八十八 その子は三太朗 三
12/3 誤字脱字修正。一部表現を加筆しました。
話の筋に変更はありません。
三太朗はよく眠る。
寝る子は育つという言葉は、豊芦原に昔からあるもので。
その意味は文字通り、たくさん寝る子は早くもしくは大きく育つというもの。
別の見方をすれば、育つ時期の子はたくさん眠る、ということでもある。
だから、弓はそれを見たとき「まぁまぁ」と呟いて微笑んだ。
目線の先には、白鳴山勢をにこにこさせる番付一位を目下独走中の幼子が眠っている。
眠っている、はずだ。
背中にあたる部分がゆっくりと上下しているその遅さが、三太朗が熟睡していることを示している。但し
「…苦しくないのでしょうか」
思わずそう呟いてしまったのは無理からぬこと。
三太朗は二枚重ねの座布団の上にべたっと潰れて、真正面から突っ伏して眠っているのである。
いや、体の上にもう一枚乗っているから、座布団三枚の間に潜り込んでいると言う方が良いだろうか。
兎に角、顔は完全に埋まっている。
その割には呼吸が安定しているが、万が一息が詰まっては大変なので、弓はとりあえず、そっと三太朗を仰向けに抱き上げた。
顔が見えた幼子はやはりすやすやと良く眠っていて、寝苦しさは感じていないようだった。
蛙が潰れたような格好だった手足が、持ち上げられた拍子に伸びる。
手に握っていた物が落ちて、ころんと軽い音と共に畳に転がった。
「あら」
拾い上げてみると、それは木彫りの小さな独楽である。
三太朗が昨日、弦造に作ってもらったのだと嬉しそうに見せてくれたお気に入りの玩具だ。
眠ってしまうときまで握っているとは、よっぽど好きなのだろう。もしくは、作ってもらったのがそれほど嬉しかったのか。
「ふふふ…」
独楽ではしゃいでいる様子が目に浮かふようで、弓は静かに笑った。
きっと遊んでいるときにふと積み上げた座布団を見つけて、何となく気を惹かれたか、面白そうに思って潜り込んでみたのだろう。
少し重たくなった子どもを抱いて戻り、布団に寝かせてやる。枕元に独楽を置いておくのを忘れない。
「んぅー…」
三太朗は温もりが離れたからか、何やらもにょもにょと言いながら縮こまった。
起きてしまうだろうかと思ったが、やがて体の力が抜けて、また寝息がゆっくりとした拍に戻る。
少しずれてしまった布団を肩まで引き上げてやり、ついでにそっと髪を撫でる。
「ゆっくり、お休みなさいまし」
きっと目が覚めたらまたどこかに遊びに行って、その先で眠ってしまって、誰かに布団に戻されるのだろう。
弓は部屋を出ながらくすくすと笑った。満ち足りた顔をしている子どもの気分が移ったのだろうか、弓もとても充たされた心地がしていた。
手の空いているときに三太朗を探して迎えに行くのは、今の弓の楽しみのひとつだ。
あどけない寝顔は堪らなくかわいいし、温かく小さな体は、抱き上げるととても幸せな気分になる。
次も自分が探し出せたら良いのにと、弓は笑みを消さないままで考えた。競争率は決して低くはない。
眠っている子をその辺りで放っておいてはいけないのはもちろんなのだが、そのあどけない寝顔はとても癒される。
だからか、山の同胞は急ぎの用がないときには皆なんとなく、その辺りを見て回る癖が付きつつあった。回を重ねる毎に探すのが上手くなり、たまに三太朗を探す他の者と鉢合わせることもある。
皆上手く探すようになった今日この頃、その分弓が探し出すのは段々難しくなってきているが、止めるつもりはない。
三太朗が翼の重みに慣れてあまり転ばなくなってから、彼は館中どこにでも出没する。
誰かにくっついていくことも多いが、知らない間にどこかへ行って、独り遊びを楽しんでいることも多い。
書庫に囲炉裏端、台所に縁側、廊下、客間、押し入れの中。それと、誰かの膝の上。
楽しそうに遊び回り、決まって最後は眠ってしまう。
その様子は、蝋燭の火が不意の風に消えてしまうのに似ている。
今まで遊んでいたというのに、急にぺしゃりと横になったと思ったらすやすやと寝息を立てているのである。
彼自身も睡魔の訪れを予測できないのか、たまに何かをしている途中で眠り込んでしまっているのを見かけることができる。
食べかけのおやつを握っていたり、組み上げ途中の木片の真ん中で埋もれていたり。
それを見つけた者たちは、何をしていたのかを想像しては微笑みを浮かべるのだ。
そんな風に頻繁に眠くなってしまうのは、子どもならではの体力の低さもあるが、退行した体がもう一度元に戻ろうとしている所為だ。
一度育った故か、彼の大きくなる速度は普通の子どもよりも速い。
だが、体の負担も相応に大きい。
だから、今は良く食べ、好きなだけ眠るのが必要だ。
かといって、寝て食べるだけは宜しくない。たくさん遊ぶことも必要だと皆知っているから、特に行動の制限をすることもなかった。
思いがけないところで眠ってしまうとしても、彼はこの山では自由を保証されている。
どこへ行くにしろ、何をするにしろ、それは山の主の名に於いて許されている。
望まれているのは、きちんと育つことだけだ。
他の何にもならず、天狗として、健やかに。
周囲に幾多の懸念を抱かれながらも、何事もなく平穏に日々は過ぎていく。
白鳴山の濃い精気のお蔭か、三太朗は順調に育ちつつあった。
体も精神も伸び伸びと。
「こうしているのも、もう少しの間でございましょうね」
「うむ。彼奴の成長には目を見張るものがあるからな」
「ええ、もう足袋が合わなくなってしまったんですの。もしかしたら直ぐに、前と同じぐらいまで育つのかも知れませんね」
「そこまでは分からぬが、次朗の例を見ると春頃には落ち着くであろうよ」
「嬉しいものですけれど、もう少しゆっくりでもかまいませんのに」
「ふん、贅沢な不満よな」
「次朗どののときより手が掛からないのですもの。もう少したくさんお世話をしていたいほどですわ。なのに、直ぐに大きくなってしまうだなんて…」
「…あの馬鹿者を育て上げたそなたにすれば、確かに物足りぬであろうな」
「ふふ、次朗どのと比べて見たことなどございませんわ。…ただ、大きくなってしまえばまた以前のように、恥ずかしがって甘えてくれなくなるのでしょうし…やはりお小さいこのときが惜しゅうございますの」
「そなたは子離れ出来ぬ親か」
「まぁ…そんなことは」
ある日、弓とヤタはのんびりと雑談していた。
弓は湯気の立つ湯飲みで指先を温めながら、縁側に腰かけて、雪が降りそうな曇天を見上げる。
降り出すようなら、外へ出ていった三太朗を迎えに行かなくてはならない。とそんなことが脳裏に浮かんだ。
思考が自然に彼に向かうのだから、ヤタの言も強ち間違いとは言えないかもしれない。と、弓はだいぶ遅いがその考えに至った。
代わりに、それでもあまり差し支えはないと結論付け、考えるのを止めたのは一瞬のことである。
それも誰も責められない。
白鳴山でのこの所の世間話は、すくすくと大きくなっている三太朗一色だ。
弓だけではなく皆、口を開けば彼の話をするほどに、ずっとあの子どものことを考えている。
現在、天狗に成ってひと月少し。
小さな小さな白鳴山の末っ子は、一回り大きくなった。
この頃は外にも出るようになって、いよいよ神出鬼没だ。
しかし、館では壁が、外ではそこいら中のカラスや兄弟子たちが見守っているし、何よりいつでもヤタがその天眼で見付けることが出来るのだから、完全に見失ってしまうことはない。
三太朗も人だった頃より頼りないかと思いきや、危ないことはきちんと避けるので、転んで擦り剥いたり木のとげが刺さった以上の危険は起こってはおらず、誰も過度な心配はしていない。
ただ単純に彼の成長を喜びながら、今だけであろう幼いときを慈しんでいた。
「あ!ヤタさまー!弓さまー!失礼します!!」
そんなとき、ふたりの目の前に真っ黒な翼が降り立った。
「伝か?如何した」
ふたりの訝しげな目線を受けて、いつも三太朗のお守りを率先して買って出るカラスは、困り果てた声でカアと鳴いた。
「三太朗さんが道を歩いてたら途中で寝てしまったのです。あたしたちじゃ運べなくて…」
それには流石のふたりも思わず目を丸くしてしまった。
「ついに歩きながら寝入るようになったか」
「仕方がありませんね、迎えに参りましょう」
「いい加減、少しは場所を選ぶよう躾るべきか」
「流石に、左様でございましょうね」
そうかたく決め、やって来てはみたが、決意は小道の脇で眠る子どもの顔を見ると霧散してしまった。
冷えた大気から守るため、多くのカラスがぎゅうぎゅう集まって身を寄せ合ったそのど真ん中。
羽毛に埋もれてぬくぬくと眠っている三太朗は、もしかしたら今までで一番幸せそうな顔をしていたのだった。
"安息"とかなんとか題をつけてしまいたいほどの平和な光景は至福の寝顔を引き立たせ、三太朗を可愛がってやまない親馬鹿軍団を一撃で打ち破るのに容易かった。
「ぬぅ…」
「禁じてしまうのはかわいそうですわね…」
ふたりは即座に決意を翻した。
悪いことをしているのでもないし、怪我をするのでもない。カラスが居るから寒くもないだろう。それにこの顔を見てしまったら、まあ良いか、と思ってしまったのだ。
甘々であるが、誰も異を唱える者がいないどころか満場一致で可決された。
「ふふふ…それにしても、本当によく眠りますこと」
そっと上着にくるんで抱き上げながら落とした弓の呟きは、たくさんのカラスの同意を得た。