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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
20/131

十九 蒼天

ちょっと遅くなってしまいました。申し訳ない。


「……」

「……」

 ふたりの間の空隙を、さらさらと降り続く雨が埋める。

 目と目が合った瞬間から始まった沈黙は、もう十秒ぐらい続いていた。


 目線の先には、家から出てきて直ぐにこちらに気付いた鬼。

 それを見つめている、滑り落ちて尻もちをついたまま固まっているオレ。


 オレはこれからの挙動を決めかねて悩んだ。

 相手は鬼である。今まで見てきた師匠とゆかいな仲間たちとは違って、鬼といえば極悪非道の代名詞。昔話での悪役の定番にして、今なお恐ろしい逸話を量産しているという噂の妖怪である。目の前の相手も、縦はオレの倍ぐらい高く、横はオレと師匠を足したよりもあるんじゃないかと思うほど筋骨たくましくて巨大な体に、どう見ても人の十人や二十人はやっちゃってそうな凶悪な顔をして、おまけにその頬には白く傷跡が浮かび上がっていて、ただでさえ恐ろしげな容貌を三割増し凶悪に見せていると言うおまけつき。

 この鬼を見れば、普通の人は抗おうなんて思わずに恐れ(おのの)きひれ伏して命乞いし、子どもは泣き叫び、お年寄りは腰を抜かして、犬は吠え、猫は威嚇し、ついでに鶏はこけこっこと鳴くだろう。


 だったら、オレも一般人に倣って素直に(おのの)くべきなんだろうか。

 伝統に見るに、恐ろし気な鬼が「喰っちまうぞごるぁあ!」と襲って来たならば、「ぎゃあああ!お助けええ!!」と返すのが様式美であろう。オレだって例に倣うのは(やぶさ)かではない。

 でも今目の前にいる鬼は、伝統例に沿ってないからその必要がなさそうで、その対応は却下だ。相手の動きがないのに叫ぶのはいかにも不自然だし、人間の常識的には、初対面で特に理由なく怖がるのは失礼だ。


 しかし、妖怪の常識とか文化には疎い自覚はある。もし万が一『鬼たるもの、人間には怯えられなければならない』とかそういうあれだったとしたらいけないので、もし相手が驚かせようとしてきたらそれなりの対応ができるように心の準備をしておこうと思う。初対面というのは、今後の円滑な関係を築く上で大事なものだし、その辺は相手の都合に合わせるのがいいだろう。うん。


 オレが挙動を決めかねているのは、そこら辺の問題である。

 オレの常識が相手の常識だとは限らないのだ。万が一、オレが失礼なことをしてしまったとして、この鬼が見た目の凶暴さ通り短気な性格をしていたら、第一印象が最悪になるのは間違いない。だったらまずは先手を譲って、それに合わせるのが得策ではないかと考えた。

…のだけど、困った。相手が動いてくれないときはこの作戦は意味がないのだ。



 相対する鬼は固まっていた。家の戸を閉めてこちらに振り向いたその体勢のまま、指一本動かない。息も殆ど止めているようだった。軒下の雨垂れがぽつぽつとその額に落ちて頬を伝うが、それにも構わず完全な静止である。


 そしてその顔は、端的に言えば怖い。ただ、地顔が厳ついだけで、表情の方はというとどう言う顔をしたらいいのか決めかねているように、眉と口の辺りがぴくぴくしてる。ていうか、困ってる。あれは顔が怖いからよく分からないけど、困った顔だ。ひしひしと伝わってくる感情が、なんというか困り果てた人のそれと全く同じだ。

 何について困っているのか、もちろんオレだろう。状況を考えて、この鬼は、いきなり家の裏の斜面を滑り落ちてきた子どもの扱いを考えあぐねて困っているんだろう。


 こんなことを考えてる時点で分かる通り、オレには余裕があった。

 だっていきなり目の前に妖怪が出てくるのなんて何回目だ?回数でいうなら、閑古鳥のセキを入れるなら五度目だろうか。あ、師匠を入れたら六度か。殆ど毎回驚いて怯えたものだが、その全部が取り越し苦労で、要らない心配でしかなかったのを忘れてない。


 となれば流石に学習した。この山は安全地帯で、妖怪に出くわして驚いてもオレが疲れるだけなのだということを。

 危機感がなくなれば、もういい加減慣れるというものだ。


 この鬼も、特に隠れている様子なく堂々と居を構えているということは、師匠の配下なんだろう。あ、そういえば館の外に住んでる部下もいるって言ってたし、多分この(ひと)はその一例なんだな。

 オレを目の前にして、危害を加える気配無く困っている様子から見ても、起き抜けににゅっと生えてきた塗り壁の手の時の方がよっぽど怖かった。だって壁って感情が読めないんだもん。自我があるけど無機物だから読めないということなんだろうか。うーん、わからん。


「あー…えっとだな…おれは、その…あー。どうすっかな」

 ちょっと意識が逸れた間に、鬼が口を開いたが、また黙り込む。聞こえたのは、想像通りの太い低音の銅鑼声だった。


 顔が思いっきり顰められて、太い眉が寄り、目がつり上がって口元から僅かに牙が覗く。正直めちゃくちゃ怖い。

 日暮れ時とかにこの顔で急にぬっと出てこられたら、気の弱い人は倒れるかもしれない。流石のオレも飛び退くかも…いや、正直に言うと多分逃げるな。この数日を思い返すと、申し訳ないけど泡喰って逃げるわ。


 見た目が怖くとも、彼の内心は困惑の極みだ。それが分かるから、見た目の怖さがオレには半減する。なんというか、泣きそうなのをこらえてるように見えてきた…。まあそれは流石に錯覚なんだろうけど。


 状況と重ね合わせて考えるに、このひとは多分、オレを怖がらせまいとしてなんとか宥めるために声を掛けようとしたんだろうけど、どう言葉を選んだらいいのか分からなくなって結局黙った、って感じだろうか。思いきり好意的な解釈な訳だけど、的外れってことはないんじゃないかな。


「あの…」

 相手に先手を取ってもらうのはちょっと無理そうだと判断したオレは、意を決してこちらから話しかけてみることにした。

…困り果てて途方に暮れている、大柄でかつ強い(推測)大の大人を見てられなくなったということもある。


「!おう」

 はっと驚いた様子で答えた鬼に、とりあえずは確認から入ることにする。


「あなたは、高遠さまの配下の方ですか?」

「ああ、そうだ。あんたは新しく来たってえ弟子だろ?大将から聞いてる」

「はい…」


 会話が成立したことに安心したようで、ちょっと顔を綻ばせてるんだけど…ぶっちゃけしかめっ面とはまた違った怖い顔である。この鬼さん、多分顔で損してる部類のひとだ。 


「そんでよ、あー…こんな雨ん中に座ってたら、(さみ)いんじゃねえか?」

「…そうですね」

 言われて初めて体が冷えていることに気付いた。温かくなってきたとはいえ、流石に夏というには少し早い時期である。風は無いがそれでも雨に濡れていれば寒い。

 今まで寒さを感じなかったということは、やっぱりオレも緊張してるみたいだ。


「ほら、ちっとうちで火に当たって行かねぇか?おれはなんもしねえからよ。あー、やっぱ怖えぇか?どうすっかな…」

 そう言って、頬の傷跡を掻いた。ちっとも怖く感じなくて、その顔が苦笑してるのがオレにはちゃんとわかった。


「ありがとうございます。ご迷惑じゃなければ、お邪魔してもいいですか?」

 そう返せば、鬼はちょっと片眉を上げて、嬉しそうに言った。

「おう、上がってけ。遠慮はいらんぞ」




 鬼に続いて戸を潜ると、ほわっと温かい空気に包まれて、思わずほっと息を吐いた。思ってた以上に体が冷たくなっていたみたいだ。


 鬼の家は、土間に入ってすぐの板間に囲炉裏が切ってあり、赤々と火が立っているのが見える。戸を閉めた横には(かまど)水瓶(みずがめ)が並び、壁に(たらい)が立てかけられている。その奥の壁際には渇いた薪が積んであるのも見えた。そしてオレが今入ってきたのとは別の、もうちょっと大きい出入り口も。どうやらオレが入ってきたのは裏口だったみたいだ。


 特に奇妙なものはない。戸口の上や天井が高く、部屋が広めに取られているけど、思った以上に普通の家だ。

…ただ、囲炉裏の向こう側の、恐らく他の部屋に繋がる引き戸の向こうから、がたんがたんと物音が聞こえてくる。他にも誰かいるのだ。


「おい、拭くもんくれ」

「あいよ!ちょいと待っとくれ!!」

 鬼がその戸の向こうに呼びかけると、返事が返ってきた。あれ?女の人の声だ。


 土間で袖を絞りながらきょとんとしているオレを見下ろして、鬼がにやっと笑った。

「おう、うちの女房だ。おっかねぇから怒らせんなよ?」

「ちょっと!何吹き込んでんだい!!」


 その顔にすぱーん!と何かが叩きつけられた。はらり、と落ちかけて鬼の手に受け止められたのをよく見ると、渇いた手拭いである。

 ええ!?渇いた布なのに、こんな勢いよく飛ぶもんなの!?

 驚いて振り向いた先、開いた戸の前に細身の女が仁王立ちしていた。


 色白の肌、墨色の髪に切れ長の目のちょっときつめの顔立ちの美人だ。蘇芳(すおう)色の着物をたすき掛けして、片手に手拭いを持っているが、もう片手は空だ。

 人にしては平均より長身だろうが、鬼を見た後だとすごく小柄に見える。いや、額に二本の鋭い角がにょっきり生えているから、この人も鬼だ。

 オレが見ているのに気付くと、ちょっと慌てたように開きっぱなしの戸を閉めて、足早にやってくる。


「ずぶ濡れじゃないか!寒かったろ。ほら、床なんか濡れたって構やしないから、そっちに座って履物をお脱ぎよ」

 お言葉に甘えて、上がり(がまち)に座らせてもらい、濡れた足袋を足から四苦八苦して引き抜く。女性はその間に、もう一枚持ってきた布でオレの髪を拭き、火を掻き熾し、囲炉裏に掛けた鉄瓶から、湯呑みに白湯を注いでと、てきぱきと動くのだが…鉄瓶、持ち手熱いよな?布も使わずに素手で急須みたいに持ったけど、あれか、鬼だから火傷しないのか。


「ほら、ぼさっとしてねぇで上がれ上がれ」

「うわっ、はいっ」

 笑いながら巨大な掌で背中を叩かれた。多分軽く叩いたんだろうけど、オレはつんのめって転びそうになった。




 先に囲炉裏の前にどっかり腰を下ろした鬼の隣に、女性に勧められて座る。すかさず湯気の立つ湯呑みを渡されて、お礼を言おうと顔を上げたらもう立ち上がって向こうへ歩いていくところだった。…あんまりオレもぼんやりしてるつもりはないんだけど、もうちょっとはきはき動くようにした方がいいのかな。


「おう、うちのかみさんはせっかちだからよ、あんま気にすんな」

 鬼を振り仰げば、彼はにっと牙を剥いて笑った。


「オレはげんぞう、ってもんだ。ここで炭ぃ焼いたり鉄で道具作ったりしてる。あとは大将の声が掛かったら闘いに出たりな。あっちはうちのかかあで、おしのだ。あれも中々腕っぷしがつええから舐めてかかんじゃねぇぞ」

 湯で指を濡らして、囲炉裏端に『弦造』と『篠』と書いてくれる。


「はじめまして。先日高遠さまに弟子入りした三太朗です。お招き下さってありがとうございます」

 どうぞよろしくお願いします、と頭を下げれば、おおぉ、と横ざまから声が上がった。

「こりゃまた、行儀の良い子だねぇ!けど、そんな畏まんなくて良いよ、もっと楽にしときな」


 お篠さんが、何かを盛ったお皿に箸を添えて渡してくれる。

「酒漬けの(なつめ)を砂糖で煮たやつだよ。ほら、おあがり」

 甘い匂いに目を輝かせて礼を言えば、鬼夫婦はにこにこ笑った。


「大将の言ってた通りだったな」

「ほんとにねぇ」

 果物の甘さを堪能していたオレは、急いで口の中のものを飲み込んだ。


「…え?師匠がオレの話を?」

 おうよ、と弦造が頷く。

「よくうちに来て晩酌するんだがよ、この頃の話はお前のことばっかだぞ。気弱そうに見えて芯が通ってるし、中々肝が据わってて、ジンやらヤタやらにもすぐに打ち解けたから、おれも会ったら直ぐに慣れて普通に話せるだろうってな」


 聞いたときは信じられなかったけどねぇ、とお篠さんが肩をすくめる。

「この強面見たら子どもなんかみんな普通は腰抜かすもんさ。それを普通について入って来るんだ。驚いちまったよ」

「利発で真面目で、立ち直りが早くて物覚えが良いって褒めてたぞ。ちっと考え込む癖があるが、それも頭が良いからだってそらもう嬉しそうに、あれこれ教えること考えてたな」

 お篠がふふっと笑う。

「嬉しそうと言えば、三日ほど前に来たときなんかは、初めて師匠って呼んでくれたんだ、なんて始終機嫌良くなさってたねぇ。その前は、ぎんやごんには気安くなってきたのに、まだ打ち解けてくれないって難しい顔してたのにさ」

「今度の弟子は出来が良い、将来は山主(やまぬし)も夢じゃないな、なんつってよ」


 オレは俯いた。顔が熱い。めちゃくちゃ恥ずかしい。なに師匠知らない間にオレのこと褒めまくってるんですか!しかも会ったことないひとに!オレなんて迷惑かけっぱなしで!手間ばっかりで面倒かけっぱなしで、ついでにそんな風に思ってくれてる師匠のことまで、信じられないどころか、疑って。ああ…オレって最低だ。


(ぼん)

 太い声が、肩を落としたオレにかかる。おずおずと顔を上げた先には、穏やかな大人の顔があった。

「なんか溜め込んでる顔してやがんな。いっそ思い切ってぶちまけちまえよ。どんな話でも誰にも言いやしねぇよ」


 まあ安心しな、大体察しはついてるからよ。と苦笑した弦造は、どこまでも大らかで、どっしりと構えている。

「独りで抱えてると、どんどん気が重たくなってくもんだよ。だからだろ、裏のとこを落っこちてきたのは」

 口を挟んだお篠さんは、ふざけているのかと思いきや、真面目な顔をしていた。


「…悩むとあそこを落ちるんですか」

 ふざけた内容だが大当たりで、話すとも話さないとも言えずに問い返せば、大真面目に「そうだよ」と頷かれた。

「あの坂を転げてくるのは、悩んでるのばっかりさ。だからあそこは手入れをかかしちゃいないんだよ。根付く木があったら抜いて、かぶれそうな草も刈って、坂の下には物は置かないようにしてるのさ」

 だからでっかい怪我はしなかったろ、と当たり前のような顔で言われて、なんとなく力が抜けた。


「んで、なんでお前は雨の日なんざ選んで落ちてきたんだ」

 笑い含みに尋ねてくるふたりだけど、ふと感じ取ったのは心配だった。




 少しの逡巡の後、オレはぽつぽつと話し出した。

 天狗になるための修行の内容に師匠が触れないこと、まだ殆ど何も教えてもらってないこと、雨が降り止まなくて、そこから師匠を疑ってしまったこと。出ていく姿を見て追いかけて、斜面を滑り落ちてしまったこと。


 言葉にしてしまえば、オレの小ささばかりが浮き彫りになって落ち込んだ。

 はたからすれば、拾ってもらって良くしてもらったのに疑って、何も行動してない癖に文句ばかり並べているように聞こえるだろう。

「…だからオレは、師匠に褒めてもらえるようなやつじゃありません」

 小さくなってそう締めくくった。恩知らずで、気が小さくていつもうじうじと悩み、度量の狭い女々しい人間。この二人に呆れられても仕方がない。


 そこへ「坊」と声がかかって、オレは落とした目線をのろのろと上げた。

「確かにな、お前の振る舞いは男らしいと言えるもんじゃあねえ。何かをしたいと思うんならうじうじ悩む前にさっさとしちまえ。訊きたいことがあるなら堂々と訊け。男ならもっとしゃんとしやがれ」

 この山にきて初めてされた叱責は、耳に痛かったけど素直に心に沁みて行った。心からはいと答えたオレに、弦造さんは「だがな」と付け加えた。


「さっき、あの坂を落ちてくんのはお前が初めてじゃあねぇと言ったろ」

 急に飛んだ話に戸惑いながら頷くと、鬼たちは揃って苦笑いした。

「大将に弟子入りしたやつらはな、みんなひと月以内にあそこを転げ落ちて()んだよ」

「それもおんなじような悩み抱えてねぇ。あんたの前に三人いたけど、全員そんな感じだったよ」


 ぽかんとしたオレに「だから大体察しはついてるって言ったろ」「新しい子が来たって聞いたから実はそろそろかと思ってたよ」と鬼夫婦は溜息をついた。

「まだお前はわからんだろうが、うちの(かしら)はちっと抜けたとこがある上に、相当ものぐさだ。おまけになまじ出来るお方だから、自分だけさっさと了解して、他へ説明するのを忘れてるのがしばしばあってな、おれらも偶に振り回される」


 オレの目は今点になっているに違いない。

 は?師匠が抜けてる?しかもものぐさ?説明を忘れる?え?あの師匠が?


「けどね、あの方はちゃんとしてたら見た目からはそんな風に見えないだろ?だから最初の内はみんなあの方が完璧だって思い込んじまっててね、勝手に誤解して悩んで落ち込んじまうんだよ」

「だからまあ、お前は悪いとこがあったかも知れんが、全部が全部お前の所為ってわけじゃあねえ。ある意味仕方ねえってみんな分かってることだ。だから、気にすんなとは言わねえけどよ、今後の行いを正すとして、それ以上は気に病むんじゃあねえよ」


 お篠さんが湯呑みにお代わりを注いでくれながら、あの方はあんな方だからね、と微笑んだ。

「間違っても理不尽なことで怒るようなお方じゃあないから、何か知りたいならはっきりお訊きよ。そしたらちゃんと言ってくれるし、教えられないならその理由も言ってくれるはずさ。その方がお互いのためだし、ぶっちゃけて言うとあの方にとっても親切なんだよ」


 説教でもなんでもない、ぽんと投げられた言葉は、偉そうでも重々しくもないからこそ、素直にそうしようと思えるものだった。

でもオレにとっては軽くなんてない価値を持っていた。同じところで足踏みしていた輪の外へ、背中を押してくれているような気がした。


「そう、ですね。わかりました。これからは悩む前に、師匠に直接尋ねることにします」

 話を聞いてくれてありがとうございました、と晴れ晴れした気持ちで微笑うと、夫婦も満足そうに頬を緩めた。




「さあ、坊よ。お前は確か大将を追っかけて来たっつっただろ。だったらちいと急げばいいもんが見られるかもしれんぞ」

 ふいに立ち上がって弦造さんがにやっと笑った。

「いいもの?って何ですか?」

 促されて立ち上がりながら訊いても、見りゃわかるさ、と教えてくれない。


「ほら、せっかく温まったんだからこれを着て行きな。(みずち)の皮で作った外套だ。水は中に沁みて来ることは無いし、最初は冷たいように思えるけど、後から温まって来るからね。多少引っかけても破れたりしないから、山道でも大丈夫だろ。使い終わったらお館の誰かに渡してくれりゃいいからさ」


 差し出されたのは、頭巾の付いた丈の長い上着だ。光沢のある青味がかった布に見えたけど、よく見たら布目じゃなくて細かい鱗が並んでいた。

「何から何まで、ありがとうございます」

 ありがたく借りると「またいつでも顔見せにきとくれよ」とお篠はにっこり笑った。


「ほら、行くぞ。あと次来るときはこっちの玄関から来いよ。どっかの誰かみたいにいちいち坂を滑り降りて来るんじゃあねえぞ」

 冗談だろうと思って、はいと言いながら見上げた顔は、真顔だった。

 どうやらオレの前の弟子には、やんちゃ坊主がいたらしい。






 それは、背の高い木だった。

 こんなに高い木は見たことが無い。周りの木々から一本だけ飛びぬけて高い様は、低い街並みの中にひとつだけ立った塔のよう。他の木々の三倍はある、伸び伸びと育った杉の木だ。

 その巨木の、一番上に近い枝。到底体重など支えられそうもない細い細い先に、師匠が平然と立っていた。。

 黒い装いは鈍色の空に溶け込んで、ただ腰の帯の(くれない)と、肌の白がぽっかりと浮かび上がって見えていた。


 その手にあるのは、緑の葉団扇。右手に下げたまま微動だにせずに、じっと遠くの空を真っ直ぐ見つめている。

 雨が降りしきる中だというのに、上空の風に煽られて靡く髪は、いっさい濡れることなく軽やかだ。


 オレが師匠を見つけてから暫く経つけど、全く動く様子はない。

 なのに、何か妙な感じがする。オレの周りの空気が、ずるずると緩慢に師匠に引き寄せられているような気がして仕方がない。風が吹いている感覚とも違う。強いて例えるなら、緩い流れの川にでも頭の先までどっぷり沈んでいるような、そんな感覚だ。

 流れのその先へ引き寄せられて、留まり、渦巻き、高まってうねる。そんな錯覚が止まらない。

 どんどん高まっていく何かの気配に怖いような気分になって、知らず手を握り合わせ、言葉もなく見守る。


 と、黒い翼がゆるりと広がった。同時に右手が持ち上がり、団扇が構えられる。


「あっ」

 思わずオレは声を上げていた。何かが来る、ひとつの予感。

 引き寄せる流れが止まる。師匠の周りに渦巻いていた、高まり切り、収束したそれが、ふっと動きを止めて静止する。一瞬の静寂。

 刹那、右手が空を薙いだ。


 動き出す流れ。逆巻き、荒れ狂い、放たれた矢のように、加速して駆け抜ける!


 轟!と遅まきながら吹き抜けた突風に、頭巾が吹き飛ばされて背中に落ちる。叩きつけられた雨から顔を庇って上げた手の指、その隙間から見えた光景に思わず目を見開いた。


 べったりと天を覆っていた鈍色の雲が、割れていく(・・・・・)


 まるで見えない(きっさき)が切り開いていくように、押し分けられ、割り開かれ、真っ二つにどこまでもどこまでも切り裂かれていく。

 線の様だった輝く筋がどんどん太く広く拡くなり―――


――――青天が、頭上いっぱいに広がった。

 



「……晴れた」

 呆然と見上げたそこには、久しぶりの明るい青空。


 輝く青を背景に、黒々と浮かびあがったひとつの影。

 一仕事終えたように、ぐんと伸びをすると、不意にこちらを向いて、呑気に手を振った。



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