五 泣く
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朝は決まった時間に起きて、皆に挨拶する。
食事は家族全員で。
うちの方針で、片付けは下働きの下男、下女を手伝ってオレたちも参加する。
終わったら勉学や稽古に励み、その後は外へ遊びに出る。
兄と共に里の悪童どもと日が暮れるまで遊びまわって、暗くなる前に帰る。
帰ったらその時の格好で、風呂へ放り込まれたりこっぴどく叱られたり、もうすぐご飯だから手を洗いなさいと言われたりする。
夕餉は家族に家人たちも加わって。
その日一日のことを大人たちに話して、家であったことや、勉強や武術のことや、今度花見にいこうか、とかを聞いて、夜には明日何をするかを考えながら眠りにつく。
偶に怒られて、ごく偶に褒められて、毎日微笑まれて。
そんな穏やかな日々は、唐突に断ち切られた。
――――――戦だ。
細かいことは教えてもらえなかったけど、隣国との国境に主家が敷いた陣に加わるべく、父は上の兄二人といくらかの手勢を率いて出発した。
見送りの折、きらびやかな鎧を身に纏い、堂々たる体躯の黒毛の馬に跨った父は、オレと三の兄上に言った。
「留守の間、家を頼むぞ」
オレたちは、声を揃えて、はいと答えた。
それが、オレが父上と交わした、最後の言葉になった。
布団の左右に座った、喋るタヌキとキツネを交互に見て、オレは大きく息を吸った。
そーれっ
「うわぁああああああああああああああああああああ!!!」
「ひぇえええええええええええええええええええええ!!!」
「のわぁああああああああああああああああああああ!!!」
叫びながら尻でずって壁際まで後退った。
今まで何度か叫びたくても叫べなかったがしかし、それら声が出ないほど仰天する出来事は確実にオレに慣れをもたらし、更にこの二頭は余り迫力がなかったこともあり、そのふたつの相乗効果によってもたらされた心の余裕で、ついに思いきり悲鳴を上げることに成功したのだ!!
なんだかすごくすっきりした。
でもな、なんでこいつらも一緒に叫んでるんだ?
「あわわわわ、おち、おおお落ち着いてくださいよぅ」
「そそそそ、そうです、こここ怖くない、怖くないですよぅぅ」
あきらかにびくびくしながらおっかなびっくりこちらを宥めようとしてくるタヌキとキツネを前に、オレの頭は急速に冷めていく。
動揺してる人をみると自分は逆に冷静になれるもんなんだな。
あ、人じゃなかったわ。
「ほ、ほらぁ、なんにもしませんからねぇ」
「そうですそうです。苛めたりしませんよぅ」
「よーしよしよしよし」
「るーるるるる・・・」
妖怪とは恐ろしいものである。恐ろしいもののはずだ。だよな?
だからオレの反応は至極まともなはずなんだ。と思う。だって妖怪と遭ったら襲われて喰われるじゃないか普通。聞いた話では。
なのになんで目の前の奴らは前足をばたばたさせながら一生懸命オレを宥めようとしてるんだ?
あとキツネ。それはなんか違う。
現実と想像との落差に見事に蹴躓いたオレは、次の行動を決めかねて黙り込んだ。
正直、どうしたらいいのかわからない。
危険な感じがしないから。
自慢じゃないがオレは勘が鋭い。人が嘘をついたらなんとなく分かるし、会った人が友好的か否か、隠し事があるのかないのか、喜んでいたり悲しんでいても、それが本心からなのか演技なのかまで察することが出来た。
オレにとってはなんとなく、という頼りない印象でしかないけれど、実際その結果を見ると、尋常じゃないぐらいよく当たった。――いや、誤魔化すのはやめよう。よく当たるどころか、オレの覚えている限りでは、外れたことはない。
常に分かる訳ではないし、感じ取りにくい人もいる。自分から感じ取ろうとしたこともない。時折ふっと心に浮かぶ。
心の動きが大きいほど頻度は高くて、こちらに向けられているものは、ほぼ毎回感じ取れた。
これが普通のことではないのは、自分でもよく分かってる。だから普段はできる限り知らないふりをして過ごしていた。
ただ小さい頃はその感覚が異常なのが分からなくて、愚かにも周りの人に普通に話した。
考えてもみてほしい。気に喰わない人がいたとして、普通の人はそれを表に出したりはしない。角が立たないように接する。それが大人の分別というものである。
何かを貰ったときにはもちろんお礼を言うだろう。ありがとう、美味しそうだね、これ好きなんだよ。
そこに、小さい子供が来て言うのだ。
『どうして嬉しくないの?』
オレが悟るのには、あまり時間がかからなかった。でも、普通の子供のふりをするのには、致命的なほど遅かった。
だから、オレと他人との間の距離は、少し遠かった。
しかしその勘は、普段は邪魔者でもこと危機察知という点では物凄く役に立つ。
悪意や敵意が分かるのだから、オレや家族に危害を加えようとする企みは全て露見した。
その、いつも頼りになる勘がである。今現在こいつらからは騙そうとか害そうとかいう気配を感じ取れないでいる。
でも相手は妖怪。オレの勘なんて根拠のないものだし、そんなあやふやなものを誤魔化すなんて簡単だったりするんじゃないのか。
感覚ではこいつらに危険はないと思っている。だけど、警戒心を捨てきれないでいる。
百発百中のオレの勘が、騙されるかもしれない。それが恐ろしかった。
騙されてしまったら、この先自分の感覚を信じられなくなる。その予感は、星も月もない夜道で、灯りが消えてしまうような、叫びだしたくなるような不安をもたらした。
無害そうなキツネとタヌキが、巨大な狼より恐ろしく感じた。
「あのぅ…」
オレの様子を窺っていたタヌキがおずおずと声をかけてくる。
オレは生まれて初めて、意識してその心を読み取ろうとした。
「手当て、しましょう…?」
不安と少しの警戒。だけど大部分は、心配。
タヌキはオレの足を指差していて、つい釣られて目線を膝に落として――後悔した。同時に痛かったのを思い出す。
感覚とは現金なもので、傷を自覚した途端に倍痛く感じた。
青黒く腫れて、その周りは赤くなって、所々擦りむいた膝。
「…痛いでしょう?」
膝からタヌキに目線を戻す。獣の顔を見たって、表情なんか分かるはずない。なのにその顔は、心配げに見えた。
「…ほら、薬が嫌なら、冷やすだけでも。ちょっとはマシになりますよ」
今度はキツネに目をやる。
オレに良く見えるように、絞った白い布をゆっくり広げて見せてくる。表、裏、もう一度表。
興味、警戒も少し。だけどやはり、大きな心配。
こちらを向いて、オレの反応を測るその目は、気遣わしげに見えた。
もう一度目を落とす。
痛々しい膝。少し視線をずらしたらその先の足も真っ赤で、もし妹がこんな有様だったとしたら、オレは大騒ぎして大人を呼ぶ。
そんでもって、歩くことなんか許さず、負ぶって帰って布団に寝かせて絶対安静を厳命して……一の方さま辺りに呆れられるんだろう。
自分の思考に余裕が戻っていることに気付く。
信じても良いのか、そんなことは分からない。でも、オレは無意識にここには危険がないって判断してしまってる。
安心して、しまってる。
「………………痛い」
緩んだ気持ちの隙間から、本音が零れ落ちた。
意識の第一優先枠に陣取っていた警戒心が、役目が終わったとばかりに二番手に先を譲ったみたいだ。
因みに二番手はもちろん痛みである。ついでに言うと三番手は弱気である。
あーダメだ。そう思うと同時に鼻先を越えて雫が落ちていった。
――――泣いちゃダメだみっともない。
歯を食いしばって懸命にこらえて、なんとか山を越えようかというときに、ぽむっと頭に何か乗せられた。
びくっと肩が跳ね上がる。
「よしよし、よくがんばりましたねぇ、偉かったですねぇ」
「おーよしよし、もう大丈夫ですよ、我慢は終わりにしていいんですよ」
毛むくじゃらの茶色の前足、その想像より少し固めの肉球の感触が、背中と頭を優しく撫でて、ふさふさの黄色い前足、その思ったより長めの指が布をつかんでそっと打撲を隠すように置く。
なんか、今日はたくさん頭を撫でられる日だな。
慣れていない感覚は、とても心地よくて、必死に繋ぎとめていた心の結び目を簡単に緩めてしまう。
「――いたい……」
堰が切れたように、大粒の涙がぼたぼた落ちて布地にしみを作っていく。
せめてもの意地で声は抑えたけど、小さい子供みたいにしゃくりあげながら泣いた。
自分でもびっくりするぐらいたくさん涙が出て、体中の水が全部出て行ってしまうんじゃないかってぐらいどんどん溢れていく。
でもこの場には、それを咎める人はいなくて、温かい腕がむしろ促すようにあやす度にまた新しい涙が出た。
歯を食いしばっても、息を止めてみても、全然止まらなくて、ついには泣き止むのは諦めた。
怪我をして泣くなんて子供じみていて嫌だったけど、他のことの一切は知らないふりをして、涙の理由を体が痛いせいにした。
単純な理由なら、素直に泣ける気がしたから。
泣いて泣いて、頭がくらくらするぐらい泣いて、ようやく涙が止まる。
こんなに泣いたのは物心ついて以来はじめてかもしれない。
「落ち着いたか」
静かな声がかけられて、ちょっと、いやかなり恥ずかしくなった。頬が熱い。いや、泣いたから傍目にはあんまり分からないかもしれないけど。
あの人は、変わらず布団の枕元のところで、片膝をたてて座っていた。
目がすごく優しくて、それこそ小さい子供を見守るみたいな眼差しである。居たたまれない。
ほんとすみません。幼児みたいに泣いたけどオレこんなでも十一になったんです。だからそんなに真っ直ぐこっち見ないで下さい!!
「はい…すみません…」
「謝ることはない。誰もお前を咎められはしない」
やめて今弱気になってるから、そんな優しくされたらまた泣いてしまいます!!
歯を食いしばって黙り込んでいると、彼は目を少し細めて立ち上がった。
「ここにはお前を傷つける者はいない。安心してくつろぐと良い。ぎん、ごん。少し出てくる。任せていいか」
「はいな。お任せ下さいまし。主さま」
「もちろんですよ。いってらっしゃいまし主さま」
はたと我に返ってその人を見る。薄々予感はしてたけど、やっぱりこの人が主なんだ。
「あ、あの!」
咄嗟に呼びかけてしまったが、言う言葉が実は決まってなくて焦る。
――――なんで妖怪を従えているんです?あの夜なんであんな山にいたんですか?ここはどこ?どうして助けてくれたんですか?違うちがう!まずは『助けてくれてありがとうございました』だ!
外へ続く障子を少し開けたまま、手をかけた姿勢で振り返って言葉を待っているその人の目を見る。
ていうか待たせてる!黙って静かにイラつくことも急かすこともなく微かに穏やかに微笑んで次の言葉を待てるその大人な態度!そこに痺れる憧れるぅ!!
ていうかこの人どこからどう見ても人に見えるのに妖怪から主とか呼ばれててしかも『出てくる』ってことはここに帰ってくるんですよね!?つまりここに住んでるんですよね!?壁から腕が生えてくるような妖怪屋敷に住んでるってどういう趣味なの!?
「あなたは…何者なんですか」
――――ちがーーーーう!オレが言いたかったのはそうじゃない!!確かにある意味一番聞きたかったけど!!というか慌てすぎだオレのバカバカバカ!!
恥ずかしさと居たたまれなさに申し訳なさを足して焦りと緊張をかけ合わせてしまったオレが、更に失言に固まっていると、彼は何か納得したみたいに、ああ、とひとつ頷いた。
「そうだな、知っておいた方が良いだろう」
こちらへ体ごと向き直る。その人の雰囲気がふっと引き締まって張り詰める。
同時に、背中で束ねた黒い髪が、ぶわっと膨らんだ。
いや、髪じゃない。髪と同色の、一対の大きな、鳥のような翼だ。
こちらを向いた顔は、相変らず人にしか見えない。ただ、両目の脇、目尻の側に、円弧をみっつ組み合わせたような、紅の模様が浮かび上がった。
人に良く似た容貌の、だがしかし明らかな異形。
「俺は天狗だ。高遠と名乗っている」
なんだってー。お前天狗だったのかぁあ。
・・・はい、おそらく大部分の方の予想通り、恩人さんは天狗でした。
やっと弟子入りの目処が立ちましたね!