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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
32/131

幕間 苦渋

まるっと全部シリアス回。衣織ちゃんのお話と、その裏。


※今回、組み手とかじゃない暴力表現と、女性が乱暴されそうになる表現があります。未遂ですが、苦手な方はご注意下さい。


「…こんぼー…くるこんぼー、くるくるまわぁて…」

 茫洋と漂った歌声が、空へと送り出されてはどこへも着かぬままに、雨音に紛れて消えていく。

 衣織(いおり)はもう随分と前から、雨垂れ滴る軒越しに、雨空を見上げて蹲っていた。


 …いや、なんとなく気が惹かれて、空を見上げて座り込んだのはついさっきだっただろうか。

 ふと歌うのを止めて考えかけたけれども、衣織の中で時の経過は曖昧模糊として掴み処がなく、考えても無駄に思えて、結局は直ぐに思い出すのを止めてしまった。


 どうせ、一日にこなさねばならない用事など、全て人に取られてしまったのだから、今が何時(いつ)で、何にどれだけの時間をかけたかなんていうのに意味など無いのだ。

 

 ぼんやりとした目を、また降り続ける雨に向けて、あの時の雨とは別物みたい、などとぽつりと思ってみる。

 今度の雨は、梅雨らしくしょぼしょぼと降り続く雨で、偶に雷が鳴って強まることはあっても、前の豪雨と比べれば酷く大人しいものだった。



 あの雨の後、衣織は村長(むらおさ)の屋敷に連れてこられた。

 屋敷と言っても、衣織が小さなころ見た町のお館と比べたらとても小さなものではあったけれど、この集落の他の家に比べたら二倍も三倍も大きくて、丈夫そうな柱と、雨漏りの跡のない屋根の建物だった。

 そこへ手を引かれてきて、衣織の住んでいた家には無かった、畳敷きの部屋で寝泊まりするように言われても、嬉しいともなんとも思わなかったけれど。


 炊事も掃除も洗濯も、全て村の女たちによって片づけられて、衣織にはすることが無かった。

 ここで衣織に求められているのは、外に出ないで大人しくしていることと、生きていることだけだったから、何もしなくても叱られたり、嫌味を言われたりということは無かった。

 寧ろ何もしないでいる方が、周りの人々がほっとしているように見えた。

 そんな風だったから、今まで特に何もしないで食事を貰うのに後ろめたく思ったり、何かしなきゃと焦ったりということもなくて、ただ平坦な心のままに、ぼんやりと日々は過ぎていく。


 ただ、どんな時でも…それこそ風呂や(かわや)でも…一人か二人は衣織の傍にいて、逃げ出さないように、自害しないように見張っているのは、時折意識の端に引っかかったのだけど、今の衣織にはどうでも良いことのひとつだった。



「…たぁかいやぁまーかぁらー…たにぞーこみぃれーば…」

 また、誰にとっても意味のない童歌(わらべうた)が、頼りなく空に差し伸べられる。


 梅雨が終われば夏が来る。夏が過ぎれば秋が、そして秋の収穫が終われば、秋祭りが行われる。そうして、祭の日の満月が山の端から顔を出したら…衣織は祠に捧げられるのだ。


 あの日、水神の為に川に放り込まれることは無かったけれど、今度はお山さまへの供物になること―――人身御供になる未来には変わりがなくて、衣織にとってはそれが今日が五月(いつつき)後になった違いでしかない。


 あの、真っ黒な雲がふたつに裂けて、青天が広がった後、村長の家に閉じ込められてからも、衣織はずっと待っていた。

 特に抵抗なく連れてこられたのは、あの信じ難い奇跡が起こったとしても、夢に見た茶色の破壊の波が駆け下ってくるのだと思っていたからだった。

 衣織はずっと待った。待って待って、待ち続けて…まんじりともせずに、明るい朝日を顔に浴びたとき、ついに悟ってしまった。


 もう、山津波は来ないということを。


 お山さまという神は、雨を止ませて大水を止めて、今まで衣織の絶対だった、夢のお告げまでも(くつがえ)して、この村の人たちを助けたのだ。


――――私だけを差し出して助かろうとした、この人たちが死ぬことはもうないんだ。


 そう思った時、衣織の中の全部が、もう何もかも残っていないような気がした。

 今までだったら、なんとか逃げ出そうとしたかもしれない。村の者たちに恨み言を吐いて、あらゆる言葉でなじって、死にたくないと懇願して、絶望して泣いたかもしれない。それとも、供物として祠に置いて行かれたときに、なんとかして逃げ出そうと、小刀でも探して隠しておこうとしただろうか。


 だけど、止む筈のない雨が、雨雲ごとかき消されて、来る筈だった山崩れが起きなかったことで、衣織は認めてしまったのだ。


 村人が『お山さま』と呼ぶ神の存在を。


 あれだけの奇跡を起こす神から逃げ出す気力なんて、気が付けば全部無くなっていて、衣織の中に出来上がった(うつろ)には、もう何をする力も残っていなかった。


 だからだろうか。衣織の中の、忌まわしいモノを…衣織を忌まわしい者にしていた力をうち破ってみせた神のために、死んでももう構わないと思ったのは。

 あるいはもう、疲れたのかもしれない。厄災を垣間見ることも、それに恐怖することも。

 誰にも言えない、解ってもらえないという孤独にも。


 そうして、自分でも意外なほどすとんと、自分の終わりを受け入れてしまった。


「…はりわいどーんどど…これわいどーんどど…」

 命の終わりを認めてしまってから、昔のことばかり思い出すようになった。

 両親と暮らしていた町の家の匂い、川に弧を描いていた橋の欄干についと止まった蜻蛉の赤色、汲んだ井戸水がたぽんと跳ねた雫の煌めき、お父さんが撫でてくれた手の温もり、お母さんに教えて貰った童歌。


 過去に浸りながら、それでもしんと動かない心のままに、次々に思いついた歌を口ずさむ。

 手から離れていったものは、とても綺麗に思えたけれど…今の衣織には、意味がないものだった。



「…おいっ」


 潜めた声が聞こえて、衣織は歌を止めて目を(しばたた)いた。


「おい、衣織、聞こえてるんだろ?こっちだ」

 声のする方に反射的に目を向けると、濡れ縁の下から、ひょっこりとひとつの頭が飛び出していた。


「…応太(おうた)…?」

 そこに居たのは、村の子ども…と言ってももう大人と同じように働く歳の、近所の家の応太だった。


「そこで何してるの…?」

 近寄って見れば、雨の中をやって来たのか、応太はびしょ濡れだった。

 寒そうだな、なんてぼんやり見ていると、突然手首に熱を感じて、ひっと喉が勝手に鳴る。目の覚めた想いで見てみれば、応太の熱い手が、衣織の手首を握っていた。


「何ぼんやりしてる、逃げるぞ!」

「…逃げる?…どうして?」

「しゃんとしろよ!このまんまじゃお前、祠にやられちまうんだぞ!!」


 苛立って声を荒らげた応太は、はっとしたように慌てて周りを見回した。

 つられて辺りを見回した衣織は、様子がおかしいことに気付いて怪訝な顔をした。

「ねえ、なんで誰も居ないの?」


 いつも衣織を見張っている筈の、交代でやってくる村の小母さんや姉さんたちが、いつの間にか一人も居なかったのだ。

 応太が小声ながらも叫んだ声にも、誰もやってくる気配はない。

「表に行商が来てんだよ。そん人らが引きつけてくれてんだ!荷物ん中に入れてくれるように頼んであっから、行くぞ!!」


 急に腕を引っ張られて、衣織はたたらを踏んだ。

「ちょっと、待って。止めてよ応太…!」

 衣織を引き摺るように歩き出そうとした少年に抵抗して、衣織は座り込んだ。


「何してる!急がねえと人が来る!」

 焦ったように腕を引くのを懸命に引き返して、衣織は「いいの!」と声を上げた。

「いいの、私。祠に行く。だから、こんなことしなくていいの」

 邪魔をしないで欲しかった。このまま心安らかに過ごしていたかった。

 もう衣織の中では、逃げようとか嫌だとか思うところはとっくに突き抜けていて、あの奇跡を行う神の元へ行くのはもう決まったことだった。

 逃げようなどという気は起きない。この力を神が引き受けてくれるなら、それでもう、良かった。


 応太が、信じられないとばかりに衣織をまじまじと見た。

「そんな、生贄へ出されるの解ってんのか!?祠へ供えられた娘で帰ってきたのは只のひとりもいやしないんだぞ!!」

 何をいまさら、と衣織は思う。そんなのは先刻承知なのだ。だって、あのべったり曇った空と、何もかも押し流そうとする雨と…全部を壊すはずだった山津波をすっかり止めてしまった神だ。他の土地の、居るかいないかはっきりしない神と違って、実在する、神。

 受け取る手があるのに、供え物が返ってくる道理が無いではないか。


 だから、衣織は言った。

「知ってる。知ってる上で、良いって言ってるの。私は祠に行くって決めたの。だから、応太はこんなこと止めて、見つからない内に帰った方がいいよ」

 それを聞いて、応太は目を見開いて固まった。

 解ってくれればいいけど、と思いながら見守る目の前で、食いしばられた歯が、衣織にまで聞こえる音を立てた。


「…お前が良くても、おれは、嫌だ!」

 視線が熱を帯びる。それに恐怖に似た驚きを覚えて、身を引きかけるのをまた手首を引かれて、あっと思う間もなく、応太の腕に囚われた。


「衣織、お前が十五になったら、春祭りで花冠を編むって決めてたんだ!なあ、だから、祠に行くなんか言わねえで一緒に逃げてくれ!」


 痛い程の力で肩を掴まれるのを感じながら、衣織は呆然とその声を聞いた。

 春祭り?春祭りで花冠を?私に?

 春祭りの夜には、意中の相手に蓮華(れんげ)で花冠を編んで渡すものだという知識を、なんとかかんとか引っ張り出す。

 そうしてまじまじと、初めて見たような心地で応太を見た。


「おれが護ってやっから、一緒に行こう」

「一緒に…?護って…?」

「そうだ、一緒に、生きてくれ!」

 衣織の目を受けて、真剣な眼差しが返される。


 束の間様々な想いが胸中を(よぎ)った。

 自分だけを見て、微笑んでくれる相手。好きだと言ってくれて、傍にいてくれる人。危険を顧みずに、飛び込んできて、護ってくれる、そんな他者が、本当はずっと欲しかった。心の底から求めていた。そんな人に、なってくれるとそう言うのだ。応太は。

 目くるめく、甘い未来が、頭の中に展開していく。

 別の土地に逃げて、小さくても構わないから家を持って、細々とでも良いから暮らしを立てて、いつか子どもが出来て、一家で(ささ)やかにでも、幸せに…。


 そこまで考えたとき、その想像が両親と自分に被った。

 垣間見た地揺れ、潰れた家、自分が言った通りに起こった地震に、優しかった両親の目が冷たくなって、微笑みを向けてくれていた顔は、気味悪そうに歪んで。


 頭から氷水を浴びせられたような心地で、衣織は身震いをした。

 これを応太は知らないのだ。応太はこれを、受け入れてくれるのだろうか。

……自分はこれを、彼に打ち明けられるのだろうか。


 ふらふらと、引かれるままに踏み出しかけていた足を止めて、少年を見上げた。

 じっと探るように見上げた応太は、焦った顔をしてしきりに周りを気にしている。


――――彼なら、こんなに怯えながらも来てくれた彼なら…受け入れてくれるかもしれない。


 幸いまだ人の気配はない。遠くから、談笑する声が幽かに聞こえてくるようだけれど、応太がここに来ていることを気付かれた様子は無かった。

 時間は、まだある。

「ねえ、応太。まだ気付かれてないみたい。今、少しだけ…聞いてほしいの。私、ね「うるせぇもう良いから行くぞ!!」

 勇気を振り絞って言おうとした言葉は、乱暴に遮られて途切れた。


 力任せに腕を引かれて息が詰まる。驚きに硬直した足がもつれて転倒する。

 衣織に一瞥だけくれた応太は、それでもぐいぐい少女の腕を強引に引いて連れて行こうとする。引き摺られて体が床の上を少し滑った。

「立て!立てよ!ああ、もう人が来る…!早く、早くしねぇと…!」


 強引なその腕に、遠慮のない力に恐怖が沸いて、何も考える余裕も無く首を振った。

「…や、離して…」

 怯えて震えた小さな声が喉を震わせる。

 その途端に、応太がぴたりと動きを止めた。


 それにほっとした瞬間、燃えるような眼差しが、衣織を射抜いた。

「お前は、おれの言った通りにすれば、いいんだ!」

「…応太…?」

 激昂した少年に、怯えて委縮するのも通り越して、唖然と衣織は見つめることしかできない。

 言った通りにすればいい…?この同じ口が、さっきは護ってくれると、言ったのではなかったか。一緒に生きて、優しい未来を、くれると…。


「なんで、なんで、聞かねえんだ!こんなに、おれがっ!ここまで来てやったってのに、まだ嫌だってのかっ!」

 衣織は身を起こした姿勢で呆然と固まった。彼は、応太は、自分を本当に見ているんだろうか?

 固まった衣織を見下ろして、少年の目は、狂ったような光を灯しているように見えた。


「…ああ、そうだ。お山さまの供物は、生娘(きむすめ)じゃねえと駄目だって話だったな」

 良いことを思いついたとばかりににやついた口元を目にした瞬間、言い様のない予感と共に、背筋を悪寒が這い上る。

「かはっ…!」

 咄嗟に立ち上がって後退ろうとしたそのとき、肩を突き飛ばされて背中から倒れる。一瞬目の前がぶれて、背中と後頭部に衝撃が走り、口から空気が漏れた。何が何だかわからない間に、寸の間気が遠くなる。


「お前は、おれのになるんだから、いいよな?」

 耳元で囁かれた言葉が、頭の中をぐちゃぐちゃにかき回す。


『何ぼんやりしてる、逃げるぞ!』

『荷物ん中に入れてくれるように頼んであっから、行くぞ!!』

『おれが護ってやっから、一緒に行こう』


 彼が言った言葉の数々。それは私を求めてくれるものに思えた。嬉しかったのは、ほんとう。

 だけど、応太は…少しでも私を気遣う素振りがあっただろうか…?


 強引に引っ張って、転んでも引き摺って、私の言葉に、耳を貸したりなんか、一度もしなかった。


――――自分の都合、ばかり。まるで、物を扱うみたいに。

 そんな相手が、この苦しみを分かってくれるとは、思えなかった。それに、気付いてしまった。


 水の底から顔を出そうともがくように、なんとか意識を覚醒させる。



 体を乱暴に這いまわる手の感触。性急に着物を掻き分けて、脚の奥に伸ばそうとしてくる腕と、のしかかられた重み、はっはっと短く吐きかけられる、生温かい息。


――――気持ち悪い…!!

 身が震えるような嫌悪が、恐怖が湧き上がる。

 何も考えられない内に、衣織は絶叫した。


「こん馬鹿がァ!!」

 罵声と共に頬に衝撃が走る。殴られたのだと分かったのは一呼吸後。


 ばたばたと廊下を走ってくる足音に、慌てて応太が立ち上がるのが、くらくらした頭でも分かった。

 

 慌てすぎたのか、すぐ近くで転ぶ音と同時に、襖が滑る音。

 途端に上がる怒号。男の悲鳴。幾つもの足音と湿った打撃音。


 衣織の頭がしゃんとなった時には、衣織は村長の奥さんに抱えられていて、応太は、庭の泥の中で、何人もの男たちに抑え付けられて呻いていた。


 何人かの女が衣織を囲み、その手に半ば抱えられるようにして部屋を連れ出される。最後にちらりと人の間から見た応太は、尚も罵声を浴びせられ、蹴り転がされていた。


 幾つもの想いが綯交(ないま)ぜになって、喉にせり上がって来たけれども、結局黙ったまま、瞑目する。

 そのまま衣織はその場を後にした。

 もう、振り返ることは、しなかった。































 雨を含んだ枝葉を掻き分けて、いくつかの影が木々の間を走っていた。

 どの者も質素な旅姿をして、それぞれ背中に荷物を背負っている。その姿だけ見れば、よく居る旅商人そのものだ。

 しかし、その動きは尋常ではない。

 一歩地を蹴れば、並みの者が十歩進むのと同じ幅を進み、しかもその速度は馬よりも速い。

 中には、布で包んだ長持ちを二人がかりで運んでいる者もいるというのに、まるで何も持っていないかのように軽々と他の者について行く。

 道なき道を物ともせず、彼らはどんどんと集落を離れていった。


 やがて先頭を走っていた男が、後ろの仲間に合図をして、隊列はとある池のほとりで止まった。


「…遅かったの、首尾はどうじゃ」

 木の陰からしわがれた声がかかり、息を整えていた男がそちらに向き直る。

 ざふり、と下草を踏みつけて声の主が進み出てくる。


 身に着けているのは袈裟(けさ)ではあったが、僧ではありえない。

 大人の男よりも一回り小さい体躯。体のほとんどを覆う、白っぽい茶色の毛。掌と顔だけが、塗られたように真っ赤な…

……そこにいたのは、巨大な猿であった。


「すんません、しくじりました」

 男が悔しげに顔を歪めて俯く。

「村のもんに手引きさせて、贄を誘き出そうとしたんですが、どうやら贄本人に抵抗されたようで…」


 それを聞いた猿が深い溜息を吐いて目を伏せた。

「そうか。やはり半月前のあの日が最後の機会であったのやもしれぬな。あのとき、後半日早く、水神の贄にやるよう人間どもをそそのかしておれば…」


 半月前の大雨の時にも村へ入り、村の寄り合いで水神に贄を捧げるようにと勧めた者は、この猿たちの手の者であった。

 彼らは大雨にかこつけて人柱を出させ、川の下流で待ち伏せて、生贄を自分たちで得ようと企てていたのだ。

 あの村だけではなく、近隣の村にそれぞれ手の者を出して同じように説き伏せ、上手く行けば何人もの贄が手に入る筈であった。

 しかし結果は芳しくない。

 殆どの集落では彼の山の主『お山さま』以外に縋るのを頑として認めなかった。そして上手く乗せられた村の者が動き出すのに小躍りした途端に、当の天狗が雨を止めてしまったのである。

 畢竟(ひっきょう)、人間たちのあの山への信仰が増すだけの結果に終わった。次に何かあったとしても、もう同じ手には乗せられぬだろうと、認めたくない予測が出揃うにあたって、最早迂遠な策を取ってはいられぬと、天狗に捧げられる贄の娘を狙ってみたもののこれも失敗。

 ならばもう、村を群れで襲って村人を根こそぎにしてしまおうという自暴自棄極まる案も出たが、そんなことをしてはそれこそ彼の山の主が、縄張りを荒らす者どもを潰しに来ることは自明。

 先だって山を囲んだ外敵の群みっつを、造作もなく蹴散らした天狗。それを真っ向から相手取って勝てると言う者は、血気に逸った若い者の中にも流石に居はしなかった。

 焦りを抱えて歯ぎしりしているというのが現状であった。


 悔しげに歯噛みしながら、大猿はぎらつく目を男に向ける。

「じゃが、諦める訳にはいかん。わしらが供物を得る処か、あの忌々しい鳥もどきめに更なる力を付けさせては断じてならん。そんなことを許せば、また彼奴に勝つ目が遠うなる。早く、あの山から追い落とし、彼の地を得ねば、我ら氏族八百の明日は無い」

 対する男は、難しげに太い眉を顰めた。


「長…他を探すのは、やはりならんのでしょうか。あの山の天狗は、もうかれこれ二百年以上も、あそこを狙うやつらをものともせずに居座り続けてるっちゅう話を聞いとります。背後以外の三方を敵に囲まれながらも二百年も負け知らずな奴と戦うより、もっと他の地に新しい故郷を見つける方が、割に合うんではないかと」

千史(せんじ)よ。女も子どもも含めた氏族の者を連れて行くのは、もう限度じゃ。疲れ切り、傷ついた者らを癒すには、彼の山に満ちる力が必要ぞ。なるほど見渡せば、他にも力満ちる山は幾らかあろうが、どれも我らの欲する物には程遠い。やはり、あの山を手に入れる他に、我ら全てが助かる道は無い」


「長っ!!」

 緊迫した声が場に響く。

 千史と呼ばれた男は、咄嗟に袈裟姿の大猿を抱えて、木の陰に駆け込んだ。


 銘々(めいめい)茂みや木の下に隠れた仲間を確認して、先の声を上げた者に目線で問う。

 それを受けた男は、強張った顔を伏せたまま、そっと頭上を指さした。


 草染めの袖を引き上げた腕で、顔の殆どを隠して、肌が暗がりから浮いて見えるのを防ぎながら、慎重に上を窺う。

 枝葉の隙間から見える薄灰色の雨空。

 一瞬何も居ないように見えたそこに、一羽の鳥が悠々と通りがかった。


 人よりも優れた視覚は、その鳥が、鳶のように高空を滑っているのを見て取ったが、それを認めてしまうと、あの鳥が途方も無く大きいこともまた認めねばならない。

 広げた翼は、差し渡しが村の家二軒合わせた幅を軽々と超える程あり、その爪は人どころか馬でさえも掴んで飛べるだろう程大きい。その凶悪な嘴の傍で光る眼は、常に地に這う獲物を探している。

 空恐ろしくなるほど巨大な、鷲。


「…あの山の、手下です」

 普段周囲を探る役目に就いている部下が低い声を出した。

「奴は、縄張りを鳥と(いぬ)を使って見張らせてるんです。あの山に近づく程、その眼は厳しくなる…我らも、雨が上がる前に動かねば、狗に匂いを追われてしまう」

「他にも、この間、天狗どもが大挙して援軍に来たとか。直ぐに引き揚げたってことですが、哨戒途中に天狗が三羽潜んでるのを見つけました…幸い、こっちが見つかる前に逃げ出せましたが」


 更に付け足した部下をちらりと見て、千史は硬い声を大猿に向ける。

「たった三羽だったのに、仕留めずに逃げ帰ってきたんです。申し訳ない」

 答えて発された声は、いいや、というもの。


「あの鳥もどきどもは徒党を組んで襲ってくるのじゃ。ひ弱なのが三羽に見えようと、必ず近くにはそれを補う役の上位の輩が隠れておる。そうでなくば、弱く見えるとも、其奴らだけで動ける力があるか…どちらにせよ、哨戒役の者だけであたるには分が悪い賭けじゃ」

 その厳しい声音に口元を引き締める周りの者を見渡し、ようやっと離れて行った鳥影を目で追って、猿の長は忌々しげに舌打ちした。


「例え彼奴らが多勢でこちらに対抗しようと、諦める訳にはいかん。潜み、機を待つのじゃ」



やっと天狗以外の妖怪勢力が出せました。これから色々増えていきそうですが、まずは猿です。


次回は、天狗家のお話に戻ります。


それと、お盆休みが今日でおしまいなので、更新頻度が週二に戻ります。

次の更新は日曜日の予定です。


8/19 最後の方のセリフを修正

 退けましたが→逃げ出せましたが

 ひけました って読んで欲しかったんですけど、しりぞけました って読むと戦って追い払ったって意味になってしまうので訂正しました。

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