十一 恐怖
―――何もできなかった
ほとんど黒く塗りつぶされた視界で、必死に目を凝らしながら走る。
―――ただ見ているだけしか
地面が淡くまだらに光って、頭上の木の葉に隙間があるのを示す。
―――声も出なかった
差し込む僅かな月明かりを標に、獣道を辿って駆ける。
背後、遠くから怒号が聞こえる。待て、と叫び、どこだ、と呼びかけ、殺せ、と絶叫する男たちの声。
急ぎ足で山を抜けようとした日暮れ前、向かう麓の村の方から上がってきた風体の良くない五人の男たちは、子どもと行脚僧の二人組に、手入れの悪い数打ちを振りかざした。警告も要求もない不意打ちだった。
咄嗟に飛びずさった少年は、橙を濃くする黄色い光の中、脚を斬られて崩れ落ちた僧侶を見た。悲鳴のように題目を唱える声が、高く翳された血刀にその喉ごと断ち切られるのを呆然と瞳に映した。
保護者を始末して、あとは簡単とばかりに振り向いた賊に、思わず財布を投げつけて、元来た道を駆け上った。
故郷を出て五日。いくつも山と川を越えてやってきた、少年にとっては異郷の地でのことである。
―――どうして、こうなった?
思考がぐるぐると回る。息が切れて、喉が鳴る。
―――何が悪かった?
下生えを踏みつけ、枯葉に足を滑らせかけながら、低い茂みを跳び越える。
―――どうして
財布には、半月に及ぶ旅に充分な銭が入っていた。僧侶も別に自分の旅費を懐にしていた。それを手にしても子ども一人を血眼で追って来る。明らかに金目当ての強盗ではない。
―――なぜ?
涙が頬を伝って行って汗と混じって飛んでいく。いくら考えても答えは出なくて、思考は同じところをぐるぐる巡る。
―――仏様
「あ゛っっ」
高く結い上げた髪、その髪紐が、潜り抜けた拍子に枝にひっかかる。
―――仏様、もし本当に…
強引に足に力を込めて、構わず前へ突き進んだ。ぶちぶちと髪が切れたか抜けたかする音と髪紐を残して、縛めから抜け出す。
―――本当に、全部の人を救うというなら
じゃらり、と胸元で黒玉の数珠が跳ねる。はっはっと荒い息遣いが、葉擦れの音に混じる。
―――どうか助けて
枝の間から白い丸い月が覗いた。
突然頭が背後に勢いよく引かれ、鈍い痛みと共に首が反り返る。更に引かれておもいきり後ろへ倒れこんだ。
開いた目に、髪を束ねて掴んだ男が逆さまに映る。
下卑た顔がにたりと笑って、吠えるような笑い声をまき散らす。
意味を成さない悲鳴を上げながら、めちゃくちゃに暴れて手足を振り回した。
少しでも距離を取ろうと足掻く獲物に、勝ち誇る声も高らかに、刀が天を衝く。
仰向けの視界に、白い満月を縦に割る刃のきらめきが、残光の尾を引いた。
「ああああああああああ!!!」
叫び声と共に、白い月が掻き消える。
仰向けの姿勢から力を込めて跳ね起きる。と、いつの間にか頭の拘束がなくなっていて、勢い余って柔らかい地面に体勢を崩して転がった。
それは土の臭いも湿った感覚もなくて、枯葉や砂利のざらざらした粉っぽさもなくて、ついでに言うと太陽の匂いがして、さらさらと手触りがよくて―――地面ではなくて布団だった。
暗闇の中、ばくばくと鳴り続ける心臓の音を聞きながら、今の状況がじわじわと蘇ってくる。
「夢…か…」
暗いのは日の出の随分前の時間だからで、葉擦れの音も月も無いのは、ここが部屋の中だからだ。
あの山の中ではないのは、あれが過去の出来事だからに他ならない。
オレは、昨日自室に割り当てられた部屋で、布団に横になっていたのだった。
「あ、あー…えと、もし起こしてしまった方がいるなら、ちょっと夢見が悪かっただけだから大丈夫ですと伝えてください…」
『わかった』
起き抜けに壁と会話する。数日前の自分ならこれも夢かと思うところだが、残念ながら現実である。事実は小説より奇なりという言葉を痛いほど実感していた。尤もこの言葉を作った誰かの想定以上に奇妙な事実を体験している自信がある。
額の汗を寝巻きの袖で拭いながら、脱力して横になった。
昨日は顔合わせの後、周りを案内してもらったのだ。
思わず走り出したくなる磨き上げられた真っ直ぐな廊下、その脇のいくつもある空き部屋のどれでも使って良いと言われて、窓からあの巨木が見える部屋を選んだ。そして前の晩に借りた部屋と寝巻きが高遠のものだったと知って恐縮した。他に直ぐに使える部屋と服がなかったのだと言われた。
大きな宴会も出来そうな広い座敷は、青々とした畳のおもてが爽やかな香りを放っていて、たまに大勢客を招いて酒盛りをするのに使うということだった。
見上げるような棚がいくつも置かれた書庫の蔵書量に感嘆し、自由に読んでも構わないとの許しももらった。
外へ出れば、昼間もやはり桜の花が雲霞のごとく咲き誇る堂々たる巨木が佇み、もう春も終わる季節にと珍しがると、これは万年桜なのだとの応えに驚いた。
総檜造りの、大人が五人はゆったり浸かれる大きな湯船には、温かい湯が並々と張られていて、しかもどういう訳だか湯船の真ん中辺りから滾々と湧き出していた。ここで温泉が湧いてるんですか、と問えば、湧くようにした、と答えられた。もうなんでもありだなと遠い目をした。
館は山の中にあり、更に上に向かって道が続いていた。
道をどんどん上って行った先、木のない高台に立って思わず息をのんだ。
雄大な山々が連なる大地を見渡せば、自分の立つこの山よりも高い頂は無く、最も高い位置から見上げた空はかつてなく近かった。
見下ろせば裾野が緩やかに広く、八合目ほどに唐突に立派な館が建ち、四合目程から先は深い霧に覆われて見えず、更に霧が晴れるところまで視線を動かせば、きらめく川が横切るのが見えた。あの霧は、迷い込んだ人を知らず外へと誘導する術が掛けられたもので、あれの中を突っ切ってこちらまで登ってこれる者はいないという話だった。
反対側にはいくつか里があるのだと言うが、見渡したここには人里は視界に無く、靄を纏って鎮まる山々の空気は幽玄に澄んで、遠く鹿の鳴き声が木霊していた。
目にした物はすべて新鮮で、輝いて見えて、ここで始まる新しい生活に胸を躍らせた。なのにあんな夢を、見るんだもんなぁ…。
雄大な景色や、書庫の壁に貼られた見たこともない精確な豊芦原の地図。座敷の床の間に飾られた、緑色に透き通った巨大な鱗は竜の鱗なのだと聞いた。
人生で一番感動した日だった。周り全てが優しくて、必要なものは十分すぎるほど与えられた。だがその明るい真昼の光景を押しのけて、夢の中に現れたのはあの夜の恐怖だった訳だ。
しかもあそこで終わるって何だよ。
兇刃が振り下ろされる一呼吸前、突如降ってきた刃が掴まれた髪を斬り落としたのだ。渾身の力で踏ん張っていたオレはものの見事に前方へ転がり、数歩分の距離を這いずって振り返ったときには、既に刀は納められ、最後の一人が乱入者の足元に倒れ伏すところだった。
賊を全て下した後、振り返ったその顔は、黒い面を被って見えなかった。
頭部から顔の殆どを覆う黒い面は、翼を後ろへ流して頭を包み、被ったその人の代わりに眼光鋭く前を睨んで、太い嘴が鼻の筋に沿って顎の下までを隠していた。額に括った赤い頭襟だけが浮かび上がって見える、鴉を象った面。
「もう大丈夫だ」
面に似合わない優しい声に、安堵すると同時にふつりと意識が途切れたのだった。
あのとき助けてくれたのが天狗の高遠だった。助かるところまで夢が続いていたなら悪夢もちょっとはマシだと言えたかもしれない。
後ろは短く、横は長いまま残された髪をつまむ。
これが現実。あれは夢。もう過ぎたこと。
自分に言い聞かせるけれど、悪夢の残滓がその辺りに漂っている気がして落ち着かず、ごそごそと寝返りを何度も打っている内に、外が明るくなって来たのに気付いて、ついには二度寝を諦めた。
「あれまぁ、もう起きてきたんですか」
「疲れているでしょうに、もっと寝てても良いんですよ?」
「いえ、目が冴えてしまったので…あ、オレも持ちます」
着る物を改めて、顔を洗おうと井戸に向かうと、タヌキとキツネがせっせと水汲みをしていたところに出くわした。
顔を洗う水を分けてもらって、帰りに水入りの桶を運ぶのを手伝う。
「寝坊せずに起きてきて、お手伝いまでしてくれる。さんたろさんは偉いですねぇ」
「いやあ、誰に言われなくても早起きして、気遣いもできて、言葉もちゃんとして。さんたろさんはしっかりしてますなぁ」
「これからお世話になるんですし、少しはお手伝いしないと申し訳ないです」
しっかりしていると感心してる二人に、怖い夢を見て眠れなかったなんて言えない。だからもう一つの理由を言えば、タヌキとキツネは素直に感心して更に褒めたので、ちょっと後ろめたい気持ちになった。我ながら気が小さい。
「それに、遊びに来てる訳じゃないし、弛んでるのは良くないですからね」
そう、ここへは弟子入りをして住み込んでいるのだ。これから天狗になるための修行の日々が始まるのだから、やることは全て完璧を目標に習得していくつもりだ。間違って高遠に失望されたりしないように。
命を助けてもらった上に弟子にまでしてもらった今、高遠に見放されることが物凄く恐ろしかった。そうならないように、期待に応えて優秀な天狗になろうと思う。そう、いつか「流石は俺の弟子だ」とか「お前がいてくれて助かる」とか言ってもらえるように!
気合を入れるオレに向かって、ごんたろうがたれ目の目尻を更に下げて、それなんですが、と言う。
「怪我がちゃんと治るまで、ゆっくりさせようって主さまが言ってましたよ」
「は…え?これぐらいオレは平気です」
反射的に返したオレに、ぎんじろうが笑う。
「嘘おっしゃいな、水が揺れる度に肩をかばっているじゃないですか」
ぎくっと顔が固まった。確かに歩く度に桶の水がたぷんと揺れて、その振動がぶつけた肩に響いて痛い。膝は触らなければ無視できる程度に落ち着いたが、どうやら一番酷かったのは肩だったみたいで、力を入れるとずきずきと痛むし、実はまだ少し腫れていた。因みに両方自分でも直視したくない色をしている。
平気なふりをしていたけど、ばっちりばれていた。そしてその水も、二人が両手にひとつずつ持っているのにオレはひとつ。更に言うと二人の桶よりも明らかに水の量が少なかった。
言い返せなくて口を引き結んだオレに、二人は更に相好を崩す。
「まあまあ、焦ることはないですよ。一日二日でなれるものではないですし」
「そうそう、焦ってどうにかできるものではなし、まずは体を治して、ここに慣れることから始めましょ」
「うう…はい…」
出端を挫かれた気分でがっくり肩を落としたオレの横顔に、髪の房が落ちかかった。
鬱陶しくて頭を振って払いのけると、とりあえずは、とぎんじろうがこちらを見た。
「髪を切り揃えましょうかね」
にこにこと真正面で微笑んでいる女性からちょっと目を逸らす。
「…あのぅ」
「はい、何でございましょう。ああ、怪我が痛みますか?膝を崩して座ってはいかがでしょう。それとも喉が渇きましたか?お茶でもお淹れしましょうか。丁度初摘みの茶葉を買ってきたところですの」
「ああ、えっと、やっぱり何でもないです」
うきうきと嬉しげな様子に、ちょっと見られすぎて恥ずかしいですと言うのを諦めた。
オレは今、庭に面した空き部屋のひとつで座っていた。
空き部屋は物が無く、がらんとしていて、埃こそなかったものの住人がいなくなって久しいようだとなんとなく思った。
空き部屋を使うのは、掃除が楽だからだそうだ。
「はい、さんたろさん。これを持って」
切った髪が着物に付かないように、広げた紙を渡された。
「はい。…あの、外で切ってしまえば掃除の必要も無いんじゃ?」
「ああ、そうなんですけどねぇ」
困った顔をしたごんたろうがユミを見る。
「ええ、髪は大切なものですのよ。三太朗どの。髪は呪術の核にも使われるほど、その者の力が宿りやすいものなのです。ですから、外へ散らかしておくのは良くないのでございます。集めてきちんと始末しておかなければ。後で処理の仕方も教えて差し上げましょうね」
相変わらずにっこりと微笑んで教えてくれる。
「へえ、そうなんですか。わかりました。よろしくお願いします」
オレはちょっとわくわくしていた。髪を切ってもらうのは、随分久しぶりだ。
実家では、家の者がオレの髪を触るのを嫌がったからである。
しかし女の子のように長いというのもかわいそうだと思った三の姉上が、裁縫箱から裁ち鋏を持ち出して切ってくれたことがあった。
最初は自信満々にざくざく切っていた姉だったが、だんだん目が泳ぐようになって、ついには涙目になって手を止めてしまった。オレがきょとんとしていると、二の兄上と四の姉上が通りかかって、ぎょっとした顔で駆け寄ってきた。そうして向こうを向いて三人で内緒話をしていた。仲間外れにされて悲しくなったのを覚えている。
そうして今度は二の兄上が鋏を取り、やっぱりやめてしまってから、四の姉上が鋏を入れていると、通りかかった一の方さまが、抱えていた野菜入りのたらいを落として悲鳴を上げたのだ。
その後のことはよく覚えていない。母が泣きそうな顔で小さな鋏を使って最後に整えてくれたことと、オレの髪を切った三人が正座で父上と一の方さまにこっぴどく怒られていたのはなんとなく覚えている。
ちなみにそれから暫くの間は、オレは坊主に近い頭で過ごした。それがあってからうちでは俺の髪を切らないという暗黙の了解が成されたのである。
オレが六歳の頃だった。
前髪だけは邪魔になったときに自分で切っていたが、他人に鋏を入れてもらうのはあれ以来のことだ。刀でばっさりやった高遠を別にすればだが。
「さあ、鋏を持ってきましたよ」
廊下側の襖が開いて、鋏を持ったぎんじろうがやってくる。
「はいな、ちゃっちゃっとやってしまいましょうね」
ごんたろうがオレの脇で紙を構えて待つ。ユミが鋏を受け取って、にっこりと微笑む。
「では、じっとしていてくださいましね」
ユミの白い手が、鋏を持って近づいてくる。
尖った刃物の先が視界を右へ進んで行き、視界の端を越えた瞬間。外からの光を反射して、僅かに鋏の刃がきらりと光った。
それは、あの夜見たのと同じ、刃と同じきらめき。白く光を返して、弧を描いて振り下ろされた刀。付添いの僧侶の喉を掻き切った刀。オレを狙って振り上げられた刀。白い光が尾を引いて、オレを狙って、オレの命を刈り取ろうとして、止まることなく突き進んで、ざわめく山、逃げる獣道、追われて、逃げて、捕まり、引き倒され、見上げた、笑い声、振り上げられる、やいば。
「三太朗」
凛とした声が、オレの意識を現実に引き戻した。
途端に自覚する。大量の汗。寒くもないのに激しく震える体。背中を強く壁に押しつけた姿勢、壊れそうなぐらい暴れる心臓と、短くせわしなく繰り返す呼吸。
「へ…あ…?あれ…?オレ……?」
「落ち着いたか」
「たかとお、さま…?」
目の前にしゃがんでオレを覗きこんだ師が、なだめるように頭を撫でた。
「落ち着いたな。…ふむ」
身を引いて立ち上がった高遠が、何事か思案する様子で部屋を見渡す。
視線を追って目を動かした部屋には、おろおろするタヌキとキツネ、泣きそうな真っ青な顔でこちらを見るユミ。と、その傍らには、鋏が。
鋏を認めた途端にぶるりと勝手に体が震える。冷や汗がじわっと湧き、歯の根が合わないでかちかちと音をたてる。
はっと気づいたユミが鋏を袖の下へ隠して、高遠がこちらを見た。
「どうやら病のようだな。死にかけたことがある者が掛かる病だ」
オレは、刃物に尋常ならざる恐怖を感じるようになってしまっていたのだった。
頭襟=天狗とか山伏さんが頭にのっけてる小さい烏帽子みたいなやつ。
しかしうちの主人公は、逃げれば勝手に重傷を負う上、刃物向けられただけで戦闘不能という弱さww
しかもここまで十一話なのにその内の丸々八話プラス九話目の殆どが実は寝巻きで登場という。多分なろうの作品では例を見ないキャラですね(笑)




