二十六 悪巫山戯
三太朗さんの本気。殆ど戦闘回。
「らっ!」
短い声と共に繰り出された左手の突きを辛うじて躱す。
同時に兎に角距離を取ろうと跳び退ったが、相手はそれを許さず追い縋って、容易く間合いを詰めるや否や、今度は開いた右手で掴みかかってきた。
即座に身を引きかけるも、突き出されても伸びきらずまだ溜めがある腕を見て、咄嗟に身を沈み込ませてなんとか避けると、相手の右側へ飛び込んで死角へ出る。
しかしそれも瞬時に身を翻した相手に距離を詰められ、背を狙った掌底から横へ転がってなんとか逃げた。
――――速い速い速い!!
躊躇なく仕掛けられる攻撃は、顔すれすれを通れば髪が浮く程素早く、死角と隙を狙ってなんとかこの場を離れようとするオレを追う足捌きは素人では断じてない。
逃げの一手を打ちながら、オレの頭は混乱の渦中だ。
――――誰、何故、何っっ!?
安全だと思っていた師匠の山で、いきなり見ず知らずの者が襲って来るという事態に着いて行けていない頭は、繋ぎ合わせる余裕もなく、意味もない単語だけを浮かべる。
更に襲い来る乱撃になけなしの思考さえも弾き飛ばされて殆ど真っ白になりかけた頭で、相手の攻撃の意志だけを読み取った瞬間に半ば反射で体を動かし続けた。
しかしそれも忽ち難易度が跳ね上がっていく。
吐く息はとうに荒く、頭は沸騰しそうな程に熱く、速度を落とさない相手の動きに生まれた焦りが動きを乱して、ついに幾つかの攻撃が体を掠めるにあたり、焦りも混乱も極致に達したのか、いつしか意識自体が曖昧になる。攻撃の兆しが脳裏に閃き、身を掠める腕や拳のみ鮮やかに、その他の何もかもが形を失って、感覚の外に消えた。
「はっ」
容赦なく攻め立てる合間に、吐息か気合か、短く発された声が何故か耳に引っかかって、無我夢中の頭がほんの僅かに働いた。
考えるなんてことは出来ない程度。しかしただ只管相手の動きだけに集中していた意識が、相手の顔に浮かぶ表情を認識して意味を付けるのには充分だった。
口の両端を釣り上げて、白い八重歯を覗かせた口元。
――――嗤っている。
先に発された声は短い笑声。無様に逃げ回る相手を嘲笑う。
――――こいつは、オレを、嗤っている…!!
一瞬の棒立ちを逃さず上段から振り下ろされる手刀、笑む口元に、脳裏に焼き付いた月下の光景が重なる。
下卑た愉悦の笑み、吠えるようなけたたましい笑い声。
迫る兇刃、見下す目、荒い息、噴き出す汗、捕らえられた自分、恐怖、無力―――
「ぁぁぁああああああああああああああああ!!!」
とどめようのない衝動が、悲鳴か怒号かどちらとも取れる響きを持って、音に変じて喉を突き抜けた。全身が燃えるような熱に支配されて、頭の芯までが真っ赤に染まる。
体が跳ねるように動いて、衝動のままに敵の懐に飛び込んだ。
身を低く構えて突進する。僅かに左へ軸をずらし、見開かれた目に目を合わせて、打ち下ろされた手刀が肩に食い込むのにも構わずに、その腹の中央に握りしめた拳を打ちこんだ。
紛れもなく渾身の一撃。しかし手応えは軽い。
咄嗟に身を捻った敵は、重心をずらして直撃を避けていた。その上、当たった直後に腕を外側に払われ強引に軌道をずらされて、拳は脇腹を捉えたものの、急所どころか関節も筋も打つことはできなかった。
勢い余って脇をすり抜け倒れ込む。
だが、身に染みついた反応で、受け身を取ってすぐさま跳ね起き、跳んで距離を取った。
肩で息をしながら、視線の先の敵を睨みつける。
全身全霊の一撃は、直撃とは言えない。
こちらは疲労困憊なのに、攻め続けていたはずの相手は息も乱していない。
ただ…
オレの口元が僅かに緩む。
…ただ、目の前の顔からは、笑みが消えていた。
「…ざまぁ」
こちらを舐めきっていた相手に一矢報いてやった。
余裕の笑みが消え、代わりに驚愕して目を見開いている。逃げ回る鼠が猫を噛もうとするなど思ってもみなかったのだろう。
逃げ回るしかできなかった以前とは違うのだ。
こうして、驕り切って見下す強者気取りから、その愉悦の滲む嘲笑を拭い去ってやることができる。
構えなおした相手には驚愕の色が濃い。すぐさま襲い掛かってくることはせずにこちらの出方を窺っている。
――――オレは、強くなってる。
十分ではない。まだまだ弱い。だけど、怯えて遁走するしかなかった頃よりは、確実に。
そう思えると同時に、裡に燃える熱が、焦りと混乱を燃やし尽くして下火になり、代わりに冷静さが戻ってきた。
意識して息を整える。深く吐き、二度に分けて吸う。それを意識的に繰り返す。
息が整うに連れて、少しずつ頭の芯が冷えて、燃えるような衝動は、怒りだったのだと今になって気付いた。馬鹿にされてカチンときた、ってところだろう。
どこか他人事のようにそう分析すると、いつもの調子がほんの少し戻るのがわかった。ざっと体の感覚を探って、大きな怪我がないことも手伝って、心に少し余裕が戻る。肩に手刀を受けたが、そんなに痛みはない。
まだ動けることを確認してから、意識を相手を含めて場の全体に向けた。
驚愕を消した顔は、今は冷静にオレを見つめている。
隙の少ない構えは重心が安定していて、どんな風に動いても、さっきまでと同じく瞬時に反応されそうだ。
下へ向かう道は相手の向こう。オレの後ろは切り立った崖。この二方向への逃走は却下だ。
道へ進むには目の前の相手を越えなければならない。今までのやり取りで、オレの実力では難しいと分かっている。崖はもっとダメだ。下までの高さは裏庭の桜の木よりも高い。飛び降りたらひとたまりもないだろう。
では脇の茂みに逃げ込もうか。いや、進みにくい道なき道では、すぐに追いつかれてしまう。では、どうするか。
なんとかして館へ帰るには―――
――――何も、焦る必要はないんじゃないか?ふとそういう考えが浮かんだ。
ここは師匠のお膝元だ。もちろん直ぐにこの襲撃者に気付いてくれるだろう。師匠じゃなくても他の誰かが。そうヤタさんの配下のカラスはそこら中にいるし、もしかしたらもう気付いていて、こっちに向かっているかもしれない。
それに、オレはさっき、ジンさんの後を追ってここまで登ってきたのだった。彼は近くにいるに違いない。
相手は強い。ていうか言いたくないけどオレが弱い。オレでは相手にはならない。勝てない。殺されるより先に逃げるしかない。…そう思っていたけど、少なくとも十数手仕掛けられたが、大した怪我は負ってない事実がある。
目いっぱい研ぎ澄ませた感覚で、ぎりぎりではあったけど、殆ど全部の攻撃を躱せていた。
速くて隙は少ないが、追えない動きではないと結論する。ただ…
ちらっと一撃喰らわせた筈の脇腹を見る。特に庇っている様子はなく、どうやら驚かせただけに終わったようだ。
…ただ、逆立ちしたって打ち倒すことは出来ないだろう。
――――だとしたら、オレの今やるべきことは。
不意に相手が動いた。一直線に進んで、鋭い踏み込みと共に左の拳を打ちこんで来る。狙いは胸…!
オレは、相手の動きを初動の寸前に察知して、右足を引き、半身になって避ける。次に来る右の掌底を、相手の踏み込みよりも半拍前に右後方へ後退して躱す。
オレのやるべきことは、時間稼ぎ。
師匠か、館の物の怪が来てくれくれるまで倒されずにいられればオレの勝ちだ。オレなんかにこんなに手古摺っているのなら、師匠の配下に敵いっこないだろう。それまで兎に角耐える。
そして時間稼ぎは第一として―――オレとしてはこちらを狙いたいところだが―――第二には、隙が無ければ作ること。
その為に、一挙手一投足を観察しながら、今までと同じく逃げに徹して相手の油断を誘う。
予想外の時に一撃を喰らわせられれば、さっきのように驚いて動きが止まるだろう。そこを狙って山の中へ逃げ込むのだ。
やられっぱなしはごめんだ。
まだ腹の底で燻る怒りは消えてはいない。ふつふつと滾る衝動を押し込めて、反撃の隙を窺うのは止めない。
さっきまでとは違ってぎりぎりで避けるオレに焦れたのか、間合いを詰めて掴みかかりに来る。
広げた腕の外側へ、外側へと、常に回り込んで避けた。
…段々、相手の動きが解って来た。
短めの間合いで、手刀と掌底を多用する、一撃の威力よりも多段攻撃を重視する形式。ここぞと言うときには一点を真っ直ぐ狙う拳での突きを使ってくる。攻撃速度で言えば前ふたつよりも突きの方が速い。
足運びは常に前手を次手に繋げる、的確な位置取りに重心移動。
数手重ねる内に、折角整えた息が忽ち荒くなり、体が重くなってきた。
このままだとじきに避けきれなくなるな。そうちらと思いながらも、オレは何故か焦りも恐怖も感じていない。
あれ?と自分でも訝しく思う。
同時に、先ほどまでの切羽詰った没頭感とは違う、以前に一度だけ感じたあの、相手の動きの全部が解るような奇妙な感覚を覚えた。
――――右の手刀が来る。
感覚だけで避けていた間よりも近い距離を、風を切る微かな音と共に通り過ぎる。
――――左の掌底。
腹を狙ったそれを、踏み込みの拍に合わせて半身になって躱す。
――――旋回して裏拳。
後ろへ跳んで間合いから抜け出す。
――――すかさず追撃が来る…踏み込みからの突き。
体を屈めて頭上を通す。…ここだ!!
オレは夢中で手を伸ばして腕を取ると、即座に身を翻した。
「だりゃああああああああああああ!!!」
「っあ!?」
小さい半径の投げが決まる。
地面に強かに背を打った相手が小さく息を詰めるのが聞こえて、相手の驚きが流れ込んできた。
師匠と違って急角度で地に叩きつける投げは、我ながら自信がある。嫌という程受けて、練習で投げさせて貰って、座布団を巻いた枕で自主練習までして習得した投げ技は、我ながら完璧だ。無駄に毎日ぽんぽん投げられてないんだよ!オレの気持ちを知れ畜生!!
ざま見ろ、と八つ当たり半分に心の中だけで舌を出して、直ぐに踵を返して獣道の入口へ突進する。
後は勝手知ったる山だ。最短距離を突っ切って、館か、鬼夫婦の小屋へ逃げ込めば……!?
オレは数歩も行かずに足を止めることになった。
行く手の木の陰に、誰か居るのを感じ取ったからだ。
師匠ではない。館の妖たちのどれとも違う気配に、警戒心がどんどん高まっていく。
「…誰だ!?」
退くことも進むことも出来ずに、誰何することしか出来なかった。
「やるじゃん、お前」
そいつは、にっと笑って木の陰から歩み出てきた。
「な…!?は!?」
オレは動揺を隠せずに目を見開いて固まった。
面白そうに小首を傾げてにやりと笑う。茶色のくせ毛、勝気そうな吊り上がり気味の目、口元から覗く八重歯。
「意外と効いたわー」
はっとして振り向くと、草地の真ん中でむくりと起き上る人影。
「お前、見かけによらず結構やるのな」
にやっと笑いながら、こちらに歩いてくる、全く同じ顔の男。
同じ顔がふたつ!?
混乱し、ふたりを左右に見比べる。あり得ないことに遭った混乱と、敵が増えた恐怖が心を塗りつぶす。恐慌をきたして喚きだしそうになる一方で、頭の片隅の冷めた部分が辛うじて現状を把握して歯を食いしばる。
ひとり相手でもあの様だったのだ、ふたり相手だと言わずもがなだ。せめて距離を詰められまいと後退った。
「あ、おい、待て!」
「え、ちょっ、止まれ!」
同じ顔が同時に声を発して、ひっと喉が鳴る。
こちらへ走って来ようとする気配を察して、形振り構わず踵を返して駆けだした。
振り返って視界一杯に広がったのは、脈々と連なる山々の姿。
それを認識するのと、がくっと視界がぶれるのがほぼ同時。
踏み出した足の下には何もなかった。
「ぇああああああ!?」
崖から飛び出した体は、遥か下の地に引かれる。
耳元で風が唸る。恐ろしい浮遊感に全身に鳥肌が立つ。内臓が引き絞られるような怖気のする感覚に、ぎゅっと目を瞑ることしかできない。
いずれ来る痛みを察して、身を固くしたそのとき。
どさり、と軽い衝撃と共に、落下が止まる。
「大事ないか!?」
慌てた声が間近で聞こえて、瞼を開いた。
覗き込んでいる黒い目。翻る同色の髪の向こうに、闇色の翼が広がっている。
「し、しょう…」
高遠に呼びかけた声は、涙声になった。安堵が胸に広がって、一気に体から力が抜ける。
もう、大丈夫。
「ああ、無事なようだな」
ほっとしたような呟きが聞こえ、後頭部があやすように軽く叩かれる。次いでひとつ翼が鳴った。
たったひとつの羽ばたきだけで、天狗は風を受けて軽々と舞い上がり、軌跡を逆に辿るように上昇していく。
「「お師匠!!」」
元の広場よりも上にまで上がったとき、ふたつの声があり得ない程近くから投げかけられて、オレはぎょっと振り返った。
黒い翼をはためかせたふたつの人影が、空中に居るオレと師匠の所へと近づいてくるところだった。
「ほんっとうにごめん!!」
「いや本当に真面目にすまん!!」
オレは現在、館に帰って囲炉裏端でふたりの人物に謝られていた。このふたりは勿論、さっき高台の広場で襲ってきた者たちだ。そして、その行いを反省して平謝りに謝っている最中だった。
「戯け共が!全く、大事になるところであったのだぞ!?謝って済むと思うてか!!弟弟子を迎えに行ってくると言って出て、何故三太朗が崖から落ちる事態になるのだ!!しかも怪我まで負わせてなんの心算でおるのだ貴様らは!!」
その二名の前を行ったり来たりしながら、大鴉が三本目の脚を振り振りがみがみと怒鳴っている。
それにもふたりは申し訳ない、と異口同音に謝って、増々小さくなった。
「…あの、もういいので頭を上げて下さい…先輩がた」
オレはユミさんに肩の手当をしてもらいながら、おずおずとふたりに声を掛けた。手刀を食らった肩は、内出血して青黒く染まっている。触ると痛いが骨や筋に異常はない。
そんなことよりも気になることがあるよな?そう、先輩。この驚愕の事実である。
なんと彼らは、オレの前に師匠に師事していた天狗なのだった。
「ほんとごめんな」
済まなそうに顔を上げて、右に座った少年がもう一度謝る。
彼は紀伊さん。オレに最初に襲いかかってきた方である。
「軽く叩いて『隙有り』って驚かそうとしたんだけど、まさか避けられると思わなくてさ、つい面白くてそのまま組手になっちゃったんですよ」
後半は、片膝立てて脇で座っている師匠に向けた言い訳になった。
そうそう、と左側に座った片割れもそのそっくりな顔を上げて、純粋に驚きと称賛の気持ちをオレに向けた。
「三太朗は、紀伊の攻めをほぼほぼ全部避けて最後は投げ飛ばしたんですよ!ほんとにまだ武術を始めたばっかなのかよ!お前すげえな!!」
最後はこちらに向けて、興奮して褒めてくる。
こっちは武蔵さん。紀伊さんとは双子の兄弟で、木の陰からオレたちを見ていた方。赤い紐を巻いた紀伊さんとは違って、腰に青い紐を巻いている。
武蔵さんの言葉に、投げ飛ばされた紀伊さんもうんうんと頷いて、「さっすがお師匠が見込んだだけあるわー」「さっすが俺たちの弟弟子!」と笑っている。
にこにことそれは嬉しそうな様子は、どうやら外見上だけではなくて、心底オレが紀伊さんと渡り合ったことを喜んでいる様子に、毒気を抜かれてしまった。館に帰った時にはびんびんにしていた警戒も、見せかけではない反省と、屈託のない喜びを振り撒くふたりに既に解けて消えてしまった。
「や、でも紀伊さんは手加減してくれてたみたいですし…」
「確かに刀は武蔵に預けてあったし、足技と術と内経と飛行闘法は使わなかったけど、そんだけだぞ?始めて半月でここまで俺に渡り合えて、しかも最後は一本背負い決めるなんてやっぱお前すげえよ。俺最後の方はむきになって一発当てようとしてたのに全部避けるしさ!ほんとに大したもんだよ」
真っ直ぐに褒められて、気恥ずかしくて目を逸らした。
その先でばっちり目が合ったユミさんがにこにことそれはそれは嬉しそうに「流石は三太朗どのですね」と優しく微笑むのにとどめを刺されて、赤面を隠すために下を向く羽目になった。「そんなことはないです」と小さい小さい声で言うが、「照れるな照れるな」と更に温かく笑われてしまう。
そう言えば、高台の広場で対峙した時も、敵意や殺意は感じた覚えがないのを今更になって思い出した。
…どうやら本当に遊びの心算だったのだろう。
「「先が楽しみですね、お師匠!」」
「話をすり替えるでないわこの阿呆共がぁあ!!」
良い笑顔で師匠を振り返った双子は、すかさず上がった怒声に即座にしゅんと萎れてゴメンナサイした。
その一連のやり取りを見守っていた高遠が、手当ての終わったオレを見て名を呼ぶ。
「疲れただろう。夕餉まで少し休むと良い」
気遣いに満ちた声に、やはりほっとする。が、その言葉の裏を正確に読み取ったオレは、紀伊と武蔵をちらっと横目で見た。
「…はい、ありがとうございます。…あの、お手柔らかにしてあげて下さい」
「ん?ああ、お前が気にすることじゃないさ」
さらっと返された返答に、この後の先輩ふたりの運命を察して心中で合掌してから、オレは自室へと引き上げる。襖を閉めるときにちらっと先輩がたの顔が若干引き攣っていたのがばっちり見えた。
師匠、怒ったら怖そうだもんな。
高遠さんは、いつもは優しいけど怒ったら怖いです。
表題の「悪巫山戯」は「わるふざけ」と読みます。
前話の「悪ふざけ」は三太朗の、今回は兄弟子たちのわるふざけです。平仮名の方が漢字より可愛い印象になるかと思って、より性質の悪い方に漢字を当てました(笑)
次は一話か二話挟んで、予告通り衣織ちゃんの話を一話入れる予定。