二十二 前進
主人公の心情吐露。
考え事をしているとすぐに時間が経つ。いつもそうだ。
気になることがあるとそちらに集中してしまって、他のことが疎かになるのは悪癖だとは思ってる。ついついやってしまっては「ぼうっとしてるんじゃねえ!」と兄に小突かれて、普段に増して引っ張り回されたのが、もう遠い昔のような気がしているけれど、実際はまだこの山に来てから半月も経っていないことに気付いて驚いた。
たった半月足らずの内に、オレの生活はがらりと変わった。今までは慣れようと必死になっていたな、と振り返ることができるようになったということは、少しは余裕が出てきたということだろうか。
環境が変わっても、相変わらず考え事ばかりしている気がするのは、もう仕方がないことなのだろうとひとりで苦笑を洩らす。
寧ろ収まるどころか酷くなっているのは気のせいではないと思う。ここには、兄上がいないから。
少し躓くと原因を捜し、対策を探し、どんどん記憶を遡って内へ内へと向かうオレの意識を無理やり外に向けて、有無を言わさず他の用事に引っ張り込んで忙しくさせていた、あの人がここにはいない。止める者がいないから、止まることのなくなった思考は、どんどんと時間を消費して、ふっと気付いたときに外を確かめて唖然としたのは一度や二度ではない。
端から見ていると、ぼんやりして無為に過ごしているように見えるだろう。普通なら油を売っているんじゃないと怒られる。自分自身を見たら、多分オレも呆れるだろう。それでもここにいるモノたちは、考え事を邪魔するどころか、何やら望ましいものと捉えているらしい。
鍛錬が終わってから、どうすれば紐を解けるのかとむっつりと押し黙ったまま風呂に入り、明後日の方角を見て考え込んだまま食事をして、偶に唸ったりしながら部屋やら庭やらで腕組みして、たったそれだけで日が暮れるなんてことになったとしても、誰も何も言ってはこない。
それどころか、ふと気づくと傍らにお茶と砂糖菓子が置かれていたり、考え込みながら、疲れが出てうとうとしてしまった時には、いつの間にか上着が布団替わりに掛けられていたこともあった。
「でも、それはそれだよな…」
お世話になりっぱなしなのだから、何か手伝いなりして、せめて話しかけられたら愛想よく返事ぐらいしたい。たとえ相手が許していたとしても、オレ自身、家族でもないのに甘えている今の状態を許したくはなかった。…上の空で生返事ばかりというのは、どこをどう見たって愛想が良いとは言えない。
ふう、と溜息を吐いて、手元の冊子をぱたりと閉じた。数百年前にいたという兵法家の戦略を纏めた書物だ。
何かの参考になりはしないかと、オレは書庫で武術についての本を漁っているのだった。
けれど、沢山の蔵書の中には、実践的な武術の書や、もしかしたらあるかなと期待していた、内経や術に関する書物は一冊も見当たらなかった。もしかしたら、天狗は貴重な知識は口伝に限っているのかもしれないし、あるいはオレの知らないところに、そういう本だけ集めた部屋があるのかもしれない。
書物の劣化を案じてか窓の少ない書庫は、他の部屋に比べれば薄暗いけれど、普通の書庫に比べればなぜだか仄明るかった。これもまた何か妖術によるものなのだろう。便利だけど…まだ馴染まない。
「…違うんだな」
生活が、常識が、もしかしたら世界の、その根底が。
生まれて十一年の間過ごしたあの世界と、今入口に立って、必死に目を向けているこの世界。今はまだ、知っていることはとても少なくて、なんとなく似ているような気がしているけど、それは恐らく、知って衝撃を受けそうなことが、オレには伏せられているんだろうとこの頃ぼんやりと感じていた。
それが知らされるのはいつだろう。オレが天狗になってからだろうか。頼りないのはわかってる。何が知らされるのかと思うと不安を感じたりもする。だけど、そう遠くないと良いとも思う。
ここのひとたちは皆、優しい。大事にしてくれてる。オレのことを真っ直ぐ見て、気遣って…。
髪と目を意識せずに過ごせる日が来るなんて思ってもみなかった。普通の子どもにするみたいに、笑い掛けて、髪を撫でて、目を見て話してくれる。眉を顰める者も、目を逸らして離れて行く人も、視界の外でひそひそと囁き交わす声もここにはない。小さいころから夢見たどこか、オレをそのまま受け入れてくれる場所。
オレはぼんやりと、壁に貼られた地図を眺めた。オレの見たことのあるどの地図よりも複雑で、いっそ執念や妄執を感じる程に徹底的に描き込まれた線の集合。この国、この世界、豊芦原の姿。
傍に立って見てみれば、どんな筆を使えば出せるのか、驚くほど細い精緻な線と文字が踊っている。
その中から、この前教えられた名前を見つけ出して指でなぞった。
『白鳴山』この山の名前だ。
そこから出発して、うろりと少し彷徨った指先が、やがて確かな意志を持ってひとつの道筋を辿り始める。
濃木の宿の南側を通って、佐田端の山の峰を横切り、鱒汲川を少し遡って、馬下街道をうねり行き、青枝川を渡って、太い道を北へ外れたところ。
「…ちゃんと書いてあるもんだな」
地図で見ると、只でさえ小さい土地が、いっそうちっぽけに見えて思わず少し笑った。指の下にある文字は『東芳沢』――――故郷を表す文字。
ここはとても居心地がいい。みんな優しくて、理不尽に憤ることも、必死に自分を取り繕って笑うこともしなくていい。今のように悩むことはあっても、そんなのは瑣末事だ。そう思えるぐらいの余裕が出来た。それは、皆が大らかに受け入れてくれたからだ。
ここはとても居心地がいい。まるで夢みたいだ。だけど、だけど。
「―――兄上…母上…」
ここには、あの人たちが一人もいない。
ここは、あの家とは余りにも違う。
それがふとしたときに、とてもとても切なくなる。
家族がいない。それが不安の元になって、うじうじと悩んでしまう原因なのだと理解していた。
家族じゃないから、出会って間もないから、人間じゃないから。そんな風に無意識に周りを、師匠を、心のどこかで信じてなかった。それは、故郷の人たちを基準に考えていたからだと気付いてた。気付いて後に見ないふりをしていた。
こんなんじゃ、ダメだ。
一度目を閉じて、吐きそうになった溜息も一度止めて、景気づけるように一気に吐き出した。
顔を逸らして、体ごと扉の方へ向き直ってから目を開く。
書庫は薄明るいけれど、外の方が明るさとしては上で、明かり取りの窓から差し込む光は、柱のように真っ直ぐに薄暗がりを横切って、床に柔らかく白い模様を描いていた。
「そろそろ、吹っ切らないとだな!」
あえて声に出して言う。現実から目を逸らさないために。
天狗になったら、あの家で、あんな風に暮らすことは、もう出来やしないのだ。そしてオレは、それを望んだ。自分で選んだ。
これから大変なことは沢山あるだろう。困難に悩むことはきっと何度となくあるに違いない。そんなときに過去を気にしながら前へ進むなんてできるはずもない。
「こんなとこで躓いてられない!」
この世界で生きていくことを選んだときに、かつての家族とは、とっくに決別したのだ。それをうじうじと引き摺っていても仕方がない。もう、あそこでの生活は、とっくに終わっているのだから。
もう、兄に案じられなくても大丈夫にならなきゃいけない。
「まったく、ヤタさんが『良く思い出せ』なんて言うから、余計なことまで思い出しちゃったじゃないか」
そう口に出しながらも、心に引っかかっているのは別の言葉。
『あるじが言うのであれば、直ぐに出来るようになるであろう』
思考停止にも捉えられる信頼。盲信に近い絆。
ここまでになるには、どれ程の時を重ねればいいのだろう。何を乗り越えればそこまで信頼できるようになるんだろう。
今のままではどれだけの時間が経っても、あの盲目的な信頼の域には至れないと思った。誰に対しても、自分自身にさえも。
正直言って憧れた。そんな風に信じられる相手が欲しいと思った。信じて貰える存在になりたいとも思った。
だから、そうなるためにはどうすればいいのかを考えていた。
まだ結論は出ないけれど、見えたところからひとつずつ変わって行こうと思う。
そんな決意は全部心に隠して、建前は耳に届いた言葉の通りにしておこう。
「ここには参考になる本はなかったし、後はヤタさんの助言が頼みかなあ」
もうあの家族の中に戻ることは無いんだろう。だから、懐かしいあの日々の、綺麗なところだけを持っていこうと思ってる。そうして大切に仕舞っておこう。振り返れば直ぐに見えるところに置いておこう。
失くしたくはないから、忘れはしないけど、煩わされたくないから、必要ないものはオレの中心からは退けてしまおう。
思い出は過去に。約束は未来に。それだけで充分だ。余計な物を抱え込んだままで、現在のものを取り零したくない。過去と重ねて比べて、現在を台無しにしたくはない。
あの日々は、未来に望むのではなくて、思い出して楽しむものだ。
そう思えたから、もういい。
書庫の外へ出ると、午後の光に包まれた。眩しいついでにぎゅっと目を瞑って、ぐんっと両手を突き上げて伸びをする。
途中から関係ないことばっかり考えてたな。でも、これからは課題に集中するとしよう。
見てろよ師匠。明日からのオレは本気なんだからな!明日からな!
切り替えて行こう。いつもの自分を取り戻そう。
「絶対、課題達成してやるぅうっ」
誰にともなく決意を表明したとき、庭を横切って行くキツネを見つけた。乾いた洗濯物を山ほど抱えて、えっちらおっちら歩いていく。
「あ、ぎんじろさん、手伝います!」
言いながら、振り返らずに、書庫の戸をきっちりと閉めた。
予定していたうじうじ回はこれで最後です。