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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
三章 身
104/131

八十九 その子は三太朗 四




 三太朗は怖がらない。




「んんーー」

「よーし動くなよー」

「顔動かすなよー」

 

 くしゃっとしかめた顔に笑いながら、紀伊(きい)は手にした(はさみ)をさっと動かして、髪をふた房切り取った。


「いいぞー」

 三太朗が恐る恐る目を開くと、武蔵(むさし)が開いた障子紙を覗き込んだ。その上の、切り取られた髪の房は、いわずもがな三太朗自身の髪である。


 この山に来たときから、両横の髪だけが長い妙な髪型だったのだが、切ることが出来ずに已む無く後ろで括っていたのだ。

 しかし今は、顎に届くほどのところで毛先が揺れている。


 邪魔にならない程度の長さになった髪を指先で確認して、摘まんで引っ張ってみてから、三太朗はぱっと顔を上げた。


「だいじょぶだった!」

 今までしかめた顔でぎゅっと目を瞑っていたというのに、どうだ!とばかりに胸を張る様子が無邪気で、面々に温かな笑みが浮かぶ。


「そうだな、えらいなー」

「よく頑張ったなー」

「かるかった!らくしょー、だった!」

「お、言うじゃねえの!」


 誇らしげにそんなことを言うものだから、次朗が上機嫌に笑って、上の双子も目を細める。

 どうやら刃物は克服出来たようだと胸を撫で下ろして。


 非常に苦手な様子だが、あの遠目で見ただけで動けなくなるほどの怖がり方が嘘のようだ。

 恐怖の元となった記憶自体がなくなっているので、当たり前と言えば当たり前だろうが。


 いや、天狗への変化が始まる直前、猿とのひと悶着の中では、自ら守り刀を抜いて戦ったのだから、もし記憶が全て戻っていたとしても小さな(はさみ)ぐらいは平気だっただろう。


 残念ながら師である高遠を始め、兄弟子の誰もその勇姿を見たことがなく、戦いのくだりは伝聞でしかなかったので、彼らの中では"刃物を見せれば動けなくなるほど怖がる"という印象が拭い切れていなかったのだ。

 

「じろーさ、いこ!がんばったから!いこ!やくそく!あそぼ!いこ!」

「あーはいはい、しゃーねぇな!…っと、兄貴ぃ」


 紀伊と武蔵は物言いたげな次朗に手を振って、後片付けには構わず行けと合図した。

 三太朗はここ三日ほどは双子がお気に入りでべったりだったが、昨日辺りから次朗があれこれと気を引いていた結果、今日は次朗と遊ぶことにしたらしい。

 懸命に"仕方ない顔"をしようとしているが、次朗の頬は緩みっぱなしである。


「んじゃ行ってくらぁ」

「いってきまー!」


 言うや否や、玄関に回るなんていうまどろっこしいことをせず、ぱっと縁側から飛び出して行く。

 行儀が悪いと後で怒られるのは確実だが、次朗に肩車された三太朗がきゃーっと甲高い歓声を上げて大はしゃぎしているから、紀伊と武蔵は口を(つぐ)んで笑っていることを選んだ。


 背が高い次朗の肩の上で高さを満喫しているご機嫌な彼に水を差すのは忍びない。

 怒るのは自分たちの役目ではないのを良いことに、双子は無邪気な子どもに向けて目を細めた。


「あー…能天気にしちゃってさ」

「ほんとほんと、…良かったなー」


 様々なことを含んだ呟き。二羽はそれだけで通じ合って目を交わす。

 纏う空気ががらりと変わる。この穏やかな空間にはそぐわない、剣呑な光が目に宿った。


「油断はしない」

「俺らがしっかりしないとな」


 三太朗が翼を得てから、月の満ち欠けももう二順目を終えようとしている。実は、この山の主である高遠は、未だ本調子ではない。


 天狗へと成った三太朗を抱えて"牢"から出てきた彼らの師は、双子でも久々に見るほど消耗していた。

 何より、高遠が軽いとはいえ火傷を負っていたのが彼らを仰天させた。

 高遠が負傷するなど、可能性としては考えていても実現するとは思わなかったのだ。


 百戦無傷が常態の高遠でさえ傷を受ける炎。師をよく知る彼らは、うそ寒いものを感じざるを得なかった。

 やはりただの炎ではないことは、時が経つにつれて顕著になる。


 尋常ではないほど火傷の治りが遅い。


 体力は次の日には戻っていたのだが、傷自体の再生が遅い。負傷が軽かったのが救いである。

 手負いとはいえ今でも一軍相手に単騎突撃してけろっと無傷で勝利してきそうではあるが、不調は不調。全力を出したとしてもどうしても陰りが出る。


 高遠という最大戦力に不調があると知られれば、好機と見た輩が攻めてくることは必至である。

 攻められたとしてもいつものように排除出来るので彼らの見る好機は幻。(わざ)と隙を見せて攻めさせ一気に殲滅するというのも、準備と調整が必要とはいえ、後のことを考えれば良案のひとつではある。


 だが確実に高遠に負担がかかる上、何より幼い三太朗が居るのだ。

 今は大事な時期。高遠にゆっくりしてもらいたいという以上に、三太朗がまた不安定になってしまうのは避けるべきだった。

 

 (ジン)(ハリ)などの警備担当は見回りの頻度を増やし、弓やヤタも監視や警備に動き、紀伊と武蔵は自分の配下を動員して山の警護にあたらせ、何かあれば高遠の代わりに直ぐに出られるよう、館で待機していた。

 外敵に悟られないよう、もちろん三太朗にも気取られないように細心の注意を払いながらの警戒体制である。


 今のところ過剰とも言えるが、何事もないに越したことはない。

 万が一が起こらないように、出来る限りの可能性は潰しておきたい。

 その中には…三太朗の暴走も含まれていた。


「油断はしない」


 どちらともなく静かに繰り返す。

 高遠にも手傷を追わせた炎を顕現させる兆候は、間違っても見逃す訳にはいかない。

 三太朗は彼らの可愛い弟分であるのと同時に、得体が知れない化け物の係累なのも確かなのだ。


 考えたくはないが、無邪気な皮を被っていても実は虎視眈々と隙を窺っている敵であるという可能性は、誰にも否定できない。

 そうでなくとも、ある程度成熟した天狗が自然と風を起こすように、自覚なく力を振るってしまうということもあるかもしれない。

 ありとあらゆる可能性がある中で、気を抜いてはいられない。


 外敵に備え、内患を杞憂のままにしておくために、彼らはただじっと息を殺して状況を見つめ続けていた。


「いないー」

「ああ?何がいねぇんだ?」

「てきー!」


 曇りない明るい声がして、双子は目を瞬く。

 次朗の肩の上でしきりにきょろきょろしていた三太朗が、真面目な顔を作っていた。


「あ?敵なんざここにゃいねーよ。…なんでんなもん探すかねぇ」

「おてつだい!おれもさがすの!」


 目を丸くして顔を見合わせた。

 誰もが三太朗の前では不安にさせないよう、知らせないように心掛けているのに、気付いているかのような発言だ。


 二羽は、三太朗は以前から勘が鋭かったことを思い出した。

 前は『優秀なやつだ』で流せたが、今はなぜかその鋭さが引っ掛かる。


 だが次朗は何も思わないのか、お?と呟いてにやっと笑った。


「そんなら見晴らしのいいとこに連れてってやんよ」


 え、という音がみっつ重なる。

 三太朗は純粋に聞き返す意図で、双子は嫌な予感から。


 唐突に次朗の背に翼が広がり、止める間もなく飛び立った。…三太朗を肩車したまま。


「わきゃーーーー!!」

 幼児の上半身が後ろに持っていかれた。足は次朗が掴んで固定しているから落ちはしないが、その所為で完全に上下逆さまにぶら下がっている。

 小さな体はそのままだばだばとたなびきつつ、一気に上空へ連れ去られていった。

 首ががくんがくん揺れる。取れそうだ。


「「…バカぁあああああ!!!」」

 一拍呆気にとられた後、二羽は矢のように飛び出した。




 そういうことがありつつも、三太朗は穏やかに過ごしている。――身の危険はないし、泣きわめくような事態になっていないので穏やかと形容して差し支えないはずだ。

 危惧される全ては影もなく…「くびがいたい」としかめっ面になっていたのも三日で治り、急に逆さまに吊り上げられたが高所を苦手になる様子もなかった。


 高いところが怖い天狗など刃物が怖いのより悲惨なので、全山の者が胸を撫で下ろし、次朗がこってり絞られた。


 しかし三太朗はというと、救出された後はしばらく呆然としていたが、その後「たのしかった!」と笑顔で言い切った。


 豪胆だと言えばいいのか能天気と言えばいいのか。

 三太朗はあまり怖いものがないようだと双子が気付いたのはこの件が切欠だ。




「普通、陣とか怖がるよな?俺らも初見で怯んだし」

「普通に飛び付きに行って、なんか口をこじ開けてたな」

 何が入っているのか気になったと供述しており、陣はもうしないようにと厳重注意をした際の『はーい』という良い子のお返事にやられて水に流した。


「…普通、張とかも怖がるよな?俺らも最初に降りて来たの見たとき、腰抜かしたし」

「普通に腹の下に潜り込んで行ったな」

 温かくてふわふわだから出たくないと駄々を捏ね、困り果てたふりをしつつ満更でもない張により、寝入ってしまうまで羽毛に潜ったままでいた。

 その後"外で寝る癖が付いては困る"という理由で弓に怒られていた。張が。


「高いとこも崖っぷちも平気で行くし…」

「普通、一回落っこちたら懲りるよな…?」


 途中で受け止めたので擦り傷程度で済んだがしかし、相当怖かった上に痛かったようで、流石にべそをかいていた。

 にも関わらず、それ以降も高台の広場に連れていけば崖の方へ突進し、枝に乗せてやれば上を目指してよじ登ろうとする。

 そして落ちる。


 煙となんとかは高いところが好きだとかを思い浮かべて、紀伊と武蔵は頭を抱えた。


「落ちても受け止めると思ってさぁ…」

「誰も近くにいないときはやらないとこ見ると…分かった上でやってるよなぁ」


 三太朗は保護者が傍にいれば、少し危ないことでも平気でやってしまうようになってきていた。

 危ないことの線をきちんと引いた上でやらかすのは小賢しいと言うべきだろうが、自分たちの傍は絶対に安全だと思っているのだと捉えれば、全幅の信頼がどうにもこそばゆい。


 やらかされる度にひやひやするが、容易に阻止出来る。

 行動の制限はなるべくしたくないのもあって、注意は言えても禁止は中々言い出せない。


「演技じゃないってわかっちゃうとこがなぁ」

「あれだけなつかれるとなぁ」


 姿を見せれば喜んで走ってくる。

 座っていれば膝に乗ってくる。

 頭を撫でればふにゃふにゃと笑み崩れる。

 遊んでやれば実に楽しそうに遊び、笑い、疲れれば無防備に眠ってしまう。


 警戒を弛めまいとし、裏の裏を読もうとすればするほど…単なる幼児でしかないのを知るだけだった。


 この頃はすっかり毒気が抜けてしまって、敵かも知れないなどと思うのは馬鹿馬鹿しくなっていた。


「あいつ将来どうなるんだよ…」

「痛い目見る未来しか想像できない…」


 警戒など微塵もなく、館の全員を無邪気に慕う三太朗。疑うことを知らない彼を、果たしてこのまま厳しい外界に出しても良いものかと、兄たちは本気で悩んでいた。


 弟弟子の将来が早くも不安になりかけている今日この頃、三太朗が風邪をひいたらしい。

 密かに"馬鹿ではなかったか"と考えたのは誰にも言わないことにした。




 さて、天狗というものは基本的に病気とは無縁なのだが、雛はその限りではない。

 人の子どもと同じように体調を崩す。

 発熱も特段におかしいことではない。


 対処法もそう変わりはなくて、温かくしてゆっくり眠ることが一番だとされている。


「良い子で大人しくしていれば、直ぐに良くなりますよ」

 優しく弓が言うと、三太朗は聞き分け良く「はぁい」と返事をした。


 高くはないが熱があり、まるい頬が赤くなっている。

 時折咳をして、だるそうに横になっているが、つまらなそうに唇を尖らせてもいた。


 遊びたい盛りの子どもは、じっと横になっているのが退屈で仕方がないものだ。直ぐに眠り込んでしまうとしてもそれはそれ。

 目が覚めている間はうんざりするぐらい退屈なのだ。


 それだけ風邪が軽い証拠だとして、弓は笑みを深くする。

 嫌でもちゃんと休んでいるのだから三太朗は良い子だ。


――――このまま大人しくしているなら、すぐに熱は下がりましょう。一日程度は表へ出ないように言っておかねばなりませんね。


 ご機嫌とりに甘いものでも用意しなくてはならないだろうかと思案する傍らで、さらりと障子が開いた。


「さあ、お薬ができましたよぅ」


 湯気の立つ椀を盆に乗せて、権太郎がたれ目を更に垂らして入ってくる。

 きょとんとそちらを見上げた子どもをそっと起こしてやりながら、弓はゆったりと笑みを浮かべた。


「風邪によく効くお薬ですよ。飲みましょうね」

「飲んで眠れば、ずぅっと早く元気になりますからねぇ」


 優しく言い聞かせるふたりを見て、それから生薬独特の何とも言えない匂いのする碗を見下ろした三太朗は、『薬とはなんぞや』とでも言うように首を傾げた。


 何かを思い出そうとするように眉を寄せ、目の前に持ってこられた薬をじーっと見つめる。


 薬に関する常識をも失ってしまったのだろうかと、弓と権太郎は胸を痛めた。

 これから色々と教えて、失った知識を補ってやった方が良いだろう。

 幸い幼い三太朗にはやり直す時間はこれからたっぷりとある。出来るだけ早く、失くした所為で生じた遅れを取り戻させてやらなくてはならない。


 そう彼らがある種の義務感を感じていたそのとき、三太朗が顔を上げた。

「あ」


 何度も瞬く様子に、まさかと思って問いかける。


「何か、思い出したのですか?」

「…うん……おくすり…」

「まあ!」


 弓と権太郎は喜んだ。記憶が戻るのは良いことだ。もしかすると全てを思い出せれば、真名(まな)をも取り戻せるかもしれないのである。


「くすり…」

「ええ、そうですよ。とても良く効きます」

「あんまり苦くないですからね」


 にこにこ浮かれるふたりは、彼の様子がおかしいことに気付くべきだったのだろう。――血の気が引いていき、呼吸が浅くなっていく様子を。


「さあ、一気に飲んでおしまいなさいまし」

「飲んだらお菓子をあげましょうね」


 早く済ませるべきだと判断して、ずい、と器を口元に近付けた。




 凄まじい叫び声を耳にして、紀伊と武蔵は思わず立ち上がった。


「何だ!?」

「敵襲か!?」


 結界も破られていないし、監視の術に反応はなく、放った配下からの報せもない。――敵襲ではない。

 

 そこまでを一瞬で把握して、何がなんだか分からないままに部屋を飛び出すと、何かが走っていくのが見えた。


「「三太朗!?」」


 小さな弟弟子は必死の形相で駆けていく。この間まで歩くのも覚束なかったというのに、見事な全力疾走である。その後ろを、権太郎と弓が追っていた。


「お待ちなさい!三太朗どの!」

「さんたろさぁん!!」


 とりあえず双子は弓たちを追った。


「何があった!?」

「それが、お薬を嫌がって!」

「逃げ出しちゃったんですよぅ!」


 そこで、とっくに追い付いてもおかしくないはずなのに、三太朗がまだ前を走っていることに気付いた。

 三太朗の足が異様に速いのである。

 見ると体は前傾姿勢で、やや開いた翼を水平に保ったままで走っていく。

 その走り方は双子には馴染み深いものだった。


「誰かあいつに走法(そうほう)教えた!?」

「多分教えてない!あいつに走る練習なんて誰も思いつかなかったろ!!」


 だがそれは天狗が使う走り方のひとつ。列記とした走法の技だ。


 簡単に言えば、走ることで前方から来る風を、少し浮かせた翼の下を通すようにして体をやや浮かせ、より素早く駆け抜けるというものだ。


 何にせよ、兎に角止めなくてはならない。


「さんたろ止まれ!!」

「やだぁあああ!!」

「なんでだ!?」

「しぬぅうううう!!!」

「「死ぬ!?」」


 まさかの返答に一同唖然。


「飲ませようとしたのって…?」

「単なる風邪薬ですよぅ!坊っちゃんたちも飲んだことあるやつです!」


 双子も知ってる風邪薬。匂いはまずまず臭いし味は独特のえぐみがあるが、薬の中では飲みやすい部類のものである。

 もちろん飲んでも死んだりしない。


「死なないから!!」

「大丈夫だから!!」

「やああああああ!!!」


 返ってきたのは恐怖の叫びである。

 何を誤解しているのか知らないが、どうやら薬を飲んだら死ぬと完全に思い込んでいる。


 そのとき、三太朗がふらついた。いや、前から微妙に揺れてはいたのだが、大きめにふらついた拍子に繁みをかすめて大きな音が鳴った。


「…走り方おかしくないか?」

「…俺も今思った」

 落ち着いて良く見れば、走法の技を使っているには姿勢が微妙にちがう。

 技としては、体を思いきって前へ投げ出すようにするのが肝なのだが、三太朗は少し上半身が引けているので安定しないのだ。


 気付いてみれば間違っているところがあちこち目につく。

 あれでは技とは言えない。似ているが全く別ものと言える。


「まさか逃げるのに必死過ぎて自分で気付いた走り方か!?」

「どんだけ必死なんだよ!!」

「知らねえ!こうなったら手荒だけど力付くで捕まえるぞ!!」


 そのとき、三太朗が拓けた場所へ飛び出した。

 真ん中にいた巨体が振り向く。

 それは、薪割りをしていた弦造であった。


「弦さぁああん!!」

「そいつ止めて!!!」


 驚いた弦造は、目を見開き口を少し開けている所為で目力が三割増しになり、凶悪な太く鋭い牙が見えているという、見かけたら腰を抜かしても仕方がない恐ろしい顔面である。

 しかし三太朗はそのまさしく悪鬼の形相をした鬼に向かって突っ込んでいった。


「な、何だ何だ!?」


 いきなり止めろと言われた弦造。やって来たのは間違いなくこの山で一番ひ弱な幼児である。

 何気なく腕を振り下ろした拍子に"ぷちっ"なんていう恐怖があり得てしまうという事実に戦慄し、逆に身動きが出来ない。

 しかも三太朗は泣いている。自分の息子ならまだしも、天狗の雛を泣き止ませる技など欠片も持ち合わせていない。

 ご機嫌取りに玩具を差し出すのが精々な鬼は、泣く子を前にして完全に凍りついた。


 そんな弦造にはお構い無しに、三太朗は駆け込み、ぶつかるようにしてその丸太のような脚に飛び付いた。


「三太朗!」

 すぐさま追い付いた紀伊が捕まえようと手を出すが、敏感に察知してしゃかしゃかと裏へ回り込んだ。呆れるほどの素早さである。


「待てって!」

 時間差での第二波。回り込んで来た武蔵を避けて更にかさかさとよじ登りつつ回り込む。

 小さくなっても散々木登りをした経験が残っているのか、嫌に慣れた身のこなしである。


「三太朗どの!」

「さんたろさん!」

「やーーー!!!」

 次々に突き出される手を紙一重で回避する様はまさに神業である。

 結果的に三太朗は弦造をぐるぐると登り、ついに保護者の手が届かない頂上付近に張り付いた。


「うぁあああああん!!」

「…………(ぼん)よ」

「ぁああああああ!!!」

「乗っかってるのは構わねえんだが…ちっと場所を変えねえか」


 たどり着いた弦造の顔面という安全地帯にくっ付き、恐慌をきたして泣き喚く幼児はまるで蝉のようであった。

 弦造のもみ上げの髪を力一杯握りしめ、両足で頬を挟んで、意外にしっかりとへばり付いていた。ちょっとのことではびくともしない。

 ちなみに騒ぎを聞き付けたカラスが上を飛び交い始めた所為か決して登頂はせず、九合目で籠城の構えである。


 そっと引き剥がそうと試みた弦造。

「うええええええん!!」

 ひときわ泣き声高く抵抗され、慌てて手を離してしまう。


「三太朗ー!何もしないから!」

「薬飲まなくて良いから!」

「三太朗どの、かえりましょう?」

「さんたろさーん!」

「やああだああああ!!」


 落ち着かせようと声をかけるも、聞く耳持たず。

 益々高くなる泣き声。

 途方に暮れる鬼。

 強制確保かもう少し落ち着かせるかを目配せし合う捕獲隊。


 三太朗の手足が震え、限界が近いのは明白であった。すぐ下に弦造が手を受けているのだが、三太朗には見えない。

 必死にしがみついている。


「仕方ない。やるか」

 無理やり引き剥がすことで出来るだろう少々の怪我と、流石に多少は引っこ抜けるだろう鬼の髪を必要な犠牲であると判断し、武蔵が宣言する。


「随分騒がしいが、どうした?」

 捕獲作戦が決行されようとしたまさにそのとき、黒い影がすぐ傍に出現した。


「「お師匠!」」

「高遠さま!」

「主さまぁ!」

「大将…?」


 弦造は現在目が塞がっているので疑問符が付いたのは仕方がない。全員から困り果てた顔で大歓迎された高遠は、弦造の顔に張り付いた三太朗をまじまじと見て首を傾げた。


「…どうしてこうなった?」

「それが、薬を飲むのを嫌がって」

「なんでだか薬を飲むと死ぬと思い込んでて」

「逃げられてしまいまして」

「弦造さんの上に逃げ込まれちゃったんですよぅ」

「うん…?」


 最後でよくわからない顔をした高遠は、気を取り直してしばし思案を巡らせると直ぐに「ああ」と呟いて跳んだ。


「三太朗、おいで」

 ふわりと弦造の肩に降り立って手を延べ、穏やかに呼び掛ける。


「やぁあああ!!」

「あれは際昊水(さいごうすい)ではないぞ」


 際昊水。それは天狗に成れる薬であり、あまりの不味さで三太朗を呼吸停止にまで追い込んだというアレである。


 唐突に来た答え合わせに、捕獲隊は一様にぽかっと口を開けて「あ」と声を漏らした。

 薬の中で三太朗が一番覚えているものと言えば、確かにそれしかない。

 不幸なことに、薬と聞いて思い出したのが臨死体験だったのだ。


「……うぅ?」

 恐る恐る振り向いた三太朗を無理に引き剥がそうとするでもなく、高遠はよしよしと頭を撫でた。


「あれは一生飲むことはない薬だから、怖がらなくて良い。大丈夫だ」

「ほんと…?」

「無論だ。おいで」


 ついに三太朗は手足を緩め、高遠の腕に収まった。


 騒動が終息し、周りがほっとしたのも束の間。

 ひき始めで無茶をした所為か、死に物狂いで限界以上に動いた所為か、三太朗は熱が上がって三日間も寝込むことになってしまう。


 やはり薬は苦手なようで、逃げ出しはしないものの嫌々と首を振るばかりである。

 しかし、いつもの穏やかな顔の高遠が、にこやかに三太朗を呼んだ。


「ししょぅ、なに?」

「ほら」

 何気なく布団から体を起こさせ、ひょいと手で目元を覆い、流れるような手つきで風邪薬を飲ませた。完全な不意討ちである。

 ぽんと胸元を叩かれてごくりと飲み込み、一瞬きょとりと目を瞬いた子どもは、その場から飛び退いた。


「ひぅあああ!?」

 三太朗は信じていた相手に裏切られた悲壮な顔で距離を取った。どうやら薬を飲まされたこと自体より、高遠が自分の意思を無視した方が衝撃だったようで、味や薬の椀に一瞥もくれず、ただ高遠を呆然と見ている。

 大泣きの溜めを取るくしゃくしゃの顔を前に、高遠は飄々と宣った。

「死ななかったろう?」


 はっとした顔でなんともないことをわしわしと胸元を擦って確認してから、驚愕の表情で高遠を見上げた。


「……!?あいっ」

 それから何度か「ふおお」とか言いながらぺたぺた体を触ってみていたが、その内『あれ?』と首を傾げた。

 そんな弟弟子を双子は笑って見ていた。


「…薬が不味いってのは問題じゃないんだな」

「お師匠…誤魔化すの上手いな」


 気が付かない方が幸せである。双子は剥いた蜜柑を子どもの口に放り込んだ。


 こうしてまたひとつ怖いものを克服した三太朗は、何か思うところがあったようで、保護者相手にでも少し警戒心を持つようになったようである。





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