百十二 悩むこともある
硬質な音が速い拍を刻む。
小気味よい音に合わせ、三太朗の翼が無自覚にもぞもぞと動いた。
かかんかかんかん きん かーん かかんかかんかん きん かーん…
暑い薄暗がり、乱れなく続く打音、飛び散る小さな火花、明々と燃える炉の赤い光に、熱された鉄のにおい。
大きな手が驚くほど繊細に槌を操って、赤熱した鉄が柔らかく形を変えていく。単調な全く同じ動作だが、三太朗が見飽きることはないようだ。
輝く灰色の目は、食い入るようにずっと鉄砧を見つめていた。
硬い鉄を意のままに操る行為は、少年を惹きつけてやまないのだ。
世間話をする気軽な口調だが、その手元は止まることなく、正確無比に槌を振るい続ける。
叩く加減だけで、細い細い鉄を曲げて綺麗な半弧を作ると、槌を持ち替えて錐で無造作にひと突き。
細さなどものともせず、端に正確に穴を開け、槌の角を立てて払うようにひとつ叩く。
切り離されたそれは跳ね、狙い過たず脇に置かれた水桶へ飛び込んでいく。その度にちゅん、と小さな音が鳴った。
驚愕の神業を無造作に振るいながら平然としていることにも、三太朗はとても格好良いことに思えた。
正確には、すごい技が普通のことにできる実力の高さと、それを誇らない在り方だ。
師や、兄弟子たちや、山の面々にもそんな面があるけれど、そんなところを目撃する度に雛は憧れを募らせていたのだった。
「坊も修行が進んだか」
鍛冶場の主である鬼、弦造が唸るように言った。
「そう!師匠がやってくれたときに、体の中をぐるぐる回るの、なんとなぁくだけど判るようになったよ!」
三太朗はふふんと得意気に胸を張ったのだが、その姿はやや遠い。
見学を始めてからじわじわ鬼の手元へにじり寄って、火の粉が散りかかる範囲から押し戻されること三度。さっき、とうとう、ついに、遠くに腰掛けを用意されてしまったのだ。無念である。
素直に言いつけ通り腰掛けから動かず、身を乗り出していたものだから、得意気に胸を張ったと言っても前傾姿勢が少し上方へ起きたような変化でしかなかったが、彼は気にせず誇らしげにしている。
その無邪気な様子は微笑ましくて、つい鬼の顔も微笑んでしまった。
なお、実際は心臓に悪い恐ろしいご面相が暗がりの中影を帯びて迫力をより増しているのだが、心の眼を持っている三太朗にとってはとてもあたたかい笑みであった。
「ひわの"気"が視えたからさ、こういう動き方なんだーって解ってね、そしたら自分のもなんとなく判るようになったの。あんなに出来なかったのに!」
三太朗はちょっとわざとらしくはしゃいで言った。
昨日のことだが、外経の修行たった一度で"霊"を感じ取れるようになった三太朗は、その感覚で以って自分の"気"も感じ取ることを思いつく。
だが、何故か気は霊のようには視えなかった。
有ることはわかるし動いていることは解るが、はっきりしない。
そこで、『まるで近すぎる物を見るときに目の焦点が合わないみたい』だと思いついた三太朗は、当然のことのように鶸黄に見せてもらった。
そうしたら、あっさり見えたのだ。
そして、気の流れがどう動くのかを理解した上で、今度は霊を視る感覚での感知を諦めて、必死に集中すれば、幽かだが確かに、自分の体内で師の操気が齎す気流の変化を感知できたのだった。
答えを知った上で問題を解くようなものである。
出来るときはあっさりしたもので、喜ぶよりもぽかんと口を開けた間抜け面になってしまったのは、一生の不覚だと思っている。
ちなみに、変な顔の言い訳で、急に出来てびっくりしたのだと、一生懸命説明された高遠は、師匠としてとりあえず弟子を褒めた。
一緒にいたヤタさんが『なぜ容易に霊の感知はできるのに気の察知に苦労するのだ…』と途方に暮れて呟いた。
一般的には霊の扱いの方がずっと難しいものなのである。
とはいえ白鳴山では一般常識というものはあまり重視されないので、三太朗はそういう子だとして納得された。
すごい子、良い子と褒められた三太朗は、急にあっさりできる簡単なことをずっとできなかったということにまだ動揺していて、やっぱり言い訳を繰り返していたりした。
その夜の布団の中で、間抜け面の件に次いで、ずっとしなくて良い言い訳をしていたことも恥ずかしいことに気が付いてしまい、両手で顔を覆って丸くなり、大いに身悶えた。
そんなことまでざっと思い出してばつが悪くなった三太朗は、微妙に目を逸らして、ついでに話も逸らした。
「ひわは足早くなってる時間を延ばせるようになってきたんだよ。オレはまだぜぇんぜんなのに」
「その内にできるだろうよ。大将も言ってんだろ。焦るこたぁねえ」
「うん!言ってた!!またできるようになるからって!」
鬼の顔がちょっと振り向いた。逆光になってさらに恐ろしいが、面白がるような精神が響いてくるだけで、三太朗は機嫌よく翼を震わせた。
「ちび助は、もう力ぁ増すとこまで出来たってか」
「ひゃひっ」
裏返った返事は、三太朗より半歩ほど後ろに座った鶸黄からした。
小鬼は、主と対照的に、鉄が叩かれて散る火花からできるだけ遠ざかろうとするように仰け反っていた。
こんな有様だが、ついてきたのは鶸黄自身だ。
自分こそはできる限り早く火を克服しなくてはならないのだと声を上げ、まずは猛る火を眺める機会を増やすことから始めたいと言って。
もちろん、三太朗は仰天した。
鶸黄といえば火が苦手な子として有名である。火どころかお風呂さえもひと苦労だったのは記憶に新しい。
『ひわは、なんでそんな急いで火を大丈夫になりたいの?』
『坊』
『ボクが、ぬしさまのおそばに居たいからでし!』
弦造が焦り、止める前に鶸黄が誇らしげに胸を張る。
三太朗はぱちぱちと瞬きをした。これほどなにもわからない答えも珍しい。
『オレといると、火が大丈夫じゃないとなの…?』
万事説明し切った顔の配下を困惑して見返すしかできなかった。
『……坊』
振り返った鬼は珍しく困った顔をしていた。
『お前は知らんだろうが……あー……お前は火と関わりがある。だが、細かくは聞いてくれるんじゃあねえぞ。大将が話す時期と順番を考えてんだろうから、俺が言っちまうこたぁできねんだ』
『火?オレが?』
そうだ、と頷いた弦造は、今は気にせずやるべきことをやりな、と締め括ったのだ。
『大将にゃ、こんな話になったってぇ言っておくからよ。悪いな』
取り繕うように謝らたら、三太朗は引き下がるしかなかった。
鶸黄に弦造が『そんなに言うならやってみろ』と許しを与えるのを、困惑して見ていた。
遅まきながら、教えてほしいと食い下がる言葉を幾つか思い浮かべたものの、知りたいのか判らなくなってしまった。
三太朗は、そう、戸惑っていたのだ。
以前から時折、周りが何だか様子がおかしくなることは感じていた。
そうしたもやもやする違和感と同じものがあったのだ。
その正体がわかるのかもしれない。やっとかと思うと同時に……少し、怖い気がした。
剛毅な鬼が困って口を噤み、師匠が慎重に時期を選ぶ何か。時折周りを酷く緊張させるような秘密。
そんなものが手の届きそうなところへ来て、動揺と緊張に蓋をしているのに過ぎないのだ。
その後鍛冶場が面白かったのは本当だ。それで誤魔化された様子は、ふりだったけれど。
――――火にかかわりがある……?
「おい、チビ。無理すんじゃねえぞ…おい」
「……ふぁっ!?ひ、ひゃい!!」
そんなやり取りが聞こえて、はたと我に返った。
鍛冶場の見学を勝ち取ったとはいえ、鶸黄は案の定全身がちがちに強張っていた。
鍛冶場に入ってきたそのときから、この配下はぎこぎこと音が鳴りそうな変な動きをして、ひっくり返らない方がおかしいほどの有り様だった。
自ら望んだというのにあんまりな滑稽な体たらくに、なんだか心配より可笑しくなってきてしまった。
ならもっと楽しくしてやろう、と思ってしまうのは仕方がなかろう。
「ねえ、弦造さん!こないだ初めてかけっこでひわに負けちゃったんだよ!"気"なしだと余裕でオレが勝てるのに、ありだとひわ、すっごく速いんだよ!」
「ぴゃっ!?」
「――ほお?そいつぁ大したもんじゃあねえか。雛たぁ言え、天狗に駆け比べで勝つなんてよ」
「ひ、ひぇ…」
「そうそう!足速い時間も長くできるし、速さ増したりもできるの、師匠もびっくりしたって!ひわはすごいんだよ!!」
「ふ、ふゃ、ボク…ボクあ…」
「はー、あの大将を驚かせるたぁ、滅多にねえこった。えれえ才があったもんだ」
「や、やや……ふええ……」
ぷしゅう。
褒められ慣れない小鬼は、頭から湯気を噴きながら真っ赤な顔を覆った。
けらけらと主と鬼が笑った。
「さあ、こんだけありゃあ良いだろうよ。少なくなったらまた言いに来い」
「うん!弦造さんありがと!!」
無造作に差し出された桶を受けとって…水の重さにたたらを踏む羽目になったが、なんとか踏み止まった。
水の底でしゃらしゃらと微かな音を立てるそれを、少し離れた床へ持ってきて、鶸黄と共に覗き込む。
腕を突っ込んでひとつ取り出してみると、綺麗な弧を描く釣り針がきらきら光った。
いや、釣り針と言うには先は尖らず、返しもついていない。
形だけ真似た針金、小さな鈎が、ざっと三十は沈んでいる。
丸く曲がった部分は、三太朗の親指の爪ほどの大きさしかなく、糸を通せる穴を先に備えた軸も合わせたとしても、丁度親指の指先からひとつ目の関節ぐらいまでしかない。巨大な鬼が作ったとは思えぬ繊細な品だった。
そう、小石で魚は釣り上げられないと師に抗議して次の日、つまり今日から鈎を使えることになったのだ。――あくまで修行なので、釣り針は駄目らしかった。
しかし、三太朗はただの鈎だろうと自信満々で、魚を釣り上げられる気しかしない。
なにせ、小石でさえ惜しいところまで行ったのだ。
不敵な――と自分で思っている――顔でにんまりした。
「水はそっちの溝に捨ててきな。桶は魚入りで返しても良いぞ」
「はぁい!」
鬼の軽口に元気よく大真面目な返事して、鍛冶場の隅に切ってある石造りの水場に水をこぼした。
そこで見つけた布袋にちゃっかり中身を流し入れると、横で鶸黄が空の桶を頭に被って、さりげなく火明かりから顔を隠す。
「いってきまーー!!」
「おう、行って来い」
きゃーーっと甲高い歓声を上げて子どもたちは駆け出した。三太朗は少し態とらしい歓声で、鶸黄は引き攣った悲鳴に近かったが、兎に角大騒ぎの子どもたちを、鬼はやれやれと笑って見送った。
鍛冶場の横手にある引き戸を開け、急な階段も駆け上り、最後は手も使って獣のような四つ足で飛び出した囲炉裏端。縫い物をしていたお篠が「転ぶんじゃないよ」と言うのに大きな良いお返事をしたときも止まらず、雑に草履をつっかけて、彼らは明るい外へ飛び出して行った。
途端に視界はきらきらとした白い光がいっぱいに瞬いた。
晴れた陽射しが木々の枝葉を縫って落ちる。眩い木漏れ日の群れが、淡い光の柱を無数に描き出す。
そんな中を突っ切って、三太朗と鶸黄は矢のように駆けて行く。
ざくざくと鳴る下生えは、踏みつける度に新緑の香りを撒き、外の香りを吸って走る内に、葛藤を振り切るように殊更元気に声を上げる三太朗。
火から逃げ出すような心地だった鶸黄の顔からも強張りが取れていく。
その可愛らしい騒ぎに、羽音が複数重なった。
「来たかチビども!」
「無事貰えたかー?」
「転ぶなよー?」
少し先に降り立ったのは、三太朗の三羽の兄弟子たちだ。
ひと際背が高い次郎、同じ顔をした双子の少年、紀伊と武蔵。
大好きな兄たちを見つけた三太朗は、笑みを浮かべた兄貴分たちのところまで駆け、彼らの前で止ま…
「わーー!!!にーさんたちだぁああありゃああ!!!」
…らなかった!
「はぁ!?ぐふっ」
到着寸前で加速した弟を咄嗟に受け止めようと手を出した次郎は、三太朗を片腕で受け止め、時間差で三太朗につられて条件反射的に加速し、順当に蹴躓いた鶸黄を大慌てでもう片腕で止め、慣性で吹っ飛んた鶸黄の帽子――もとい手桶が、彼の大事なところに真っすぐ向かって行った。
次郎天狗はしゃがみ込んだ。
なお、子どもでも妖な三太朗たちは、次郎の受け止め方が意外に上手かったこともあり、衝撃で一瞬息が止まったものの、数呼吸もすればけろりとしていた。
実質無傷であると言えよう。
「あっははははは!!次郎おまっ、迂闊!!慌て過ぎかよ!!」
「あははははは!!!次郎おまえ、見事!!狙って当ててんのかよ!!」
「……くっ……う゛っ……ぐっ………」
呻く次郎に、『なんかむしゃくしゃしてやってみたけどやらかした…?』と若干焦りはじめていた三太朗たちは、遠慮なくげらげら笑う双子に『あ、なんか大丈夫そう』とほわほわ笑みを浮かべかけた。
よそ見をしてしまった子どもたちに魔の手が迫った。
がしっ。
「こんのぶわぁかどもぉおおお!!!」
「に゛ゃああああ!!!」
「ぴゃあああああ!!!」
大きな手に頭をがっしり掴まれた子どもたちは悲鳴を上げた。
強めの力で握られて地味に痛い上、反射的に逃げ出そうとしたがびくともせず、ちょっと首が音を立てた。
しばらく、珍しく次郎がぎゃんぎゃんお説教する声と、まるで他人事の双子の大笑いが重なって響いていた。
お待たせして申し訳ございません。
本業の方が、週末休みも気力も削られるデスマーチを終え、次のデスマーチの兆候が。
隙を突いて息抜きに文章に戻ってこれるようにリハビリ中です。
ゴールデンウイークもない見通しなので、続きは気長にお待ちください。。。申し訳ない