三十六 嵐の予兆 後ノ三
本日二話目。こちらが後です。
9/22 少々加筆と修正しました。本筋に変わりはありません。
風呂を上がれば夕餉に呼ばれ、待ち受けていたごんたろうさんとぎんじろうさんに、木から落ちたこととか、刃物に驚いたことをすごく心配された。
どうやらオレが風呂に入ってる間にヤタさんから聞いたらしい。
そのヤタさんも、食事の途中に、遠回しに心配を言いに来た。
そして彼らに謝りつつ食後にお茶を飲んでいると、ユミさんとお篠さんがやってきて、「どうして早く言わなかったのか」と怒られた。ユミさんはそもそも何があったのかを知らず、お篠さんはオレが木から落ちたことを知らなかったみたいで、改めて無事を確かめに来たらしい。情報源は壁だ。
そこまで心配させてしまうとは、申し訳ない。今度からもっと気を付けよう。
そうしてあたふたと謝り倒していると、ひょっこり顔を出したのが紀伊さんと武蔵さんだった。
見たところ傷もなく、元気な様子に安心して、声を掛けようとしたんだけど、その前に彼らは一瞬意地悪くにやっとした後、まるで今日初めてオレに会ったように、非常にわざとらしい心配顔を作って「何かあったら直ぐ言わないと駄目だろ~」と輪に加わった。あんたたちは最初から知ってるでしょ!!というオレの心からの叫びは皆に綺麗に無視された。
ひょっとして、これ皆態とやってんじゃない!?いや、心配は本物なんだけど…くっ、大勢の感情が入り乱れてそれ以上わからん!!
保護者軍団の心配波状攻撃は、オレがもう疲れたから寝ると宣言するまで続いたのだった。
オレは寝支度をしようとした手をはたと止めた。
「…流石に、終わってるよな…」
終わってる、何がかというと、話がだ。もっと言うと、師匠と余所の天狗との面会だ。
風呂の中では真面目に考えてたんだけど、その後はてんやわんやで考える暇がなくて、すっかり忘れてた。…できれば忘れてたかったんだけど、気付いてしまったんだから仕方ない。
「…師匠はお部屋にいらっしゃいますか?もうお休みとか…?」
『起きていらっしゃる』
悪あがきで壁に確認を取ってみたら、即座に返事が返ってきた。
残念なが…げふんげふん、幸いなことに、部屋に居るみたいだ。本来なら夜に訪ねるのは失礼なんだけど、何かあったらいつでもおいでと言われているし、追い返されることはないだろう。行ってみようか。
…って言うかオレ、今すごく自然に壁と会話したよな。無意識に受け入れてるのかこの状況を。最初あれだけ抵抗があったのに…慣れってすごいな。
微妙に現実逃避しつつ、さっさと終わらせてしまおうと立ち上がったそのとき。
――――なんだこれ?
ふっと掠めるように去来した、何かどろっと黒い感情に、オレは動きを止めた。
気配は外からだ。もう通り過ぎて、残り香みたいな余韻しかないけど、確かに今、館のモノたちには到底似つかわしくない何かが通り過ぎた。
なんだか嫌な予感がして、そっと中庭側の障子を引き開けた。
細く開いた隙間から、夏でも冷たい夜気がふわっと入って来る。
耳鳴りのような虫の声が満ちた夜の山。空には半月が雲から見え隠れしている。その頼りない光源の中で、光を弾く黒の翼を背負った何者かが、茂みの手前を忍び歩くのが辛うじて見えた。
背には翼、きょろきょろと見回す時に見えた横顔は鳥に似ている。暗めの色の無地の衣は分かったけど、それ以上のことは暗くてよく見えない。
鳥に似た顔の天狗と言えば、紀伊さんか武蔵さんだけど、あの二羽は普段人と同じような姿をしているし、師匠もだけど滅多に翼を現したりしない。
なら、決まりだ。あれは怪我をしたから保護したという話の、余所者の天狗だ。
それにしても夜に何処へ行こうと言うんだろう。
あのしきりに周りを気にするおどおどした態度から見て、何か良くないことを企んでるんじゃないだろうか。
だって、そうじゃなかったらもっと堂々としてる。しかも、夜に他者の館で案内もなくうろつくなんて、怪しいことをしてるに決まってる。
そう思っている間に、天狗は建物の陰へ見えなくなった。
一体何をしようとしてるのかを突きとめて、その現場で大声を出して誰かを呼ぼう。壁は味方だから、館の近くに居れば安全だし、もしも気付かれて、逆上して襲ってきた時を考えて、近づきすぎないようにすれば大丈夫だろう。
オレは庭に出て、こっそりと追跡を開始した。
裸足の足を慎重に動かして、最早得意になった忍び足で足音も無く進み、角に張り付いて先を窺う。見られる訳にはいかない。オレの明るい色の髪は夜目に浮かび上がって見えるから、一目でバレてしまう。
そっと覗き込んだ先は館の裏手で、開けた庭を過ぎたのに安心したのか、余所者は見回すのを止めて真っ直ぐ前を見て足早に歩いて行くところだった。
なんていうかその後ろ姿が、言っちゃ悪いけど隙だらけに見える。
歩法がなってない足運びは、極力そっと動いてるんだろうけど微かに足音がするし、姿勢は僅かに左に傾いでる。怪我をしてるってことを差し引いても、お粗末な動きだ。それに、天狗でもないオレが後ろ十数歩の位置に迫ってるのに、まるで気付く様子はない。…これで実は演技だったら大したものだとは思うけど…。
うーん?あれ?オレは歩法と呼吸法と姿勢は、基礎の基礎だって習ったんだけど、なんであいつは出来てないんだろう。
もしかして、天狗には流派があって、それぞれ習うものが違うとか?でも、それにしてもすごく頼りなく見えるんだよなぁ。
オレが内心で首を捻っていると、前を行く天狗の横の茂みがかさっと音を立てた。
あいつは可哀相に思う程大げさにびくっと動きを止めて、殆ど恐怖に近い強い緊張を漲らせ、低木の茂みを注視した。
いやいや、あれは危険な感情は感じないし、音からして小さい動物だって…あ、茂みから兔が走って行った。
ただの兔にびくついた天狗は「驚かせんなっ」とか、オレがやっと聞き取れる程の極小の声で文句を言った。
凄く声震えてるんだけどこいつ大丈夫かよ。「舐めんなっ」あ、はい済みません。
頃合いを計ったかのような言葉でちょっとどきっとした。でも、こっちに気付いた気配は全然ない。実は心を読み取る技を持ってるとかでもないみたいだし、偶然だろう。
オレは少しばかり呆れた気分でまじまじとその天狗を見た。
――――こいつ…ほんとに師匠たちと同じ天狗なの?
階級の見方なんかは教えて貰えなかったけど、多分この天狗は下の方なんじゃないかと思う。だって、例えば今オレが薪の一本でも持ってたら、こそっと近付いて一発殴れば昏倒するんじゃね?
師匠たちだったら、例え気付かれないで背後を取ったとして、奇襲なんか成功する気が全くしない。寸前で気付かれ往なされて、お返しにぽーんって投げられるに違いない。そんでもって多分、「よく背後を取れたな!」とかって褒められる。
オレが想像に確信を持って微妙な顔をしたとき、ぞわっと背筋を悪寒が走った。
どろっとした何か。纏わりつくような、黒い感情が、前を行く天狗から滲み出てきていた。
思わず立ち止まる。嫌だこれ、触りたくない。勿論触れられるものではない。でもまるで触れるような気になるほど、密度の高い感情だった。
一瞬もう追跡を止めてしまおうかとも思ったけれど、やっぱり続行することにした。こんな感情を抱えた者がやろうとしてることが、良いことな訳がない。何をしようとしてるのかを見定めたい。
覚悟を決めて、その黒い感情の分類を試みた。
うぇっ…気持ち悪い。なんだこれ、怒りに似てるけど違う。怯えもある。羨み?…欲望…ああ、これは、恨みか。
オレは首を振って集中を切った。もう限界だ。
短い時間で、あんまり深くは分からなかったけど、あいつは何かを恨んでいて、それで何かを欲してるのは分かった。
恨み…ってことは、あいつを傷つけた鬼に対してだろう。
…とは思うんだけど、じゃあどうしてあんなに周り中に撒き散らしてるんだ。あれじゃあ、周り全部を恨んでるみたいに思える。でもここはあいつを助けた、言ってみれば恩人の家だし、感謝こそすれ恨む理由はないよな?
訝って観察を続ける中、辿りついたのは勝手口の外にある納戸だった。
オレは反射的に眉を顰めた。さっき感じ取った中には欲望があった。だったらあいつは何かを盗む気なんだろうか。
…でも、あそこは普通に物置になってて、滅多に使わない物が片付けられてるだけの場所だったと思う。あんなどろどろするまで募った気持ちが、まさか石臼とか杵だとか、植木鋏が欲しいからだったなんてことは無いよなぁ。もしかして何か間違えてるのかな?
物が落っこちてきたら危ないから入っちゃ駄目だって言われてるんだけど…あいつ頼りないし、注意してあげた方が良いんじゃないだろうか。
結構本気で声を掛けるか否か迷っていたら、ふと納戸の周りの地面に模様が浮かび上がっているのに気付いた。
遠目でしかも暗いからはっきりは見えないけど、物置を中心にした放射状に渦を巻いて、黒い文字が書き込まれているのが見える。あんなの前は無かったはずだ。
どこかで見たことがあるような…?あ、憎き激不味際昊水の蓋の革に書かれてたのに似てるかもしれない。
――――呪い、だよな?中に何かあるのか?
これは、どう考えるべきなんだろう。オレは木の陰で考え込んだ。オレはどうすべきだ。
その間も、あいつは周囲を気にしながら迷いない足取りで、納戸の方へ進んで行く。見回してるのにオレに気付かないのはなんでだ。いや、今はそんなことは良い。
知らない内に施されていた術。それは普通に考えて、オレの知らない物が入ってるからだろう。そして確信有り気にあの天狗はあそこに向かってる。オレの知る限りでは、物置にあいつの欲しがりそうなものはない…だったら、新しく入れられたものが目当てに違いない。
まるで封じられているかのような術、天狗が発散してる恨み。…『生け捕りにしたい』と、武蔵さんは言わなかったか。だったら、あの中身は…っ!!
「おい!!」
ひとつの答えを導き出して、声を上げながら陰から走り出る。
ぎょっとした顔で振り向いた天狗の手は、扉に届いていなかった。
それにほっとしながら更に声を掛けようとしたそのとき。
どん、と腹の底に響くような鈍い音がして、天狗が吹き飛んだ。
距離にして二三歩分ではあったが確かに宙を飛んで、無抵抗に地面に叩きつけられたのを、何が起こっているのか分からず、呆然と眺めた。
天狗を追うように押し寄せる、刺すような殺気。開いた納戸の扉から飛び出した影が、倒れ伏した天狗に飛び掛かった段になって、オレは反射的に声を上げた。
「待て!!」
硬い物が砕けるような、それでいて湿った音が響くのがほぼ同時だった。
オレは歯噛みする。待てと言われて待つ敵がいる訳がない。
だが、オレの予想に反して、影は動きを止めた。
圧し掛かる何かの下で、天狗が弱々しく声を上げた。見れば、太い腕がその首に掛かって、声を圧し潰している。左腕の上腕は、ありえない方向に折れ曲がり、朦朧とした目が、恐怖と混乱を発して此方を見る。
だが、オレにそれを見つめ返す余裕はなかった。
視線で誰かを殺せるなら、オレはとっくに死んでるだろう。それ程強い視線が、オレを絡め取っていた。
それは鬼だった。太い腕、額の一本角、大柄な体。口から覗く牙は鋭く、目はこちらを凝視している。
オレは凍りついたように動きを止めて、それを見つめ返す。少しも妙なことはできない。その途端にあれはこちらに飛び掛かってくる。
夜闇を通して対峙した鬼は、物凄く大きく見えて、オレは怯えて歪みそうになる顔を努めて引き締めた。怯えているなんて思われたら、隙有りと見て襲ってくるに違いない。
オレは同時に、そいつの変化を、外見であれ内面であれ見逃すまいと集中した。―――大丈夫。出端を察知出来れば、三手は避けられる自信がある。
そう自分に言い聞かせ、循息を意識して気を静める。幸いにして、相手に動く様子は無い。それを確かめて、漸く相手を観察する余裕ができた。
あれが、おそらく昼間に襲ってきたという鬼なのだろう。
目つきは鋭く、顔は険しい。だけど、よく見れば肩で息をしているし、腹にはどす黒い染みが浮かんだ布が荒く巻いてある。右腕は腫れてだらりと下がったままで、脚も小刻みに震えているようだ。
明らかに手負いだ。こっ酷く先輩たちにやられたらしい。
ただ、傷ついていたとしても、オレなんか一撃でやられてしまうだろう。だから、油断はできない。
大声を出して助けを呼ぶ?いや、駆けつけてくれるよりも早く、こっちがやられる。それよりも先にあの天狗が殺される!
落ち着け、と恐慌に陥りそうになる自分に声を掛ける。オレのするべきことは、師匠か、館のモノが駆けつけるまで生き残ること。出来ればあの天狗も無事で、オレも無傷だと尚良し。もう塗り壁が伝えてるだろうからもうすぐ助けが入るはず。なら、どうにかして時を稼がなければ―――
「…人、か?」
膠着状態を破ったのは、鬼の声だった。
疑いが混ざった確信、警戒に少しの安堵を乗せて、ほんの少し睨む目が緩むのが、分かった。
無言を保つオレを見ながら、ゆっくりと身を起こした鬼は、右足を庇うように立つと、その髪、と呟いた。
「その妙な色の髪は、あいつらの仲間、だろう。こっちにも手の者を遣ると、言っていたが、まさか、これから落とそうっていう敵の塒に、潜んでいるとはな…まあいい、今は有り難い」
――――は?何を言ってるんだ?
平静な顔を保ちながらも、頭の中は一気に混沌とした。
人か?って言った?髪?オレと同じような髪の色をしてる奴がいるのか?手の者を遣る?敵の塒?
それらを整理して、見えてきた事実に、背筋が震えるのが分かった。
――――人が、鬼と手を組んで、白鳴山を攻撃しようとしている。
恐れていたことが、現実だった。
オレが師匠に確かめたかったこと。そして同時に聞きたくなかったこと。
時折皆が向ける警戒と、先輩たちが会ってすぐの頃向けてきた疑いの目。そこから、もしかしたらと思っていたこと。
天狗と人が、敵対しているんじゃないかという、恐れ。
それは、オレが天狗に成ったら、人と敵対しなきゃいけないということで―――
鬼の足元で天狗が咳き込むのが聞こえて、はっと意識を現実に引き戻した。
いけない。今は考え込んでる場合じゃない。先ずは、この状況から脱することを考えなければ。
幸いこの鬼にとっては、オレは敵とは思われてない。これをどうにか利用することはできないだろうか。
「おい、お前らには、妙な術があるだろ?あの、くりすとかいうやつに、早く連絡してくれ。あと、あの体を治す術も、頼む。くれた、結界破りの道具が、あっても、流石にあの鳥野郎の、封じはきつかったぜ」
忙しなく息をしながら喋る鬼の言葉を、注意深く聞いていく。
鬼に協力してる人の名前は、くりす。結界破りの道具とかいうのは、今鬼が触ってる、首にかけた石だろうか。
それより、この鬼がオレと間違えている奴らは、『体を治す術』と『妙な術』…聞く限りでは、遠くにいる相手に連絡する術を使えるようだ。
「…良いでしょう」
心臓が緊張で爆発するんじゃないかと思いながら、オレは決死の覚悟で口を開いた。
大丈夫、澄ました顔は得意技だ。ここは、鬼の仲間のふりをして、なんとか隙を作るしかない。
ただ、鬼からは警戒も感じる。まだ仲間かどうか確信が持てないのか…そもそも人を信用してないのかもしれない。
だから、単独で敵地に潜伏できる程しっかりした人物を演じなくてはならない。信用されてなくても、疑いを持たれないように、そして侮られないようにだ。
「連絡は何と?」
表情は薄く、出来るだけ口数は少なく心掛ける。
こちらの動揺はあちらの不審を生むだろう。だから必死に引き攣りそうな顔を引き締める。それにぺらぺら喋ればぼろが出るだろうし、言葉の足りないところは向こうが勝手に想像で補完してくれるだろう、というかそうであってくれ!
オレの必死の演技は何とか上手くいっているみたいだ。鬼は特に不審がる様子なく、ああ、と呟いて言葉を続けた。
「敵は孤軍かつ寡兵。だが、侮り難い強者在り。備えを更に厚くし、取り決め通り機を待て、と…まあ、あんたがいる、ってことは、前半は要らん、だろうがな」
軽く頷き返しながら、震えを抑えて呼吸を整えた。
取り決め通り、機を待て…?それって、もう攻め込む準備をしてるってことじゃないのか!?それに孤軍…って、援軍が望めないってことか!?…いやいや、この鬼にはそう見えたってことだ。それだけだ。きっといざとなったら他の天狗も助けてくれる。そう信じよう。
もう虫の息の天狗は、幸い首から腕が外れたものの、意識は殆ど無いようだ。今にも死んでしまうかもしれない。不安と緊張で押し潰されそうになりながら、動揺を押し隠し、今どうすべきかを必死で考える。まだ誰も来る気配はない。もしかしてまだ気づいてないなら兎に角、他のモノに報せなくてはならない。
オレはふと、とあることを思いついて徐に横の壁に近づいた。
途端に鬼の警戒感が跳ね上がる。やっぱり、完全にこちらを信用してる訳じゃないなこいつ。
「…何してる…!」
低い声を発する鬼に、口の前で人差し指を立ててみせ、壁に耳を寄せた。館の中の物音を探ろうとするように。
その意図が分かったのだろう、鬼は黙り込んで、警戒を前と同じぐらいに収めた。
一方のオレは表向きは平然としながらも、必死に体の陰で壁に指を走らせていた。
『しらせて』
もう限界無理お願い塗り壁誰でもいいから早く助けを…!!
壁を擦る指先が、突如出来た凸凹に引っかかった。
辿る指先に神経を集中して、そこに出来た溝を確かめる。
『だいじょうぶ』
どういう風に!?喉から出かかった声を飲み込む。危ない。顔がちょっと引き攣った。
あ、鬼が緊張してる。多分何か誤解してるな。取り敢えずもう一回澄まし顔を作って、人差し指を口の前に立てて合図する。
あ、よかった。真面目な顔で頷いてる。
その間に、壁に刻まれた溝の形が変わっていた。
『もうみている』
もうみている…もう、見ている?
祈るような気持ちで、鬼に集中していた意識を周りに向ける。
――――心配と、軽い緊張が、いちにい、さん、し。
良かった。思わず小さく溜息を吐いた。少なくとも、館のモノの気配が四つ、近くにある。きっともう、大丈夫。
オレの溜息に目敏く気付いて、鬼が「行ったか…?」と囁く。
それに短く頷いて、次の行動を考えた。
おそらく、師匠たちはあいつを取り押さえる機会を窺ってる。その妨げになってるのは、多分、鬼の足元に転がってる天狗だろう。あの位置にいたら、鬼を何とかする前に踏みつぶされ兼ねない。
だったら、何とかして鬼をあそこから引き離すしかない。
「ここでは目立ちます。移動しましょう」
「…目立つ?」
鬼が訝しげに眼を眇めたのを見て、血の気が引いた。
うわしまった!ここ、館の建物の陰と林の間だ!!目立たないね!!
「…見回りが」
敢えて目線を外して周りを見渡しながら、言葉を短く止める。
さっきは言葉が長すぎた。もっと相手に想像させる余地を残さねば。という反省を生かしてみたんだけど、見回りが来たら直ぐにばれちゃうから行きましょうって意味に取ってくれたら成功!どうだ!!
「そうだな…確かに壁沿いに来られると…」
鬼はそう言って不安げに見回している。
よっっっしゃ!成功…では、ないなこれは。
寧ろ不信感が増している。緊張感と、敵意が膨らむ。だけど、まだ迷いがあるから直ぐに飛び掛かってくることは無さそうだ。
まるで切れそうな糸の上に立っているかのような心地だった。だけど、オレは芝居を続行することに決めた。
表面上は、鬼も納得したことにしているし、何よりオレが今諦めたら、あそこで呻いてる天狗が助からない。
助けられるのに、諦めるのは、絶対に嫌だ…!
オレはふと、ひとつの手段を思いついた。
要は、あいつが、あそこから離れれば良いんだよな…?
だけど、これは出来れば、やりたくない…。
呻き声が聞こえた。煩く鳴く虫の声の間で、倒れ伏した天狗の、殆ど意識のない呻き声が。
そこに乗る恐怖、そして絶望―――無力感。
かつてオレが感じたのと同じ、底なしの穴に落ちていくような心地がしているんだろう。それを悟る。
――――今、こいつを助けられるのは、オレだけだ。
オレは腹を括った。
「ところで、貴方は何故、この山に近づいていたんです?」
気のない振りをして―――振りだとわかるような唐突さで問う。
「…聞いて、いないのか。偵察だ」
安堵が消えて、不信感が増す。口調も短く、声は低くなる。
「ああ、そうでした」
ちょっと考える素振りをして、如何にもいい加減で胡散臭い返しをする。鬼は、ほんの少し、身を低くしたようだ。…構えたか。
「傷はどの程度です?」
「何?」
「だから、傷はどこと、どこですか。治して欲しいのでしょう」
唐突に話題を変える。あくまで無表情に、鬼の警戒に一切気付いてない振りを続ける。
「…治すときに、言う。本当に治せる、ならな」
あからさまに弱点を探るオレに、ついに鬼の緊張が最高潮に高まる。敵意が漲り、あとほんの少しのきっかけで爆発しそうな昂りが感じ取れた。
――――頃合いだ。
ここまできたらもう、後戻りはできない。意を決して、最後の仕上げに取り掛かった。
「…では、治しに行きましょう」
ええい、ままよ!
くるりと、鬼に背を向けた。
その瞬間、地を蹴る重い音が響く。
攻撃の意志が脳裏に閃き、重い塊が背中に向かって飛んでくるのが分かる。オレは反射的に走り出そうと足に力を込めた。だけど、予想以上に鬼は速かった。走っても間に合わない!身を捩じっても当たる!避けられない!!
混乱、恐怖。死の予感がオレの中を駆け巡り、四肢の動きが鈍くなって、半分振り返った視界に映るものが、実際よりもゆっくりに見える。
迫ってくる鬼、突き出される腕、指に生えた爪が鋭く尖る。
胸を抉ろうと狙うその凶器を見ながら、オレに成す術はない。ああ、当たる。
ただ見つめるその視線の先で、があん!と凄まじい音がして、鬼が止まった。
壁から生えた腕が、オレの胴を丸ごと握るように掴んで、鬼の爪はその腕に遮られて止まっていた。
「何!?」
上がる声は鬼の物。驚愕を隠せないその横に、すっと黒い装束のモノが現れた。
元からそこにいたように、瞬きの内にそこに立っていた天狗に、鬼が気付いたときにはその脚が振り抜かれていた。
傷を負った右足に、容赦なく踵が突き刺さる。間髪入れずに腹に肘が打ちこまれ、よろめき、崩れ落ちそうになりながらも堪えたその首筋に、無造作に手刀が叩き込まれた。
呆気無い程簡単に、鬼は倒れて動かなくなった。
「三太朗」
いつもと同じ穏やかな声が、掛けられる。
「怪我はないか」
見上げたそこには、普段通りの、凪いだ黒い目が、こちらを見ていた。
塗り壁の腕から解放されて、自由になった体で振り返る。
倒れた天狗が、双子に支え起こされているのが、月明かりに照らされていた。
がさがさと音を立てて、林の木々の間から歩み寄ってくるのは巨大な狼。
もう一度、目の前の師を見上げて確かめた。確かに、高遠さまだ。
「ししょう…」
安堵のあまり、オレは膝から崩れ落ちていた。
それを温かい手が支えてくれる。
「良くやった」
そして、褒めるように頭に手が置かれた。
聞きたいことも、気がかりも沢山あるけど、取り敢えずはオレはやり遂げたのだ。
いつも読んで下さってありがとうございます<(_ _)>
活動報告にて、高遠師匠のラフ画を公開いたしました。ご興味のある方は宜しければご覧になって下さいまし^^
次回は多分、小雛ちゃんのお話が入ります。