三十 泉
8/26 一部誤字修正。あと、後半が分かりにくく感じたので加筆しました。
「必要な量は、これだけ」
無色の液体が、器に注がれた。
水のように透明で、曇りなく澄む。しかし水よりとろみがあるのか、少し大人しい揺れ方をしている。
掌に納まる程の器に六分目程。
多いとも少ないとも分からない。
しかし、これがこれまでの過去を切り離し、これからの未来を繋ぐものだと思えば、やはり少ないかもしれない。
「試せるのは、一度だけだ。途中で飲み止めたり、吐きだしたりすれば、次は無い。体が薬に慣れて、充分な効力が得られぬ」
手にある中身の減った銚子に、元のように革の蓋をして、師はそれを懐へと仕舞った。
そうしながらも、目は器の中にある薬に向いている。
まるで問いかけているようだ、となんとなく思う。
お前は真実、弟子を同胞へ変え得るのか。と。
「肝要なのは、一息に飲んでしまうことだ」
そうして、とん、とオレの目の前に、丹塗りの椀―――際昊水の入った器が置かれる。
師の目は、こちらに向いている。
誰も口にせず、恐らく誰も思っていない問いが、脳裏に泡のように浮かんで弾けた。
お前は真実、同胞に成り得る者なのか。と。
「…これが、天狗に成れる薬ですか」
「ああ」
問う声に、はっきりと返ってきた答え。伝わる精神にも、嘘言の陰りはない。
オレは軽く、目を伏せた。
心は意外にも静かだ。
どれ程決意しようと、また土壇場で騒めくような気がしていたのだけど。
いざその時が来た今、願いが叶う喜びに燥ぐことも無ければ、人の生に別れを告げる恐怖も無い。
ただ静かなのを確かめて、安堵する。
これは毒だ。毒であり、仙薬。
人としてのオレを殺し、人外としての生を与える薬。
恐怖であれ、歓喜であれ、ありのままを受け入れることの妨げになるだろうから、心に乱れが無いのは有り難い。
毒であること、薬であることを、両方しっかりと受け入れられていることを確かめた。
そっと器に手を伸ばすのを、見守る目は多い。
目の前に居るのは師。その左右に双子の兄弟子。
師匠の腕から肩に巻き付いている白蛇。壁際に控えたキツネとタヌキに、その隣には鳥脚の女が座る。壁際の文机には、カラスがどっしりと腰を下ろしていた。
開け放った障子の向こう、濡れ縁には巨大な狼が腰を落ち着け、その隣には鬼の夫婦が端座する。
皆が皆、オレを見ている。そうして案じている。
オレの身をか、心をか。
大きな変化を選び取り、それに挑むのを。
案じる心を静かに秘めて、ただ見守ってくれている。
それが分かったから、寧ろ穏やかな心地だった。
少し笑んでみせて、一度そっと器を顔の前に掲げる。
軽く、しかし心からの礼を捧げて、ありったけの感謝を込めた。
何処の者とも知れぬ子どもを、身内として慈しんでくれたことへの感謝で、本当の同胞になることを望んでくれたことへの感謝。
「…頂戴します」
丹塗りの器に口をつけ、ぐっと煽った。
さわさわと、歩く度に脹脛を掠める下草がくすぐったい。
向かう先は、銀に輝く霧に閉ざされて、五歩先も見えない。
霧が閉ざしているのは前方だけだが、霧に代わり、左右は低木の茂みが迫り、やはり視界を閉ざしている。
しかし木々は間に一筋だけ、道を残しているので迷う心配は皆無だった。
左右の低木を見れば、オレの背丈よりも高く、緑の葉を茂らせる枝は、小指よりも細い。
しかし貧相な印象が無いのは、青葉よりも豊かに咲き誇る、黄色の花が華奢な樹を鮮やかに彩っているからだろう。
枝々は奔放に伸びて、ともすれば道を覆い消さんとする活力がある。
誰の手入れも受けたことのない野性を持って、しかしながらどんな手入れをされた木々よりもむしろ豪奢に咲き誇る、山吹の道を辿って、オレはただ、黙々と歩みを進める。
静かだ。
時が止まったかのように、風はさやとも吹かず、花々に似合いであろう鳥の声も、ひとつもない。
ただ自分が踏み出す足音に、掻き分け進む下草の擦れる音だけが、静寂の中で大きく聞こえた。
まるで、欲しい要素だけ選んで埋め込んだ箱庭みたいだな。ぽつりとそんな考えが浮かんだ。
木は山吹だけ。地面は平坦で凹凸がなく、歩む足感覚によれば、小石のひとつも踏んではいない。
道を覆う下草も、よく見れば姿は一律で、同じ種の植物だろうと見当をつけた。
輝く霧に覆われた、黄色と緑の箱庭。
虫も鳥もいなくて、風さえ吹かない。
雑音の一切もなく完璧に凪いだその世界に、異物は自分だけなんじゃないか、なんて思うと、少々居心地が悪くて、重い足取りを努めて急かせた。
そういえば、脚が重い。
まるで、膝上まで水に浸かっているみたいに、思うように前へ進めない。
遅々として進めないのに、倍の速さで歩む程の力が要って、只々息が切れて苦しかった。
目の前には霧、左右に山吹。どれだけ進んでも景色に変化はなくて、今一歩踏み出したのは、実は錯覚なような気さえしてくる。
もしかしたら、歩いている心算になっているだけで、本当は一歩も進んでいないのじゃないかと、そんなことを考えながら、滲む汗を手の甲で拭った。
そのとき、眼前の霧が晴れた。
「…わぁ」
思わず感嘆の声が漏れる。
そこには、泉があった。
煌めく霧に薄らと覆われて、それでも向こう岸も見える程の小さな水場は、しかし心奪われる程に美しかった。
さながら地にある鏡。
水面には僅かな歪みもなく、霧に覆われた世界を余さず映し込む。
白く靄った空と、泉を囲む黄色の花木を映しこんで、その水底を覗き込むことは敵わない。
きっと澄んでいるに違いない。
そう思って、ふらりと足を進める。
ここまで歩いてくるだけで、脚はもう限界だった。
怠くて、重くて、思うように動かない。泉までの数歩が、とても遠く感じる。
疲れた。もう休みたい。
水は冷たいだろうか。少し顔を洗って、口をゆすいで、足を漬けたら気持ちがいいだろうな。
そうして、少し座って休もうか。
水に触れることを考えると、口元が勝手に緩む。その冷たさに膨らむ期待と、休む心地よさを想って。
数えるように一歩、もう一歩と進む内に、ふと泉に縮緬皺が寄るのが見えた。
歪みのなかった水鏡の中程に、風も無いのに波が立つ。
訝しんで足を止めるのと同じくして、泉の中央辺りに、大きなあぶくがいくつもいくつも湧いて出た。
見る間にその数は増えて、ぼこぼこと水は波立ち、波紋が広がって水に映る像を乱していく。
そして、それは唐突に水面を突き破ってせり出てきた。
それは、びしょ濡れの人の頭であった。
眉根の寄った、つり上がった目元は怒っている。日焼けした肌に黒い髪。ややがっしりした顎は梅干しのようにしわしわだ。
現れたのは男の顔であった。そして怒っている。激怒していると言っても過言ではない。
「くぉおらぁあああああああ!!!!」
「ぎゃああああああああ!!!」
突然響く怒声に、反射的に叫び返して、その声に聞き覚えがあることに、もう一度驚いた。
「出たあああああああ!!!」
「出たとはなんだその言い草はあ!!」
またもや条件反射で思わず叫んだ声に、お馴染みの返しがかかるに当たって、相手に確信を持つ。
「うわぁあ!父上、こんなとこでどうしたんですか!?」
「それはこっちの台詞だ馬鹿者!こんなところへお前が来るのは百年早いわ!!」
そう、河童よろしく水面に浮かんできたのは、我が信愛なる父上であった。
腰から上だけ生えたような状態で、なんやかんや怒鳴り散らしてかなりご立腹である。
いつも通りがみがみと怒る様子は、家でのそれと全く同じだがしかし、微妙に体が浮き沈みしている様子から、脚が底に着いていないのではないだろうか。だとしたらすごい立ち泳ぎだ。
着物も髪も濡れて体に張り付いていて、それを気にした様子は全くない。寧ろ、それが自然だと言わんばかりに生き生きと泉から生えている。というか、これが父上だったような気がしてきた。父上は水辺のいきものになったのか。
「…河童に転職なさったんですか?」
「何故そうなる!?」
「いえ、素晴らしい水練の技なので、それを生業にしているものにでもなったのかと。例えば河童とか」
「河童は職業ではないわ!!ってちがぁう!!貴様さては儂の話をさっぱり聞いておらんだろう!!この馬鹿者が!!」
はて、どうやら違うらしい。そして説教を聞き流しているのがばれた。そんでもって本日二度目の馬鹿者頂きました。
父上はなんで怒ってるんだろう。出てきた時から既に怒ってたし…そろそろ流石に怒り止めて貰いたいんだけど。
更に怒りが高まっている様子の父上を見ながら、はたとひとつの可能性に思い至る。
とりあえず、試してみようか。
「父上!!」
「ぅおおお!?な、何だ!?」
いきなり膝を突いてがばっと頭を下げたオレの大声に、さしもの父上も驚いた様子で説教を中断した。
その隙を突いて言葉を繋ぐ。
「父上の部屋の衣紋掛けの台座の裏に隠してあった干し柿を食べてしまって済みませんでしたああ!!美味しかったです」
「なにぃいいいいい!?おま、お前!!あれ食ったのか!?儂が、儂がどれ程楽しみに、楽しみにしていたとぉおお!!ってしれっと最後に何言った貴様!!」
「美味しかったです」
「繰り返さんで良いわこの馬鹿者!!って、ええいもう!!話が進まん!!兎に角早う立て!引き返せ!!今ならまだ間に合う!!」
「えぇ?」
とりあえず、干し柿のことは水に流してくれるようだとは分かったけど、いきなり戻れと言われて、オレはきょとんと父上を見返した。
「なんでも良い、早う立て!」
ざばざばと水を掻き分けて、近くにやってくる父上は、怖い顔のままである。
このままではあの痛い拳骨が落っこちるのは自明である。勿論落ちるのはオレの頭にだ。そしたら夜でないのに星空を拝むことになりかねない。そんなのは御免だ。
訳が分からないなりに、兎に角立たなくちゃと、足に力を込めた。
「あれ…?」
腰が少し持ち上がるも、またすとんと座り込んでしまって、思わず何度もあれ、あれ、と呟いた。
その間も一生懸命に立ち上がろうとするんだけど、脚が自分のものじゃないみたいに力が入らなくて、体が重石でも乗っているかのように重くて、どうしても立ち上がれない。
早く早くと急かす父上の声に、懸命に何度も何度も挑戦するんだけど、その回数分失敗して、その度に体は重たくなっていって、ついには上半身さえ支えきれずに、草の上に突っ伏した。
「おい!何をしておるんだ!!早う立たぬか!!」
焦ったように声をかけてくる父上に、なんとか顔だけでも向けようと、手を突いてはみるものの、ほんの少し角度が変わるだけで、それ以上は動けなかった。
「…父上ぇ…無理です…。もう、疲れましたよぅ…。オレ、沢山頑張り、ました…。だから、ちょっと、休みたい…」
必死に出した声は、上がった息が邪魔をして切れ切れになった。もう動きたくなくて、父に訴える言葉は、自然と弱音になった。
「なあ、頼むから、立ってくれ…。諦めないでくれ…」
ついぞ聞いたことのない悲しげな声がした。
これが父の声なのかと驚いて、なんとか首を捻じ曲げて、父上の顔を見た。
見上げた父上は、泉の縁ぎりぎりに立って、オレを覗き込んでいた。思ったよりも近い位置に顔があって、その泣きそうに歪んだ顔が良く見える。
愕然とした。いつも明るくて強気な父上が、弱り切った力のない顔で、悲しそうにしている。
こんな顔をさせているのは自分なのだ。そう思うと、居ても立っても居られないような焦りが滲む。
ただ、もう一度頑張ってみようとした試みは、指が少し動いただけで潰えたけど。
「…お前には、いつも無理をさせていたな。辛かったろう。苦しかったろう。お前の所為では、ないのに…」
それを見た父上は、どこかが痛い時みたいな顔をして、辛そうに唇を噛んだ。
「何も出来んかった儂を、お前はそれでも良う慕ってくれた。儂もお前が、可愛いよ」
「父…上…」
その辛そうな顔を何とかしてあげたかった。
直ぐに立ち上がって、大丈夫だからと言って笑ってあげたかった。
いう事を聞かない体に鞭打って、もう一度立ち上がろうと弱々しく足掻く。
「なあ、お前はまだ十一だ。なのに、そんなになるほどに、疲れてしまったのだな…」
そっと労わるように、父上の指が頬に触れる。
それは、氷のように冷たかった。
「…だがな、お前は此処に休むのはまだ早いのだ。お前はまだ、まだ行ける筈なのだ。だから、立ってくれ…。でなくば儂は何故、あのように…」
最後は呟きのようになった声が、先細りに弱くなって消える。
ぎりっと歯を食いしばる音がした。
父の口からであり、オレの口からも同じ音が漏れる。
涙を堪える父上と、身を起こさんと力を込めるオレが、同時に歯を食い締めた。
何を言っているのか、最後は聞き取れなかった。でも、父上が、父上なりに頑張っていたのと、オレを想っていてくれたのは分かった。
なら、それで充分なのだ。
オレはもがいた。
重くて重くて、石にでもなったかのように重い体をなんとか持ち上げようと、手を突いて、草を引きむしり、土を掻いて、膝を立てようと試みる。
息が切れて、耳鳴りが酷い。その合間に父上が、オレの名前を呟くのが聞こえた。
「…父上、待って、待ってて、下さい。オレは、負けないから。何にも、負けない。転んでも、直ぐに、立つから、だから、だから…」
ぐっと息を詰めて、体を持ち上げることに成功した。
四つん這いになって、次いで右膝を立てて足裏で地を踏みしめる。右手を膝に突いて、じれったい程ゆっくりと、中腰になって、それから、よろめきながらも、両足で立つ。
目の前に白い星がちらつく。荒い息を繰り返しながら、間近な父の顔を、ゆっくりと見上げた。
ね、できたでしょ?そう言いたかったけれど、せわしなく息を繰り返すだけで精一杯で、とても言葉にならない。
その代わりに、にっと笑って見せた。
それをまじまじと見て、父上は、漸く頬を緩める。
「流石、儂の子だ」
オレの大好きな父上の笑顔が、目の前に咲いた。
そのとき、ざわりと、小揺るぎもしなかった黄色の花群が、一斉にそよぐ。
一陣の風が草を揺らし、花枝をうねらせ、水に波を立てる。
何が起こっているのか分からずに、不安で辺りを見回していたら、父上の両手がオレの両肩に乗った。
見上げた父の顔は落ち着いていて、オレの不安も凪いでいく。
「ずっと、見ておるぞ」
微笑んで告げられた声が、咄嗟にどう言う意味か分からなかった。
「父う…へぐっ!?」
オレは腹に力強い一撃を喰らって、後ろ向きに吹っ飛んだ。
「きゃあああ!!三太朗どの!!三太朗どのっ!!」
「大将!息を吹き返したよ!!あんた!あんたぁあ!水ぅ!!」
「三太朗!!おい、しっかりしろよ!!」
「はいな!水ですか、水持ってきますぅ!」
薄らと目を開けると同時に、てんやわんやの大騒ぎの只中にいるのに気が付いた。
その場にいる皆が口々に叫び、呼びかけ、鳴き声を上げて大慌てしている。
「ぅ…ぁ」
呻く声に、オレの腹に掌底を打ちこんだ体勢でいた師匠が、顔を覗き込んでくる。
「俺がわかるか、三太朗」
まだうすぼんやりとした視界に、黒い装いの師匠が、影法師のように映り込んだ。
「…ぁぁ…黄色の花の、池で…父上が…」
「ぎゃああ!それダメな奴だあああ!!」
「そっち行くんじゃない!三太朗死ぬなぁあ!!」
「水!!水を早く!!」
「目ぇ閉じんじゃないよ!!」
「はい水!水ですよぅう!!」
差し出された椀を、師匠が受け取って口にあてがってくれた。
半開きだった口から流れ込んできたものは、甘くて、ついでに辛くて、そんでもって渋くて…。
「ぅぐぇ…」
思わず吐きそうになった口を慌てて塞ぐ手がある。
「三太朗どの!吐いてはなりません!!」
オレを抱え起こした体勢のユミさんが、背後から手を回していた。
背中に柔らかいものが当たってるのが分かったけど、それどころではない。オレは吐き気と絶望的な戦いを繰り広げた。
「飲み込め、今吐くと薬まで出るぞ」
師匠が場で唯一平静な声で、容赦のない現実を突きつけてくる。
それに何も感じる暇も無く、どん、と胸を突かれた。同時にごくりと喉が鳴って、喉元までせり上がっていたものが腹に戻るのが分かった。
「ほら、三太朗、水!!流し込んじまいな!ついでに口ゆすぎな!!」
湯呑みを突きだしてくるお篠さんに逆らわず、口に水を入れて、夢中で飲み込む。
「さんたろさん!ほら、お代わりですよ!」
「お水ですよぅ!」
更にもう二杯飲んで、漸く次の椀を自分の手で受け取れるようになった。
喉を鳴らして冷たい水を飲む。いや、お湯なのか?とにかく水と皆が言うなら水なんだろう。
最早口の中の物の温度もわからない。もちろん味も、それから臭いまでもが何もわからない。感覚が完璧に破壊されている。
ごくごくと一気に椀を空にして、ふぅうう、と深く息を吐いた。
「大丈夫か?」
覗き込む師匠の顔がまだ揺れて見える。まだ意識も霧がかかってるみたいにぼんやりしていた。
それでも何とか今の状況を理解しようと、ふらつく頭をなんとか支えて息を吸った。
どうやら、オレは天狗に成る薬を飲んで、意識を失ったみたいだ。
その成分が体に合わなくて、拒絶反応を起こした。
……とかではなく。
「…甘辛酸っぱ苦しょっぱ渋くっっっっさ……」
地獄のような味がしたのだった。
天狗になる薬は死ぬほど不味い。