二 隠れる
12/4 表現微修正。
うちは、三代前の当主が主家から独立して興した家で、一応武家を名乗っている。
猫の額よりちょっと大きい領地は、山がみっつに平地が少し、小さい里がふたつ。それと川がひと筋。
ご先祖様は治水の知識があったようで、二代かけて土地を開墾し、川を調節した。
まさに調節だ。
水嵩が増えたときのために、溢れた水を流す池を掘り、高低差のある土地柄を生かして田畑に水を引く用水路を作った。
細い支流もこつこつ掘って、大水のときに里に一気に水が流れ込むことがないように備え、逆に雨が来ないときには水量を増せるように支流の口に開閉できる堰を作った。
それらが完成したのは先代の頃。それから仕組みは上手く機能して、段々に採れる作物は増えた。
お蔭でうちは、小さい割には裕福と言える暮らしができた。お金が余るほどではなくとも、贅沢しなければ困ることもなく、家人にもまずまずの生活をさせてやれている。
領主とはいえ、生活のために下の兄弟を出稼ぎに出したり一家総出で内職しなければならない家もあるご時勢を考えれば、恵まれていると言える。
家族も仲が悪いなんてことはなくて、いくらかいる家臣もみんな穏やかで、道理に外れた者はいない。
そんな場所に、生まれた。
追っ手は今のところいないみたいだ、と結論した。
あれから暫く経ったけど、廊下の方からは何の気配もしない。
化け物に気配なんてないと言われてしまえばそこまでだが。
方向なんて考えずにめちゃくちゃに突っ走って来たから、見失ったんだろうか?
いや、それはあんまり考えられない。幸い声は出てなかったみたいだけど、裸足で板張りの廊下を全力疾走したんだから。
足の裏の痛みを鑑みるに、足音はそれはもう盛大に上がっていたはずだ。
あ、せっかく考えないようにしてたのに。意識が痛みに向くと三割り増し痛い。
これ黒っぽくなって腫れてたらどうしよう。見るのがすごく怖い。さっき転んでぶつけた膝も、皿が割れてなきゃ良いんだけど。
痛みのことばかり考えててもどうにもならないので、とりあえず転がり込んだ部屋を見回す。
この部屋は板間ではなく畳敷きで、広さにして四畳半ほど。
座り込んだ角の右手の壁には、廊下への出入り口。
左手の壁には何もなく、突き当たりには壁に接するようにして文机があった。
その反対側の壁には押入れがあって、片側の襖が開いている。中は空っぽだった。
出入り口の向かい側は全面障子で、それを開ければ外へ至るのか、昼の日差しが穏やかに差し込んでいる。
それで、全部だ。まさに使われていない客間の風情。
殺風景と言える部屋には、害を与えるなにものの姿もない代わりに、ずきずきしてる何箇所かを手当てできる布や水なんかもない。
……助けてくれるだれかもいない。
――――ダメだダメだ。後ろ向きなことを考えては。
取り乱してはいけない。一人なら尚更しっかりしないといけない。
泣いたって何の得にもならないし、聞きつけた母上が様子を見に来るなんてことは有り得ないのだから。
じんわり浮かんだ涙を乱暴に袖で拭う。
もう動きたくないけど、このままここにいるのも怖い。
今にもあの、人の頭を握り込めるぐらい大きい手が壁から生えてくるかもしれない。
もうここにオレが居るのはばれていて、しゅっと生えればいつでも捕まえられる状態でもおかしくはない。
でももしかしたら、あの手は移動するのに時間がかかるもので、オレを見失ってうろうろと探しているっていう幸運も、可能性としては有りえるんだ。
前者だったらどこにいようが同じだけど、もし後者だったら、このよくわからない屋敷から逃げ出すことだって出来るかもしれない。
走っていた間は必死だったからよく覚えてないけど、少なくとも四度は角を曲がった。分かれ道も三回は見たし、長い直線が二回はあった。
それは、この屋敷はかなりの広さがあるということ。
――――というか家だって言うのがおかしいよこれ。全力疾走しても突き当たりにたどり着けない広さってどんなんだよ!!こんなんか!!まさにここか!!ふざけんなし!!
とにかく脱出のためには、当たり前だけど見つからないように外に出ること。
幸いこの部屋は、多分外に面している。
障子を開ければ出られるかどうかは別としても、外の様子ぐらいはわかるだろう。
よしっ、と心の中で気合を入れて顔を上げたそのときだった。
障子に影が差した。
のっそりと、障子の左から現れた影は、巨大だった。
その頭は、オレが立ち上がってもまだ見上げなきゃいけない高さをしてた。
これが人だったら、大柄でもなんでもない、むしろ子ども…まだまだ伸び代のあるオレより背の高いなんてのは珍しくなんてない。
だがそれは、大きな人という訳じゃなかった。
影は四つ足で、鼻面が長かった。
頭に先が尖った三角形の耳が付いていて、丸太のような首に、膨らんだ胸部。太い脚がそれを支える。
前足が動いて、馬と張り合えるぐらい大きな胴体が、次いでやはり巨大な後足が、最後に太い尾が。
それは犬に似ていた。とてつもなく巨大な、恐らくは、狼。
ものすごい悪寒が背中を駆け上がる。
手が、脚が、震えて強張る。
かちかちと鳴りそうになる歯を何とか食いしばった。
――――怖い、怖い、怖い怖い怖い!!
あれに襲われたらどうなる?オレの頭どころか上半身を齧り取れる大きさの口で噛まれたら?
嫌だ、嫌だ!!今すぐ逃げたい!ああでも足が震えて力が入らない!
――――見つかったら終わる!!
できることといえば背中を壁に押し付けて手足を縮めて、獣が気付かず通り過ぎることを祈ることのみ。
影はじれったいほどゆっくりと歩みを進める。
一歩、二歩。
もうすぐ障子の端に頭がさしかかる。
三歩、四歩。
歩く度に、床がぎしり、みしり、と音を立てる。
唐突に、獣の足が止まって、頭が少し仰向いた。
一瞬の静寂。
そこに大きな羽音が降って、びくりとオレの肩が跳ねた。
獣の鼻面に大きな鳥が舞い降りた。
ばさり、と一度翼をふるって畳みなおし、その長くて太い嘴が動く。
「ここに居ったのか」
しゃがれた、低い声。まるで老人のような声質の、しかしそれでも充分に聞き取れる、流暢な発音の言葉が聞こえた。
「塗り壁がしくじりおったようだな。だから誰か付けておくべきだと言うたのだ」
苛立だしげな語調の声が聞こえる度に、鳥の影が嘴を動かす。
これは、これはまさか。
――――喋ったぁああああああああ!!
叫ばなかったオレを誰か褒めても良いと思う。声の代わりに心臓が飛び出るかと思ったけど、とにかく声は出なかった。
「仕方がないだろう。生憎適任が出払っているのだから」
今度は低い、腹に響くような男の声がした。
「主が不在で、ただでさえごたごたしているというのに、困ったことだな」
男の声に合わせて、獣の顎も微かに動き、ぐるると喉の奥で唸るような音が混じる。
――――もしかしなくてもこっちも喋ったぁああああああ!!
「間の悪いことよな。もうしばし眠っておればあるじも帰られたであろうに」
「否定はしない。だが留守を任せていただいたのだから、我らでなんとかすべきだろう」
「どのようにするというのだ。あれは一目散に逃げていったというぞ」
「……我らでは埒が明かんな。ではごんとぎんに話してみようか」
老人の声がむぅ、と唸り、ややあって「致し方なし」と不承不承の調子で返した。
「だがあれらが役に立つとは限らぬぞ」
「なに、この件に関しては我らこそ既に役立たずだろう」
ふんっ、と鼻を鳴らすような音が聞こえて、鳥の影が飛び立った。
それを見送って、狼の影も悠々と歩き去った。
しばらく待って、完全に外の気配が消えてから、詰めていた息を吐く。
どっと冷や汗が噴出した。
震える体を抱きしめていた腕を緩める。
わずかな時間だったはずなのに、縮めていた足も腕も強張ってしまっていて、動かす度に油を切らした蝶番のようにぎしぎしと軋んだ。
遠い国に喋る鳥がいるというのは、流れの芸人から聞いたことがあったが、喋る獣なんて、それはもう、妖怪に違いない。
妖怪。妖魔。物の怪。あやかしと呼ばれるそれらは、超常の力を操る化け物。
なかには人語を操り、人にそっくりに化けるものもいるという。
並みの武者では歯が立たない剛力や、刃を通さない皮を持ち、ときに人里で暴れては女や子供を攫って喰らう。
角があったり、頭や目が多かったりと姿かたちは様々で、動物や人間に似たもの、何の生き物とも似ていない禍々しい姿のものもいるとか。
オレは見たことはなかったが、戦乱の続く西の方では、戦場に現れては暴れ回り、死体を漁る妖魔も多く出ると言う話だ。
喋る巨大な獣。同じく喋る巨鳥。話に出てきた塗り壁というのはあの壁から生えた手で間違いない。十中八九その主人とやらも物の怪の類だろう。
つまりオレが目覚めたのは妖怪屋敷だったのだ。