百九 首をひねって
寒さは弛み始め、数日置きに行きつ戻りつしながらも、冬が早足に遠ざかる。
葉を落とした寂しい枝々に、柔らかな芽が噴き出してみるみる山の季節を染め替えていった。
灰色がかっていた景色は満遍なく明るい色味を帯び、吹き抜ける風にも新緑が香る。
三太朗はまだ、"気"を少しも感じ取れないでいた。
「むぅ…」
三太朗は胡坐をかいて廊下から外に向かって唸った。
目の前に広がる屋外では鳥が朗らかに鳴き、よく晴れた空は心地よさげに澄んでいる。
いかにも気持ちよさげな春にしかめっ面を向け、彼なりに精一杯強く睨み付けた。
とたとた、と背後で軽い音が鳴る。
見なくてもそれが、自分の唯一の配下の足音だということはわかる。
遠慮がちに右に行った足音が、今度はとたた、と左へ動いた。
右へ左へ、しばらく立ち止まり、また右へ。
音だけでも小さな鬼が困り切って主の様子を窺いながら右往左往しているのが分かってしまって、三太朗は思わずふはっと軽く噴き出した。
「ぬ、ぬしさ…」
「うん、オレだよ?」
空っとぼけてそう言うと、鶸黄は動きにくい顔面を精一杯動かして、ぎこちない困り顔を作って見せた。
三太朗は三太朗で、眉を上げて滑稽なとぼけ顔を向ける。
そうして同時にへにゃっと笑うまでがお決まり。
これは、話しかけるのが苦手な鶸黄と、ついとっつきにくい無表情になりがちな三太朗の間でいつしか始まった、拒絶してないことを示す定番のやり取りだった。
「………」
すとんと隣に座った鶸黄が話し出すのを待ちながら、三太朗は輝くような白い雲を目でなぞった。
こちらから話しかけてやれば良いのは解っていたが、声をかける気にはなれなかった。
おどおどとした気配が横にあると、つい先日、"気"の感知を習得していた鶸黄が、たどたどしくとも自力で気を高めることに成功したことをどうしても考えてしまう。
三太朗の師、高遠天狗は相変わらず"気"を少し三太朗に送り込んで、足を速くしたり少し力持ちにしたりという、遊びのようなことを続けている。
その遊びまがいの訓練でも、鶸黄は徐々に気を自分のものにしていっているのだから、有効な訓練法ではあるようだった。
しかし、三太朗は鶸黄の最初の一歩と同じ場所にさえ達していない。
それを三太朗以上にこの小さな配下は気にしているのだ。
いつぞや勝つだのなんだのと叫び合い、最初こそ追いつかれはしないかと焦っていた鶸黄だったが、三太朗を置いて先に先へと進んでいくにつれて、申し訳ない顔をするようになった。
――――ひわが気にすること、ないのにな。
教えてもらった通りに、負けたと感じる毎に大げさに悔しがり、負けたと認めて地団太を踏んで、同時に鶸黄にすごいと賛辞を贈る。
そうすれば、悔しさは暗く重たくなる前に流れていき、羨ましさは次こそはと努力する力になり、そこまで落ち込むことなくいられた。
けれども、決して何も感じなくなる訳ではないのだ。
鶸黄の成長を一緒に喜び、称えながらも、自分の全てが劣っている気がして悔しい思いは確かにあった。
「……ぬしさま、ボク…」
やっと言いかけては口籠る。
いかにも申し訳なさそうで、言いにくそうな躊躇いを聞き取って、三太朗はまたちょっとばかり唸りたくなるのを我慢した。
言いたいことはなんとなくわかる。
三太朗は溜息ばかり飲み込んで重くなる腹の底で、鶸黄から流れてくる、悔いたような自分を責めるような心苦しい感情から、出来るだけ目を逸らそうとしてみた。
――――師匠はできるようになるって言ったし、絶対、できるようになるんだから、だから、気にしたくないのにな。
ここで謝られても、『ひわのせいじゃない』としか言えないし、気にするなと言っても彼は気にするだろう。
そうして、鶸黄に謝らせたことを三太朗自身も気にして、気持ちが重くなってしまうのだ。
だから、聞きたくなかった。でも、聞いてやらなくてはいけないとも思う。
丸っと全部考えてみると、やはり鶸黄が消沈するのは三太朗のせいなのだから。
「ボク、あの…もっとできること、考えたいでし」
ぱち、ぱち、と思わず何度か瞬きをしないと、言葉の意味を嚙み砕けなかった。
「ボク、ボク、ぬしさまのしゅぎょう、お手伝い、したい、でし…」
灰色の凝視に負けて、懸命に継がれた声が尻すぼみに消えてしまう。
最後に小さな小さな声が『ごめんなしあ』と囁くように付け足された。
「ごめんなしあ。たくさん考えても、なにも、ボク、おもいつかなくて…だけど、ぬしさまなら、なにか、なにか……」
くふっ、と笑ってしまって、三太朗はぱちんと両手で口を塞いだ。
「ふふふ…あはははは!!」
それでも収まらなくて、最後には笑いながら横倒しになってしまった。
「あの、あの…?」
「ひわ、もう!ひわったら!ほんとにオレの一番目がひわで良かった!!」
「ふぇっ…!?」
三太朗が思っていたより、唯一の配下は愚直で、真っすぐで、悩んでいて、それで、予想以上に三太朗のことが好きなのだった。
「オレも、何が助けになるか自分でわかんないよ」
「そう、でしか」
よいしょ、と起き上がって涙をぬぐう。
照れるか戸惑うか決めかねたような顔を伏せて混乱している鶸黄にもう一度笑った。
鶸黄もまた三太朗が早く操気術を習得できるように願っているのだ。それが嬉しかった。
「だってオレ、気で何ができるのか、どんな感じなのかもわかんないもん。だからまず教えてよ。どんな風なのか」
ぱっと顔を上げた黄色の目が明るく輝いた。
「むぅ……」
「ふむむぅ……」
三太朗と鶸黄は胡坐をかいて廊下から外に向かって唸った。
今日は小雨が降っている。
雨にしてはわりあい明るくて、風もなく、ただ地を包むようにやわらかな小糠雨がさらさらと降り続いていた。
そんな景色を、できるだけ険しくした小さな顔がふたつ並んで睨んでいる。
頑張ってしかめっ面にしているのが判って、彼らを見かけた大人たちは思わず微笑んでしまうのだった。
「なんだ、新しい遊びか」
「ちがうもん!」
背後に向かって反射的に返した三太朗は、今度はふくれっ面になって、いつの間にかのぞき込んでいた師を見上げた。
「いっぱい鶸黄とがんばったのに、なんにも進まないから、じくじ?たる、思い?ってやつなの!」
「ボ、ボクも、それでし!」
「わかったわかった」と笑った高遠に、「一割ぐらいしかわかってないと思います!!」と怒る。覚えたての言葉を使ってみたいお年頃の三太朗だった。
三太朗と鶸黄は、思いつく限りのことを頑張ってみたのである。
まずは気の感覚を知ろうとすることから始めた。
鶸黄は懸命に主へ気の感覚を伝えようと考え込み、悩み、覚束ないながら言葉を尽した。
三太朗は三太朗で、言葉を探すのが苦手な鶸黄に、あれこれと言い方を変えて質問をして、理解しようと力を尽くした。
似た感覚を探し回ったりもした。
木漏れ日の温もりが似ている気がするとなれば、陽だまりに共に手を翳し、そのままぽかぽかとした中で一緒に昼寝をした。
体の中を動く様が湯の流れを思わせるとなれば、三太朗が入った風呂を鶸黄が桶で掻き回しては、ついでにお風呂に入りなさいと言われて体を洗ってゆっくり浸かって、そのまま夕餉を堪能する流れになったりした。
気を少し動かせるようになった鶸黄が、高遠の真似をして三太朗に手を当ててみたりもしたが、三太朗は鶸黄の手がちょっとひんやりしていることしか分からなかったし、鶸黄は鶸黄で、自分の気は感じ取れても他者の気は殆ど分からず、成功しているのか失敗しているのかも見当がつかなかった。
効果は別として、そんなことをしている彼らは一生懸命で大真面目なのは間違いない。
ちなみに周囲はそんな努力をほっこりと見守るばかりで止めはしなかった。
みだりに他者に気を流し込む行為は危険を伴うが、他者の気を操ったり、自分の気を放出したりというのは案外と難しい技術であるので、鶸黄にできるわけはないのだ。
そうして邪魔が入らなかった彼らは、高遠との訓練以外の充てられる時間は全て充てて、夕餉の後、眠る前までそれこそ全てを彼らなりの努力に費やしたのである。
「わからなかったか」
「わかんなかったーー!」
ふくれっ面が並ぶのに可笑し気に笑って、黒い天狗は「焦らずとも、自然とできるようになるさ」とそうゆったりと頭を撫でながら言って聞かせた。
這えぬヘビがいないように、泳げぬ魚がいないように、飛べない天狗はただの一羽もいない。
天狗が飛ぶためには気を操る必要があるとは、過日に言った通りである。
畢竟、天狗として何の欠損もない三太朗は、日々を健やかに暮らしているだけでも、いつの間にか気を高められるようになり、風切羽が生え揃った頃には羽ばたいて体を浮かせるようになるのだと。
「得手不得手はあるだろう。宙に在りながら均衡を保つ技も、安定して飛び立ち降り立つ方法も、稽古して習得せねばならん。だが、とりあえず体を浮かせるというだけなら自然とできるようになるものだ。気も同じく、自在に操る技を得るにはやはり学び鍛える必要があるが、自然と必要なだけ高まり、勝手に動くようになる」
そうして、と見上げる瞳を覗き込んで言った。
「そこまで高まれば自ずと感じ取れるようにもなる」
はい、と三太朗は答え、でも、と思う。
思わず師の袖を握った。
「できるようになるのが、すごーく遅かったら?もうずっと、誰よりも遅くなったら?」
鶸黄が、はっと居心地悪気に身動いだ。
高遠は宥めるように灰色の頭をぽんぽんと軽く叩いて、もう片方の手で鶸黄の頭もよしよしと撫でた。
「そんなことにはならんさ。こんなに背が伸びただろう?」
手が三太朗の頭頂に置かれた。
座っている頭の位置を思うと同時に、三太朗は立った目線の高さも思い出す。
そういえば高遠の目が随分と近くなったと気付いた。
それもそのはず、幼く戻ったあの秋の日より約半年、三太朗は頭ひとつ分に迫る勢いで背を伸ばしていたのである。
まだまだ小さいと思っていたのに、自分でも分からない内に、かなりの成長を取り戻していたのだ。
傍らの鶸黄が主を見上げ、自分の開いた両手を見る。
日々に違和感がなかったということは、一番近くにいる彼もまた、成長している。
「きちんと育っている。体が大きくなればその分、具わる気もまた増えていく。そして、感じ取るのには、小さいより大きい方が容易いものだ」
でも、と言う声がふたつ重なって、小さな主従が顔を見合わせた。
「ひわより大きいけど、オレの方ができないですよ」
「ボク、ぬしさまみたいにつよくないでし!」
また見合った弟子たちが、互いを驚いた顔でまじまじと見ているから、高遠はつい堪え切れない笑いをこぼした。
「そう、そうだな。そう見るならその通りだが、それぞれに向き不向き――素質というものがある」
例えば、と小鬼の肩に手を置く。
「鶸黄は、内経に特別な才があるのだろう」
内経、内経術とは操気術と同じく、気を扱う術を指す言葉だ。
「ひぇっ」
びくっと震えた鶸黄が小さな悲鳴を漏らすのに対して、三太朗はすとんと納得してこっくりと頷いた。
「それで、ひわはオレよりちっちゃいけど気がわかるし、内経術がどんどん上手になるんですね。トクベツな才能だったの!すごい、いいなぁ」
「ぴっ」
隠すことなく羨ましがる主からの賞賛に、配下は可憐に慄いた。
「三太朗、お前は"外経"に向いていると話したろう。それも立派な素質だ」
「がいけい?」
首を傾げた鶸黄を見て、三太朗ははたと思い出した。
鶸黄を高遠が迎えに行くその前日、外経術を扱う"黒天狗"の素質があるという話を聞いたことを。
「ひわ、外経術っていうのはね、体の気を使う内経術と違って、外にある"霊"を使う技だよ。――師匠、あの、外経向きだともしかして、内経の素質ない?オレ、向いてないのかな」
しょんぼりと、さらに言うとちょっと泣きそうになりながら尋ねた弟子に、師は「いいや」と即座に返す。
「前にも言ったが、どこに素質があろうとも鍛錬次第でやりたい技を必ず習得できる。素質が他にあるからといって、内経が全くできなくなる訳ではけしてない。見方が違うんだ、三太朗」
「はぇ…?」
高遠は大真面目に鶸黄を引き寄せてその体ごと戸惑う三太朗に向けた。
「そもそもお前の上達は遅くはない。鶸黄が驚くほど速いだけだ」
「え……えぇえ!?」
悲鳴じみた声を上げたのは鶸黄で、三太朗は零れ落ちそうなほど目をまん丸にした。
「ひわがはやい?オレは?ふつう?」
「ああ。鶸黄は見たことがないほどに早いな。あれは、気の道――経絡が整い気が高まるものだから、高まった分感じ取り易くはなるが、自らの意思で高められるようにはならんな。三太朗は普通の速度だが、気は順調に高まっているぞ」
だから案ずることはない、と言う師を見上げ、自分を凝視する配下を見て、三太朗はゆっくりと肩の力を抜いた。
「……そっかぁ」
思った以上に気が抜けた声が出て、三太朗は思わずにやっと笑ってしまった。
「ひわが得意でオレは普通だったんだぁ…」
上達速度の違いは才能の違い。
そう聞いてしまえば確かにその通りだと思う。
現在の状況に名前が付いただけで、実質何も変わりはしないのに、三太朗は形容しがたいもやもやが胸の中に生まれるのを感じて片手で擦った。
――――得意なひわの横で、普通のオレはうんと努力をしないといけないのかぁ。
素質が他にあってもやりたい方を選べばいいと高遠は言うが、それはどれほど大変なのか。その一端に触れた気がしていた。
鶸黄が大して努力もせずに習得していくのを見ていれば、才能というものが如何に大きいことか。凡才が同じことをするのに、どれほどの苦労があるものか。
この短い期間で三太朗は実感していた。
鶸黄が何気なく通り過ぎたところにものすごく努力をしてたどり着いたとして、そのときには鶸黄はさらにその何倍も先へ進んでしまっているのだ。
近くにいるのだから、どうしても比べてしまう。これからずっと鶸黄の小さな背を追い続けなければいけないことを思うと、はたして努力を続けていられるか自信がなかった。
――――嫌なわけじゃない。羨ましいけど、ひわはオレを助けるんだってそればっかりだもの。
ただ少し寂しいような気がして、三太朗は複雑な心境のまま眉を下げた。
黙り込んだ三太朗のほんの僅かな表情の変化を、高遠は何を言うでもなく冷静に眺めている。
鶸黄はその眼差しを、少し寒いような気持ちで見つめていた。
――――ぬしさまが、どんな風に思うのか、試してる。
ふとそんな考えが過って、きゅっと口に力が入った。
大丈夫だと言いながら、才能で劣っていると言ったも同然の話をする。
自由に選ぶと良い、と言っているのに、行きたい方向はけして簡単ではないぞ、と言っているように聞こえた。
簡単ではないのはその通りだろう。
三太朗がたくさんの努力をしていたのを傍で見ていた鶸黄は、自分と主が違うということを胸が痛くなるほど解っていた。
難しいから諦めさせようとしているのだろうか。
それはそれで必要なことだろうとは思う。鶸黄だって、三太朗が頑張っても思ったように報われなくて苦しむのは嫌だ。
だけど、三太朗が元気をなくすような言い方をしないで欲しかった。
それに、鶸黄の方が優れているような言い方も、しないで欲しかった。
色んなことを競って、それで勝ったり負けたりはしても良いけれど、もっと根本の方にある、存在そのものに優劣があるような考えは、自分たちの間には不必要なものに思えた。
だが、言葉にしなくても、厳然としてその事実はそこにある。
目隠しをしても、きっといつか三太朗はその考え方をしてしまうような気がした。
だから、高遠は早いうちにこんなことを言ったのかもしれなかった。
けれどもそれは、なんだかあまりにも、あんまりだと鶸黄は思ってしまったのだ。
「そんな顔をするな」
そんな優しい響きの声が降ってきて、はっと見上げた先の高遠は、まっすぐ己の弟子の方を見ていたけれど、そっと鶸黄の背を撫でた。
「才のあるなしと言っても、まだ始めたばかりで先を決めつけるものではない。先は果てしなく長いぞ。なにせ俺もまだまだ修行中、という具合だからな」
「ええ!?」
高遠はぽかんとした子どもたちに、当たり前の顔をして頷いた。
「才があり、容易に技が習得できるからと油断していた者が、たゆまぬ努力を続ける非才の者に劣る結果に終わることは、掃いて捨てるほど見て来た。お前も一心に励んでいけば、後々必ず望む結果を掴める。こんなやり始めで彼我を比べて落ち込むのは無駄というものだ」
にこりと笑った顔が、今度は鶸黄にも向けられた。
なんだかもっと頑張れと言われているような気がして背筋が勝手に伸びる。
「まあ、気にするなと言っても詮無いだろうし…そうだな、少し気分を変えて、外経の方でも遊んでみるか」
一拍遅れて「修行だって思ってたのに!今遊びって言った!!やっぱり遊びだったんだ!!」と大騒ぎを始めた雛は、さっきまでの陰りがなくなっていて、鶸黄はほんの少し悔しい気がした。