は大真面目にかぶりを振った。
「木でさえ、動きたいとずっと願っていれば木精になって歩き出すし、死にたくないと思いながら死ねば人も化けて出るだろう?」
そう言われると、何か説得力があるような気がして、オレはぐっと詰まった。
「…じゃあ、オレが天狗に成りたいって思うのが足りないってこと…?」
「いいや、そうではないぞ。見かたを変えるのだ。まだ、人のままでしなければならぬ思い残したことがあるとか、そういうことは無いのか?」
「思い残した、ことか」
ちりり、と何かが頭の片隅で小さく音を立てた。
控えめなそれは、一瞬光ってすぐに消えてしまったけれど、くっきりと残像を残した。
黙りこくったオレに何を思ったのか、宜和は少し首を傾げてぽんと背中を叩いてきた。
「まあ、それに変転が遅いのは悪いことばかりではないのではないか?薬がお前を天狗にするのにそれほど時を掛けねばならぬということは、つまりお前が普通の者より強いということだろう。言うなれば、お前は天狗の薬に勝っているのだぞ!中々ないぞそんなことは!」
堂々と力説するのに思わず吹き出してしまう。
「どういう理屈だよ。こっちはそれで困ってるのに」
「しかし、白鳴さまは大丈夫だと仰ったのだろう?ならお前は間違いなく『まだ』天狗になっていないだけなのだぞ。それにな、考えてもみろ。人でいてさえ薬に勝つほど強いお前が天狗に成ったら、どれ程強いものか。それこそ一足飛びに上位になって、山主にだってなってしまうかも、いいや、必ず成るだろう!!」
「あはは、そっかオレは『まだ』そこまでなってないんだな」
「そうだ!」
「ないって、流石に」
ぐっと拳を握った力説に、つい笑ってしまって、心がいつの間にかとても軽くなっているのに気が付いた。
ごちゃごちゃと突っ込んで掻き回してぐちゃぐちゃになっていたごった煮は、いつしか綺麗に澄み渡って静まり、底に泥のように溜まっていた汚い何もかもは溶けてほどけて、なくなっていた。
「いいや、ワシは本気だぞ。じゃあお前、いつかお前が山から出てきて外で働くようになって再会したとき、ワシよりも高位になっていたらワシを取り立ててくれ」
「良いぞ。オレがお前より高位だったらな。あ、じゃあオレが出てったときにお前の方が高位だったら、面倒見てくれよ」
「良いとも。それでは、階級が同じだったら組んで働くか」
「うん。そうしよう」
「決まりだ。楽しみだな」
「そうだな、約束な」
「ああ、約束だ」
冗談めかした約束は、その響きに反してお互いに本気だった。
未来はきらきらと輝きながら拓けていって、全部が順調に回り出すような気がしていた。
見上げれば東の空には、一番星がぽつりと灯り、夜の訪れを予告している。
穏やかな山風が冷たさを帯びて、着物の裾をはためかせた。
「さて、そろそろ行こうかな」
「…もう、行くのか」
傍らの宜和が立ち上がって、ゆさり、と枝が揺れた。
オレはじっと山の彼方を向いたまま、口を引き結んだ。
また遊びに来いよ、とは言えない。白鳴山の周りは立ち入りが禁じられているのだ。
行ってしまえば、長く会えないことになる。
今朝まで、宜和はもっと長く居るものだと思っていた。折れた腕が治るにはもっとずっと時間がかかるし、秋ぐらいまではここに居ることになるだろうと、そう思っていたのだ。
別れが急すぎる。
ぎゅうっと胸の奥が縮むような感覚がした。
「…手紙を書くぞ」
オレと同じ寂しさがこもった呟きが落ちた。
「うん…。オレも、返事書くよ。…なあ宜和、楽しかったよ」
「ワシもだ。この四日間、色々あったが…楽しかったぞ」
たった四日。もっと長いと思っていたのに、数えてみると確かに四本以上の指は折れることはなくて、ぎゅっと拳にして握り込んだ。
「…ありがとな」
その言葉は、ごく自然にするっと出た。
やっと、初めて正しいことを言えたような気がした。
「―――むふふ」
……オレのしんみりした感謝の言葉に対する返事は、気持ち悪い含み笑いだった。
「良いぞ良いぞ!!年上は頼りがいがあるだろう!!ふはは、三太朗よ、これからは大先輩であるこのワシに、このワシにどんどんと頼っても良いのだぞ!ほら、手紙で悩み事の相談とか、愚痴とか、な!そしたらそしたら、今回のようにぱぱっと解決、泣き顔も笑顔になってしまうという訳よ!!」
抑えきれないというように高らかに笑いながら、小天狗サマは恩着せがましく宣うた。
ていうか屈辱だ。こいつに泣き顔を見られてしかも悩み事が解決されてしまうだなんてほんっっと人生の汚点だ。
オレは深くふかく反省した。
オレが表情を消して反省しているのに、相変わらずの鈍さで全く気付かないまま、天狗は自動で付け上がっていく。
「いやあ、お前もああしてしおらしく泣くことがあるのだなぁ。可愛いものだ。実に良い!沢山悩んで成長すれば豊かな精神を持てるというものだ、なあ!」
上方からの気配を感じた。
迫る左手。狙いは、頭!
「ふんっ」
オレは思いきりよく体を前に投げ出した。
宜和の甲高い悲鳴を置き去りに、夕風を切って落ちていく。
見当をつけていた枝の隙間を、体を傾け、想定していた通りの姿勢ですり抜ける。
耳元で笛のような音が鳴る。体を掠めて葉っぱが勢いよく上へすっ飛んで行く。
ぐんと近づく地面。
オレは着地に備えて体を水平に広げ、手だけを前に出した。
ぼすんっ!
衝撃。跳ね返りそうになる体を押さえる為に、ふさふさした毛皮をしっかり捕まえた。
次に来る軽い浮遊感。そしてぎゅっと体が下に抑え付けられるような圧を感じて、落下が止まった。
「…ありがとうございます、陣さん」
「構わない。弓が言うように、子犬は少しやんちゃな程で丁度良い」
灰色の巨狼は、着地の衝撃を逃がすために、足をできるだけ畳んで伏せた姿勢のまま、落ち着いた深い声で静かに言った。
これぞ大人の落ち着き。年上の威厳。尊敬すべき者の大らかさであろう。
自称頼りになる年上はこの方を見習えば良いと思う。
「さ、さささ、三太朗ぅぅう!!ぶじ、ぶじ、無事なのかぁあ!?なぜ、どうしていきなり落っこちたのだお前はぁあ!?」
「うるさい!落ちたんじゃなくて飛び降りたの!!何を許してもお前に頭を撫でられるのだけはぜっっったい死んでも許さない!!」
「だからって高所から飛び降りる程嫌だったのか!?」
「い・や・だっっ!!!」
「なぬぅう!?」
枝の上で、どうやら降りることを思いつかない程狼狽えている宜和と怒鳴り合った。
しんみりした空気なんか賑やかに吹き飛んで、いつもの…この数日で普通になった、楽しげな空気がそこにあった。
「ああ、日が沈むな…三太朗、ワシはもう行く!」
西を振り返って、宜和が言った。
「夜に一羽で大丈夫なのか?」
「黄昏時から月の入りまで、"路"が開くのだ。そこを通って帰れば、直ぐに着く。滅茶苦茶近道なのだぞ!」
そっか、と呟く声は、多分届かなかったと思う。
寂しげに掠れた語尾を誤魔化して、「宜和!」と呼びかけた。
「またな!!」
こちらを見下ろして、一瞬きょとんとした友は、次には満面の笑みを浮かべたようだった。
「応!また会おうぞ!!」
ばん!と空を叩く音がして、黒の翼が翻る。
何度か羽ばたいて勢いをつけると、滑るように今沈まんとしている太陽に向かって、一羽の天狗が飛んでいく。
橙の強い光に影まで赤く染め上げられて、眩い夕日に重なったそのとき。
その姿は、幻のように掻き消えた。
きっと、"路"とやらに入ったのだろう。
こうして、オレの一番目の友達は、白鳴山を去って行った。
これからは、あいつが来る前の日常が戻ってくるんじゃないかな。
今までと同じく、穏やかな日々がまた繰り返される。
ただ、暫くは、少し静かすぎるように感じることになるのだろう。
「館まで送ろう」
「…ありがとうございます」
オレは、お言葉に甘えて灰色の毛皮に伏せた。
「おうい、雷将。また表でカラスが騒いでるぞ。手紙だろ。受け取ってやれよ」
がらりと引き戸を開けて、一羽の天狗がそこに居た仲間に呆れた様子で声を掛けた。
「っったく、るっせーなぁ」
雷将と呼ばれた天狗は、不機嫌を隠そうともせずににらんだが、それでもすっくと立ち上がって入れ替わりに出て行く。
「素直じゃねーの」
その背中を見送った、また別の一羽がけらけらと笑う。
「全く。全部受け取って、棄てもせずに仕舞い込むんだから。一度ぐらいは返事を書けばいいのに」
「あいつがんなことできっかよ。ほら、あいつが家出した理由ってさ…」
「ぎゃぁああああああ!!!」
にやにやと噂話を始めようとしたそのとき、当の本人の叫び声が響き渡って、思わず二羽は仲間が出て行った扉を振り返った。
ずばん!と引き戸が勢いよく開いて、真っ青な顔の雷将が飛び込んでくる。
「おいどうした!?」
「何事だ!?」
二羽の前を彼は素通りし、手紙を握りしめたまま、ばたばたと別の部屋に走り込む。が、直ぐに荷物を引っ掴んで飛び出していく。
「ししょーが!!!帰る!!今すぐ帰るっっ!!後頼んだ!!ししょおおおお!!!!」
「え、おい」
呼び止められる暇もなく、雷将は一直線に開きっぱなしの扉からすっ飛んで行った。
ししょおおおおおお……と、叫びの余韻が長く尾を引いた。