幕外壱 小雛
本日二投目。どちらから読んでも大丈夫ですが、一応こちらが後です。
7/12 表現をちょこちょこ修正しました。
都の闇は濃い。
昼はどこよりも賑わい、人の絶えることのない往来は、日が沈めばその姿を一変する。日の光の下でその活気を使い果たしたように、深遠の闇の下、死に絶えたように静まり返る。
今夜は、星影どころか月さえも、雲に封じられてその光が届かず、風も音をはばかるように止んで、廃墟のように寂寞としていた。 ただ所々で夜通し炊かれる篝火だけが、闇に呑まれようとする都の姿ををかろうじて留めていたが、その篝火も、都に溜まる黒を払うことなどできず、光の輪の外にはいっそう濃い夜闇が凝っている。
静まり返った蒼竜京の大路。夜に呑まれた闇を縫うように、重い足を引き摺る男が家路を急いでいた。
早く帰らねばならない。足止めを食らって遅くなってしまったのだから。愛しい家族が待っている。きっと会いたがっているだろうから。
疲れてぶつ切れの思考を回して、いっそう足を速めかけ、ふと思った。何があって遅くなったのだったか。
ああそうだ、季節外れの増水で落ちた橋の工事に駆り出されたのだったな。そうだそうだ。
突然何が気になったのかと自分でも思わず首を傾げる。でもそんなことはどうでも良いじゃないか。と直ぐに思い直して今度こそ足を速めた。
早く帰らなければ。愛しい愛しい、家族の許へ。
歩き慣れた近所の道を迷わず歩いて、ひとつの門へとたどり着いた。
懐かしい匂い。脳裏に浮かぶ温もり。妻と子供たちの顔を順に思い浮かべて、笑みを浮かべたまま大門を抜ける。一瞬焦げたような匂いを感じて、そちらに行きかけた意識は、門の内側に満ちた気配に塗りつぶされて一杯になった。
ああ、帰ってきた。やっとやっと帰ってこれた。懐かしい我が家。懐かしい気配。妻の、子どもたちの、下人たちの気配。温かな家族。ずっと夢見たおれの居場所。
愛しい温もりの気配が直ぐ近くにあることに気が付いて、男の心が浮き立つ。やっと逢える。
愛しい、愛しい、愛しい。ああ、その温もりを抱きしめよう。柔らかい体が動きを止めるまでかたく抱きしめよう。そうしてその奥の輝きを取り出そう。そうしてこの空虚を埋めよう。
抱きしめる?いいやそれでは到底足りない。
その身を引き裂き頭を潰して血と臓物を啜り肉を貪り骨を砕き骨の髄までこの憎しみのままに喰らいつくそう。
きっと満たされる。やっと充たされる。ああ楽しみだ。これでもう大丈夫。もうこれからは孤独じゃない。連れて行こう。共に行こう。
遠かった、長かった。帰って来れた。やっと迎えに来れた。
纏わりつく重い闇を引き連れたまま、一歩踏み出して直接座敷に上がった。記憶のままの妻の部屋だ。
見渡せば、見覚えのある薄桃色の着物が、たったひとつ置かれた灯火の黄色い光の下に鮮やかに浮かび上がっていた。
ああこれは衣替えで新しくした妻の上着だ。春に向けて染めた桜色の絹。彼女によく似合う明るい色。それにしても良い香りだ。相変わらず愛しい香りなんてなんて芳しい――――
――――命の香り。
こちらに気づいて向いた瞳に嗤い掛けて、後退る女を追って数歩進む。
手を伸ばす。何かを言っている。でももうそんなことは気にならない。嗤う彼に辺りの空気もぞわぞわと呼応して、幾多の影がその小さな手で、かの輝く芳しい命を捕らえようと、蠢き、伸び上がり、ざわざわと嗤う。
もうすぐ届く、この手に触れる。ああ好ましいものの全てを持っている彼女の全てを自分のものにして、ひとつになって満たして充たしてみたしてこのうつろをくるシみをくルしいクルシい…
「縛」
凛と響いた若い女の声が、淀み歪んだ場を切り裂く。
途端、周囲に紫電が奔り、絡み合い、伏せ腕型の網となって男を閉じ込めた。
百の鳥が鳴き騒ぐのに似た、耳を劈くような音と共に、中の男を光が舐める。
「るぅううう゛う゛ぁぁあ゛あ゛あ゛!!」
既に潰れた喉から、濁った咆哮が迸った。苦痛と驚愕、憎しみと恐怖のままに、纏った瘴気と怨念と共にのた打ち回って暴れ狂う。
しかし人外の力でもって振るわれたそのいずれも、紫電の壁を越えられずに火花を散らして弾かれていった。
ひたり、と部屋の隅から進み出る人影がある。
紫電の発する光に照らされて浮かび上がったそれは、まだ娘と言っても良いような若い女。
纏った黒の布衣。腰の高さで真っ直ぐ切りそろえた髪もまた漆黒。細い眉の辺りで切りそろえた前髪の下にある顔が薄暗がりのなかで白く浮かび上がっていた。
その顔は整って、美しいと言えるものだったが、目の前の惨状を見ても眉ひとつ動かすことのない無表情が、その造作と相まって、どこか作り物めいた印象を与える。
目の前の男の狂乱に、臈長けた美貌を少しも歪めることなく、娘は流れるように印を組んだ。
示指と中指を立て、曲げた薬指と小指の爪を拇指で押さえて輪を作り、左手の輪に右手の二本指を揃えて収める。
――――刀印
刀に見立てたその印を、左の腰元に置いて、右の手を一気に抜き放った。
――――抜刀
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!!」
裂帛の気合と共に、抜き放たれた印が真白い光を発して、淀んだ闇を縦横に切り裂く。
瘴気は千々に分かたれて霧散し、男もまた、光を真っ向から受けて、その視界が白く染め抜かれていく。
「あ゛、あ゛、あ゛…?」
意識が切り裂かれる一拍前。闇が薄れた部屋の中で、黒い女の向こう、何人かの黒衣の男に守られて部屋の隅にいる青ざめた顔の女が、こちらを見ているのに気付いた。
思わず片手を差し伸べる。あれは。あの人は―――
「お、みつ」
愛しい顔は、白い光に呑まれて消えた。
振り抜いた右手を左手に戻し、目を閉じ呪言を唱えて、右手に宿った光を鎮める。
「―――オン バザラド シャコク…」
仕上げの弾指が、ぱしんと音を立ててから、ゆっくりと目を開いた。
「終わりました」
静かな声が場に響くと、今まで男たちの背後で呆けていた女が、弾かれたように駆けだした。
「あんた…!!」
紫電と白光の名残も消えた部屋の中央、倒れ伏した男の屍へと走り寄って呼びかける。
その男は、見るも無残な姿をしていた。
頭から足先まで泥にまみれ、右肩は潰れて、かろうじて繋がった上腕の下は肘から先がなく、なにより腹に大穴が空いている。他にも数えきれない程の細かい傷と欠損がある。
血も既に流れ尽くしたような、薄らと腐臭を漂わせる遺体である。
変わり果てたその男は、先の大雨で流された橋の崩落に巻き込まれて行方が知れなくなった、この館の主であった。
取り縋って泣いている女、この男の妻を眺めて、こんなに変わり果てても恐れずに寄って行って泣けるんだな。などと考えていた。
「なんで、なんで斬ったの。最後はあたしが分かった、分かってくれた。この人は帰ってきてくれたのに…」
取り乱した女が詰る声にも、淡々と答えていく。
「死霊は生前に親しかった人に執着し、襲います。ただの霊なら取り憑いて呪い殺しますが、屍のまま立ち上がって屍鬼に変じたなら、喰い殺そうとします。これはあなたを喰いに来た鬼。命を失くした抜け殻にすぎず、あなたの夫ではありません。捕らえたなら早く滅しなくては、逃げられでもしたらまた襲ってきますよ」
いっそ冷たく聞こえる凪いだ声に、顔面蒼白の女が泣きじゃくる。酷い、酷いと繰り返されるその声にも、無感動な目を向けるばかり。
「最期にあなたが分かったのは…余程心残りだったのでしょう」
柔らかな声が、女にそっと差し出すように掛けられた。
借りていた薄桃色の上着をその肩に着せかけてやりながら、囮を務めた若い娘が泣きそうな顔で微笑みかける。
「屍鬼に変じる方には、とても強い無念があるといいます。きっとあなたの旦那様は、あなたの許に帰りたかったのでしょう。ずっとずっと、戻りたかったんでしょう。死んでしまっても、忘れられない程に…」
優しく掛けられる声に、女がゆるゆると振り仰いだ。ぼろぼろと涙を零すその顔に向かって娘は、ごめんなさいと謝った。
「物の怪に変じてしまった方は、ずっとずっと苦しんでいるんです。苦しくて、苦しくて、助けてほしくて、生きていた間に親しかった人に縋ってしまう。でも、生き返らせることができない私たちには、せめてその苦しみが続かないように終わらせることしかできないんです…」
膝をついて目線を合わせたその娘をぼんやりと見返した女は、茫洋とした眼差しのまま、呟いた。
「この人は、苦しんでたの?死んでも、苦しかったの?もう、苦しくないの…?」
「…はい。瘴気も払いましたし、今は。だから、もう苦しんで起き上ることなんてないように、ちゃんとお弔いをして、静かに眠らせてあげて下さい」
呆けた顔のまま泣き出した女は「でも、でも・・・」と、うわごとのように呟いている。その声には、先ほどのような非難の色はなく、ただ純粋に悲しみに満ちているように思えた。
役目が終わったことを察して、女と、その肩をさする娘に背を向け、黒い娘は庭に降りた。庭にはもう、黒衣の男たちが散って清めを始めている。屍鬼が撒き散らした瘴気の後始末をせねばならないのだ。
「小雛ちゃん」
柔らかな声が掛けられて、撤収の準備をしていた小雛は振り向いた。
「柚葉」
そこに居たのは、女を宥めていたはずの同僚だった。
茶色味がかったやわらかな髪を左右二つに分けて括った娘は、そのくりくりとよく動く大きな目を小雛に向けて、済まなそうに眉を下げた。
「お片付け、任せてしまってごめんね」
なんだ、そんなことかと興味を失って、また手元に目線を戻しながら「別に」と呟いた。一呼吸後に、これでは素っ気なさすぎることに気づいて僅かに顔をしかめた。
「…私はそっちには向いていないから。それで、あの人は落ち着いたの」
ぶっきらぼうながら続けた声に「うん」と拘りなく柚葉が答えた。
「今はね、寝てる。お姑さんが引き受けて下さったし、息子さんも『お母さんは僕がまもるから!』って張り切ってたから、もう大丈夫じゃないかな」
その光景を思い出したのか顔をほころばせる同僚に「あ、そう」とどうでも良さ気に生返事をして、小雛は道具を仕舞った箱に紐を掛け終わった。払魔師になってからまだ十日程だというのに、最初は覚束なかったこの特殊な結び方も、今は目を瞑っていても手が動くようになってしまったことに気付いて、口を引き結んだ。
「ねえ、小雛ちゃん…最近、物の怪、多いよね」
横に置いた袋を持ち上げながら、ぽつりと柚葉が呟いた。同じことを考えていた相手をちらりと横目で見て、そうねと呟く。
「長たちは、天脈が歪んできているからだと仰っていた」
この数日、都では様々な怪異が頻発していた。季節外れの豪雨に川は溢れ、原因不明の病に倒れる人が出て、火の玉が空を横切り、死霊が徘徊し、鬼が人を浚う。数え上げれば両手両足の指を使ってもまだ余る程。
きっと、十日より以前から。この数日のものでも小雛が知らないことも多くあるに違いない。
「そう…。これからも、続くんだろうね…?どうしたら、いいのかなぁ」
不安げに言う柚葉に、淡々と「さあ」と返して小雛は立ち上がる。
「何にせよ、私は払うだけ。それより行きましょう。夜明けまでに帰らなければ」
さっさと他の仲間が用意している馬の方へと歩き出す。背中にかかった「待ってよぅ」と言う声を聞きながら、内心で自分の言った言葉を反芻する。
――――そう、私は命じられるままに、魔を払う。それが役目。
馬に荷物を括りつけながら振り仰いだ東の空は、まだ黒い。
凄腕美少女陰陽師、参戦。
あれ?三太郎より主人公っぽいとかそんな馬鹿な・・・。
何話ずつになるのかまだ決めてないですが、子雛ちゃんのお話をちょこちょこ挟むつもりです。