十四 発熱
色んな気がかりから解放されたオレは、久々に晴れやかな気分で高遠さまと一緒に夕食を取っていた。
何気に初めてのことだ。この人はいつも出かけていて、ゆっくり顔を合わせたのも三日ぶりだった。
目の前の天狗はすっかりくつろいだ様子で、赤い杯を持ち、傍らでお酌をするユミさんが注いだ透明な酒をあおっている。
くつろいだ様子ではあったけどその服装は、袖が無い黒の着物に、膝辺りで絞った黒の袴。腰の赤の細帯は端が出ないようにきっちりと巻いてある。動きやすそうな軽装だ。くつろぐには少々窮屈に見えるけど普段着だろうか。そういえば、山で見た時と最初に目覚めた日以外、白い広袖の着物を見てない。普段は翼もなくて、本当に人間にしか見えない。
「三太朗、そういえば傷はどうだ?」
肴に箸を伸ばしつつ、高遠が口を開いた。
「あ、はい。もう大分良いです」
「まだまだですよぅ、特に肩が」
「そうそう、膝はちょっとマシですけど、肩はまだ動かすと痛いでしょ。嘘はダメですなぁ」
反射的に返事したら、すかさず横からダメ出しが飛ぶ。
「でも、もう歩いても足は痛くないです!」
「おや、それはよかったですねぇ」
「もうしばらくは走って転んじゃあダメですよー?」
「もう転びませんー!!」
ムキになって言い返したら、高遠さまとユミさんに笑われて、ちょっと恥ずかしくなった。ああ、また子供っぽいことをしてしまった。
「まずはゆっくりと休め。全ては体を戻してからだ」
微笑ましげに目を細めて言われる。なんというかすごく温かい目で見られて、ちょっと恥ずかしい。
「あの、はい。…ところで高遠さま、怪我が治ったらどんな修行をするんでしょうか」
どうにもこそばゆくて、話を変えることにした。そしたらまた少し大人たちの笑みが深くなった…見透かされてる気がしてならない。
「修行、な。良い機会だから簡単に話しておこうか」
高遠さまはぐっと杯に残った酒を干し、とんと膳へとそれを置いた。良い飲みっぷりである。見た目によらず酒豪だ。
「この世には力の流れがある。自然の理を動かす力だ。木々の種が芽吹き育つのも、風が吹き雲が雨を降らすのも、この力があるからだ」
するり、と天狗は右手を宙に走らせる。
「この、世に流れる自然の力を"霊"と天狗は呼ぶ」
『霊』と空中に文字が浮かび上がった。更に横にもう一文字書き加えられていく。今度は『気』。
「生きる者らはこの霊を受けて生まれるが、各々で霊とは独立した力の流れを持っている。これが"気"。気は血のように体を巡り、満たしている。ここまでは良いか」
『霊』と『気』の文字を見比べながら、はいと返事をした。壮大な話だ。天狗から見た世界の仕組みの一端。
「生き物には例外なく"気"がある…ということですか?オレにも?」
勿論だ、と高遠さまは頷いた。
「気は、隅々まで滞りなく巡るのが望ましい。これが乱れると体の調子も崩れ易い。そして気の乱れる原因は概ねのところ精神に因る。高じれば精神の均衡が崩れて心が病に罹ることがある。…今のお前のようにな」
「ということは、オレは今気の流れが乱れているということですか…?」
「そういうことだな」
やるべきことの片鱗が見えた気がする。
「つまり、心の病を治すには乱れた気を正しく流れるようにするということですね。修行は気を操る術を学ぶんですか?」
「その通りだ。お前は聡いな」
高遠は満足げに笑んで大きく頷いてくれた。褒められたのが自分でも驚く程嬉しくて、ちょっと頬が熱くなる。
「己の内にある気を操る技を"内経術"又は単に"内経"と言う。内経を以て健常時の気の流れを保てるようになれば、刃を前にしても気を乱さずに済むようになる」
「本当ですか!!」
あの恐怖を克服できる手段がちゃんとあるんだ!
一時は世界の終りのように感じた大元をなんとかできることが示されて、オレは興奮して思わず拳を握った。顔が更に上気する。
「本当だ。だがそれだけでは根を断つことはできん。刃に相対しても対抗できる術を会得する。刃を相手取っても対処できるようになれば、恐怖することも無くなるだろうからな」
「え…つまり、刃物を持たずに闘えるように鍛えるってことですか?」
「ああ。単に刀を持っているだけの相手ならば、内経をある程度使えればこちらが徒手でも恐れることはない。内経などなくても鍛錬次第で勝てるようになるが、そこまでの域に達するには年数が掛かる故、内経を習得するのが現実的だろう」
すごいすごいすごい!刀を相手取って素手で闘えるようになれるって考えてもみなかったけど、確かにそうなれば刃物を怖くなくなるかもしれない!しかもかっこいいじゃんすっげぇ!!
「具体的にどんな修行をするんですか!?」
興奮したまま前のめりに訊くオレに高遠は少し訝しげに首を傾げた。
「ああ、それは…ん?お前、顔が赤いぞ」
ひょいと手を伸ばして額に触られる。あれ?なんか高遠さまの手冷たいな。お酒を飲んでたのに。飲酒のすぐ後に手足が冷えるのって良くないんじゃなかったっけ!?え、高遠さま大丈夫なの!?
ていうかあれ?顔が熱い。手が冷たいんじゃなくてもしかしてオレの顔の方が熱いっていうこと?
「…熱があるな」
「まあまあ、それは大変ですわ!すぐに床の用意を致します!三太朗どの、お話はまた今度にしてもうお休みなさいまし」
慌てて立ち上がるユミに、聞きたい話はこれからなのに次に持越しにされては溜まらないと焦って手と顔を横に振る。
「え、大丈夫です!それより話の続き…を、あれ?」
頭を振った拍子にふらっと体が傾ぐ。高遠が、引きかけていた手をもう一度伸ばして肩を支えてくれてなんとか倒れこまずに済んだ。世界がゆっくり回ってる…。
「無理をするな。続きは熱が下がってからにしよう。俺は当分は館にいる故、安心して休め」
どうやら大丈夫じゃなかったのはオレの方だった。
「あー…」
頭痛がする。寒気がするのに顔が熱くて腫れぼったく、全身がだるい。
オレはヤタさんの言うがままに口を開けて喉を見せていた。
「ふむ、あまり赤くはなってはいないな、風邪ではなさそうだが熱が少々高い。ゆっくり寝ているが良い」
「はい…」
ひょい、と横から覗いたキツネがあれまぁと呟く。
「この頃眠れていなかったみたいですからなぁ、仕方ありませんよ。追加の布団はこっちに置いておきますから、寒いようなら使うんですよ」
「湯冷ましを用意しましたからね、ここに置いておきますよ」
キツネが押入れから薄手の布団を出して、タヌキが枕元に急須と伏せた湯飲みを乗せた盆を置く。
「ありがとうございます…」
彼らの気遣いが素直にありがたい。口からは感謝の言葉が自然に出た。
「しかし熱とは、よく出るものなのか?」
そっけなく尋ねるヤタさん。だけど心配してくれてるのがわかってオレは穏やかな気持ちになった。
「いえ、そんなに頻繁には。前に熱を出したのは七つのときでした。その時は本当に火が出るかと思うぐらい熱が高くなって、死ぬかと思いましたけど、今回は比べたら軽いし、大丈夫ですよ」
心配させたくなくて、大丈夫だと言ったら、不機嫌そうにふん、と向こうを向いてしまった。けどちょっと安心してくれたみたいだし、良かった。
何か用があれば遠慮なく声をかけるように、と言い置いて出ていく三つの後ろ姿を布団の中から見送った。
「ああ…情けねぇ…」
天井に向かって呟いてみたけど、体はともかく心は昨日よりずっとずっと軽かった。それが嬉しくて思わず少し口元が緩む。
体が辛かったらゆっくり休ませてくれる。危険のない場所で、誰に何の文句も言われず眠れる。
何よりも、気にかけてくれる存在が居るということが、ありがたい。
体は自分のものじゃなくなったみたいに怠いが、気分は悪くはない。オレは、久しぶりに悩みなく目を閉じた。
高遠の様子も書きたかったんですけど、まとめて載せるとすごく長くなってしまったので、一旦ここまでにしておきます。