十八 雨
7/13 一部表現が変な感じになってましたので、該当部分を修正しました。
さああああ…と、軽い物がこすれ合うのに似た音が満ちている。
見遥かす山は白くけぶり、しかし目を落とせば濃い緑の木の葉は白くぼやけた背景の中で、いっそう色鮮やかに浮かび上がった。
雨が降り出してもう四日目。戸を開けて天気を確かめたオレは、うんざりして溜息を吐いた。
そろそろ日の光が恋しい。熱が引いてから、怪我は長引いたのが嘘のように治り初め、今では肩の痛みも一切ないから猶更だ。ただ色は黒っぽいのが引いてから気持ち悪い黄色になっているから、なるべく見ないようにしてるのは同じなんだけど。
とにかく怪我は治り、熱もぶり返すことがなかったので、ついに師匠から「そろそろ武術を始めても良いな」との言葉を貰って歓声を上げたのはつい昨日のこと。後は天気が回復するのを待つばかり。
なんだけど、今日もまた残念ながら雨は続いている。
「まだ梅雨には早いってのに」
そうぼやいてみても、鈍色の空は均等に暗く、青空の覗く気配なんかひとつもない。
恨めしくもう一度一瞥してから、戸を閉めて師匠の部屋へ向かった。
抜き足、差し足、足音を忍ばせて廊下を歩く。
我ながら歩法は、歩くだけなら完璧だ。これを習得してから気づいたんだけど、どうやらこの歩き方、足音が殆ど立たない。足元の"霊"を乱さない歩き方だという話だけど、歩くことで起こる色んなその場の変化が起きにくくなるってことなんじゃないかと見当をつけた。『内経を覚えれば必ず役に立つ』という師匠の口ぶりから、多分内経と併用して効果が発揮されるってことなんだろう。でも内経が使えない今も、ある程度の効果はあるって確信がある。
なにせ雨が降ってて外に出られない間、オレはこの歩法を駆使して屋敷内の妖怪たちを驚かせて回っているのだ。これが面白い程上手くいく。後ろからそっと近づいて「わっ!」と言ってやれば、ごんたろうさんは悲鳴を上げて飛び上がり、ぎんじろうさんは叫びながら飛びずさり、ユミさんは「きゃぁあ!」と言いながら素早く振り返ってオレを拘束した。
オレはあの嫋やかな外見から勘違いしていたのだけど、ユミさんは屋敷のお手伝いさんとかではなく、警備の仕事をしてる方だという話だ。その咄嗟の反応はやっぱり普通の女の人とは比べ物にならないもので、オレが気が付いた時には、がっちりとユミさんに捕まって腕の中で動けなくなっていた。
その後「わたくしを驚かせるなんて、悪い子ですのね。これは少々お仕置きいたしましょうか」なんて言われて、にこにこしたユミさんに捕まったまま暫く擽られ続けた。どれだけ全力でもがいてもビクともしなかったのはやっぱり人外だからか。お蔭で笑い過ぎて腹筋どころか顎まで痛くなって、その上筋肉痛になった。もう暫くはユミさんに悪戯するのは止めておこうと思いました。
まあそんなことがあったのだけど、とりあえず今のところ、後ろから驚かせる作戦は全部成功してる。
となれば、だ。もっと難しいところに挑戦したいと思うのは、自然だよな?そう、今日は、我が師匠である高遠さまに仕掛けてみようとしているのだ!これが成功すれば、弟子入り間もなくにして、早くもひとつ師匠を超えることができたと言えるのだ!!
そうこうしている間に、師匠の部屋の前まで行き着いた。
襖は締め切られ、中を窺い知ることはできない。耳を澄ませても、中からは物音もしない。
誰かと一緒なら話声なりなんなり音はするだろうから、多分師匠は今ひとりで、書き物をしてるか裏庭の桜を見てるかだろうか。どちらにしても廊下側に背を向けている可能性がすこぶる高い。
オレはにんまりしながら、慎重に襖をほんの少しだけ開いた。うん。我ながら少しも音が鳴らなかった。上出来だ。
「…って、あれ?」
思わずオレは声を上げた。隙間に目を押し当てて見てみても、机の前の定位置に師匠の姿が無かったのである。襖を本格的に引き開けて中を覗くも、師匠はやっぱり居なかった。
「おかしいな。書庫にも囲炉裏端にも居なかったのに、部屋にも居ないって…」
幾つかあたって空振った場所を指折り数える。
部屋を見回して、ふと裏庭側の障子が手の幅分程開いているのを見つけた。
「こんな雨の中、もしかして外に…?」
主のいない部屋を見回して、ちょっと迷ったけど結局は小声でお邪魔します、と呟きながら足早に部屋を突っ切って障子戸から外を窺う。
降り続く雨に打たれて、しっとりと濡れた庭。水を含んで色を黒く変えた古木に、浮き上がるように白さを増した花弁が映える。色濃い苔の地面に撒かれた花びらが、まるで星のように輝いて見えた。
どんなとき見てもこの庭は綺麗だなあ。…っと、いた!
天狗は、古木よりも少し奥でこちらに背を向けて立っていた。
いつもと同じ黒い装いで天を仰いでいる。下駄こそ履いているものの、その姿は室内とほぼ同じであり、雨除けの装備は一切ないにも関わらず、髪も着物も一切濡れてはいなかった。いや、唯一その右手には見慣れない物を握っていた。
「あれ、何だろう…緑の、団扇?」
天狗の葉団扇、という単語が頭に浮かぶ。
確か、天狗が持っている何かの葉っぱでできた団扇で、それで扇げば風を吹かせたり雨を降らせたり火を熾したり水を出したり凍らせたりできるんだとかなんとか、昔聞いたような気がする。ん?あれ?なんか違うっけか。
ん?待てよ、雨?
オレがはたと思い至ったそのとき、師匠が山の方へ足早に歩き出し、じきに木々の向こうへ消えてしまった。
「まさか…?」
オレは思わず走り出した。
雨降る山の中を進む。落ち葉を踏んで滑りかけ、水をいっぱい含んだ枝に突っ込んで頭からずぶぬれになりながら、黒い影を追う。たちまち足袋がぐっしょりと濡れて、空の懐に水が入ってたぷたぷ揺れた。
オレは必死に獣道を辿っていった。雨の山はぬかるみだらけでよく滑る上、視界も悪いというのに、前を行く師匠は晴れた日と同じかそれ以上に足早に、すいすいと進んで行く。
もうどれだけ進んだのか分からない。無限に続く雨音は時間の感覚を狂わせ、降りしきる雨は見覚えのある場所でも別の顔に変えた。
分かっているのは、まっすぐ獣道を辿ってきたことだけで、今自分が山のどのあたりに居るのかもさっぱりだった。
彼我の距離は離されるばかり。前方に目を凝らしても、たまにちらりと動くものを見つけて漸くまだ見失っていないことを知る程。
このままではすぐにでもはぐれてしまうのは明らかだ。
馬鹿なことをしていると、頭のどこかで思う自分がいる。道が分かる内に館に戻るか、師匠に呼びかけて待ってもらうのがきっと正しい。だけど、オレは無言で追うことを止められなかった。
前々から薄らとあった疑念が、むくむくと育って、枝葉を伸ばしていく所為だ。
それは、師匠がオレを、本当に天狗にしようと思っているのかどうかという疑い。
師匠は、オレの心の病を治すために内経を教えてやろう、と言ってくれた。昨日には、武術を始めてもいいだろう、と言ってくれた。
でも、天狗になるための修行法を教えようとは一言も言ったことが無い。
武術を修めれば天狗に成れるのだろうか。内経を使えるようになるということが、天狗になることに等しいのだろうか。
その可能性はあるだろう。特に、"気"を自在に扱うという内経は、人が使えるもののようにはオレには思えない。ならば、大人しく修行を進めて行けばいずれは天狗に至るのだろうか。
よもや呼吸やら姿勢を正しただけで内経が使えるなんていうことはないだろう。そんなのだったら人間の武芸者とか僧侶とかも習得できそうなものだ。そうではないなら、まだ本格的に訓練が始まっていないということで間違いない。だったらなぜ始めないんだろう。
思い至るのはこの雨。
武術や内経の修行の妨げになっているのは多分この雨だ。そう思うのが自然だ。
だったらどうして師匠は雨を降り止ませない?
師匠は天狗だ。天狗は風を操り空を飛び、天候さえも変える力がある。出来ないことは無いはずだ。
そう思っていた。訊こうと何度も思った。訊けばきっと答えてくれると頭では思っていた。
だけど言えなかった。
季節外れの長雨。
それをもし、この邪魔な雨を、師匠が振らせていたとしたら?
荒唐無稽も甚だしい。そんな証拠はどこにもない。雨が降ることで、師匠に何の得がある?あり得ない。
オレの修行が遅れるじゃないか。実はオレを天狗にする気がないから、適当に姿勢だの呼吸法だのと言ってお茶を濁してるんじゃないか?何らかの理由でオレを手元に引き留めておくために、餌をちらつかせているんじゃないのか?
師匠はそんなことしない。そう思っている。師匠は優しくて、誠実だ。言うことにはいつも筋が通っていて、オレに嘘なんか言ったことがない。
…だけど、師匠は優しくて、誠実に見える。言う事は筋が通っていて、嘘を言ってないように聞こえる。その根拠は、勘でしかないのだ。
オレは頭を一つ振って、容易く悪い方へ転がっていく思考を振り払った。濡れそぼった髪先から雫が飛び散った。
落ち着けよ。オレ。
実際のところ、不安なだけだ。確かだと思えるものをなにひとつ持ってない上に、自分は飛び切り不出来を晒しているのが現実で、自分自身どうして師匠がオレを弟子にしたのかさっぱりわからないから、厚意を受け取っても戸惑ってしまう。裏がないかどうか疑ってしまう。だから、こうして師匠のやることを確かめて、安心したいだけなんだって自覚がある。
「あっ!」
オレは思わず声を上げてしまった。前方で黒い影が、ひと跳びで頭上の枝に跳び上がったのがかろうじて見えたのだ。
今身長の倍は跳んだぞ!?
師匠が跳び上がった木へと駆け寄る間に、木の上を、地上を行く倍する勢いで遠ざかる音が聞こえて、反射的に上を向いて目で探す。
「嘘だろ、どうやっ……でぇぇえええい!!!」
見ないで踏み出した足が空を切る。
オレは羊歯が茂る斜面を盛大に滑り落ちた。
「いってぇ…」
仰向けかつ足を下にして滑ったからか、転げることも、変なところをぶつけることも無く、斜面の下に到着した。草で切って細かい傷が出来たものの、大したことは無い。足も腕も痛みなく動くことに安堵した。
「あー、結構落ちたな…」
見上げた斜面は雨にけぶって、先が見通せない。急ではないが緩くはない、下生えの茂る斜面をこの距離登るのは、間違いなく骨が折れるだろう。
下手するともう一回滑落することも考えられる。てかまず間違いなくそうなる予感がしてげんなりする。
溜息を吐いたそのとき、がたり、というような、堅い物が当たるような音が聞こえた。しかも結構近くだ。
慌てて目線を下げた目の前、周囲の木々に溶け込むようにして、茅葺きの家が建っているのが見えた。 その戸が今まさに開こうとしている。
「は…?えっ…!?」
思わず身が固くなる。
戸を開けてのっそりと出てきたのは、聳え立つような赤銅色の体躯に、巌のような恐ろしげな顔をして、ごわごわの頭に二本の角を生やした―――
―――鬼、だった。