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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
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二十九 望み


 窓の外を見れば、普段はあんなに連なって見える山々が、幾つも数えられずにぼやけて白い(とばり)の向こうに消える。

 それは天変地異で山は姿を消したんだだとか、妙な術でオレたちの居る山が別空間に飛ばされたのだとか、実はあの向こうにあった山は幻で、その幻を消し去った何某(なにがし)かとの最終決戦が近いのだとかいう面白げなことは期待しても無駄だ。

 なんのことはない。今日もまた雨だというだけである。


 夜の間に止んだり、昼間にも雨足が途絶えてちらっと晴れ間が見えることもあったけど、だからといって何かする程の時間も無く、また次の雨雲がやってくる。

 雨は強弱はあっても基本的に小雨で、この梅雨に入ってからの大半は霧雨が地を湿らせ、偶に強まって本降りになる、と言った具合。

 この間の雨は災害になったって聞いたから、その点で言えばまあ良かったねって感じなんだけど、オレに限って言えば、こんなしょぼしょぼ続くんなら一気に降ってカラッと晴れろよ!と言いたくなる。こんな雨とも言えないような小雨でも、そこかしこ濡れた山は危ないとかって言われて外に出られないのだ。

 オレの周りはちょっと過保護なんじゃないかと思い始めた今日この頃。


 そんなこんな、あれやこれやのお蔭で、オレはこの十日間、館から一歩も出られずにいた。

 …のだけども、案外退屈はしてないし、逆に結構楽しく過ごしている。


 雨で外に出られない代わりに、先輩たちが構ってくれるようになったのである。

 一番最初こそ、何故かオレのことを警戒してたようだったけど、それからは一切そんな気配はなく、まるで兄弟になったかのように気安く親しく接してくれるようになった。


 オレは結構、初対面の人に対して慎重になる方の人種だ。

 最初はオレだって、表面上親しくしつつ、一歩退いた視点でふたりを見る体勢でいた。

 しかし、とある共通の秘密がオレたちを結びつけたのだ。それに関しては一切言及はできない。なにせ極秘作戦だったからな。ただ、その高度に戦略的な同盟関係が、オレたちの親密度を上げるのに一役買ったのと、作戦は秘密裏に成功し、その事実は闇に葬られたのだと言っておく。



「へえ、お前八人も兄弟いんの!?」

「…っはい、そうなん、っとわっ…ほっ!」

「八人って、お前のかーちゃん頑張ったな」

「いえっ、父にはっ、妻が四人いてっ、うりゃ!」

「ほー、んじゃ頑張ったのとーちゃんか。しっかし大所帯だな」

「そうです…ねっ、つぁあっ!」

「じゃあここに来てから寂しいだろ?賑やかにやってたのが、急に山ん中だもんな」

「っ、いえ、そんな、ことはっ…ああっ」

「まあ無理すんなよ。俺らもお師匠もいるからなーっと、ほいよ」

「ああーっ……ありがとうございます」


……って、おや?

 オレは会話が終わってから内心小首を傾げた。


 なんか必死になってる内に、普通は語るだけで感傷的になりそうな、オレの繊細にならざるを得ない部分の話とか、言い方によれば涙を誘われるような気遣いの宣言とかが過ぎ去ったような気がするんだが。

 手元に必死になりすぎて、何も感じる暇なかった…。


 普段ならそこから悶々と考え込むんだけど、オレの目は、目の前で繰り広げられる頂上決戦に釘付けとなり、過ぎ去った会話のことなんかは全部「ま、いっか」という答えを付けて、解決済みの箱に蹴り込んだ。



 先輩たちは、雨で外に出られないオレに声をかけた。

 退屈そうな弟弟子にしょうがなく付き合ってやる兄弟子、という体を装ってはいるんだけど…自意識過剰だとは思うが、正直ふたりはオレに構いたかっただけだと思う。

 外に出られないなら今のうちに勉強しようかと書庫に向かおうとするオレに「室内でも武術に役立つ力を付ける方法があるんだけどな~」とか、「どうしてもって言うなら教えてやらんでもないんだけどな~」とか、ちらっちらこっち見てくるもんだから、ここは兄弟子の顔を立てて「わあ、そうなんですか。じゃあ是非ご教授願います」と笑顔で言うことになった訳だ。

 全く、弟弟子でいるというのも気を遣うものである。


 …まあ、夕餉の後にはヤタさんを中心に、先輩ふたりや、ときにユミさんとか師匠も勉強会をしてくれるようになったし、先輩たちに付き合っても別にいいよな?オレだって空気を読むってことを知ってるし、決して遊びたい訳じゃなくて、ほら、先輩たちがやりたそうにしてたから!

 紀伊さんも武蔵さんも「しょーがないなー」って言いながらめちゃくちゃ嬉しそうだったしさ。ここは先輩孝行しとくのが無難だよな。うん。


 という訳で、室内でも出来るあ…室内訓練が始まったのだ。


 瞬時の判断力を磨くための、手玉回(てだままわ)し。

これは、三つのお手玉を回しながら、その合間に出される手振りの指示に従って、手を叩く、その場で一回転する、回転を逆回しにする等を(こな)す。お手玉を落としたり、指示を読み間違えたり、指示を実行できずにお手玉が一周したら失敗。 武蔵さんが指示役に回ると不意に連続で手を変えてくるので気が抜けない。


 集中力を補う、木積(きづみ)

 これは大体指程度の大きさの木片百個を分けて持ち、決まった組み方で三人で順に積み上げて塔を作る。そして出来上がったらまた順にその木を一本ずつ抜いていく。途中で崩した者が負け。

 組み方は決まってるんだけど、積むときに、微妙に角度を変えて積んだり位置をずらして置いたりして、崩れやすい場所や、自分が引き抜きやすい場所を作っておくという技があり、他のふたりがどう言う狙いで組むのかを常に見張っていなければならなかったりするのが結構大変だ。

 紀伊さんは積み方が巧妙で、どういう仕掛けをしてるのかを簡単には見破れない。そして抜き方も上手くて、彼の手によると塔はえげつない形になっていき、抜くどころか急に身じろぎしただけで崩れるぐらい穴ぼこになっていく。


 まあその他も、谷渡り独楽とか、片足相撲とか色々な遊…げふんげふん、訓練がある訳なんだけれども、今やっているのはその中でも特に難易度の高い訓練、その名も両手指相撲である。


 その名の通り両手をそれぞれ相手と組んでやる指相撲だ。

 相手の親指を押さえたら勝ちという単純なものなんだけど、なにせ両手である。その難易度は推して知るべし。ただ、オレは初心者ということで、押さえられて五秒以内に抜け出せたら対戦は続行、それと補助で人差し指の使用が認められている。

 しかもこの訓練は人数無制限。何人とでも円陣を組んでできる特性から、オレたちは三名で指相撲していた。

 右手で紀伊さんの左手とやり合いながら、左手で武蔵さんの隙を窺うことの難しいこと。少しでもどちらかに意識が偏れば注意が散漫になった方が直ぐに捕まってしまう。


 しかも、ふたりとも必死なオレを尻目に、雑談を仕掛けてくる。それもオレが律儀に答えるのを知ってやってる節があるから性質(たち)が悪い。意地も悪い。汚いなさすが先輩きたない。

 この訓練の目的は、視野の拡張と多方面への対処に慣れることだというから、雑談もその延長だったりするのかもしれないけどさ。

 まあ、最初は頭がこんがらがって、指を別々で動かすことも難しかったけど、今は大分慣れてきて、人差し指を上手く使って、何度かではあったけど、ちらほら試合が続くようになってきたから、ひょっとすると勝ちを拾うことが出来るようになるのはそう遠くないかもしれない。今に見てろよ。


 勿論オレが奮闘してる間も、紀伊さんの右手と武蔵さんの左手でやり合ってるんだけど、オレに対するよりも凄まじい速さで指が動いて、互角の攻防を繰り広げている。それも、オレが両手ともに負けて抜けてから、今は左右どちらの手も組み合って、それぞれ別の動きをしてるときた。

 どういう頭の構造をすればこんな風になるんだかさっぱり分からないけど、目の前で実践しているひとが居るのだから、こうなりたいという欲を失わなければオレにだって出来るようになる可能性はあるはず。

 オレはいっそう目を凝らしてふたりの手元を見つめた。


 決戦、まさに決戦だ。たかが指相撲と侮るなかれ。

 ふたりの指はまるで別の生き物のように動いて、相手を罠に掛けようと、(わざ)と隙を作って誘ったり、横から上から巧みに攻め立てたり、かと思えば真正面から指の腹を合わせて鍔迫り合いを演じたりと、組手と同じく技巧を凝らして戦っているのだ。

 しかも両者とも、真剣な眼差しで手を睨みながら、世間話を続行している。なにこれすごい。


 オレが色んな意味で感心しながら、なんとか参考になる動きがないか、目を皿のようにして観戦しているときだった。

 不意に紀伊さんが爆雷を落とした。



「あー、家族かー。偶には実家に顔出してくるのもいいかもなぁ」


「…え…?」


 オレは驚いて、紀伊さんの顔を見た。

 オレの様子に気づかずに、武蔵さんが唸る。


「お袋絶対泊まってけって言うだろ。ちょっと帰るって心算(つもり)じゃ帰れねーぞ」


 いや、驚くなんてものではない。驚愕だ。オレは絶句した。

 それは、呆けたような呟き以降、言葉を続けられなくなった程の衝撃だった。


 だって、ふたりには翼がある。人ではないのは確かだ。

 天狗だ。


 天狗になったらば、人里にみだりに降りることはできないんじゃないのか。

 もう、人の間に混じって暮らすなんてことは、できないんじゃないのか。


 家族に、家族として、会うなんて、ことが…。


 ……出来る?


 またもやオレの早とちりで、思い込みで、本当は、人だった頃の実家に、天狗に成ってからも偶に帰るというのが、良く有ることだったとしたら?

 そしたら、そしたらオレは。


 心の底に押し込めた、様々な想いが湧き出して駆け巡る。

 押し込まれていた想いは、その分勢いよく飛び出してきて、掴めない程の勢いでオレの中を飛び回った。形にならないそれらは、ただ温かくて、きらきらしていて、オレの頭はぼうっとした。


 胸が温かくなって、血の巡りが体の隅々まで行きわたるのが分かった。


「…家族」

 口から出た呟きは、無意識だった。


 それを拾ってか、紀伊さんがこちらを見ずに言葉を続ける。

「んー、家族って言っても、親父もお袋も、もう五十年ばっかし会ってないから、今はどうなってんだろうな」

 それに続いて武蔵さんも口を開く。

「下手したら六十年経つんじゃ?うわ(まず)いんじゃね?絶対次帰ったら怒られるぞ…流石に」


 ……は?


「え?五十年!?先輩たちそんな年上だったんですか!?」

 素っ頓狂な声が出た。だって五十年とか六十年って、下手したら人の一生分の年数だぞ!?天狗って不老なのかすげぇ!


……ん?あれ?先輩たちが六十以上ってことは、そのご両親ってもちろん更に何十年か上なんだよな?

 だとしたら、先輩たちの両親って…。


 超高齢では!?


「は、早く顔見せてあげて下さいよ!もしかして、知らない内にご不幸があったらどうするんです!?絶対後悔しますよ!!

 必死に言い募るオレに、紀伊さんが笑う。

「あー、無い無い。うちのお袋と親父、しぶといからなー。豊芦原(とよあしはら)が滅んでも生きてそう」

「そんなの、分かんないじゃないですか!!」

 茶化した声に、オレはついに声を荒らげた。


 オレの声の調子に、うん?と首を傾げたのは武蔵さん。

「よっしゃ!」

 その隙に武蔵さんの左手の攻防は紀伊さんの勝ちに終わり、喜ぶ声が上がる。

 だけどそんなのはオレの目には映らなかった。


 だって、オレだって、ずっと元気だと思っていたのだ。

 オレが大人になって、働くようになって、一人前になったとしても、そこに居てくれると思っていた。


 白髪が増えて、腰が曲がっても、変わらず元気な様子で、あの家の中心には父上がいると思っていた。

 傍らには兄上たちがいて、老いた父上を支えて、跡を継いでいて、オレも兄上たちを支えていくんだと、ずっとずっと、それを疑わずに育った。疑うことなんて思いつきもしなかった。

 このふたりのように。


「会える内に、会いに行かないと、ダメですっ!!」

 大きくなった声に、ふたりが指相撲を止めて驚き、振り返る。

「え?そんな怒ることか?」

 きょとんとした紀伊さんに、更に(いきどお)りが募る。


「会えなくなってからじゃ、遅いんです!絶対なんて保障はどこにもないんです!!居なくなったときに、こんな筈じゃ無かったなんて言っても、どうにもならないんです!!」

 時間は有限なのだ。未来は見通せないのだ。

 その瞬間は突然で、後で何をどうしようと不可逆だ。


 五十年前に分かれて、今も両親揃って存命だというのなら、滅多にない幸運だ。

 でもその『日常』は、あと数年で崩れるんだろう。こうしてふたりが離れている内に、その時は刻一刻と近付いてくる。なのにどうしてこうも悠長に構えているんだ。


 言い募るオレに、目を丸くする紀伊さん。ただ、武蔵さんが、あ、と呟いて合点がいったように手を打った。


「もしかして、三太朗…。お前俺らが元人間だと思ってる…?」


 その言葉の意味するところが、一瞬分からなかった。

「…え?」

 張った肩の力はそのままに、頭に言葉が沁みこむと同時に間抜けた声が漏れた。

 続いて紀伊さんが「おお」と手を打った。


「ああ、そりゃ人間にとったら五十年って長いもんな。そんな経ったらよぼよぼになっていつ死んでもおかしくないわな」

 そこでオレの頭が追いついて、勘違いに気付いた。顔が熱くなるのを止められない。


「俺らの親も、天狗だよ。天狗は人間よりよっぽど長生きだから、まだまだ歳で死ぬなんてことはないし、何かあったら仲間伝いに直ぐ報せが来るから、元気なのは分かってるんだよ」

 諭すような口調で、真面目に教えてくれる武蔵さん。

 オレはその顔を見られなかった。


 だって、早とちりして勝手に怒って、謂れのないことで先輩たちを怒鳴りつけてしまった。めちゃくちゃ失礼をしてしまった。

 ちょっと考えれば分かるだろオレ!なんで人間の親を持ってて六十年とか待たせてるのに『うわ拙いんじゃね?』なんて呑気にしてられると思ったし!!そんな冷血な方たちじゃないって解ってるのに!!

 お二方からは怒ってるとか不快を感じてる気配はないのは幸いだ…じゃなくて!と、兎に角謝らねば!


「…済みませんでした!視野が狭かったみたいです…勝手に誤解して、その上失礼な口を利いてしまって…!!」

 がばっと頭を下げて謝る。

 なんでオレはこうも早とちりが多くて思い込みが激しいんだろう。いつも反省は生かせず、後悔は先に立たない。そそっかしいにも程がある。


 謝りながら肩を落としたオレに、三太朗、と呼びかける声と、肩を叩く手がある。

「こっち見ろよ」

 そう言う声は、笑い含みで柔らかい。責める調子が無いのに誘われて、おずおずと顔を上げて…

 思わず目が点になった。


「は!?えぇえ!?紀伊さん!?武蔵さん!?」

 慌てて確かめるオレに、ふたりは思わずといった様子で噴き出した。

「おう、紀伊さんだぞー」

「武蔵さんだぞー、っははは」


 よく知った声でからかう、先輩たちの様子は目を離している間に一変していた。


 その顔には、口が無かった。

 いや、のっぺらぼうになったとかじゃなくて、口の代わりになんと、つやつやした太い嘴が生えていたのだ。


「なんっなんで!?ええ!嘴!本物!?」

 驚きすぎて単語しか喋れなくなった弟弟子に、おう、触ってみるかー?なんて言いながら、ふたりは目を細めている。


「天狗はな、両親とも天狗だと、その雛は嘴を持って生まれてくるんだ。勿論最初から翼も生えてる」

「だから、天狗は普通は、一羽、二羽って数えんだ。お師匠も元は人だったし、俺らも普段は消してたから知らなかったんだよな」


 説明が遅くなってごめんな、だからお前は謝らなくていいんだよ。そんな風に言ってくれるふたり…いや、二羽は、不意にとても温かい目をした。


「お前、良い奴だな」

「え!?あの…?」

 話の転換について行けないオレの頭に、温かい掌が乗った。

「ごめんな」

「ありがとな」


 先輩たちは他には何も言わなかったけど、オレは頷いた。謝罪も感謝も受け取る意味で。

 オレがどうして怒ってしまったのかが、ちゃんと伝わったのが分かったから。

 それで、軽々しく過去を思い出させる話を振ってしまったことに謝罪と、自分たちの為に怒ったことに感謝をしているんだって、察した。そういう方たちがオレの先輩なんだと理解した。


 オレもまた、温かい気分になって、自然に笑みを浮かべていた。





















「ああ、三太朗、ここに居たか」

「ぅおおおあああ…っあ、はい!師匠」

 オレは気合を入れて引っ張っていた武蔵さんの腕を離して、廊下から部屋を覗いた師匠を見上げた。


 因みに今やってたのは訓練じゃなくて、腕相撲…もどきだ。

 だって紀伊さんも武蔵さんも、オレの力じゃ両手で引っ張ったって腕は開始の位置からびくともしやしないのだ。その秘密は内経にあるらしく、上手く使えば剛力を発揮できるんだとか。内経を使えないオレはそりゃ試合になんてなる訳がない。だからもどきである。

 最初から無理だって言われたんだけど、逆にやってみたくなるのが心情というもので、一回試しにやらせてもらったら、案の定、言われた通りだったという訳。


 そんなオレたちを見て、師匠は嬉しそうに笑った。

「上手くやれているようだな。重畳重畳」

「はい、紀伊さんも武蔵さんもよくして下さいます!」

 本心からの笑顔が浮かぶ。

 そんなオレに頷きかけて、師匠がぽんぽんと頭を撫でた。


「うん…そうだな。そろそろ良いだろう」

 その手を、頭に置いたまま、まるで探るように動かしながら、師匠が呟く。

「?…師匠?」

 何が良いんだろう。そう思って首を傾げたとき、ふっと背後の先輩たちの心が引き締まる、と言ったらいいのか、柔らかかった精神の波長が硬くなり、何かを待ち受けるように鎮まる。

「?」

 悪いものは感じなくて、交互にそっくりな、笑みを消して引き締まった顔を振り返り、更に首を傾げていたら、目の前に師匠が膝を突いた。


「そろそろ、薬を飲んでも良いということだ。三太朗」

 息が止まる。目を見開いて絶句した弟子を見て、師は目を細めた。


「…心が決まったら、言うが良い」


 心を決める、どうして。

 ああ、天狗に成る、覚悟か。人であることを棄てる、決意か。

 そんなのとっくに出来てる。弟子入りを志願したときに、覚悟は固めたのだ。

 オレは、天狗に成るためにここに居るのだ。


――――そう思うのに、なんで、どうして、手が震えるのか。


 走馬灯のように浮かんでは消える、故郷の風景。家族の顔。思い出。


 先の勘違いで飛び散った、心の底にあったもの。


 紀伊さんと武蔵さんのご両親は天狗だった。

 それを教えて貰ったときに、オレの甘い幻想は白紙になった。


 お二方から貰った謝罪には、オレに期待させたことも含まれてたんじゃないかって、今になって思う。

 きっと、あの幸せな瞬間のオレは、顔に出てたから。

 手元に目を落としながらも、その変化を見逃さなかったんじゃないかと思えて仕方がない。


 ちょっと考えたらわかる。人から物の怪になった奴が、人の家族に受け入れられるなんて無理だって。

 家族に拒絶されるなんて、オレの考えが甘いのか、そんな想像は全く浮かばないけれど、髪と目の色が違うだけで気味悪がった奴らが、完全に人じゃなくなったオレを受け入れる訳がないもの。

 きっと、彼らはオレの家族にもあの目を向けるようになる。

 化け物の血筋。子どもが化け物なら、親兄弟もそうに違いない。そう言う声がまざまざと思い浮かぶ。

 残念ながらこれは、オレの考えすぎではないだろう。


 そんなの耐えられない。


 だから、ここが最後の機会だ。


 進むか、戻るか。

 今なら…今なら戻れる。

 あの場所へ、あの人たちのところへ。



「師匠」

 踵を返して出て行こうとしていた師匠を呼び止めた。

 その声は、オレが意図した以上に静かに響いた。


「なんだ」

 ゆっくりと振り向いて向き直った師が見たオレは、微笑んでいるはずだ。


「お時間を、頂く必要はありません」


 ひとつひとつ、飛び散った欠片を拾い集めて底へ戻す。

 それぞれ丁寧に確かめて、大切に仕舞い込む。


 確かに揺らいだ。こんなに簡単に決意は揺らぐ。帰りたい気持ちが、確かにあるから。

 だからこそ、今すぐに返事をしよう。


――――オレはあのときの無力を、忘れていないから。

 だから、どれだけ考えても、選ぶものは、ひとつだけ。


「師匠のご都合が良いなら、直ぐにでも」


 見つめる灰の眼差しを受け止めて、黒い目が、確かめるように見返してくる。

 それに、怖気ることなく真っ直ぐ応えた。


「薬を下さい。オレは天狗に成ります」


収めた宝物が、もう飛び出さないように、しっかりと蓋をして。


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