九十 その子は三太朗 五
12/3 誤字脱字、表現を少し修正。
三太朗は、"三太朗の部屋"の真ん中でぐるりと見回した。
勢い余って一回転におまけしてもう半分回ってしまったが気にしなかった。
それよりも、見回すことの方が大事だからだ。三太朗は大事なことを取り違えない子だった。
「おれのへや」
声に出してみる。
もちろん『それは間違いだ』なんて誰も言ってこない。
当たり前だ。この部屋が三太朗の部屋だと教えてくれたのは周りである。そして、今この部屋には三太朗だけしかいなかった。
「ふむ」
大きくて柔らかくて真っ黒で、お願いしたらもふもふを触らせてくれる"やたさん"の真似をして言ってみる。言ってみたらとても偉そうで、実に違和感しかない。
――――たぶん、まえはいわなかったんだ。
そう確信して、今度は「うん」と言ってみる。
こっちの方が良い気がした。
三太朗の中は今とてもふわふわと頼りない。
全部のことが曖昧に滲んで、捉え処のない極彩色のもやになって漂っている。
けれど時折、すっと焦点を結ぶようにはっきりと浮かぶ像が現れて、『ああそうだった』という実感と共に三太朗の元へと帰ってくる。
それが過去の記憶なのだと、誰に聞くまでもなく知っていたし、自分が昔の記憶を失くしてしまったのだと理解していた。
三太朗はひとつずつ、小石を拾い上げるようにして、記憶の欠片を探している。
自分のことを言うときは"わたし"なのか"ぼく"なのか"おれ"なのか。お箸を持つのは右か左か。立ち上がって最初に踏み出す足はどちらか。
全てひとつずつ試してみて、違和感がないものを探すのだ。
周りはみんな、ゆっくりで良い、何も思い出せなくても構わないと言っている。
しかし、いつも頭の片隅に居座る事実はふとしたときに気になって、落ち着かなくなるときがあったから、星の数を数えるような果てしない作業も、止めようとは思わない。
自室だと言われる場所もどうにもよそよそしく思え、落ち着く場所を探して館を歩き回ったりもしたのだが、そろそろ部屋を見慣れてきたこともあって、改めて良く見ていたのだ。
なんか唐突に気が向いた、とも言うし、記憶集めはこの頃好きな遊びだから、ということもある。
「むむーーぅ?」
なんか尤もらしく唸ってみながら押し入れを開け、目についた箱を更に開けてみる。
「おあー、いっぱいある」
そこには…みっしりと蝉の脱け殻が詰まっていた。
普通の人ならぎょっとすること間違いなし。女性に見せれば高確率で悲鳴が聞ける。男性であっても気持ち悪いほどの数であった。
けれど三太朗は、脱け殻を集めたときの楽しかった気持ちを思い出して、わさわさと折り重なった脱け殻を前にしてほわほわと笑った。
「おもいだした!」
嬉しくなって、早速この嬉しさを誰かに言おうと思った。
みんな三太朗が何か思い出すとすごく喜んでくれる。今回も喜んで、たくさんなでなでしてくれるかもしれない。もしかしたら、内緒でおやつをくれるかもしれない。内緒で食べるおやつはとても美味しい。
箱を抱えたまま振り返る。
「んー?」
そうしたら、壁際に寄せて置いてある文机が目に入った。
正しくは、文机の上にある木箱だ――真っ黒でつやっとした漆塗りの箱だが、見た瞬間に木の箱だと思い浮かんだ。
――――ぐるぐるしたもようもないし、さらさらしてすべすべした感じもない。つやっとしてぴかっとして、ひらべったいのに。
どうして木だと思ったのか、自分でも不思議に思いながらもつやつやの四角をかぱっと開けてみる。
「ふでー、かみー、かみー、かみー…」
筆を手に取ったとき、『ほら』と微笑みながら手渡してくれた高遠のことを思い出した。
白紙を脇にどけたとき、文面を考えながら筆の反対の先を顎に当てていたことを思い出した。
書き損じの紙が出てきたとき、一字間違ったけれど、それまですごく上手く書けていたので悔しかったのを思い出した。
そして。
「あ」
丁寧に折り畳まれたそれを広げたとき、真っ黒頭の頼りない男を思い出した。
「……よしかず?」
ぽつん、と浮かんできた名前を呟く。
もやもやとした奥底から、ふわりと浮かんでしっかりとした形を取ったその名前。
懐かしい、友達の名前だ。
「宜和!」
三太朗は紙を宝物のように丁寧に広げて、食い入るように見つめた。
読む、ではなく見つめた。
翼が生えてから初めて文字というものに遭遇した彼は、内心で緊張しながら最初の文字の形を目でゆっくりとなぞる。
「あ!」
一瞬の間の後、すっと、内容が解る。
多分文字も忘れていたのだろうけれど、思い出したのだ。
するすると目線が滑るように動いて、意味を拾って行く。
他愛ない日常の話ばかりが書かれた、たどたどしい字が並ぶ文。
何通も、何通も、文章も文字もけして上手くはないけれど、"三太朗"に向けた温かくて楽しい心が綴られた手紙だった。
受け取ったときの、ほっこりと嬉しい気持ちを思い出して、三太朗は笑顔になった。
文面をなぞって、さらに温かい気持ちになる。
「そうだった」
三太朗は文通をしていたのだ。
友達の宜和と、近況を交換して楽しんでいたのに、今は随分間が空いてしまっている。
そこで、三太朗は返事を書くことにした。
置きっぱなしの下敷きの上に、さっき適当に床にどけた白紙を一枚置くと、張り切って筆を手に取った。
「よし!」
今回の話題はもちろん、翼が生えたことと、昨日のおやつが栗饅頭だったことである。とても美味しくて幸せだった。ぎんじろさんがまた作ってくれると約束した。楽しみだ。
まずは挨拶、と紙に筆先を置くと、戻りたての記憶通りにさらさらと――
「あれ、うん?え、よいしょ…」
真っ直ぐ引こうとしたところがぐにゃぐにゃに蛇行し、字の大きさはちぐはぐで、しかも行が盛大に曲がってしまった。
「え、えええ?」
新しい紙に替えてもう一度やってみるも、出来上がったものはひとつ目と大差ない。
読むというより解読という方が納得できる、惨憺たる有り様であった。
「てがぐにゃぐにゃって、うごく…」
こんなはずではなかった。
三太朗はすっかり困惑してしまって、涙目で筆を置いた。思うように手が動かないのは、彼にとって大きな衝撃だ。
歩くのも走るのも、いつの間にか上手に出来るようになっていたから、やろうとしても出来ないというのは初めてである。立ちはだかる壁に当たったようなものだった。
「むぅうーーー…」
唸ったって出来ないものは出来ない。三太朗はミミズがのたくった跡のような書き損じから目を逸らした。
「ん」
そこにあったのは、黒と赤の紐で編まれた輪である。ぽんと置き忘れたように、文机の端っこに何気なく乗っていた。
「なくさないように、つくえに…」
確かに自分で置いたことを思い出すと、何気なく手に取った。
お篠が微笑みながら編んでいる情景が思い浮かぶ。
楽しそうに手を動かしながら、確か何かの話をしていた。
――――なんだったっけ…?
あのときとても気分が悪かったはずだ。でもそれがなぜなのかを思い出せない。
そこまで出かかっているのに出てこないのが気持ち悪くて、集中する。
「おとさないように…わにして…」
『連ねて腕にでも通せるように、輪にしてあげようね』
そっと腕に通した。
細い腕輪は普通の糸で出来ているというのに、驚くほどひやりとしていて思わず身を震わせる。
みっつ連なった黒い珠が、きらりと光った。
「これ…」
何かとても大事にしていた気がする。
肌身離さず、ずっと手首に付けていたはずだ。
――――でも…
「なんで、だっけ……?」
どうしてそこまで大事だったのかが、ぽっかりと空白だった。
「?」
思い出せないことはたくさんあるけれど、そういうときは、霧の向こうの影を見るように、何かあることだけは判るのだ。
しかし、この黒い玉には何もなかった。
そこだけ切り取られたかのように、何も感じなかったのだ。
「…っ」
三太朗は怖くなった。
確かに大事なものなのに、掴もうにもそこには虚しかないのである。
絶対に思い出せないと、思ってしまった。
「っぅ!!!」
とてもそのままではいられなくなって、三太朗は駆け出した。
訳がわからないぐらいの落ちつかなさと恐怖に駆られて。
これを焦燥というのだと思い出したのは、更に三日後である。
三太朗は手が掛かる。
三太朗は目が離せない。
三太朗はよく眠る。
三太朗は怖がらない。
それぞれの視点からの様々な報告を反芻して、高遠は天狗の仲間へ上げる情報を吟味する。
全て真実でありながら、出来るだけ三太朗の印象を良くしておかなければならない。
気の置けない仲間相手であっても、いや、だからこそ、思い付く限りの全てを教えてしまう訳にはいかなかった。
高遠を案じる彼らに、三太朗が危険分子だと思われてはならない。
三太朗と仲間と、同胞と。全てにとって最も望ましい道を進むには、情報の取捨選択に伝える順番、話し方までの全てを検討しておく必要がある。
しゅるる、と白蛇が鎌首をもたげて心配げに主を仰ぎ見た。
「そうだな…最近のことを知らさぬ訳にはいくまい」
最近の愛弟子の様子を思い出しては自然と眉根が寄る。
「順調に記憶が戻ってはいるようだが…」
三太朗は、数日前から様子が変わってしまっていた。
以前はほわほわと楽しそうに遊び回っていたのに、今は何かを探すように歩き回るか書庫に居るのが多い。
血眼になって細かく細かく館を見て回り、急き立てられるようにして書籍を読み漁る。
かと思えば部屋で、何かに取り憑かれたように必死に字の書き取りをしていた。
そのどれでもないときは、誰かにくっついている。
不安そうで不機嫌そうな顔でやってくるものの、宥めて遊んでやれば、呆気なく元気になり、遊び、そうして疲れて眠ってしまう。しかしその寝顔は安らかとは言えなかった。
探しているのは記憶だと、皆解っていた。
どこにあるとも知れず、探してきて渡してやることも出来ず、そして、その不安を真に解ってやることさえも出来ない。
気分転換出来るようにとたまに構いに行けば元気になるが、それもこちらを心配させまいと、元気に振る舞っているのではないかと思ってしまう。
記憶探しの効果は如実に出ていて、それまでと比べれば倍する勢いで記憶は戻っている。
その証拠に、話をいくつか振ればひとつは必ずついてくる話題がある。無知からくる戸惑いも減ったようだ。
それだけでなく、姿勢は前に教えた通りに正立を保ち、呼吸も静かな順息に戻り、ついに先日足音が消えたのは、場を乱さない足運び、平裏歩の技を思い出したのだろう。
全て、天狗に成る前に習得していた技だ。
どうやら、体に染み付いたものを思い出すのは容易であるらしい。
いや、体自体が元とは別物と言うべきだから、再習得になるだろうか。
どちらにせよ、小さな三太朗は以前に出来たことを次々に出来るようになり、中身は絶対的に幼いものの、振る舞いは前と似通ってきている。
なのに、思い出せば思い出すほど安定するどころか一層焦りを強めているのは見ているだけでも分かる。
高遠はらしくなくため息を吐いて机に肘を突いた。
仲間に報告すれば、いつもは忠告で済むが、今度ばかりはこちらに乗り込んで来ようとするだろう。
それだけの心配をかけている自覚はある。
そして、先日の件の原因が残り火だと判明して以来、過敏になっている。三太朗の精神不安定が残り火顕現の兆しではないかと疑うはず。
警戒したままの仲間たちと対面すれば、三太朗の状態を悪化させることになるだろう。
彼らも馬鹿ではない。それを危惧して気を付けてくれるのは間違いないが、三太朗は高遠をして驚かされるほど勘が良い。
幾ら隠したとしても、ただならぬ雰囲気を感じ取ってしまって顔を強ばらせる幼子を、ありありと思い浮かべることができた。
さらに悪いことに、三太朗はその容姿から、周囲の奇異の視線に晒されてきた過去がある。
辛かったのだと知っている。
終わった過去と同じ苦しみを与えたくはない。
それに、折角辛かったことを忘れている今、只でさえ不安定な状態なのに、思い出させてしまうのは避けるべきだ。
「…何があったのか」
何が三太朗を焦らせ、不安にさせているのか。
様子がおかしくなってから片手の指が全て折れるほどの日が経った。そろそろ少し話してみる必要がある。
「自然に治まるかと思ったが、そうではないようだ…報せは三太朗と話してみてからにしよう。急に悪化するものでも無さそうだし、急ぎで報告するものでもなかろう」
「しゅる」
太刀が同意を返したそのとき、些細な違和感を感じ取って、高遠は顔を上げた。
とたとたとた…
小さな軽い足音が、廊下をこちらにやってくる。
こんな音を立てる小柄な体など、館に居る者の中では一人…いや、翼を得た以上、一羽と数えるべきだろう。
「どうしたのか…」
三太朗はこの頃、足音を消すようになった。
けれど、たまに態と足音を立てて歩くときがあることは、配下から聞いて知っていた。
三太朗の歩き方は、高遠から見ても実に上手くなっていて、以前無意識に出来るようになるまで練習した成果が感じられる。
気配は兎も角、足音で気付くのが難しいほどに。
聞き取るのが難しくなるほど静かに歩けるようになった三太朗。
息をするように、無意識に歩法を駆使する彼が足音を立てるとき、それは……誰かに、気付いて欲しくなったときだ。
からり、と控えめな音を立てて、襖が開く。
以前は律儀に外から呼び掛けてきたものだが、行儀の良さに感心することもあれど遠慮も感じていたから、年相応の振る舞いが微笑ましい。
おずおずと灰色の目が覗き込み、師の目線に気付いてびくっと震えた。
「よく来た。おいで」
穏やかに手招けば、そろりと部屋に入ってくる。恐る恐る襖も閉めて、ゆっくりと高遠に近付いてきた。
怒ったりはしないのに、何かしらを怖がるように恐る恐る、のろのろと。
高遠は、その間に机に広げた各種の報告書や書き付けを簡単に片付ける。
見られて不味い物はないが、今日やろうという気持ちがなくなった。
不意に左脚に温もりが触れて、高遠は手元から顔を上げた。
胡座をかいたその外側。外腿に寄り添うようにして、三太朗が横たわっていた。
「珍しいな。どうした?」
くっついている高い体温がもぞりと動く。
膝に乗ったり、背におぶさってきたりするでもない、控えめな甘え方に三太朗らしさを見つけた気がして、微笑みながら撫でる。
「……」
三太朗は何も答えないが、ぎゅっと丸まっているのが少しずつ解れていく。
中々顔を上げないから、表情はわからない。
――――相当参っているな。
高遠も無言で、強張った肩の辺りや、翼の付け根まで撫でてやる。
小さい手が、遠慮がちに袴の布を握った。
話を聞きたくはあるものの、それよりも今は、黙って傍にいてやる方が必要だろうと高遠は思った。
普段あくまでも元気に振る舞って『大丈夫』としか言わない三太朗が、高遠を選んですがるようにして甘えてきたのだ。
これはただ落ち込んでいるのとは違う。
高遠は背に翼を顕現させる。
三太朗の持つ、体の割には立派と言えるそれよりも、力強く、おおきな漆黒。その片方を、小さな弟子を包むように掛けた。
「………ししょう」
顔は見えないが、泣いている声がした。
「なんだ?」
沈黙はどのような内心の表れか。
呼吸を十は数える間、さらさらと髪を撫でるささやかな音だけが続いた。
「……おもいだせないの」
ぽつりと吐き出された声は呟きの小ささ。
けれどそれは、血を吐くに等しい苦しみに満ちて痛々しい。
高遠は少し考えて"何を"と訊く選択肢を棄てた。
「なぜ、思い出したい?」
「…え?」
同じなのだな、と高遠は笑みを深くする。
驚いたとき、予想外なことを言われたとき、彼の弟子は決まって一呼吸置いて聞き返す。
真名を喪ってもなお同じ反応をする童子の上に、かつての少年の表情を視た。
――――なんのことはない。いつでもお前はお前だった。それだけの話だ。
「足りぬ知識は思い出せずとも、補えば良い。俺も含めて皆、多少前のことがあやふやでも気にしはしない。それよりも、新しいお前とのこれからの方が大切だ。過去ばかり見ている必要は全くない。なのに、そうも苦しむほど思い出したいか?」
暫くの沈黙を、高遠は穏やかに待つ。
自分とは違う温かい色をした髪を鋤きながら、どんな不安を訴えられてもそれを和らげてやれるように、心積もりをする。
そう、不安だ。三太朗は言うだろう。『記憶がないと不安だ』と。
覚えていないという寄る辺なさを吐露して、もしかしたら泣いてしまうかもしれない。
三太朗は我慢強い子だが、堪えられなくなったら泣いてしまう。
幼いのだから当たり前だ。
如何にして吐き出させ、どのように前を向けるようにしてやるかが肝要。幾つかの想定をして、答えるべき要点を決め、立ち直れるように支えてやれるように用意する。
三太朗がまたぎゅっと体を丸めた。
握った小さな拳が、彼の躊躇いを表して震えた。
「まにあわなく、なるかもしれないから…」
「間に合わなくなる?」
額が擦り付けられる感触から、三太朗が頷いたことを知る。
「どうしても、思い出せないことがあるの。それでオレが、知らないうちに…なにか、やらなきゃいけないことが、できなくて、そのせいで、なにか……なにかが……おしまいに、なったら…どうしよう…」
焦りと動揺に、小さな体が震えている。段々細くなる声は今にも泣き出しそうで、救いを求めるように手は布地をかたく握る。
その様子を高遠は驚きをもって見つめていた。
不安も有ろう。恐怖も有ろう。だが、三太朗はそれを堪えて問いを吟味し、手当たり次第に懸念を投げるでなく、己の深いところから答えを探し出してきた。
高遠を驚かせたのはそれだけではない。
具体的になりきれない具体性。"なにか"と曖昧でありつつも"まにあわない"と核がある。
漠然と想像して辿り着いたものなのだろうか。
その可能性を残しつつ、しかし高遠には、三太朗が持つ望みで、機を逃せないものには心当たりがある。
『家族を守ります』
涙に濡れた目で、それでも凛と背筋を伸ばして言ったのだ。
三太朗が天狗になりたいと望んだ理由。高遠の心を動かした、ささやかな、温かい、悲痛な望み。
どうしても思い出せないと言っているけれど、失くしてしまってもなお、残っているのか。それとも、思い出せなくとも、どこか片隅で覚えているのだろうか。
それほど強く、願ったのだろうか。
失うことが、それほどの恐怖か。
「…三太朗、案ずることはない」
少しだけ顔が上がって、泣き濡れた目と目が合った。
「お前が育つまでは、俺に任せておけば良い」
「ししょうに…?」
「ああ」
止まっていた手を動かしてまた髪を撫でれば、仰視する目が少し緩んで細まる。
「お前が必ず間に合うようにしておこう。だから、大丈夫だ」
じっと離れない瞳が、段々に和らぎ、ほどけて。
「……うん」
やがて穏やかな寝息が聞こえるまで、撫でてやっていた。
「さてと」
己の翼に包まっている子どもの呼吸が充分に深いのを確かめて、そっと手を伸ばす。
呪具に指を触れる高遠にはもう、迷いも憂いもなかった。
三太朗は、全幅の信頼を高遠に預け、何も証がないにも関わらず、取り返しのつかない事態が回避されることを確信した。
それは、自分が何も心配いらないほどに守られていることを、改めて気が付いたからだ。
安らかな寝顔を眺めながら、高遠は三太朗がもう大丈夫なのだと確信していた。
幽かな光を発し、術が発動するのを横目に、もう片方の手でゆったりと、小さなまるい頭に沿わせるように動かした。
ふにゃりと弛んだ顔を見下ろして、高遠も目を細めた。
こうしていればただの幼児に見える――ただの雛ではないことは、高遠も、館の者も全員が知っている。
――――賢く、敏く、覚えも早く、真面目で、飛びきり可愛らしい。こんな雛はその辺にはいない。ああ、それと、少し変わった血筋だが。
無事に翼を得ることが出来てから、心配と緊張の反動か、親馬鹿は加速の一途を辿っていた。
館の誰もが大なり小なり同じ病気なので止める者はいない。強いて言うならば、以前の三太朗がささやかに抵抗していたものの、今はそれもない。
はっきり言って、もう手遅れであった。
術光が僅かに増し、消える。
術式が成り、遠方に散らばる仲間たちの下へと己の言葉が届くようになったのを確認すると、徐に話し始めた。
「皆、久しいな。ところでうちの三太朗が俺の袴を掴んだまま寝てしまったんだが、起こさず放させるにはどうしたら良い?」
その子は三太朗 これにて終了です。
次は本編外のお話が一話入ります。