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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
三章 身
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百七 倒れ込んで




 さく、さく、と山道を踏む音が鳴る。

 鶸黄(ひわき)がこの世の終わりが来たような顔をして、山道をあてどなく彷徨っていた。


 幸いと言って良いのか、前髪で表情はあまり見えない。

 しかし、ふらふらとした足取りは頼りなく、目は前を向いているようでいて、宙に据えられたまま動かない。


 その異様な雰囲気は氷鬼というより幽鬼のようで、彼を見かけたカラスがぎょっとして枝から落ちそうになるほど、どんよりとした空気を纏っていた。


 はらはらする彼らの目の前で案の定、また(・・)横から張り出していた低木の枝に突っ込んでよろめき、落ち葉を踏んで滑り、石を踏み付けて転ぶ。


 カラスたちが大騒ぎして心配し、すぐ脇まで来て覗き込んでも全く目に入らない様子でよろよろと立ち上がり、三回ぐらい死んだような絶望顔でまた歩いていく。


 カラスたちが『あっ、末期かも』と察して、違う意味でざわつき始めたそのとき、細い声がかろうじて周囲に届いた。


「ぬしさま…」


 鶸黄が息に乗せて呼んだのは、今は傍に居ない、唯一無二の主だった。

 その声は泣きそうとかそういうのを通り越して、木の(うろ)に風が吹き込んだときの音のような虚ろな響きを帯びていた。


 白鳴山の聡い見守り役たちは『これダメなやつだ』と直ぐ様悟り、なんとかこちらに気を向けさせようと、できる限り色々してみた。


 間近で鳴いても気が付かず、つんつんと軽く裾を咥えて引いてみるだけで体が危なっかしく揺れ、足元を横切れば気付かずつま先を引っ掛けて転びかけたので、とうとう何もできなくなってしまった。惨敗である。


「ボク…ボクあ…」


 鶸黄は、周りの大騒ぎが全く目に入らないほど深く、意識を心の内に沈めたまま立ち止まる。

 彼は自分の小さな足をぼんやりと眺めた。

 今はふらふらと緩慢に体を運んでいるそれは、しかし昨日は信じられないほどの速さで駆けたのだ。






 主と共に歓声を上げて、今まで覚えがないほどの体の軽さに大はしゃぎして、駆け比べをして、追いかけ合いをして、暫くして元に戻ると、微笑んで見守る黒い天狗に走り寄ってはまた身軽にしてもらった。


 "()"という体に(そな)わった力を、ほんの少しだけ注いで、それを操って鶸黄たち自身の気を動かしているのだ、と説明された。


 例えば物を持ち上げるとき、腕や腹に力が入る箇所が決まっているように、脚を速く動かすときに気が多く要る場所も決まっている。だからそこへ気を動かしてやれば脚が速くなるのだ、と。


 鶸黄は解ったような、解らないような感じだったが、頭が良い主は合点がいったように何度も頷いていた。






「かんがえなかったら」






 どういうことか、理解が及んだとはとても言えないが、気というものがあって、体の中を動いているのか、と兎に角ふんわりと分かった気がした鶸黄は、なんとなく、ただなんとなく、高遠の手が肩に置かれたときに、意識を向けてみたのだ。


 一度目は、手のぬくもりが移ったのかと思った。


 二度目は、それにしては温かさを感じている時間が長いことを不思議に思った。


 三度目になって、手が置かれた左の肩に、温かい何かが染み込んでくるような気がした。


 四度目、五度目と重ねる内に、染み込んだ何かが、するすると左半身を流れ下り、脚を往復して腹を通り、今度は右脚を通ってから半身を駆け上がっていくのを感じた。


 その何かが進む内に、温もりが増えて、通った後に何かがうねるような感覚も、錯覚かと思いながら繰り返した何度目かに確信に変わった。






「いわなかったら」






 これのことか、と嬉しくなって、彼は言ってしまったのだ。『キって、こえでしか?』と。


 いつもの通り、笑ってくれると思ったのだ。

 鶸黄ができるようになったことが増えたと、『すごいね!もうわかるようになったの!』といつものように喜んでくれると思ったのだ。


 主の師匠は、笑って撫でて褒めてくれたのに。


 でも。


『え…』


 ぽかんとした顔で絶句した主など初めて見た。


 驚いて、その後慌てて、もう一度と師に願って、何度も繰り返して、真剣に考え込む表情の薄い横顔に、灰色の髪が汗で張り付いていたのがなぜか鮮明に思い出される。


 ひたひたと押し寄せる戸惑いの中で、ぞわぞわと寒気が背を這った。しかし、ただでさえあまり速く動かない心が、予想外の現実に追いつけない。

 思考を鶸黄がなんとか回そうとしている内に、主の顔がくしゃっと歪んでしまったのだ。


 泣きそうな顔で、途方に暮れたようにぽつりと落とした呟きが、耳に突き刺さった気がした。


『わかんない…』


 主の師が、一日で分かるようになる者の方が稀だと言って、これから段々とわかるようになると撫でて、大丈夫だと顔を覗き込んで、主はそれにうん、はい、とひとつずつ頷いていたけれど。


 最後に振り返って『すごいね、ひわ』と言ってくれたけれど――。






 小さな白い手で、ぎゅう、と胸元を鷲掴んで、ぐっと口を引き結ぶ。


「ボクが、いわなかったら…そしたら…」


 解っても秘密にしておいたら、主は楽しそうなまま昨日を終えただろうか。






『ごめん、今はなんか…ちょっとだけでいいから、待ってほしい』


 そう言った横顔に感じた胸のこの重さはなんだろう。


 部屋に戻り、まんじりとせずに夜を明かしてからも、朝餉の席でも、こちらをあまり見てくれなかった。

 何をしていても上の空で、しばしば動きが止まってしまう。"心ここにあらず"という言葉は、つい四日前に一緒に捲った書物で知ったのだったか。


 鶸黄が迷い、焦り、どう声を掛けていいか分からない内に、何かを深く考え込んだ主は、はっとした顔で師の部屋へ向かった。

 同行を許されず、ぽつんと廊下に立っていた間のなんと心許なかったことか。


 丸一日ほどに感じるしばらくが過ぎて、やっと出てきた主は、眉を下げてまたごめんと言った。


『ちょっと独りになりたい』


 外へ出ていく背中を見送ることしか出来なかった。

 そっと頭を撫でられて見上げれば、いつの間にか出てきていた黒い天狗がいた。


『あいつも未だ物慣れぬ。少し待ってやってくれ』


 鶸黄は実は、この主の師が少し恐ろしい。

 穏やかで優しくて頭が良くて飛び切り強くて素晴らしいと主は言うけれども。


 口ごもる鶸黄を見下ろす目は、穏やかというよりも静かで、語られる言葉は思慮深さを感じると同時に底しれない。

 その瞳の黒に魂を吸われる心地がして、ただ深く礼をする動作で視線を切った。


 吐息のように笑うのが分かった。そして降ってくる声。


『お前にも良い機会だろう』






「ぬしさま…」


 吐息ほどの声しか出しはしないから、呼ぶのは許して欲しいと願った。

 独りになりたい主を、けして追っては行かないから、主がいないとわかったここ(・・)から去るのは許して欲しかった。


 主が心配なのに縋り付きたくて、力になりたいのと同時に助けて欲しくて、しかし不安の正体が解らなくて困惑する。


「ボクあ…」


 声が決して届かないように呼び、主が居ない場所から、居ないと思う方へ移動しながら、ぐるぐると考えるのはたったひとつ。


「ボクあ、どうしたら…」


 頼りなげな朝の様子、泣きそうな昨日の顔。

 何をすれば良かったのか。これからどうすれば良いのか。今のこれの何が良い機会なのか。


 鶸黄は途方に暮れ切って重いため息を吐き出した。

 引き摺るように踏み出した足が、半歩だけ前の地面を踏む。

 体重のかかる後足から、重心を前に移す僅かな不均衡の間に、足の下で砂利が滑った。


 体重の大半が乗った軸が斜めに(かし)げば、容易くもう片足も引き摺られていく。


 今日複数回あった転倒の過程。

 ただ、先までの転倒と違ったことは、鶸黄がいたのが、斜面の上を渡る細道だったことだ。


 ひう、と声にならなかった悲鳴の残骸が息に混じる。


 咄嗟に手を伸ばすこともできずに、小さな鬼は長い坂を上から下まで転げ落ちた。























 渡鴉(ワタリガラス)(ツテ)は、ちょこんと立った姿勢からつやつや輝く嘴を持ち上げると、気遣わしげに雛の背中を見上げた。


 外に遊びに出てくる度に傍で見守っているから、すくすくと大きくなってきたのを知っている。

 けれど、今日の三太朗は、過去見てきた日々のいつよりも小さく見えた。


 ふぅ、と弱くため息を吐いて、小さく呻きながら頭を抱える。小さく折りたたまれた体躯が弱々しくて、悩み事が彼にとってとても大きくてとんでもなく重いことを察して余りある。


――――こんな深刻に悩んでるの久しぶりだわ。


 これまでも悩む様子は何度か見た。

 様々な悩みの種を、翼を得てからは特に、この子は全て楽天的に片付けてきたのだ。


 いつもはしばらく考えて、自分なりに納得して終わらせるか、収まらないなら誰かのところに行って甘えながら打ち明け、たまに少し泣いたりしながら最後はすっかりと心の整理をして、いい具合に納得してしまう。

 深刻そうな顔をしていたのに、終わればけろりと立ち直るのがお定まり。


 悩んだ中身は微笑ましい小さなことから、それもう考えやめたの?と驚くことまで程度も色々。

 それらを一緒くたに悩んですっぱり立ち直るのだから、この子は大物なのかもしれないとカラス同士でささやき合ったものである。


 だが、今回は心配して様子見に来た兄たちにも、『ちょっとひとりで考えたいの』と言ったのだ。


 しかももう事があった翌日である。

 これは重い方のが来たぞ、とカラスたちは頷きあった。

 今回の引き摺り具合は、記憶が少しずつ戻り始めた頃、出来たはずのことが出来ない落差に衝撃を受け、忘れたことに不安になって混乱していたあのときに匹敵するかもしれない。


 それも無理はないと伝は思う。


――――だって三太朗さん、ずっと操気(そうき)術を使うの楽しみにしてたものね。


 翼を得るよりも前から楽しみにしていた操気術は、しかし弟のように思っていた鶸黄が先に一歩進んでしまった。


 それはいじけたくもなるだろう。

 独りで静かにそっとしておいて欲しくなるときもあるだろう。

 鶸黄に当たるとか、思い詰めて無茶をする様子もないのだから、今しばらくは彼の好きにさせようというのが山の総意であった。


 そうして独りになりたくなっても伝が傍にいるのを許しているのは、兄弟子たちを差し置いて選んでくれたのではなく、それが伝の仕事だと理解しているからだということを、伝はきちんと理解していた。


 三太朗は、自分の事情で他者の仕事の邪魔をしてはいけないと考えている。

 対して兄弟子たちは、特に双子たちは、伝から見ても地位に見合った仕事を抱えていつも忙しくしている印象が強いのだ。


 紀伊も武蔵も、当然仕事より弟弟子を優先するし、その程度の遅れを埋め合わせるなど何ほどのこともない。

 そして上司は高遠である。最大級の凹みをぶちかましている弟弟子を優先することに障害は何もないはずだった。

 三太朗自身が独りになりたいと言わない限りは。


 弟思いの兄たちはもちろん三太朗を尊重して引き下がったが、伝が思うに何処かから術でもなんでも使って見守っているはずである。

 もちろん(あやかし)として比べるのも馬鹿馬鹿しい実力差では、上位天狗の術の気配など欠片たりとも判らないけれども、確信しかなかった。


 何かあればどうせひと呼吸する間に駆けつけて来るだろうに、顔にありありと"心配"と書いてある双子にこっそり『頼む』と言われて呆れてしまった。


 言われずとも返答は是しかあり得ない。

 こんなときに傍から離れるなど伝には考えられないのだから。


 思い切り自分を棚にあげていると、そっと続きの言葉が届く。

『次朗は足止めしとくから』

 大きく頷いて返した。


 という裏がありながら守られた静かな思索の時間に、伝はすぐ傍に控えている。


 元気がないときの孤独はよくないものだ。

 考えごとの邪魔になっては、伝を嫌がるようになって、今度は一羽で出かけてしまうかもしれない。

 伝は細心の注意を払って三太朗の様子を窺っていた。


「――三太朗さん、ここにじっとしてたら寒いでしょう?帰りましょ?」

 頭上の(こずえ)が少しずつ影の色になっていくのに気付いて、そっと声をかけた。


 山の中を下る細くも清らな小川のほとり、岩の上で膝を抱えた小さな天狗は振り返らないままで、背負った翼を少し持ち上げた。


「…うん、もぅちょっと」


 覇気がない声が、木々のさざめきに紛れる。

 目は流れをじっと見下ろして、傾いた顔には薄く影が降りていた。

 翼も畳まれずに開いていて、見る間にまたぺたりと岩の上へ投げ出された。


 伝は思わず爪を鳴らして岩の上をうろうろと歩き回った。


 そっと寄って横顔を眺めながら、それ以上の声も掛けられない。

 カラスが傍らを歩き回れるほど広く空いた岩の上、この空虚が悲しい。

 このところ彼の隣を埋めていた鬼がいないのだ。

 あの小さな配下が居ないだけで、三太朗の傍はやたらと寒々しかった。


「だいじょぶ」


 ぽつんと落ちた声は独り言のような響きだった。


「だいじょぶだから、だいじょぶになるから…もうちょっと待って」


 小さくなって頭を抱え込む彼に、せめてそっと寄り添った。


 昨日、走り回る三太朗と鶸黄を見ていたときを思い出す。

 はしゃぎながら飛ぶように駆け回る彼らが、抜きつ抜かれつしながら速さを比べる様子も、追いつ追われつしながら鬼ごともどきをしているのも、ほっこりとした気持ちで見守っていたのだ。


 なのに、鶸黄が気を感じ取り、三太朗はそれができなかった。

 あの愕然とした顔と、焦って何度も挑戦する様子も見ていた。


 館の中でのことは伝は知らないが、その後三太朗は鶸黄に八つ当たりもせず、喧嘩をしたのでもないらしい。

 ただぼんやりと暗い顔をして考え込んでいる。

 悔しくて拗ねているのとも何だか様子が違う気がして、余計にそわそわしてしまう。


――――こういうときは、どうしてあげたら良いのかしら。


 少し日が陰ったのに気付いた伝は、陽射しが途切れた分ひんやりとした大気を吸って、ついにおずおずと雛へ声を掛けた。


「…ねえ、三太朗さん。そんなに昨日、がっかりしたの?」


 ふと気付いたように、初めて伝を向いた灰色の目に勇気を得て、ふかりと体を膨らませながら、できるだけ優しく続けた。


「お屋形(やかた)さまも、ちゃんと練習したらわかるようになるから大丈夫だって仰ったじゃない。今出来なくたって良いのよ。何も心配いらないわ」


 暫く子どもは無言だった。

 じっと伝を見て、そのまま何かを考え込んでいる。


「心配、は、してない…。うん。してない、よ?」


 やがて口を開いた彼は、なぜか自信なさそうにそう言った。

 ひと言ずつ、言葉を確かめるような言い方をして、なのに自信なさげに震える声だった。


「そうなの?出来るようになるか心配で元気がなかったのではなかったの?」

「うん?師匠がちゃんとできるようになるって言ってたから、できるようになるんだよ。何を心配するの?」


 すぐに振り返った顔を、伝はまじまじと見た。

 声に張りが戻った顔は、真顔であった。


「そ、そう。…そうね!えっと、それならなんでそんなに元気がなかったの?」


「……」


 慌てて話を変えたが、続く言葉が中々ない。

 伝は微妙に逸れた目線と、少しずつ俯いていく三太朗の顔の中に、苦悩と戸惑いを見た気がして心配を深めた。

 子どもならではな自由な発想をする彼が、どんな考え方で何をどう悩んでいるのか、さっぱりわからない。


「ねえ三太朗さん、誰かにお話するだけでも心が軽くなったりするわよ?もちろん、聞いたことは誰にも言わないわ。あたしじゃ頼りないかもしれないけど、言ってみる気はない?」


 優しく語りかけてはみても、引き結んだ口から返事が出てくることはなかったけれど、迷うように目が彷徨ったのを見つけた。


「そう…言いにくいかしら。じゃあ、これだけ考えてみてほしいの。あのね、三太朗さんの悩み事は、ここにこうして独りで座っていたら解決するものなの?待ってて大丈夫になりそう?」


「……」


 発言をなぞるように尋ねられ、雛はふっと息を吸い込んで、うろりと目を泳がせた。

 まるで宙に答えを探すように。


 それから随分経った気がした頃、根気よく待っていたカラスの方へ、ゆらりと濡れた眼差しが戻ってきた。


「…わかんない。無理…かも」


「そうなのね。困ったわね。…言ってみる?」


 はく、と迷うように口を動かして、最後にこっくりと頷く。

 その拍子に、目に溜まった水滴がぽろりと落ちた。


「……あのね」


「うん」


 励ますように寄り添う温かな羽毛をそっと撫でて、雛はついにくしゃりと顔を歪めて苦しそうに言った。


「オレ…ひわをきらいになっちゃったのかなぁ…!」






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